行政文書解題 「き」から始まる文書
2007年09月03日更新
旧国宝・重要美術品指定関係書類
昭和8(1933)年から22(1947)年頃までの国宝及び重要美術品指定並びにその他宝物に関する簿冊7冊。
「国宝指定仏像調」は、昭和10年10月京都府社寺課が、国宝保存の参考にするため、府内寺院から提出させた国宝指定仏像調書の綴。対象となった国宝には、明治30年に制定された「古社寺保存法」と、これに代わって昭和4年3月に制定された「国宝保存法」によるものとがある。仏像の概要、安置場所、指定の時期などを知ることができる。
「重要美術品指定台帳」は、昭和8年から17年までに重要美術品に指定された府内美術品の台帳。昭和8年4月重要美術品の海外流出防止のため制定された、「重要美術品等ノ保存二関スル法律」によるもの。
「国宝指定諮問説明書」(3冊)は、昭和15年から18年までに文部省が国宝保存会に諮問した国宝の指定、修理などのための目録や説明資料。
「寺院重宝目録」(2冊)は、昭和10年代から同22年頃までに作成されたと推定される京都府内寺院所蔵の重要な美術品の目録および上京区の一部の宝物の概要説明書。
行幸啓取調記録
明治元年から10年代前半までの行幸啓に関する史料全9冊。このうち4冊は明治9(1876)年の皇太后、皇后の行啓及び同10年の天皇の西南役駐輦の時の記録で、府内の諸施設を見学されたこと等を日を追って京都府簿書掛がまとめたもの。あとの5冊は行幸啓の際に授けられる賞典等についての明治元年から13年までの記録で、忠臣・義士・孝子・孝女・貞婦・篤行奇特者の事実関係の取調べ、及び維新以前の殉職諸士等の墳墓の所在取調べ記録。これらをまとめて「行幸啓取調記録」となったのは昭和4(1929)年の府庁旧倉庫整理の際である。
京都市水利事務所文書
琵琶湖疏水による水力使用事業の工事に着手するために設置された水利事務所の経理、日誌、通水量調査等の書類全14冊。明治23(1890)年2月、疏水事務所内に水利事務取扱局を設けたが、同年6月、水利事務所に組織変更した。内容は、工事日誌、繰替簿(工事用消耗品経理簿)、指令番号録(明27)、東側発電機日誌(明33)、同事務所蹴上インクライン番所の通船数・運送物貨数・通水量などの調査簿、空船券等の受渡および還付帳など。(琵琶湖疏水事務所文書参照)
京都市水路事務所文書
琵琶湖疏水工事竣工につづき、明治23(1890)年9月、京都伏見間に新運河を建設するため設置された水路事務所の書類で、「疏水分線路改修工事日誌」など簿冊6冊、「琵琶湖疏水用地調査入札整理書類並実測図」1箱17袋。
明治24年2月、諸般の事情によりこの工事は中止され、事務所も廃止されたが、翌25年8月、工事が再開されることとなり、再び水路事務所が設置された。工事の竣工にともない明治27年10月、水路事務所は廃止され、特別市制時代であることから残務は府庁内で執ることになった。この文書は、明治25年から同27年の間の再設置時代の書類の一部である。実測図等のうち2袋には新運河の横断図面が各々数枚ずつ、他の袋には琵琶湖疏水工事に関係する書類または図面で、用地合筆、分割、反別、地種組入、収支予算、買収等の関係と、疏水および関係工場の不用地売却等に関するものが12袋ある。図面は3袋に数枚ずつ、疏水線路図、敷地実測図、放水路敷地買上実測図等が入っている。このように新運河に関係するものと、琵琶湖疏水に関係するものとが混在しているが、受入の時点ですでに混在していた。当時は特別市制時代であり、疏水事務所も水路事務所も、廃止後は京都府庁で残務を執っていることから、その時点で両事業の書類を一括したと推定される。(琵琶湖疏水事務所文書参照)
京都博物館文書
明治9(1876)から同15年までの京都博物館(府営)文書3冊ならびに、明治24年から同41年までの帝国京都博物館(同33年から京都帝室博物館)関係文書2冊の計5冊。京都博物館は京都府営の博物館として、明治8年4月に設置された。この文書は同10年3月に開催された第6回京都博覧会において、博物館収集品を大宮御所内に陳列した際の関係書類ならびに、同14年から翌15年までの館内陳列品(外部預分)の出入関係の書類である。明治16年に京都博物館が廃止されたのち、同23年に帝国京都博物館(国立)が設置されたが、帝国京都博物館関係文書は、守衛等被服下渡簿(明24)および、撮影臨写承諾の記録(明31~41)である。なお、京都府庁文書中には京都博物館関係の簿冊として「仙洞御旧院一件、管内勅封物一件、当館所属詩仙堂一件」(明治8年)がある。
京都府綾部事務所文書
府綾部事務所に保管されていた明治37(1904)年から昭和36(1961)年までの何鹿郡蚕糸業関係の文書73冊。この文書は作成主体及び内容によって次の3つに分けることができる。(一)明治37年から昭和13年までの間に何鹿郡蚕糸同業組合(昭和7年以降は何鹿郡養蚕業組合)が作成した組合沿革及定款、会議録、決議書、事業報告、事業成績その他26冊。(二)明治39年から昭和26年までに各小組(蚕糸同業組合の下部地域組織)から郡蚕糸同業組合(のち養蚕業組合、さらに養蚕販売農協連合会となる)へ提出された蚕業統計報告、蚕業統計簿(各町村別集計)等35冊。(三)昭和27年から同36年までに各養蚕単位農協から京都府何鹿地方事務所(昭和30年11月以降は府綾部事務所)へ提出された蚕業統計、定式報告及び同事務所から京都府へ提出された報告類綴12冊。
この文書は、戦前の綾部地方の中心的産業であった蚕糸業に関するもので、約8割強が何鹿郡の蚕糸業団体の文書である。府綾部事務所にこのような蚕糸業団体の文書が引継がれ保管されるようになった経過は次の理由によるものと考えられる。
