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古文書解題 「や」から始まる文書

古文書解題 [総合資料館]

古文書一覧(や行)

2009年6月19日 更新

柳原家文書(やなぎはらけもんじょ) 館古041

伝奏として活躍した柳原家に伝えられた記録類、113点。なかでも、柳原家の当番家司によって書き継がれた幕末から明治初年にかけての役用日記にまとまりがある。表題は「御日記」「役用雑記」「議奏御殿常用等雑記」など、時期によって変化するが、いずれも同内容のもの。弘化3(1846)年6月から12月にかけての1冊のあと、嘉永・安政・万延年間(1848~61)の日記を欠くが、文久元(1861)年7月以降、明治7(1874)年7月までの日記40冊である。この間に欠ける年次は、文久2年1月~6月、文久3年1月~6月、明治4年1月~3月までの3冊だけである。このほか、柳原家では玄関日記が記されたようであるが、残っているのは、慶応元(1865)年10月~12月、明治2年1月~3月、明治3年4月~6月の3冊のみ。同時期の廻状留もまとまってのこされている。表題は「御廻文之留」「御廻文帳」「御回章留」などとなっているが、文久4年1月から明治7年6月までの分16冊があり、途中慶応元年の記事が欠けている。また、江戸中期以降の諸社寺の執奏帳がまとまっており、法隆寺、大念仏寺、長命寺、高源寺、出雲大社、上下賀茂社のもの20冊がある。そのほかは、必要に応じて作成された記録類で、文久2年日光幣使として参向した時の記録、明治2年に勅使として薩摩に下向した時の記録、同年天皇の東京遷向の記録などがある。

柳原町文書写(やなぎはらちょうもんじょうつし) 館古289

信長・秀吉時代に上京町中に宛てられた朱印状・黒印状など18通を写して巻子に仕立てたもの1点。文化11(1814)年秋に筆写した旨の奥書がある。

山内家文書(やまうちけもんじょ) 館古366

船井郡三之宮村(現京丹波町)に居住した山内家に伝来した文書、1738点。同家は寛政年間(1789~1801)頃に綾部藩から大庄屋に任命された。そのため伝来する文書も、庄屋文書(706点)、大庄屋文書(305点)、残りの私文書に大別され、多くは江戸時代中期から明治にかけてのものである。庄屋文書は、寛永19(1642)年から慶応2(1866)年までの「年貢免状」26点、寛政2(1790)年から明治3(1870)年までの「年貢勘定目録」24点、天明8(1788)年から弘化2(1845)年までの「御物成勘定帳」34点をはじめ、「一作引帳」「小入用割賦帳」など年貢関係の文書が多い。大庄屋文書は、大半が横帳形式の帳簿類で、「御触書諸願書写帳」8点、「大原御蔵割帳」16点、組の割賦帳29点のほか、人別などの改帳や難渋人に関するものがある。私文書は、田地や銀子などの証文類20点のほかは、ほとんどが書状と諸覚である。

山崎町文書(やまざきちょうもんじょ) 館古194

河原町三条下ル二丁目山崎町に伝えられたと推定される文書、41点。大部分は町の金銭の覚類であるが、ほかに御触書数通や天保8(1837)年10月将軍宣下の上使として上洛した「酒井左衛門尉様御下宿料配当控」や明治3(1870)年の「券状写書町内中」などがある。このほか、「御召刻限并御用向出勤控」がある。これは文政3(1820)年11月から翌年2月にかけての左官職春日組の年番記録である。裏には桔梗屋善兵衛記録とあり、文中記事でも春日組年番の同人が記したことが確認できる。しかし、当時同人が車屋町通竹屋町下ル町に居住しており、これが山崎町文書の中に伝わった事情は明らかでない。

