2005年京都府名誉友好大使レポート集
世界各地で活動中の23名の大使からレポートが届けられました。
名誉友好大使の活動状況や各地域の様子、名誉友好大使の目を通して見た京都が紹介されています。
アジアの大使から
修 徳健(シュウ デェジェン) 「緊密さを増す中日の経済交流」
青島市出身/平成5年度任命/山東省青島市在住
中国と日本との間の経済交流は政治など様々な問題を抱えながら、着実に進められています。特に中国のWTO加盟後に、この交流のスピードは速められたような様相を見せています。私の住む町青島は中国の中でも比較的日系企業が多く進出するところで、両国の経済交流の親密さを日ごとに増すことを体感できるのです。
以前の中日の経済交流は市民生活から遠く離れたところで重要プロジェクト的に行われたのが多かったのですが、最近ではその様子は一変しているようです。それはより日常的に且つ生活レベルで感じられるようになったのです。青島には日系スーパージャスコがあります。市民に親しまれている買い物の好所です。ジャスコは業績好調が続き、去年の末に店舗拡大の工事を始め、今年の一月に新装オープンしたばかりです。
その新店舗の一番の特徴といえば、日本風の食品の品数の一層の充実さといえよう。刺身をはじめ、寿司、てんぷら、和風のお惣菜などさながら日本のスーパーにいるのと同じような気分で買い物を楽しむことができるようになります。それに日本から直輸入の果物も置かれていて、高級食品として買い物客の目を引きます。そのほか、松屋の牛丼も新登場して、値段では、中華や洋風のファーストフードとあまり変わらなく、よく食べられているようです。
これらのものは日常的になることによって、市民の多くは日本をより身近に感じるようになり、日本を知るきっかけにもなるに違いなく、積極的な役割を果たしていると思います。去年は青島では初めて日本大使館の後援で日本ウィークを実施しました。とても好評でした。今年も第二回を実施すると計画していると聞いています。年に一度の行事は確かに集中的に日本を紹介するのに役立ちますが、それより、ジャスコの日本ウィークは毎月のように行われ、より身近なところで、極一般の青島市民の人々に日本を感じてもらう商業活動の地道さに日本紹介の効果は大きいような気がします。
中日経済の交流はこのような展開にまで至った今、今後は市民同士の生活レベルの交流拡大に繋がっていくことを願っています。
朴 炳順(パク ビョンスン) 「振り返ってみる日本での生活」
大邱広域市出身/平成5年度任命/ソウル市在住
1992年5月15日に大阪空港から入国し、2005年1月2日成田空港から帰国しました。約13年という決して短いとは言えない時間を日本で過ごし、無事帰国できたこと本当によかったと思っています。留学当時は約6年間を予定していましたが、あれこれ13年という歳月が流れて行き、自分でも驚いています。それこそ日本は私にとって第二のふるさとになりました。
京都には1995年3月まで住んでいましたが、そのとき知り合った方々とはまだ仲良くさせていただいています。京都府立大学大学院在学中に京都府名誉友好大使に選ばれて大変喜んだことは今も鮮明に覚えています。ただ、もっと多くの行事に参加できなかったことと、上京後辛い生活が続き、まともにご報告できなかったことが心残りです。
東京では自分の置かれた状況があまりにも辛く勉学を諦めたいと思ったことも多かったのですが、京都で知り合った方々のご支援とご助言をいただき、諦めることなく無事博士号を取得することができました。博士号取得後は自分の専門を活かして就職ができて、3年半働いていました。これもまた自分の人生にとって大変貴重な経験だと思っています。
東京での生活は、学業、仕事、家事、育児、アルバイトに追われて過酷でした。特に学業と仕事をしながら子育てをすることは極めて大変でしたが、保育施設に子供を預けることができたため、自分の仕事をやり遂げることができたと思っています。日本の保育システムに心より感謝しています。自分の子供の子育ては保育園がやってくれたと言っても過言ではないくらいです。特に保育園の先生方々が心を込めて面倒を見てくださったこと、日本の子供達と友達になれたこと、保護者達と友達になれたことは、我が家族みんなの財産だと思っています。これからもこのような縁を大切にしていきたいと思っています。
日本生まれ日本育ちの6歳の娘は、日本語を忘れないでほしいと願っています。今も私には日本語で話していますが、自分が日本人ではないと気づいたのはワールドカップの時でした。夫が韓国戦を見ていると「日本チャチャチャ」を叫びながら応援していた子が、保育園でお友達のお父さんから「昨日はすごかったね。ドヒちゃんの国が勝ったね。韓国は強かったね」と声をかけられ自分が韓国人であることに気づいたのです。その後、「どうして私が韓国人なの?日本語しゃべって日本に住んでいるのにどうして日本人じゃないの?」とずっと気にしていましたが、「冬のソナタ」のお陰でその疑問は自分なりに理解できたようでした。
自分だけではなく、自分の子供も韓国と日本の架け橋になることを願っていますし、これからも日本のお友達と交流を深めて行きたいと思っています。
帰国してまもなくまだ仕事はしておりませんが、日本滞在13年という経験を活かせる仕事をしたいと思っています。日本に留学に行って博士号を取得したこともうれしいですが、大学で知り合った先生方々、先輩後輩、職場で知り合った人たち、娘の保育園での友達、京都での知り合い… 皆さんと友達になれたことが何よりうれしいです。
またいつか時間を見つけて日本に行きます。以上短いですが近況報告までにて失礼いたします。
2005年2月2日
ナン ミャ ケー カイン 「お産を経験して」
ヤンゴン市(ミャンマー)出身/平成5年度任命/横浜市在住
私の人生において一番幸せであり、大変な瞬間を日本で迎えることになりました。それは2004年11月15日に横浜市内のある病院で男の子を出産したことです。日本でお産したことによってお産に関する日本の風習や考え方を知る機会になったのと同時にお産についてのミャンマーの風習も母を通じて習える機会となったのです。
その出来事は「お産する曜日の考え方」によって起きたのです。私は11月11日の深夜に破水して入院しました。通常は破水して24時間以内に陣痛が自然に来てお産となるらしいのですが、私の場合は13日(土曜日)の朝まで全く陣痛がありません。そのため、医師は13日の朝に「今日、そろそろ陣痛誘発剤を使ったほうがいいでしょう」と言ってきました。陣痛誘発剤を投入するには錠剤と点滴の二通りの方法があります。錠剤の場合は一日に最大6錠までしか服用できないのです。もしその6錠を服用して陣痛が起きない場合は翌日に点滴の陣痛誘発剤を投入するということでした。そして、医師の説明では錠剤より点滴のほうが微調整が効くのでお薦めだそうです。このような状況下では私は今日(13日の土曜日)にでも陣痛誘発剤の点滴を受けて産まれるかもしれないということでした。
一方、私の両親がお産に立ち会うため、13日の朝に成田に到着したばかりで、夫が両親を迎えに行っている最中に先のような段取りが病院のほうで進んでいるわけです。そして、このような状況の説明を病院へ向かっている母に電話で伝えました。そうすると、私の母は「母体内の赤ちゃんの様子が良くて待てるとしたら陣痛誘発剤の点滴は明日にしてほしい、今日は避けて欲しい」というのです。なぜなら、ミャンマーでは「初めての子供に男の子を産む場合はできるだけ土曜日生まない。初子の男子が土曜日生まれたらその子は家族に悪影響を与える、もしくはその子自身が非常に気が強くて育てにくい。」という迷信があるからなのです。つまり、母はミャンマーの迷信を非常に気にしていて土曜日に限って陣痛誘発剤をうつなんてとんでもない、一日だけ延長してもらって日曜日に陣痛誘発剤をうってもらいなさい、と強く言うので、私は医師にこのようなミャンマーの迷信のことを説明し、陣痛誘発剤の使用の延長をお願いするしかありませんでした。しかし、日曜日は医師たちが病院に来ないので、医師の立会いの下で行わなければならないような処置は日曜日には実施しないと言われました。また、「そんな迷信は私は理解できないし、無事に赤ちゃんが生まれてくることが一番大事なのではないか」と担当医が厭きれた顔で言いました。それを母に伝えると母は「なぜ日曜日に医師が働かないの?緊急の場合はどうするの?等々」と自分の主張をどうしても譲れないといった感じでした。そして、私は医師と母との間に板ばさみになってしまったのです。
