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映画『槍供養(やりくよう)』の画像配信

映画『槍供養(やりくよう)』について

1927(昭和2)年日活京都作品(モノクロ・サイレント・ダイジェスト版・約9分)
原作・脚本:小杉文雄/監督:辻吉郎/撮影:井隼英一/出演:大河内傳次郎(千葉三郎兵衛の下郎・市助)、実川延一郎(千葉三郎兵衛の用人)、尾上桃華(市助の同僚・可内)、久米譲(千葉三郎兵衛)、葛木香一(旗本岡田文之進)、中村吉次(岡田文之進の下郎)、桜木梅子(市助の恋人・お久)、伊藤すえの(市助の母・おとせ)

 下郎を人間と思わぬ武士社会の非情を描いた昭和初期の傾向映画作品。オリジナルは7巻物(約60分)。第二新国劇から映画界入りしたての大河内傳次郎と、辻吉郎監督がコンビを組んだ第1作で、当時剣劇俳優として売り出し中の大河内傳次郎にとっては立廻りのない異色作でもある。辻吉郎監督は京都を拠点として活躍し、時代劇職人とも言われたが、生涯に監督した133作品のうち現存するのは『沓掛時次郎』(1929年)や『髑髏銭・前後編』(1938年)など、わずか5本を数えるのみである。当該の『槍供養』は、辻が1934年に初めてトーキー映画を監督した際に同名タイトルでリメイクされているように、彼自身の代表作の一本である。また、昭和初期の世界恐慌時の世相の中で生まれた傾向映画についても現存する作品は少なく本作の復元は映画史的にも意義深いものである。

あらすじ

 播州赤穂の城主浅野内匠頭の家臣千葉三郎兵衛は主用を終えた帰途、府中の桔梗屋に宿をとった。道中足を痛め、主君から少し遅れて宿場入りした槍持ちの下郎・市助は宿を取り違えて旗本岡田文之進の泊まる和田屋に草鞋をぬいだ。知らずに夕飯を食べ始める市助。気がついた時には既に遅かった。宿の仲居は市助の槍を岡田文之進の部屋に持ち込んでいた。槍を返してほしいと市助は文之進に嘆願するが、たまたま囲碁で家来に負かされ機嫌が悪かった文之進は槍を返さない。主人千葉三郎兵衛が市助の首を持って取りに来るまで返さないと言う。手ぶらで桔梗屋にたどりついた市助は、切腹覚悟で事の次第を主人の千葉三郎兵衛に話した。それを聞いた千葉三郎兵衛は、旗本岡田の横暴な対応に怒りながらも、槍は諦めるので気にするなと市助を許した。その夜、市助は故郷で待つ恋人や母を想った。立派な侍になるという志を全うするには自分の不始末をうやむやには出来ない。彼は母と恋人に遺書をしたため、自刃する。翌日、千葉三郎兵衛らは市助の首を携え岡田文之進のもとへ。槍と首を交換するが、腹が納まらない千葉三郎兵衛は刀を抜いた。一方、囲碁の八つ当たりで軽はずみな言動をしてしまった岡田も自らを恥じ、岡田は自らの首を差し出す。だが、市助の死で命の重さを思い知らされた千葉は、岡田を斬ることは出来なかった。故郷の明石舞子に向け帰路につく千葉一行。
 槍を持つのは市助ではなく同僚の可内である。その槍の中段には市助の位牌と遺髪が結ばれていた。

監督について

辻吉郎

 1892(明治25)年、秋田県に生まれる。東京の大成中学卒業後、郷里の役所に勤務するが、映画への想いを断ち切れず、1911年に日活京都撮影所の俳優部に入所。当時はマキノ省三・尾上松之助コンビの全盛期で、市川芝喜蔵の名で時代劇俳優として活躍。俳優を続けながらマキノ省三のもとで映画演出を学び、1915年、『大前田英五郎』で監督デビュー。1921年にマキノ省三が去った後も日活に残り、尾上松之助や河部五郎を主演に「旧劇」と言われる時代劇を撮り続けた。そして昭和に入り、恐慌による不安定な社会状況を背景に左翼的思想を織り込んだ傾向映画が台頭。辻監督の作品には、イデオロギー色というより、貧しき者、弱き者、正しき者を代弁するような主題が増えてくる。『槍供養』(1927年)、『金四郎半生記』(1929年)、『傘張剣法』(同年)等がこの時期の代表作。1929年に辻吉郎から吉朗と改名。戦時下の1942年に日活・大都・新興の大映合併に際して松竹下加茂撮影所に移籍。1作品を監督した後の1945年、喉頭結核で死亡。生涯133作品を京都の撮影所で監督、京都の時代劇映画職人の一人である。

