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メルマガコラム_京都でのプロ野球公式戦開催略史

衣笠球場略史 (収蔵品展によせて「資料でたどる京都マラソン」その2)


総合資料館収蔵品展は平成24年3月25日に終了しました。期間中は大勢の方のご来場をいただき、ありがとうございました。
ここでは、資料集等でご案内しきれなかった内容を、補足という形でご紹介したいと思います。

 今回の収蔵品展ではマラソンと同じスポーツという区分で野球場関連の資料も展示しました。


 昭和20年代の野球の試合結果を当時の新聞などで見てみると「西京極」と「衣笠」という野球場の名称を見つけることができます。
前者は現存することもあって馴染み深いものと思いますが、後者は知らない方も多いのではないでしょうか。

 現在の立命館大学衣笠キャンパスの敷地にかつて衣笠球場と呼ばれた野球場が存在しました。「立命館百年史 通史2」(立命館刊平成18(2006)年)によれば、昭和23(1948)年9月に立命館衣笠球場として竣工したとのことです。幾つかの学校の野球部史や当時の新聞からは高校野球の大会やプロ野球の公式戦に使用されていたことがわかります。また、今回の展示に使用している『京都市都市計画基本図』や『写真でみる京都100年』(京都新聞社編刊 昭和59年)からは内外野にスタンドを持った設備であったことも確認できます。

 その後の衣笠球場は昭和42年に閉鎖され、昭和44年にはバックネット裏スタンドがあった辺りに立命館大学の体育館が竣工し、跡地には同大学の学舎が順次建設され現在に至っています。

 なお、プロ野球との関わりについては次回に譲ります。

 【総合資料館メールマガジン 第144号(2012年4月4日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史1 ロビンス編1

今年も3月30日に日本野球機構(以下プロ野球)によるペナントレースが開幕しました。11月までの約7ヶ月、各球団の熱戦が期待できることと思います。

さて前回、収蔵品展との関わりで衣笠球場の略史を取り上げましたが、今回から連載で京都府の野球場とプロ野球公式戦開催の略史を取り上げます。

戦後の京都府におけるプロ野球開催の歴史については、以下の出来事が絡み合います。

 昭和20(1945)年11月7日 西京極球場、米進駐軍により接収
 昭和21年 日本野球連盟(現在のプロ野球の前身)、公式戦再開
 昭和23年8月 立命館衣笠球場開設
 昭和26年 大阪球場にナイター設備完成
 昭和26年 西京極球場、米進駐軍の接収解除
 昭和40年 西京極球場にナイター設備完成

昭和21年プロ野球が再開され各地で興行が行われます。当時は現在のように優先的に興行できる地域を各球団に割り当て、その地域内に専用球場を確保するいわゆるフランチャイズ制度が定着していなかったため、各球団は各地を転々として試合を開催していました。フランチャイズ制度は昭和20年代後半にかけて段階を踏んで整備されていきます。

このフランチャイズ制度が確立するまでの過渡期の京都府では西京極球場が米進駐軍に接収されていました。そのため、衣笠球場が京都府におけるプロ野球開催の主力球場となります。

昭和27年、ようやく緒についたプロ野球のフランチャイズ制度により、松竹ロビンスという球団のフランチャイズは京都府になったとする説があります。しかし、京都府にナイター設備のある球場が無かったことなどにより、リーグは暫定措置としてロビンスに大阪球場での主催試合の開催を容認しました。そのため、大阪球場での主催試合が多くなり、ロビンスは京都府ではなく大阪府の球団と当時の人々に認識されることもあったようです。 (次号に続く)

参考
・京都新聞 (昭和25.4.3,4.10,4.15、昭和27.12.27,12/28、
       昭和28.1.27、平成14.8.24付朝刊)
・京都府百年の資料 1 政治・行政編
・京都府百年の年表 7 建設・交通・通信編
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史
・立命館百年史 通史2

 【総合資料館メールマガジン 第145号(2012年4月18日)掲載】
  2014年1月7日一部改

京都でのプロ野球公式戦開催略史2 ロビンス編2

さて今回は、前回名前が登場した松竹ロビンスの略史に触れます。

松竹ロビンスは大阪の繊維商社田村駒の経営者であった田村駒治郎がオーナーの球団です。球団の系譜は戦前より続き、戦争による中断の後、昭和21(1946)年パシフィックとして再出発、その後、太陽ロビンス(昭和22)、大陽ロビンス(昭和23)、大陽京都ロビンス(昭和24)と球団名は変遷します。「太陽」から「大陽」への変更は一説によればオーナー田村駒治郎が「野球は点をとらなあかん」と言って「、」をとったそうです。またロビンスのロビンとは、駒鳥という意味で駒治郎にちなんでの命名です。

