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古文書解題 「た」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(た行)

2009年6月19日 更新

大恩寺町諸日記(だいおんじちょうしょにっき) 館古317

上京第28区二条通室町西入大恩寺町の記録、1冊。明治6(1873)年4月から明治8年までの記載があり、おもに区長の任選書・届書など町運営に関する事項が記されている。

大恩寺町内会旧蔵文書(だいおんじちょうないかいきゅうぞうもんじょ) 館古551

二条室町西入ル大恩寺町(京都市中京区)の町内絵図・地券写など明治期の記録類。明治2~21年。11点。

大恩寺町文書(だいおんじちょうもんじょ) 館古526

大恩寺町(京都市中京区二条室町西入)の記録類。天明5(1785)~明治27年。5点

大覚寺宮空性法親王令旨并女房奉書(だいかくじのみやくうしょうほっしんのうりょうじならびににょうぼうほうしょ) 中館古010

正保2(1645)年から万治2(1659)年までの文書12点。春慶塗樅箱に収められ、その箱蓋表貼紙には「大覚寺義性法親王書十二枚」とある。12通は一括して覆紙が懸けられ、それにも貼紙を付し、「後号随庵ト大覚寺義性法親王(後陽成院御子空性之事)」とある。内容的に4つに分けられる。(1)は、正保2年6月10日付の空性法親王令旨1点、後光明天皇女房奉書1点、明正上皇女房奉書1点。これらは正保2年4月23日、元服と同時に権大納言に任ぜられた竹千代君(四代将軍家綱)への祝儀として、武家伝奏今出川経季・同飛鳥井雅宣に出された文書である。(2)は、承応2(1653)年2月8日付の後光明天皇女房奉書1点、明正上皇女房奉書1点、後水尾上皇女房奉書2点、内容は、年頭に将軍家より送られた御祝にたいする礼である。宛所は、武家伝奏清閑寺共房・同野宮定逸である。(3)は、明暦4(1658)年2月18日付の明正上皇女房奉書1点、後水尾上皇女房奉書1点で、将軍家若君(家綱)の成長の祝状。清閑寺・野宮両武家伝奏にあてられている。(4)は、万治2年3月31日付の後西天皇女房奉書1点、明正上皇女房奉書1点、後水尾上皇女房奉書1点、内容は将軍家若君(同前)のまへかみ上げにたいする祝状。武家伝奏の勧修寺経広と清閑寺共房にあてられている。

