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2004年京都府名誉友好大使レポート集

母国や日本で活動中の17名の大使からレポートが届けられました。 大使の活動状況や各国の様子、大使の目を通して見た京都が紹介されています。

修 徳健(シュウ デェジェン)「2003年を振り返って」

(中華人民共和国出身/平成5年度任命/山東省青島市在住)

2003年は皆さんにとってどんな年でしたか。また、皆さんの国にとってどんな年でしたか。2004年の年頭に当たり、ちょっと振り返ってみよう。

一年間の生活を振り返る場合は、いろいろな方面から考えることができますが、仕事を持つものは自分の仕事の面から考えやすいでしょう。私の場合は、教師として青島にある中国海洋大学に勤め、この仕事にとてもやりがいを感じて、日本から帰国してからずっと仕事一筋の生活をつづけてきました。2003年もそうでした。ただ、2003年はいつもの年と比べ、いろいろな意味において特別なことがあった。また、忘れがたいことが多ったので、このレポートに書いて皆さんに紹介しておこう。

まず、何といっても2003年の年頭に中国全土を突如襲ったSARSの恐怖を思い出すでしょう。かつてわれわれ人類が経験したことのないこの新型の伝染病は一月頃から七月にかけておよそ半年あまり猛威をふるい、われわれの生活に大きな影響を与えた。対応の仕方も有効な治療法もないままでいた時はとても怖かった。個人レベルの対策として、外に出かけるときは通常マスクなどを付け、また家の中では、消毒液でまめに拭いたり、世間で言われているように、黒酢を沸かしてその蒸気で部屋の中の空気中の細菌やウイルスなどを殺してきれいにしたりした。さらに薬局にいって肺の健康に役立つ漢方の生薬を買って家で煎じて飲んだりするなど様々な工夫をして対応しました。

一方大学は、ちょうど新学期の始まりで、大学の学生の多くが中国の各地から集まってくるという事態を重く受け止めた。また大学は感染の拡大を防ぐため、恒例の健康診断を実施した上で、各学生寮の消毒の徹底と学生に朝授業に出かける前に体温を測ることなどを義務付けました。それに学生にとって何よりもきつかったのが無断外出ができないということだったようです。つまり、大学の関係部門の許可がなければ、大学の外へは一歩も出られないという厳しい制限措置でした。これに対して一部の学生の間には不満があった。それは行動の自由への制限が普段の生活のリズムを大きく崩して、それに戸惑ってどうしたらよいか分からなくなったことによって生じた苛立ちと五月のメーデの大型休暇も返上して平常どおりに授業することへの不満であろう。

われわれ日本語科は学生数は200名近くで、教員13名ですが、せめてこの範囲内では大きな問題がないようにと日本語科の責任者である私はそう考えて、教員と学生に心を一つにして新型肺炎に打ち勝とうと呼びかけました。具体的には大学の関係部門に協力して学生寮の消毒を教員も協力し、監督すること、また、大学の中の売店で手に入らない、生活必需品の購入の代行などをすることでした。その上、日本語科の教員に今まで以上に情熱をもって仕事に取り掛かろうとも呼びかけました。これが功が奏したか、半年にも及ぶ新型肺炎との闘いで日本語科の学生は病気になった人も、また精神的に不安定な状況に陥った人も一人も居なくて、卒業生も無事卒業ができ、しかも全員立派な仕事に恵まれ、また在学生も様々な資格試験によい成績を以って合格でき、本当に実りの多いものでした。

中国には福禍相依るという諺はありますが、災いは必ずしも悪いことでもないとでも理解してよろしいですが、今回の事で改めてこの諺の持つ意味を学生も私も実際に経験しました。また、今回の事件を通じて、学生の多くは危機的な事態に対処するために、冷静沈着な態度と科学的な精神(理性)、強い精神力がもっとも重要なことだと分かったと口々に言っています。SARSは中国経済にも、われわれ普通の人々の日常生活にも一時的に大きなマイナスな影響をもたらしました。その一方で去年のSARSとの戦いで最終的に勝利を収めたことによって得られた精神的な充実感は、われわれを大きく勇気付けてくれました。それは去年後半の中国経済の強力な巻き返しにもつながった原動力になっているのではないのでしょうか。もちろん、このような不測事態を引き起こす国の内部の管理体制の不備と日常生活の上での不摂生にも反省すべきところがたくさんあることを忘れてはなりません。

2003年を振り返ってみると、このSARSとの戦いで国の将来を担う大学生とともに過ごした日々は、様々な意味においては忘れられないものでした。2004年の年頭に改めてそれを思い出すことによって、新年の新しいスタートを切るための一つの心構えにしていきたいと思います。皆さんにとって2004年は実りの多い年でありますように。

ちなみに中国の伝統的な暦で今年の新年は1月22日です。

【近況報告】

皆さんのお陰で2003年12月から中国海洋大学外国語学院日本語科の教授になりました。1998年に帰国してから、日本語教育の第一線で学部生と修士の学生の指導などの仕事をしてきました。週20時間ほど授業することが多く、青島市日本語スピーチコンテストの審査委員長も務めるなど忙しい毎日を送っています。授業中に京都の自然、歴史、文化、産業、人々の暮らし、そして私の体験談などについて幅広く紹介してきました。こちらで入手できる資料と帰国時に持ち帰った資料、時には京都府の関係者の方々のご協力を得ながら、できる限り詳細に、しかもリアルタイムに京都のことを紹介しています。私の好きな京都をいつも誇らしげに学生や社会人を対象とした集中講座でも語っているので、授業はいつも学生たちに高く評価されています。2002年度に海洋大学の若手教員のベストテンに選ばれました。

また個人的な企画として、京都歳時記をまとめて授業に使うほか、地元でもっとも影響力のある新聞などに送りたいと考えています。また、京都のことを紹介する展示会や定期講座を開けたらと、実現に向けて適切な時期を見計らってやりたいと考えています。そのときはまたよろしくお願いします。以上簡単ながら紹介しておきます。

ナン ミャ ケー カイン「日本とミャンマーの架け橋」

(ミャンマー連邦出身/平成5年度任命/横浜市在住)

2003年3月末に長年住んでいた京都とお別れをつげることになりました。京都の寒さは苦手だったけど季節感を味わうことのできる環境に恵まれた生活はとっても好きでした。そんな京都から離れて早、一年が経とうとしています。京都の町並みや大使活動(特に世界の仲間と料理教室)や京都のおいしい料理店などなどが懐かしいですね。この間、京都に時々行く機会があればとっても嬉しくなってしまいます。みなさん!京都へ行く機会を作ってくれ~!!

