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古文書解題 「わ」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(わ行)

2007年11月30日 更新

若杉家文書(わかすぎけもんじょ) 館古027

陰陽頭土御門家の家司であった若杉家に伝えられた文書、2285点。これらの文書は3つに分類することができる。(1)本来は若杉家の文書ではなく、主家土御門家に伝わった文書。土御門家は天皇の東上に伴なって東京に移住するが、そのとき古文書類を東京に運び、のち宮内庁に寄贈した。これらの古文書は、現在も宮内庁書陵部に架蔵されている。しかし、転居に際して京都に残された古文書も多かったようである。京都には明治初年に陰陽事務所が開設され、若杉氏がその中心となったこともあり、土御門家の文書が引き継がれたものと判断される。(2)本来の若杉家文書。これも2種類に分かれ、陰陽道に関するものと、若杉家に関する私的な文書である。(3)若杉家のあった上京塔之段松之木町の江戸時代から明治期にかけての町文書。

土御門家関係文書は759点。そのうち、72点が中世文書である。もっとも古いのは、延慶3(1310)年8月8日付の土御門淳房所領文書等譲状である。家領である若狭国名田庄上村に関するものが、暦応元(1338)年10月7日付の若狭国守護大高重成遵行状をはじめとして21点。備前国河北庄、但馬国東河庄、摂津国溝杭内土井跡并富松下司職など、その他の家領に関するもの6点。洛中巷所や諸口雑務料に関するもの8点。また、文正元(1466)年7月2日付で外典祈祷を命じた足利義政御判御教書案や、永正7(1510)年9月5日付で天変地妖祈祷を命じた室町幕府奉公人連署奉書などがある。このほか、文明10(1478)年足利義政泰山府君祭、大永5(1525)年足利義晴防解火災祭、天文22(1553)年武田信豊泰山府君祭、慶長16(1611)年後水尾天皇天曹地府祭、慶長20年伊達政宗泰山府君祭など都状・祭文23点がある。

つぎに中世の写本類13点がある。「小反閉作法」は建長2(1250)年6月23日付土御門維弘書写の奥書がある。「反閉作法并作法」も鎌倉末期の書写で、紙背文書10通すべて鎌倉末期のものであり、元応2(1320)年の具注暦も含まれている。「反閉部類記」も同時代の写で、紙背文書16通も鎌倉末期のもの。万里小路宣房の奉じた後宇多上皇院宣の断簡も含まれている。属星祭文(前欠)の料紙の紙背文書は、すべて応永7(1400)年9月5日付の沙門道義(足利義満)の天曹地府祭捧物献納状である。また「中臣秡義解」には安部真勝が撰し、永享4(1432)年12月29日に渡会権神主氏尚が書写し、正三位安部泰清が相伝する旨の奥書がある。「石氏薄讃」には正和3(1314)年8月19日土御門泰世写の奥書があり、「石氏星官簿讃」(前後欠)、「雑卦法 巻一」(前欠)も同時期のものと判断される。