明治44(1911)年制定の蚕糸業法にもとづいて、翌45年1月京都府蚕業取締所(本庁内)と同支所(府下7か所)が設置された。蚕業取締所綾部支所は何鹿郡内を管轄区域としてこの時設置され、同郡内の蚕糸業に関する取締(蚕種製造免許、蚕種検査等)を中心に普及指導等の業務を行っていた。昭和17年7月京都府何鹿地方事務所が設置され、蚕業取締所綾部支所の常置職員は何鹿地方事務所兼務となった。戦後、蚕業改良普及事業体制整備の一環として昭和23年10月京都府何鹿蚕業技術指導所が設置され、同26年11月には蚕業取締所綾部支所は廃止されて蚕業技術指導所に吸収統合された。また蚕業技術指導所自体も府地方事務所の内部組織に移行することになった。
蚕業取締所綾部支所と何鹿蚕業技術指導所はともに何鹿郡蚕糸業団体(郡蚕糸同業組合、郡養蚕業組合、郡養蚕販売農協連合会、綾部養蚕農業協同組合)との密接な協力の下に業務を行っており、綾部養蚕農業協同組合の廃止(昭和39年頃)にともない何鹿郡蚕糸業団体の文書が府綾部事務所に引継がれ保管されるようになったと考えられる。
なお、昭和55年に京都府の蚕業関係各機関を統合して京都府蚕業センターが設置されたが、これにともない府綾部事務所(地方振興局)で保管されていた前記蚕業関係文書は蚕業センターに一括引継がれ、更に昭和57年に当館へ移管された。
京都府会志
『京都府会沿革志』(京都府 明治30年11月発行・全1冊)の原稿全13冊。
明治27年(1894)年、京都府会の建議によって、明治12年の府会開設から同28年までの沿革を、府会・市部会・郡部会の3編に大別し編纂している。この原稿の他に、編纂委員湯本文彦、阿形精一らによる沿革志題言、編纂方法稟議書、上申書等が合綴されており、当時の編纂事業の進め方をうかがうことができる。
京都府亀岡事務所文書
昭和22(1947)年から同31(1956)年まで府南桑田地方事務所(昭和30年11月以降は府亀岡事務所)が作成または受理した農地改革関係の文書25冊。
戦後の最重要改革の一つであった農地改革は、自作農創設特別措置法と改正農地調整法を基本法令として実施されたが、京都府では府農地部が設置され、府内各市町村では市町村農地委員の選出が進められた。戦前からの小作農を自作農化することを基本的課題とした戦後の農地改革において、その中心的役割を担ったのは市町村農地委員会であったため、農地改革の実施過程に関する資料は市町村農地委員会文書が中心となるが、府の地方事務所も管轄地域における事務的取まとめや府農地部との間の連絡機関としての役割を果したため、市町村農地委連合会会議録、農地買収売渡計画、進行状況報告、農地開放実績調査など改革の各段階ごとの資料を含んでいる場合が多い。府亀岡事務所文書も南桑田郡における農地改革の各段階の文書を多く含んでいるが、その内訳は次の通りである。南桑田郡農地委員会連合会及び町村農地委員会の会議録、往復文書4冊。農地買収売渡計画・実績報告及び強制譲渡等に関する一件綴7冊。農地交換分合、小作契約文書化、小作料改訂基準設定調査等4冊。異議訴願、農地許可申請等4冊。農地改革進行状況報告、登記事務進捗状況報告4冊。例規その他2冊。農地改革の実績について永年保存用記録として、各市町村単位で作成され府地方事務所ごとにまとめられた「農地等開放実績調査」の南桑田地方事務所管内の分は含まれていない。(京都府園部事務所文書参照)
京都府下遊廓由緒
遊廓の蔓延を憂えた槇村正直大参事の命により、明治5(1872)年から6(1873)年までに京都府勧業掛が作成した上京、下京、伏水の遊廓についての調査書の原本とその浄書稿本2冊。権大属鈴木登が大年寄熊谷直孝にはかりながら調査編輯し、これに権典事木村正幹が検閲し加筆訂正したもの。はじめに遊所出稼ぎ順が記載され、次に島原を中心とする遊所系譜が一覧にまとめられている。さらに、この系譜の順に遊所の起源と維新前から明治4(1871)年までの経過がまとめられており、地区の中年寄に提出させた所在地域図が付いている。遊所の順序及び名称は次のとおりである。
島原(通称傾成町)、祇園町八坂新地(元祇園新地という)、二条新地、北野、七条新地、先斗町(通称新河原町通)、内野、宮川町、五条橋下、新三本木、下河原、清水、白梅図子、壬生、辰巳新地(古くは法観寺門前、いま八坂最寄と称す)、伏水中書島、伏水通俗鐘木町、伏水墨染。
なおこの史料は『新撰京都叢書 第9巻』(新撰京都叢書刊行会編、臨川書店、1986)に活字翻刻されている。
京都府京都土木工営所文書
府京都土木工営所が作成または保管していた明治後期から昭和40年代までの淀川水系を中心とする河川関係図面52点及び河川工事関係簿冊17冊。
京都土木工営所は、明治29(1896)年8月府庁内に設置された第一及び第二土木工区出張所に始まり、以後京都土木区出張所(明32)、京都臨時土木工営所(明41)、第一区土木工営所(明44)と改称されたが、管内の府費支弁土木工事の執行及び府費補助工事の監督をその所掌業務とした。
京都府では、明治29年6月淀川が河川法施行河川として告示され、続いて同年9月、桂川、木津川等6河川も施行河川として認定され、これらの「河川台帳」が作成された。河川法施行河川の管理は京都府内務部第二課河川管理の担当業務であったことから、京都土木工営所に保管されていた前記の河川関係図面のうち戦前のものは、河川法施行にともなう河川台帳ないし河川管理関連の河川図として内務部第二課(のち土木課)で作成され、同課河川管理担当で管理されていたものと考えられる。しかしこれらの河川図は、その後の京都府における河川行政の事務分掌の変遷の中で、京都土木工営所に引継がれ保管されるようになったものと考えられるが、その時期は不明である。
