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古文書解題 「ま」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(ま行)

2009年6月19日 更新

前田玄以書状(まえだげんいしょじょう) 中館古015

豊臣秀吉の五奉行の一人として寺社の支配にあたっていた前田玄以の書状、1点。慶長元(1596)年7月、大地震によって倒壊した方広寺大仏にかわって、遷座することとなった信濃国善光寺の阿弥陀如来の入京を、大津まで出迎えるよう東寺々僧に命じたもの。昭和44(1969)年に当館が購入したものであるが、本来は東寺伝来の文書である。折紙。軸装。

桝屋町記録(ますやちょうきろく) 館古119

桝屋町に伝えられた町記録、3冊。桝屋町は釜座通丸太町下ルの両側町で、上古京下中筋組の親町16町組に属した。3冊のうち2冊は諸事控の表題を持つもので、文政4(1821)年から同6年までと、天保2(1831)年から文久3(1863)年までの記事を含む。ただし、内容は桝屋町内のことを記したものではなく、下中筋組の組町間の問題や上京大仲に関する記事が多い。残る1冊は、嘉永2(1849)年8月の「町内沽券写」である。

町頭南町文書(まちがしらみなみまちもんじょ) 館古029 館古030

新町通三条上ルの両側町であった町頭南町(現在は町頭北町と一緒になり町頭町となっている)に伝えられた文書、897点。同町は下京上艮組に属し、28軒役を負担していた。これらの文書の中には組町との関係を示すものや町の組織が生み出した文書、あるいは町に住む人々が町に出した文書など、多様な種類のものがある。町組に関するものとしては、宝暦12(1762)年「上京六組并下京八組願写」、明和3(1766)年「年頭入用上艮組役数帳」、天保8(1837)年「八組触当番役申合之事」、弘化4(1847)年「下古京八組触当番訴訟文書控」などがあるが、中心は文化・文政年間に起きた町代の改義一件に関するもの。町代改義一件については39点の文書が残されているが、すべて冊子状のもので、1冊の中には多くの文書が写されており、関係する史料は厖大な量になる。町の内部で作成された文書にも多様なものがある。まず、京都町奉行所から出された御触を書き留めた「御触状之写」が12冊、途中に若干の欠けがあるが、宝暦14年から天明元(1781)年のものがほぼ揃っている。このほか触れ出された御触をそのまま貼り継いで残したものが33点、寛政元(1789)年、同2年、同4年、同9年、同11年、享和3(1803)年、文化8(1811)年、同9年、同11年、同12年、同13年~14年、文政8(1825)年、同10年~11年、天保元~3年、嘉永6(1853)~安政4(1857)年、万延元(1860)年、文久元(1861)~慶応元(1865)年、同4年の分がある。この町の場合、町式目や町記録の類はあまり残っていない。元禄9(1696)年「町儀定覚帳」、享保4(1719)年「町中定」、享保8年「万覚帳」の3点のみである。このうち元禄9年の覚帳は後欠であり、寛保2(1742)年までの記事がある。町の金銭出入帳は、入帳の方が享保6年から明和3年まで、払帳の方が享保19年から明和3年にいたる分が欠けるだけで、元禄9年から嘉永6年にいたる10冊が揃っている。宗門人別改帳は宝暦10年から元治元(1864)年までの間で25冊であるから、途中にかなりの欠落があることになる。二日判取帳は享保年間と享和3年から文久3年までのものがまとまっている。このほか、口上書や各種の改めに関するものなどがある。町住民のことに関連して町に出された文書の数は厖大である。家屋敷買請状、借屋請状、身許引取一札、人別送り手形、宗旨請状、家屋敷譲状などを通数で数えると1,400を越える。

