古文書解題 「い」から始まる文書
2007年11月30日 更新
飯島氏旧蔵京都関係文書(いいじましきゅうぞうきょうとかんけいもんじょ) 館古474
丹波国何鹿郡小呂村(綾部市)の文政~明治の年貢割付、同村高倉社の祭礼など神事に関する一件、寛永10(1633)年紀伊郡竹田村の加茂川橋掛の勧進の一件、上三栖村に慶応4年設置された太政官制札ほか。26点。
池沢喜兵衛家文書(いけざわきへえけもんじょ) 館古168
高倉六角下ルの池沢家に伝わった資料、7点。明治26(1893)・27年、平安遷都紀念祭協賛会の寄付金通知書等3点のほか、明治28年4月大日本武徳会設立趣旨、大日本武徳会規則、明治28年11月改正日彰尚武会規約、平安神宮信徒敬白文からなる。
石垣町大和屋文書 (いしがきちょうやまとやもんじょ) 館古327
大仏仁王門通の石垣町西側の大和屋の家屋敷に関する文書、3点。(1)家屋敷の所在、軒役を書いた明治元(1868)年「沽券状間尺之控」、(2)文政5(1822)年から明治3年までの「元沽券状之写」、(3)明治3年から同7年までの「御割印券状之写」である。本来、町年寄のもとに残る文書であるが、大和屋が何らかの必要から写したものと考えられる。
石田家文書 (いしだけもんじょ) 館古078
江戸時代、京都所司代に出仕していたといわれる石田家に伝わった文書。10点が絵図資料、3点が文書資料である。絵図資料は、すべて院・門院の葬送関係のもので、宝暦12(1762)年8月22日の桃園院葬送固絵図1点、安永8(1779)年12月10日の後桃園院葬送固絵図1点、弘化4(1847)年11月の新朔平門院のもの7点、不明1点である。これらの絵図は、同家が所司代へ出仕した関係で残ったものと思われる。また、文書は安永7年から弘化2年までの民政一般に関する願・届等を書き留めた「臨時留写」1冊、寛政元(1789)年改「山城国村名高附」1冊、諸家の「系図帳」1冊である。
維新前旧藩奉行所代官管轄 (いしんぜんきゅうはんぶぎょうしょだいかんかんかつ) 館古063
山城・丹波・丹後の各村々の旧領別石高を書き上げたもの。京都府の罫紙が用いられ、丹後が含まれているところから、明治9(1876)年8月の府県統廃合後に作られたと推定されるが、詳細な作成時期は不明である。1冊。
板原家文書(いたはらけもんじょ) 中集古S298
京都市北区に居住する板原家に伝えられた古文書。室町時代から明治期に至る281点。
この文書群は大きく三つに大別ができる。第一群は、室町時代から戦国時代にかけての和泉国に関する文書116点。しかし、この116点の内、板原家文書といえるものは49点で、他は多賀家文書と呼ぶべき文書である。板原氏は多賀氏の内者であり、多賀氏が豊臣秀吉に追討され、断家するにおよんで文書類が板原家に伝わったと考えられる。主なものとしては守護細川氏の感状・安堵状・書状、守護細川氏奉行人奉書などのほか、天正9(1581)年の和泉国指出に関するものがある。第二群は、江戸時代から明治初年にかけての板原家の系図・家伝・過去帳など家系に関する文書33点。江戸時代の板原家は泉佐野(現大阪府)で魚問屋を営んでいたようだが、その関係の文書はほとんど伝わっていない。第三群は、明治期の画家の書状・請取類132点。板原家は明治初年には京都の新町四条上ル小結棚町で友禅染業を営んでいた。家業に励む一方、京都で活躍していた若き画家たちのパトロン的存在で、彼らに友禅の下絵を描かせて生活の面倒を見ていた。そのため多数の画家たちの文書が伝わった。主なものとして浅井柳塘39点・幸野楳嶺13点・菊池芳文7点・村田香谷7点・市村水香4点・森川曽文2点・鈴木百年1点などである。
なお、第一群については「史料紹介 板原家文書」(『資料館紀要』16号 昭和63年3月発行)、第三群については「史料紹介 板原家文書(二)」(『資料館紀要』20号 平成4年3月発行)にて、翻刻掲載されている。