ようやく、血液の検査によって感染症がないことが分かり、「月曜日までに待っても大丈夫でしょう」と医師が一歩譲って状況が納まりました。このような文化の違い、風習の違い、考え方の違いのため、いろいろな議論の末、15日の月曜日の朝11時ごろに陣痛誘発剤の点滴を始めて夕方の18時半に無事に男の子が生まれました。
私は日本暮らしが長いので、何曜日産まれはどうのこうの、というミャンマーの風習にそれほどのこだわりをもっていませんが、やっぱり年配の母の場合は私とは違って「初の男の子は土曜日生まれてほしくない」と一点張りでした。一方、医師のほうは医学的に考えて破水してからあまり日を延ばしたくないというのも理解できます。私は土曜日生まれようが、月曜日産まれようが、無事に赤ちゃんが生まれてくることだけが全てでした。そして、今では産まれてきた我が子を目にして以上のようなドタバタなエピソードは笑い話に変わったのです。ただ、その病院では私はちょっとした有名人となったのでした。
ワドウレス アリヤワンサ
クルナーガラ県(スリランカ)出身/平成6年度任命/ノース・ウエスタン キリメティヤーナ村在住
京都府の皆様へ
新年の(2005年 平成17年)ご挨拶させていただきます。明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。
さて、毎年興味深く今まで京都府のスリランカ友好大使としてレポートを書きました。今年は身体の準備がまだまだ出来なくてきちんとしたレポートを書けないと思いますのでお許し下さいませ。
去年の終わりに、12月26日スマトラで起きた大地震がまだ世界中の話題になっています。アジアのインドネシアはじめいくつかの国々にこの地震による大変な被害があった。大きな被害を受けた第二番目の国は母国であるスリランカでした。この災いによる被害は私達が住んでいる地域にはなかったけれども、知人、友人、何人か命を失いました。そして、40000人の方々が亡くなられたので胸が痛いです。この地震で亡くなられたその国々の方々にここであらためてお悔やみを申しあげます。
日本をはじめたくさんの国が被害にあった国に支援してくれた。個人的に海外の人々、団体がいろんな形でまだまだ支援しています。ボランティアで来てくれた外国の方も多くいました。京都府国際課の皆様も募金活動に頑張ってくれて有難く思っております。私どもの日本の友人、知人、(京都、奈良、名古屋、兵庫、三重)方々より、ご心配の連絡がありました。そして、被害者のために支援金、荷物も送られてきました。努力し、心がけて支援くださった方々に心から感謝しています。<こんな自然の災いというものはスリランカでは初めてのことです。
信じられないことでした。
被害にあった二日目私達は東の避難場所へ食料品、日常用に必要な物を渡しに行った。三日間その活動をして、現在、被害者を手伝う、励ますなどで出来る範囲で頑張っています。また津波で壊れてしまった学校の図書館へ本を寄付する活動もスタートしました。
名古屋呉豊田市のお友達がSARANAを通じて送ってくれた文房具、タオル等も被害にあった子供達に渡しに行く予定です。これからこのような活動に参加することもあります。
これからは私どもがメッター社会福祉会を中心にして行って行くものであります。
京都府友好大使であるという信頼感も重いもので意味のある活動にしたいと思ってます。また、来年のレポートで、特にスリランカを復興することについて皆様に報告したいと考えております。
では、皆様のご健康とご多幸を心から念じております。
呉 艶(ウ イェン) 「インド洋大津波の後に考えたこと」
天津市出身/平成8年度任命/天津市在住
インド洋大津波による被害はとても大きい。死者、行方不明者は30万人に迫るそうだ。災害後、世界各国から被災国に支援物資や援助資金が送られている。先進国だけでなく、発展途上国の中国などの国からも緊急援助が履行された。中国では、政府行為に留まらず、民間でも、自発的に募金が行われている。お年寄りから子供まで積極的にお金を寄付している。子供たちは自分のお小遣いを出し、四歳の子でさえも自分のお年玉を出している。医療チームもどんどん被災地に赴いている。今回の津波は人類にとって、本当に大きな天災である。我々は「世界は一つ、みんな友達」という大きな人間愛に感動すると同時に、科学技術が高度発達している今日でも、我々もあらためて大自然と付き合う人類の時々の無力さに感嘆せずにはいられない。
人間は昔から、自然を征服してきた。人類が進化する過程において、自然は確かに、人間の神様としての崇拝対象から、征伐して服従させる対象へ、さらに、果てし無く続く強要の対象へと変わってきた。いつの間にか、自然は無視され、破壊されつつあるようになった。もちろん、我々の生活もそれとともに確かに豊かになった。と同時に人間も無神経で、勝手気ままな行動により、自然から大きな復讐を受けたと思わないではいられないのである。
今回の津波は天災であるが、でも、教訓が繰り返されるところもあるそうである。ある被災地の海辺では、海老の養殖業の発展のために、もともとあった樹林が伐採され、その代わりにえびの養殖場が建てられた。そうでなければ、津波の時、すくなくともその樹林は海水の勢いをある程度抑えられると考えられるということである。中国では昔、樹木の過度の伐採で一部の地域の砂漠化が目立っていた。問題の深刻化に伴って、過度伐採の危害に対する人々の認識が深められ、努力して植林するようになった。
一方的に自然に対して、傲慢に振る舞うのではなく、常に大きな自然の秩序の中で、我々人間は生存の場を求めなければならないと思う。たとえ我々の生活水準がそのため下がるとしても、人類の生存のもとである自然をこれ以上破壊してはいけないであろう。
シュー ヒンシン
ペラ州(マレーシア)出身/平成9年度任命/枚方市在住
いつもお世話になっております。
社会人になってからというもの、月日はあっという間に過ぎ、今年で6年目になります。委任された大使の活動には全く参加できないほど毎日忙しく過ごしております。昨年一年間において私にとって印象に残った出来事は二つあります。
まず一つ目は、日本での正月休暇中に有給をプラスして昨年末から2週間弱実弟の結婚式に出席する為、6年ぶりで帰国しました。久しぶりに見る故郷は6年前同様、環境の変化が激しく国民の豊かさの象徴のひとつでもある「車」が非常に増えている事に気づきました。一家に一台を遥かに超えて2、3台持つ家もあちらこちらに見られます。物価も6年前と比べ、倍ほど上がったような気がします。二つ目は念願叶って1月17日付で日本での永住権を取得できたことです。これを新たな糧にして自分にとってもっと遣り甲斐のある仕事に就こうと今年は努力して行きたいと思っております。
今現在は自己の生活を送ることだけで精一杯な状態ではありますが時間的に余裕ができたら是非、大使として活動して行きたいと思っております。
凌 淑倩(リン スウチェン) 「春節に思う」
上海市出身/平成10年度任命/神奈川県在住
中国の春節(旧正月)は日本の正月に相当し、中国で最も重要視され、しかも最も賑やかな国民の大縁日であります。その大晦日の夜には、人々は一家団欒して「年夜飯」(おせち料理に相当)を食べ、年に一回しかない「春節聯歓晩会」(日本の紅白歌合戦に似ている)を見、「バババババ・・・ボンパア」という爆竹を鳴らし、そして新年を迎えます。
日本に留学して以来この間、大学の試験などの都合で中国の春節を日本で過ごすのが殆どでした。日本で迎える春節では懐かしい雰囲気が味わえないのは当然の事ではありました。しかし、「毎逢佳節倍思親」(節句になればふだんより一層親しい人を懐かしむ)という名句は、まさに私たちの気持ちを言い表しています。大晦日の晩はアルバイトが終わるといつも急いで家に戻り、中国にいる家族や親友に電話を掛けるのが私にとって唯一最大の楽しみでありました。電話を掛けると受話器の中から爆竹の音が聞こえ、それが異国で暮らす寂しさを募らせたりしたものです。この様に一年また一年と過ごすうちに来日して早くも10年を越えました。
今年の春節は2月9日でした。友人の一人が、中華料理を囲みながら中国の大晦日の夜を皆と一緒に過ごしませんかと提案してくれましたので、私もすぐにこの誘いを受けて中国上海人が経営しているお店に出掛けました。私は上海の出身なので、大晦日の夜に上海料理を食べられるなんて大変な喜びです。もっと驚かされたのは、そこで「春節聯歓晩会」も見られた事です。海を隔てたこちら側の日本で故郷の料理を楽しみながら、中国にいる中国の人達と同じ時間帯に「春節聯歓晩会」を見て、時々は上海語を話して、まるで上海に帰っているかのような気持ちに襲われました。なんて幸せ、それは一生忘れ難い大晦日の夜でした!またそれは、私にとって今まで及びもつかなかった贅沢な一時でした!
