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古文書解題 「と」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(た行)

2007年11月30日 更新

東宮御元服御装束図(とうぐうごげんぷくごしょうぞくず) 館古483

文化8(1811)年の東宮元服の儀式に関する資料。3点。

東寺観智院古文書(とうじかんちいんこもんじょ) 中集古S330

延慶元(1308)年「弥一御前御髪生始事」、暦応元(1338)年11月日「八幡宮立柱上棟儀」。写本。1点。宮内庁書陵部所蔵。

東寺記(東寺執行日記)(とうじき) 中集古S321

伊勢松坂小津桂窓の西荘文庫旧蔵の「東寺執行日記」。写本。1点。天理図書館所蔵。

東寺旧記抄(とうじきゅうきしょう) 中集古S319

東寺廿一口方評定引付の抄出本。明徳5(1394)年~天文23(1554)年。1点。東洋文庫所蔵。

東寺五重塔図(とうじごじゅうのとうず) 中館古012

現在の東寺五重塔は寛永21(1644)年に竣工された塔であるが、この図は、その作事に当った江州 高木作右衛門が作成した1点。「東寺五重塔五拾分一地割」である。料紙(縦142.4センチメートル、横42.7センチメートル)の中央に塔身全体の木組の墨引差図を描き、その上部に、塔の規模ならびに造営に関する記録がある。それらは、まず「高サ三拾壱間三尺三寸三分 此丈 弐拾丈四尺八寸三分」とあり土台について「土居 五間壱尺五寸 此丈 三丈四尺」とある。造営の記録は、「釿始寛永十八年霜月廿一日 作事始寛永十九年正月廿一日 柱立同年九月廿一日 せんたん斗寛永弐拾年卯月廿一日」と記され、造営の過程がわかる。そして高木作右衛門が、「右ハ後代為證拠験置者也」と記しているので、寛永21年三代将軍徳川家光による造塔竣工後、この図が作成されたのである。関連資料が当館所蔵の中井家文書にある。

東寺古文書写(とうじこもんじょうつし) 中集古S332

東寺の古文書写。1点。宮内庁書陵部所蔵。 

東寺古文書目録(とうじこもんじょもくろく) 中集古S320

前田綱紀による東寺文書調査に際して作成された目録。1点。東洋文庫所蔵。

東寺草創以来事(とうじそうそういらいのこと) 中集古S329

東寺長者にも就任した大覚寺聖無動院道我の記録。写本。1点。宮内庁書陵部所蔵。

東寺長者知行法務凡僧別当款状並宣旨符案(とうじちょうじゃちぎょうほうむぼんそうべっとうかんじょうならびにせんじふあん) 中集古S323

江戸時代の東寺長者・凡僧別当の款状や宣旨を集めたもの。22綴。宮内庁書陵部所蔵。

東寺長者拝堂記(とうじちょうじゃはいどうき) 中集古S339

永享5(1433)年3月21日。東寺一長者地蔵院持円の拝堂記録。1点。宮内庁書陵部所蔵。

東寺長者補任(とうじちょうじゃぶにん) 中集古S331

寛永11(1661)から寛文元(1661)年までの記載。報恩院寛済所持本の写本。1点。宮内庁書陵部所蔵。

東寺堂舎等損亡検注状(とうじどうしゃとうそんもうけんちゅうじょう) 中集古S333

建久3(1192)年11月5日・治承3(1179)年6月日付け。2通。宮内庁書陵部蔵。

東寺文書案(とうじもんじょあん) 中集古S327

東寺造営の料所などに関する中世文書を写したもの。1点。宮内庁書陵部所蔵。

東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ) 中館古013

東寺(正しくは教王護国寺、真言宗総本山)に伝来した文書、約2万点。時代的には、奈良時代天平年間(年号一部欠失、729~749)から、江戸時代宝永8(1711)年に至る約900年間の文書である。江戸時代中期、加賀藩五代藩主前田綱紀がこの文書の書写事業を行い、事業終了後、百の桐箱を寄進して文書を納めさせた。蓋のある容器を数える単位を合というが、これが百あるので百合と呼ばれ、これに収納された文書が東寺百合文書と呼称された。これらの箱には、片仮名イ~セ、平仮名い~せ、漢字「京」「天地之部」「無号之部」「甲号外」「乙号外」「観智院」「丙号外」「追加之部」の名称が付されている。また「せ函」には、「せ函」本来の文書のほか「古文書」「太政官牒補任」「武家御教書并達」「南朝文書」「足利将軍家下文」と名付けられた文書群が存在する。