球団名に京都が入った昭和24年は開幕戦や10点差を逆転した10月2日の大映戦など球史に残る試合が衣笠球場で行われました。また、当時の京都新聞を見ると衣笠球場が立命館球場とも呼ばれていたことや、順位表や対戦結果が「京都大陽」ではなく「大陽」と表記されていたことがわかります。

昭和24年から25年にかけてプロ野球は毎日新聞社球団の参加をめぐり、賛成派と反対派に分かれ、それぞれがパシフィックリーグ(以下パ・リーグ)、セントラルリーグ(以下セ・リーグ)を設立します。この時、ロビンスは映画会社松竹の資本参加により松竹ロビンスと名を改め、セ・リーグに参加しました。

ロビンスは球界分裂の余波のなかで、有力選手の獲得に成功し、監督に小西得郎をむかえて昭和25年のシーズンにのぞみます。小西得郎は後に解説者の草分けとして、「何といいましょうか」の決まり
文句や股間にボールが当たり苦しむ捕手の様子を「御婦人にはわからない痛さ」と表現するなど軽妙な語り口でお茶の間の人気を博することになります。余談ですが、小西得郎の父増太郎はロシアへの留学経験を持ち、トルストイと共同で「老子」のロシア語訳にあたったことで知られています。(次号に続く)

参考
・海を越えた日本人名事典
・京都新聞  (昭和24.3.31,10.3,平成23.12.3付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第146号(2012年5月2日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史3 ロビンス編3

昭和25(1950)年の松竹ロビンスは98勝35敗4分、実に.737という高勝率でセ・リーグ初代チャンピオンに輝きました。

この年のロビンスは小西得郎監督の下、攻守にバランスのとれたチームでした。攻撃陣は一番打者の金山次郎が盗塁王を獲得、小鶴誠・岩本義行・大岡虎雄の主軸打者3人はいずれもが30本塁打、100打点以上を記録し、その破壊力から水爆打戦の異名を持ちました。一方、投手陣も真田重男(39勝)、江田貢一(23勝)、大島信雄(20勝)と3人が20勝以上を記録する安定した陣容でした。

さて、直前のオフシーズンにはセ・リーグとパ・リーグの分裂騒動があったものの、両リーグのチャンピオン同士が戦う日本シリーズはこの年から始まります。

パ・リーグは分裂騒動の中心にあり、大阪(阪神)タイガースから主力選手をスカウトした毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が優勝しました。

現在の日本シリーズはそれぞれの本拠地球場で2試合、3試合、2試合と交互に開催されますが、この年の日本シリーズは神宮、後楽園、甲子園、西宮、中日、大阪という順で京都府での開催はありませんでした。この点では、京都府をロビンスの本拠地と捉えるには難があります。なお、シリーズの勝敗はロビンスが2勝4敗でオリオンズの前に敗れています。        

ところで、この年のセ・リーグは8球団によるペナントレースでしたが、西日本パイレーツがパ・リーグの西鉄クリッパーズとの合併によりリーグを去ります。その結果、翌26年は7球団によるペナントレースとなります。この球団数が奇数となったことは、やがてロビンスに重くのしかかってきます。        (次号に続く)

参考
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第147号(2012年5月16日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史4 ロビンス編4

昭和27(1952)年のプロ野球は各球団がフランチャイズとする都府県を本格的に定めてのぞむシーズンとなりました。

松竹ロビンスのフランチャイズは京都府とする説もあります。実際、開幕前に発表された4月20日までの公式戦日程でも、ロビンスは9試合を京都で開催することになっていました。しかし、実際は倉敷、徳島、大阪、彦根、和歌山に振り替えて開催されます。

これ以降もロビンスの主催試合は衣笠球場や西京極球場ではなく大阪球場を中心に行われます。

この開催実績から、現在の野球専門誌やスポーツ新聞に載っているようなチームデータを作れば、「松竹ロビンス:本拠地・大阪球場」あるいは「松竹ロビンス:本拠地・大阪球場、準本拠地・西京極球場」となるのではないでしょうか。ロビンスにとって京都府は名実とものフランチャイズとはいかなかったようです。

ところで26、27年のセ・リーグは7球団によるペナントレースが行われていました。7球団ということは、試合が組めない1球団が発生し、試合日程が常にいびつになりました。そこで合併により球団数を偶数の6球団に移行しようという機運が高まります。

その中で球団運営に行き詰まり感のあったロビンスと下関を本拠地としていたことにより観客動員が伸び悩む大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の合併話しが持ち上がります。(次号に続く)

参考
・京都新聞 (昭和27.3.15,3.20,3.26,3.29,3.30,3.31,4.12,4.13
              5.2,5.14,5.15,5.25,5.26,5.29,5.30,6.1,6.2,
              6.16,8.31,9.1,9.8,9.18,12.27,12.28,
             昭和28.1.27付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第148号(2012年5月30日)掲載】
 2014年1月7日一部改