山城製茶会社文書(やましろせいちゃがいしゃもんじょ) 館古364

明治11(1878)年4月、伊東熊夫を中心に創設された山城製茶会社の関連史料、6点。うち2点は、相楽郡第5区(瓶原・和束地方)の区議員と各村戸長が連署して、製茶人が会社への加入に反対していることや、そのために製茶量の調査が実施できない旨を製茶会議々長長村保固に報告した上申書である。他の2通は久世郡第2区平川村製茶会議々員の辞任願である。これは、製茶会議々案の調査を終えた長村保固、伊東熊夫、西川義延等が京都府に提出したもの。最後に「製茶生芽壱撰総計表」がある。

山城国郡村名(やましろのくにぐんそんめい) 館古479

幕末頃の山城国郡別の村名・領主名を記した横帳。1点

山城八郡石高帳(やましろはちぐんこくだかちょう) 館古510

山城国の村毎(除愛宕郡・葛野郡)の領主・石高を書き上げたもの。明和9(1772)年写。1点。

山城八郡詰所文書(やましろはちぐんつめしょもんじょ) 館古292

山城八郡詰所に伝わった文書、5点。同詰所は明治4(1871)年から施行された「改正戸籍法」の区戸長制度下で、京都府と府内8郡の各区との行政上の連絡を密にするため、民費をもって設置された半公的な機関と思われ、各郡から交替で区長が詰め、その任にあたった。明治6年から同9年にかけて府庁営繕費等を山城8郡の民費にして上納を令した一件綴、明治10年の遠藤五郎三郎の「金銭取渡通」、同年1月愛宕郡第2区の「諸上納簿」書上綴、明治12年4月よりの林小兵衛「詰所覚簿」、同13年の川原地租税上納書からなる。

山田家文書(やまだけもんじょ) 館古557

陰陽師として朝廷に仕えた土御門家の用人山田家の資料。文久元(1861)年の巳日御祓と慶応2(1866)年の名越之御祓の使者として山田貴信が江戸幕府に遣わされた時の日記2冊。行程や宿泊地、費用などが書きとめられている。

大和屋文書(やまとやもんじょ) 館古139

最初は安居院若宮堅町で、天明の大火で類焼してからは、寛政5(1793)年に大徳寺境内の二俣川の西端に移って絞油業を営んでいた大和屋に伝わった文書、173点。移転当時は「米賃踏并雑穀類はたき渡世」をしていたようであるが、天明大火の打撃による一時的なもので、他の時期は一貫して絞油業を営んでおり、山城国絞油仲間の惣代をも勤めていた。油絞に関しては、10点の油絞作業場や住居の絵図に加えて、数多くの普請願書が残されており、水車や作業場の様子を具体的に伝えている。また、延享2(1745)年4月16日付の「新規絞油御尋ニ付口上書」は、安永2(1773)年の山城国絞油屋仲間の成立以前の様子を伝えている。他の大部分は証文類と書状である。

山中家文書(やまなかけもんじょ) 館古238

三ノ宮町通正面下ル上三ノ宮町で醤油製造業を営んでいた山中家に伝来した文書、84点。文書は文久4(1864)年から昭和15(1940)年にわたるが、明治後半期に集中して残っている。すべて家業に関する帳簿類で、金銀出入帳(文久4年~明治35年)14冊、醤油原料仕込帳(明治21年~同38年)10冊、醤油・麹の製造帳(明治26年~同38年)8冊、醤油売上帳(明治23年~同38年)8冊、初荷帳(明治29年~大正3年)8冊、査定醪支払明細帳(明治28年~同38年)5冊、諸控帳(明治26年~同39年)12冊等がある。

山名義幸遵行状(やまなよしゆきじゅんぎょうじょう) 中館古018

康暦元(1379)年11月19日、室町幕府侍所頭人山名義幸が、所司代高山伊予守某に宛てた1点。東寺の北に八条大路をへだててあった遍照心院と東寺の寺辺散在所領相論を裁許した康暦元年11月18日付の幕府御教書に基づき、同院雑掌に塩小路朱雀田地一町と款冬田を打渡すことを命じたもの。遍照心院を寺基とした大通寺に伝来した文書。関連文書は、醍醐寺文書、東寺百合文書にもある。軸装。