京都土木工営所で保管されていた河川関係図面のうちの戦後の分及び河川工事関係簿冊は、同工営所で作成ないし業務上引継がれたものであるが、戦前、戦後の各河川図及び河川工事関係簿冊の概要は次のとおりである。
(1)河川図面(戦前期 33点)
淀川平面図(宇治川を含む)は、明治32年頃作成された河川台帳図面(略式)とみられるもの4点、淀川改良工事(明29~43)後の大正2年頃作成された河川台帳図面(正式)とみられるもの3点、および淀川改修増補工事(大7~昭7)前後の大正7~9年頃作成のもの3点、全10点。
淀川廃川廃堤図面は、改良工事の結果廃川廃堤敷となった大正5(1916)年頃のもの5点、改修増補工事の結果廃川廃堤敷となった昭和10(1935)年頃のもの5点、全10点。
木津川平面図は、明治36(1903)年頃の台帳図面(略式)全11点の一部とみられるもの3点、「河川台帳正本」の表示がある明治42(1909)年頃のもの3点、全6点。
木津川改修工事平面図(1点)は、改修工事(明44~大6)に際し、明治44(1911)年頃に作成されたとみられるもの。
桂川平面図(1点)は、桂川の河川台帳図面の一つとして明治39(1906)年頃作成されたとみられるもの。桂川の上流の大堰川平面図(2点)には、作図年月日「大正元年九月三日」作図者「京都府土木課」と表示されている。
小畑川平面図(1点)は明治35~大正2年頃に河川台帳図面として、また由良川平面図(1点)は明治31~41年頃に、野田川平面図(1点)は大正7~10年頃に河川管理関係図面として、それぞれ作成されたと考えられる。
戦前の河川図のほとんどは作成年の記載がなく、図面内容や他の資料から作成の時期を推定するほかないが、形態的にはいずれも大型(長さ150~1050cm)、手書き着色の図面である。
(2)河川図面(戦後期 19点)
鴨川改修工事図面(4点)は、工事が竣工した昭和22(1947)年頃の青焼図面で、鴨川改修事務所廃止(昭26)により京都土木工営所へ引継がれたものと考えられる。有栖川改修工事平面図(1点)は、同28(1953)年頃のもので大型(長さ710cm)図面。桂川改修工事平面図(8点)は、同36年航空写真測量により作図されたもので、京都土木工営所作成分と近畿地方建設局作成の分とがある。
このほか、鴨川、安祥寺川、合場川、四ノ宮川、天神川の平面図(各1点、昭和40年代)がある。鴨川航空写真(葵橋~陶化橋)は、昭和47(1972)年9月21日撮影のもので、京阪地下化以前の流域の状況を示す大型(72×720cm)写真1点。
(3)河川工事関係簿冊(昭10~39年 17冊)
京都土木工営所が施行した河川工事関係の書類や設計書等の編綴簿冊。昭和17(1942)年同工営所に統合された洛西三川改修事務所のものも含まれる。
内訳は桂川筋河川改良工事関係(昭10~15 洛西三川改修事務所)4冊、桂川河川工事関係(昭19~39)9冊、淀川河川工事関係(昭31~33)4冊。
京都府計量検定所文書
府度量衡検定所(府計量検定所の前身)が作成または受理した文書で、明治25(1892)年から昭和26(1951)年までの「計量検定」にかかわる諸例規ならびに、関係機関等との往復文書などを編綴したもの全41冊。昭和52年に京都府計量検定所から当館に移管された。明治24年3月に「度量衡法」が公布され、同26年1月1日から施行された。京都府では、明治38年に度量衡検定所を設置(権度課に附設)して、同法にもとづく度量衡器の検定・検査等の業務を実施してきたが、昭和27年3月1日、新たに「計量法」が施行されたのにともない名称も計量検定所と改称された。
京都府古社寺取調書
明治28(1895)年4月、京都府訓令第58号により、郡役所及び京都市上・下京区役所に対し一定の様式を定めて、保存を要すべき古社寺等の調査書を提出させた報告書の綴り6冊。これより先に、内務省により神社・寺院明細帳が官国幣社を除く各社寺について作成されているが、この取調書は、翌年の明治29年公布の古社寺保存金出願規則や、明治30(1897)年制定の古社寺保存法の準備として作成されたものと思われる。現在残っている6冊は、その報告書の一部であり、各区役所、郡役所ごとに分けられている。この簿冊のほか郡役所文書の中にも関連簿冊がある。
京都府参事会会議録
明治32(1899)年の府県制(明治23年制定・32年全部改正)の実施に際し、府会と並んで主要な事項を議決する機関として府県制第65条により設置された京都府参事会の明治36(1903)年から大正元(1912)年までの会議録10冊。この参事会は知事を含む官吏2名と府会から選出された名誉職参事会員8名で構成され、知事を議長として、府会からの委任事項や緊急事項の議決を行ったり、知事に対して意見を述べることなどが主な職務であった。その会議録は議長及び参事会員2名以上の署名を要することが定められている。大正元年から昭和7(1932)年までの会議録は、京都府庁文書に含まれている。また昭和22年に廃止されるまでの参事会に関する文書も京都府庁文書に含まれている。
京都府史