市川家文書 (いちかわけもんじょ) 館古398
三条室町東入ル御倉町で蝋燭商を営んでいた市川(鍵屋)利兵衛家に伝わった文書、446点。同家が町年寄を勤め、御倉町が祇園会において轅町(神輿の長柄を保管する町)を勤めていた関係で、自家経営関係文書のほか、町文書、祇園会関係文書が伝わることになった。そのほとんどが元禄期から文化文政期(1688~1829)のものである。自家経営関係の文書については「生蝋代銀皆済証文」「家屋敷請状」「奉公人請状」などの証文類をはじめ、「蝋燭代値上ニ付口上書」「近衛様御用燈油御出入ニ付一札」や蝋燭屋仲間による「掛金受取通」「店卸勘定帳」「蝋燭之通」などがある。町文書には「御触書写」「町中申合之事」をはじめ、記録類も多く、「御寄会記録覚帳」「御町内諸入用控帳」「御参会持参道具各組ニ山分ケ覚帳」「再勤役中手控」「検地帳写」等がある。また、御倉町を含む下京南艮組内での寄合活動を伝える文書としては、「南艮組内廻状」「寄合申談聞取覚」「参会之献立覚」「年寄役交代報告書」等がある。祇園会関係文書としては、「祇園社寄附覚帳」「祇園御輿御修覆諸職方仕様直段積書」「祇園会地之御控帳」等がある。このほか溝尾村(所在地不明)関係文書15点が含まれているが、その理由は明らかでない。
鴨脚家文書 (いちょうけもんじょ) 館古034 館古042
賀茂御祖神社(下鴨神社)に祝家として奉仕した鴨脚家に伝来した文書、3365点。文書の中心は記録類で、古い年号では鎌倉時代のものもみられるが、大半は江戸時代初期から明治期にかけて写されたものである。家の歴史をかたるものとしては「氏人家鴨県主家伝」「鴨氏名籍」(3冊)などがある。ただしいずれも欠年。神事・祭事に関するものは多く、建久9(1198)年(後世の写)「賀茂下上御幸記」、延宝7(1679)年「鴨御祖社御神宝帳」、元禄7(1694)年「賀茂祭社頭次第」などがある。また、これら諸神事を描いたものに、安永5(1776)年「従切芝還立行粧絵巻」や明和5(1768)年「七社奉幣社頭図」等がある。このほか、「鴨社絵図」「賀茂川近辺絵図」や境内の建物を書き上げた貞享元(1684)年「下賀茂神殿・舎屋惣目録」、また天保8(1837)年から明治6(1873)年までの鴨脚秀静の日記(44冊)がある。さらに、衣装や作法など有職故実に関するもの、社領や近隣などの土地に関するもの、自家の婚礼や葬送など冠婚葬祭に関するもの、入用銀や勘定帳など家の経営に関するもの、和歌・漢詩の手引書や実作である詠草など教養に関するもの、能・謡・蹴鞠などに関するものなど、その記録・文書の種類は多岐にわたる。
井筒屋忠兵衛家文書 (いづつやちゅうべえけもんじょ) 館古133 館古260
御幸町五条上ル安土町に住んでいた同家に伝えられた文書、43点。甲・乙2群に分かれている。甲群は28点で、文化11(1814)年から明治にかけての金銭・奉公人等の証文類である。乙群は15点で、天明8(1788)年から明治にかけての証文類のほか、同家の屋敷図や天保7(1836)年の京洛中洛外家数人名書等が含まれている。
伊藤家文書(いとうけもんじょ) 館古467
明治9~11年の京都府職員の辞令、明治28年京都市街名勝案内新図。6点。
伊藤博文書状 (いとうひろぶみしょじょう) 館古138
三峰(吉井友実)に宛てた書状1通。明治20年6月22日付。内容は勝海舟の口演覚書の処理について意見を述べたもの。勝海舟は、この覚書の中で鹿鳴館での舞踊会や薩長専制の政体を批判していたことがわかる。なお、この書状は大正2(1913)年に開催された明治紀念博覧会に出品されたことが明らかである。
稲荷地口銭関係文書(いなりじぐちせんかんけいもんじょ) 中館古001
