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古文書解題 「き」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(か行)

2012年6月8日 更新

菊岡家文書(きくおかけもんじょ) 館古549

京都馬借山城屋清左衛門家の文書。二条蔵米元帳、荷物の受取帳票・人足割表、近代運送業関係資料、家普請一件書類、近代書状類、講関係資料ほか。幕末~大正年間。992点。

木崎家文書(きざきけもんじょ) 館古545

京都府職員の辞令類。明治5~21年。51点。

北尾家文書(きたおけもんじょ) 館古084

江戸時代には葛野郡西七条村(現下京区)の天領分の庄屋であり、明治初年には同村の戸長を勤めた北尾家に伝えられた文書、56点。うち9点が江戸時代のもので、他は明治期のものである。江戸期のものとしては寛政12(1800)年の五人組改帳、文化3(1806)年の百姓貯夫食并御下殻囲高帳、文政12(1829)年の畝高名寄帳などがある。明治期のものでは、明治6(1873)年までの租税の定状・仮状・皆納目録15通。明治5年地券願綴帳・同8年内見帳・同11年一筆限帳など地券発行と地租改正に関するものが7点。ほかには、国・地方税や学校費の徴集に関するものが多い。

北垣国道関係資料(きたがきくにみちかんけいしりょう) 館古440

京都府第3代知事北垣国道に関する資料、37点。文書6点、写真24点、揮毫6点、北垣家々絞入り大袱紗1点からなる。文書資料のうち2点は榎本武揚に宛てた北垣国道書状で、明治19(1886)年5月12日付のものは母葬儀に際しての礼を述べたもの、同27年1月31日付のものは農商務大臣の職にあった榎本に対し、次官として山内堤雲を推挙したものである。3点目の北垣書状の下書は、三男旭に関する内容のものである。4点目は7月23日付の母からの書状。5点目は明治44年の辛亥革命で清国に武官として赴任している旭に宛てた建仁寺の僧島地黙雷の書状。6点目は故池田旭表白文である。写真資料は北垣国道、榎本武揚、島津忠重(公爵)、瓜生外吉(海軍大将)、池田旭等の肖像写真や田辺朔郎夫妻の金婚式を撮ったもの。揮毫は北垣国道のもののほか、田辺静子(朔郎の妻、国道の長女)のものがある。

北垣国道書 銘文拓本(きたがきくにみちしょ めいぶんたくほん) 館古469

三重県鍬形水力発電所取水トンネル口に刻まれた北垣国道が記した銘文の拓本。1点。

北川家文書(きたがわけもんじょ) 館古508

京都市左京区の米穀商の文書。米の仕入れ・販売・集金に関わる台帳類。明治22~昭和11年。32点。

北小路家文書(きたこうじけもんじょ) 館古307

もと近衛家に諸太夫として仕えた北小路家に伝えられた文書、11点。明治4(1871)年1月から同21年にかけての「諸願伺届留」と北小路俊良書状1通のほかは、すべて届類である。

北野神社文書(きたのじんじゃもんじょ) 中館古006

全5通が1巻に成巻され、印文「天満宮印」(陽刻)の朱印が捺されている。北野神社の神宮寺政所から出された社僧(大法師禅尭・権上座禅興・大法師禅春)の補任状3通と寛永13(1636)年11月6日付の社領割付目録および社法等覚である。

北袋屋町文書(きたふくろやちょうもんじょ) 館古513

北袋屋町(現在の下京区船鉾町)の祇園会についての元禄~文化年間頃までの記録「祇園会地之口古例帳」、天保13(1842)年「祇園会質素倹約帳」。2点。

木津小寺村喜多家文書(きづこでらむらきたけもんじょ) 館古606

木津郷小寺村(現在の木津川市)で荷継問屋を営みながら一条家領の庄屋役等を務めた亀屋幸右衛門家(喜多家)に伝来した文書。宝暦12年(1762)~明治35年。336点。小寺村の領主は一条家・禁裏・冷泉家・大山崎離宮八幡宮と複数おり、それぞれの領主に支配されていたが、一方で木津郷としてのまとまりをもつ地域でもある。金融関係の資料が多く、亀屋が広域に金融業も営んでいたことがわかる。ほかに領主一条家との関係を示す資料(春日社参向や石焼竈ほか)、金融訴訟、打ち壊し事件、博奕捕縛一件等、木津郷の村落の諸相がわかる資料である。