明治7(1874)年11月10日、太政官正院歴史課から各府県に対して出された太政官達第147号により京都府が編輯提出した「京都府史料」の稿本199冊。政府は国史編纂事業の一環として、立庁の日から、明治7年12月までの部内政治の沿革・祖法・禄制・拓地・勧農・軍役・工業及び騒擾時変等について叙記編輯し、さらに同8年1月以降の事蹟についても順次編輯し提出することを求めた。太政官正院修史局(歴史課改称)に提出されたものは、「国史」「歴史」「府県史」などと称されたが、後に「府県史料」と名称を改め、現在は国立公文書館内閣文庫に所蔵されている。この事業は明治17年に修史館(修史局改称)に引き継がれた。京都府では簿書掛(後に沿革調査掛、調査掛編輯部が担当)が各課から資料を集め順次作成提出していたようだが、内閣文庫所蔵の史料(以下京都府史料とする)の方は、明治12年以後のものを欠いており、編纂方法も若干異なっている。京都府保存の分は、慶応3(1867)年12月13日の京都市中取締役所設置の日から明治7年までが第一編102冊、別に「府史例言」1冊、同8年から11年までが第二編88冊、同12年から15年までが第三編18冊、合計209冊であるが、現存数は199冊で10冊欠号がある。このうち8冊は京都府史料によって補うことができる。また京都府史料には別に「布令書・御達書・伺留・政典・制法」「丹波国天田郡丹後全国旧所轄石高村名調書」の2冊の資料および、修史館編集による修史館稿本「府治類」「勧業類」「戸口類」「禁令類」の4冊がある。内容の比重は第一編におかれ、全体の3分の2を占めており、記述も詳細で、関連資料も原文書から多く引用されている。また、附箋・貼紙・朱書等による加筆訂正削除等がよくなされ、京都府史料と若干内容が異なる部分もある。第二編第三編と進むにつれて記述が簡略化され、資料の省略も多くなる。全編を通じて太政官の分類細目に準じ、政治部・制度部・別部に大別して事類をたて、さらにその項目ごとに片かなまじりの文語体を用いて、編年順に記述され、資料に用いた府庁文書簿冊名が朱書で添記されている。そのなかには現在当館が所蔵する京都府庁文書にないものも多い。なおこの京都府史全冊及び京都府史料のうち当館欠号本・修史館稿本は、写真版を作成し利用に供している。
〔京都府史欠号一覧〕
| 番号 | 名称 | 備考 |
| 13 | 第一編政治部工業類 | 京都府史料10で補填 |
| 14 | 第一編政治部工業類 | 京都府史料10で補填 |
| 15 | 第一編政治部工業類 | 京都府史料11で補填 |
| 24 | 第一編政治部賑恤類 | 京都府史料17で補填 |
| 44 | 第一編政治部警保類 | 京都府史料32で補填 |
| 108 | 第二編政治部勧業類 | 京都府史料8で補填 |
| 110 | 第二編政治部工業類 | 京都府史料11で補填 |
| 111 | 第二編政治部工業類 | 京都府史料11で補填 |
| 194 | 第三編政治部工業類 | |
| 196 | 第三編賑恤類監獄類 |
※欠号本の名称は「昭和四年図書並旧倉庫整理一件」(昭4-21)の目録による。
京都府寺誌稿
明治24(1891)年から35(1902)年までに京都府が編纂した洛中及び山城地域の主要な寺93ヶ寺の寺誌71冊。昭和4(1929)年の目録によれば96ヶ寺74冊であったが、清水寺、二尊院、法厳寺、妙心寺(一部分)の個所が失われている。この部分は、明治40年頃、京都帝国大学が謄写したものを写真撮影して補った。また目録でも欠けている頂法寺についても京大蔵本の写真版で補った。
明治24(1891)年、北垣知事は、京都府における多くの名刹の歴史が不完全であり、その什宝物や古文書等の調査が十分でないため、湯本文彦を委員として寺誌の編纂にあたらせた。明治26年、平安遷都の記念事業がはじめられ、湯本文彦の提言による平安通志その他の編纂が行なわれることとなり、いったん中止された。明治30年、編纂事業が再開されたが、明治35年、湯本文彦が京都帝室博物館へ転出したことなどにより、再び寺誌の編さんは中止された。内容は、境内実測図(建物配置図のある場合がある)・開創・由来・沿革・宗旨・寺格・名僧・仏像・堂宇・地域・什宝物・古文書・墳墓・寺産・名勝・旧跡のほか、公家、武家との関係、国史の逸事などを取調べてまとめたもの。中には編纂の時間がなかったため寺から提出されたままの書類もある。寺ごとに中表紙があり、そこに作成年月日と編纂委員湯本の印があることから、もとは寺ごとに別冊であったことがわかる。また、数冊に湯本の覚書があり、編纂の経過をうかがうことができる。
京都府処務細則
京都府の組織、事務分掌、職務権限、文書(取扱、様式)、服務等に関する規程集で、明治17(1884)年(推定)から大正15(1926)年までの14冊と昭和16(1941)年、17年の2冊をそれぞれ合綴した2冊。京都府において体系的に処務細則が整備されたのは、明治14年4月に制定された「京都府課掛職制章程并規程」(京都府庁文書「明治一四年庁号達書」中にもあり)がはじめて。この規程は、同19年に改正して「京都府庁中処務細則」と改められた。「京都府処務細則」となったのは同26年の改正からで、その後同29年、36年、大正15年、昭和4年に全面改正が行われた。「京都府処務規程」と改められたのは大正15年の改正以降である。
京都府史料蒐集目録
明治19(1886)年に、内閣臨時修史局が国史編纂のため、京都府下伝存の旧記古文書類を調査した際に、作成した目録の写。京都府にはその調査目録がなく、必要を感じた湯本文彦が、明治34年に東京帝国大学史料編纂掛(修史局の後身)に依頼し、京都府へ送付を受けた。京都市を中心に府下全域の社寺・個人・博物館等237ヵ所所蔵のものについて表題と点数が記されている。
京都府園部事務所文書