つぎに日記類67冊がある。日記は、土御門家当主の日記、御役所日記、家司日記、天文暦方日記、地方日記、守辰方日記、諸国支配方日記に分けられる。当主の日記としては、有宣卿記断簡、泰重卿記断簡、泰邦卿記、泰栄卿記、晴親卿記がある。有宣卿記断簡は明応8(1499)年の8月6日から18日条、9月8日から13日条、10月3日から24日条のみである。泰重卿記断簡は慶安元(1648)年1月条の記事が残されている。泰邦卿記は2冊ある。1冊は断簡で享保18(1733)年3月7日から10月26日条のみ、他の1冊は表題に「大史策 安子繁」とあり、安永5(1776)年1月1日から7月19日条までの記事がある。泰栄卿記2冊はともに後欠である。1冊は天明2(1782)年5月1日から6月3日条まで、他は天明7年1月1日から2月1日条までである。晴親卿記は8冊が残されており、第1冊は享和元(1801)年1月から12月、第2冊(後欠)は文化2(1805)年1月1日から23日条まで、第3冊は文化3年1月から12月、第4冊(後欠)は文化4年4月1日から15日条まで、第5冊は文化7年8月1日から9月12日条まで、第6冊は文化9年1月1日から11日条まで、第7冊(後欠)は文化9年8月1日から9日条まで、第8冊(後欠)は文化11年1月1日から22日条までの記事がある。これらは、いずれも宮内庁書陵部の架蔵する土御門日記の欠を補うものである。御役所日記は6冊で、寛延2(1749)年、宝暦2(1752)年、同3年、同5年、同6年、同7年のものである。家司日記は9冊でうち3冊は断簡である。第1冊(前欠)は元禄13年(1700)年6月26日から翌年1月7日条まで、第2冊(前欠)は寛延4年閏6月1日から12月まで、第3冊は宝暦2年1月から9月8日条まで、第4冊は宝暦3年、第5冊は宝暦4年、第6冊は宝暦5年のものであり、断簡3冊はいずれも数紙で、寛政7(1795)年、弘化2(1845)年、安政4(1857)年のものと推定される。天文暦方日記は、暦方日記、天文方日記、天文暦方日記に分かれる。暦方日記は宝暦2年、同7年、同8年の3冊、天文方日記は宝暦4年と天保14(1843)年の2冊、天文暦方日記は寛政7年、天保11年、安政2年から同7年の3冊が残っている。地方日記は3冊とほかに年未詳の断簡3冊がある。第1冊は文政7(1824)年10月から天保3年12月、第2冊は弘化3年10月から嘉永7(1854)年12月まで、第3冊は安政2年1月から明治元(1868)年まで。守辰日記は宝暦元年11月25日から翌年9月26日条までと、宝暦2年9月27日から12月晦日までの2冊。諸国支配方日記は13冊あるが、7冊は年未詳の断簡である。残りの6冊は弘化2年、安政2年、同4年、同6年、文久2(1862)年、慶応2(1866)年のものである。ついで、往来留が12冊ある。暦方往来留が3冊で、宝暦8年、宝暦13年~明和4(1767)年、明和8年~同9年まで。天文暦方の往来留が寛政8年、同9年、同10年の3冊である。残りが伝奏方往来留で、文化3年から天保15年にいたる4冊と、安政2年から同4年、安政6年から文久2年にいたる6冊である。

つぎに、「大嘗会参向記要」(天明7年)、「関東御進献書抜」(文化10年)、「巳日之御秡御進献御使者日記」(年未詳)など別記、部類記が22点。申文、叙位例、叙日、家例、傍例、勘例などの叙位、任官に関する文書が128通ある。このほか、元和9(1623)年7月付徳川家光天曹地府祭都状案をはじめとする江戸時代の都状、都状案が68点、天明6年9月4日付徳川家治泰山府君祭々文案をはじめとする祭文、祭文案が85点、秡・祝詞類が12点、勘文・占文93点などがある。ことに、後鳥羽上皇の命により、承元4(1210)年8月に安部孝重が作成した「勘申 吉事等日事」は、この文書群の中でもっとも古い年紀をもつものである。また「朝観行幸日事勘申」(後欠)・「勘申 神事仏事日并例等」(後欠)、「作事日等勘申」(断簡)なども同時代のものと考えられる。祭文部類記6点のうち冊子状の1点は126丁に及び、天文年間を中心にした陰陽道の各祭々文を数多く納めている。一方、天曹地府祭次第、三万六千神祭次第など陰陽道の祭における行事の順序を記した「次第」が72点。同じ祭の「次第」が少なく、陰陽道の祭の種類の多いことがわかる。このほか、祭、儀、什器などの絵図類も多い。書状類は131点。以上が土御門家関係の文書である。

本来の若杉家文書で、まとまったものとして、若杉家日記があげられる。これは、寛保2(1742)年、宝暦13年の2冊と安永7年から文政12(1830)年にいたる53冊がある。「臨時祈祷並勘文之記」は陰陽道の諸活動と云うべきものであるが、文化7年から明治5年まで49冊あって、途中に欠ける年次はない。「新法暦諸続篇」(第3帙)をはじめとする暦書および暦が38点。「陰陽五要寄書」「梅花心易抄」「霊棊経卜法」など陰陽道関係の版本類が49点。若杉家の手になる勘文、占文、卜の類が40点。このほか、陰陽道の活躍を伝える証文、請文、絵図などが39点ある。天明4年10月12日付土御門家下知状をはじめとする摂津・河内の歴代組関係の文書は16点であるが、「河内・摂津歴代組関係文書綴」のように編綴された文書もあり、その数は多い。陰陽道本庁、陰陽道本所、陰陽事務所などが創立され、明治初年には陰陽道の復活のための努力が続けられるが、その陰陽事務所に関するものが51点ある。塔之段松ノ木町の町文書は251点があり、宝暦13年7月付の町式目のほかは、大部分が死後譲状、家屋敷譲状、借家請状などの請文類である。

若槻幾斎関係資料(わかつききさいかんけいしりょう) 館古480

文化~文政年間の日記・和歌集など。21点。若槻幾斎は江戸後期の儒者。角倉の属吏だったが辞して聖護院村に住み、頼春水・高山彦九郎らと交流を持った人物。

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