最近インターネットや衛星放送等が普及した事で、知りたい事や得たい情報をすぐに手に入れる事ができ、世界が隅々までどんどん緊密に繋がっています。国境は現実にそれぞれに存在しますが、今日では国の垣根を越えてどこで何が起こっているかがすぐに分かります。そんな中で、私たちももっと広範囲に視野を拡げグローバルな考えを持たなければいけないと実感しています。世界が一つであり、どこに住んでいるかは関係なく、そこに住んでいる人達と仲良くしながら、お互いの文化を理解し尊重し合うことの大切さをしみじみと感じます。今日まで、京都府名誉大使をきっかけとして様々な日本人と触れ合う事ができました。それらの人達から日本の文化や風俗や習慣を学ぶ事ができ、又同時に中国の事も伝えて互いの距離が縮まり、とてもとても充実した留学生生活をおくる事ができまして、それは大きな収穫でした!
今年の3月から主人の関係で関東に移る事になりました。この場を借りまして、今まで大変お世話になりました京都府の方々、京都府国際交流センターの方々、そして様々な交流をさせて頂いた全ての方々に感謝の気持ちを申し上げます。本当に有り難うございました!!これから未だ良く知らない関東で新たなスタートを切ります。不安もありますが世界という大家族の中にいますからきっとすぐに慣れていけると信じています。
皆様の今後のご多幸を心よりお祈りして、私のお礼とお別れの挨拶と致します。
さようなら、そして再見!!
2005.2.16
金 春陽(ジン チャウンヤン)
江西省出身/平成12年度任命/守口市在住
「近況報告」
2000年度大使の金春陽です。私は、2003年8月に同志社大学に博士論文を提出した後、9月から米国ミシガン大学ロースクールに留学に行きました。米国の北部にある町Ann Arborで1年ぐらい暮らしていましたが、勉強に励む日々にはミシガンのアメリカンフットボールチームの応援で気分転換していました。超忙しい一年でしたが、無事に2004年3月には同志社大学から法学博士号を取得し、同年の5月にはミシガン大を卒業し比較法学修士を取得しました。10月には松下電器産業に入社し、本社の知的財産部門に勤務しています。
このように学校生活を終え社会人になったのですが、いまは中国や米国とのビジネスで仕事が任されています。日本と中国とは近くて遠い国とも言われるときがあります。真の友好と国際理解ができるためには、まずは相手の多様性を理解し、落ち着いた態度で接することが重要です。そのためには、心にゆとりがなければなりません。これからは、友好大使の使命をつねに胸に刻み、日本と中国の掛け橋として一層精進していきたいと考えています。
方 昕(ホウ シン) 「北京の地下鉄」
北京市出身/平成15年度任命/京都市在住
今日(2005年1月26日)のニュースで、中鉄電気化局集団有限公司の劉志遠・総経理は25日、北京市内と首都国際空港を結ぶ鉄輪式リニアモータシステムによる地下鉄を建設することを発表しました。空港と市内を結ぶ鉄輪式リニアの総延長は27キロメートルで、時速は100キロを予定します。東直門と首都空港を15-17分で結び、騒音が少なく、急傾斜の発進に強い、安定した走行、環境に優しいなどの特徴を持つといいます。2008年オリンピックのため、北京は着々と建設を進んでいると実感しました。
北京の地下鉄の歴史を繰り返して見ると、最初に地下鉄の建設が開始されたのは、1965年の「地下鉄1号線」です(1969年に完成)。その後、「地下鉄2号線」が1971年に着工、両線は次々に延伸され、1984年9月には「環状線」の北・東・西部が開通し、1987年12月に全線が開通しました。そして、13号線と去年開通したばかりの「地下鉄8号線」(八王墳と通州土橋を結ぶ路線)を加えて、北京の軌道交通総延長は114キロに達し、全国の都市の中でトップを占めます。さらには「北京五輪」に向けて、軌道路線の建設を優先的に行っています。具体的には、9号線(「北京西」駅を起点に、北に向かって「地下鉄1号線」の「軍事博物館」駅を経由し、「白石橋」の終点まで全長5.8km)や東直門と首都空港を結ぶ路線のほか、郊外路線を3本、現在建設中や間もなく着工する「地下鉄5号線」(東単を南北に走る路線)、「地下鉄4号線」(西単を南北に走る路線)、「地下鉄オリンピック支線」(地下鉄10号線)を2008年までに完成させます。この計画によれば、2008年オリンピック開催前に、軌道交通の総延長は300キロに達し、オリンピックの成功裏の開催を保障します。
私はなぜか昔から古い2号線が好きです。2号線は環状線で、沿線の18の駅はいずれも北京の主だった交通中枢です。その18の駅の名前を見てみると、「門」という漢字を付いているのは10個もあります(崇文門、前門、和平門、宣武門、腹興門、西直門、安定門、東直門、朝陽門、建国門)。それは、北京はかつて城壁に囲まれた町でした。その城壁は中華人民共和国となって以来、交通の便をよくするために取り壊されましたが、その名前はそのまま残されていました。その中に、建国門、和平門、復興門は当時のものではなく、後に交通の便を考えあけられた門です。特に、和平門は、外国が中国を侵略、大使館を作りましたが、その交通の便のために、作らせたといってもいい門です。この門ができたとき、街の人たちは「風水が壊れる」と大騒ぎをしたとも伝えられています。城壁も門もほとんど存在しない現在でも、地名をかつてあった門の名前で言っても何の違和感もありません。これも北京文化の1つと言えるでしょう。
2008年オリンピックに向かって、北京は大きく変わると同時に、文化の香りが高い古都としても世界に発信していきたいと私は期待しています。
曹 承鉉(チョ スンヒョン) 「韓国語講座を通して感じたこと」
ソウル特別市出身/平成15年度任命/京都市在住
先日、私は京都府国際センターで韓国語講座の講師を勤めた。年々変わる韓国語に対する日本人の関心は非常にありがたい。そのお陰で私は普段気付かなかった韓国語と日本語の類似性に関して考えることになった。
私は日本に来て間もなく5年になるが、日本語と韓国語の類似性にはいつも驚く。もちろん日本語と韓国語は似ていながらも微妙に違う部分が多い。とはいえ、両国の言葉は他の言葉との関係から見ても比べられないほど似ている。
日本語と韓国語はなぜ似ているのか。それは両国の言葉が同じアルタイ語族に属するからであろう。その日本語と韓国語の特徴としてよく取り上げられているのが二つある。
一番目は、中国による漢字文化圏の影響ということである。日本語も韓国語も元々は自国の言葉があって、その上に中国から来た漢字の言葉が加えられた形をとっている。それで、現代の日本語と韓国語の漢語を比べてみると驚くほど発音が似ている。和語はそれほど似ていないが、漢語は本当に似ている。
二番目は、助詞が品詞と品詞をつなぐ役割を果たすことである。中国語は基本的に単語だけを並べる仕組みなので、助詞という概念が比較的に薄い。しかし、日本語と韓国語は助詞の役割が重要であり、助詞がないと文章が成り立たない。この助詞の発音や使い方も両国の言葉では非常に似ている。