京都でのプロ野球公式戦開催略史5 ロビンス編5

前年に持ち上がった松竹ロビンスと大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)の合併は昭和28(1953)年1月に一応の決着を見ます。

2月7日には新大阪ホテルで合併球団の記者会見が行われます。名称は「大洋・松竹野球団」、ニックネームは「ロビンス」とすることなどが発表されました。

この合併の内実について、翌日の京都新聞は「今度の合併は全面的に松竹側の敗北であり、かつてはプロ野球界の惑星ともいわれた田村駒治郎氏の発言力も暫定的に「ロビンス」なるニックネームを残したに過ぎないほど弱められた。」と報じています。その後の推移からこの内容は概ね事実に沿ったものと考えられます。

また、同じ記事の中で旧松竹側が主導権を握れなかった要因として、交渉の切札になるはずの「大阪球場を今までの開催実績から本拠地にすること」と「小鶴誠ら主力選手が新球団に残留すること」のいずれにも、実現の見通しを立てられなかったことを挙げています。

これらを反映してか、2月10日のオープン戦日程を紹介する記事では球団名は「大洋」と表記されていました。その後、「大洋松竹」または「洋松(ようしょう)」という呼び方が一般化します。

ところで、合併球団は大阪球場を完全な本拠地とすることが認められなかったため、28年は18試合、29年は15試合の主催試合を西京極球場で行いました。衣笠球場を合併球団の準本拠地球場とする説もありますが、開催実績に拠るならばその地位は西京極球場が占めていたことになります。また、西京極球場での試合の多くは京都新聞社との共催であったことが新聞広告からわかります。(次号に続く)

参考
・京都新聞 (昭和28.1.27,2.8,2.10,4.8,4.10,5.10,5.27,5.28,
       6.17,7.12,7.13,7.15,9.22,10.3,10.5,10.6,
       昭和29.4.28,5.9,5.19,5.20,5.21,(6.2,6.4,)6.13
       6.14,6.16,6.17,8.15,8.16付朝刊) 
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第149号(2012年6月13日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史6 ロビンス編6

昭和29年、この年を最後に松竹は洋松ロビンスの経営から撤退します。球団名は合併前の大洋ホエールズに戻り、川崎球場を本拠地球場としてフランチャイズは神奈川県に移ります。

ここに旧大陽ロビンスの系譜と京都府がフランチャイズという絆で結ばれそうで結ばれない微妙な関係は終止符を打ちます。

ホエールズは、単独になって6年目の昭和35年、魔術師の異名を持つ三原脩監督のもとセ・リーグを制覇します。日本シリーズではかつて松竹ロビンスが敗れた毎日オリオンズの後身大毎オリオンズを4連勝で降します。ある意味、ホエールズがロビンスの仇討ちを果たしといえるのではないでしょうか。

一方、この時敗れたオリオンズの監督西本幸雄も後に西京極球場と深い縁を持つことになりますが、これは別稿に譲ります。

さて、話をもとの年代に戻しますが、昭和28、29年と十数試合を開催していた洋松ロビンスが無くなったことにより、京都府でのプロ野球開催は激減するかに思われました。しかし、翌30年西京極球場でロビンスとほぼ同数の15試合を主催する球団が現われます。(次号に続く)
号に続く)
(参考)
・京都新聞 (昭和29.12.12,12.23付朝刊) 
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第150号(2012年6月27日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史7 大映スターズ編1

昭和30(1955)年、それまでのロビンスに代わって京都府でのプロ野球公式戦の中心となったのはパ・リーグの大映スターズという球団です。

この年、スターズは西京極球場で16試合を戦います。うち主催試合は3月29日からの阪急3連戦を皮切りに、6月の西鉄戦(雨天中止により1試合のみ開催)、そして8月24日から9月6日の2週間で東映、毎日、トンボ、阪急を相手にした12試合、計15試合が開催されました。この年のパ・リーグは現在より2球団多い、8球団でしたので、南海と近鉄を除く6球団が京都にお目見えしたことになります。また、京都市・京都新聞社との共催だったことから、地元あげての開催だったことが推測されます。

これらの試合のうち、9月4日のトンボユニオンズ戦は、対戦相手ユニオンズのV.スタルヒン投手が戦前の巨人時代からの勝ち星を重ねて通算300勝目を達成した試合として球史に記録されています。この記録は75年のプロ野球史の中でスタルヒンを含めて6人しか達成のない大記録です。(次号に続く)

