行政文書解題 「し」から始まる文書
2007年09月03日更新
寺院本末一覧
明治3(1870)年、太政官達により京都府が調査作成した洛中及び山城地方の寺院の一覧表10点、平均約200×300cm。
明治3(1870)年7月、太政官は、翌年1月に出された社寺上知令による諸政策を進めるため、あらかじめ府藩県管内の本山、末寺等を調査し、民部省へ提出するよう達した。各寺院は宗派ごとにまとめられ、院家・塔頭・末寺・寺々中等の系統図となっている。各寺院には、留守官、または京都府の管轄、あるいは両方の管轄、本寺他府藩県などの管轄などの区別を記号によって示している。無住などの寺号だけの寺院も朱書されている。神社一覧と一対をなすもので、神社一覧と同様に、本寺ごとのまとまりを朱線で結び、朱線の中央に貼り出し紙をして京都府と書き、寺院に対する管轄を示している。社寺掛が作成しており、真言宗新義派は明治3年8月、真言宗古義派、浄土宗鎮西派、一向門徒は同年10月、天台宗、禅宗臨済派、禅宗曹洞黄葉両派、日蓮宗、兼学宗は同年11月、西山浄土宗は同年12月に作成されている。
寺院明細帳
内務省からの達により、管内の寺院の所在地、宗派、坪数等について、京都府が調製、提出した明細帳全52冊。最初、明治12(1879)年6月、内務省は同省達乙第31号を以て、一定の様式を定めて、寺院明細帳ならびに、神社明細帳を調製し、同年12月限り提出するように府県に達した。しかし、この様式には不備な点があり、また各府県においても調製が進まなかったので、明治15年、内務省は各府県に対して再調製を命じた。これに基づいて各寺院に作成提出させた明細帳は昭和16(1941)年の宗教団体法の公布までの間、公認寺院の台帳として、内務省および京都府に各一部ずつ備付けられた。作成は、神社明細帳と同様で、山城・丹波地方は明治16年、丹後地方は同17年と推定される。上京・下京・各郡ごとに編綴されているが、原本保存の立場から全43冊に分冊した。内容は、所在地、本末、宗派、寺号、本尊、由緒、境内建物、境内坪数、地種目、境内仏堂、境外所有地、檀信徒数、管轄庁迄の距離、壇信徒総代連署であり、上.・下京および、山城地方の明細帳には、境内の略図が添付されている。記載事項の異動、変更等の処理については、神社明細帳と全く同一である。明治12年の内務省達に基づくと推定される寺院明細帳9冊は、下京区、愛宕郡、葛野郡、乙訓郡、伏見区・紀伊郡、宇治郡、綴喜郡、久世郡、相楽郡にわけられている。これら2種の明細帳の内容項目は、ほとんど変わりないが、明治12年のものには住職名および、壇信徒総代の連署等がなく、境内略図の添付もない。境内坪数・境外所有地・壇信徒数等に若干の差異がある。また真宗寺院については、これ以外に明治10年内務省達乙第69号に基づく「真宗本願寺派京都府下寺院明細帳」(2冊)がある。
なお、明細帳の異動事項を記録したものとしては昭和18年度分まで社寺明細帳附録があり、また年度によっては京都府庁文書中に「明細帳異動綴」として残っているものもある。
志賀郷村役場文書
明治14(1881)年から昭和29(1954)年までの志賀郷村役場文書67冊。
昭和30(1955)年2月、町村合併により、志賀郷村役場が保存していた文書は綾部市に引き継がれた。しかし、旧同村役場庁舎にまだ残されていたものがあり、昭和43年に当館へ引き継ぎを受けた。統計関係(村是調査・勧業・学事統計など、明治22~昭和19)20冊、国勢調査(大正9、第1回)事績・現勢調査(明治39~40、第1回 明治43~大正3、第2回 大正4~8、第3回)等統計に類するもの9冊。志賀郷尋常高等小学校増築、教育委員会、図書館、公民館等教育関係のもの5冊。大日本国防婦人会、親和会、同和奉公会等各種団体に関するもの5冊。