古文書解題 「な」から始まる文書
2011年3月4日 更新
中井家文書(なかいけもんじょ) 館古023
江戸幕府の京都御大工頭の中井家に伝わった内裏・城郭など幕府作事に関する文書、597点926通。中井家は関ヶ原合戦の後、徳川家から五畿内および近江の大工・杣・木挽の三職の支配を許され、近世を通じて、ほぼ500石40人扶持でその職を勤めた旗本格の家柄である。元禄6(1693)年ごろ、自分の屋敷内に中井役所を設け、以前は中井家の負担で行われていた建物の破損見分・仕様帳等、あるいは絵図の作成まで作事に伴う手続事務を幕府経費で行なうようになり、役所は公的側面をもち、文書保管機能は強化されることになる。これにより多量の文書が残ったのである。この文書群の特徴は夥しい量の絵図が含まれていることで、とくに宝永期(1704~11)以前の絵図は、ヘラ押計線の台紙に、色紙で要件を表記する、いわゆる貼絵図のものが多い。中井家が五畿内・近江の大工等を支配したことから、文書も山城、摂津、河内、近江等にわたり、その作事対象も、内裏御所、公家屋敷、城郭并武家屋敷、寺院、神社、洛中、公家町、河川、お土居など多岐にわたっている。内裏御所関係の文書は、86点224通あり、慶長、承応、寛文、延宝、宝永、寛政、安政の各造営度のうち、宝永度のものが一番充実している。公家屋敷に関する文書は、32点39通で、近衛家に仮内裏がおかれた時の指図や九条家、徳大寺家をはじめ20家分がある。武家関係文書は、城郭(伏見城、二条城、永原茶屋、水口城)分109点175通、京都所司代分22点30通、火消屋敷分7点8通、武家屋敷分31点33通、それに幕末京都警固(幕末期に京都の治安維持を目的に上洛した武士の屋敷建築のための手続文書等)分8点22通がある。そのうち、伏見城は元和年間(1615~24)の材木帳が12点。二条城は、創建期の慶長7(1602)年から同10年のもの、元和年間の秀忠上洛時の作事に関するもの、寛永年間(1624~44)の後水尾行幸・家光上洛時のもの、貞享・元禄期(1684~1704)の本丸、二之丸の修理時のもの等の作事に関係したものが、全体で60点127通ある。永原茶屋分は33点。水口城は3点残っている。寺院関係の文書は、大部分が山城のもので、全体で56ヵ寺、127点179通。神社関係としては、18社分、70点90通ある。そのほか、洛中絵図が4点7通、公家町絵図が13点14通。加茂川をはじめとする河川に関係した文書が26点30通、お土居に関するものが5点残っている。以上、当館が所蔵する分の中井家文書の概略であるが、ほかに中井家所蔵分があり、宮内庁書陵部、京都大学附属図書館にも分れて所蔵されている。当館所蔵分については、昭和56年(1981)年、当館発行の『資料館紀要』第10号「<史料紹介>総合資料館蔵の中井家文書について」で、解説を行なうと共に1点宛の目録を付した。
中井家文書・乙(なかいけもんじょ) 館古470
京都御大工頭中井家の文書6点。宝永期に藪地を町家にするにあたっての入用書、享保14(1729)年に象が来日し京都を通過した際の小屋等の造作入用の一件、嘉永5(1852)年の二条城東御番頭小屋・同心小屋の建具等の取替えの一件。
永井尚政書状(ながいなおまさしょじょう) 館古484
永井尚政(淀藩主)の書状。禁裏造営の惣奉行として御所の作事に関わった時期(明暦元年か)に、大老であった酒井忠勝(若狭藩主)宛に出したものと思われる。1点。
中大路家文書(なかおおじけもんじょ) 館古113
上賀茂神社の社家中大路家に伝えられた幕末から明治期に至る文書、18点。「上賀茂社家俊一流系図」「賀茂社家座席即鑑」「賀茂本宮八社古来相承神号秘訣」「競馬口伝抄」などのほか、絵図資料が多く、「文永賀茂祭画詞写」「上賀茂在家絵図」「競馬三遅図」「競馬之図」などがある。
中川家文書(なかがわけもんじょ) 館古405
上京区河原町通今出川下ル大宮町の中川家に伝わった文書、3点。シベリア出兵時ウラジオストックに赴いた時の大正7(1918)年・8年発行の海外旅券2枚と、在オムスク(ロシア)の某国立出納局発行割引証券1枚である。
中久世村文書(なかくぜむらもんじょ) 館古128 館古129
乙訓郡中久世村(現南区)に伝わった文政4(1821)年から安政6(1859)年までの文書、39点。すべて同村庄屋の新右衛門が、領主である久世家に納めた年貢米の「通」である。
中路家文書(なかじけもんじょ) 館古394