※昭和30年と現在の球団名の対比表
南海ホークス    (現:福岡ソフトバンクホークス)
西鉄ライオンズ   (現:埼玉西武ライオンズ)
毎日オリオンズ   (現:千葉ロッテマリーンズ)
阪急ブレーブス   (現:オリックスバファローズ)
近鉄パールス    (現存せず)
大映スターズ    (現存せず)
東映フライヤーズ (現:北海道日本ハムファイターズ)
トンボユニオンズ (現存せず)
(平成17年~:東北楽天ゴールデンイーグルス)

参考
・京都新聞 (昭和30.3.30,3.31,6.15,8.25,8.26,8.29,9.4,9.5,
 9.7付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史

 【総合資料館メールマガジン 第151号(2012年7月11日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史8 大映スターズ編2

今回は前回紹介した大映スターズとその後の足どりについて説明します。

スターズの親会社・大映は太秦にも撮影所があった京都なじみの映画会社です。当時、大映の経営者であった永田雅一は映画だけでなくプロ野球、特にパ・リーグの振興に努めた人物として知られ、スターズが高橋ユニオンズ、毎日オリオンズとの合併で大毎オリオンズ、東京オリオンズと変遷するも常にオーナーとして球団経営に情熱を注ぎました。昭和37(1962)年には東京の下町南千住に東京スタジアムというオリオンズの本拠地球場を開設するなど実行力を伴った名物オーナーでした。

さて、スターズは西京極球場で昭和30年に15試合を開催しましたが、31年は4試合(別に雨天中止2試合)、高橋ユニオンズと合併し大映ユニオンズとなった32年は4試合(別に雨天中止1試合)と開催数は大幅に減少します。

毎日オリオンズとの合併で大毎オリオンズとなった昭和33年から36年も西京極球場で年間数試合の開催が継続されますが、この間、オリオンズが優勝した35年に限り開催がありませんでした。

ところで「大毎」という呼称は大阪毎日新聞の略として用いられることがありますが、ここでの球団名は大映と毎日を組み合わせた造語です。

37年、永田オーナー肝いりの東京スタジアムが完成するとオリオンズは東京下町に腰をすえ、京都府での主催試合開催はなくなります。

この後、京都府におけるプロ野球開催は、いわゆる在阪球団である阪急ブレーブスと阪神タイガースが中心となっていきます。
  (前編完)

参考
・京都新聞 (昭和31.3.31,4.1,9.9,9.10,32.8.18,8.19,9.29,9.30,
       33.8.31,9.1,34.4.29,4.30,36.4.12,37.6.2,6.3付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史
・大映十年史

 【総合資料館メールマガジン 第152号(2012年7月25日)掲載】
 2014年1月7日一部改

京都でのプロ野球公式戦開催略史9 阪急ブレーブス編1

昭和20年代から30年代にかけて京都府を本拠地とするプロ野球の球団が誕生しそうで誕生しなかった理由の一つにナイター(夜間照明)設備を有する野球場が無かったことがあるようです。

当時の京都市長高山義三は「プロ野球を呼ぶ為には、どうしてもナイターの設備が必要となってくる。」と回顧録の中で述べています。

この回顧録では、西京極の野球場にナイター設備が設置されるまでの経過も述べられています。
以下要約すると、
(1)当時としては巨額の建設資金を調達する必要があった。
(2)高山市長が懇意であった松下電器産業の創業者松下幸之助に相談。
(3)京阪神急行(阪急)電鉄の社長小林米三に相談。
(4)各々、工費の1/3の寄付を快諾。
(5)昭和40(1965)年3月西京極野球場ナイター設備竣工。

阪急電鉄・小林米三への相談のいきさつは高山の回顧録によれば、西京極が阪急電鉄の沿線であり、その阪急電鉄がプロ野球・阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の親会社であったことから、ナイター設備が完成すればブレーブスがもっとも使用するだろうということで寄付の話を持ちかけたとあります。ところで小林米三は阪急グループの創業者小林一三の三男で宝塚歌劇団の振興に尽力したことでも知られています。

今日、球場外縁(一塁側観客席裏側)に「協力者・松下電器産業株式会社・京阪神急行電鉄株式会社(正式社名が阪急電鉄となったのは昭和48年4月1日)」と刻まれた夜間照明設備竣工の記念碑があり、当時のこの経過をうかがうことができます。 (次号に続く)

(参考)
・広報ポスターに見る阪急電車 あの日あのころそして今
                  阪急電鉄総務部広報課刊
・見たこと聞いたこと感じたこと  小林米三/著
・わが八十年の回顧 落第坊主から市長まで  高山義三/著

 【総合資料館メールマガジン 第155号(2012年9月5日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史10 阪急ブレーブス編2

昭和40(1965)年4月15日、京都府における初のプロ野球・ナイトゲーム(夜間試合)となる阪急ブレーブス対東映フライヤーズの試合が西京極球場で行われます。

試合を前にあいさつをした高山市長は観戦マナー確保のため、観客席での酒類の販売を規制すると述べています。しかし、これとは裏腹にこの試合、審判員の判定に不服を持った一部のファンがグランドになだれこみ、試合進行を妨げるという一幕もありました。