ところが、両国の言葉が全部似ていると思ったらそれは大間違いだ。それを勘違いし、たまたま韓国式表現を日本語にむりやり当てはめる韓国人がいる。例えば、日本語では「薬を飲む」と言う表現を使う。しかし、韓国語では「薬は食べる」ものであり、飲み薬すら食べると言う動詞を使う。これは、初級レベルの日本語を勉強している韓国人にとって勘違いしやすい表現だと思う。また、日本語で「背が高い」と言う表現を韓国語では「背が大きい」と言う。この表現は少し紛らわしい。先日日本のテレビで見たが、日本に10年以上住んでいた韓国人がこの「背が高い」と言う表現を「背が大きい」と間違って言っていた。この微妙な差をうまく勉強しておけば、日本語あるいは韓国語学習は面白くなるだろう。
それでは日本語と韓国語の類似性に関して考えてみたい。例えば、
音楽をきく ??????.
この風邪薬はよくきく ? ?? ? ???.
「効く」と言う言葉は「聞く」と発音が同じである。これは「きく」という本来の日本語があって、後に漢字を付けて区別したのではないかと私は思う。韓国語では聞く・効く両方とも「???(dutnuna)」と発音する。ところが、例の動詞の使い方は両国とも全く同じである。
それでは他の例を挙げてみよう。
話をかける ?? ??.
電話をかける ??? ??.
期待をかける ??? ??.
写真をかける ??? ??.
「かける」という動詞は韓国語では「??(gulda)」になる。しかし、上に書いた例を見たら分かるように、目的語が変わっても動詞の使いは両国の言葉で全く同じだ。これは一部の例であるが、とにかく日本語と韓国語は偶然だとは言えないほど似ている。
日本語と韓国語は昔だけでなく今もその言葉の交流が頻繁に行われている。しかし、どうして日本語と韓国語はこんなに驚くほど似ているのか。その類似性は一言では言い表せない。それは長い歴史の流れから出てきたものであるからだ。
韓国語講座のお陰で、私は日本語と韓国語の類似性に関してを考えることになった。これから類似性を発見するたびに整理しておきたい。これは本当に興味深いことだ。
王 暁曦(オウ ショウギ) 「瀋陽の自慢-瀋陽故宮」
瀋陽市出身/平成16年度任命/茨城県つくば市在住
瀋陽は中国遼寧省の省会(省の首府)、中国の東北地方において最大の中心都市である。総面積は13000平方メートル、人口は720万人である。瀋陽は東北地方の経済や交通の中心にありながら、悠久の歴史や優れた文化伝統もある。
今度は瀋陽の故宮を紹介する。清王朝は北京に遷都する前に、瀋陽に皇宮を設ける。北京に遷都する後、この皇宮は"第二の都の宮殿"とか"残す宮殿 "と呼ばれる。 その後に瀋陽故宮と呼ばれる。 瀋陽故宮の面積は 6万多い平方メートルを占めている。宮殿内の建物は保存状態がすごくよかった。中国には建物としての残している宮殿建築群の一つである。瀋陽故宮の規模は 72万平方メートルがある北京故宮より小さいのが、瀋陽故宮は建築の上に自分の特色を持っている。現在、瀋陽故宮は瀋陽の主な観光地となっている。
瀋陽故宮は 1625年に後金の第一代のハーン、ヌルハチによって建てられはじめた。ヌルハチは死後、彼の息子第二代ハーンホンタイジによって、完成された。 瀋陽故宮の建築構造は三つ方面を分けることができる。 東方面はヌルハチ時期に建築された「大政殿」と「十王亭」である。中方面はホンタイジによって建てられる「大中闕」である。中には「大清門」、「崇政殿」、「鳳凰楼」、「清寧宮」、「関睢宮」、「衍慶宮」、「啓福宮」など宮殿を含まれる西方面は乾隆帝によって建てられた「文溯閣」、「嘉蔭堂」、「仰煕斎」である。乾隆帝の時にはすでに北京に遷都したが、彼しばしばも"東は見回る"ことによって、瀋陽に帰ることがある。
瀋陽故宮の東方面はとても特色がある。 「大政殿」の両側は10軒のちんあずまやがある。それは「十王亭」と呼ばれる。「大政殿」は八角重いのきのちんあずまや風建築である。正門のところには両根皿竜の柱がある、荘厳を表す。「大政殿」は大典を行うときに使われる。たとえばは詔を発布することや、軍隊が出征することを発表することや、将士の凱旋を迎えることや、皇位を継承するときに使われる。「十王亭」は左右翼の王と八旗(満州の戸口制)の大臣の仕事をする場所である。このような君と臣は一緒に宮廷で事務を取扱合うという現象は、歴史の上には少ないである。建築の上の特色から見ると「大政殿」も一つのちんあずまやであるが、体積は比較的に大きい、飾ることは比較的に華麗という原因で宮殿と呼ばれる。「大政殿」と八字形に並ぶ10軒のちんあずまやの建築の方式は少数民族のテントから変化して作られたといわれた。この十一軒のちんあずまや、十一個テントの化身である。テントは移動することができるが、ちんあずまやは固定している。これも少数民族の文化の一つ発展を明らかに表わした。
「大政殿」は瀋陽故宮の中で一番重要な建築である。中の方面は、ホンタイジが日常の政務を処理する場所である。「崇政殿」の北には三階建ての「鳳凰楼」は当時の瀋陽市内には最高な建物である。
瀋陽故宮は歴史がある建物以外には博物館もある。瀋陽故宮の博物館にはたくさんの清王朝の宮廷文物陳列している。 たとえばヌルハチが使った剣とか、ホンタイジが使った腰にぶらさげる刀と雄鹿の角で作った椅子などの古いものがあった。
沈阳故宫博物馆陈列的艺术品也很丰富。在绘画陈列室里,有明、清两代一些大师的作品如清李鳟、金农、明文征明书画精品、陶瓷、雕刻、织乡、漆器等工艺品也不少。
そのほかに博物館には陳列している芸術品もとても豊富である。絵画展示室に、明、清両代の巨匠の作品をたくさん展示されている。たとえば清李鱒、金農と明の文征明の書画作品や陶磁器、彫刻、漆器などの工芸品もたくさんある。
そして、2004年に瀋陽故宮は世界遺産に認定された。もし時間があったら、ぜひ、瀋陽故宮にきて、清の文化を体験してください。
韓 秋月(カン シュウゲツ)
西安市出身/平成16年度任命/大阪府在住
最近、よく“政冷経熱”この言葉を聞きます。日本と中国の間に発生しているこの“政冷経熱”現象がいつまで続くのか、専門家もはっきりとは言えない状況です。“対全世界に開放する”中国のこの方針によって,世界中から膨大な中国市場を狙う企業を発生させ,中国の熱い経済発展がどこまで継続できるのかに視線が注がれています。
私たち中国からの留学生も自分の国の為に,自分のできる役割について考えています。中国経済の発展は私たち留学生にとって、熱望することです。自分が今までやってきた経験を多くの場所で、役立たせることが何よりもの喜びだと考えています。