吉祥院村文書(きっしょういんむらもんじょ) 館古220

紀伊郡吉祥院村(現南区)の耕地整理などに関する図面12点。年未詳、彩色。

木戸孝允書簡(きどたかよししょかん) 館古231

木戸孝允の書状3通を1巻に成巻したもの。1通目は1月4日付で孝允名義、宛名なし。華士族削禄・民選議院(設立)に論及しており、明治7(1874)年のものと推定される。2通目は8月16日付「来島」名儀で村田宛。3通目は木戸準一郎名儀で山田市之允(顕義)宛。2・3通目はいずれも会談の連絡である。なお巻末に、自筆であること、来島(又兵衛)の匿名を称した事情に関する看雨(村田峰次郎)の奥書がある。

木下家文書(きのしたけもんじょ) 集古M138

何鹿郡里村(現綾部市)の木下家が所蔵する文書。132点。木下家は近世山家藩の大庄屋も勤めた家である。元禄~明治期。近世中期の田地・山等の売渡証文類、綾部の古刹仏南寺の銀請取覚、明治期の地券御渡願控、享和~文政頃の山家藩諸事覚等がある。

旧丹波町関係古文書(きゅうたんばちょうかんけいこもんじょ) 館古581

旧丹波町(現京丹波町)地域の資料。旗本武田家領高屋村寺井家文書(593点)、園部藩領坪井村文書(7点)、亀岡藩領八田下村古田家文書(55点)、その他(2点)。寺井家は旗本武田家領村々の大庄屋役も務めた。中心は寺井家文書で、慶安元年(1648)の検地帳、寛政8年(1796)・天保4年(1833)の田畑名寄帳、宝暦6年(1756)~嘉永3年(1850)の年貢免状、天明8(1788)年~嘉永3(1850)年の年貢勘定帳、寛政元年(1789)~嘉永4年(1851)の川除普請帳、田畑売買・借金証文類、文化7年(1810)・同13年・文政2年(1819)・同4年・嘉永3年(1850) ・同4年の人別改(宗門改、家数牛馬員数改等)、旗本武田家家臣からの礼状、幕末の事件に関わる一件(嘉永7年ペリー来航対応のための江戸御用、慶応4年弓削村騒動、慶応2~4年助郷免除の一件など)、旗本武田家領の村々大庄屋役に関わる文書、明治維新後に旗本武田家領から久美浜県へ管轄が移行する時期の提出書類等がある。慶安元年(1648)~昭和10年(1935)。657点。

