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古文書解題 「お」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(あ行)

2009年6月19日 更新

及川家文書(おいかわけもんじょ) 館古164

及川家は、東国在住のとき以来、形原松平氏に仕え、丹波亀山藩において元締・側用人・用人などを勤めた。また、武家故実を同藩の祝田政有から学んだために、その関係の史料も多い。文書点数497点。松平家の系図2点、及川家の系図・家伝・先祖書の類20点。宝暦10(1760)年の「御法制書」をはじめとする亀山藩の法令類13点、「京都火消詰覚書」など勤方の諸規定類16点。及川家の扶持米に関するもの7点。物成渡方目録が天明8(1788)年から56点。書状類が44通。このほかの大部分は武家故実に関するもので、それらの中には各種の作法・秘伝のほか、免許や免許を受けるに先だって出された起請文などがある。

王代年代記(おうだいねんだいき) 中集古S328

東寺執行栄増が記した天神七代から後花園天皇までの年代記。写本。1点。宮内庁書陵部所蔵。 

近江屋吉左衛門家文書(おうみやきちざえもんけもんじょ) 館古399

油小路通六角上ル三条油小路町西側に居を構え、近江屋の屋号で「糀(こうじ)もやし」を製造・販売していた近藤家に伝来した文書等、363点。延宝7(1679)年から大正期に至っている。近江屋は寛文12(1672)年の創業と伝えられ、当主は代々吉左衛門を襲名した。糀もやしは味噌などを作るときに必要な糀の原料となるもので、延宝年間にはこれを改良して粉末状にした「粉もやし」を開発して販路を伸ばした。資料群は糀もやしの製法や店経営に関する文書が中心であるが、ほかに家屋敷の証文類、茶道や俳句など当主の教養や趣味に関するもの、三条油小路町に関するもの、味噌糀商売人仲間の文書など多岐にわたる。また三条油小路町の東側と西側を1巻ずつに描いた彩色画がある。文政3(1820)年に松堂筆端という画家が絹地に顔料で町並みを写実的に描写したもので、近江屋吉左衛門がそれぞれの屋号・職種・軒役等を墨書している。

大池表葭島一件(おおいけおもてよしじまいっけん) 館古499

巨椋池の葭刈捨場流作開発にかかわる資料。 京都代官小堀仁右衛門と幕府勘定奉行との往復文書等の留綴 。元禄13年4月~宝永5年。1点。

大江家文書(おおえけもんじょ) 館古077

愛宕郡久多上村(現左京区)の大江家に伝えられた元文5(1740)年から明治期までの文書、156点。同村では林業および炭焼きが生業の中心となっていたので、山林・山畑の売買および請取の証文が中心である。

大國家文書(おおくにけもんじょ) 寄古018 寄古019

近世の地下官人大國家に伝来し、大國家が所蔵する資料。寄託時期により2群に分けられる。
第1次分は739点。大國家は中世には「大黒党」の名で知られる陰陽師の家で、近世には蔵人方の陰陽のことを司る地下官人として、正月の左義長の執行、6月の土用に行う水合のお祓い、9月の重陽の節句に菊を並べる御用を勤め、西院村(京都市右京区)3石の知行地を拝領していた。禁裏での勤める一方で、白川村等の京都周辺の村々の雨乞いや竈祓い、公家や町人等の占いやお祓いなどにも携わっていた。近代になると、奈良県職員・司法省職員・京都市会議員・奈良市長等の公職についた。主な資料は左義長等の宮中行事の記録、陰陽師の活動や組織に関する資料、弘化2(1845)~明治3年の日記、寛文11(1671)年の白川村の雨乞祈祷の礼状、文久3(1863)年大国殿造営一件、知行地西院村に関する記録、幕末・明治初期に尊王攘夷派公家鷲尾隆聚・滋野井公寿等に従って行動した記録、明治初期の奈良県の資料、議員任命書・各種団体委員等の委嘱状などがある。特に「土御門一件之記」「土御門家一条越書」等は近世の陰陽師を統轄していた公家の土御門家との関係が記されている。
第2次分は1点。永禄2(1559)年に正親町天皇の即位にあたって大國家が髪飾りを調進したことを殊勝に思い、陰陽師としての権利や諸役免除を認めたもの。

