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メルマガコラム 京の風景(江戸時代編) [総合資料館]

京の風景(江戸時代編)vol.1

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

はじめに

 府立大学と総合資料館は、館蔵資料を研究して、府民の方々へわかりやすい形で還元することを目的として、平成13年度から共同研究を始めました。
 このコーナーの話のネタ本「正徳元年 諸事日記」は、日本近世史を専攻されている水本邦彦先生と大学院生の方々と共同して解読している資料で、京都町奉行所と町を仲介する町代が記した公務日記です。
 正徳元年は西暦1711年。徳川綱吉が没して2年。徳川吉宗が登場する5年前です。 
 このコーナーではその頃の京都の町の風景を、解読作業と並行しながら少しずつ紹介していきたいと思います。

町のど真ん中で火がゴーゴー燃えていた????

<原文>
十一月八日 三条釜座町釜屋信濃所ニ而、紀州田辺上秋津村千光寺撞鐘、口差渡二尺二寸高三尺八歩鐘、来ル十日之朝六ツ過ニ吹申候故、御断申上候・・・・

<要約>
三条釜座町の鋳物師である釜屋信濃のところで和歌山県田辺上秋津村千光寺の鐘-口径約67センチ高さ約91センチ-を造るのに、来る10日の午前6時過ぎに火をたき鋳造しますので御奉行様へお届けします

<説明>
 江戸時代の京都の町は火事に対しては非常に敏感で、どんな小火(ぼや)であっても出火した町から町奉行所に報告していました。
 もっとも、たいていの場合、隣近所の町が騒ぐのでしかたなく・・という感じです。
 そんな町中で、もし高熱の火を扱う釜師(鋳物師)等が黙って火を焚けば・・・それはそれは大騒ぎになっていたことでしょう。というわけで、釜師等が火を扱う時は事前に奉行所に届け出ていました。
 今も、火災とまぎらわしい煙または火炎を発する行為をする場合は消防署に事前に届ける事になっていますね。そのルーツといえるでしょうか。 
 三条釜座町は釜等を鋳造する鋳物職人が多く住んでいた地域で、釜の美術館「大西清右衛門美術館」があり、その面影を残しています。当時は全国鋳物業の中心的存在であり、この年の7月からの5ヶ月間だけですでに美濃国(岐阜)若狭国(福井)近江国(滋賀)等の他国の寺から鐘の注文を受け、その度にこのような届が出されています。
 それにしても、三条釜座町と言えば京都のど真ん中。そこで時にはゴーゴーと炉の火が燃え大量の煙がでていた・・・のでしょうか。 想像できますか?

第2号(2006年10月25日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.2

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

上賀茂神社はピッカピカ!

<原文>
十一月十一日 上賀茂社御造営御遷宮ニ付、為風廻西尾常右衛門殿

<要約>
11月11日 上賀茂神社の社殿が造り替えられ、そこへ御神体をお遷(うつ)しする儀式が執り行われますので、その巡回パトロールのため西尾常右衛門殿(京都町奉行所与力)が出勤されます。

<説明>
 洛北の神秘的な山を背景に、古代から続く由緒ある佇まいを今に伝える上賀茂神社。その真新しい姿など今は想像もつきませんが、なんと江戸時代には、寛永5(1628)年、延宝7(1679)年、正徳元(1711) 年、寛保元(1741)年、安永6(1777)年、享和元(1801)年、天保6(1835)年、文久3年(1863)年と8度も社殿の造替・修理が行われました。
 日記の記事にある正徳元年の造営では、本殿の造り替えと他のほとんどの建物の修復工事が行われ、神様を新しいお社にお遷(うつ)しするこの日、神社全体が木の香りも清々しいピッカピカ状態だったことでしょう。
 ちなみに今私たちがみる社殿は文久3年に造り替えたものです。
 それにしても徳川幕府は、建物を造営したり、戦国時代に一時中断していた賀茂祭を元禄7(1694)年に復活させたりと、賀茂社(上賀茂神社・下鴨神社)の復興・維持に力を尽くします。賀茂社と何か関係が?と思いますが、実は幕府は王朝ゆかりの社寺の復興に熱心で、賀茂社もその一つといえるでしょう。 
 ただ、賀茂社の神紋は二葉葵で、徳川家の家紋三ツ葉葵はその流れをくむもの。まさか、「葵」の御縁で特に熱心!なんてことはないと思いますが、賀茂祭が「葵祭」と俗称されるようになったのは、徳川幕府の肝いりで祭りが復活した江戸時代からとのこと。やはり「葵」はキーワード????

