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古文書解題 「か」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(か行)

2011年3月4日 更新

利田家文書・甲(かがたけもんじょ) 館古067

綴喜郡宇治田原郷の庄屋であり、明治初年には惣代や村長を勤めた利田(かがた)家に伝えられた文書、478点。うち28点が江戸時代のもの、残りはすべて明治期である。江戸時代の文書は、元禄16(1703)年「四ケ村高目録」、天保3(1832)年「禁裏御料村高小物成高書上帳」のほかは、大部分が年貢の免定や皆済目録である。明治期のものでは地租改正に関する史料が23点、うち10冊の「日誌簿」には詳細な記事が見られる。このほか、宇治田原村字奥山田4番組惣代として利田金五郎が記した「日誌録」が、明治29(1896)年3月から同34年5月まで17冊が残っている。また、この地方では山林業が盛んであったために、官地の借用や払下げ、あるいは境相論に関する史料が多く、その関連絵図類も22点ある。このほか議案書・予算書・決算書の綴りなど宇治田原村会に関する文書が20点。利田家に関するものとしては、同家が灰商をしていたために「灰之通」が30点、「万附込日記自家栄帳」47冊がある。このほかは証文類と書状が大部分である。

各商業人調(かくしょうぎょうにんしらべ) 館古496

明治14年の京都府内全郡別の商業人に関する統計書。1点。

家訓(かくん) 館古148

商家の家訓1冊。どの店の家訓であるかは不明。25カ条からなり、「天明二年寅秋西山」の奥書がある。

風間家文書(かざまけもんじょ) 館古326 館古262

葛野郡下桂村(現西京区)に住し、地主・山持ちであった風間八左衛門の家に伝わった文書、甲群100点、乙群33点。明治9年(1876)年から同43年に至る。ほとんどが所有する山林・立木に関するものであるが、中でも伐木願書が圧倒的に多い。樹種を指定するもの、下木・下草をはらうもの、間引きを願うものなど71点。ついで開墾関係で、「開墾願」、「地目替願」、「起返地賦税願」、「開墾地鍬下年期明上申書」などがある。公共奉仕的なものとして、「石垣自費修繕願」関係、「砂防工事献金文書」、献地願・寄付金願が各ずつある。ほかは請願巡査の配置願書が、借用証書、八左衛門の買得証文などである。乙群は証文類が大半で、山売渡証文、田地質入証文、銀子借用証文などである。

加地家文書(かじけもんじょ) 館古195

北桑田郡室谷(しつたん)村(現京都市右京区)の庄屋であった加地家に伝わったもので、寛保2(1742)年から明治5(1872)年に至る252点。室谷村は寛文4(1664)年以来園部藩領となるが、その代官所である「井口役所」(または「井口謙輔」・その奉行)との往復文書が51点あり、うち38点は井口役所からの達・廻状・請取であって、とくにその内2点は「三御代官所」からのものであり、藩内一円に下されたものと推測される。室谷村の庄屋から、他の村の庄屋と連署で井口役所へ上げたものが願口上書・年貢上納通など13点ある。室谷村は、田貫村・佐々江村など近隣の園部藩領諸村と村組(田原組と呼ばれた)を作り行事を持回りして、「小川惣代」と呼ばれる機関と、組割銀の授受などを行なっていた。この村組との往復文書が40点残っており、いずれも請取覚・請求覚などの金銭証文か、書状類である。横帳類には「算用帳」、「年貢請取覚帳」、「諸造用控并使帳」など庄屋としての公文書が多いが、「組割勘定帳」など村組行事の公文書をも含み66点がある。加地家の私文書としては「銀子借用証文」が43点残るが、うち5点は庄屋として請人に立ったものであり公的要素も持つ。なお、最も古いものは寛保2年8月付の「免相目録」で、差出人は「免場(黒印)」となっている。