府園部事務所が作成又は保管していた明治35(1902)年から昭和34(1959)年までの文書(蚕糸業関係、農地改革関係、林道関係文書)34冊。次の3つのグループから構成されている。(1)明治35(1902)年編、大正2(1913)年編、昭和10(1935)年編の船井郡蚕糸同業組合(昭和10年以降は船井郡養蚕業組合)の定款並びに諸規程、沿革並びに事蹟、累年統計の9冊。(2)昭和17(1942)年から昭和28(1953)年までの間に、府船井地方事務所が作成した農地改革関係の文書21冊。この中には戦前の「農地調整二関スル綴」や戦後農地改革における府船井地方事務所管内の「農地等開放実績調査(昭和25年)」が含まれている。(3)昭和17(1942)年から昭和34(1959)年までの間に、府船井地方事務所(昭和30年以降は府園部事務所)が作成した林道関係の文書4冊。
京都府治概要
明治38(1905)年に内務大臣芳川顕正が静岡県以西の府県を巡視するにあたり、府が最近の治務の概要をまとめ、大臣に提出したもの1冊。日露戦争中の時局に関する事柄を、土地及び人口、兵事、勧業、土木及建築、慈善、社寺、学事、衛生、警察、財政、郡市町村戦時施設、町村ノ治績、官吏及文書の各項目について要約している。
京都府地誌
太政官の全国的な地誌編纂事業の一環として、明治8(1875)年6月5日の「皇国地誌編集例則並ニ着手方法」(太政官達第97号)及び、同年11月13日の「地誌編著例則追補」(太政官達第196号)に基づいて、京都府が編輯提出した「皇国地誌」の稿本35冊。この事業は明治18(1885)年度以降、府県分担を廃止し、内務省地理局において一括編輯することとなり、京都府においても中断したため、現存するのは京都市街誌料5冊、伏見区市街誌料1冊、山城8郡(愛宕、葛野、乙訓、紀伊、宇治、久世、綴喜、相楽)と加佐郡の各郡誌9冊、及びその村誌20冊で、船井、南桑田、北桑田、何鹿、天田、与謝、中、竹野、熊野の各郡を欠いている。また、その内の京都市街誌料編輯例言及び上京区第一区から第九区迄の誌料は、紛失のため明治39(1906)年に東京帝国大学所蔵の「皇国地誌」から筆写している。
編輯経過の記録は少ないが、巻末の署名及び「明治一七年地誌雑記」(京都府庁文書明17-31)等から推測することができる。最初地誌編集専任である河村与一郎・水茎玉菜が編集を担当し、その後明治14(1881)年の調査掛編輯部の設置により、その職員近藤節也・水茎玉菜・山本長敬らが主に担当した。郡誌は各郡役所が、町村誌は各戸長役場が作成し提出した原稿を、前記担当者が調査編集し、不十分な箇所については再提出させた。14年までにまず京都市街誌料、伏見市街誌料が作成され、その後山城地域を中心に編集がすすめられた。事業中止直前の17年には、竹野、中、熊野各郡の巡回調査や、与謝郡の関連史料の騰写収集などが行われ、丹後地域の編集にも着手していた。そのため丹後地域の戸長役場文書、区有文書等に、当館が所蔵していない地誌の原稿を発見することがある。
内容は市街誌、町村誌、郡誌によって若干の違いはあるが、おおむね太政官の例則に順じ、明治8・9年頃における名称、彊域、管轄沿革、幅員、里程、地勢、気候、風俗、地味、貢租、戸数、人口、牛馬数、舟車数、山川、森林、湖沼、橋梁、道路、陵墓、社寺、学校、病院、郵便所、古趾、名勝、物産、民業、人物などの項目について各郡区町村ごとに列記され、明治初年頃の市街地や村落の状況が明らかにされている。なお、修学院離宮と桂離宮は附記として独立に扱われている。また、京都市街誌料1、久世郡誌、綴喜郡村誌上には編輯例言が附いており、当時の編集の方針を知ることができる。それによると、土地の名称、管轄沿革、社寺等は国史実録等の考証によるもののほか、民間伝承によるものも採用すること、また編輯時点で測量を実施することが困難なため、地図については後日追補すること等を定めている。ただしこの地図の稿本は当館に現在残っていない。一方、太政官に提出された稿本は、明治23年には東京帝国大学に移管され、同26年に地誌編集事業が中止された後も、同大学図書館に「皇国地誌」とも「郡村誌」とも呼ばれ保存されていた。しかし、大正12(1923)年の関東大震災の際に、図書館とともに全滅した。
京都府庁史料
第二次大戦終了前に府知事部局で作成された文書で、永年保存の指定のないものを「京都府庁史料」とよんで保存活用している。全951冊。これは次の3つに分類することができる。
(1)府庁舎旧一号書庫に保管されていた文書で、昭和38年の当館開館直後に移管され、「旧一号書庫資料」と通称される一群。昭和4年に書庫内の整理が行われ、図書分類表に基づいて古文書や史料等も一緒に分類整理されたことが基本形となっている(この書庫整理については京都府庁文書の項を参照)。それ以前、明治35(1902)年から36(1903)年にかけても文書の整理が実施され、古文書類の虫干し整理、廃棄文書・反古からの資料収集と整理保存など湯本文彦らによる一定の基礎的整理があったとみられる。この旧一号書庫資料のうち京都府編纂史料を中心とした史料が京都府庁史料の中核となっている。主なものに「京都府史」、「京都府地誌」、「京都府寺誌稿」等の編纂史料、「御達書」等の明治初期の文書、「神社一覧」など社寺関連史料、そして「町村沿革調」、「維新前民政資料」等がある。
(2)昭和43(1968)年と50(1975)年に文教課から引継いだ旧社寺課の史料。「社寺明細帳」、「明細帳付録」、「社寺境内外区別取調帳」等の台帳類が中心で、ほかに「二十三院由緒書」等、永年保存文書に関連するものも含まれている。
(3)教育庁文化財保護課から引継いだ旧社寺課の史料。社寺に関しては、戦前は社寺課が文化財保護行政も含めて総括的に担当していた。昭和62(1987)年に主として社寺建造物(国宝・重要文化財)修理関係文書を、平成元(1989)年に社寺宝物調査保存関係文書をそれぞれ引継いだ。
他に、当館が実施した百年史編纂事業の際に受け入れた史料もある。
京都府庁史料のうち、「京都府史」「京都府寺誌稿」等51タイトルの解題は個別に収録している。このほかに次のものがある。