奥丹後地方大震災(昭和2年3月7日)、昭和28年災害等に関するもの4冊。郡長からの達(明治14)をはじめとする進達類令達申牒綴、勧業に関する往復綴など3冊。また、条例、規則、例規関係5冊。このほか名寄合計簿(大正2)、志賀郷村職員名簿(明治22~大正7)、土木地理(大正12~13)、志賀郷村治一班(大正14~昭和3)何鹿病院組合書類(昭和2)、土地所有者通知書(昭和2~10)、家屋賃貸価格調査に関する一件書類綴(昭和4~6)、昭和四年度志賀郷村歳入歳出決算書、志賀郷村時報(昭和5年1月~11年12月)何鹿郡町村誌巻二中筋村の部(昭和14)、新嘗祭供御新穀献納一件(昭和16)、特別積立金貸付預入原簿(明治37~45)、壮丁下調書(大正14年度)、何鹿郡町村会、附何鹿伝染病院(昭和23~24)、土木関係(昭和25)成人講座に関する綴(昭和25)。
寺地画図
明治3(1870)年5月、府下における社寺地をすべて管轄すべき旨の太政官達を受けて京都府が、管轄の各社寺に指示して翌年の社寺上知令に向けて作成させた境内地略図のうち、寺院について編綴した図面24冊。各冊の表紙に明治4年2月改、社寺掛とあり、宗派および、本末によって編綴されている。社地画面に比べて境内伽藍、建物配置、同間取等の記載は詳細で、寺号のみ存続している寺院、または、寺地のみあって無住の寺院等についても、その事情が附記されている。その宗派・本末は、真言宗各本末、天台宗各本末、禅宗臨済派各本末、浄土宗西山派各本末、一向門徒各本末、日蓮宗各本末、時宗各本末、兼学宗各本末であり、禅宗曹洞及び黄檗派・浄土宗鎮西派各本末が散佚している。
社地画図
寺地画図と同じく、京都府が管轄の神社に指示して作成させた境内地略図(寺院については、寺地画図参照)。全15冊。当時の京都府の管轄である洛中および山城の各郡ごとに、社地の所有が、神主持、町あるいは村持に分けて編綴されている。大社之部、洛中神主持、同町持、愛宕郡神主持、同村持、葛野郡神主持、同村持、乙訓郡神主持、同村持、宇治郡神主持、久世郡神主持、同村持、相楽郡神主持、同村持、市郡小社之部から成り、紀伊郡、綴喜郡の神主持、村持、および宇治郡の村持が散佚している。各冊の表紙に、明治4年2月改、社寺掛とあるが、数枚の社地画図に明治3年11月の記載があることから、作成・提出は明治3年中と推測される。各神社ごとの境内略図で、境内坪数、地種目、建物配置、同坪数等が記入されている。正確な実測図ではないが、社寺上地令以前の社地の状況がわかる。
社寺境内外区別取調
社寺境内外区別図20冊、社寺境内外区別取調帳20冊、社寺境内外区別〔取調〕図面23冊の計63冊。明治8(1875)年から同18(1885)年頃までに作成されたもので、上京区、下京区および各郡別に編綴されている。社寺上地令ならびに地租改正にともなう社寺境内外区別事業によるもので、境内地が官有地に編入された社寺に限られ、民有地のみの社寺は含まれない。
明治4(1871)年1月政府は、現境内地を除く境外社寺領(朱印地、黒印地、除地等)の上地令(第一次上地令)を発し、同年5月と7月に府藩県に対して社寺の境内外区別の取調を命じた。京都府においては、各社寺から提出させた社寺地等の取調書や絵図面等をもとに、実地検分によって上地令にもとづく境内外の線引を行った。京都府庁文書中の「社寺境内外区別原図(明治4~6年)」はこの時作られたもので、愛宕、葛野、紀伊、乙訓の四郡の分(全5冊)がある。京都府の場合、諸宗本山をはじめ大社寺が集中していることもあって、この取調はなかなか進まず、同8年2月頃においても取調未了や図面等の作成がおくれている社寺があったことなどが、内務卿あての上申書に報告されている。