それはそうと、京都を離れた後、日本とミャンマーを繋ぐ活動についてご報告したいと思います。私の日本とミャンマーを繋ぐ活動は財団法人大同国際文化基金(The Daido Life Foundation:DLF)のおかげで実現することができました。まず、DLFの「ジャパニーズ・ミラーズ」プロジェクトがミャンマーと日本両国の相互理解を深めて親善関係を促進するために日本語の本をミャンマー語に翻訳し、ミャンマーで出版してミャンマーの中学校・高等学校などに寄贈するという事業に関わることができました。第一冊目はポプラ社が出版した「野口英世」で、この本の翻訳を私が引き受けました。「野口英世」は手が不自由で貧しいにも関わらず「忍耐と努力」で人類を救う医学者になられたのです。この本を通じてミャンマーの子供たちに「頑張る精神」を教えてあげたいという思いで翻訳に取り掛かったのです。2年がけのDLFのこの事業はようやく去年の3月に出版が完成し、7月に5000冊の「野口英世」訳本(写真1:「野口英世」のミャンマー語訳本)をミャンマーの教育省を通じて各学校に寄贈することができました。

次にお手伝いした事業は「寺子屋学校の建設寄贈」です。これは大同生命の100周年記念事業として推進するものです。ミャンマーの教育システムは小学校5年、中学校4年、高等学校2年です。近年、小学校までの義務教育を導入しましたが、貧しい家庭の子供の中にはその義務教育の小学校さえいけない子がいるのです。そういった義務教育の小学校に通えない子供が通学しているのは「寺子屋学校」なんです。「寺子屋学校」とは貧困層が居住する地域内にあるお寺(僧侶が生活する建物)に1年生から5年生までの小学生に勉強を教える場所なのです。このような寺子屋は政府にも認定されていて、寺子屋を卒業した子は公立中学校に進学することも可能となります。これらの寺子屋は貧しい子ばかりが通うため、学校の設備は元より状態の悪い建物が多い(写真2:ピンレーブー寺子屋学校を建替える前の状態)。このように状態の悪い寺子屋学校の中から3校を選定して建替えました。この建設作業は去年の9月には3校とも完成し、DLFによる寺子屋学校の寄贈式が行われました(写真3:ピンレーブー寺子屋学校の竣工式、写真4:ピンレーブー寺子屋学校を建替えた後の状態)。私はこの一連の事業をお手伝いすることができて本当に嬉しかったです。

私は一国が発展するのに一番大事な分野は「教育」だと考えています。特に「基礎教育」が何より重要です。また、政府や海外からの援助の手が届きにくい貧困層の子供たちに何とかして教育機会を与えてあげたいと、大使活動で日本の小学校を訪問して、恵まれた教育環境にある児童たちと接しているうちに強く思うようになりました。このような強い思いが通じてDLFの「寺子屋学校建設寄贈」事業に携わる機会に恵まれたのだと思っています。今後も日本とミャンマーの架け橋になっていきたいと思っています。

ワドウレス アリヤワンサ「我が国に関する自慢」

(スリランカ民主社会主義共和国出身/平成6年度任命/ノース・ウェスタンキリメティヤーナ村在住)

京都府のみなさま

元気でお過ごしのことと思います。まず、最初に京都府知事様をはじめ、皆様にお礼を申し上げたいと思います。去年、平成15年6月に京都府知事・山田啓二様よりご招待をいただき来日しました。帰国した京都府名誉友好大使を日本に招待し、自国において京都府との架け橋としてどのような活動をしているのかを報告する、そのような新しい制度がスタートし、その一番初めの大使に私を選んでいただき、大変光栄に思っています。

京都府国際課の皆様には滞在中、大変お世話になりました。5日間の日程の中でいろいろなところへ連れていってもらい、また、たくさんの方と会わせていただきました。6月19日の開庁記念式典の際は、皆様の前で少しお話することが出来ました。このとき、長らく会っていなかった知人の方々と6年ぶりに再会し、短い時間でしたが挨拶を交わすことが出来ました。とても嬉しく思っております。皆様どうもありがとうございました。

【我が国に関する自慢】

さて、今回のレポートのテーマについて考えてみたとき、2つの事柄が私の心に、私の国・スリランカが誇るべきこととして浮かび上がってきました。一つはこの国の大自然の豊かさ、恵みについてであります。自然破壊はこの国でも進行していますが、まだまだ豊かな自然が残されています。そしてもう一つ、私が最も気に入っており、皆様にお伝えしたいことにスリランカ社会にある心の教育のことがあります。今回は、そのスリランカの社会に受け継がれている心の教育についてお話したいと思います。

スリランカという小さな島国は昔から、インド洋の真珠と呼ばれてきました。マルコ・ポーロは自分の著書の中でスリランカは世界中で一番美しい島だと言っています。かつて、ヨーロッパの人達からスリランカの人々はsmiling peopleと呼ばれていました。今でも外国の方は、スリランカの子ども達を見ると、とても明るい笑顔を持っていると言われます。貧しく経済的に恵まれない人達もたくさんいますが、みな親切で優しい心を持って人生を歩んでいます。

なぜスリランカの人々は物質的には貧しくとも、明るく、他の人に対して優しく生きてゆくことが出来るのでしょう?

この国の歴史は2500年続いています。その2500年前から現在に至るまで、人々は仏教の教えを守り、生きてきたのです。ですから、仏教の教えと人々の生き方、考え方、生活は切っても切り離せない関係にあります。イギリスがやって来て完全に全島を支配するまで、スリランカを統治していたのは王様でした。そして、ほぼすべての王様は仏教徒だったのです。

はるか昔、仏教がこの国に伝わった時からお寺の中には、仏教の教えを教える学校のようなものがありました。仏教の教えを中心に他の学問のことも教えていました。そこで教えていたのは知識としての学問もありますが、主には心のこと、優しさや分かち合いの精神の大切さについてでした。どんなに勉強しても他者への慈しみの精神がなければ本当の勉強とは言えません。どんなに偉く、学識のある学者でも、その人の中に優しさがなければ仏教ではその人を認めません。

お釈迦様の45年にわたる説法、その生涯を描いた伝記、過去生の物語・ジャータカの中で繰り返されるのは助け合いの精神、誰かがどこかで困っていたら助けの手を差し伸べることの大切さです。私たち人間というものは、みんな暗闇の中にいます。そこで明るい光を灯すのはお釈迦様、そしてお釈迦様の教えです。私たちには欲があり、憎しみがあり、妬みがある。言葉だけでなく実際に実行もしてしまう。自分だけ良ければ良いと思っている。そうではなく相手の気持ちを分かること、他の人の痛みや喜びをわかってあげること、それが大切であることを説いたのは仏教です。

しかし、それらの言葉だけで実際の行動がなければ何にもなりません。そこで昔からスリランカでは教育を通して、仏教の良い教えを実行してきました。

一番はじめに出発するのは家庭から、お父さんとお母さんと子ども達の関係においてです。子ども達は両親を深く尊敬しています。それは何故かというと、例えば、お腹の中の子どもをお母さんは優しく10ヶ月程育てます。生んだ後もその子が歩き、喋り、食べるようになるまで気をつけて育てます。そしてその後もずっと。その苦労、一生懸命夜何回も起きておっぱいをあげたり、病気になったらお医者様に連れて行ったり・・・。その子が大きくなって過去を振り返って考えてみる時、やはりお母さんが何も出来なかった自分をずっと優しく面倒を見続けてきてくれたことが分かります。そのお母さんを手伝ってきたのはお父さんです。着るもの、食べるもの、すべてお父さんが働いて用意してくれたものです。こういったことは大体家庭の中で、小さい時から両親によって子ども達に教えられます。そうやって教えられる時、だんだんと子ども達は自分達がここまで大きくなるまで自分の親がしてきた苦労が分かってくるのです。ですから、スリランカでは子どもがどんなに大きくなっても、外出するとき、両親の前でひざまずいて挨拶をしてから、外へ出てゆきます。お正月の日、自分の誕生日の日、お祭りの日、子ども達はまず両親のところに行って、感謝の言葉を言います。このように心の教育はまず家庭内でスタートするのです。