第3号(2006年11月8日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.3

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

「太平記」を寺町で!

<原文>
十一月十五日 寺町通六角下ル和泉式部誠心院寺内ニ而、定日三十日、太平記講釈仕度奉願候、被為仰付候様、原栄宅・誠心院連判御断申上候得者・・・・

<要約>
11月15日 寺町通り六角下ル町にある和泉式部ゆかりの誠心院で、 定められた日に太平記の講釈をしたく思います。御奉行様からその許可を得たいので、講釈師原栄宅と会場となる誠心院が連判で御断り申し上げます。

<説明>
 講釈というのは、江戸時代に軍記物等を講義解釈しながらおもしろく読み聞かせる大衆娯楽の一つで、明治以後は講談と呼ばれたものです。そのルーツは仏教の唱道説教ではないかといわれています。
 中でも「太平記」を台本に忠義・孝心を講釈する「太平記読み」は大人気。色々な所で読み語られ、楠木正成は庶民のヒーローとなっていったことでしょう。なお、日記に記載の原栄宅は京都ではすこしは名の知られた「太平記読み」だったようです。
 また江戸時代には「徒然草」等の古典文学の講釈も開催されることがあり、古典が教養として庶民に読まれ広まっていく一端を講釈が担ったのではないかと思われます。
 誠心院は、平安の歌人で才色兼備・恋多き女性として有名な和泉式部のゆかりの寺です(縮小したものの今も現存!)。ただし「太平記」とは特に深い関わりはなく、この時は単に講釈の場所を提供しただけではないでしょうか。 
 江戸時代、人が集まりやすい寺を使ってこのような催し物(おそらく有料で・・)を開催することは、ごく自然なこと。ちなみに落語の祖として有名な安楽庵策伝(1554~1613)は、その隣の誓願寺の住職でした。
 ところで京都随一の繁華街「新京極通」は、この誠心院や誓願寺があった寺町通りの寺の境内を整理・利用して明治5年につくった通り。今は減りましたが少し前まで映画館や芝居小屋、寄席などが軒を連ねていました。
 この界隈の江戸の昔から今に至るまで催し物でにぎわう風情、これからも受け継がれていってほしいものです。

第4号(2006年11月22日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.4

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

町も車もスローな日々

<原文>
十一月廿一日 朝鮮人帰国ニ付、明後廿三日より京車、大津道車留之事

<要約>
11月21日 (将軍挨拶のために江戸へ行っていた)朝鮮通信使の一行が帰国のために京都へ来るので、あさって23日より京都車借の車の大津道の通行を禁止します。

<説明>
 大津道とは大津と京都を結ぶ道。東海道中、江戸から京都へ上る旅人達の最後の踏ん張り所、三条街道のことです。この道は人の往来だけでなく、琵琶湖を船で運ばれ大津港に荷揚げされた北海・北陸からの海産物や米、近郊で生産された農産物等の物資輸送路として重要な道でした。 
 そこで活躍した運送業者が大津馬借と京都車借。京車はその京都車借の牽く牛車(うしぐるま)のことと思われます。この牛車の通行が、朝鮮通信使を迎える道路整備のため11月23日から禁止となりますが、通信使が実際に入京したのは12月4日。それまでの10日余もの通行禁止は、車借達にはさぞかし迷惑なことだったでしょう。
 ところでこの大津道は、人馬や車の通行が頻繁なだけでなく、逢坂峠・日ノ岡峠という通行の難所を抱え運送業者にはなかなか辛い道でした。事故を避けるために人馬道と車道は比較的早くから区別されていましたが、車道部分は破損も多く、文化2(1805)年、京都の心学者脇坂義堂等の貢献により車石(車輪の幅にあわせて轍を彫った石)が敷かれ、坂でも車が楽に進めるようにと改修されました。
 また車道には午前は京都行・午後は大津行と時間による一方通行も取り入れられていたようです。
 では、江戸時代の京都の町中の交通事情は?と、文政頃(1818~1830)の三条油小路町の様子を描いた絵巻(近江屋吉左衛門家文書)をみると、車は牛車が5台、積み荷があるのもないのものんびりとした風情です。町を駆け抜ける様な馬車はなく、馬子に牽かれた騎馬の武士が1人。残りは歩く人ばかり。スローで安全な様子が伝わってきます。 
 当時、町のほとんどの道幅は約2間(約3.6m)という狭さ。また、路地や小橋等は車通行止めのところも多く、大型の車や馬が走り抜ける事は物理的に無理だった思われます。
 三条大橋も傷まないように、牛車はその上を渡らず下手の川の中を横断していました。
 江戸時代の日本、水運の発達に比べ車輌交通は西洋社会の程には発達せず、馬車等による大量輸送とスピードアップが本格的に始まるのは近代になってからのことです。ただ便利になる一方、それに伴う負の部分<道・橋の整備負担、事故・トラブルの発生、零細運送業者の失業等>が増大することにもなりました。スローのままでも良かったかな!??