松岡家文書(勝田家文書含む)(まつおかけもんじょ(しょうだけもんじょふくむ)) 寄古013

相楽郡観音寺村(現木津川市加茂)の庄屋を務めていた松岡家が所蔵する文書。9687点。
松岡氏は伊賀藤堂藩の無足人(俸禄のない土着郷士 名字帯刀が許され士分の待遇を受ける)であり、藤堂藩城和領(桜井北組・桜井南組・丹波市組・針組・古市組・笠置組・加茂組・当尾組・和爾組・大福組=加茂町史第2巻86ページによる)の加茂組の大庄屋(寛政2~3年、文化11~12年)や加茂郷(里村・北村・大野村・兎並村・高田村・観音寺村・(南村))の目附庄屋、藤堂藩御普請目附方も務めていた。庄屋・目附庄屋など役方公用に関わる文書として文政5(1822)~明治5年「役方日記・役用後鑑」、「庄屋役中諸帳面引渡目録」、「諸証文控」、延宝7(1679)年検地帳写、天明8(1788)年大雨後の川の普請一件、享和2(1802)年大風雨洪水に付損箇所の普請一件、幕府役人等の 加茂駅・笠置駅の通行一件、「地蔵院祠堂銀貨付一件」「大井川筋魚漁鳥猟一件」、大庄屋役中の「要用記控」「京都伏見年礼勤覚書」「加茂組大庄屋役引渡一件」等がある。家文書には「年貢米通」「年中銀指引之通」「田地売渡証文」「銀子借用証文」「金銀銭受払日記」等が多く残されている。
明治時代後半の松岡氏は水力発電事業など山城地域の諸事業に関わっており、笠置水電株式会社・和束川水力電気株式会等の電気事業の関連書類や書簡が多く残されている。又、相楽郡会・加茂村会の議案書・会議録等がある。なお、松岡家と関連する勝田家文書も併せて公開している。

松下町文書(まつしたちょうもんじょ) 館古495

下京富小路姉小路上ル松下町(京都市中京区)の明治元年~3年の触書の留。1点。

松島家文書(まつしまけもんじょ) 館古170

旧亀岡藩士松島家に伝えられた文書、11点。「留守居勤書」は松島幸大夫明房の覚書で寛延2(1749)年の藩主松平信岑の入城から二代目藩主信直の没する安永10(1781)年までの間に自分が命じられた仕事や役職補任の様子を書き留めたものである。「要領格」は亀岡旧元締方島村某の持っていたものを譲り受けたもので、内容は安政3(1856)年の増上以降における扶持の配分方法を記したもの。「覚書」は文政12(1829)年7月11日に家中に出された倹約令である御直書とその趣意書および御用番に対する命令2通を書き写したもの。他の「覚書」は松島成章が文政5年4月に家督を継いで以降、天保7(1836)年までの勤め方について記したもの。「文政年中出火覚書」は松島成章が京出火之節・地火事之節・御門徒寺火之番等々の心得を記したもの。亀岡藩は京都火消役にあり、松島成章が光忠寺や円通寺の火の番を命じられていた。「癸丑以来 記録抜書 亀岡藩」の表題を持つ1冊は、明治3(1870)年11月に亀岡藩から太政官に提出した報告の控で、内容は嘉永6(1853)年以降の幕末・維新の政治的混乱の中で、同藩の果たした役割を記したもの。このほか、廃藩ニ付達写・松島潜家禄奉還願などがある。

松平紀伊守信道書状(まつだいらきいのかみのぶみちしょじょう) 館古476

亀岡藩主松平紀伊守信道が寺社奉行兼奏者番の就任時(天明8年4月~寛政3年8月)、本願寺坊官下間兵部卿宛に出した書状2通。

松平家資料(まつだいらけしりょう) 寄古020

丹波亀山藩の藩主であった形原松平家に伝来した資料。書画、調度、武具類、藩主家・子爵の家政に関連する文書・記録類。永禄4(1561)~昭和29(1953)年。6496点。寄託。複製物(マイクロポジフィルム・写真帳)があるもの(近世の藩関係の資料等)以外の閲覧は要予約。丹波亀山藩の藩主であった形原松平家に伝来した資料。書画、調度、武具類、藩主家・子爵の家政に関連する文書・記録類。永禄4(1561)~昭和29(1953)年。6496点。寄託。複製物(マイクロポジフィルム・写真帳)があるもの(近世の藩関係の資料等)以外の閲覧は要予約。

松平家資料・乙(まつだいらけしりょう) 寄古021

丹波亀山藩の藩主であった形原松平家に伝来した資料。同家に伝来した刀剣およびその付属品(目貫、笄、小柄)の折紙(鑑定書)など。鑑定者は本阿弥家・後藤家である。57点。寄託。閲覧は要予約。