さて、ナイター設備が整った西京極球場では近鉄バファローズや阪神タイガースも試合を行いましたが、ブレーブスの主催試合が最も多く昭和50年代半ばまで年間10~15試合程度が開催されました。

ちょうどこの頃からプロ野球公式戦の年間130試合制が定着し、各球団は半分の65試合を主催しました。ブレーブスがそのうち約2割の試合を西京極球場で主催したことは、本拠地球場(ブレーブスの本拠地は西宮球場:兵庫県)以外で試合を主催する率としては高い比率と言えます。更にこれが10年以上継続したということは特筆に値します。そのため、昭和50年代のプロ野球関連図書には西京極球場をブレーブスの本拠地に準じる扱いで紹介する記述も見られます。

こうしてナイター設備の完成は、昭和40年代から50年代にかけて、プロ野球公式戦の京都府での開催数増加に大いに貢献することにな
りました。(次号に続く)

(参考)
・京都新聞(昭和40.4.15,16付朝刊ほか)
・京都新聞縮刷版(昭和42.1~57.10)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史
・わが八十年の回顧 落第坊主から市長まで 高山義三/著

 【総合資料館メールマガジン 第156号(2012年9月19日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史11 阪急ブレーブス編3

阪急ブレーブスは阪神タイガースや読売ジャイアンツとほぼ同時期に誕生した球団です。タイガースが親会社の支援を受けて甲子園球場を本拠地としたように、ブレーブスも親会社の支援のもとアメリカの野球場を手本にして建設された西宮球場を本拠地としました。

昭和25(1950)年、プロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分裂した際、ブレーブスはパ・リーグに所属します。長年ペナントレース優勝の栄誉に浴することができませんでしたが、昭和42年10月1日西京極球場で球団創設32年目にして初のパ・リーグ優勝を果たします。

この時の優勝監督は西本幸雄です。西本は大毎オリオンズを1度、阪急ブレーブスを5度、近鉄バファローズを2度リーグ優勝に導いた名将として球史に名が刻まれています。

出身は和歌山県ですが、終戦直後京都のノンプロチーム「全京都」に所属し、昭和22年の都市対抗野球大会には京都代表として出場しています。岐阜代表の大日本土木の前に敗退しますが、この試合西本は四番一塁手として出場し、当時の京都新聞は「西本の右中間を抜く痛烈な三塁打…」「西本の巧みなバッティング」などと彼の活躍を伝えています。

西京極球場でブレーブスの優勝が決定したことにより、プロ野球の優勝決定試合につきものの優勝監督胴上げも同グランドで行われました。これは西本個人にとっては20年ぶりの京都への凱旋にもなったのではないでしょうか。

10月17日には西本以下ブレーブスナインは阪急グループの創業者小林一三の墓前に初優勝の報告を行います。

この後、ブレーブスは43、44、46、47、50~53年と初優勝を含めて12シーズンで9回のリーグ優勝、3回の日本シリーズ制覇を果たし、黄金時代を迎えることになります。(次号に続く)

(参考)
・京都新聞 (昭和22.8.7,42.10.2付朝刊)
・京阪神急行電鉄五十年史 京阪神急行電鉄株式会社編
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史総合資料館

 【総合資料館メールマガジン 第157号(2012年10月3日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史12 阪神タイガース編

昭和40(1965)年の西京極球場のナイター設備完成により、阪急ブレーブスの他に阪神タイガースがお盆又はその前後に西京極球場で主催試合を持つことが定着します。

この時期にタイガースが京都府にやってくるのは理由がありました。

タイガースは本拠地球場を甲子園球場としていますが、春と夏に高校野球の大会が開催される間は本拠地を高校球児に明け渡し、長期ロード(遠征)に出ます。

特に夏のロードは1カ月近くにおよびます。この期間中、公式戦の全試合が相手球団主催になるのではなく、タイガースの主催試合も予定されます。そこで、タイガースが主催試合を開催する球場として西京極球場が選ばれました。

お盆の時期にタイガースが西京極球場に来るのは昭和54年まで続き、毎年2~3試合が組まれ一つの年中行事となりました。

しかし、昭和55年よりタイガースは夏のロード期間中の主催試合を西京極球場から福岡の平和台球場に移します。53年まで平和台球場を本拠地としていたライオンズが埼玉県所沢市に移転し、福岡をフランチャイズとする球団がなくなったことが大きな要因と考えられます。ま
た平和台球場は収容人員で西京極球場を上回り、グランドも人工芝となっているなど恵まれた設備を有していました。