梶田家文書(かじたけもんじょ) 館古102

宮大工で御所・離宮・御陵の修復に携わった梶田家に伝わったもの、28点。内裏御所関係のものが11点、二条城が2点、桂離宮関係が3点、その他12点に大別できる。さらに内裏御所関係分は、寛政度造営・安政度造営・その他に分けられる。寛政度造営分は禁裏御所御指図、仙洞御所御指図、中宮御所御指図の3点で、ともに文化7(1810)年2月に望月扶嘉により書かれた彩色の書絵図。のち、安政度の造営に際して作事箇所・間尺寸法の変化など、後日の要件も貼紙で付加されている。安政度造営分は、彩色書絵図の紫宸殿御構附属建物図、清涼殿御蔵人廂外4カ所御構附属建物図1点2通と明治32(1899)年に主殿寮出張所で写された安政度禁裏御所准后御殿御絵様出来形書1冊。それ以外の御所関係分として、明治37年現在の御所、桂宮、二条・修学院・桂の離宮、主殿寮出張所等の構坪・建坪・襖絵・建物指図を記した大工の懐中帳1点、明治37年仙洞御所御池在来石橋改絵図1点、主殿寮出張所で記された仙洞旧院之記1点、明治38年調仙洞旧院大宮御所平面明細図1点、旧御苑内旧公卿屋敷図1点、主殿寮出張所指図1点がある。二条城関係のものは、作成時が不明の二条城指図并二条離宮本丸御座所地図1点2通と大正元(1912)年現在の二条離宮平面図1点である。桂離宮関係分は、昭和29(1954)年に梶田房子氏によって写された桂離宮之記2点、桂離宮誌1点である。その他、明治39年の九条家墓所築営明細書1点、石棺等之図1点、御陵所設備之図(青写真)1点、某寺方丈木竪組之図1点、常照寺之図1点、正法寺之図1点、大師堂小屋組建絵図1点、明治20年梶田記の見分録1点、愛宕郡修学院村地籍図1点、同郡高野村地籍図1点、故実叢書中昔京師地図1点、日本政記(1)(木版本)1点がある。

片山安右衛門家文書(かたやまやすうえもんけもんじょ) 館古336

船井郡大簾村(現京丹波町)片山安右衛門家に伝来した、安永8(1779)年から明治32(1899)年に至る文書、38点。安政5(1858)年1月、安右衛門は2点の分地証文により、本家片山常右衛門から山林・田畠の分地を受け、分家を立てた。これ以前に11点の山林・田畠・屋敷の売渡・質入証文があるが、直接には安右衛門に関わらない。分家後の同種証文は5点。横帳が4点あるが、祝儀の控など私文書のみ。冊子に明治6年の「丹波国六郡旧地頭御領私領高集帳写」があり、71紙の大冊である。ほかに、慶応(1865~68)ごろの園部藩代官井口謙輔からの達が2点ある。

桂宮家領村関係絵図(かつらのみやけりょうむらかんけいえず) 館古481

桂宮家領(川勝寺村、宿村、下桂村、徳大寺村、御陵村、開田村)の村絵図 21点。主なものに正保2(1645)年「開田村絵図」、享保21(1736)年「桂川井関用水樋粗絵図」、文化元(1804)年の桂宮家領村々の絵図、明治2年の桂川筋堤見分の絵図等がある。

狩野家文書(かのうけもんじょ) 館古254

綴喜郡上奈良村(現八幡市)の医師吉田意安領の庄屋であった狩野家に伝えられた文書、8点。延宝7(1679)年上奈良村検地帳、元禄7(1694)年淀町助郷村定、元禄12年上奈良村検地野帳、文化4(1807)年上奈良村名寄野帳、天保15年(1844)年山城一国惣高集帳、元治元(1864)年宗門改帳、慶応4(1868)年免割帳、明治4(1871)年村定がある。

上京下一条組古町中文書(かみぎょうしもいちじょうくみふるまちちゅうもんじょ) 館古501

文化14(1817)~文政元(1818)年の町代改義の一件に関わる資料。御答書之写。1点。

上京第廿一区弐拾二町組月行事記録(かみぎょうだいにじゅういっくにじゅうにちょうぐみつきぎょうじきろく) 館古271

丸太町通北、御所の西側にあたり、春日町など22町で構成されていた上京第21区の記録1冊。同区では、明治9(1876)年11月に月行事の順序を定めていたが、このときから明治15年までの間に、月行事によって作成された記録である。

上下京惣紅屋仲間文書(かみしもぎょうそうべにやなかまもんじょ) 館古136

総点数5点。天明4(1784)年の御用達紅花仲間拾弐軒願立一件之写、文化14(1817)年禁裏御宦服山科様御調進御用紅花一件のほか、残り3点は嘉永年間の仲間再興に関するもので、嘉永6(1853)年12月付「上下京惣紅屋名前帳」「御用紅花撰方仲間名前帳」と、安政3(1856)年3月までの「仲ヶ間再興諸用留」である。

亀屋町文書(かめやちょうもんじょ) 館古132

河原町通荒神口東入る北側の亀屋町(通称吉田口亀屋町)に伝えられた町文書、6冊。第1冊は表題が欠けているが、御触・町控・口上書などを書きとめたもの。寛文10(1670)年から明和8(1771)年の記事が含まれているが、必ずしも編年になっておらず、成立の事情は明らかでない。第2冊の「覚」は、前述のものと同じ目的で作成されたものであるが、ほとんどが借屋請状。宝暦2(1752)年から明和8年までの記事を含む。第3冊の「式目帳」は寛政12(1800)年から文政8(1825)年までの借屋請状である。他は、明和4年沽券改の控、明治3(1870)年の「御布令書之写」、明治7年の町中地券の写である。