松田家文書・甲(まつだけもんじょ) 館古408

綴喜郡多賀村(現井手町)の庄屋松田家に伝わった江戸前期から明治にかけての文書、71点。文書は多賀村の村文書17点と松田家の私文書54点に大別できる。村文書はさらに次のように分けることができる。(1)は大梵天王社(現高神社)関係の文書7点でいずれも何通かの文書が貼りつがれており、合計91通になる。内容は慶長9(1604)年から文久2(1862)年にかけての由来記写、祭礼御幣写、雨請、神事帯刀願、普請、社領支配相論などの文書。中には天保15(1844)年から弘化4(1847)年までの昆沙門寺との間で争われた文書も含まれる。(2)は安楽寺関係の文書で1点7通のほか9点。内容は元和8(1622)年・寛文4(1664)年の住持出生についての綸旨や仮名消息のほか祠堂金請取である。私文書も2つに分類できる。(1)はおもに延宝3(1675)年から正徳5(1715)年にかけての田畑永代預ヶ証文類で1点49通が貼りつがれているが、慶長19年板倉勝重禁制や先祖由緒及郷侍帯刀断書など8通の村文書も混在している。(2)は当家が禁裏御所御茶御用をつとめていた関係で茶業に関する史料が多く53点ある。そのほとんどが横帳。まとまっているのは天保15年から明治3(1870)年までの御所に茶を調達した記録「御茶一件」27点がある。ほかに「御所様献上恐悦覚帳」や「嘉永七年禁裏御所様出火ニ付御見舞上京覚帳」「安政二年御遷幸前窺之訳」「慶応二年崩御之訳」など特別な事件に際して御所との交流を伝えるものが数点ある。

松本家文書(まつもとけもんじょ) 館古032

船井郡野条村(現南丹市)の松本家に伝わった文書、627点。安永5(1776)年から明治40(1907)年までの文書があるが、村文書はなく、すべて松本家に関するものである。同家は農業とともに酒造業を営んでいたために、文書は酒造業に関するものと証文類に分けられる。酒造に関しては「酒造株発端より追々書附覚帳」と題する1冊があり、安永5年に同家が酒造をはじめてから天保9(1838)年までの酒造に関する証文、口上書、御触などが書き留められている。つぎに、酒造米、清酒、道具の改帳が寛政2(1790)年から安政3(1856)年までの44通。そのほか、酒造に関する諸控帳の類や口上書の控が23通である。証文類では田地売券127点、畑売券7点、山林・薮売券21点のほか、金、銀、銭、銀札の借用証文98点、米の借用証文36点がある。さらに、小作関係の文書10数点のほか、家屋の造作関係の文書や冠婚葬祭に際しての、到来物の控帳などの数も多い。

松本繁蔵旧蔵文書(まつもとしげぞうきゅうぞうもんじょ) 館古151

賀茂別雷(上賀茂)神社関係のものと推定される文書、5点。明治元(1868)年10月30日付および同年11月25日付の、社家から出された触書の写2点、年未詳「佐渡介家領等高覚」1点、同「賀茂別雷神社等祭神書上并注記」1点、文化3(1806)年改正「東山・西山京名所案内記」(赤井長兵衛板)1点がある。

松山氏旧蔵資料(まつやましきゅうぞうしりょう) 館古540

幕末(文久3~元治元年頃)の風説書の写。2点。

松屋文書(まつやもんじょ) 館古082 館古083

衣棚通出水下ル常泉院町で紅屋を営んでいた松屋(明治以降は東村の姓を名乗る)に伝わった文書、551点。この文書は伝来経過の異なる2つのグループからなっているので、伝来経過を尊重し、松屋文書(甲)、松屋文書(乙)に分けて運用している。松屋文書(甲)は宝永4(1707)年から大正13(1924)年までの、377点の文書群で、18世紀中期以降を主としている。内容的には、自家の経営に関する文書、紅屋仲間に関する文書、芝居番付の3つに大別することができる。自家経営の文書は証文類が中心で、金銭証文約70点、家屋敷の請状10点、奉公人請状約30点である。紅屋仲間の文書は、宝永7年2月の下京紅屋仲間定書等の仲間式目をはじめとして、同仲間の結束に重要な役割を果たした稲荷講に関するもの、近江の葛川灰屋中と値段の改定をめぐって取交わされた文書、宝暦10(1760)年の紅花売買会所開設に関するもの、明和9(1772)年4月の上下紅屋惣仲間による紅屋世話所設置に関するもの等が主たる文書である。芝居番付は61点あり、京都四条北側・南側大芝居番付45点、大阪道頓堀角芝居番付15点、三都惣役者番付1点からなる。すべて幕末期に京都の書肆、和泉屋又兵衛が版元になり発行されたものである。松屋文書(乙)は、甲群が仲間文書を多数含むのに対して、大半が自家の経営に関するものである。明和6年から大正12年までの174点。まず証文関係として、金銭証文が約50点、奉公人請状が約20点あり、甲群と合わせてみると、奉公人の出身地が京都・山城・大阪・江戸・近江・越中など十数ヶ国に及んでいることが確認できる。ほかに、自家の葬儀に関する文書が約20点、金銭請取覚、買物覚、養子および里子関係の文書・書状等が含まれている。

丸屋清兵衛家文書(まるやせいべえけもんじょ) 館古287

丸屋清兵衛家に伝えられた町文書、4点。ただし、町名はわからない。天保3(1832)、同6、同7、同8年の「町諸出入勘定手控帳」である。