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鴨川納涼床は、その起源を近世初頭まで遡ると言われ、祇園祭とともに京の年中行事となり、また鴨川改修や都市整備と密接に関わりながら、数百年に亘る歴史の中で幾多の変遷を経て現在の姿となり、京都の伝統文化、夏の風物詩に欠かせないものとして、京都の暮らしの中に定着しています。
応仁文明の乱のあと、荒涼としていた鴨川の河原は、豊臣秀吉による三条・五条橋の架橋の頃から変わり始めます。納涼床のはじまりも、出雲の阿国による歌舞伎芝居にあわせて仮設の茶屋が置かれたり、裕福な商人が夏に河原に席を設けて遠来の客をもてなしたりするようになった頃に求めることができます。
特に旧暦の6月7日から18日までの祇園会の時には、神輿が鴨川で禊ぎをするのにあわせて人々が集まり、中州には多くの床几が出され、物売りなども集まってにぎわいを見せるようになりました。
寛文年間(1661年から1672年)には、鴨川の両岸に新たに石垣や堤が築造され、先斗町や宮川町が形成され、北座・南座などの常設の芝居小屋なども設けられると、両岸の茶屋からは、中州の床几に加えて張出式の床も出されるようになりました。
さらに江戸時代の中頃には、茶屋は400軒を数え、それらが話し合って床几の数を決めたり、費用を出し合って雑踏の整理や増水後の床の撤収などを組織的に行っていたことが記録されています。
こうして鴨川の納涼床は、京の観光案内書であった『都名所図会』をはじめ、円山応挙の眼錦絵や安藤広重の浮世絵にも描かれ、京の夏を彩る年中行事として全国的にも知られるようになっていきました。
明治に入ると、二条以南の鴨川運河開削(1894年)や、京阪電車鴨東線の三条駅までの延伸(1915年)により、左岸の高床形式の納涼床は姿を消します。
さらに大正から昭和にかけての河道改修の結果、川の流れが速くなり床几形式の納涼床が禁止されます。また右岸の高水敷の計画に対し、納涼床を出せなくなることを憂えた木屋町、先斗町の店々の陳情により、右岸高水敷の河岸の建物のすぐ脇にみそそぎ川が開削されます。
以後、右岸側の高床形式の納涼床だけが、このみそそぎ川に脚をつけて出されるようになります。
こうした歴史を持つ京の夏の風物詩である納涼床は、最近ではバーやカフェ等の新しい営業形態も登場しながら、京都鴨川納涼床協同組合(もとは「鴨涯保勝会」)によって、その伝統文化が発展的に継承・保存されています。
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