第5号(2006年12月6日)掲載

京の風景(番外幕末編) 

-第5回解読講座テキスト「元治元年 雑記」(原家文書)より-

「禁門の変」で地下官人は大変 その1

 禁門の変(蛤御門の変)と言えば、幕末の元治元年(1864)年7月、前年の8月18日の政変で京都を追われていた長州藩が、形勢挽回のため会津・薩摩藩と御所の蛤御門付近を中心に戦って敗走した有名な事件。この武士同士の市街戦は、京都市中の大半を焼き尽くし、多くの住民に避難を強いるというとんでもない大火を引き起こしました。
 今回の「京の風景」では、第5回古文書解読講座で使用したテキストの中から【番外幕末編】として、戦闘場所の近くに住まいし、この大変な騒動に巻き込まれた地下官人の生々しい体験を紹介しましょう。
 この記録の筆者、原在照は中立売通室町西入(激戦場所の一筋だけ西)に住居を構える絵師であり、禁裏の御用をつとめる地下官人でもありました。地下官人とは朝廷で儀式や公事がある時にだけ御用をつとめる位の低い役人のことですが、文化的素養が高く「平安人物志」(江戸時代後期の学者・文学者・芸術家などの名簿)に名前が掲載されている人がかなりいます。
 さて、まずは戦乱当日のこと。
 7月19日早朝寅刻、表がザワザワするので物見から覗いてみると、一橋慶喜様等が早馬で御所の方へ。続いて夜明け頃には、美麗な甲冑姿の武士の一団、幕府方の面々が出陣していきます。その行列の武具や旗等の美しさや珍しさに見取れているうちに、ふと気がつくと目の前は長州兵だらけ。「これはやばいな・・」と思っているうちに、雑兵や町人らが「大風にて木葉が散るごとく」逃げてくるは、砲弾の音が激しくなるはと、辺りは大混雑の状況になっています。
 そこで原家の家族全員、親戚の梅戸家(一条小川通)で朝飯を食べさせて貰おうと普段着のまま移動します。ところが、事態はすでにのんきに朝飯が食べられるようなものではなく、次から次へと怪我を負った長州兵が西へ西へとやってくる様子。これは大変と、空腹のまま知り合いの下鴨村の大工の家まで走って逃げ、やっと朝飯を食べて一安心したということでした。(それにしても、なぜこんなにも朝飯にこだわる??)
 避難するにあたっては、自宅から出られず裏に住む連歌師里村家から脱出したり、砲弾の音を真近かで聞いたり、中立売通での斬り合い・討ち合いを目撃し、それを避けて一条通に出てみれば刀を構えた長州兵に出会ったりと、原在照さん、いままで経験したこともないような怖い思いをしたようです。
 また原邸のあるこの界隈、御所近くだからか、このような地下官人達がちらほら住んでおり、今回の災難の影響をまともに受けた人が少なからずいたようです。彼ら地下官人達には、お上からお救い金や米が下賜される等、若干の救援策がとられますが、中には自宅の蔵まで焼けて知り合いに身を寄せ、持病の疼痛が悪化して勤めもままならなくなる不幸な地下官人もいました。ああ~大変!
 さて、次は戦乱後の大変の話。これについては次号につづきます。