旧幕府関係資料(きゅうばくふかんけいしりょう) 館古043

明治新政府の成立した当時に所司代をはじめとする旧幕府諸機関から京都府に移管されたと考えられる文書、15点100通。京都府の旧1号書庫に収蔵されていた。(1)朱印状、木箱2函に納められている。第1函は上蓋に「温恭院様 御代替ニ付 御朱印」と墨書されていて、中には安政2(1855)年9月11日付徳川家定朱印状11通が納められている。内容はいずれも代替りにあたっての所領安堵である。宛名は上賀茂祝子・龍田大明神本宮・貴布禰明神・(中大路甚助 岡本下野)・上賀茂社家中・岡本越後・松下三位・森周防・誓願寺・大和法隆寺・(上醍醐)・龍光院である。第2函にも「御代替ニ付寺社 御朱印」と墨書され、万延元(1860)年9月11日付の徳川家茂朱印状31通が納められている。宛名は上賀茂祝子・龍田大明神本宮・貴布禰明神・(中大路甚助 岡本下野)・上賀茂社家中・岡本越後・松下三位・森周防・誓願寺・大和法隆寺・摂津住吉社家中・山崎八幡宮・京都二条秋野道場・五条前中納言・武者小路三位・花園前少将・本国寺・東山永観堂禅林寺・四条寺町勝円寺・三条円福寺・本能寺・清水寺・五条市屋道場金光寺・妙蓮寺・本法寺・妙心寺・三条宝幢院・東福寺・大和安養寺・大和法徳寺・和泉顕本寺である。(2)御朱印返納帳、天明6(1786)年12月戸田因幡守から元治元(1864)年4月松平越中守まで稲葉長門守を除く歴代京都所司代の「御朱印返納帳」33冊。このほか京都所司代が在京せず配下の武士が受取った時に作成された「返上御朱印入記」が10冊ある。これは、返納帳に比べて小型であるとともに記載内容も詳しい。なお、ここにいう御朱印というのは、朱印伝馬手形のことである。(3)返納朱印伝馬手形綴、朱印伝馬手形というのは、公家・武家・寺社などが公的な目的で往来する時に伝馬を支給するために出された朱印手形のことである。与えられた人足と馬の数が記されており、これを各宿場の問屋に示すことにより人馬の提供を受けることができた。目的を終えて帰着した時には、この手形を発行者に返納しなければならなかった。この綴は京都所司代が発行した朱印伝馬手形の返納されたものである。ただし、綴られたのは京都府の手に移ってからであると判断される。時期は安政5年11月4日から慶応2(1866)年10月2日までのものである。(4)(5)所司代注進留2冊、1冊は文化5(1808)年の7月・8月に京都所司代阿部播磨守正由が幕府に宛てた注進状を書き留めたもの。いま1冊は、嘉永元(1848)年4月の京都所司代酒井若狭守忠義の注進状を書き留めたものである。(6)来翰留1冊、京都所司代大久保加賀守忠真の許に寄せられた公的な書類を書き留めたもので、大部分は老中からの指示。期間は文化13年1月から6月にいたる。(7)(8)例幣使道中雑用請取帳、宝暦6(1756)年2月に日光例幣使を勤めた五条実栄と同年9月に伊勢例幣使を勤めた藤波和忠の道中の雑用の請取に関する帳簿2冊。内容の形式は勅使以下衛士にいたる、それぞれの請取を書写した上で出納が算用し、伝奏が奥書を加えて京都代官に提出し、さらに京都所司代が奥判を加える形になっている。この2冊は、京都所司代松平右京大夫輝高が奥判を与えるに際して、書き写したものである。(9)幕律、「公事方御定書」下巻の写である。寛保2(1742)年に、この書が完成したとき、編纂の中心となった老中松平左近将監が同年4月付の奥書で「奉行中之外不可有他見」と記した如く、現在の三奉行と京都所司代・大坂城代にしか与えられなかった。(10)法令百箇条、右に同じ。(11)丹波国郷帳、丹波一国の元禄郷帳で、元禄13(1700)年11月付で福知山藩主朽木伊予守・園部藩主小出伊勢守・柏原藩主織田山城守が提出したもの。(12)華頂畑・粟田山下畑絵図、弘化元(1844)年冬の作成と記されているが、作成目的は不明。(13)御土居絵図、洛中の記載を省略し、周辺のお土居だけを記したもの。絵図の成立年代は明らかでない。貼り紙で安政年間の状況変化が記されている。注目されるのは絵図の裏表紙に市中取締役の「膳所 篠山 高須蔵」と記されている点である。慶応3年12月13日に膳所・篠山・亀山の三藩に市中取締役が命じられるが、翌年2月21日亀山藩主松平図書頭が親征に供奉することになり役を免ぜられ、さらに、3月4日に多度津藩にかわり、高須藩にかわる。その高須藩も同年閏4月29日には役を免じられているから、三藩が揃うのは慶応4年の3月4日から閏4月29日までの約2ヶ月間ということになる。同時に、この絵図が市中取締役所において、日常の仕事に利用されていたことがわかる。(14)改正京町絵図細見大成、天保2(1831)年7月の開版で書肆竹原屋好兵衛が発売したもの。この版の絵図は数多く伝わっている。ただ、裏表紙に「天保2年卯秋新調 西証文方蔵」と記されていて、絵図が発売された直後に町奉行所が購入し、西町奉行所の証文方において日常の政務を処理する際に利用されていたことがわかる。さらに、この西証文方蔵を墨抹した上で、「膳所 篠山 高須」と記されており、その筆蹟は、さきの御土居絵図に三藩の名前を記したものと一致する。市中取締役所は最初、烏丸三条の旧教諭所におかれるが慶応4年1月11日に東町奉行所に移されている。この絵図が西町奉行所から市中取締役に移り利用されたことが明らかになる。(15)御陵并帝陵内かと御沙汰之場所組与力共差遣為伺候書付写、内容は表題の通りで明らかであるが、さらに、表紙に戸田能登守とあり、奈良奉行が大和の御陵について調査し、京都所司代に報告したものと推測される。調査の年次は不明であるが、戸田能登守氏著の奈良奉行在任期間は嘉永5年10月18日から安政5年8月23日までである。

旧峰山町役場所蔵文書(峰山藩関係文書)(きゅうみねやまちょうやくばしょぞうもんじょ) 集古M140

京丹後市が所蔵する峰山藩関係文書。御用諸事記、社寺日記、掟、士卒家禄帳等。延宝3(1675)~明治7年。26点。

京市中取締同心日誌(きょうしちゅうとりしまりどうしんにっし) 館古456

京都市中取締役所に勤務した篠山藩士が記した当時の公務日誌と、任務終了後、藩に戻ってからの断片的な役務に関わる日記の2冊。京都市中取締役所は京都町奉行所廃止後、慶応3(1867)年12月から同4年3月まで置かれた組織で、京都府の前身にあたるものである。