日中貿易の繁栄は日本人のビジネスマンと中国のビジネスマンの深い関係をつくり,お互い利益をもたらすことができるでしょう。もちろん成功もあり、失敗もあります。経済の影響であらゆる分野でお互いに交流を深めていきます。日本と中国が昔から様々な方面で深い関係を持ち、もっと良好な関係を築いていくはずですが,経済では親密な関係を築いていく反面、政治の面ではどんどん悪い影響が起こっています。この現象が起こると留学生にとっては心が痛い思いにかられます。
私が最初日本に来た時に,お寺で中国人演奏家のコンサートを見に行きました。お寺の住職さんの一言を今でも覚えています。“国と国が大きいから,時々仲良くなったり,仲が悪くなったり,私たちにはどうしょうもないことですから,私たち個人と個人の付き合い、そして交流が必要。ずっと仲良くするのはお互いにとって大事な事です。”民間では様々の分野で交流を行い,最近の中国人が現代的,国際的な意識を持ち続けて,日本人と深く交流したい人が多くいます。日本の人々も中国の古い文化、歴史をもっと知りたい人も多くいます。民間の交流がますます必要であり、ますます増えると思います。
中国に帰るたびに,環境だけでなく、中国人の意識、中国人の国際感覚の変化に驚きを感じます。私たち留学生も,これから勉強することが日本と中国の関係をもっとお互いに良い方面へ進めるようにしないと意味がないかもしれないです。そして私たちはこの架け橋をどのように丈夫に綺麗に築いていくか考え直すべきだと思います。中国国内にいる人々・物・心が変わり続けていく限り、私たち留学生の考え方も追従していけるように、変化し続ける必要があるはずです。日本の人々も昔の感覚ではなく,新しい角度から新しい中国を見てほしいです。
大使になって,日本の小学校、中学校、高校へ行く機会がまた増えて,学生と交流をするのはとても意味がある仕事だと思い,大使の仕事も責任がある仕事だと思っています。これからも例え中国に居ても、日本に居ても、世界のどこに居ても,こういう人と人の出会いを大事する、仲良くする意識をずっと持ちたいと思っています。
王 静(オウ セイ) 「中国から見た京都の文化について」
青島市出身/平成16年度任命/山東省青島市在住
私は1994年11月に中国から京都に留学のために来た。今まで京都に滞在した延べ年数は10年になった(その内2年ぐらい帰国した)京都はすでに私の第二の故郷である。
私は中国遼寧省瀋陽市の出身で11月になるとマイナス10度ぐらいになる寒い地方である。松以外の植物や花から緑色が消えてしまう。ところが初めて京都についたとき空が青々として暖かくて、シャツ一枚でも寒くない。金木犀のにおいが漂ってきて、とても幸せで平和な感じがした。中国と違って一戸建ての家が多く並び、たいてい家ごとに花を植えている。こんなすばらしいところで勉学できるとはうれしいっと思った。
1,京都の自然-山紫水明處
京都は東、北、西三方が山に囲まれた1200年の都である。南が開けた盆地で、太古は湖底であったとも聞いている。そのため清らかな湧き水が各所にあり、川があり、この水に育てられた木や草花が京都を潤している。この山紫水明處を今も京都の人たちは大切に守っている。
「春はあけぼの、夏はよる、秋は夕暮れ、冬はつとめて」とかつて平安時代の清少納言が書いた京都の美しさは今もそのまま生きているように感じられる。 京都の自然は四季を通じて穏やかでやさしい。京都の町と人はこの自然に包まれて穏和で奥ゆかしい。
中国に「背山面海」と言う言葉がある。これは前が海で後ろが山という土地柄で人が住むのに最高の場所という意味である。京都には海はないが美しい川があり、東山などあって中国のこの言葉に近いすばらしい環境の中での生活は羨ましい限りである。
私は東京にも行ったし、大阪にも行った。しかし京都が一番落ち着く。私の心に浮かぶワンシーンがある。加茂川の流れの中で魚を狙う鷺の姿は中国伝統の山水画を思い起こさせる。
2,寺院・神社
京都は日本でも大都市とはいえない。それなのに、寺院が約220寺、神社が約60社を数える。私は全部を回ったわけではないが、主だった寺社は回った。どの寺社もよく整って参詣者の心を十分和ませてくれる。
中国では残念ながら文化大革命のときに、かなりの寺院が壊された。日本では寺社のない都市は無いが、中国には寺社のない都市は珍しくない。
昔、日本から遣隋使・遣唐使が荒海を渡っていった。そのころの中国にはたくさんの寺院があって仏教が盛んだった。日本の空海や最澄らは仏教を中国で学んで日本に移し植えた人だ。その仏教が中国には無くて日本に残っているのは不思議な気がするが、よかったという気もする。
日本の仏像の多くは木造であるが、中国それは石造が多い。中国の「楽山大仏」は石仏の世界最大のものといわれているが、京都の三十三間堂の一千一休仏にも驚かされる。しかし日本の木造仏の寿命の長さに驚かされる。それは日本の湿気の多い気候が幸いしたのだろうか。それ以上に厚い信仰心と御仏を大切にする心の賜物だろう。
3,祭りが多い町
京都は年間105種類の祭りがある(保育社中田昭著『京都の祭り』)。つまり3・4日ごとに京都のどこかで祭りをやっているということになる。世界のどこの都市よりも祭りが多いだろう。例えば一月の若水祭、二月の節分祭などから12月のおけら詣りにいたる祭りの中で最大の祭りは祇園祭りである。毎年私は楽しみにして見に行く。鉾の中に私の好きな鉾がある。それは孟宗山・郭巨山・伯牙山・白楽天山など。それらはみな中の孤児に深い関係のあるものばかりで、そこに中国と日本との文化的つながりを感じるからである。さらに日本にいながらにして中国にいるようなような思いになるからである。
中国人でもこのような故事を全部知っているわけではない。ところが京都人は毎年祭りを繰り返していくうちに自然に外国の文化に対する理解を深めていく。
中国の西安は唐の服装して唐踊りを高級ホテルでやっているが、チケットが高くて、見に行くお客は外国人が多い。京都みたいに町の行事としてやってほしいという気持ちが祇園祭りを見てからの思いだった。
4,京都の食べ物・飲み物
8年前はじめて京料理を食べたとき、器の美しさと盛りつけの丁寧さに感動した。まるで芸術品のようで、食べたらもったいないという気がした。それで量を見たら、心配になった。中華料理はいつも大きい皿に山盛りにして出されるのに、京料理は器の中にほんの少し盛りつけられているだけだった。これでおなかが膨れるのだろうかと訝しんだいつも濃厚な中華料理を食べなれている私には味がうすく、とても頼りなかった。しかし量は心配したほどのことも無く十分満腹出来た。不思議な気がした。ただ刺身だけは食べられないで残してしまった。
2年過ぎて刺身がとてもおいしくなった。3年過ぎて京料理の薄味の意味が分かった。このごろでは、中国に帰ったらおいしい刺身が恋しくなり鰹節のだしを懐かしく思うようになった。鰹節を買ってもって帰ることにしている、京料理の薄味は料理の素材そのものの味を引き出すためなのだと理解できるようになった。中華料理は素材そのものの味をいいかに変えられるかを工夫している。だからたくさんの調味料を使ったり、油を使ったりする。料理に対する考えが根本的に違っている。