元亀2(1571)年4月12日に、ほうさうし興春が東寺諸役者にあて、稲荷祭礼用途地口銭の納入を誓約した文書。鎌倉時代ごろから、東寺領洛中所領には稲荷祭礼のための地口銭が賦課されたが、この文書では、1年300文の地口銭を、興春は2ヶ年続いて未進していたが、これを免除され、当年分を納めるとともに、来年からは期日までに納入することを約束している。上軸背には、「元亀年中古文状 東寺地口銭書附」と墨書され、またこの文書の伝来を朱書している。軸装。
今小路行康書状(いまこうじゆきやすしょじょう) 中館古002
年紀を欠くが、1月26日付で東寺年預にあて、千僧会出仕のこと、法会の導師のことを要請したもの。今小路行康は織豊期の妙法院坊官で、元和2(1616)年に没した。折紙、軸装、桐箱に収納している。
井山家文書(いやまけもんじょ) 館古488
槙村正直の著書、諸書類の雛形等の近代資料。11点。井山家は最上屋喜八家である。
石井家文書(いわいけもんじょ) 館古541
公家石井家より相楽郡菅井村(精華町)庄屋にあてた文書。文久元年。2点。
井脇村文書(いわきむらもんじょ) 館古393
船井郡井脇村(現京丹波町)の庄屋に伝わった文書、63点。主なものは、延宝元(1673)年から嘉永7年(1854)年にかけての本物返シ田地等売券17点、宝永7(1710)年から寛延4(1751)年にかけての田地等売渡証文15点、延宝3(1675)年から寛延3(1750)年にかけての畑地等質入証文12点、正徳2(1712)年から明治10(1877)年にかけての借金証文7点である。他に年貢勘定目録3点、天保12(1841)年の名寄覚がある。
岩倉家日記(いわくらけにっき) 館古182
全12冊。第1冊と他は性格が異なる。第1冊は表紙に「明治十四年七月 御留守中日記 家扶」とあり、同月6日岩倉具視が東京を発してから10月6日東京に帰るまでの留守宅日記。ほかは岩倉具定家の家司日記で明治17(1884)年7月1日から11月1日までの1冊と、明治31年1月1日から明治34年4月までの分10冊である。日記には御出館・御帰館・来書・招請・参殿・御出門などの項目があり、出勤時間・他出した場合の役宅への帰館時間、到来した書状の差出人名、招待者名、来訪者名、役宅から本宅への帰宅時間などが詳細に書かれている。なお家司日記が始まった、明治17年7月というのは岩倉具視の3男具定が岩倉家の家督を継いだときである。
岩倉具視書状(いわくらともみしょじょう) 館古146
明治8(1875)年5月23日付、京都府参事槙村正直宛ての1点。内容は、賀茂下上社人などから内務・大蔵両省へ家禄について内訴があったので、特に京都府でも社頭、家禄等の不分明な点について、内密に調査するよう依頼したもの。
石清水八幡宮領美豆村駕輿丁座文書(いわしみずはちまんぐうりょうみずむらかよちょうざもんじょ) 館古369
石清水八幡宮によって支配された男山門前の八幡八郷に属する美豆村(現伏見区)の元和3(1617)年から天保11(1840)年までの文書、17点。寛文5(1665)・同9年の御朱印取返しに関する「口上書」4通、天和2(1682)年の「六石八斗御朱印明細」、宝暦12(1762)年の「石清水八幡宮領内安堵明細」など朱印状に関するものが多い。
岩本村文書(いわもとむらもんじょ) 館古189
綴喜郡宇治田原の岩本村(現宇治田原町)に関する文政2(1819)年から安政5(1858)年までの文書、13点。内容は借用証文と賃借に関する訴訟の口上書である。
岩森家文書(いわもりけもんじょ) 館古280
桑田郡西条村(現亀岡市)岩森家に伝来した寛永6(1629)年から明治16(1883)年に至る文書、23点。江戸時代では相論の済状が5点、田畠の証文が5点、条目定書および万廻状写のほか「田畑畝高宛口帳」「互借仕法帳」「養子証文」などがある。明治時代は借用金証書のみ5点。近世・近代を通してもっとも古いものは「番時水酒手銭割賦書」(寛永6年10月付)である。