京下鴨神社文書-鴨脚家-(きょうしもがもじんじゃもんじょーいちょうけー) 集古M135

明治大学博物館が所蔵する資料。当館所蔵の「鴨脚家文書」(鴨脚家は下鴨神社の祝家)の関連資料である。

京図名所鑑(きょうずめいしょかがみ) 館古538

木版刷りの京都名所案内図。安永7(1778)年。1点。

京町人永昌録(きょうちょうにんえいしょうろく) 館古121

古記録・古老の伝聞の写。幕末期の写と思われる。1点。町戸口・員数、町代雑色のこと、地子免除のこと、所司代・京都町奉行の歴代の名前、主な触など京都の基本的な情報がまとめられている。

京都堅木地職仲ヶ間定書(きょうとかたきじしょくなかまさだめがき) 館古568

洛中洛外・近江・丹波の木地師仲ヶ間の定書。近江を拠点にする木地師仲ヶ間独特の定めである。天保2(1831)年。1点。

京都関係版本図(きょうとかんけいはんぽんず) 館古035

京都府庁に所蔵されていた京都の木版地図7点及び書写図8点。天保3(1832)年刊行のものとして「京町御絵図細見大成」(彩色)と「京町絵図細見大成」2点がある。後者の裏表紙には「西証文方蔵」の書入があり、京都町奉行所で実際に使用されていたことがわかる。慶応4(1868)年再刊「京町御絵図細見大成」は5点あるが、それぞれ彩色・軍務官・番組の記載などに少しずつ異同がある。書写図には「中昔京師地図」「京師応仁前之図」(中古京師内外地図)「古今都細見之図」「京都慶長度市中図」「平安城東西南北町並之図」、天和元(1681)年刊「新板平安城并洛外之図」、宝永6(1709)年刊「京絵図」、天明7(1787)年刊「早見京絵図」がある。

京都久世家文書(きょうとくせけもんじょ) 集古M137

明治大学博物館が所蔵する資料。堂上方公家久世家の文書のうち所領(中久世村等)に関するもの。日記・雑記等。229点。

京都学区絵図(きょうとがっくえず) 館古343 

学区図11点とその他の絵図、4点。明治元(1868)年末、京都府はいち早く小学校開設の方針を明らかにし、翌2年5月に上京第27番組小学校(柳池校)が開設されたのに引続き、同年末には市各番組を母体に64の小学校が発足する。したがって、小学校と町々の関係が深く、このような絵図が作成される原因となっている。学区図は上京第26区(教業校)総絵図(明治6年11月)・上京1番組(乾隆校)之惣町数26町古絵図面(明治2年4月)・上京第12学区(元16組)(聚楽校)図・上京14学区(出水校)総図・上京8区(桃園校)総図・上京5区(室町校)総図・上京第15学区(待賢校)之図・下京25区(稚松校)之図・下京第8学区(粟田校)之図(明治31年10月)・下京第15組(有隣校)測量縮図・下京第21区(六原校)内縮図の11点。このほか「下京区今熊野字東林寺絵図」「編入前大宮村略図」「東九条村師団道路希望略図」「平安神宮鎮座式之図」(明治28年3月)がある。

京都市商品陳列所・工芸館守衛日記(きょうとししょうひんちんれつしょこうげいかんしゅえいにっき) 館古300

京都市商品陳列所とその後身である工芸館の公用日記、4冊。京都市商品陳列所は明治42(1909)年に市内の重要物産の輸出振興をはかる目的で常設の商品展示場として、岡崎公園内の現京都市美術館の一画に建てられた。大正15(1926)年に京都市工芸館に、ついで昭和4(1929)年に京都市商品陳列館と改称した。京都市商品陳列所の日記1冊は大正14年2月から8月のもの。他は京都市工芸館のもので、昭和3年1月から8月、昭和3年9月から同4年6月、昭和4年6月から同5年3月までの3冊である。