日本酒は日本料理にマッチし、中国のお酒は中華料理にマッチしている。飲食文化はやはりその国の風土にあわせて生まれたものと思う。
料理の味という物ははじめて食べてすぐに本当の味が分かるかどうか、疑問である。繰り返して食べているうちに本当の味が分かってくるものである。その国の人々を理解しようと思ったら、その国の人々と同じものを食べることが大事である。日本に住みながら、日本料理が嫌いでずっと中華料理を食べる留学生がいる。残念なことである。
もうひとつは日本の懐石料理の体験はなかなかできないし、値段も高い。留学初期にそういう機会を留学生に体験させてもらえたら、はやく馴染めてうれしのだが。
5,地蔵さんが多い町
京都のあちこちで地蔵さんを祀っている。京都市内の地蔵さんの数は8千から1万にも及ぶといわれている。最初は親しみよりも神秘的なものを感じた。ところがおばあちゃんたちが花を供えて水をかけて両手を合わせてお参りをしている様子をしばしば目にする。服を着せてあげた地蔵さんがあったり前掛けをしてあげた地蔵さんがあったり、それを見ると京都人の心の優しさと暖かさに感動した。それで自分はお地蔵さんのそばを通るたびに神聖さと親しみを感じるようになった。8月22日23日は地蔵盆祭りである。その時お地蔵さんを祀って、こどものために金魚すくいやスイカ割りなど催しが行われる。近所の付き合いも深くなる。
ところが中国には身近にお地蔵さんがない。父と母に聞いたら昔は中国でも土地神が祀られていた。文化大革命のときに潰されたという話だった。
6,京都の町の風景あれこれ
中国の都会は大規模なマンションが多い。京都は一戸建てが多い。マンションでも京都のそれは中国の物より高さが低い。圧迫感が少なく、開放的である。京都の建物は木造が多くてぬくもりを感じる。
京都の町屋は「うなぎの寝床」といわれている。入り口が狭くて奥が深い。私はなにか変わった物があるのかと、不思議な興味に駆り立てられる。とくに夜など細い路地の石畳の両側に灯火が並べられているところがある。すると私はむしょうに誘い込まれそうになる。京都らしい夜の美しさといえるだろう。
夏の夜加茂川の岸辺に数えきれないカップルが等間隔にすわって恋を語っている。これは加茂川になくてはならない風景ともいえる。この風景を見てシャッターを着る外人観光客も多い。その等間隔が一体どのようにして決まっていくのかと私はいつも不思議に思う。中国の上海外灘にもカップルが並んでいるが加茂川のようにきれいな等間隔をとっていない。こんなところにも国民性の違いがあるのだろうか。
冬の加茂川のとくに私の好きな風景がある。
冬になると都鳥が加茂川にやってくる。水の上を漂っている。町の中の心なごむ情景である。
四条大橋の上には墨染めの衣を着た坊さんがお経を唱えながら托鉢をしてたたずんでいる。寒さに耐えながらじっと修行をしている姿に崇高なものを感じて気持ちが引き締まる。ある時その坊さんの鉢に舞妓さんがお布施の硬貨をチャリンと入れたのを見た。墨染めの衣と華やかな衣装の不思議ま取り合わせが私の目に妙に強く焼きついた。
こういう風景は今の中国には無くなっていて、映画の世界でしか見られないが京都に着出会える体験である。
京都は修学旅行生がたくさんやってくる町でもある。清水寺、平安神宮など名所旧跡を学生たちは、5人グループでタクシーに乗って回って歩く。聞けば、かつて観光バスで回っていたらしいが、このごろはタクシーになったという。これは日本の豊かさの現れだろうと推量してしまう。中国では到底考えられない風景である。
京都には平安神宮や醍醐寺など桜の名所が多い。人々は桜が好きだ。シーズンにはどこも桜の花見を楽しむ人がいっぱいだ。紅い提灯やかがり火をつけて桜の下に集まって、お酒を飲んだり、踊ったりもする。そういう雰囲気にすごく日本的なものを感じる。中国でも花見をするが、主に昼にする。夜に花の下で飲んだり、踊ったりする習慣はない。
7,治安のよい町
最近の日本は暗い事件がよく起こっているが、私の感じでは京都という町は大変安心のできる町である。夜遅くなって道を歩いていてもあまり恐ろしさを感じることがない。それに比べて中国では女の子は夜遅くなって一人で歩いたら危険なことが多い。
銀行にお金を下ろしに行くときもあまり恐くない。中国の大きい銀行には警官が常駐しているがそれでも少しまとまったお金を下ろして帰るときかなり緊張感を強いられる。
電車の網棚の上に相当高級なカメラを置き忘れてことがあった。駅員に連絡したら無事に戻されてきた。
またタクシーの後ろの座席に3万ぐらい入った財布を落としてしまったことがあった。それもあわてて会社の連絡したら、降りた場所までタクシーが戻ってきて私に返してくれた。
各家庭のガレージの中の車や、自転車その他のものがそれほど頑丈でない門の中なのに案外盗まれることがない。中国ではしばしな盗まれることが多い。
「日本に京都があってよかった」とは京阪電車のコピーである。この言葉は主に日本人に対して京都をPRしている。しかしもっと広く世界の人々に京都をPRする値打ちと必要があると思う。私は「世界に京都があってよかった」と言いたい。
樊 霞(ハン カ) 「私が見た日中の若者の違い」
陝西省出身/平成16年度任命/京都市在住
日本に来る前に、ちょうど中国の西の都市、西安の街にたこ焼きの露店がどんどん出されました。布看板にはかわいいたこちゃんの姿に、「北海道たこ焼き」の文字が書いてあって、異国の風情が漂っていました。店は大繁盛し、お客さんが長い列を作って待っていることもよくありました。たこ焼きっておそらく日本の北海道の名物かなあと思いました。初めて食べたたこ焼きの味が今でもはっきり覚えています。中のワサビの刺激が特に印象深かったです。
2002年6月、私は中国の古い都西安を離れ、日本の古い都京都にやってきました。しばらく経ったら、たこ焼きは大阪の名物だということが分かりました。本場の味を味わってみたら、意外なことにワサビが少しも入っていないです。店の人に聞いたら、タコ焼きってもともとワサビを入れないと教えてくれました。その時ふっと思ったのは、本当の日本のことを知るのに、日本人の考えを理解するのに、自分の目で日本を見ないと、自分の耳で、日本人の声を聞かないと、本当のことは分かりません。
京都で留学生活を送っているうちに、キャンパス内外で、たくさんの日本の若者と出会いました。彼らとの接触をきっかけに、日本の若者と中国の若者との違いをしみじみ感じました。
京都府立大学に入ったばかりの事です。私はある学部生の国文の授業に出ました。授業中、先生は練習問題を配りました。動詞をかっこに入れて、慣用表現を完成させるという問題で、一人につき五つの問題を解答するという形でした。学生たちは五つの問題の中で、できるものもあれば、できないものもありました。しかし、ある日本人の学生の番になると、彼は「すみません、1番から5番まで全部わかりません。」と小さい声で言いました。「えっ、一つも答えないの?」と留学生の私はびっくりしました。中国の学生でしたら、試験の前に勉強しなくても、試験問題に出てくる文の前後のつながりから推測して答えてみるでしょう。中国でも試験の時、同じかっこ埋めのような問題がよく出ます。いつも一つの問題に様々の答えが出てきます。