明治初期の制度に関する印刷物
「貨幣取調書」、「京都府職制」、「市中制法町役心得条目」、「政体」、「村庄屋心得条目」、「寺院制法」
明治初期の文書
「明治三年駅逓事件」、「明治七年京都管轄丹波三郡便覧」、「明治七年御陵墓所在書上」、「明治五年士族禄高帳」、「明治一二~一三年薪炭木算出並消費高等調査」、「明治四~一二年秩禄賄料支給関係書類」、「明治九年仁和寺歴代先蹤」、「明治三年社寺古文書記」、「慶応四年福知山藩社堂改記」、「明治五年神社御改正神官名前帳」
京都府の編纂事業に携わった湯本文彦の編集による史料
「京職沿革略考」、「京都府管内沿革並領主略考」、「京都附近殉難人墓取調書」、「東宮殿下奉呈記事」
永年保存文書と関連する文書
「明治一六年布告」、「大正大礼関係資料」、「昭和一八年東舞鶴市舞鵠市合併一件」、「昭和一五年府県制発布五〇周年記念式にかかる資料」、「昭和二年例規」(以上庶務課)、「河川改修(昭和一八年由良川改修)」、「明治三四年木津川筋堤内河川付近土地調書」、「明治三六年国有土地水面湖湾簿冊目録」、「昭和一九年災害工事中間検査・災害防除施設工事検査一件」、「昭和一〇年災害京都市工事設計書」、「昭和一二年度中小河川桂川改良工事設計書」、「昭和一四年土木概要」、「明治一七~大正八年度土木統計」、「舞鶴港湾施設」(以上土木課関連)、「明治四四~昭和一〇年耕地整理関係書類」、「昭和八年時局匡救事業一件」(以上耕地課)、「昭和九年度天橋立公園被害枯損木調査」、「昭和一七年史蹟名勝天然記念物調書」、「昭和一〇年歴代天皇聖蹟並皇室関係御遺蹟調査」、「大正三~昭和二〇年大本教土地家屋登記綴」、「昭和一六年官国幣社府社祭典舗設図」、「明治四〇年古社寺保存資金有価証券利札領収簿」、「大正一四年寺院仏堂教会二関スル調書」、「昭和一七年市郡別寺院名簿」、「明治一七年社寺関係諸届」、「昭和一一年度社寺宝物保存施設助成奨励一件」、「大正一四年~昭和六年社寺用国有財産増減一件綴」、「昭和一四年社寺林調査報告書」、「明治三五年~大正六年宗教関係財団法人書類綴」、「明治三七~四一年神社教会一件」、「内務省直轄並保存寺院」(以上社寺課
図面類
「大正四年字治神社付近図」、「大正七年愛宕郡町村地図」、「明治一六年監獄庁舎建築絵図」「大正七年紀伊郡町村地図」、「明治期桑田郡弓削村地図」、「大正五年就業費一件付属紀伊郡地図」
京都府町村職員恩給組合文書
京都府町村職員恩給組合の昭和25(1950)年から37(1962)年までの例規や往復等の文書綴11冊。同組合は昭和27(1952)年制定の「町村職員恩給組合法」にもとづいて、京都府内の町村職員の退職年金及び退職一時金に関する事務を共同処理するための一部事務組合として設立された。
この文書は、例規、公告、調査(府内各種町村組合概況調査を含む)関係簿冊、及び恩給組合連合会との往復書等の文書綴からなる。
京都府庁文書
京都府知事部局(企業局を含む)において作成または受理され、京都府文書等編さん保存規程により永年保存文書として管理保存されてきた文書。完結した書類を簿冊形態に編綴した簿冊形式のもの。
京都府庁文書の成立と保存の経過は次のとおりである。京都府の立庁は慶応4(1868)年閏4月29日であるが、その前身は同3年12月13日に設置された京都市中取締役所にはじまり、同4年3月3日京都裁判所となり、そして京都府と改められた。府庁文書中には、これら市中取締役所、京都裁判所の達書、布令類が含まれている。明治4年7月の廃藩置県および同年11月の府県統廃合によって京都府の管轄区域は、山城全国と丹波三郡(桑田、船井、何鹿)となり、さらに、同9年8月豊岡県が廃止され、その一部、丹後国および丹波天田郡が京都府に編入され現在の京都府の区域が確立した。府庁文書中には、豊岡県関係文書が数冊含まれている。なお、京都府の管轄となった各藩ならびに豊岡県関係の文書のうち郡役所を経て、のちに京都府に引継がれたものに、宮津藩政記録および、豊岡県第十四・十五大区区務所文書がある。
明治初年の京都府庁における文書編さん保存については詳細な記録を欠くが、明治2年1月に簿書の表題(政典、制法等33項目)を定め部内に達した。おそらくこれが、文書編さん保存の最初の試みであろう。同13年4月各課・掛の簿冊は簿書掛で管理することとし、同10年までに完結した簿冊はすべて目録を添えて簿書掛へ引渡すよう指示している。全庁的に文書の集中管理が行われるようになったのは、これ以後のことと考えられ、同14年4月に制定された「京都府課掛職制章程並京都府庁規程」(19年以後は「京都府庁中処務細則」)の第6章第24条に文書管理保存についてはじめて規程化がなされている。また、文書の保存年限が定められたのは、同23年に改正された「処務細則」が最初であり、これによって文書は永年保存、年を期して保存、廃棄すべきものの三つに区分されることになった。また、文書編纂保存に関する規程が処務細則から独立して定められるようになるのは同28年頃からであるがこれはすでに失われ、現在残っているのは同32年に改定された「文書整理規程」である。