京都出火之次第(きょうとしゅっかのしだい) 館古512 

天明8(1788)年の大火について記したもの。1点。

京都諸酒仲次組合連合名書(きょうとしょさけなかつぎくみあいれんごうめいしょ) 館古328

木版刷りの京都酒類仲次商の組合員名簿6点。明治17(1884)年、同19年、同21年、同26年、同28年、大正2(1913)年のものである。

京都市立第二高等小学校教育資料(きょうとしりつだいにこうとうしょうがっこうきょういくしりょう) 館古310

明治36(1903)年3月「京都地方言并訛言調査表」、明治37年3月「時局問題を教育上に活用する方法」、明治40年5月「装丁検査施行上の所感」の3点。

京都新報社関係文書(きょうとしんぽうしゃかんけいもんじょ) 館古196

油小路御前通下ル(下京区)に所在した京都新報社で作成された文書、29点。すべて会社経営に関する帳簿で、明治26(1893)年から同30年にかけての「印刷広告料収入簿」「活版インキ通」「製本通」「新報発売台帳」「社員俸給渡簿」などがある。

京都疏水遊船会社創立一件書類(きょうとそすいゆうせんがいしゃそうりついっけんしょるい) 館古362

京都疏水遊船合資会社の書類を1冊にまとめたもの。同社は遊船61艘を使用し、疏水を利用して大津・山科・京都・伏見に乗客を運ぶ目的で、明治27(1894)年1月に創設され、同年12月に免許を受けた。同社の定款・議案書・契約書・業務規定など、同社に関する明治27年分の書類が整理されている。同社業務担当者(社長)横井達次郎の手によってまとめられたものと推定される。

京都武鑑(きょうとぶかん) 館古457 

京都所司代、京都町奉行所の役人など幕府の京都関係役人の名簿である。文化6(1809)年版。1点。

京都武鑑(きょうとぶかん) 館古511

京都所司代、京都町奉行所の役人など幕府の京都関係役人の名簿である。弘化4(1847)年版。1点。

京都府地券掛旧蔵文書(きょうとふちけんかかりきゅうぞうもんじょ) 館古081

京都府の地券掛から京都府旧1号書庫に移された文書、835点。「証拠書類入 地券掛」と墨書された木箱に入れられていた。江戸時代から明治初年の土地の売券や譲状、証文など権利関係を示す文書ばかりである。文書の内容や、箱に「地租改正関係書類」「土地ニ関スル旧証拠書類」の押紙が貼付されていることを考え合わせると、地券発行の際の証拠書類であったと判断される。地域的には洛中・山城各郡のものが多く、他は丹波関係が63点、丹後に関するものが2点である。

京都府立医科大学学友会文書(きょうとふりついかだいがくがくゆうかいもんじょ) 館古371

京都府立医科大学の学友会館建設に関するもの4点。内容は昭和初期と推定される建設趣意書、建設資金徴集内訳、建設実行委員名簿、建設発起人名簿である。

京都町奉行所御番方与力覚帳(きょうとまちぶぎょうしょごばんかたよりきおぼえちょう) 館古412

京都町奉行所の番方与力のために寛政年間に記された勤務手引書。1点。番方とは、もともとは役方(文官)に対する武官のことを意味するが、町奉行所では見習いや新人が最初に配属される部署として位置づけられ、祭礼の警固、死罪や引き回しの検使、番所の受付、宿直、出火の際の出動・見分等、雑多な仕事を受け持っていた。心覚、文例、出役心得、追放之覚、御番方与力勤書、目安出方、例年訴并届書抜、当番毎日心得方、文例、守備不入箇条書、御下知留、御月番御先番行列、御非番方御先番行列ほかについて記されている。資料館紀要37号に翻刻掲載。

京都町奉行東御役所絵図(きょうとまちぶぎょうひがしおやくしょえず) 館古550

京都町奉行東御役所の天明の大火以後の絵図。1点。

京都盲唖院等平面図(きょうともうあいんとうへいめんず) 館古053

建築平面図4点。明治11(1878)年、京都府が我が国最初の盲聾学校として設置した京都盲唖院が、翌12年正式に府立学校となり、府庁前(現第二日赤病院)に移転した際の平面図、敷地図。他に大阪中学校と某郡役所の図面がある。

京都遊覧電気鉄道株式会社創立事務所文書(きょうとゆうらんでんきてつどうかぶしきがいしゃそうりつじむしょもんじょ) 館古208

京都遊覧電気鉄道会社に伝えられた文書、6点。同鉄道会社は明治39(1906)年12月に創立事務所を開き、明治40年5月に設立申請書を提出した。路線は三条粟田口を起点に動物園・銀閣寺・百万遍を経て、嵯峨・清滝を結ぼうとする大規模なものであった。明治40年の「京都遊覧電気鉄道株式会社発起申請書」「京都遊覧電気鉄道株式会社起業目論見書并ニ工事設計概算書営業上収支概算書」によって、計画の大要がわかる。このほか、明治39年12月に始まる「日誌」「収入簿」と明治40年5月「郵便発着簿」がある。明治42年11月8日、京都在住の発起人会が開かれ、事業計画の進捗状況の検討がされるが、この時の「決議録」1点がある。