大國家由緒書(おおくにけゆいしょがき) 集古S074

近世の地下官人大國家に伝来し、大國家が所蔵する資料。その家の系図/由緒書。2点。

大久保家文書(おおくぼけもんじょ) 館古028 館古487 館古533

伏見奉行所領知の深草村(京都市伏見区)の庄屋である大久保家に伝来した文書。受入時期により3群に分けられる。
第1次分は78点。記録類が多いのが特色である。文政9(1826)年日記、天保13(1842)年~弘化3(1846)年村方諸日記、弘化3年~嘉永4(1851)年村方諸日記、安政2(1855)~安政4年日記があり、安政6年から慶応4(1868)年まで1年各冊の万留帳がある。さらに、明治2(1869)年~3年・同4年の諸事留がある。また明治6・7・8・10・11・12・13・14年の大久保氏諸雑記が1年各冊で残されており、とんで明治45年と大正3年(1914)年の日記がある。そのほかでは、井手の修復の勘定帳が幕末から明治初期にかけてまとまっている。その他の大部分が同家の金銀出入帳である。このほか、同家が津国屋の屋号で竹商売をしていた文政9年の「竹屋仲間諸記」をはじめ、竹商売に関する証文類が若干ある。
第2次分は1点。第10代当主大久保治郎右衛門が明治26年に記した「誓盟遺訓書」。家訓と天保年間から明治20年の記録等が纏められている。
第3次分は13点。享和・文化年間頃の「諸事覚」、明治4年の米納でなく金納にしてほしい旨の「願口上書控」等、深草村だけでなく、周辺の伏見奉行所領地村々の状況も知ることができる資料が含まれる。

大塩平八郎倅格之助乱妨日記ノ写(おおしおへいはちろうせがれかくのすけらんぼうにっきのうつし) 館古524

明治11年3月の出版物の手書写。天保8(1837)年「大塩平八郎の乱」についての後年の記録。1点。

大西家文書(おおにしけもんじょ) 館古543

伏見稲荷大社の社家に伝来する資料。4点。応永年間頃の足利義持自筆御教書、寛永年間頃の後水尾天皇筆和歌及び聖護院道晃筆和歌、享保年間頃の荷田春満短冊。

大西家文書・乙(おおにしけもんじょ) 館古555

伏見稲荷大社の社家大西家に伝わった資料の2次分。江戸幕府から出された領地朱印状や制札の写、天皇から社家に対して出された位記・補任の文書や稲荷祭礼の執行を指示する文書、稲荷社の業務などを記した日誌・記録、神社由来・和歌・漢詩・有職故実等に関する写本・版本ほか。天正18(1590)~明治10(1877)年頃。1185点。

大橋慎三書状(おおはししんぞうしょじょう) 館古516

土佐藩士大橋慎三の岩倉具視宛の書簡。明治初期の新政府の諸問題についての意見等。24点。

大森鐘一関係資料(おおもりしょういちかんけいしりょう) 館古390

「抄録」という表題が付けられた8冊。大森鐘一は第10代の京都府知事。読書家で、学問の調査に熱心であった。膨大な量の公私の日記・紀行文・読書メモなどを書きしるしたが、それらは関東大震災ですべて灰燼に帰した。「抄録」はその後の読書メモと調査の際に書写した資料である。没後約3000枚のメモとして残されていたのを遺族が8冊にまとめた。表紙の布は、読書に耽った書斎の机に敷かれていたものである。本人の感想が書き込まれた読書メモもあり、書写されている資料の中には現在伝わっていないものがかなり含まれている。

岡田平左衛門家文書(おかだへいざえもんけもんじょ) 館古406

丹後国中郡延利村(現京丹後市大宮町)の庄屋、岡田家に伝来した文書。68点。文政3(1820)~慶応4(1868)年。久美浜代官所あて「家数人別増減差引帳」「検見入用控」「稲目録帳」「畑目録帳」「屋敷改高帳」「御用留」等、村政に関わる文書27点。頼母子講等、講関係文書16点。「大福帳」「当座覚」等、家政に関する文書等25点である。 

岡本家文書(おかもとけもんじょ) 館古172

上賀茂神社の社家岡本家に伝えられた文書7点。延宝6(1678)年「西賀茂村手引帳」、元禄5(1692)年「社中御朱印弐千五百七拾余石高改吟味有之書出留」、享保2(1717)年「西賀茂領高納帳」、享保9年「一番衆岡本宮内大輔家領分」、同年「別御朱印岡本宮内大輔家領分」、同年「御朱印分上賀茂村之内領地根帳」、年未詳「家領根帳」。