平成になりタイガースが西京極球場で公式戦を予定する年もありましたが、その場合でも1試合にとどまります。また、ここ数年の公式戦開催はありません。(次号に続く)

(参考)
・京都新聞 (昭和40.8.8-9,41.8.21-22,42.8.12-13,43.8.11-12,
       44.8.10-11,45.8.9-10,46.8.8-9,47.8.13-14,
       49.8.11-12,50.8.9-11,51.8.14-16,52.8.13-15,
       53.8.12-14,54.8.11-13,平成2.4.25,3.5.25,
       4.4.15,5.5.8,6.6.1,7.4.26,8.8.5,9.6.4,
       10.6.3,12.6.24,13.8.25,14.6.25,15.4.26,
       16.4.28,17.5.17付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史
                    
 【総合資料館メールマガジン 第158号(2012年10月17日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史13 空白期編

昭和57年、西京極球場でのプロ野球公式戦は5試合と最盛期に比べると大幅に減少します。更に58年から62年にかけては開催がなくなります。

開催がなくなった背景には63年に開かれる京都国体にあわせて、西京極の施設改修工事が行われていたことがあります。

昭和62年秋、京都国体にあわせて球場の改修工事は完了しますが、翌63年10月、プロ野球界の状況も大きく変わります。ブレーブスが阪急からオリエント・リース社へ譲渡されオリックスブレーブスとなることが発表され、球団-電鉄-沿線球場という関係に終止符が打たれます。

その後、平成3(1991)年、ブレーブスはブルーウェーブと名を変え神戸市のグリーンスタジアム神戸を本拠地球場とし神戸の市民球団としての歩みをはじめます。特に平成7年、阪神・淡路大震災後、「がんばろうKOBE」の合言葉のもと、イチロー選手らの活躍によるリーグ優勝は被災地に勇気と感動を与えました。

さて、西京極球場ではブレーブスの主催試合がなくなった後、近鉄バファローズが1試合ですが主催試合を持つ年もありました。しかし、バファローズが全天候型の屋根付球場である大阪ドームの完成にあわせ、そこを本拠地と定めた後は京都での試合がなくなります。

そして、平成17年を最後に阪神タイガースの公式戦開催もなくなります。22年4月21日、意外にも東京都を本拠地とする読売ジャイアンツが横浜ベイスターズとの試合を主催します。ジャイアンツが公式戦で京都にお目見えするのは56年ぶりのことで、その時はベイスターズの前身、洋松ロビンスの主催試合でした。現在のところ、日本野球機構(NPB)のプロ野球公式戦はこの日のものが最後の試合となっています。                (次号に続く)

(参考)
・京都新聞 (昭和29.6.19,57.4.14,6.9,6.10,6.30,7.16,63.10.20,
       平成2.8.14,22.4.22付朝刊)
・市民しんぶん(昭和58.3.1,12.1,59.6.1,60.3.1,62.11.1)

 【総合資料館メールマガジン 第159号(2012年10月31日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史14 京都アストドリームス編1

2000年代になると各地の球場がネーミングライツ(命名権)を導入し球場経営の安定化をはかります。西京極野球場も平成21(2009)年、「わかさスタジアム京都」という通称が決まります。

平成22年を最後にNPBのプロ野球公式戦は開催されていませんが、同じ年、名称を一新した「わかさスタジアム京都」を本拠地とする球団が登場します。

前年8月、わかさ生活社の支援のもと女子野球選手が目指す野球キャリアの頂点となることや地域の人々との交流を通じて地域活性化に貢献することなどを標榜して女子プロ野球リーグの創設が発表されました。

女子野球は昭和20年代から30年代にかけての最盛期には約100の球団があり、一部はプロ野球として展開していたました。昭和42(1967)年には全日本チームとして南米遠征もありましたが、女子プロ野球は昭和27年には早くも姿を消していました。

平成21年12月、京都府を本拠地とする京都アストドリームスと兵庫県を本拠地とする兵庫スイングスマイリーズの2球団の設立が発表されました。実に半世紀を越えて、女子プロ野球がそれも京都の地に復活することになったのです。

京都アストドリームスは「わかさスタジアム京都」を本拠地球場とし、チームカラーは紫、また「アストドリーム」とは明日と夢(ドリーム)を組み合わせた造語で、明日に夢を持って成長していくという思いが込められています。

大陽ロビンスに始まり、京都ゆかりの球団は幾つもありましたが、ここに京都を名実ともに本拠地とする球団の歴史が始まったのです。(次号に続く)

(参考)
・きょうと市民しんぶん (平成21.4.1付)
・京都新聞 (平成21.8.25,12.22付朝刊)
・日本プロ野球史 別冊1億人の昭和史
・日本女子プロ野球リーグオフィシャルイヤーブック(2010~2012)
・日本女子プロ野球リーグの挑戦 戸高真弓美/著

