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映画『祇園小唄絵日傘 狸大尽(ぎおんこうたえひがさ たぬきだいじん)』の画像配信

映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』について

1930(昭和5)年マキノ御室作品/モノクロ・サイレント(ダイジェスト版・約8分)
原作:長田幹彦「祇園全集・絵日傘」 作曲:佐々木紅華 企画:飯田新三郎
脚色:東艸之介 監督:金森万象 出演:沢村国太郎、浅間昇子、小金井勝

 日本映画の父といわれた名監督・プロデューサーの牧野省三が逝去し、屋台骨を失ったプロダクションは苦境に立たされました。その起死回生のため、この映画シリーズ『祇園小唄』は製作されました。金森監督は製作費を抑えるためにロケを多く使い、高島屋の飯田新三郎が仲立ちして、祇園界隈、歌舞練場、一力の座敷などもロケ地として使われています。無声映画ながら舞妓姿の女優が字幕に合わせてスクリーン脇で歌うという興行形態がとられ、「月はおぼろに東山・・・」という主題歌とともに大ヒットしました。“祇園小唄”は今や祇園のテーマソングとなっています。この『祇園小唄 絵日傘』は3部作として製作されています。全て散逸したとされていましたが、第1部『舞の袖』は昭和51年に祇園のヤサカ会館の倉庫から発見され、現在京都府が所蔵しています(東京国立近代美術館フィルムセンターにも所蔵されています)。第2部『狸大尽』が本作で、現在京都府以外どこにも所蔵が確認されていません。第3部『夢枕』はまだ見つかっていません。

あらすじ

 祇園で飛ぶ鳥を落とす勢いの光雲大夫。彼女に言い寄る若旦那や侍など、さまざまな男たちが躍起になるが、なかなか心を開きません。そんな中、一人の若い坊さんが光雲大夫を訪ねてきます。彼女に入れあげている弥十郎はけんもほろろに門前払いします。そして数日後、現れたのは伏見の寺田屋からの使いという美貌の若衆・数馬でした。光雲と数馬は幸せなひとときを過ごし、数馬は次の日も現れました。弥十郎は、数馬への嫉妬だけではなく、彼の妖しい気配をいぶかり、ついに弥十郎は数馬に剣を抜きます。数馬が斬られたその時、座敷では光雲大夫も倒れ落ち、心配する舞妓たちが駆け寄りますが、そこには光雲大夫ではなく、狸が・・・。

監督について

金森万象(本名:金森政治郎)

 1893年、京都市下京区東洞院松原で生まれる。1914年、東京の『活動写真雑誌』社を訪ね、京都支店の開設を提案、京都で映画記者を始める。取材の中で日本映画の父と言われるマキノ省三と懇意になる。省三が日活から独立しミカド商会を旗揚げする際に映画監督として同行。1919年、記録映画『処女会表彰式』を初監督、1923年頃まで記録映画を監督する。1923年に『紫頭巾浮世絵師』を寿々喜多呂九平脚本で監督。時代劇にサスペンスを持ち込んだこの作品は、それまで歌舞伎や講談をネタにした旧劇の枠をうち破り、映画界に新風を吹き込んだ。また『争闘』(1924年)では、当時のマキノ映画で鳥人と言われたアクションスター高木新平に、高層ビルの間を実際に大跳躍させ観客を驚かせた。特作映画『国定忠治』(1925年)では澤田正二郎ら新国劇一党を招聘、マキノ省三総指揮のもと、他のマキノ映画の監督達を束ねて活躍。金森監督は時代劇から現代劇、アクションから純愛物までこなし、マキノ映画に黄金期をもたらす。1929年、マキノ省三が病没。マキノ映画は内部分裂をおこしてしまう。そんな中、金森万象は小唄映画『祇園小唄 絵日傘』三部作を監督、大当たりとなるがマキノ映画の崩壊を支えることはできず、1931年、マキノ映画は倒産する。その後、マキノの残党を束ねて協立映画を設立するが長く続かず、1933年、JOトーキーで監督した『京訛り・だらりの帯』を最後に映画監督を廃業する。金森監督の映画人生はマキノで始まり、マキノで終わった。その後JO(後の東宝)で事務職につき戦後に至る。1982年病没。

出演者について

澤村国太郎(本名:加藤友一)