日本の学生は自分がちゃんと勉強しなかったものや、100%確認できないものは絶対答えません。それに対して、中国の学生は勉強しなかったものでも1%の可能性があれば、答えてみます。ここは両国の若者の違いではないでしょうか。つまり、日本の学生が1%は1%で、100%は100%、両者をはっきり区別しています。こういう考えに対し、中国の学生は1%でも場合によって100%になれるというふうに考えているでしょう。
次はアルバイト先のある出来事です。去年真夏のある日、私の勤めている居酒屋ですでに夜十時を過ぎて、三階の宴会の部屋のラストオーダーも済んだところ、一人のお連れ様が重そうな楽器を持って、上がってきました。私に「冷たいビールをください。」と頼みました。「はい、かしこまりました。」と私は笑顔で返事しました。こんな暑いところ、せっかくいらっしゃったのに、ビール一杯さえ飲めないのがかわいそう。宴会のラストオーダーが終わっても、まだ店が閉まってはいないし……と私は思いながら、店の若い先輩に事情を説明しました。しかし、その先輩がただちに、「だめだめ、だって、ラストオーダーもう終わったでしょう。注文を受けると、ラストオーダーの意味がなくなるじゃない?店の信用も失ってしまうよ。」と言って、直接お客様の所に断りに行きました。
もちろん、先輩のいうことが十分に理解できます。冷静に、客観的に問題対処ができて、何も悪くありません。でも、もしその日のことが中国の店で起こったとすれば、おそらく店員がお客様の注文を受けるでしょう。
日本の若者は教えられたことをきちんと覚え、ルールをしっかり守り、真面目な態度で行動します。一方、中国の若者は自分の考えを主張し、その場の状況を重視し、その場でのふさわしい対応を考えます。これは日中若者の素晴らしいところだと思います。しかし、日本人から見れば、中国の若者はルールを一番大事にするのではなく、主観的な判断に任す傾向があります。中国人から見れば、日本の若者は固い、融通が利かないという傾向があります。
ですから、日中の若者の交流に、相互理解が必要だと思います。私の考えている相互理解とは、両国の若者が自分の長所をしっかり守ると同時に、相手の習慣や考え方を尊重すべきだということです。そうすると、相手の長所も自分のものに吸収できるし、素晴らしいことではないでしょうか。
いま、日本と中国は政治、経済、文化、スポーツなど様々な分野で盛んな交流が行われています。当然、誤解や摩擦が生じていることも事実です。こうした問題を解決するには、日中若者の交流と同じように、相互理解の視点が必要なので、相手の国の立場を尊重し、相手の国の立場に立って問題を考えることが大事なのではないでしょうか。
陳 静(チン セイ) 「日本のお坊さんは生臭いですか」
北京市出身/平成16年度任命/京都市在住
京都にはお寺が多くて数えきれないことはよく耳にする。きれい、厳かなお寺より、お洒落なお坊さんがもっと注目をされているでしょう。広く、静かなお寺のなかに、高級な車、淑やかな奥さん、かわいい子供たちに囲まれて幸せな生活を送っているお坊さんは少なくないだろう。
イメージの中に、お坊さんは俗物つまり人間のような俗世界を捨てるひとであり、貧乏で、無欲で、社会に奉仕する偉い人であると思っていた。母国のお坊さんが金銭などの俗物に対して一切欲望を持っていないことは普通である。人と違って、肉とか食べられないし、女性と接触できなし、結婚さえ想像し得ないのに、まして子供はいうまでもない。特殊な人として特殊な存在であるでしょう。しかし、日本のお坊さんは私の中のお坊さん像とかなり離れているようです。中国では、俗物に馴染んでいるお坊さんは「生臭お坊さん(花和尚)*1」と呼ばれている。中国のお坊さんが結婚できない、人間の欲望を抑制して貧しい生活を送るのは一般的に当然のことだと思っている。ある意味で、お坊さんのことに対して世間は厳しく指摘しているといえるでしょう。日本には戒律がないのでしょうか
高級な外車、豊かな生活のような俗世界に暮らしている日本のお坊さんが一体どのように考えているか、どのような対応をしているか、本当に生臭お坊さんでしょうか。元会社の友人が出世して課長に抜擢されたばかり時会社を辞めて、お坊さんになった。友人がどうしたのか、何かショックなことをされたのか心配した。知っている限り、途中でお坊さんになる人は、人間の世界で何か変なことをされて、人間のことに自信を失ってからお坊さんになる人が多いらしい。友人に理由を尋ねた時、「お坊さんはサラリーマンよりいい給料をもらえる」と理由を答えてくれました。日本のお坊さんは何で中国と全然ちがうのか、戒律がないのでしょうか、お坊さんは信仰と関係なく、職業であるのかと迷いました。
その後、ある日、友人のお寺に泊まらせてもらって、彼の生活をみてから、学校の先生と話して、お坊さんのことを改めて新しく見直した。お坊さんの生活は思われている様な楽な生活ではなかった。修業をしているときは、朝のお勤め、境内の掃除、風呂たき、お経文の稽古、学校の勉強と、ゆっくりと寝る間もないぐらい忙しかった。仏教では、各宗派ごとにそれぞれの修業方式がある。まず「出家」については、中国では、「出家」は「家」がなくなるということだ。お坊さんは、一切の私欲から抜け出さなければならない。「家」が存在すれば、その家に付き加えた人間関係などの悩みとか、「家」を維持するための努力とか、さらに「家」を失ったための痛みとかはすべてお坊さんの禁物であるから、お坊さんは「出家」をしなければならない。さらに同一所に長く居られないため、常に「雲遊」*1しなければならない。日本では修行僧がよく「雲遊」をしていく。経済が速やかに発展していく現代社会では、たくさんの寺院はにぎやかな都市の中心地に置かれて、毎日複雑な人間関係の付き合いに忙しくて、さらに、寺院の観光事業を経営し、管理して、それ以外に慈善団体の仕事も兼ねているため、お坊さんは私たちのような俗人より忙しいかもしれない。友人のお坊さんは一年の一定の時期に、座禅をして、自分の行為を反省している。
次に戒律の有無について、答えはもちろんある。「戒」とは自分を制する誓いで、「律」とは集団が円滑に活動するルールである。「戒」は自発的なもので、守らなくとも罰則はない。「律」には罰則がある。中国では、お坊さんたちはほとんど集団的に生活しているから、「戒律」の「律」は厳しくしている。これに対して、日本のお坊さんは個人的な方が多いから、ある程度「戒律」が柔らかく見えます。「戒律」は、自分の修行の妨げになる行為を排除するため、そして他人の修行を妨げないためにも、守るべきこととしてお釈迦様が定められたものである。中国と日本の戒律とは多少相違がある。これは国の習慣や気候風土が異なるため、まったく同じようには実践できないから、戒律は当たり前のことを、当たり前のように守って生活していく、よりどころとも言える。こういうところから、日本のお坊さんは「戒律」のことを緩和的に解釈していたかもしれない。