岡本春暉旧蔵資料(おかもとしゅんききゅうぞうしりょう) 館古088

岡本春暉は、名を重美、養徳斎と号し、明治初期に京都で活躍した画家。絵画のほか有職故実に関心をもち、随筆も書いた。資料は42点。最も古いものは慶長4(1599)年の「豊臣秀吉葬送行列書」であるが、大半は幕末から明治期にかけてのもの。絵画関係の資料としては、「本朝名画家肖像」、「和美人之図」、「有職図」のほか、模写としては「吉田故法眼守清門弟竹内観家重方絵写」、「笠置山之城并四方手配堅固図写」、明治17(1884)年「御修繕後桂御離宮絵図」、「関東幕府城御本丸建物細見図」などがある。ほかに随筆「老のかたみ」、「油断大敵顔(わら)ふべ誌」、「老のみやげ」などがある。

岡本保止家文書(おかもとやすとめけもんじょ) 館古112 館古477

上賀茂神社の社家から分かれた岡本家に伝来した資料。初代当主が建築設計の仕事をしていた。受入時期により2群に分けられる。第1次分は点数150点。神社関係の資料としては、岡本家の家譜が6冊、神系図・賀茂氏系図など9点。神道に関するものとして神祭式諸書・神祭聞書など9点。建築関係では京都大学新設仕様書、内大臣官邸鞘之間規矩之図など仕様書・絵図面68点。大正2(1913)年の正倉院修理に関するもの23点。このほか、明治26(1893)年・同28・29・30年と昭和15(1940)年の日記等がある。第2次分は19点。大正2年の正倉院解体工事の写真等がある。

小木貞一文書(おぎていいちもんじょ) 館古230

衆議院法務委員会専門委員小木貞一の許に残された書類綴。昭和26年「京大事件関係書類」、昭和32年「京都地方検察庁送付資料綴」の2冊。

小沢家文書(おざわけもんじょ) 館古126

麩屋町通夷川下ルの布袋屋町(古くは布袋町)に住み、明治初年には同町の戸長を勤めていた小沢家に伝えられた文書、13点。すべて明治期のもの。町関係のものとしては明治19(1886)年の「布袋町小沢正平町用諸控」や明治21年の「小沢家町惣代ニ付手覚」などがあり、私的なものとしては明治8年「布袋町小沢家諸控」や「小沢家類例記」などがある。

織田信定折紙(おだのぶさだおりがみ) 中館古003

年紀を欠くが、3月29日付で織田彦七信定が、八条遍照心院の石、七条の升石に関する信長の命令を、遍照心院知事に伝えた文書1点。もと大通寺に伝来したもので、昭和52(1977)年当館の所蔵となった。

小野家文書(おのけもんじょ) 館古334

乙訓郡上植野村(現向日市)西大路家領の庄屋であった小野家に伝来した文書、351点。元和元(1615)年から明治23(1890)年に至る。上植野村は総村高1,300石近い大村で、禁裏御領116石余、聖護院宮領233石余、姉小路家領180石などからなるが、うち80石余が西大路家領であった。文書の内容は、小野家の経済活動(土地集積)を示す売券が大半を占め、残りが庄屋としての西大路家と他村との往復文書である。売券は、田畑・家屋敷のほか薮を対象としたものも見られる。本物返売券が77点、売渡証文が69点、田畑質入証文が11点、質流田地引渡証文5点、田畑譲渡証文が3点、土地の移動に関するものが165点にのぼる。このほとんどが小野家の所有に帰する。また、ほとんどが上植野村村内の土地であるが神足・鶏冠井・今里など近村の土地も含まれる。延宝5(1677)年と同8年の小野家の「高目録」があるが、これらは「禁裏御領・聖護院様領」、「極臈領」であり、他家領にも土地を所有していたことがわかる。つぎに銀子の請取や預り証文が11点、借用証文が11点、明治以降の借金証書3点がある。米関係の文書としては借用や取替証文などで6点が残る。田地の移動に伴ない小作関係を引継いだ「小作請状」が9点、ほかに「売渡田地ニ付詫一札」2点など「一札もの」が12点ある。「皆済状」は16点であるが実際は41通である。ほかは西大路家からの書状や覚類で、その大部分は欠年である。なお、「造作願」が5点あるが、村内の無住の寺などを再建しようとするもの。また、最古の文書は「上植野村姉小路領指出帳」(元和元年9月付)である。

御布令之訳(おふれのわけ) 館古107

明治9(1876)年10月2日付の京都府令第385号で出された違式?違条例の各条を挿絵を入れて解説したもの、2枚。法令の内容は軽い犯罪や処分について規定したもので、現行軽犯罪法の前身ともいえる法。明治6年7月19日付の太政官布告256号により、各地方に公布・施行が命じられたものである。前編は違式之部52条の、後編は?違之部52条の解説をしている。