 【総合資料館メールマガジン 第160号(2012年11月14日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史15 京都アストドリームス編2

平成22年、2球団ながらも女子プロ野球リーグはスタートします。京都府ではわかさスタジアム京都だけではなく、福知山市でも公式戦が開催されました。また、府内各地で選手と地域の人々との交流も図られ、地域活性化への展開もみられました。

リーグ戦は平成22年前・後期、23年前・後期と4期連続で兵庫スイングスマイリーズが覇権を制します。大阪ブレイビーハニーズを加え3球団の戦いとなった24年の公式戦はアストドリームスが初の前期優勝を果たしました。

アストドリームスがわかさスタジアム京都で前期優勝を決定した6月3日の試合後、佐々木恭介監督は観客席に向けて「熱い声援のお陰で 京都は強くなりました。」とスタンドに詰めかけたファンの声援に応えました。佐々木監督は現役時代近鉄バファローズの主軸打者として当時の西本幸雄監督の下で活躍をしました。その恩師・西本監督が昭和42(1967)年、阪急ブレーブス初優勝時に胴上げされたグランドで、佐々木監督の初優勝の胴上げが行われたことも何かの巡り合わせかもしれません。(次号に続く)

(参考)
・きょうと市民しんぶん (平成22.4.1付)
・京都新聞 (平成24.6.4付朝刊)
・京都新聞丹後中丹版(平成22.7.11付朝刊)
・日本女子プロ野球リーグオフィシャルイヤーブック(2010~2012)

 【総合資料館メールマガジン 第161号(2012年11月28日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史16 京都アストドリームス編3

女子プロ野球、平成24年後期の公式戦は大混戦の末、最終戦で大阪ブレイビーハニーズの後期優勝が決まりました。その結果、11月5日、わかさスタジアム京都において、女子プロ野球リーグ初の総合優勝決定戦がブレイビーハニーズと前期優勝の京都アストドリームスの間で行われました。この試合、アストドリームスは1点を追う最終回に3点を奪い大逆転をしたものの、その裏の守りで再逆転を許し、24年の総合優勝を逃し次年に雪辱を期すこととなりました。

さて、女子プロ野球は4シーズン目の25年、東京に1球団を発足させることが発表されました。また、傘下にユースチームを発足させ、女子野球の底辺拡大に努めています。このほか、女子の硬式野球部は高校、大学、クラブチームとも増加しています。さらに今年の女子野球ワールドカップでは日本代表が大会3連覇を達成し、国際舞台での活躍も顕著です。これらの傾向から今後も女子野球の発展が期待されるところです。

ところで、当館に近い宝が池公園には「軟式野球発祥の記念像」があります。現在、軟式野球は硬式野球と並んで全国で多くの人に楽しまれています。「軟式野球発祥の記念像」に刻まれた「我国はもとより、世界に普及した軟式野球の始まりである。」という文面と同じように女子プロ野球が京都を始まりとして全国に広がることを祈念して連載本編を完結とさせていただきます。 (完)

(参考)
・京都新聞 (平成24,8.21,10.25,10.30,11.6付朝刊)
・日本女子プロ野球リーグオフィシャルイヤーブック(2010~2012)
・日本女子プロ野球リーグの挑戦 戸高真弓美/著

 【総合資料館メールマガジン 第162号(2012年12月12日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史17 あとがき

『京都でのプロ野球公式戦開催略史』は前回の16話で一つの区切りとさせていただきます。長らくのご愛顧ありがとうございました。

さて、この略史は昨年度末に開催しました収蔵品展で衣笠球場関連の資料を展示したことがきっかけでした。

展示キャプションに書ききれなかった衣笠球場の詳細を補い、その終焉と昭和30年頃までの京都におけるプロ野球公式戦開催について数回に分けて解説する予定でした。

ところが、二つの要因により連載が長期に及ぶことになりました。

一つは、連載のため当時の新聞記事などを洗いなおす中で、インターネット上にある情報に憶測で書かれたものが多いとわかったことです。典拠のとれた情報を提供するという司書魂から、典拠の明示や引用により、一話で収める予定の話題を何話かに分けることになりました。

もう一つはプロ野球公式戦の開催が昭和20年代後半には早くも衣笠から西京極に移っていたことです。プロ野球公式戦開催という文脈から西京極での開催についても触れることになり、結果として、昭和30年代の衣笠球場の終焉とは別にわかさスタジアム京都と呼ばれるようになった今日までの球史を書くこととなりました。

なお、当館資料だけでは真相解明に限界があった松竹ロビンスと京都との関係について、他館資料から判明したことを、近いうちに2回に分けた補遺により補足させていただきたいと思います。

 【総合資料館メールマガジン 第163号(2012年12月26日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史補遺1 昭和24年のロビンス