そして学校へ行くと仏教という科目があり、教えられます。難しいことを教えるのではなく、どうやって学校や社会で友達をつくるか?みんなと一緒にどういう風に生きていくか?自分の社会での役割は何か?いじめをしてはいけないこと、自分だけわがままなことをしてはいけないこと、といったことを教えます。日曜日になればお寺に行って(お寺のない場所では学校に集まって)、しつけ、道徳のことを学びます。教えるのはお坊様とボランティアの一般の方が無報酬でやっています。昔、日本にも同じようなことがあったと思います。私と同じ位か、少し年上の方と喋っていると「アリヤさん、私たちの子どもの時も黒板に道徳のことを書いて覚えましたよ」といったことを言われます。現在世界中でこのような心の教育といったものはどんどんなくなっていっていると思います。人間はいつでも全部自分のものにしたいという欲望がありますが、子ども達はこういった心の教育のおかげで、限度というものを知り、みんなと分かち合う精神を学んでゆきます。

スリランカには、老人ホームはありますが、少ないです。もっと造ろうと思えば造れますが、いろいろなところで人々の声を聞くと、みな嫌いです。大反対する人もいます。何故かというと、切っても切れない家族の関係を崩してしまうから、ということです。一部のお金を儲けたい人が老人ホームを建て、お年寄りを入れてしまう。でも、一般の人たちは自分のおじいちゃん、おばあちゃんを老人ホームに入れたくない。一緒に家族の中にいて、恩返ししたい。実は、この国では、おじいちゃん、おばあちゃんという言い方もあまりしません。孫は祖父母に対してもお父さん、お母さんといって呼びかけます。それぐらい親しいのです。

お坊様は人々のためにボランティアで人として良い道、良くない道を指し示してくれる存在です。誰しも、何時の間にか悪い立場に陥ってしまうものです。

そのとき、こうしたらいいとアドバイスをしてくれるのはお坊様です。だからお坊様のこともみんな大事にします。スリランカでは毎月一度の満月の日はポーヤ・デイと言って祝日で、仕事が休みになります。人々は家族で揃って朝から晩までお寺で過ごします。お坊様はこの日、集まった人達に分かりやすい内容の説法をします。これも心の教育です。功徳を積むために夜もお寺で過ごす人がいます。このように、人々の宗教への関心はとても強いと言えます。

心の教育について以上の様にさまざまな形で説明することが出来ます。もちろん、良くないこと、ひどいこともこの国にはあります。ですが、ほかの国に比べスリランカには心の教育、人に対する優しさ、親切さ、分かち合い、そういったものがまだまだ残っているというのは、すごく嬉しいことであり、自慢できることであります。

【近況報告】

私は以前、大学の講師の仕事をしながら幼稚園の園長をしていましたが、心臓の病気で倒れたため、現在は大学の仕事を辞め、幼稚園の仕事に絞り、子ども達の教育に力を入れています。

先に自国の自慢したい点のところで書きました心の教育をもっともっと大事に私どもの関係するメッター幼稚園において実行してゆきたいと考えています。本園は6年前この一歩を踏み出しました。50人の園児たちとスタートしたメッター幼稚園は、これまで500人の園児たちにこの心の教育を行ってきました。

次にメッター幼稚園が取り組んでいる試みについて話したいと思います。普通、幼稚園と園児たちとの関係は、1年か2年その幼稚園に通っておしまいですが、メッター幼稚園ではそこでは終わらず、園児たちが小学校に入って、高校生になって、大人になっても続けて関係を持ち続けていたいと考えています。

その考えに賛同した親は卒業した子どもを毎年、挨拶に連れてくるのです。やってきて、親は自分の子どもに「あなたはここで最初に教育を受け、とてもお世話になったのですよ」と子どもに言います。そして、その子は感謝の言葉を言ってくれます。私は子ども達が大人になって結婚し、彼らの子どももまたメッター幼稚園に通うようになるかもしれないと考えています。また、メッター幼稚園の卒業生で集まって同窓会をしたり、助け合えることがあれば、助け合ったり。そこまで含めてメッター幼稚園と関わっていって欲しいと願っています。

このように心の教育をしよう!という掛け声だけに終わらせず、実際に理念を行動に、まだ実験段階ですが、移していっています。良い結果は見えてきています。上に書きました毎年一度は挨拶にきて、感謝の言葉を言ってくれること。小学校に向かう途中、幼稚園に寄って保母さんや私に挨拶していってくれること。運動会や卒園式のとき、卒園した園児も園児も参加したり、手伝ったりしてくれることなどです。

話は変わりますが、去年の6月に京都府の名誉友好大使として招待されたとき、京都府国際課から春、夏、秋、冬のきれいなポスターをいただき、本当に感謝しています。京都の美しい景色の写ったそのポスターを幼稚園の建物の中心に貼りました。だから、子ども達も親達も毎日「I Love Kyoto」と書かれたそのポスターを見ながら京都のことを想っています。また、私自身も大使の役目として、親の会のとき、京都府のみなさん、京都府知事様のこと、他にもいろいろ説明しています。これからも、もっともっと京都府、日本との架け橋となるような仕事をしてゆきたいと考えています。

最後になりますが、もし、この文章を読まれたり、私どもの幼稚園のホームページなどを観たりして、メッター幼稚園の子ども達と遊んでみたい、こちらの園児教育の様子を見てみたい、保母さんの経験をしてみたい、また日本の遊びを教えてあげたい、スリランカの一般の人々の暮らしの様子を自分の目で見、経験してみたいと思われた保母さん、将来保母さん希望の方、もちろん一般の方でも、京都府国際課を通じて是非、私達にコンタクトしてみて下さい。1週間でも、2週間でも、長くても1ヶ月でも必要な協力はいたします。私たちは言葉が違っても、国が違っても、気候が違っても、肌の色が違っても、同じことで感動して涙を流せる、同じ人間同士ですから、どこかで、他の人々のため、世界のために何か出来ることがあれば、一緒にやりましょう!それは私の願いであります。

では、長くなりましたが、ここで失礼します。

エソダ ラウト「日本(京都)での喜怒哀楽の学生生活」

(ネパール共和国出身/平成8年度任命/大阪市在住)

来日してからまる10年が過ぎ去ろうとしている現時点から10年過去を振り返って見たくなりました。

私の中では来日する前の日本の想像と実際に日本に来てからの現実の日本の差が大きく異なりました。海外に行ったことなかった私にとって何を見ても驚くばかりでした。日本へ到着して次の日から日本語学校に通いはじめ、日本語学習と日本での日常生活の戦いが始まりました。時にはあきらめたくなる気持ち、時には(歩くなら暗い道で歩く練習しよういつかきっと明るい道ときっと出会える)頑張ろうと信じて日本語学習に自分自身を励みました。