東寺は鎮護国家を目的として創設され、古代には東寺長者を中心として運営されたが、末期に至り国家財政の疲弊とともに衰退する。その東寺が再び興隆をみるのは、鎌倉中末期以降になってからである。この頃から後宇多上皇・後醍醐天皇や足利尊氏・義詮といった公武の権門から保護と援助が受けられるようになり、多くの荘園が寄進されるとともに、新たな法会・祈祷が設定され、担当する寺僧も増員された。寺内にはそれまでにも、担当する法会ごとの僧侶集団があったが、この時期にいたり、その集団が組織として整備される。これらは廿一口供僧方・学衆方などと呼ばれ、組織ごとに内部規律を作り、担当する法会や料所の運営を合議で行った。東寺百合文書は、この寺僧組織が作成・受理・保存・管理した文書である。

内容的には、法会・祈祷など宗教活動に関するもの、人事・内規など寺院組織の運営に関するもの、荘園・散在田畠などの所領の経営に関するもの、の三者に大別できる。鎌倉中期までの祈祷に関する文書は、法会に参加した僧侶を書き上げた「修僧交名」、法会で使用した「道具目録」が年次を追って残されているが、あとは法会への参加を命じた「請定」が散見されるだけである。祈祷に関する文書が豊富になるのは、供僧組織が整備された鎌倉時代末期以後である。公家からの祈祷命令は綸旨・院宣で下され、まれに令旨・官宣旨で下された。武家からの命令は、御判御教書・伝奏奉書・幕府奉行人奉書で下された。これらの祈祷命令のうち、綸旨・院宣・伝奏奉書は東寺長者にあてられ、「東寺長者御教書」により東寺供僧中に伝えられた。供僧中には、供僧の評定(会議)の場において、当年の奉行である年預から披露され、具体的な計画が協議決定される。年預は、この評定における報告や討議の様子と衆議による決定事項を「評定引付」という会議録に記録する。さらに、時間・場所・修法名・担当者およびその順番などを記した「廻請」を作成し、担当者の間に回覧する。祈祷が実施されると、年預はその結果を一覧にした「着到」を作成し、これにもとづき修法名・部数を記した「巻数」を作成して命令者に結果を報告する。命令者は、受け取った旨と謝意を伝える「巻数返事」を東寺に送り、1回の祈祷は完結する。こうした国家的祈祷とは別に、鎌倉時代中期以降になると弘法大師に対する信仰が庶民の間に広まり、個人が零細な所有地を東寺に寄進して、自分や一族の死後における祈祷を依頼するようになる。これらの祈祷は「仏事」と呼ばれ、「注文」や「算用状」がある。なお、「仏事布施支配状」「仏事捧物支配状」は、その仏事の収入を担当者に分配したものである。

鎌倉末に至り供僧組織が確立することは前に触れたが、それは同時に内部規律を整備していくことでもあった。規律といえる文書としては、「評定式目」「法式条々」「法度」「置文」「定文」「事書」「連署状」などがある。また「評定引付」は時々の事態における衆議の判断を記録しており、後代の僧侶から先規として尊重されている。これらの規律に基づいて、例えば供僧職の譲与や学頭職の補任にあたって、譲状や「所望状」「推挙状」などが作成・提出される。それが認められると、「補任状」や「請文」が作られる。個人や集団でこの規律の遵守を誓約するとき、「起請文」や「連署起請文」が捧げられる。組織が構成員の意見を求めるときは、「意見状」が徴収される。このほか、次年の年預を多数決で選出するための「奉行合点状」や、組織の書類を次年の年預に引き継いだ「手文箱送進状」は、組織の運営上重要なものであった。また、「西院文庫出納帳」は文庫からの文書の出入りを確認したもので、文所管理の厳密さを窺わせるものである。