第6号(2006年12月20日)掲載

京の風景(番外幕末編) その2

-第5回解読講座テキスト「元治元年 雑記」(原家文書)より-

「禁門の変」で地下官人は大変 その2

 さて、前回の戦乱当日の苦労話につづき、今回は戦乱後の大変な話。
 大火がやっと治まった7月21日、御所の様子をうかがいに避難場所の下鴨村から京都町中へ出かけたところ、自宅の近所や烏丸通丸太町あたりの数え切れないほどの首なし死体を見る羽目に・・・。
 また、地下官人の仕事の指示をする官務壬生家は燃えて所在不明。仲間達とうろうろと探します。2、3日後、やっと丸太町川端東入の別荘にいることが判明し、そこを訪ねると、さっそく新たな仕事が命じられます。内侍所(神鏡を安置した宮中の大事な場所)の見張り番です。
 混乱の内に、寝ずの番等きつい仕事をなんとかこなし、すこし落ち着いてきたなと思っていたところ、8月1日に今度は内裏の方から絵の御用をして欲しいと要請があります。在照は地下官人であると同時に内裏の襖絵の制作等にも関わる立派な絵師なのです。 
 しかし、下鴨村に避難して自宅は留守のまま大事な資料や道具がほったらかしです。こんな状況で内侍所の見張り当番と絵の御用と両方の仕事がこなせるかと少々不安。地下官人仲間に相談しますが、「まあ静かになってきたことだし、我々も様子を見ながら出勤するつもり~」等とのんきなことを言います。でも、現実はそんなに甘くはありませんでした。
 間が悪いことに8月4日、在照さんは疲れがたまって当番を休んでしまいます。これがまずかった。早速その昼、官務壬生家から使がやってきて、なぜ休んだか、息子はどうしていたのか等、色々聞いて帰っていきました。更に、その夜、翌朝来るようにと、指示があります。
 翌朝いってみると、なんと壬生殿ではなく大沢釆女殿(幕府の儀式を司る高家の人)からくどくどと嫌みを言われたのです。
 曰く「内裏の絵の御用があるからと当番を休んだそうだが、一体どういうことだ。事情は分からんでもないが、地下官人の御用を免除するという正式の指示がないのだから、絵師の御用より地下官人の御用を優先すべきではないか。勝手に休んだことの断りをしろ!」と・・・・。
 なぜたった一度休んだだけで、幕府の人間が出て来て厳しく申し渡すのでしょう。在照さん、何を言っても取り合ってもらえず、面倒になったのでしょう。「無難ニ一応間違之断申述引取相済候事」と、とりあえず謝ってこの場を納めました。
 ところが壬生殿からは、当番日に出勤しても、「落ち着いてきたしもう帰って良いよ」といわれ、更に23日には「もう治まってきたから番のために出勤しなくても良いよ。何か起きたらその時はよろしく。」という指示を受けます。
 現実は何ともゆるりとした壬生家の対応・・・・。あの熱い大沢釆女殿の叱責はいったい何だったのでしょう。
 8月25日、数百人の人足による御所九門内の大掃除がありました。7月19日からの1ヶ月あまりの大変な日々が、これでやっと一段落という感じになったことでしょう。
 ともあれ、在照さん、御苦労様でした・・・・

第7号(2007年1月3日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.5

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

やっと普段に

<原文>
十二月九日 朝鮮人ニ付、三条通四条通、札共取入置候分并牛馬杭義も、前之通立置候様ニと町々へ申渡候様ニと新家方より被仰渡候

<要約>
12月9日 朝鮮通信使の一行が入京するにあたって(見苦しくないように)片付けておいた三条通・四条通にあった立札や牛馬を繋ぐ杭を、前のとおりに立て置くようにと該当の町へ申し渡すよう新家方(土地・道路管理の担当)から仰せ渡されました。

<説明>
 Vol.4でも少し紹介した朝鮮通信使の一行、12月4日に京都入りし8日に京都を出発しました。この日記の記事と前後して、8日には町の自身番(町内パトロール)の解除、9日には行列を迎えるために用意していた休憩小屋や竹矢来(竹で作った囲い)等の払下げの触も出されました。
 しばらくよそゆきな顔をして緊張していた町にも、やっといつもの風景が戻ってきました。
 今回の通信使の一行は500名(内129名は大阪港に残留)。徳川家宣の第6代将軍襲職の慶賀の使いとして来日しました。
 メンバーには外交官の他に文化人・医師・通訳・楽隊等が含まれており、庶民にとっては美しく着飾った彼等の行列が異国情緒をもった珍しいイベントとして、学者や文化人達にとっては彼等との交流が先進的な朝鮮文化を学ぶことのできる貴重な機会として、沿道各所で歓待・饗応されました。
 だから旅行期間が長いのでしょうか。正徳元(1711)年5月15日に朝鮮を出発し、翌年2月25日に釜山に帰着という、およそ10ヶ月間もの大旅行でした。
 さて、京都での宿泊所は、日蓮宗本圀寺。このお寺、水戸光圀の庇護を受ける等徳川家とも関わりがあり、今は京都山科区御陵に移転していますが、当時は西本願寺の北側から松原通あたりまでを占める広大な寺でした。
 現在その跡地(下京区柿本町)の一部には京都東急ホテルが建っています。宿泊所とホテル。なんだか不思議な縁を感じさせられますね・・・・。