年月を経て、京都経済短期大学に入学し、京都府名誉友好大使の任命式を迎えた時心の底から感じた初めての喜びと共に、本当に人生は喜怒哀楽があるからこそ人間だと思いました。自分の国では近所以外との活動をしたことがなく初めて異国での国際交流活動をするには少しとまどいを感じました。けれども、京都府と母国との架け橋としてもっとお互いの異なる国や文化等を深く知れわたらせる架け橋を作るため積極的に頑張りたいと心の底から誓いました。

第一私が不安に感じたことは、言葉の壁を越えて自分の気持ちをどのように相手につたえるか、あるいはお互いの気持ちがお互い伝わるのかと自分一人だけ悩みでした。言葉やジェスチャーを使用し発言しなければお互いの気持ちが分からないと感じました。

私は、人と話すことや交流活動することは苦手ではありませんでしたので、自分の気持ちを相手に伝わるように一生懸命勉学に励み、活動できるように努力しました。実際に国際交流活動が始まり相手の目をしっかり見て自分の思う通りに言葉を発言し相手に伝えました。その発言が伝わったとき生まれて二回目に感じた喜びでした。それから何も不安なく堂々と国際交流活動に参加するようになりました。

年月と共に学校生活そして友好大使としての発見活動や自主活動での参加を重ねていくうち色々な変化がありました。例えば、日本経済の変化、大使制度の変化、大使活動の変化、各国で色々な事が起きた時の残酷さ、悲しい、つらい、うれしい、喜び等々の変化数え切れないほどでした。人間はこのような事を体験しなければ人間とは言えないのかと思った事もありました。そして人間の祖先は動物であることは我々皆知っているにもかかわらずその人間は人間になりきれず又は元の動物にも戻ることができずこのように生き残るためまるで動物の様に弱肉競争しているのではないかと感じます。けれどもいつまでも悲しさに包まれないような世界であるように願うばかりです。

派遣先の行動も以前と比較すれば十分変化があるように感じます。なぜならば自分が何のためその場にいるのかを発見によって時々思うことがあります。異文化コミュニケーションと言う事は本当にこんなもので良いのかと感じたこともあります。まるで派遣依頼者が国際交流とは何かを十分理解しているのでしょうかと疑問に感じることばかりです。このような状況を目の当たりにし、時と時代の流れと共に自分も追いかけて行かなければならないのではないかと思います。「人は教育によって人間になる」けれどもまだまだ人間になり切れてないのではないでしょうか。

最近、気になる点としては、友好大使達が自分の難しい勉学に励みながら大使活動を頑張っているにもかかわらず自主活動についてなぜか自分たちの役割を果たしてないように感じます。自分の都合の良い日にはできるだけ自発的に自主活動をしなければ自分と自分がした約束と異なるのではないかと思います。

最後に大使のみなさんへこれからも勉学とともに大使活動や実習活動も自分の時間が許す限り積極的に頑張りましょう。

シュー ヒンシン

(マレーシア出身/平成9年度任命/枚方市在住)

大学を卒業し就職して以来、大使の活動には全く参加できておりません。

そして、来日して11年が経ちますが帰国できたのは僅か大学時代の3回だけでした。その11年間で母国マレーシアは経済発展において大きく変化を遂げてきました。

来日する前の母国は丁度開発ラッシュの準備段階にありました。なので山と町の容貌に関してはあまり変化を感じられませんでしたが、来日後、3年、5年、7年目に帰国する機会を得て機内上空より久しぶりに見た母国の山は禿げた部分がその都度増え拡大して行き目立つように感じられました。また大規模な新空港が建設され空港から実家までの景色も大きく変化しました。

来日前の街中では建設中の道路や高層ビルの基礎を作っている最中の建物も多く見られ、帰国の度に新しい道や高層ビル、ショッピングセンターができていました。地元の人や友人は日常見ている景色のようで大して変化を感じてないと言われましたが、私にとってはそれらの変化はとても大きなものに感じました。

心理的には帰国したつもりですがその大きな変化を急には受け入れられず、母国なのに他国へ旅行している気分になってしまう時も度々ありました。大きな空港、広い高速道路、高層ビルや大きなショッピングセンターはマレーシアの経済発展の象徴でもありますが、その一方で、京都に見られるような伝統や現在と未来を融合した町づくりも必要だと思います。

日本滞在の7年目に帰国して以来、私は母国の姿を見ておりません。最後に帰国してから4年が経とうとしている今、母国は更なる発展と変化を遂げているだろうと思います。私がそれらの変化を自分自身の目で見て感じられるのはいつになるでしょう?日本で就職している現在では非常に難しく感じられます。

Regards,

丘 興成(Sew Hin Seng)

凌 淑倩(リン スウチェン)「納豆への思い」

(中華人民共和国出身/平成10年度任命/京都市在住)

納豆と言えば、ご承知のように元々日本の関東で生まれた物だが、今日に至っては関西まで広がり大変普及している。最近、納豆には様々な栄養要素を含め、特にナットウキナーゼの悪玉菌だけ殺して善玉菌は殺さず、反ってその増殖を助けるという効果があるということで、ヘルシーな食品として人気が高まってきています。

また、女性のダイエット食品として、美容と美しいスタイルを保つという両方の作用でとても歓迎されています。それにより、納豆の愛好会などの団体も雨後の竹の子のように現れていて、、これからの活躍が期待できそうです。

10年ほど前に来日した際に納豆の良さを薦めてくる人がいました。その時、納豆の外見しか目に入らず、あの臭いと粘りがたまりませんでした。箸で混ぜると段々泡のようなものを立てて、箸から切ろうとしても切れませんでした。なんと不思議な食べ物だろうとずっと思い込んでいました。当然なことで、以来、納豆を食べたことが一回も無かったのです。「納豆」という言葉だけで、そのイメージが頭の中にすぐ浮かんできて、嫌な感じでした。

ある日、偶然な機会で私は納豆との縁が出来ました。それは3年前のことです。その時、京都府名誉友好大使として京都府と奈良県との境界にある中学校で、国際理解教育の時間に子どもたちと一緒に過し、中国の文化や習慣などについて紹介した後、子どもたちは日本の物を紹介してくれました。その中で、納豆は日本の食事文化の一つとして紹介され、試食も勧められました。慌てていたので醤油を持ってくるのを忘れ、素朴な納豆食事会になってしまいました。子どもたちの好意を断るのは失礼だ思い、大人のトンデモナイ面子で私は納豆が好きな振りをしました。不思議なことに、今まで全然食べられなかったのに大変美味しく感じられ、子どもたちがくれた納豆をきれいに食べてしまったのです。

お陰でスーパーで納豆を買うようになり、また、自分だけでなく、友人にも積極的に薦めるようにもなり、納豆は私の日常生活では欠かせないものになりました。納豆は健康に良いことは言うまでもありませんが、私にとっては納豆の粘りが魅力的に感じられるようになったのです。糸のように細いが、粘り強く切れない、まさに私の日本での留学生活にぴったり当てはまります。幸いなことに長い間、京都府内の学校や府民の皆さんとの様々な国際交流の機会を与えられ、コツコツと粘り強く皆さんから学び、私の留学生活が多彩に色どられました。これからも納豆の粘りを生かして日本と中国との掛け橋として大いに活躍したいと思っています。