同8年6月地租改正事務局達乙第4号によって「社寺境内外区画取調規則」(第二次上地令)が発令され、これによって境内地は更に縮小(社殿堂宇の敷地及祭典法要の広場に限定)されることになったが、境内外区別は第一次上地令による取調が終了しないまま第二次上地令による取調に引継がれることになった。この時期京都府では耕宅地の地租改正事業もスタートしており、このため境内外区別取調はなかなか進展せず、10年後の明治18年頃に完了している。「社寺境内外区別図」(20冊)は、第二次上地令にもとづく境内地線引の結果の実測図で、「新旧境内(境内外)区別実測縮図」の表示があること、また所在地に区や組の表示があるものとないものとがあることから、明治8年から15年頃までに作成されたものと考えられる。「社寺境内外取調帳」(20冊)は、第二次上地令による境内外区別取調の結果を、同取調規則第六条の雛形にもとづいて明治16年から18年にかけてまとめ、内務省に提出したものであるが、当館所蔵のものは京都府の控である。各社寺ごとに、社寺名、所在地、朱黒印地、除地、見捨地、旧境内、現境内、共有墓地、私墾田畑、神官人民居住地、山岳、林、竹林、荒蕪地の各反別のうち該当事項が記載され、寄(郡区集計)が付されている。また、同取調規則第8条に絵図面を添付すべき旨規定されているが、「社寺境内外区別〔取調〕図面」(26冊)はこれにもとづく取調帳添付図面である。これは前記の「社寺境内外区別図」を原図として作成されており、図はほとんど同一である。しかし、境内外区別図の方は図面内の各区画ごとに坪数や間数が記入されているのに対して、境内外区別〔取調〕図面は問数等が省略されており、実測図ではあるが土地の用途別に彩色された見取図風の図面となっている。
社寺修理関係書類
昭和5(1930)年から19年までに実施された京都府内の国宝または史蹟に指定された社寺の修理のうち、6社寺に関わる許可願や設計図などの簿冊8冊。昭和4年3月「古社寺保存法」に代わって制定された「国宝保存法」では、国宝の現状を変更しようとするときは許可を受けることが規定されており、大正8(1919)年に制定された「史蹟名勝天然記念物保存法」でも現状変更は許可事項になっている。
簿冊8冊の内訳は、国宝指定寺院の修理関係では、「荒見神社本殿」、「東福寺三聖寺愛染堂」、「金地院方丈」、「相国寺本堂附玄関廊」及び「蓮華王院本堂」関係の7冊。その中には、国宝建造物修理伺いに関する書類、設計書、契約書、費用に関わる書類及び勤務記録などが含まれている。史蹟の修理としては、「官幣大社稲荷神社史蹟荷田東満旧宅」に関する修理図面の簿冊1冊。
社寺宝物調査書類
明治12(1879)年から昭和3(1928)年までに何度か実施された京都府内社寺所蔵宝物に関する取調書や目録などの簿冊6冊。文化財保護制度に関する最初の基本法である古社寺保存法は、明治30(1897)年6月制定されたが、それ以前から社寺宝物などの組織的な調査は何度か行われている。
6簿冊のうち「大谷派本願寺什宝物目録(写)」は、明治12年、京都府が内務省達により宝物古器物古文書目録を作成したときの同寺関係分の写。「宮内省検印 社寺美術品目録」は、同19(1886)年、岡倉天心、山懸篤蔵による近畿地区宝物調査の京都府内における検査済み社寺美術品目録。「宝物取調書上京烏丸以西三条以北、紀伊乙訓綴喜久世相楽各郡」は、同21(1888)年の調査時のもの。「社寺人民宝物監査状控」は、同24(1891)年、検査済みの美術品に監査状を渡した際の京都府の控。府内の重要な古美術品台帳としての役割を果たしたと考えられる。「官国幣社宝物貴重什物帳」は、同35(1902)年に官国幣社について古社寺保存法指定の宝物以外の宝物什器類にも管理規則が制定されたのに基づき、同39年府内官国幣杜から提出されたもの。「官国幣社古文書目録綴」は、昭和3(1928)年内務省が官国幣社の宝物、貴重品台帳または蔵書目録中の古文書古記録及び刀剣類月録を提出させたときの京都府内社寺の回答書の綴。