府庁舎の新築にともない明治35年5月から同36年12月まで臨時の文書整理が実施されたが、その結果報告(明治38年3月)によると保管庫4棟、保管簿冊数17310冊となっている。同36年12月に「文書編さん保存規程」が制定され、同38年4月に改定された。この改定規程によると、文書保存区分を永年、十年、五年、一年の4種に分け編さん装釘した簿冊を記録掛(大正6年以降は文書掛)へ引継ぎ、目録簿に登載して保存するように規定されている。規程の整備ならびに先に実施された臨時文書整理等によって、全庁的な文書の集中管理体制が名実ともに整えられた。郡役所廃止による文書の引継、保管庫の老朽化による改築計画等にともない、昭和4年6月から8月まで倉庫整理が実施されたが、この時の記録(「図書並旧倉庫整理一件」(昭4-21))によると府庁舎西側倉庫3棟、保管簿冊3万余冊(永年と有期限を含む)とある。また、この時期に簿冊表紙に附箋(ラベル)貼付がなされた。同5年5月の規程改正により、それまで各課で編綴して引継いでいた文書を、文書課で編綴保存することになった。同8年3月懸案となっていた書庫が改築されたが、この時期に明治期を中心に約2000冊が、さらに昭和14年以降16年までに、約7000冊(合計9000冊)の永年保存文書が廃棄された。昭和19年4月の「知事事務引継演説書」によると、永年保存簿冊数は11564冊(明治4572、大正2798、昭和4197)で、「決戦非常措置要項」にもとづき保存文書を約三分の一程度に整理すべく仰裁中とある。昭和20年3月嵯峨大覚寺境内華道道場内に保存文書を疎開させたが、その際、明治期の簿冊を中心に約2600冊が廃棄処分、または移動による破壊等によって滅失した(昭和21年1月「官庁公文書及記録復帰ニ関スル報告書」(「例規綴」(昭22-155)による)。なお、明治期の商工、農林等勧業関係簿冊は、明治38年の「臨時文書整理結果報告」によると1429冊となっているが、これらの簿冊もそのほとんどが昭和8年から同19年ごろまでに廃棄されたと考えられ、現在はわずか86冊程度が残っているに過ぎない。昭和20年8月終戦の混乱時に、各担当課保管となっていた特高警察をはじめとする警察関係・軍関係・統制関係の文書が大量に焼却された。戦後、新府庁舎の建設にともない書庫取壊しのため、昭和39年から43年にかけて二号書庫に保管されていた明治、大正、昭和戦前期の永年保存文書が当館に移され、昭和47年8月上記文書約11400冊(明治2900、大正1900、昭和6600)が、正式に当館へ移管された。
府庁の行政文書のうち永年文書は、規程により25年以上経過したものが逐次当館へ移管されることになっている。移管後の府庁文書は学術等の調査研究のために一般に公開している。府庁文書(永年保存文書)の時期内容別の冊数内訳は、次のとおりである。
明治期(3149冊)(補修による分冊等により移管冊数より若干増加)
中央令達156、京都府令達284、往復文書130、人事442、議会90、秘書庶務112、財務租税93、訴願監獄55、戸籍秩禄44、地理・市町村49、通信鉄道98、皇室貴賓129、衛生31、教育435、宗教385、土地道路242、河川港湾181、建築83、勧業(農林商工)86、軍事24。
大正期(2339冊)(補修による分冊により移管冊数より若干増加)
例規44、人事141、秘書庶務68(うち知事事務引継書5)、皇室貴賓98、議会105、財務租税45、訴願訴訟26、郡市町村72、統計調査24、教育491、宗教255、社会厚生18、農林150、鉄道運輸124、土地道路432、建築75、河川港湾153、災害14、軍事4。(商工、衛生なし)
昭和戦前期(6745冊)
例規77、人事332、秘書庶務156(うち知事事務引継書30)、皇室貴賓331、議会200、財務租税109、訴願訴訟32、市町村253、統計調査302、教育615、宗教504(うち寺院規則認可申請書229)、社会厚生117(うち地方改善18、衛生12)、農林453(うち小作争議26)、商工319、鉄道運輸125、土木833、建築140、道路橋梁1055、河川港湾609、災害41、軍事142。
府庁文書は、規程に定められた編纂部目、保存年限によって編綴され、簿冊名、年次、課名が表記され、簿冊番号(年次順、同一年次内は番号順)によって配列されている。
府庁文書検索のための目録としては、『行政文書簿冊総目録』(簿冊目録)ならびに「京都府庁文書件名簿」(簿冊中の書類の件名目録)を作成している。
京都府日露時局記事
京都府が日露戦争後の明治39(1906)年に、京都市及び各郡からの報告にもとづいて作成した稿本6冊。日露戦争下における府内の諸情勢を知ることができる。湯本文彦が編纂主事として編集を担当した。各冊の内容は次のとおりである。
(1)各大臣の訓令、訓示、演説内容をはじめ官房事項(庁内および郡市町村訓達、陸海軍および各団体に対する事項、地方長官召集に係る事項)、庶務事項(国税課税状況、地方課税制限と地方費緊縮ならびに臨時府会状況、記念事業、勤倹貯蓄、国債募集、軍資献納等)
(2)、(3)兵事事項(徴兵、陸海軍召集、軍隊輸送、傷病兵の後送、徴発、日本海沿岸警戒、在郷軍人および国民兵、浮虜収容、軍人遺家族救護慰問、戦役死没者および負傷者遺家族慰問ならびに葬儀会葬内規、戦時統計表、各種団体活動等)
(4)勧業事項(郡市長諮問及び訓示、各種営業上に及ぼした影響、農林水産業および商工業に及ぼした影響、戦時に起きた産業、産業組合、軍需品等)
(5)教育事項(教育者の責務に関する事項、応召軍人子女の授業料および学用品給与貸与、学校設備及び授業状況、時局のため影響を受けた事項、府立学校、市立各学校、市立小学校、各郡各小学校等)
(6)社寺事項(官国幣杜開戦奉告祭、平和克服奉告祭、仏教各宗の行動、外教者の状況、人民の神仏に対する状況等)、警察事項(軍機保護、軍事視察人の取締り、敵国および交際国人の警護、鉄道その他交通機関の保護および取締り、沿岸警備、召集および徴発に関する事務、軍需品に関する取締り、軍隊および鑑隊の集合地における取締り、集会および多人数運動の取締り、時局の影響調査、講和条件に対する市民の行為等)
京都府日誌
