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古文書解題 「せ」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(さ行)

2007年11月30日 更新

生源寺文書(せいげんじもんじょ) 中館古009

伝教大師生誕の由緒をもつ、比叡山延暦寺の西塔総里坊である生源寺(大津市坂本々町)に伝わった文書、35点。仮木箱(杉製)に収められ、当館が、昭和47(1972)年に、一括購入した。この文書群は、内容的に3群に分けられる。(1)は、生源寺が山上延暦寺の要職に在った時期の、山下日吉大社の神事運営に関する文書であり、量的には一番多い。(2)は、近江国内の山門領において、相接する祇園社領との相論関係の文書である。(3)は、元亀2(1571)年の織田信長による焼打ち以後、天正13(1585)年に山門再興にあたって作成された日吉社神像の造作に関する記録である。(1)生源寺関係文書は、文安4(1447)年10月7日付室町幕府御教書案、文明10(1478)年11月16日付室町幕府奉行人連署奉書案、明応3(1494)年10月29日付某代官職条々請文案、文正元(1466)年4月17日付室町幕府御教書案、文正元年8月8日付室町幕府奉行人連署奉書案、永正6(1509)年6月18日付室町幕府奉行人連署奉書案、天文24(1555)年3月19日付室町幕府奉行人連署奉書案の中世文書7通と、寛永15(1638)年4月25日付山王権現社務樹下言上状案ならびに欠年の書状類、3月28日付元浄書状、4月11日付秋元富朝書状、4月19日付尭円書状、6月16日付某書状案、6月付権僧正盛憲書状、7月18日付□泰書状、8月3日付つしはつこしち書状、8月19日付清光書状、9月1日付岡本保白書状、10月2日付同書状、10月14日付山門根本中堂閉籠衆執達状、11月11日付西念寺松阿書状、12月29日付某書状のほか、年月日未詳の文書、洛中地子注文、日吉惣官次第、某書状3通の以上26通である。いずれも「日吉知新記」をはじめとする叡山文庫に収蔵されている生源寺関係の記録を補なうものである。(2)祇園社領関係文書には、嘉暦3(1328)年1月18日付波々伯部保公用々途請取、嘉暦3年1月21日付波々伯部保公用々途請取、文和元(1352)年11月1日の祇園社々務執行の補任に関する権少僧都某奉書、至徳4(1387)年9月16日付六郎三郎[ ]餅田年貢請取、応永6(1399)年の大上坊某書状、応永26年4月26日付国□奉書、文安元年6月7日付五郎三郎夫賃職請文の7通である。(3)山門再興関係の記録は、外題に「行丸宿祢筆天正十八年条々」と記され、内題に「条々天正十八年及十九年訴訟事」と書かれた一巻と、同じく外題に「行丸宿祢筆尊像秘密記并諸案」とある一巻である。天正10年11月5日勅許によって山門再興の事業が開始されると、翌11年閏1月から山門三院と日吉社神体の彫刻がはじまった。祝部行丸は、とくに日吉山王諸社の再建につとめた日吉社の祠官で「日吉社兵乱記」の著作がある。天正18年条々一巻は、行丸から二宮御輿御房定宣房にあて、山上山下再興に至るまでの始終を箇条書したものである。また「尊像秘密并諸案」は、建立材木之事社法之条々、日吉社記録御神躰刻彫口伝条々大仏師法印康正請文案、社僧某書状、天正18年4月吉日社家三箇条誓文案、社家中書状案、行丸書状案、執行代某書状案、七社再造事書案からなっている。以上2巻とも、叡山文庫所蔵の比叡山再興関係の諸資料および京都大学図書館蔵晴富宿祢記紙背の山王再興関係文書と相関連する文書である。両巻は、縹色染紙表紙が付けられた小巻子装である。これらの外に、外題を欠くが、内題に美濃国方縣郡則武村氏神事と記された1巻がある。

西堂町文書(せいどうちょうもんじょ) 館古085

小川通三条上ルの両側町である西堂(せいどう)町に伝えられた町文書、124点。文政元(1818)年から明治元(1868)年までの「宗門人別改帳」が1冊も欠けることなく残っている。安政6(1859)年9月付の「二日判取帳」は家持衆の分と借屋人の分が別冊になっている。このほか冊子状のものでは、明和4(1767)年の沽券改のほか天保飢饉に関するものが、ややまとまりを示す。状物では慶応3(1867)年から翌年11月までの御触留がある。これらは触れ出された各紙を貼り継いで、3点の続紙状で保存されている。そのほかは大部分が証文類である。

晴明町文書(せいめいちょうもんじょ) 館古149

二条通麩屋町西入晴明町に伝えられた町文書、1点。明治2(1869)年2月から同6年8月までに出された人別送り手形の控帳である。なお、「佐山文庫」の蔵書印が押されている。

清涼寺四拾八日別時納并遣日記(せいりょうじ48にちべつじのうならびにつかわしにっき) 館古517

織田信長の供養のために行われた慶長19(1614)年の別時念仏にあたっての諸費用等の覚。後年の写。1点。 

禅定寺文書(ぜんじょうじもんじょ) 中寄古003

京都府綴喜郡宇治田原町にある曹洞宗禅定寺所蔵の古文書。平安時代中期から江戸時代初期に至る約700年間の文書で、総数は139点(172通)。現況は12巻の巻子及び4冊の冊子に装丁が施されている。昭和24年国重要文化財に指定され、現在、当館が寄託を受けている。
禅定寺は補陀落山観音妙智院と号す。東大寺別当にもなった平崇が摂関家の援助をうけて正暦2(991)年に東大寺の末寺として創建。延久3(1071)年に寺領とともに宇治平等院に寄進された。戦国時代には平等院の支配は弱まる。そのころから禅定寺下司の支配が強まり、禅定寺は下司氏の檀那寺的色彩を濃くした。この時期、文書はいったん下司氏が相伝することになる。明治になって『平安通誌』の編纂主任であった湯本文彦の斡旋により、文書は下司氏から寺へ寄進された。このような経緯から禅定寺文書は禅定寺伝来文書・下司伝来文書から構成されることになる。
主な文書としては、開創の由緒を記した寛弘2(1005)年『平崇上人行業記』、当時の所領については長保3(1001)年『禅定寺領田畠流記帳』に詳述されている。さらに禅定寺と近隣の郷荘との山堺相論、特に九条家領曽束荘との相論文書は、嘉元2(1304)年から応永24(1417)年に至る100年以上にわたる30点もの文書が残されている。その他、古い時期の大炊寮奥山田御稲田の存在を示す『山城国田原郷山司陳状』や応永27(1420)年の小田原山境相論、田原住人による座の存在を示す正嘉2(1258)年『禅定寺修二月堂荘厳式目』などがある。
なお、閲覧については原本保護の立場から、まず写真帳で閲覧していただき、どうしても写真帳では研究の用をなさない時について、原本を閲覧に供している。

善通曼陀羅寺両寺領注進状案(ぜんつうまんだらじりょうじりょうちゅうしんじょうあん) 中集古S340

文安元(1444)年12月日。1点。宮内庁書陵部所蔵。