賀茂川堤奉行角倉関係資料(かもがわつつみぶぎょうすみのくらかんけいしりょう) 館古498

安政5(1858)年の角倉氏の総領変更願書。1点。

加舎家文書(かやけもんじょ) 館古234

明治前期に高辻通新町西入ル堀之内町で高辻会社と称し運送業を営んでいた加舎家に伝えられた文書、3点。加舎宗忠の「見聞録」と表題された同町各家の建坪・地価の一覧や京都府への口上書の写などの町記録的記事と軽運車の寸法書や運送賃などの控が記されたもの。他の2冊は、加舎辰茂の明治20(1887)・21年と同22・23年の日記。なお、この文書の中心部分は関西大学図書館が所蔵しており、『関西大学法学論集』の33編の1から35編の2まで6回にわたって翻刻されている。

唐橋村禁裏御領庄屋文書(からはしむらきんりごりょうしょうやもんじょ) 館古250

葛野郡唐橋村(現南区)の禁裏領の庄屋某家に伝えられた文書、23点。用水関係の史料がもっとも多く安政年間(1854~60)を中心に7点。内検帳3冊のほかは、まとまりを欠くが、宝暦5(1755)年9月他国藍回送停止ニ付口上書、天明5(1785)年4月家数人別牛馬数改、寛政6(1794)年6月村定書、同8年6月村掟帳などがある。

仮御役中日記(かりおんやくちゅうにっき) 館古464

二条城にあった御蔵を管理する番衆の享保16(1731)年1月分の勤番日記。1点。1ヶ月分しかないが、畿内近国から搬入される米の量、払い出しの量等が記され、また京都町奉行所、角倉、小堀、京都市中の庶民への米の供給の大本締めであった米会所等の記事もある。この日記により、御蔵の活動内容がしれ、また当時の米の動きをしることができる。 