出演者について

大河内傅次郎(本名:大邊男(おおべますお))

1898(明治31)年、福岡県大河内村に生まれる。大阪商業学校卒業後、いったん就職するも、劇作家を志して大阪瓢箪山の新民衆劇学校の設立に参加。先輩に原健作がいる。ここで室町次郎の芸名で役者としてデビュー。新民衆劇学校は第二新国劇となり、同じ芸名で役者を続ける。1926年、日活京都撮影所に入所と同時に大河内傳次郎に改名。独特の魁偉な容貌から使いにくいと敬遠されていた大河内を抜擢したのは伊藤大輔監督であった。伊藤は大河内を主演にして『長恨』(1926年)、『忠次旅日記』三部作(1927年)、『新版大岡政談』(1928年)、『御誂治郎吉格子』(1931年)、『丹下左膳』(1933年)と名作を次々に送り出し、尾上松之助亡き後の日活時代劇の看板スターとなる。この時期の大河内は伊藤監督以外の監督からも引っ張りだこで、内田吐夢監督と『仇討選手』(1931年)等、山中貞雄監督と『盤嶽の一生』(1933年)や『丹下左膳余話 百万両の壺』(1935年)等、稲垣浩監督と『大菩薩峠』(1935年)や『小市丹兵衛』(1937年)等、伊丹万作監督と『巨人伝』(1938年)などの名作を残した。1937年、東宝に移籍。東宝では現代劇に多く出演、特に戦時中の『ハワイマレー沖海戦』(1942年)、『姿三四郎』(1943年)、『加藤隼戦闘隊』(1944年)等が有名である。戦後、東宝で『虎の尾を踏む男たち』(1945年)、『わが青春に悔なし』(1946年)に出演した後、1949年大映に移籍。戦前の名コンビである伊藤大輔監督と『われ幻の魚をみたり』(1950年)等で主演もしたが、徐々に助演が多くなる。1957年に東映に移籍。すでに60歳に手が届く年齢であったが、コンスタントに年間10作品を越える映画に出演。特に作品や役柄に拘らずプログラム・ピクチャーに出演したギャラは、自らの京都嵐山の小倉山の山荘の拡張と庭や石に消えていったとも言われている。1962年、胃ガンのため死去。大河内傳次郎は、戦中と戦後の一時期を除き、京都を拠点にして活躍。生涯出演した作品は280作品を越える。日本を代表する時代劇俳優である。

復元について

フィルムの形状<9.5mmフィルムと35mmフィルム>

 このフィルムは9.5mmフィルムという特殊な形状で発見されました。
 そこで今日の映写機にかけることのできる35mmフィルムに直す必要があります。

復元作業

第1段階

9.5mmフィルムを直接スキャニングしてデジタルデータ化。
画像データの仕様:cineon形式(画素数1,920×1,440pixel、階調10bit)、1コマ約10MB、全15,950コマ

第2段階

cineon形式にデジタル化されたデータを自動修復ソフト・Diamantで処理する。

  • フレーム間を連続していない汚れ、ゴミ、カビの推測と除去。
  • フレーム間を連続していないフィルム膜面(エマルジョン)の剥離の推測と補間。
  • 連続する各コマのガタつきの補正
  • 各コマの劣化したコントラストの補正

第3段階

自動修復ソフト・Diamantで処理されたデータを 35mmフィルムにレコーディング。

第4段階

自動修復ソフト・Diamantで処理されたデータで取りきれなかったフレーム間をまたがるキズについて手作業で調整。

第5段階

手作業で調整されたcineonデータを再び35mmフィルムにレコーディング。

 


 

問い合せ先

京都府京都文化博物館

(京都市中京区三条高倉)

  • TEL:075-213-2893
  • FAX:075-222-0889 

京都府文化環境部文化芸術振興課 文化振興担当

  • TEL:075-414-4282
  • FAX:075-414-4223  

お問い合わせ

文化スポーツ部文化芸術課

京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町

ファックス:075-414-4223

bungei@pref.kyoto.lg.jp

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