大黒町文書(だいこくちょうもんじょ) 館古135

室町通五条下ル大黒町に伝えられた町文書、18点。安永2(1773)年から安政2(1855)年までの証文類である。

大乗院文書(だいじょういんもんじょ) 館古037

奈良興福寺の大乗院に伝えられた文書、824点。大乗院は一乗院とともに、興福寺の寺務を管掌した門跡寺院である。明治維新の廃仏毀釈の際、両門跡および塔頭諸坊の住持は、多くが公卿の子弟であったことから爵位が授けられ、大乗院門跡隆芳は還俗して松園尚嘉と称するとともに、男爵位を持つことになる。大乗院の廃絶により、その多くの文書記録類は、松園氏の所有に帰したが、尚嘉が九条尚忠の二男であったことから、京都の川端荒神口上ルの九条家砂川別邸に保管された。その後、この文書記録類は、(1)内閣文庫、(2)徳富蘇峰からお茶の水図書館、(3)猪熊信男氏から広島大学文学部、(4)京都府立図書館から当館の4系列に分割され、現在に至っている。当館所蔵分は、天正14(1586)年から明治28(1895)年の期間に渡っている。この文書群を形状でみると、約330点が袋綴などの冊子形式のもので、残り全部が書状形式のものである。書状形式の文書は、元禄4(1691)年を上限として、明治初期まで残っており、寛政年間(1789~1801)を境として、急激に増加している。内容は、御納戸御用銀の借用に関するものが大半を占め、その内、「御納戸御用銀借用証文」が中心である。それに附属する形で、「同借用副証文」「同請取状」「同借用請合一札」「同借用願」などがある。また、御納戸御用銀の借用主体は、郡山家中、奈良・大和の諸郡は言うに及ばず、山城・摂津・河内・和泉・伊勢・遠く備前岡山まで広がりをみせている。冊子形式の文書は、(1)所領の支配に関するもの、(2)院主の関東下向に関するもの、(3)春日社造営に関するもの、(4)日記などの記録類に大別できる。(1)所領支配関係の文書としては、(イ)自家の支配所領高を記した、戦国期の大乗院家領御知行分帳を上限として、承応2(1653)年の大安寺所領控帳、寛文3(1663)年の添上郡大安寺村高帳、天保5(1834)年の添上郡美濃庄村高帳・興福寺領添上郡内郷村高帳・長岳寺領式上郡内郷村高帳・法貫寺領式下郡内郷村高帳など10冊。(ロ)「検地帳」「間数等改帳」として、天正14年の大安寺村検地帳、寛永4(1627)年の紀寺領検地帳、延宝2(1674)年の上清水町水帳、元禄4年の美濃庄村検地帳、享保12(1727)年の久保町下町水帳并年貢帳、同年の横車東組間数地子高帳など14冊。(ハ)享保20年と宝暦10(1760)年の添上郡辰市東九条村名寄帳、2冊。(ニ)「年貢納帳」として、寛永5年の珎蔵院納所帳、明暦2(1656)年の大蔵院と□徳院の年貢納帳、元禄13年の恵心院と功徳院の納所帳、5冊。(ホ)寛政2年の東門院と慈尊院の年貢見立帳、5冊。(ヘ)貞享3(1686)年から元禄13年までの美濃庄村万晦日算用状、11冊。(ト)天保6年の添上郡木辻村内七ヵ町の地子改帳、7冊。(チ)文化6(1809)年の添上郡内石川村・柏木村・白毫寺村・大安寺村・横田村・発志院村・若槻村・稗田村・高畠村・田中村・登大路村・櫟本村・清水村・八条村の14ヶ村の高附御請書、14冊等がある。(2)院主の関東下向に関する文書は、(イ)延宝9年のものが7冊。(ロ)元禄6年、2冊。(ハ)元禄15年から16年、11冊。寛保2(1742)年、2冊。延享5(1748)年、2冊。文化2年、3冊。同9年、7冊。弘化3(1846)年、5冊。および年不明分である。内容は、院主の関東下向および帰洛の際の、進物帳・御供帳・御用金請払帳・祈祷寄帳・在府日記・留守日記などであるが、きわだった集中性は示さない。(3)春日社造営関係の文書は、文化元・同2年度のもの4冊。文政6(1823)年度、18冊。万延元(1860)年度、4冊。および年度不明分に大別できる。内容は、鍛冶鉄物・瓦・檜皮などの用材請取やその費用の支出帳簿、諸職人の名前帳、丹塗師や瓦葺師の着到状、仏師職への渡納帳などである。(4)日記など記録類としては、(イ)大乗院殿御記録所日記、21冊(寛文3年1月1日~同3月2日、同3月3日~同閏5月3日、寛文4年9月9日~同12月晦日、寛文6年4月17日~同5月3日、寛文8年2月28日~同4月25日、寛文9年4月5日~同10月5日、寛文9年4月13日~同12月4日、寛文10年5月1日~同6月21日、寛文10年8月20日~同10月14日、寛文10年10月14日~同12月8日、寛文12年1月1日~同3月3日、文化2年7月1日~同12月晦日、文化13年1月1日~同6月晦日、文政4年1月1日~同6月晦日、文政4年7月1日~同12月晦日、天保4年7月1日~同12月晦日、天保5年1月1日~同6月晦日、弘化3年1月1日~同6月晦日、文久2(1862)年7月1日~同12月晦日、文久3年7月1日~同12月晦日)。大乗院御里坊日記、3冊(寛保2年7月1日~同12月晦日、寛保3年1月1日~同7月晦日、寛保3年8月1日~同12月8日)。御賄方役所日記、2冊(享和3(1803)年1月1日~同12月晦日、文化3年1月1日~同4年12月晦日)。某日記、3冊(寛政12年7月1日~同12月晦日、享和2年1月1日~同12月晦日、文化元年1月1日~同12月晦日)がある。その他、寛政3年の鏡明神社絵図・東大寺境内絵図・春日山絵図・三輪神社絵図など11点の絵図資料がある。

