京都職人仕事百科 第36回
看板書家 談・川勝 清歩(76歳)
師のまねき文字を継いで

顔見世は「歌舞伎の正月」とも言われます。私は最後の口上(こうじょう)まねきを書き上げたら正月がくる。まねきの看板を一人で全部書くのは大変でしょうと言われますが、好きで入った道ですから、役者まねきを書くのはむしろ楽しいこと。いったん筆を持てば書き損じることはありません。
戦後まもなく、映画館や劇場の看板を一手に受けていたタケマツ画房に就職。当時の看板書きは今のグラフィックデザイナーとイラストレーターを兼ねたような仕事でしょうか。16歳で、当時まねきを書いていた竹田耕清氏につくことに。耕清氏は大阪の看板屋にいたまだ若い頃、松竹の偉いサンに見込まれて南座でまねきを書き始めた。おそらく大正時代のことでしょう。子ども時代から墓石の字を頼まれるほど字が上手だったそうです。師匠が亡くなって30年、兄弟子の佐治永清があとを継いで20年間、その次が私です。
南座独自の勘亭流

まねきの文字である勘亭(かんてい)流は、江戸時代に江戸堺町の勘亭という号の人が考案したもの。でも昔の字は普通の人には読めません。ですから南座のまねきは、師匠が読みやすいよう自分で考案した勘亭流です。今なら勘亭流の本もあるし、パソコンで打っても出てくるくらいですが、まねきの字はまた独特。文字の隙間(すきま)を少なく、内へ内へと曲げて書くのは大入りを願ってと言われます。もっと聞いとけばよかったと今になって思いますが、師匠は寡黙な人でね。残された師匠の字だけが永遠のお手本です。
今の若い人にも、まねきを書きたいと志願する人はいます。けど、私らのように仕事を通して腕を鍛えることができない。看板を手書きするような時代じゃなくなりましたから。タケマツ画房もすでになく、師匠直系の弟子は私で最後ですが、師の志はきちんと継いでいけるよう土台作りをしなければと思っています。
- なぜ看板書家に?
劇場看板書きにあこがれ、松竹座の新聞広告を見てタケマツ画房へ。絵を描きたかったが師に導かれ書の道に。絵も字も看板屋が手書きしていた時代だった。 - まねき看板の大きさは?
幅一尺(約30センチメートル)、長さ一間(約1.8メートル)の檜(ひのき)板。間近にすると、かなり大きい。 - 後継者は?
まねきを書きたいという問い合わせは案外あるが、資料を添え返事を書くとそれっきりという人が大半。そのなかでごく稀に熱心な人も。

- かわかつ・せいほ
- 昭和8年京都市生まれ。15歳でタケマツ画房入社。まねき書きの竹田耕清氏に見出され修業、昭和32年一人立ち。平成8年兄弟子よりまねき書きを継いで14年目。高槻市在住。