 1905年6月1日、東京浅草で生まれる。父は歌舞伎作者の竹柴伝蔵。二男二女の長男で妹の貞子は沢村貞子、弟の徳之助は加東大介として俳優となる。十歳で澤村宗十郎の門下に入り、帝劇で名題に昇進する。1929年、マキノ省三に見いだされて映画界入り。同年、『松平外記』、『任侠神田の火祭り』等で立て続けに主演する。マキノ省三の死後、起死回生を期して製作された『祇園小唄 絵日傘』三部作でも、“狸大尽”に主演、いわゆる剣げきスターではなく、上品でおっとりとしたキャラクターは人気を博した。1931年、マキノ倒産後は日活に移籍。当時の日活には看板スターの大河内伝次郎がおり、『丹下左膳』、『水戸黄門』等その助演が多くなる。1937年頃から日活には、阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵と大スターが相次いで入社、『恋山彦』(1937年)、『春秋一刀流』(1939年)、『鞍馬天狗』(1938年)では大スターの助演ながら、優しさと独特の品格が漂う演技で地歩をかためてゆく。戦中から戦後にかけては一座を旗揚げして地方を巡業するが、1948年映画界に復帰。フリーの俳優として、『次郎長三国志』シリーズ(1952年~)、『地獄門』(1953年)、『新・平家物語』(1955年)等、時代劇を中心に多くの映画に出演した。1971年、脳溢血により死亡。1931年にマキノ省三の娘・智子と結婚、二男二女があり、長男・晃夫は長門裕之、二男・雅彦は津川雅彦の芸名で俳優として活躍している。

浅間昇子(本名:滝沢昇子)

 1910年東京赤阪に生まれる。幼少より三味線など技芸に励み、6歳で帝劇の『鏡山うその世の中』で初舞台をふむ。1925年に東亜キネマ等持院撮影所に入所、浅間昇子を芸名とする。東亜キネマでは岡島艶子と共演した『讐討乙女椿』(1926年)で認められ、原駒子、団徳麿、雲井竜之介、羅門光三郎らと共演する。1929年には松竹下加茂に移籍。温和な日本娘の役柄が重宝され、『地獄街道』(1929年)で当時のトップスター・林長二郎(長谷川一夫)とも共演する。1930年にマキノ映画に転じ、小唄映画『祇園小唄 絵日傘 狸大尽』(1930年)、『光をもとめて』(同年)で沢村国太郎と共演する。現代劇でも山本有三原作『嬰児殺し』(同年)、『アイスクリーム』(同年)等1931年にマキノ映画が閉鎖されるまで活躍を続けた。その後、日活太秦、東活、太秦発声を転々し、戦後は東横(後の東映)で再スタートする。『のど自慢狂時代』(1949年)、『わが子ゆえに』(同年)等でわき役をつとめた後、新国劇に入団。幹部として活躍した後、1973年病没した。

復元について

フィルムの形状<9.5mmフィルムと35mmフィルム>

 このフィルムは9.5mmフィルムという特殊な形状で発見されました。そこで今日の映写機にかけることのできる3mmフィルムに直す必要があります。

復元作業

第1段階

 9.5mmフィルムを直接スキャニング(画像をコンピューターに取り込む)してデジタル・データ化 しました。
 デジタルデータの書式はcineon形式(2K、10bit)と呼ばれるもので、1コマの容量は約10MBです。
 この映画は全体で4,923コマありました。

第2段階

 cineon形式の画像データをDiamantという自動修復ソフトにかけて修復しました。これによって個々のフレーム内についている下記のノイズを除去できました。

  • フィルム面についた汚れ・ゴミ・カビ
  • フィルム膜面の剥離(欠落)
  • 画像のがたつき

 しかし複数フレームにまたがるノイズは自動修復ソフトでは取ることができませんでした。

第3段階

 自動修復ソフトDiamantで修復されたデータを35mmフィルムに直しました。

第4段階

 自動修復ソフトDiamantでとれなかった、複数フレームにまたがる縦方向のスクラッチ・ノイズ(ひっかき傷)等をノイズを手作業で除去しました。

第5段階

再び手作業で修復されたデータを35mmフィルムに直しました。


 問い合せ先

京都府京都文化博物館

(京都市中京区三条高倉)

  • TEL:075-213-2893
  • FAX:075-222-0889

京都府文化環境部文化芸術振興課 文化振興担当

  • TEL:075-414-4282
  • FAX:075-414-4223  

お問い合わせ

文化スポーツ部文化芸術課

京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町

ファックス:075-414-4223

bungei@pref.kyoto.lg.jp

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