所領経営に関する文書は東寺の諸活動を経済的に支えるもので、文書の大半を占めている。東寺の所領は、十八口供僧方供料荘として丹波国大山庄、若狭国太良庄、大和国平野殿庄、伊予国弓削島庄。廿一口供僧方として伊勢国大国庄、摂津国垂水庄、大和国河原城庄、播磨国矢野庄、尾張国大成庄。最勝光院方として備中国新見庄、尾張国原田庄、遠江国村櫛庄、山城国柳原。学衆方として山城国拝師庄、上桂庄、播磨国矢野庄、八条院院町、常陸国信太庄。宝荘厳院方として近江国三村庄嶋郷、丹波国葛野庄。鎮守八幡宮方として山城国久世上下庄。不動堂方として若狭国太良庄地頭職。植松庄方として山城国植松庄地頭職。造営方として山城国東西九条女御田、三河国山中郷などがある。これらを始め約80の荘園があり、このほか仏事料所として洛中、紀伊・乙訓郡に200を超える散在田畠があった。これらの所領について、根本公験となる寄進状、譲状、売券や訴訟が起こったときの申状、陳状、それに裁決を与えるものとして、朝廷からは院宣、綸旨、鎌倉幕府からは関東御教書、六波羅裁許状、室町幕府からは御判御教書、幕府御教書、管領下知状、これらを受けて管領や守護、守護代の施行状、遵行状が出され、残されている。また、足利義教将軍在位以後には、室町幕府奉行人奉書も大きな役割を担っている。所領の現状把握のための土地台帳、実検帳、内検帳があり、1年間の年貢の決算である年貢算用状、それを東寺に送る送進状、東寺が内部でこれを分配する支配状、滞納分を書き上げた未進注文などの計算書類が毎年作成される。所領の管理には荘官があたったが、これの任免に関するもので補任状、請文、荘官からの報告書である注進状、書状、逆に現地の百姓が窮状を訴える申状、書状、一揆不参加などを東寺に誓約する百姓連署起請文など、およそひとつの所領の管理・運営には多種多様の出来事があり、それに関する文書が作成・受理され、保存されている。

最後に、「評定引付」については宗教活動、組織内部のところでも触れたが、各組織がそれぞれの所領を支配・運営するに当たって、現地からの報告や内部処理などに関する記事が多く残っている。文書の中には「引付」への引用というかたちでしか残っていないものも多くあり、その存在価値は高い。「引付」は現在、廿一口方のものが「ワ・ナ・ち・く・け」の各函と「天地之部」に、学衆方のものが「ワ・ネ・ラ・ム」の各函と「天地之部」に、そのほかのものが「ハ・ワ・ネ・ナ・ヤ・る・た・ね・け」の各函に残っている。

東寺に伝来した文書は東寺百合文書のほか、東寺に現存する「東寺文書」、京都大学文学部が所蔵する「教王護国寺文書」があり、三者をあわせて「広義の東寺文書」と呼ばれるときもある。また、高山寺文書中の東寺文書、大谷雅彦氏所蔵の東寺文書がある。これら以外に所在する東寺百合文書には、東京大学文学部所蔵東寺文書、東京大学史料編纂所所蔵東寺文書、国立国会図書館冑山文庫内東寺関係文書、国立歴史民俗博物館東寺文書、文化庁保管田中教忠蔵書中の東寺文書、関西学院大学図書館所蔵東寺文書、広島大学所蔵猪熊文書中の東寺文書、早稲田大学荻野研究室収集文書中の東寺文書、大和文華館雙柏文庫中の東寺関係文書、松雲寺文書、富岡宣永氏所蔵文書、岩瀬文庫所蔵文書、雨森善四郎氏所蔵文書、平松文書、安藤文書、裏松公博氏所蔵文書、森田清太郎氏所蔵文書、進士文書、北村美術館所蔵文書、藤井学氏所蔵文書、古代学協会所蔵文書、天理大学所蔵文書、桂文書(影写本)がある。

当進軒文庫旧蔵絵図(とうしんけんぶんこきゅうぞうえず) 館古367

16世紀後半から幕末期にかけての模写による絵図、99点。合戦(城攻)図29点、陣列(座備)図22点、古城図14点などのほか、国絵図や屋敷絵図などである。京都に関するものとしては、「淀総絵図」「淀城本丸絵図」「桂離宮絵図」「京都府下之図」「瀬田川之図」などがある。

東大寺古文書(とうだいじこもんじょ) 中集古S338

東寺に関する古文書を集めたもの。13通。宮内庁書陵部所蔵。 

徳屋町文書(とくやちょうもんじょ) 館古153

岩上通仏光寺下ルの両側町である徳屋町に伝えられた町文書、32点。すべてが、文政3(1820)年から明治期にかけての家屋敷買請状・同譲状・死後譲状などの証文類である。

土砂留御触書并法度趣意書(どしゃどめおふれがきならびにはっとしゅいがき) 館古465

文化12(1815)年正月、京都町奉行所から出された土砂留に関する触と、それを受けて該当地域の土砂留めを管理していた山組の取り決めの誓約書。これによれば山組の管轄地域の山は原野の状態で、そこに生育する草を村民が肥料として苅っていたこと、そのため山肌が荒れ、洪水の原因になっていたことなどがわかる。