今日のプロ野球はその憲法ともいうべき野球協約で、各球団の保護地域と専用球場(本拠地)が明記されています。しかし、この野球協約で本拠地が京都府或いは京都市と明記された球団は残念ながら存在したことはありません。ロビンスが京都に足跡を残していた1950年代、野球協約に各球団の保護地域を定めることができず、毎年懸案事項として先送りされていました。

ロビンスが京都に最も確かな足跡を残したのは、大陽ロビンスであった昭和24年です。京都新聞社と契約を結び京都が本拠地と自称しました。この年の京都新聞には百貨店のショーウィンドーにロビンスの紹介コーナーが開設されたことや子供たちの期待の声、後援会の会員募集などの記事があります。

また、昭和24年3月の雑誌「ベースボールニュース」に詩人サトウ・ハチローが次のようなロビンスへの詩を寄せています。

「…駒鳥(※)は勝手に陽気に はねたりおどつたり 明るい海の近くから 山の京都に移つても とんちやくせず無軌道に…」

戦後プロ野球が1リーグ8球団により再開した直後、大都市部で興業に適した球場は東京の後楽園と阪神間の甲子園、西宮だけという厳しい状況でした。その中で海沿いの阪神間から立命館大学が建設したばかりの衣笠球場に活路を求めて京都に進出してきたのが大陽ロビンスでした。

そして結局のところ、この年のロビンスの京都進出は野球協約に明記されたものではなく、フランチャイズという制度が確立する前の自主的なもので、今日の各球団のフランチャイズや本拠地とは似て非なるものだったのです。また本編で触れましたように、皮肉にもこの京都進出が後の大阪進出を妨げる要因となったのです。

※駒鳥の英訳はロビン(Robin)。

参考文献
 プロ野球協約 (1957年版、1960年版/野球体育博物館所蔵資料)
 週刊日本野球 (S24.4.2,4.9,28.6.18/野球体育博物館所蔵資料)
 ベースボールニュース (S24.1,3/野球体育博物館所蔵資料)
 京都新聞 S24.1.1,3.1,3.5
                    
 【総合資料館メールマガジン 第167号(2013年2月20日)掲載】

京都でのプロ野球公式戦開催略史補遺2 昭和27年のロビンス

昭和27年、プロ野球界は各球団が本拠地を定めるフランチャイズ制を導入します。当時の野球雑誌には日本地図に各球団の本拠地がおとしこまれ、「京都衣笠球場-松竹」、「下関球場-大洋」などと明記されていました。しかし、別の雑誌では、「大阪とその周辺=阪神、松竹、南海、阪急」と書かれ、続けて「日本の場合は確立されたフランチャイズとは言えない」と解説されています。

異なる2つの記事がありますが、後者が真実でした。フランチャイズ制が導入された年の3月、衣笠球場は防火上の理由などにより所有者である立命館大学が学外使用を禁止しました。また、同時期、西京極球場も観客席の改修により興業使用ができませんでした。従って、フランチャイズ制元年の27年、京都には野球の興業が可能な球場が無かったのです。

結果としてロビンスは京都ではなく大阪球場で主催試合を多く持ちます。この開催実績とフランチャイズの規定があいまいであったため、大阪に腰を据えたいロビンスとこれを可としない他球団の主張がぶつかりました。

両者の紛争は大洋球団と合併して「大洋松竹(洋松)」となった昭和28、29年も続きました。しかし、合併球団の事務所が大阪球場内にあったため、事実上、大阪が本拠地の役割を果たしていました。一方で大阪が正式な本拠地ではなかったため、西京極では20試合弱の公式戦が開催され、準本拠地格としての面目を保っていたようです。

そして、昭和30年、合併が解消され大洋ホエールズとして球団が川崎に移転したことにより、ロビンスの近畿での本拠地問題は結論を出さないまま終止符を打つことになりました。

さて、今日、衣笠球場が松竹球団の本拠地、或いは大洋松竹球団の準本拠地とする説がありますが、これを裏付ける資料は見つけられませんでした。「京都にプロ野球の球団を」という人々の願望が作り出した幻なのかもしれません。また、京都での球場と球団の微妙なすれ違いが無ければ、現在のプロ野球地図は違ったものだったかもしれませんが、こちらの空想は皆さん各自にお任せして京都でのプロ野球公式戦開催略史を終えたいと思います。

参考文献
 週刊日本野球 (S27.3.8,28.1.17,2.22,6.18,6.20 S29.4.10/野球体育博物館所蔵資料)
 ベースボールマガジン (S27.6/野球体育博物館所蔵資料)
 京都新聞 S27.2.15,3.4

 【総合資料館メールマガジン 第168号(2013年3月6日)掲載】
  2014年1月7日一部改

 

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