革嶋家文書(かわしまけもんじょ) 中館古004

京都市西京区川島の革嶋家に伝来した文書、2129点2744通。昭和49(1974)年当主の革嶋廉三郎(故人)氏が、家伝の文書を長く後世に残すため、当館に寄贈された。内容は鎌倉時代から大正年間までの約800年に及ぶ革嶋家の歴史を物語るものである。革嶋家の祖は、鎌倉時代初期の常陸介佐竹隆義の弟の義季で、源頼朝の佐竹討伐の際に山城国葛野郡革嶋南庄に逃れ、同庄の領主近衛家の下屋敷に蟄居したと伝えられている。やがて、革嶋氏を名乗り、代々革嶋南庄の下司職を相伝した。南北朝時代には、革嶋幸政が足利尊氏に従って軍功があり、幕府御家人に取立てられ、同庄の地頭職に補任された。戦国時代、親宣・泰宣の代に近郷の田地を買得し、京郊西岡一帯の有力な在地領主に成長した。織田信長が入洛すると、これに従い、細川藤孝・明智光秀らの下で軍功をあげたが、豊臣秀吉の時代に、明智との関係を疑われて牢浪となり、江戸時代を迎えた。江戸時代の革嶋家は、革嶋の旧地に居住し、牢人として苗字帯刀を許される身分を保ち、一時は備後福山藩水野家に仕官したり、公家の鷹司家に奉公したこともあった。また、肥後細川家からは、江戸時代を通じて扶持米をうけ、藩主の参勤交代の際には大阪・伏見において御目見得を受けていた。江戸中期の著名な儒者で大阪懐徳堂塾主中井竹山は革嶋家の姻戚にあたり、竹山は革嶋家々産の再建に尽力。幕末には、当主有尚が尊攘運動に加わり、肥後、薩摩、長州の諸藩士と交流を持ち、維新の戦争では有栖川宮の下で旗本隊軍監を勤めた。維新後、有尚は病気のため政府への出仕ができず、士族にも列せられず不遇の時代を送ったが、大正2(1913)年に長年の運動が実って士族編入が認められた。有尚の子?太郎は、医学を学び、医家としての革嶋家の基礎を築いた。革嶋家文書は、このような革嶋家の長い歴史の中で、蓄積された。約2000点のうち成巻されたり、特別の箱に収納されている別編の文書が59点、それ以外の中世文書が137点、近世文書が約1600点、近代文書が約450点。別編文書は革嶋家の重書類である。革嶋南庄下司職文書1巻16通は、革嶋氏がはじめて革嶋南庄下司に補された補任状や、同庄の鎌倉時代末の坪付絵図など、中世の革嶋氏の最も重要な文書である。「家宝遺墨」4巻(上・下・乾・坤)は、織田信長・羽柴秀吉・細川藤孝・明智光秀・滝川一益・柴田勝家ら信長とその重臣らの文書を編集したもので、他に数通の戦国期の幕府奉行人奉書を収める。江戸時代に細川家との関係を意識して、家宝として成巻したものと考えられる。「細川家中判物」2巻14通は、江戸時代、細川家の慶弔や御目見得について、革嶋家に通達した諸文書を集めたものである。「三条西実隆・公条消息」1巻5通、明智光秀・里村紹巴・玄仍連歌切1通、「諸大名花押文書切聚」は、文人革嶋幸元らの蒐集品であろう。幸元は、17世紀後半から18世紀初頭の人で、「源氏佐竹革嶋之系図」1巻および、「源家革嶋之伝記」1巻(ともに「続群書類従」所収)を編纂し、「農書」「地方意通心得序」をも著わしている。「中井竹山手記帳面并願書案」5冊は、竹山が革嶋文蔚の後見人として、家産の管理、再建に当たったときの帳簿類である。中世文書は、正嘉2(1258)年法花寺供田関係文書をはじめとして、室町・戦国期に革嶋親宣・泰宣らが、買得した土地の証文類とその証拠書類が大半を占める。その他、革嶋南庄下司職関係文書および尊氏に従い同庄地頭職を得た文書の案文類がある。近世文書は、革嶋家の田地の本物返買売券や三宮神田の年貢皆済書などの土地・年貢関係文書、その他家事にかかわる金銭の請求・請取類が、半数を占める。その他、幸元の水野家仕官関係文書、鷹司家への奉公(関東下向扈従)関係文書、中井竹山の計らいによる文蔚の肥後下向関係文書、細川家中や阿蘇大宮司らからの書簡類、さらに、幕末の尊攘志士からの手紙や、有尚自身の薩摩藩京屋敷潜伏中の見聞録などが主なものである。近代文書としては、品川弥二郎や高崎正風らとの交友を示す書簡類、有尚の陵掌や大原野神社宮司としての活動を示す文書類および士族編入運動に関するものがある。絵図として、中世の地侍の館を窺わせる革嶋家屋敷絵図など21点が含まれている。なお、平成15年に国の重要文化財に指定されている。

川嶋村文書(かわしまむらもんじょ) 館古351

葛野郡川嶋村(現西京区)の庄屋仁左衛門家に伝えられた文書、13点。もっとも古いのは延宝7(1679)年6月の同村検地帳である。検地帳はほかに天明6(1786)年10月の同村「新田検地帳」があり、京都郡代小堀数馬邦直の署判・割印がある。宝暦10(1760)年3月の「山城国中八郡村高」は写である。ほかに嘉永6(1853)年2月「和宮様御領御渡之分川嶋村高反別小前帳(東蔵分)」と、同1日付で同様の「小前帳」が3冊ある。残りは寛政10(1798)年12月「仙洞料免割帳」、享和3(1803)年11月「禁裏様免割帳」、嘉永6年「初納銀取集覚帳」、安政4(1857)年12月「免割上納取集帳」の4点。ほかに嘉永5年10月の高札屋形の普請願などがある。

革棚町文書(かわだなちょうもんじょ) 館古192

四条通新町西入ル革棚町(現郭巨山町)の文書、20点。すべて宗門人別改帳である。弘化3(1846)年から明治元(1868)年のものである。

鑑札(かんさつ) 館古560

商売仲間(株仲間)の鑑札。寛政12(1800)年綿屋仲間札、嘉永7(1854)年上菓子屋仲ヶ間札、安政5(1858)年極札。3点。

管内図(かんないず) 館古429

全国の管内図を中心とした地図、29点。大部分が明治期に作成されたもの。京都府については京都府管内地図3点をはじめ、京都市実測図、伏水絵図、京都伏見間道路地図、船井郡蒲生野牧場一円の実測図の7点。また、近畿地方の地図は、「摂津国能勢郡、丹波国桑田郡国界図面」「滋賀県管内実測図」「琵琶湖疏水址図」の3点がある。

神原善三郎家地券(かんはらぜんざぶろうけちけん) 館古306

加佐郡神崎村(現舞鶴市)の神原善三郎家に伝わった地券、27点。明治10(1877)年から同21年までのもの。地域は加佐郡東神崎村・西神崎村のものである。