大乗院文書・乙(だいじょういんもんじょ) 館古491

奈良春日社の修復に関わる資料。万延元年~文久3年。1点。

大通寺・東寺地子米勘定帳(だいつうじ・とうじじしまいかんじょうちょう) 館古104

天保12(1841)年から明治3(1870)年までの13冊。大通寺は明治45年に現在地(南区西九条比永城町)に移転するまで六孫王神社の北にあり、東寺とは近接していた。

大徳寺総見院指図(だいとくじそうけんいんさしず) 館古379

大徳寺の塔頭総見院の指図1点。年月日未詳。天明2(1782)年に催された織田信長200回忌の法会の様子が朱筆で追記されている。

第四回内国勧業博覧会資料(だいよんかいないこくかんぎょうはくらんかいしりょう) 館古169

明治28(1895)年4月1日から7月31日まで、左京区岡崎で開催された同博覧会の準備に関する日出新聞の付録・号外など7点。地鎮祭の式場図、式次第、博覧会規則、地鎮祭の景況などを伝えている。

内裏陵墓関係資料(だいりりょうぼかんけいしりょう) 館古061

総点数9点。内裏関係のものとしては「大内裏之絵図」「京都御所御建物之図」(明治8年)、「御苑実測之図」などがあり、「平安京旧址実測全図」は明治28(1895)年に湯本文彦が作成したもので、『平安通志』附図の原図。また「京都御苑内旧新比較図」は当時の京都府立第二中学校長中山再次郎の作成したもの。御陵関係のものとしては、天保12(1841)年に権大納言藤原(外山)光成が作成した「山陵順拝図」のほかに諸陵墓修理図、陵墓実測図、陵墓関係書類綴がある。諸陵墓修理図には、後堀河帝陵墓図以下39枚の絵図が含まれる。陵墓実測図には、妙法院内後白河天皇陵以下11枚の絵図がある。書類綴には、明治5年の園部県陵墓取調文書など7通がとじられている。

高木ヒロ家文書(たかぎひろけもんじょ) 館古415

慶応2(1866)年、船井郡曽根村(現京丹波町)に落下した隕石(「曽根隕石」)に関する記録と明治31(1898)年の隕石鑑定書の2点。なおこの隕石は平成4(1992)年11月10日付で京都府に寄贈され、現在国立科学博物館で展示されている。

高砂町文書・甲(たかさごちょうもんじょ) 館古130

諏訪町通五条下ル高砂町に住み扇屋を営んでいたといわれる村山家に伝えられた町文書、149点。明治初年のものと推定される同町の「軒役絵図」のほかは、文政6(1823)年から文久元(1861)年にかけての家屋敷譲状である。

高辻大宮町文書(たかつじおおみやちょうもんじょ) 館古278

大宮通高辻下ルの高辻大宮町に伝えられた文書、2点。ともに冊子で、明和4(1767)年「沽券状御改帳控」と明治13(1880)年「市街地一筆限地券願帳控」である。

竹野村文書(たかのむらもんじょ) 館古284

竹野郡竹野村(現京丹後市)に伝えられた文書、32点。宝永元(1704)年8月の「海上舟運ニ付掟」以外は証文類と貸借に関する口上書である。

高宮屋文書(たかみややもんじょ) 館古089 館古090

新町通三条下ルの地で呉服商を営んでいた高宮屋に伝えられた文書、80点。当館へは二度に分かれて入ったために、甲・乙に分けて運用している。甲は文化・文政期の奉公人関係の証文類で14点。乙はすべて欠年で、書状を中心に66点がある。

多賀村文書(豊田元彦氏蔵)(たがむらもんじょ) 集古M134

綴喜郡多賀村(現井手町)の庄屋文書。元文元(1736)年から明治初期までの資料、8巻(278件)。借用証文が大部を占めるが、郷士相続願、神事帯刀願なども含まれる。当館所蔵の「松田家文書」の関連資料である。