張 芸文(ジャン イーウェン)「中国西部大開発の現在」

(中華人民共和国出身/平成11年度任命/陝西省西安市在住)

皆様はお元気ですか?中国の西安に戻りまして、はや1年がたちました。この1年では地元の経済発展の著しさをこの目で確かめ、その成長ぶりに驚きました。もちろん、まだ真剣に対処しなければならない問題がたくさんありますが、今の中国の一面をレポートにまとめまして、ご参考になればと思います。

現在中国で行われている西部大開発の西部というのは、ただ単に地理学的に中国の北西にある陝西省、甘粛省、寧夏回族自治区、青海省、新彊維吾尓族自治区、内モンゴル自治区といった省や自治区などをさすものではなく、南西部に位置する四川省、湖北省、チベット自治区、貴州省、雲南省、広西省などの地域も含んでいます。合計12の省、市、自治区を含む大西部は国土面積の70%を占め、人口も3.3億で全人口の四分の一を占めているが、経済の発展は他の地域と較べればまだ遅れています。近年、西部大開発というプロジェクトの実施にともない、西部の経済が成長しつつありますが、沿海地方との格差はなお大きいもので、満足な仕事ができず、貧しい生活をしている人はまだかなりいます。

西部の立ち遅れにはさまざまな原因が考えられますが、中でも農業・工業・教育における東部との格差が顕著です。国土の7割の土地をもっているといっても、大部分は山岳や砂漠で農耕地としてふさわしくありません。また、交通や電力などインフラの不整備もあったので、工業の発展が阻まれる部分もあります。教育や人口の素質の面から見ても、中国の平均レベルと格差が大きいです。

これらの問題を解決し、西部の経済発展を推進するため、中国政府は、2001-2010年の10ヵ年における大開発の目標と内容を決めました。とくに、人材の確保を強調して、いかにして人材の流出を防ぎ、彼らを西部に引き止め、さらにその才能を最大限に発揮させるかなど、詳しい政策や方法をつくるようにと各地に指示したのです。各地に人材を招致するための優遇対策が整備されるにつれ、従来、沿海部の有利な待遇や就職環境を求めて人材が南や東の方へ流れていく「孔雀東南飛」の現状は、これから改善されることが期待できるでしょう。

ユイス バウス「なくなりつつあるスペインとポルトガルとの国境」

(スペイン出身/平成11年度任命/京都市在住)

今年の3月は1年半ぶりスペインへ帰りました。まず、故郷であるバルセロナ(カタルーニャ州)に三日間泊まって、家族と友人と久しぶりに会いました。その後、協力させていただいている研究における調査のために3週間のスペイン旅行に出ました。この研究はEU加盟諸国の国境にある地域と隣国との関係をテーマとしています。1992年からEU内で国境がないかのように人・金・物が自由に移動できるので国境にある地域と隣国の地域との関係が深まると思われています。この調査を行うために、スペインとフランスとの国境の地域およびスペインとポルトガルとの国境の地域を訪ねて自治体などの職員をインタビューしました。その中、訪ねた地域の一つはエクストレマドゥラ州(Extremadura)でした。

エクストレマドゥラ州へ行くのは初めてでした。エクストレマドゥラ州とカタルーニャ州はかなり異なっています。カタルーニャ州はスペインの中でもっとも産業化した地域で豊かな地域の一つであり、独特な言語(カタルーニャ語)や文化があり、スペインの北東、フランスの隣にあります。エクストレマドゥラ州は、ヨーロッパの最も貧しい地域の一つであり、主な経済活動は農林や飲食産業であり、スペインの南西、ポルトガルの隣にあります。しかし、エクストレマドゥラ州は最近、EUやスペインの地域政策の援助をうけて状態が改善しています。例えば、古い町が改善されたり、デパートや学校が増えたり、主な町と結び付く道路が改善されています。

エクストレマドゥラ州で訪ねた町の一つはバダホス市(Badajoz)でした。この町はポルトガルとの国境にすぐ近くあり、ポルトガルの一番近い町のエルバス市(Elvas)まで13キロしかありません。エルバス市へ一日を過ごしにタクシーで行きました。エルバス市は丘の上にあり、高原に城があります。国境線には丘が並んでいて、、それぞれに城があります。これは数百年にわたって隣国からの侵入の恐れを表しています。また、エクストレマドゥラ州の人々が前世紀の90年代までにポルトガル人を軽蔑し、ポルトガル語が話せる人はほとんどなく、ポルトガルに興味を見せていませんでした。

しかし、現在の状態はその暗い過去とまったく違います。現在、バダホス市とエルバス市とが結び付いている新しい高速道路はスペインの首都とポルトガルの首都とも結び付いています。車でバダホスからリスボンへ2時間半、エルバス市まで10分しかかかりません。「Portugal」と書いてある小さい看板に気づかないと国境を越えたことが分かりません。エルバス市にスペイン人がよく遊びに行っていますからレストランなどの店員はよくスペイン語で親切に話してくれます。

また、バダホス市のデパートへ買い物をしに行くポルトガル人が多いですので、デパートの案内書や看板はスペイン語もポルトガルもで書いてあり、ポルトガル語を勉強している人は大勢おり、ポルトガル人やポルトガルへの興味が激増しています。

EU統合のおかげで国境がなくなりつつあり、スペイン人とポルトガル人のお互いの理解が深まって、お互いの信頼や尊重が高まっています。

ところが、日本へ戻ってきた時は、日本国民の代表である総理大臣や様々な国会議員が靖国神社を参拝し、日本の諸隣国とからの信頼、理解やその国民の友好が深まるにはさらに困難になります。日本はEUの国々がとった道とまったく違う方向を向かっています。これでいいのでしょうか。

王 超(オウ チョウ)

(中華人民共和国出身/平成13年度任命/京都市在住)

【近況報告】 京都工芸繊維大学 情報生産科学専攻

1998年10月に来日してから、もう5年間が立ちました。修士卒業は最初の留学目標でしたが、今、博士後期課程において研究しているところです。さらに、2001年に京都府名誉友好大使に任命されてから、三年がたちました。ずっと京都に住んでいますので、京都イコール日本という印象があります。もともと、北京の大都市で生活していまして、人が多く、混雑なので、いやでしたが、逆に先進国と言われる日本の京都というの町で、静かに生活ができ、不思議で、大満足でした。それに、さまざまな人たちと知り合い、良い生活を送りました。

この5年間の留学生活で、勉強しながら、いろいろ自分の人生を考えていました。これから、どうやっていくのか、まだはっきりわかりませんが、日本での留学経験と自分の専門知識をうまく利用して、中国向けの仕事をするのが、基本の基本だと思っています。前職の同僚たちから、情報交換のため、メールでいろいろ連絡していますが、前の会社の売上は五年間で、五倍近く伸びました。勿論、給料も大幅に上がりました。大勢の人が、持ち家と車を持つのが現実になりました。中国の大都市の発展はほんとうに早いです。多分、日本の60年代の時期と同じレベルではないでしょうか。これからも、両国の企業間のビジネスはもっともっと、広がり、私たちのような留学生が、どんどんこの社会に飛び込むことは、間違いないでしょう。