富田半兵衛文書(とみたはんべえもんじょ) 館古241

京都府の府会議員であった富田半兵衛に関する文書、25点。富田半兵衛は明治9(1876)年上京第4区の区長となり学務委員を兼ねた。明治12年に上京区会議員及び上下京伏見連合区会議員に選出され、ついで明治16年2月の補欠選挙において府会議員に当選、同40年9月の任期満了まで7選され、府会で活躍した。文書の大部分は区会議員としての活動を示すもので、府会に関するものとしては、明治16年3月29日の演説文と翌年3月の議員懇親会での挨拶文だけである。いずれも初当選のときのものである。区会議員に関わるものとしては疏水事業に関係するものが多く、明治16年10月「琵琶湖疏水事業府知事北垣君ト面談始末」以下10点がある。

富田村文書(とみたむらもんじょ)館古248 館古490 館古509

船井郡富田村(現京丹波町)の文書。富田村は明治7年に坪井村と高屋村が合併して成立した村。受入時期により3群に分けられる。第1群は23点。明治5年の坪井村・高屋村の地券願書7冊、明治10年の富田村「耕地一筆限反別・収穫・地価調帳」5冊のほか、鍬下願取調帳、地租金上納検簿、地方税及協議費割賦帳などがある。第2次分は3点。享和元(1801)年新川地面改帳ほか。第3次分は13点。この資料は合併前の坪井村の文書が中心。天明6(1786)~文政5(1822)年の「御触書万願事控帳」、天保14(1843)年「御見分畑帳」、明治5年「地券御渡願書」等の近代書類ほか。

富永家文書(とみながけもんじょ) 館古329

富小路三条上ルの地で、呉服染悉皆業を営んでいた富永家に伝来した文書、80点。もっとも古いものは明和4(1767)年「家屋敷売渡証文写」であり、大半が幕末から明治前半期にかけてのもの。「奉公人請状」9点、「金(銀)子借用証文」39点、「家屋敷売渡証文」3点、「死後譲状」1点。このほか嘉永6(1853)年12月の「館入許状」は岩倉殿家への出入を許されたもので、印鑑・紋付き提灯、称号木札が下付されている。

友重村文書(ともしげむらもんじょ) 館古331

熊野郡友重村(現京丹後町)に伝わった文書、2点。1点は「斎藤六蔵御代官所丹後国熊野郡友重村高反別帳」(年月未詳)。外の1点は明治2(1869)年「久美浜県庁触書写」である。

豊田武氏旧蔵京都関係文書(とよだたけししきゅうぞうきょうとかんけいもんじょ) 館古446

京都市三条大橋東詰町に関わる文書5点。元和8(1622)年と明暦元(1655)年の所司代からの触の写、町中から川奉行宛の文書の写、二条川原茶屋久右衛門屋敷地に関する覚などがある。

富田屋文書(とんだやもんじょ) 館古026

幕末に新椹木通丸太町上ル高島町に居住し、請負大工を営む一方で、同町の町年寄を勤めていた富田屋(とんだや)に伝わった文書、82点。他方、禁裏定御修理方定職人になっていたため、京都御大工頭の中井家の指揮下で、内裏・公家邸等の作事にも携わった。明治維新以後は水谷姓を名乗る。文書の大半は幕末から明治初年にかけての作事関係のもので、文蔵の時に作成されたり、集められたりしたものである。その中には、安政度の内裏再建時の指図・建地割が12点、嘉永7(1854)年の御所御造営大工箇所割其外諸式控帳、安政2(1855)年の御造営心覚が各1点ある。宮家等の屋敷指図として、有栖川宮、中川宮、敏宮のものがある。そのほか主なものとして、江戸和宮様御車道筋図2点。京都守護職役宅上屋敷絵図3点。幕府が設置、代々藤林家が世襲し、禁裏へ薬種を献上した鷹ヶ峰薬園坪付絵図1点。元禄15(1702)年9月18日から4日間、聚楽内野で行われた観世織部勧進能場絵図1点。江戸時代の歴代天皇位牌所の般舟三昧院指図4点。洛中絵図惣土居内門数以下16項目にわたって京都の諸事について書き留めた、文政元(1818)年の「京都旧記録」1点。慶応3(1867)年11月、当家に鶴岡八幡宮・天照皇太神宮の札が降るが、その時の祝品等諸入用書2点などがある。また、中井役所の黒印の押されたものや、「中井控」と墨書きされたものなど、中井役所との関係が明らかな資料20余点も含まれている。なお、この文書群については、昭和56(1981)年、当館発行の『資料館紀要』第10号「<史料紹介>総合資料館所蔵の中井家文書について」の附録に、1点宛の目録を掲載した。

お問い合わせ

文化スポーツ部文化政策課 京都学・歴彩館

京都市左京区下鴨半木町1-29

ファックス:075-791-9466

rekisaikan-kikaku@pref.kyoto.lg.jp

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