京都暦道御用諸用留(きょうとれきどうごようしょようとめ) 館古301

京都御暦御用所大経師蜂谷内匠明晴の許に寄せられた来翰とその返書を書き留めたもの1冊。明治2(1869)年6月から同6年12月までの記事がある。

切支丹制札(きりしたんせいさつ) 館古020

江戸幕府・明治政府がキリスト教・邪宗を禁じた制札、3点。正徳元(1711)年5月(39.3x81.8)、慶応4(1868)年3月(42.2x68.3)、明治4(1871)年2月(35.7x77.6)のもの。正徳の制札は、キリシタンの宣教師や信徒を検挙するため密告者に賞金を与えることを記している。また、慶応と明治の制札は太政官の名で出されている。

近世先哲遺墨集成(きんせいせんてついぼくしゅうせい) 館古417

江戸時代に活躍した思想家・芸術家・宗教家等の書状や詩などを、先賢の遺筆として収集した資料、72点。ただし収集の経過は不明。伊東仁斎書状、太宰春台書状、松平楽翁(定信)色紙、伊藤東涯書状、三宅観瀾詩稿、中井竹山書状、尾藤二州書状、斎藤拙堂詩稿、頼春水書状、三宅尚斎書状、柴野栗山書状、斎藤竹堂詩、山木北山詩、安積澹泊詩、葛飾子琴詩、人見友元書状、安藤年山書状、大橋納庵詩稿、市川寛斎筆般若心経、林述斎書状、那波魯堂書状、宮崎筑圃書状、太田錦城詩、岩垣松笛詩、江馬細香書状、秦滄浪書状、中井履軒詩、正徳6(1716)年春伊藤東涯詩、梁田悦厳書状、三輪執斎書状、栗山潜峯詩稿、原采蘋詩、山縣周南詩、古賀伺庵詩、僧契沖和歌、村田春海書状、伴蒿蹊詠草、沢田名垂書状、小沢芦庵教諭歌稿、横山由清書状、松岡恕庵書状、谷川士清氏書状、足利弘訓書状、秋山玉山詩、奴小万和歌扇面、成島柳北詩、亀井道載詩、小野蘭山詩、藤森弘庵書状、長尾秋水画賛、黄檗独立詩、僧六如書状、細井弘沢書状、加藤千蔭詠草、武元登々庵詩、高天狗詩扇面、龍公美書状、長久保赤水詩、山本琴谷竹画、服部南郭書状、広瀬台山水図、古川子曜画讃、立原杏所扇面、春木南湖詩画、片桐襤石画、長町竹石画、香川氷仙画、渡部小華画、八田小秀画、河村文鳳画、菊池渓琴詩、頼杏坪詩稿からなる。

祇園内八町文書(ぎおんうちはっちょうもんじょ) 館古155

祇園町および同新地で形成される祇園内八町に伝えられた文書、9点。天保11(1840)年・同12年の御触留や安政4(1857)年に林下町・橋本町の遊女屋ならびに茶屋を外六町へ移す時の取替証文・請書のほか、万延元(1860)年の遊女商売の許可期限の延伸願などがある。

祇園円花楼文書(ぎおんえんかろうもんじょ) 館古319

祇園町の東末吉町にあった円花楼に関する文書、26点。明治24(1891)年から同40年にかけてのもので、宿料之通・家賃之通等の通類と滋賀県蒲生郡西大路村にあった同家の土地の売買に関するものや金銭の借用に関する証文類である。

祇園社雑掌円明房代慶舜請取(ぎおんしゃざっしょうえんみょうぼうだいけいしゅんうけとり) 中館古005

至徳2(1385)年6月25日付で、祇園社雑掌に祇園社領近江国成安保の下地が打渡された時の円明房代慶舜の請取である。この請取を復命した同年6月晦日付使節請文が、「祇園社記」にある。

お問い合わせ

文化スポーツ部文化政策課 京都学・歴彩館

京都市左京区下鴨半木町1-29

ファックス:075-791-9466

rekisaikan-kikaku@pref.kyoto.lg.jp

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