第8号(2007年1月17日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.6

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

えっ、なんで

<原文>
十二月十日 烏丸上立売上ル柳図子南半町ほり物屋喜八と申者之家、屋根計今朝七ツ前時分、二間ニ奥へ二間半程焼申候、右出火之儀吟味仕候得ハ、表軒口より壱間程奥よりもへ(燃え)上り申候、下ニ而火たき申所ニ而ハ無御座候故、投火ニ而御座候様ニと奉存候て御断申上候得ハ(中略)火之元之儀、度々被仰出候、不念之仕方ニ思召候、依之逼塞被仰付候、

<要約>
12月10日 彫物屋喜八の家の屋根が午前4時前頃に、幅2間奥2間半(約3.6m×4.5m)程焼けたので調べましたところ、表から1間(約1.8m)程奥に入ったところから燃え上がっていました。そこは火を焚くような場所ではなく、投火(放火)と思われますので報告します。(この報告を取り次ぎましたところ)御奉行様からは、火の元を注意するように(御触などで)何度も言っているのに、まったく不注意でけしからぬことと思われ、(喜八に)逼塞を申し付けられました。

「逼塞」(ひっそく)とは刑罰の一つで、門を閉ざして白昼の出入を許さないというものです。

<説明>
 喜八さんは放火された側なのに小火(ぼや)で済まなかったからか、御奉行様より軽いとはいえ「逼塞」という実刑が申し渡されました。
 今なら「被害者がなんで?なんと理不尽な!」と思うところですが、江戸時代なら仕方がないこと。vol.1でも書きましたが、この時代、とにかく火事に対しては非常に敏感で厳しかったのです。 
 放火犯が死罪というのは当然としても、「恨みがあるので放火するぞ!」という脅迫文(=火札といいます)を家の前に張り付けたり投げ込むだけでも、放火犯に準じて死罪になりました。
 また出火すれば、火元の本人だけでなく町役人までが押込(おしこめ)等に処罰されることもあったようです。
 それにしても江戸時代、火事の事件が多いのに驚かされます。この年の12月だけでも小火の報告が4件、「投火」事件が5件報告されています。
 火事の多い冬とはいえ、こうも多くては御奉行様も口うるさくなるでしょう。
 皆さん、火の用心、火の用心。 

第10号(2007年2月14日)掲載

京の風景(番外 雑学京都史編)

「町代改義一件」の記録

 3月から、京都新聞で「雑学京都史」の連載(毎月第4水曜日 朝刊市民版)が始まりました。
 慣れない新聞原稿に、当館職員、交代で四苦八苦しながら取り組んでいますが、読んでいただいているでしょうか。
 今回の「京の風景」では、4月25日の掲載記事に関連し、「町代改義一件」に関する資料をいくつか紹介します。

 「町代改義一件」は一揆を起こして幕府の御政道を正すというような派手なものではありませんが、京都町組中が団結して町奉行所の役人化した町代を訴え、町人等の地道なねばり強さと気概が勝利をもたらしたものです。
 一件落着後、京都の町々では、この一件に関する訴状や証拠書類などを写し取って保管していました。禁門の変による大火等で失った町も多いですが、長刀鉾町、占出山町、北観音山町等いくつもの町で町有文書として大切に保存されてきました。当館でも福長町文書、三条衣棚町文書、町頭南町文書、塩屋町文書の中にまとまって残っています。
 これらの記録は、誇り高き京都町人達の運動の輝かしい記念誌でもあったのでしょう。 
 また、当館には、途中訴訟から脱落した南艮組の一員であった御倉町の年寄の記した「役中覚」(市川家文書)があります。この資料は、当時の町の困惑の様子が伝わってきてなかなか興味深いものです。市川家文書には、この他にも一件のための寄合の書類等が残っています。
 ところで、町側の資料はなかなか豊富なのですが、町代側となると意外に少なく、まとまった資料としては下西陣組の町代であった古久保家の文書があるだけです。しかもこの一件に直接触れた資料はありません。
 しかし、この古久保家文書、非常にすぐれもので、町奉行所の資料が少ない中、京都の町行政のあり方を記した貴重な資料となっています。
 「町代改義一件」。とにかく京都の町にとっての大事件。興味のある方、是非来館されて、これらの資料を閲覧ください。

第15号(2007年4月25日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.7

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

年末に節分!