今年の4月から、中国工場を持っている会社に就職するため、大阪に引越ししますので、京都と離れるのが残念です。しかし、日本と中国の掛け橋として、両国の経済交流に尽力することができたら、幸せだと思います。

以上が、私の近況報告です。みなさん、宜しくお願いいたします。

ン アイ リン「出身国について」

(マレーシア出身/平成13年度任命/京都市在住)

私の故郷はマレーシア第2の都市ペナン、リゾートアイランドとしても有名な町である。人口約60万人、面積はシンガポ-ルの約半分、マレ-シア半島北西の海に浮かぶペナン島は、東洋の真珠と呼ばれている。また、主要都市は島内にあるジョージタウンで,1786年代のイギリス植民地時代の建物が今なお残る街として有名である。

これらの建物は「ショップハウス」と呼ばれ。マレーシアやシンガポールなど、東南アジアの都市でよく見られる伝統的な店舗付き住宅である。植民地と華僑の流入という二つの要素を満たすこのような都市に特有の都市住居形態である。この建築様式には東洋的な要素と西洋的な要素が混在し、さらにはそれぞれの民族性や地域性も加味され独特のエキゾチックなファサードを作り出している。「ショップハウス」は1階部分を店舗とし,2階を住居とした建物である。間口が狭く奥行きは深く、京都の町屋と似ているとも言われている。

こうしてジョージタウンはショップハウスが軒を連ね独特の歴史的景観を生み出し、東南アジア諸都市の中で植民地支配初期から唯一完全に継続する最も古い都市である。また現在のジョ-ジタウンはペナン経済の中心地であると同時にマレ-シアを代表するショッピングスポットでもある。なかでも名物のトライショ-(人力車)が多く行き交うペナン通りには、貴金属店から雑貨屋まで多種多様な店がびっしりと立ち並んでいる。この街は中国系が圧倒的に多いため、看板に中国語が使われており、マレ-シアとは別の国にいるような錯覚を起こさせます。

またコロニアルスタイルの建物も数多く残る近郊住宅街は、ヨ-ロッパの風情を漂わせている。街の名前も、イギリスが18世紀後半にこの島を統治した際、時のイギリス国王ジョ-ジ3世にちなんでつけられた。ペナンは海洋リゾ-トとしても優れているが、ランカウイやプ-ケット(タイ)に比べると海の青さといった点では劣っているという印象がある。また、近年は工業都市として開発が進み、大気汚染といった都市問題も徐々に出てきている。

方 昕(ホウ シン)「優しい京都」

(中華人民共和国出身/平成15年度任命/京都市在住)

日本に来る前から京都は静かで綺麗な町であると聞いていたが、実際に来てみると、本当にその通りだと思った。京都は世界に誇る優れた文化財を古くから継承し、日本の国宝、重要文化財の多くを保有している。こうした風土のなかで、長きにわたって工芸・芸術・芸能が育まれ、正月から師走まで寺社それぞれに年中行事がとり行われている。葵祭、時代祭、祇園祭は京の三大祭。雅な祭は、季節の風物詩として、多くの観光客でにぎあわせる。日本三景に数えられる天橋立の景観もすばらしく、西陣織、京友禅、丹後ちりめんなど多くの名産品がある。京都のどこに行っても歴史を感じられ、のんびりできるところが「先進国の日本」とは違う時計を刻んでいる気がする。だがそうであっても、京都での生活で不便を感じたことはなかった。京都の自然よりもっと素晴らしいのはここに住んでいる優しい人々だと思う。

一ヶ月程前の雨の日の出来事だった。いつものように近くにある商店街で買い物して帰る途中、踏切の前で待っていた。私の前に自転車に乗っている女の子がいて、傘を持っていないようすだった。それほどの雨でもないので彼女も特に焦るようには見えず、普通に片方の足だけを地面に付けて待っていた。私の斜め前には小柄なお婆さんが大きな傘を持って立っていた。普通のお婆さんと同じようにちょっと猫背になっていて、前より下を見ているふうである。三十秒程経ったころ電車が踏切に進入してきた、とその時、お婆さんがすごい勢いで傘を持った手を前に差し伸ばした。突然のことにびっくりした私がよくみると、お婆さんは自転車に乗っている女の子が傘を持っていないことに気づいて、自分の傘をさしてあげたのだ。知り合いかなとも思ったが、女の子も驚いたような表情で振返って、「どうもすみません」と言った。やはり赤の他人だったようである。あっという間に電車は通り過ぎて、女の子はお礼を言って去っていった。お婆さんも笑顔で頷いて、ゆっくりと歩いて行った。すごく小さなことであるが、あのお婆さんが一生懸命体を伸ばして、自転車に乗っている女の子に傘をさしている後姿がなかなか忘れられない。

あのお婆さんのような優しい人々が住んでいるからこそ、京都がより美しくみえたのであろう。

馬 慎豊(マ シンオー)「京の桜」

(中華人民共和国出身/平成15年度任命/京都市在住)

日本の春の風物詩としてすぐに頭に浮かぶのは、やはり日本の国花、桜です。毎年、3月下旬から4月上旬にかけて日本各地は花見客で賑わっています。日本の人たちはそれぞれ地元の桜を自慢し日本一だと誇っています。しかし、お酒を飲んで桜を楽しんでいる姿を見ると、一体、どこの桜が一番綺麗なのか留学生の私には疑問でなりません。

先日、知人から電話で「この辺りでは国立市の桜が日本一。時間があれば、是非、遊びに来てね!」と東京の花見に誘われました。未だその桜は見たことがありませんが、賑やかな光景が浮かんできます。

京都に来て初めて桜を見たのは去年の4月のことでした。ある日の朝、自転車に乗って学校へ行く途中、北白川小倉町を過ぎた頃、目に飛び込んできた疏水沿いの景色には驚きました。白っぽい桜の花びらは川面を覆い、清らかな水が絶え間なく流れていました。私は思わず自転車から降り、川に沿って歩きました。時間が早かったせいか、2、3人のお婆さんしかいませんでした。水の流れの音が聞こえるくらい静かで、まるで時の流れの音が聞こえるくらいの静けさを感じました。これこそ日本一の桜でした。京都へ来て本当によかったと思いました。

明治に至る千年余の間、日本の都として栄えてきた京都は現代社会の進歩に関わらず、歴史と伝統が漂う文化財がたくさん保存されています。しかし、京都の桜はこれらの名所旧跡とバランスよく調和し、毎年、生き生きしているように私の目に映ります。このように悠々の歴史と新しさが見事に調和している不思議な風景は京都ではあちらこちらに見ることができます。これは日本に来る外国人が必ず京都を訪れる理由の一つだろうと思います。私たちのような留学生は授業以外でも日本文化や伝統に触れることができます。お陰で古都、京都はいつでも、どこでも多くの国の人たちと出会える魅力的な場所です。