宅間家文書(たくまけもんじょ) 館古123

河原町通二条下ルの下丸屋町に居住していた宅間家に伝えられた文書、31点。文政元(1818)年の宗門人別改帳のほかは、すべて明治期のものである。20点が宅間家の私的な文書で、他の11点が下丸屋町の町文書である。町文書では、明治6(1873)年の「人家・坪数・官地惣大絵図」、明治10年の「地所間数取調書」「地券控」、明治13年の「市街一筆限地券願帳」や明治20年の「土地台帳」がある。また、私的な文書では、明治30年から明治44年9月までの宅間太兵衛の日記のほか、同氏に対する戸長・学務委員・区会議員・疏水事務委員などの辞令や認定証がある。

竹下氏旧蔵京都関係文書(たけしたしきゅうぞうきょうとかんけいもんじょ) 館古530

杉浦家日記・書状・心学黌舎関係文書、公家日野家の奉公人請書・親類書、千切屋(石田)五兵衛家・池沢家の借用証文類ほか。杉浦家の日記は「杉浦家歴代日記」(文献課)と関連する。近世後期~明治期。907点。

竹田家文書(たけだけもんじょ) 館古117

紀伊郡竹田村(現伏見区)の庄屋竹田家に伝えられた文書、22冊。すべてが年貢勘定目録で文政6(1823)年から文久3(1863)年の間のものである。

武部時男氏旧蔵資料(たけべときおしきゅうぞうしりょう) 館古337

すべて年月日未詳の設計図、26点。うち梨木神社のもの11点、豊国神社のもの3点、江戸後期の画家佐伯岸駒の記念堂のもの2点、宇佐神宮のもの5点、その他は場所不明の部分図である。

太政官牒(貞永元年)(だじょうかんちょう) 中集古S326

貞永元(1232)年10月2日付け定額僧の補任に関するもの。1点。宮内庁書陵部所蔵

太政官牒(応保3年ほか)(だじょうかんちょう) 中集古S337

平安時代の定額僧の補任に関するもの集めたもの。23点。宮内庁書陵部所蔵

龍野家文書(たつのけもんじょ) 館古463

三条富小路下ル福長町で近世中期より呉服商を営んでいた龍野家(伊勢屋五兵衛家)の文書で1157点。享保年間~昭和20年頃。商売に関する文書、家の由緒や財産、相続・訴訟に関する文書、冠婚葬祭など生活に関する文書、趣味を通じて交わされた書状類などである。伊勢屋は出雲、因幡、阿波、紀州など地方とも取引があり、多角的な経営活動を行っていたことがわかる。

蓼倉郷田地文書(たでくらごうでんちもんじょ) 中館古011

現在、左京区下鴨蓼倉町にあたる高野川畔の田地の手継券文、2点。1点は蓼倉郷内字「金クソ」田地手継券文であり、天文6(1537)年10月18日付畳屋弥四郎等連署田地百姓職売券、天正8(1580)年3月5日付しゆゑい田地作職売券、天正8年5月3日付谷口本役米売券、天正12年6月29日付下鴨西大□(工)九郎左衛門尉本役売券の5通である。もう1点は、同蓼倉郷内字「ふじやう田」田地手継券文であり、明暦元(1655)年7月3日付源七銀子借状、貞享元(1684)年8月27日付六右衛門屋敷売券、享保15(1730)年12月21日付但馬田地作職譲状、寛保元(1741)年3月16日付弥兵衛田地作職譲状、寛保2年6月27日付長太郎田地作職売券の5通である。いずれも料紙を補修せず、張り継いでいる。10通とも一括、木箱(樅製)に収められている。

田中国三郎文書(たなかくにさぶろうもんじょ) 館古210

明治末年に京都税務監督局長であった田中国三郎の許に寄せられた書類綴、1冊。内容は、明治38(1905)年の製茶に関する調査報告、明治39年製塩調査、明治29年から38年の所得税一覧、明治31~34年の醤油・酒査定石高表、大正元(1912)・2年の間接税監督補助復命書綴、酒税に関する参考表などが綴られている。