<原文>
十二月二十八日 明二十九日節分町廻り、石橋嘉右衛門殿御出被成候旨、被仰付候

<要約>
12月28日 明日29日、節分の警固に石橋嘉右衛門殿(京都町奉行所与力)が出張されるということが、(御奉行所様より)仰せ付けられました。

<説明>
 正徳元年も押し詰まり、いよいよ12月28日。
 前日27日には、すす払いの塵を燃やした後の不始末、28日にも餅つきの竈(かまど)の不始末と、ボヤの報告が相次ぎ、町が正月を迎える準備に追われている様子が日記から伝わってくるようになりました。そして翌29日は節分・・。うん?節分が年末?2月じゃないの?
 ご存じのように、節分は季節が春となる立春の前日のことで、現在は大体2月3、4日頃です。しかし、江戸時代に使用していた旧暦(太陰太陽暦)では、立春の前後に元日がくるように-元日を立春に最も近い朔日(ついたち 新月の日)とする-定められていました。
 つまり年内に立春を迎える場合は、日記のように節分が年末となり、反対に年が明けて立春を迎える場合は正月に節分ということになっていました。
 このように年によって節分の月が違いましたが、おおむね年末年始の流れは、冬が終わり節分で厄払いをし春とともに新しい年を祝うというものでした。正月の挨拶で「新春」「初春」とするのはまさにその時「春」を迎えていたからでしょう。
 さて、「町廻り」とは、祭礼・行事がある時などに出張して付近を警固(警戒・警備)することです。京都町奉行所の業務参考資料といえる「京都御役所向大概覚書」には葵祭・今宮祭・祇園祭等、警固に出張する行事と場所が記されています。 
 それによると、節分の時は「五条松原天使」へ警固に出かけていました。天使とは天使社のこと、五条天神宮(下京区松原通西洞院西入)の別名です。
 今、京都で節分といえば、吉田神社・廬山寺・壬生寺等での行事が有名ですが、江戸時代の庶民は、この五条天神宮に厄よけ・無病息災を祈願するために参集していたのでしょう。
 当時は節分の日には参詣者に邪気を払うというおけらや餅が授けられていたそうですが、現在は日本最古とされる宝船図(船に稲穂を一束乗せただけの簡素で珍しいもの)が参詣者に配られるということです。
 ちょっと季節はずれの話題となりましたが、来年の節分にはこの宝船の絵をいただきに五条天神宮を訪問するつもりです。

第18号(2007年6月6日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.8

-府立大学・総合資料館共同研究「正徳元年 諸事日記」(古久保家文書)より-

日記を読む時には・・・

 さて、前回に引き続き旧暦と新暦のずれの話を・・・。
 前回紹介しましたように、江戸時代(旧暦)では立春と正月を同じ頃に迎えていました。ということは、立春を2月初旬の頃に迎える現在(新暦)とでは、その季節感に1ヶ月程度のずれがあることになります。 
 この季節感のずれ、江戸時代の記録、特に日記を読んでいる時に実感します。
 6月に祇園祭<今は7月>。7月に地蔵盆<今は8月>。八朔(はっさく 8月1日のこと)の贈り物に秋の味覚の松茸。そして年末に節分<今は2月>等々。「あれ??」と、つい思ってしまうのですが、日付を1ヶ月程度あとにずらせて季節をイメージすれば「納得!」となるのです。
 さて、そんな旧暦の生活から新暦の生活になったのは明治になって少し経った頃。新政府の方針により、旧暦明治5(1872)年12月3日が新暦明治6(1873)年1月1日とされました。実際に時間そのものが失われたわけでありませんが、当時の人にしてみれば12月が2日しかなく、1ヶ月近くもの日数を失った様に感じられたことでしょう。
 もっとも、この改暦は急だったため、すぐには国民に浸透せず、しばらく暦には旧暦が併記されていたようです。
 ちなみにこの時に「諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事」と祭典行事も新暦で実施するように指示がありました。地域によっては今なお旧暦での実施を大事にしているところもありますが、これ以後、多くの地域では季節感あふれる旧暦の行事を1ヶ月ほど先行する新暦の日付で実施するように変わっていきました。 
 だから現在、桃の咲いていない桃の節句(3月3日)、菖蒲のない端午の節句(5月5日)、梅雨のさなかの七夕(7月7日)等、節句の祭りが季節感とはずれたものになってしまったのです。 
 幼い頃、なぜ織姫と彦星が雨や曇りばかりの七夕の日に天の川で会うことを約束したのか不思議でしたが、なるほど明治政府の仕業だったのですね!?