日本の春を満喫する桜は大変綺麗で、昔から数多くの歌に詠まれてきました。桜の命は夏の風物詩である華やかな花火のようにはかないものです。僅か2週間で生命のエネルギーを燃焼し尽くし、私たちを喜ばせ、心を癒し、元気を与えてくれます。私も毎年、感謝の気持ちで花見客に加わり、自然と触れ合っています。京都の桜と出会えたことを本当に神様に感謝しています。

曹 承鉉(チョ スンヒョン)「ソウルのオアシス『インサドン』」

(大韓民国出身/平成15年度任命/京都市在住)

今日私が皆さんに紹介したい所は、ソウル市の真ん中にある仁寺洞(インサドン)という伝統的な町です。

韓国に詳しい方は仁寺洞(インサドン)に関して聞いたことがあると思います。大都会の中心に伝統的な町が存在することは外国人にとって非常に興味深いことでしょう。欧米の人々からは「Merry's Alley」と呼ばれる仁寺洞には、韓国の昔の文化や町並みがそのまま残っています。「Merry's Alley」とは、仁寺洞を訪れた外国人たちが感動を受け、一番韓国的な文化が楽しめる所だということを表現するため付けた愛称です。1999年に韓国を訪れたエリザベス女王2世も、仁寺洞で韓国の伝統衣装や陶芸品をご覧になり大変賞賛されたそうです。

仁寺洞を通る道路にはいろいろな骨董品屋とギャラリーがずらりと並んでいます。また、伝統茶店や食堂が目を引いて、正に町全体が博物館のような感じであります。アンティークショップや古書店、ギャラリーなどでは、大昔の絵や陶芸品、木器、金属品、統一新羅時代の土器から朝鮮時代の白磁など韓国固有の文化を思う存分楽しめます。

特に私がお勧めしたいのは伝統茶店です。伝統茶店では、今ではめったに飲むことのできない伝統茶を飲みながらお店の中に飾ってある伝統的な飾り物を楽しめます。

皆さんも一度、都会の中のオアシスのような仁寺洞で韓国の文化を味わってみませんか。ソウルに訪れた際は仁寺洞にぜひ足を運んでいただきたいと思います。

センブ ユージン ビャレン ヤッケレン

(ノルウェー王国出身/平成6年度任命/イギリス在住)

【近況報告】

これを書いている今、私はイギリスの南に位置する森の中の小屋にこもっています。稀に晴天が多かった夏が秋になり冬に変わって、イギリスらしい曇りと雨の日が増えてきました。外では雨が降り風が吹いており、まだ夕方の5時半なのに、すでに真っ暗になっていますが、小屋の中では木を焼べるストーブが暖かみをくれ、ロウソクの炎が暗闇を追い払っているので、とても愉快な居所です。

前回の報告書に書いたとおり、私は1年位前にイギリスへ来てお寺に入りました。その時はまだ滞在する時間などについて何も決めていなかったのですが、着いたらとても気に入り、これまでほとんどお寺にいることになりました。それに半年ほど前に、私は様々な疑問を捨て、僧侶になるための準備段階として、いわゆる『アナガーリカ』になりました。これは正式にまだ在家者とされながらも、僧侶っぽい白い服を着て、剃髪し、性的行為、飲酒、午後の食事等を禁ずる八戒を守っているので、言ってみれば「トライアル坊主」という感じのものです。アナガーリカとして1年が経った今年(2004年)の夏、『沙弥(じゃみ)』(子僧の意味)になるつもりです。そして、またもう1年経った後、『比丘(びく)』、つまり一人前の僧侶として授戒を受けようと考えています。

私がいるこのお寺の名前は、CHITHURST BUDDHIST MONASTERY(チットハースト仏教寺院)と言い、タイに伝わる上座部仏教の系統を継承しています。20年余りの歴史を持ち、欧米の仏寺としては比較的古いものです。その由来は、70年代の終わりごろ、それまで長年タイの森林地帯において修行してきた西洋人の僧侶たちが、イギリスのある仏教組織の招待に応じて、渡英してきたことにあります。着いてから間もなく、彼らは上記の森をお布施してもらったため、この地にお寺を置くことになりました。現在は、森の中の幾つかの小屋の他に、中心となる古い3階建てのメイン・ハウスと礼拝・座禅用の法堂、尼僧及び女性客用の尼寺もあり、美しい自然に囲まれたゆったりとした居心地のよい所になっています。この頃は、欧米を中心とした各国からの僧侶が10名、尼僧は4名、男女のアナガーリカは6名、ここで生活をしており、在家の客も普段何名かが泊まりに来ているので、大きくて国際的なコミュニティーです。

ちなみに、2週間位前、皆の厚い尊敬を受けている日本人の僧侶も訪問に来ましたが、今は国内の姉妹寺に帰って行きました。彼は奈良出身で大学は京都ということで、その話を聞いた私は京都のことを思い出して、少しホームシックな気分になりました…。

私は母国ノルウェーで初めて仏教と出合った15歳のころから、出家する夢をずっと抱いてきたのです。しかし、心中の煩悩が甚だしく多いため、簡単にこの夢は実現できませんでした。日本を含め、色々な国へ留学又は旅行に行ったり、様々な学校で多くの学問を勉強したり、何人かのガールフレンドと付き合ったりして、多種多様な人生勉強、沢山の試行錯誤を重ねて、1、2年前、お寺に入って本格的な修行を体験してみようと、いよいよ心を決めたのです。もともとタイかミャンマーに行こうと思っていましたが、かつてここに短期出家したことのある知り合いからチットハースト仏教寺院のことを聞き、ここに来ることにしました。なぜなら、イギリスであれば言葉もすでに分かっているし、文化も母国に近いものなので、それらの勉強に力を費やさなくても、最も難しく且つ肝心である心の勉強、つまり修行そのものにより集中できるのではないかと思ったからです。

心の自由を得る為、外的な自由を多く捨てなければならないと言えるでしょう。お寺に入ってからは、様々な犠牲を払わざるを得ませんでしたので、最初のころは少し大変でした。しかし、そのうち慣れて来るとますます楽になりました。今でも依然として「山あり谷あり」の日々を送りつつあると言っても、以前に比べて、山が何となく増え、谷も浅くなり少し減ってきたような気がします。また、素敵な環境の中で長く抱いてきた夢を実現する機会ができたことは本当に恵まれていると思います。これを可能にしていただいた師匠である管長と出家者の仲間たち及び経済的支持をしてくださる在家信者たちに、深く心から感謝をしています。

このまま一生この道を進み続けて行くかどうか分かりませんが、未来のことはもともと知り得ないものなので、重要ではありません。ですから、それはさておいて、この機会を大事にしながら、今、ここを精一杯生きようと心を込めています。

2003年12月31日

ノルウェー王国友好大使

ガブリエル ハード「国連世界情報社会サミット(WSIS)参加報告」

(オーストリア共和国出身/平成13年度任命/京都市在住)

オーストリア出身立命館大学社会学研究科博士課程後期

2003年12月10日から12日まで、ジェネーブ・スイスで世界情報社会サミットが行われました。このサミットの特徴としては、政府だけではなく、業界と市民社会の代表者も招待されました。一年間に渡って、12月のサミット自体や準備プロセス(第三準備会合とアジア会合、日本のNGOのネットワーク会議など)に市民社会の一人として参加しました。さらに、12月のサミットの関連イベントの国際コミュニティーメディアフォーラムでアドバスターズ・ジャパンの代表として報告しました。