京都府が慶応4(1868)年閏4月29日から明治5年4月まで、布令・任免・賞典その他、府政の動向などを採録し一般広報用に印刷発売した刊行物(「京都府史 第一編 別部図書類」による)。特に「平安隊規則集」、「流民所仕法帳」、「小学校建営につき申渡」、「招魂祭記」は日誌より独立している。当館所蔵は慶応4年閏4月から明治3年12月(明治元年10月、同2年7、8、9月は欠号)で、明治2年10月以降の分は京都府庁文書中に収められている。
京都府福知山事務所文書
府福知山事務所が作成又は保管していた明治40(1907)年から昭和38(1963)年までの天田郡の蚕糸業関係の文書28冊。昭和57(1982)年、京都府蚕業センターから当館に移管された。作成主体別に、2つに分けられる。
(1)明治40(1907)年から昭和38(1963)年までに、蚕業取締所福知山支所、天田蚕業技術指導所等の府の機関が作成した所員名簿、備品綴、統計資料等、22冊。(2)昭和15(1940)年から昭和26(1951)年までに、天田郡養蚕業組合、同養蚕農業協同組合連合会等の団体が作成した蚕業統計6冊。(京都府綾部事務所文書の項参照)
京都府福知山土木工営所文書
府福知山土木工営所に保管されていた明治末期の由良川実測図(平面図)4点。
福知山土木工営所は、明治29(1896)年8月に設置(場所は天田郡役所内)された第五土木工区出張所に始まる。その後福知山土木工区出張所(明32)、福知山臨時土木工営所(明41)、第三区土木工営所(明44)と改称され、管内の府費支弁土木工事の執行及び府費補助工事の監督をその所掌業務とした。
由良川実測図は、由良川及び土師川が河川法準用河川に認定された、明治45(1912)年4月頃河川台帳図面として作成されたものと推定される。
河川法施行・準用河川の管理は、京都府内務部土木課河川管理の担当業務であったことから、この由良川実測図も本庁土木課で作成され、その後福知山土木工営所に引継がれ保管されることになったものと考えられる。
由良川実測図は、由良川、土師川合流点附近から栗田湾の河口までの一連の平面図で、恐らく全五点からなる図面であったと考えられるが、現存するものには、有路~大川間の河川区域の分を欠いている。縮尺2000分の1で形態的には大型(長さ240-427cm)、手書き着色の図面である。なお、作成年の表示はないが、前記事項及び図中に土師橋(明治42年架橋)が記載されていることからそれ以後の、おそらく明治45年頃のものと推定される。
京都府布達要約
明治元(1868)年から明治30(1897)年までの京都府の主要令達を類別(官制職制、儀式、布達公文、印章、庶務、会議、兵事、社寺、農工商付漁猟鉱山、港湾、国税、地方税付備荒儲蓄、土木付水利、気象、地理、学事、衛生、会計、警察、監獄等)に収録した編年体令達集全18編34冊。明治14(1881)年から明治31(1898)年まで毎年刊行された。明治元年から明治13(1880)年を収録した第1編では、明治14年2月の発行時点で改正または廃止されている布達、達は省略されている。また、明治20(1887)年以降の書名は、「京都府府令達要約」となり、明治29(1896)年及び明治30年は、類別ではなく、府令、訓令、訓示、公示、告示の順に収録されている。なお、明治31(1898)年4月1日からは、「京都府公報」が発行されている。
京都府布令書
京都府が布告、布達、告示等を府内一般に公布するために配布したもので、「京都府公報」(明治31(1898)年4月1日以降)の前身に相当する印刷物で原本綴71冊、複製版綴122冊。現在当館が所蔵している京都府布令書は、慶応4(1868)年7月から明治20(1887)年3月までの分であるが、原本の欠号が多いため複写により収集補充し前記期問分の約90パーセントを整備している。発行年ならびに令達の種類により合綴して保管している。京都府布令書は、創刊後の数年間は京都府が編集したものを御用書林村上勘兵衛が発行発売し、月刊ないし月数回、刊行されていた。
明治4年の後半になると、それまでの備忘を目的としたものから、京都府が法令告示等を公布するために印刷配布するものへと変わり、発令の都度京都府から発行されるようになった。同4年9月からは令達番号が付されて年内一連番号により発行され、回数も大幅に増加し数日おきの発行となった。
同14年3月10日以降は、「布号」「甲号」など令達告示の種別ごとに発行されるようになった。「布号」は、中央官省の布告布達に知事が添書して府下へ公布するものであり、「甲号」は、京都府から出される一般への布達、「告喩」は府民に対する告喩書である。中央政府各省の告示を府内へ配布する「告号」、府の一般告示をあらわす「示号」などの区分は明治15年に、また、「府令」という区分は、明治19年7月から使われたものであるが、以上は諸区分のうちの一例を示したものである。なお、この「京都府布令書」に関連する資料として、「京都府布達要約」がある。
京都府宮津事務所文書
府宮津事務所に保管されていた明治33(1900)年から昭和41(1966)年までの保安林台帳及び蚕糸業関係文書36冊。作成主体により3つに分けられる。
(1)明治33(1900)年から昭和35(1960)年までに、森林法(明治30年制定)に基づいて京都府林務課が作成し、府与謝地方事務所(昭和30年以降は府宮津事務所)が保管していた保安林台帳10冊。
(2)明治44(1911)年から昭和21(1946)年までに、与謝郡養蚕業同業組合(昭和7年以降は与謝郡養蚕業組合)が作成した報告書綴1冊。
(3)大正7年から昭和41年までに蚕業取締所宮津支所・蚕業技術指導所等の府の機関が作成した蚕業統計、報告書綴等25冊。