第19号(2007年6月20日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.9

-府立大学・総合資料館共同研究「天和3年 御公用諸事日記」 (古久保家文書)より-

天和3年という年は

 今回よりコーナーの話のネタ本が、天和3(1683)年「御公用諸事日記」に変わります。この資料も、京都町奉行所と町を仲介する町代が記した公務日記ですが、これまでのネタ本、正徳元(1711)年「諸事日記」より30年近く遡った記録です。
 さて、「天和」という年号は、その後の「元禄」に比べて少々なじみが薄いようですが、「生類憐れみの令」で有名な5代将軍徳川綱吉の治世(延宝8(1680)~宝永6(1709)年)の前半にあたります。
 犬公方と呼ばれなにかと評判の悪い綱吉ですが、実は儒学を奨励し、情け深い政治-「仁政」をめざした将軍でした。不正代官の大量処罰、礼儀と忠孝を重視した「武家諸法度」の改定、捨子禁止・病人保護・鳥獣保護の御触等、秩序と情けある社会をつくるための改革をすすめました。
 また湯島大聖堂(昌平坂学問所)の建立、東大寺大仏殿ほか多くの寺社の造営・修復等、学問と文化を重視した事業を行いました。
 現在、このような綱吉の治世については、再評価されています。また「生類憐れみの令」についても、悪法とばかりはいえず、この法令のおかげで、野犬が捨て子を襲ったり武士が犬を斬り殺すような殺伐とした光景がなくなり、慈悲の心が人々に広まったということもできるようです。
 さて、この資料が記された天和3年は、綱吉が意欲的に改革を推進し、後世から「天和の治」とその善政を称えられた時期です。日記の記述にも綱吉の施策の一端を垣間見ることできます。 
 もっとも町人達にとっては、金糸・縫取り等の贅沢な衣類を着てはだめ、幕府の御用をしていても刀を持っては絶対にだめ等、と町人身分をわきまえるように制約することばかりで迷惑千万だったことでしょう。
 それにしても、2月27日にこんな記述が・・・

「今度町人衣類御触ニ付町中ニ而、公儀之衆ニまきれ衣服はき取申候よし被聞召候・・・」

[この度町人の衣類の触(贅沢な衣類は着てはいけない)が出されたが、取り締まる役人に紛れて衣類をはぎ取るものがいるということを聞いている云々]