国連のサミットで市民社会が交渉に参加できたことは、史上初めてでしたが、それは日本のメディアではあまり報道されなかったでしょう。しかし、市民社会の参加は世界的大きな変化を反映していると思われます。世界中で発展する情報社会の問題を政府同士のレベルで取り組むことができない。業界と市民社会は大事な役割を果たしている。そいうことを、国連は認識しました。「市民社会」の定義、参加の仕方、相識、その業界や政府との力関係などの様々な問題がたくさん残っていると思われますが、これからの動きに、我々研究者・市民は積極的に参加するべきだと強く感じています。

ミハイロワ オクサーナ

(ロシア連邦出身/平成15年度任命/名古屋市在住)

私はロシアのモスクワで生まれて、11歳の時に日本に来ました。ですから日本にはもう10年以上住んでいることになります。中学校と高校は名古屋に住んでいたのですが、大学は四年間京都に住みました。京都に来る前はすごくこの街に憧れていて、衣笠の立命館大学に入学が決まった時は大喜びしたことを今でも忘れていません。京都は日本の古都であり、古い街並みが好きな私に、ロシアの古都―サンクトペテルブルグをいつも思い出させてくれます。私はペテルブルグ出身ではありませんが、同じくこの街も大好きなのです。この両方の古都には共通点があるような気がします。例えば、古い教会がたくさんあるのと、古いお寺や寺院がたくさんあるところです。京都の街の雰囲気がとても好きで、お寺などの散策をするのも大好きなので、お寺に行ったり、古い街並みを見ることでいろいろ思いだしたり考える時間が作れたりと心を落ち着かせることができる場所でした。そして京都の人はどこへ行っても外国人を暖かく迎えてくれるので、京都の文化は大変すばらしいと思います。

さて、私がこれだけ長く日本に住むことになるとは自分でも思いませんでしたが、いつの間にかこれだけたくさんの時間が過ぎ、私も気づかないくらい早くて、そしていつの間にか私は日本にとても馴染んでいました。これだけ長く外国に住むといろいろな経験をすることがあります。ロシアとの違いをいつも比較したりすることで私の考え方はどんどん変わっていきました。全く違う文化、そして習慣を学ぶことによって両方の国をいろいろな面から比較したりするようになりました。そして逆に日本の人達はロシアのことをどう思っているのかということも考えるようになり、いろんな人に出会いました。例えばロシアに全く興味がない人はあまりいいイメージを持っていなかったり、或いは「寒い」という滞ったものしかない人もいますが、逆にロシアに行ってみたら悪いイメージは全くなくなって、すごくいい国でクラッシック音楽などで優れた国だと言います。人々も大らかでやさしく、日本ほど堅苦しく、なんでもきっちりしなくてはいけない場所が少なく、自由がいいと言う人もいて、イメージが逆転してロシアに住みたいと言う人もいました。私はもっとくさんの日本人でロシアのことを知らない人にイメージを変えてほしいと思います。そして真のロシアという国を知ってほしいのです。

今のロシアは10年前とは全く変わってまるで違う国のようになり、ヨーロッパのようになりました。日本のような先端技術には欠けますが、文化・芸術の面では誇れるところがたくさんあります。また休日にはたくさんの若い人達から年配の人たちまでが、劇場や美術館などに出かけたりします。自然もたくさんあり、緑が多いので、ロシア人は休日になると家族などを連れてダーチャ(郊外の家or別荘)に行くのも休日の一つの過ごし方です。

私の卒業論文はロシア経済について書いたのですが、ロシア(モスクワ)は今、正に資本主義社会であり、時代の最先端をいくヨーロッパの都市の一つであると言っても間違いないと思います。最近私の大好きな都市-サンクトペテルブルグなどへの旅行パンフレットが多くなり、旅する人も増えていますが、もっと多くの若者にもロシアという大国を訪れてほしいものです。

私のこの話からもわかるように日本、そしてロシアそれぞれにいいところがあり、またそれらは異なっています。、毎回それぞれの文化を自分のなかで確認するのですが、どっちがよくてどっちが悪いとか言うことは結局できません。同じくらいの人生を両方の国で過ごしてきた私にとっては、両方が母国のような存在なので、ロシアに行ってはまた日本に帰ってきたりするのが一番よいと考えています。

京都の街並みとはもうすぐお別れと思うと本当に寂しいものです。もうすぐ大学を卒業する私にとっては、この四年間は本当に早く過ぎていきました。しかしそんな中、私の京都ライフを最後の四年目でさらに活気付けてくれたのが、京都府名誉友好大使の活動だと思っています。活動に参加することで、京都文化をより感じることができ、さらに自国を紹介することができる機会がたくさん増えました。この機会を通して自分を見つめ直すことができ、また将来自分に何が一番向いているのかを考え直す大切なものにもなりました。

京都、そして京都府の皆さん、本当に感謝しています!

ありがとうございました。京都はいつまでも私の大好きな場所です!

ウィリアム モラン

(アメリカ合衆国出身/平成6年度任命/ワシントンDC在住)

【十七年ぶり】

数年前からワシントンDCの郊外に住んでいます。ワシントンDCは、アメリカの政治の中心や有名な博物館や毎年のさくら祭りなどでよく知られている都市です。ワシントンDC近辺の一般市民でもよく政治を話題にします。最近、今年の四年に一回の大統領選挙や落ち着かない世界情勢の議論をよく聞きます。しかし、今年は久しぶりにある定期的な話題が流行となってます。四年おきの大統領選挙や夏期のオリンピックではありません。

実は、この地域では十七年に一回現れて鳴くせみがいます。毎年の夏によく聞くミーン、ミーンの鳴き声のせみとまた違うせみがいます。この特別なせみはシケーダーといいます。そして、本当に十七年に一回しか、このシケーダーの鳴き声を聞くことができません。十七年のせみはその名前のまま、十七年の寿命があります。しかし、その十七年の殆どは、地面の下です。卵を産むために地上にでます。それはやく一ヶ月間だけです。五月の半ばから六月の半ばまでシケーダーを見かけます。

シケーダーの珍しさではなく、その量が一番に関心を集めています。なぜなら、地面や木がシケーダーで真っ黒になるからであります。

先月からテレビニュースや新聞でシケーダー対策が取り上げられています。犬か猫はちょっとシケーダーを食べても構いませんが、食べ過ぎないように注意しなければならない警告など、色々な情報が耳に入ります。シケーダーをさけるために夏休みを六月にとったり、むりやりに出張をつくったりしている人がいるそうです。シケーダーのことを知らなかった婚約者は計画していた日を遅らしたりしているひともいます。そして、桜の予報のように今年は何日にシケーダーが出てくるとか、ピークはいつごろになるとか、と報道されています。

古里のロードアイランド州には十七年のせみがいませんので今年は私にとってはじめてのシケーダー体験となります。ちょうど十七年前の夏休みに交換留学生としてはじめて京都にきました。十七年前のはじめての京都の体験は非常に印象深いものでした。今年の十七年のせみの鳴き声を聞くとき、きっと十七年まえの京都を思い出すでしょう。