葛野郡下桂村(現西京区)で庄屋を務めた中路家に伝来した文書、53点。もっとも古いものは享保9(1724)年6月「焼印御赦免付百五十二ヶ村定帳」である。庄屋が村の出来事を書き留めた「諸事控覚帳」が文政4(1821)・5・7・9・11年、天保10(1839)年の6冊。また天保年間の「御願書日記帳」が3冊、文久3(1863)年から明治元(1868)年の「解状控」が3冊、文化3(1806)年「酒屋一件之覚」をはじめ、一件書類が5冊。このほか元文4(1739)年「往還筋出入御裁許申渡御書付控」、明和3(1766)年「屋敷畝高之覚帳」、天保9年「御免割帳」、明治2年、「人別取調帳」などがある。残りのうち27点は私文書で、「消息千字文」など文例集12点が含まれている。
中島湘烟書幅(なかじましょうえんしょふく) 館古418
中島湘烟の七言律詩、軸装、1点。湘烟は明治時代の民権運動に活躍した評論家・小説家である中島(岸田)俊子の雅号。
中田家文書(なかたけもんじょ) 館古461 館古471
中京区和久屋町・雁金町で木綿商を営んでいた中田家に伝来した文書。当主であった中田与兵衛(余瓶)氏は俳人としても有名である。受入時期により2群に分けられる。第1次分は468点。近代の町運営に関する文書294点、商売組合関係文書53点、その他中田家内の文書121点。資料の形態は文書だけでなく写真や文書箱、下賜杯等の現物資料も含まれる。商売組合関係文書の中には、「京都木綿商京盛会組合」の明治35年の設立から昭和12年の廃止までの全期間にわたっての「日誌」と「議事要録」がそろっており、更にその後の戦時統制下における染織業界の資料も若干ふくまれる。町運営に関する文書には学区である日彰小学校運営の資料も多く含まれている。ほかに、中田与兵衛氏が在学した京都府立第二中(現鳥羽高校)の4年乙組の回覧文集「怒濤」10冊(明治41年)がある。ほかに明治末から戦前にかけての記念撮影写真がある。第2次分は79点。日彰校・第2中学校ほかの学校関係資料、中田与兵衛氏が選別した絵葉書アルバム、各種団体委員などの委嘱状・表彰状・名簿、種痘符、旅行記等がある。
中西家文書(なかにしけもんじょ) 館古075
桑田郡大内村(現亀岡市)庄屋の中西家に伝えられた文書、335点。うち、約100点が中西家に関する私的なものであり、残りが庄屋文書である。庄屋文書の一番古いものは、寛永17(1640)年12月4日付の折紙1紙の名寄帳で、以後明治41(1908)年までの文書が残されている。比較的まとまりがあるのは「年貢入払覚」で享和2(1802)年から明治4年まで続いている。文久2(1862)年9月の亀山藩条目は倹約令であるが、これを受けた同月付の「村倹約之定」もある。他はまとまりを欠くが、村内の楽音寺薬師堂の本尊開帳に関する明治15年の史料が20点。私文書の大部分は、田地の売買に関する証文類である。
永原屋文書(ながはらやもんじょ) 館古410
上京区室町丸太町上ル町で掛屋・両替商を営んでいた永原屋の文書。120点。寛文4(1664)~嘉永3(1850)年。「銀子預り証文」「銀子取替手形」等、家業の金融に関するものが元禄年間以前を中心として多く残っている。同家と取引があった大名として肥前国小城藩鍋島氏、播磨国三日月藩森氏、下野国烏山藩永井氏、丹波国亀山藩青山氏等が確認できる。他に永原屋久兵衛の居宅があったと思われる芝大宮町(京都市上京区)の文書も含まれる。
中村家文書(なかむらけもんじょ) 館古562
地下官人(今出川家(菊亭家)の侍)の中村家に伝来した資料。幕末の当主中村政房は勤王の志厚く、文久3(1863)年の七卿落ち事件の時には公卿らに同行しており、宮内大臣土方久元(元土佐藩士、七卿落ちに同行)等と交流があったと推測される。その縁からか資料の中には土方の大正2(1913)年の「七卿五十年祭」を記念した書が含まれる。そのほか維新後の地下官人の処遇や絆等を示す書状や、中村氏ほか家族の肖像写真、風景・祭りを撮った写真アルバム、明治17年の湿版写真がある。明治5(1872)年~大正2年 。63点。
中村重三郎家文書(なかむらじゅうざぶろうけもんじょ) 館古237
幕末から明治初年にかけて錦小路通新町西入ルの西錦小路町に住んでいた中村重三郎家に伝えられた文書、6点。うち4点は町文書で、2点が中村家の私的なものである。町文書は、明治3(1870)年5月「人別送請取帳」、明治15年7月「寄留及雇入簿」、明治15年「借屋請状印鑑」である。私的なものは、弘化2(1845)年から元治元(1864)年にかけての中村家の「奉公人請状判取帳」と「禁裏諸家邸跡」の2冊である。
中山家文書(なかやまけもんじょ) 館古131
室町通竹屋町上ル道場町の中山家に伝わった文書、73点。大半が明治から昭和にかけて中山家の家族宛に出された書状である。
長与専斎書状(ながよせんさいしょじょう) 館古147
医師であり、初代の内務省衛生局長を務めた長与専斎が、明治9(1876)年1月8日付で京都府第二代知事槙村正直に宛てた書状、1点。内容は京都療病院にお雇教師マンスフェルトを招聘することであるが、あわせて日朝修好条規の調印につながる全権黒田清隆のソウル派遣などについても触れている。