田中家文書(たなかけもんじょ) 館古385

南桑田郡亀岡町安町(現亀岡市)の田中家に伝来した文書、44点。宝暦5(1755)年7月、安町村の御赦免地の内訳を記した「永川御改帳」をはじめ、明治12(1879)年「宅地其他一筆限調帳」など土地に関するもの10点、明治35年「南桑田郡酒造組合契約書」など酒造に関するもの7点、年未詳「条目并暁諭書」など規則に関するもの3点、ほか「日誌」「雑記簿」「辞令」など8点、書状類16点がある。

田中謙文書(たなかけんもんじょ) 館古552

東九条村(現京都市南区)の村長・京都府府会議員・京都府郡会議員等を勤めた田中謙氏が所蔵していた資料。議員活動に関わる資料が中心。陳情書・請願書、府会雑記など。明治7(1874)~43年。102点。

田中氏旧蔵渡辺千秋書状(たなかしきゅうぞうわたなべちあきしょじょう) 館古532

第6代京都府知事渡辺千秋が京都府警部長田中貴道に宛てた書状類。日清戦争、第4回内国勧業博覧会に関わる内容等が含まれる。明治28年ほか。5点。

田辺家文書・丙(たなべけもんじょ) 館古553

淀藩の家老であった田辺家に伝えられた文書の3次分。淀温故会に関わる書状ほか。元治元(1864)年~昭和14(1939)年。104点。

田辺朔郎関係資料(たなべさくろうかんけいしりょう) 館古468

琵琶湖疏水事業など多数の土木事業を指導した工学者田辺朔郎の肖像写真、妻へのはがき、喜寿祝賀の資料。5点。

田辺(舞鶴)城絵図(たなべじょうえず) 集古S077

元禄5(1692)年2月田辺城の石垣修復のために藩主牧野富成から幕府に提出された絵図の控。1点。舞鶴市所蔵。

田辺藩牧野家分限帳(たなべはんまきのけぶげんちょう) 館古544

田辺藩(舞鶴)藩牧野家の宝暦年間の分限帳。藩士420名の名前、職分、石高が記されている。1点。

丹波関係資料(たんばかんけいしりょう) 館古521

南桑田郡第7組金岐村(亀岡市)の資料ほか桑下漫録の抜粋、丹波国古記など丹波地域に関する資料。8点

丹波丹後両国検地帳(たんばたんごりょうこくけんちちょう) 館古058

丹波・丹後両国の各村検地帳、70冊。内容は4種類に分かれる。慶長7(1602)年の検地帳が17冊、慶長18年の指出帳が8冊、慶安5(1652)年の検地帳が43冊、元禄3(1690)年の検地帳が2冊である。このうち、慶長18年の指出帳には元和7(1621)年2月22日付の奥書があり、元和7年福知山藩主有馬豊氏が筑後久留米移封後、丹波亀山城主岡部長盛が入封する際の引継にあたって利用されたことが知られる。なお慶長度の検地帳と指出帳は田畑が一括されているのに対し、慶安・元禄度のものは田畑が別帳となっている。慶長7年の検地帳が残っている村は、丹後国中郡の丹波郷村、矢田村、橋木村、赤坂村、石丸村、杉谷村、管村、小西村、五ケ村、久次村、内木村、荒山村、長岡村、河辺村、口大野村、善王寺村(以上現京丹後市)である。慶長18年の指出帳が残っている村々は、丹波国天田郡の生野庄草山村、川北村、豊富村、上野村、池田村、日置村(現福知山市)、志賀庄栗村、綾部庄高津村(以上現綾部市)である。慶安度の検地帳が残っているのは、丹波国天田郡の細見村、千束村、草山村、寺尾村、芦渕村、下河合村、上河合村、岼村、台頭村、大原村、加用村、大身村、萩原村、生野村、上野村、正後寺村、三俣村、池田村、宮村、岩崎村、大内村、口日之尾村、常願寺村(以上現福知山市)の各村である。元禄3年のものは丹波国天田郡大内村(現福知山市)の田方・畑方の2冊である。

丹波国天田郡福知山故城之図(たんばのくにあまたぐんふくちやまこじょうのず) 集古S078

元福知山藩士である三岳瀬徳全(用瀬徳全)が明治29年に作成した福知山城図。京都府立福知山高等学校所蔵。