社寺梵鐘その他金属製品保存認定申請綴
昭和17(1942)年、歴史的、美術的価値のある梵鐘や金属製品について第二次世界大戦用の金属供出対象からの除外、保存措置の認定のため各寺院が作成し、京都府に提出した申請書などの綴り1冊。
昭和16年8月30日、鉄、銅または黄銅、青銅その他の銅合金を主たる材料とする物資を供出させるため、勅令第835号「金属回収令」が公布された。しかし昭和17年7月歴史的、美術的価値により保存を必要とするものについては各社寺から保存認定申請書を提出させ、承認されたものは金属類供出から除外された。
本簿冊中には、多数に及ぶ府内各社寺の梵鐘その他の「銅、銅合金及鉄製品保存認定申請」、その写真や概要説明、「銅合金保存認定書」等が綴られている。
社寺明細帳附録
神社明細帳・寺院明細帳の作成後、各社寺から提出された異動届に基づき、その異動事項について各社寺毎に届け出順に記載した簿冊40冊。
各簿冊の表紙に「府学務部社寺課」の記載がある。最初の明治18(1885)年は丹後5郡、丹波5郡、山城8郡の3つに分けているが、第2号以降は府内全域を1冊にまとめている。昭和18(1943)年の第35号まで全39冊と大正7(1918)年頃から昭和14(1939)年頃までの、移転した社寺からの届けを綴じた「社寺新明細帳」1冊がある。
諸藩印鑑帳
日本全国各藩の印鑑と藩名、藩知事名がイロハ順に配列されまとめられた綴1冊。印鑑の大きさは4.5×4.5cmで、明治3(1870)年2月の太政官達によって府藩県に新調するように指示された「方一寸五分」の印鑑に合致する。また、藩名からもこの史料が明治3年中に作成されたと推測できる。この印鑑は駅逓諸関の勘合用ならびに諸種の小事件に使用するもので、印鑑帳はその照合のために備えていたものと考えられる。
神社一覧
神社一覧全、同大社之部、同洛中之部、同愛宕郡之部以下、葛野、紀伊、乙訓、宇治、久世、綴喜、相楽の各郡之部(当時の京都府の管轄区域)の11点。明治3(1870)年2月、太政官は各府藩県に達して、神祇官直支配以外の神社に関する請願等は、地方官において決裁させることとした。さらに同年5月、太政官は、府下の社寺地を総て京都府に管轄させる旨を達した。これらの達および、社寺上知令に基づく諸政策を進めるために作成されたものである。「神社一覧全」は全体を総括した一覧表で、248×2447cm。神社の配列は、大社、洛中、乙訓、綴喜、久世、相楽、葛野、愛宕、宇治の順に、さらに洛中以下は、社地の所有が、町・村・宮座等持と、神主・社人等持とに分けてまとめられている。そして、各まとまりを朱線で結び、その朱線の中央に約60×20cmの貼り出し紙をして、そこに京都府と書き、朱線をそれに繋げて、神社の管轄を示している。末尾に明治四歳辛未正月、社寺掛とある。
大社之部以下の10点は、各神社ごとに約50×17cmの和紙に、所在地・神社名・祭神名・同所境内末社・境外末社・社地所有者を記載し、それを台紙に貼付して一覧表としたものである。各末尾に明治四年辛未秋八月改とあり、神社一覧全の各部分を改正して作成したものである。社地の所有区分ごとにまとめられていること、各グループを朱線で結び、貼り出し紙をして京都府と書いてあることなど、体裁等は「神社一覧全」と同一である。大きさは各点の収録量によって異なるが、平均して、250×400cm位である。寺院については、寺院本末一覧10点がある。
神社財産登録台帳