う~ん、いつの世も、お上の法令を悪用して儲けようとする犯罪は起こるものなのですね・・・・

第25号(2007年9月12日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.10

-府立大学・総合資料館共同研究「元文4年 諸事日記」(古久保家文書)より-

正月早々、事件の報告ばかり

 私がボーっとしているうちに共同研究はどんどん進み、今回より、新しい資料「元文4年 諸事日記」に変わりました。
 これも京都町奉行所と町を仲介する町代が記した公務記録ですが、今回の資料は日記というよりも、町から奉行所に提出された「御断書」(事件の顛末などの報告書)を町代が控えたものです。種々雑多な事件ばかりで、さながら新聞の三面記事を読んでいる気分です。
 まず、元文4(1739)年の正月早々、綾堀川町(堀川綾小路下ル)から、朔日の早朝に独り者がこたつで寝ていてボヤを出したと報告がありました。「独身者こたつニ古ふとんを掛、臥(ふせ)り居申」と記してあり、なぜかわびしさを感じさせます。 
 2日には山田町(油小路蛸薬師下ル)から、76歳になる女性が井戸にはまり治療のかいなく亡くなったとの報告。井戸は今では見る機会が少ないですが、水道ができるまでは身近な設備で、これに落ちるという事故は当時そんなに珍しいものではなかったようです。
 正月2日と4日に、年末に起こった強盗事件についての報告がありました。1つは12月29日四つ時(午後10頃)に塩屋町(綾小路麩屋町西入)の銭屋商売の店に5・6人が刀を振りまわして銀4貫匁(約400万円)を盗んで逃走したこと。 
 もう一つも同じく29日五つ半時(午後9時頃)に甘露町(寺町竹屋町上ル)の絹屋商売の店に半ガッパに紺の股引をはいた男6・7人が押し入り銀800匁(約80万円)と金2両(約12万円)盗んで逃走したこと。 
 いずれも年越しのためにせっぱ詰まって徒党を組んで狼藉を働いたのでしょうか。とりあえず怪我人もなく大騒動にはならなかったようです。 
 3日には、高台院竪町(裏門通中立売通下ル)から、年末24日に40歳頃と4歳の母子が借屋から家出したという報告と、同じ町内に住む30歳余りの道心者(仏法に帰依した人・僧)も24日に借屋から家出したとの報告が併せてありました。ひょっとすると3人で駆け落ちした可能性も?? 
 同じ3日に、家出の報告がもう1件。12月28日に西夷川町(夷川堀川東入ル)の大和屋の35歳の使用人が銀200匁(約20万円)を取込んで家出しています。借金取りにでも追われやむなく店の金を横領して逃げたのでしょうか。
 強盗といい家出といい年末はせちがらい出来事が多かったようです。
 こんな調子で「元文4年 諸事日記」は続きます。次はどんなことが起きるでしょうか???

第29号(2007年11月7日)掲載

京の風景(江戸時代編)vol.11

-府立大学・総合資料館共同研究「元文4年 諸事日記」(古久保家文書)より-

町奉行所は何もしない?-家出人の場合-

 元文4(1739)年の「諸事日記」を読むと、町奉行所にはほぼ毎日途切れることなく町から「御断書」(報告書)が提出されています。 家出(行方不明)・捨て子・火事・金銭トラブル・自殺・変死etc、その中で圧倒的に多いのが家出人の届です。

届ける方も慣れたもの(?)で、住所・職業・氏名・年齢・家出の日以下、たいてい次のような調子で町奉行所に報告します。

<原文>
不斗罷出不帰申候ニ付、方々へ相尋候得共、行衛相知レ不申候、 今に帰り不申候ニ付御断奉申上候、以上。

<要約>
ふと出かけたまま帰ってこないので、あちこちを尋ねて捜しましたが行衛(行方)がわからず、今になっても帰ってこないので報告します。以上です。

<説明>
 町では家出とわかればすぐに関係者は勿論、町役も一緒になって心当たりを探します。家出人が奉公人や借屋人ならばその請人(保証人)も一緒になって、故郷や立ち寄りそうな所まで確認し、時には伊勢参宮の道中を探しに行ったりする事もあったようです。 (伊勢参宮と家出の関わりについてはまた別の号で!)
 ところが、報告を受けた町奉行所は家出人の捜査をするわけでもなく、大体いつも「断之段御聞置、雑物改置候様被仰付候」。つまり報告の内容をお聞きになって、身の回りの品々を改めておくようにおっしゃるだけなのです。家出人が見つかっても報告を受けるだけ。御仕置きも厳重注意もありません。 
 それでも町の方は、行方不明から数日の内に町奉行所に報告します。報告が遅れたらその言い訳まで書いて提出しました。 聞くだけで何もしない町奉行所になぜそんなに律儀に報告したのでしょうか。 
 やはり町奉行所(幕府)としては、支配者たるもの住民についての情報を把握することは当然のことと思って報告させていたのでしょう。「宗門人別改帳」(江戸時代に戸籍の役目を果たしたもの)を町から毎年提出させていたのもその一つのあらわれといえるかもしれません。 
 町の方も早め早めに報告する方が、何か事がおきてからゴチャゴチャ言われるより賢明だと考えていたのでしょう。 
 江戸時代、町奉行所は町の民政を担っていたとはいえ、火事・強盗・人殺し等の取り締まりや裁判は行いましたが、あとは割と町まかせだったようです。「みんなのことは大体知っていたいけれど、ほとんど何もしないよ。」というスタンスで、住民をがっちりと支配・保護しようなどとは考えていなかったものと思われます。 
 だからこそ、少数の役人(東西の2つの町奉行所にそれぞれに与力20人と同心50人及び見習いが少々、つまり150人程度)で約40万人の都市を治めることができたのでしょう。

第36号(2008年2月13日)掲載

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