明治41(1908)年3月公布の「神社財産に関する法律」、同7月公布の「神社財産の登録に関する勅令」により、京都府で明治43(1910)年から昭和18(1943)年までに登録された神社の土地、建物、宝物等の財産台帳32冊。明治政府の神道国教政策により、神社は昭和20(1945)年の宗教団体法の廃止まで国の管理を受けるが、この制度の対象となった神社は、官国幣社、府県社以下の神社で、登録された財産を、地方長官の許可なく担保或いは処分した場合はそれを無効とし、処分する場合において、神社の神職、.氏子総代等の取得を禁じると共に差し押えも禁じた。昭和21(1946)年2月、神社制度に関する諸法規の廃止とともにこの制度も終わった。京都市と各郡毎に別れており、それぞれ土地、建物、宝物の各部に区分されている。この内宝物の部の記録があるのは熊野郡のみ。また、各郡市の貴重品の部が1冊、官国幣社の宝物、土地の部が各1冊、貴重品台帳が1冊、神社財産登録番号簿が1冊ある。
神社寺院所蔵美術刀剣一件
第二次世界大戦終了後、昭和20(1945)年から21年にかけて、連合国による民間武器回収対象から美術的刀剣を除外し文化財として保護するために、京都府が作成した美術的刀剣類所蔵目録とその経過などを綴った簿冊及び所蔵状況調査表を綴った簿冊の計2冊。
「「マ」司令部覚書及美術的刀剣一件」には、美術的刀剣の所蔵目録作成に至る経過がわかる諸文書、GHQからの刀剣許可証一覧、文部省の認定した京都府重要美術品目録、国宝指定刀剣一覧及び連合国総司令官覚書「美術品、記念物並びに文化宗教上の土地建造物などの保護に関する方針及び処慣」に基づく調査に関する書類などが綴じられている。昭和20年10月、ポツダム宣言の武器撤収条項に基づく連合国最高司令官の命により、刀剣類を含む民間所有の武器回収が始まったが、美術的価値の高い刀剣は回収対象から除外され、所蔵許可手続などが示された。京都府では、警察と京都市内警備担当GHQ第6軍第136部隊との間に許可権限をめぐる対立が生じた。同部隊が査定のためすべての美術的刀剣の提出を求めたのに対し、京都府は美術的刀剣の引渡回避を関係機関に働きかけた。12月12日、京都終戦事務局から、美術的刀剣の保護のため早急に目録を作成し提出するよう指示があり、現物の引渡しは中止となった。この間、GHQ、京都府及び国の関係機関でやりとりされた文書が綴じられている。
「神社寺院所蔵美術刀剣一件」には、前述の経過を経て、美術的刀剣の所蔵目録を作成するため、調査を担当した各警察署が提出した所蔵調査表が綴じられている。調査表は、国宝、重要美術品及び社寺に保管されている重要刀剣の3部からなる。
神社明細帳
寺院明細帳と全く同様の経緯で作成された明細帳23冊。山城・丹波地方は明治16年に、丹後地方は明治17年に調製、提出されたと推定される。官国幣社を除く各神社に2部ずつ作成させ、内務省および京都府に一部ずつ備付けられた。昭和20(1945)年の宗教法人令の公布までの間、神社の実態、実数の把握とともに公認神社の台帳としての役割をはたした。上京・下京・各郡ごとに編綴されているが、収録数が多く、取扱いの困難なものもあり、破損箇所もあったことから、全23冊に分冊している。内容は、所在地、社格、神社名、祭神名、由緒、本殿社殿建物、境内坪数、地種目、境内神社、境内遙拝所、境外所有地、管轄庁迄の距離、神官名、信徒総代連署等であり、上・下京および、山城地方の明細帳には、境内の略図が添付されている。神社の廃止については、明細帳は残したまま斜線で削除し、合併についても同様の処理をするとともに、合併を受けた方の明細帳の由緒欄に、その旨を追記している。記載事項の変更については、そのつど欄外に訂正と日付が朱書されている。なお、明細帳の異動事項を記録したものとしては昭和18年度分まで社寺明細帳付録があり、また年度によっては京都府庁文書中に「明細帳異動綴」として残っているものもある。