中国と日本のお坊さんはかなり離れているといえるが、結局どっちの方が正しいだろうか。日本のお坊さんは前述のようなことまでしても、日本の信徒たちから別に指摘されたこともなかった。人気番組「笑点」で、落語家がお坊さんの格好をしてお坊さんのことを洒落にした。その中に「お坊さんの度胸(読経)は一番です。」といわれた。確かにそうだと思っている。何かいわれても、穏やかな笑顔で対応している。みんなの心の中で、物の価値を大事しているだけで、別に金銭的な価値にこだわっているわけではない(全てじゃないかもしれない)。世の中のどんな人とも変わらず、同じ歩みで人生を生きる事を実践している人がお坊さんではないでしょうか。俗世界で日本のお坊さんは生臭お坊さんではないと言うべきでしょう。中国と日本のお坊さんはどっちがいいかあるいは正統であるか分からない。中国のお坊さんを尊敬しているが、彼らは私のような俗人ができないことをしていた。日本のお坊さんには親しみを感じている。何か悩みも相談できるし、少なくとも、同じの世界で生活している気がしている。だから中国のお坊さんであろうが、日本のお坊さんであろうが、人間の悩みをすべて宗教に託して、人の本質の原点を探して、美しい世界を導いていく人であると思われているから、正反対かもしれないが、驚かないでそれぞれのお坊さんの話を聞きに行きましょう。
*1 花和尚:戒律を守っていないお坊さんのことを表す。
*1 「雲遊」とは各地を行脚する。
範 達(ハン タツ)
吉林省出身/平成16年度任命/伊丹市在住
ついこの間、無事に大学を卒業することができた。四年間の大学生活を楽しく、有意義に過ごしていきたいと思ったのは最近のようなことである。四年間に嬉しいことも、悲しいこともあったと思うが、本当によかったと一言でまとめたい。このよかったは大きくいうと私の人生の一生に意味していると実感している。私にとっては最も重要な四年間が京都産業大学で、そして京都という魅力な都市で送られて、幸いだと思っている。
四年間でたくさん学んだ。大学での勉強、外国の方とのコミュニケーション取り、いろいろな行事に参加すること(大学内、京都府)など、思い出しきれないほどの思い出がある。その中で成長ができた。そして、たくさんの思い出の中で、やはり京都府の名誉友好大使に選ばれたことは一番感心だったのである。京都は私の第二の故郷であるが、第二と言っても、順番で決めたわけなのだが、第一の故郷に感謝の気持ちと同じく変わらない。そのおかげで、私は京都とのお付き合いが一生でも続けられると信じている。これは、一番に得たものである。自分は幸せだと思っている。
どこに行っても、京都のことは忘れられない。最近、京都から引っ越してしまったが、毎日今までの風景が浮かんでくるのだ。京都から離れることが悲しいが、なぜか笑顔である。それは本当に楽しかったし、最高だったから。ずっと京都にいることより、京都のことを思い出すことのほうがさらに感動してしまう。これから、人生の新たなスタートが始まるわけであるが(もう始まった)、京都から贈られたものや、いただいたノーハウなどを役に立つように発揮し、頑張っていきたい。私のことを気遣ってくれたすべての方々に恩返しとして、これからの目標を実現し成功させ、感謝したい。
また京都に私のことを見守っていてほしい、私もこれからずっと京都のことを大切にしていきたいのだ。
チャルムチ ハサン 「あしなが育英会との協力」
テヘラン市(イラン)/平成16年度任命/京都市在住
皆さんこんにちは。私はチャルムチ ハサンと言います。イランからの留学生です。京都外国語大学で勉強していて、16年度の大使です。下にご覧になるのは私が実際に体験したことです。皆さんにぜひ読んでいただければと思います。
12月のある日のこと。京都府庁国際センターから電話がかかってきて「ハサンさん、1月5日から18日までのあしなが育英会のキャンプに参加しない?イランからもお客さんが来ているから通訳が必要です」と言われました。最初は、私がこれはどういうことか良く分からなかったし、1月も勉強が非常に忙しいから断ったが次の日になるとそのことがずっと頭にあって、よく考えたら「やっぱり参加したいなぁ」という気持ちになりました。そこで、1月5から18日の学校の試験のプログラムを調べ、何の試験も入っていなかったから早速府庁に電話して、「私は参加したいです」ということを伝えた。しかし心に学校と授業の心配を抱えていました。なぜなら1月20日から本格的に試験が始まっていたし、色々な授業のためにさまざまなレポートを書かなければいけなかったからです。でもなぜ参加したかというと将来に通訳あるいは翻訳の仕事に就きたかった私にとっては大絶好のチャンスと経験だと思ったからです。
数日後、直接あしなが育英会から電話がかかってきて、私をキャンプに誘ってから、プログラムを詳細に説明してくれた。
いよいよ1月5日。私はこの14日間で必要になると思った物、服やらタオルやらをかばんに入れて東京に向かった。待ち合わせの場所「ホテルサンルート」に着いた時、午後6時頃だった。ホテルに入ってあしながの担任の先生と挨拶してから、自分の部屋に行った。
次の日「ヘルパー」と呼ばれていた三人の日本人と一緒にイランのグループを迎えるために成田空港へ出発した。このヘルパー達は日本人の大学生で、各国には三人ずついて、そのグループの全てのことを管理するという役目を担っていました(十カ国)。さて、午後2時頃飛行機が着陸し、イランのグループは(子供3人、大人2人)日本に入りました。少し言い忘れましたがあしながのキャンプの目的は、戦争、テロ、災害などで親を亡くした子供達を世界各国から誘って、慰めながら、一緒に頑張りましょうということを伝えることです。
話がそれましたが、イランメンバー達と挨拶をしてから、バスに乗ってホテルサンルートに戻りました。そして次の日からプログラムが本格的に始まって、子供達が一緒に遊んだり、会議やミーティングに出て親を亡くした後の気持ちを述べたりして、私も生まれて初めての通訳をしました。ここで告白したいことがあります。それは通訳することが思っていたよりもずっと難しいということです。そして通訳には皆のいろんな話を受け入れる心も欠かせないのだと初めて分かりました。これまで私は「通訳はただ喋るだけじゃないのか」と思い込んでいましたが、実際にやってみたら、その難しさに気づき、将来の仕事はどんなに大変かが理解できた。
さて、東京にいた3日目は観光の日だった。それで皆観光バスに乗って東京の道を走りながら東京に詳しい人がいろいろ説明しくれました。でもこの日私にとって(たぶん皆にとって)考えられないことがあった。それは小泉首相に会うという急なプログラムでした。国ごとに二人代表として通訳の人と一緒に別のバスに乗って小泉さんと会いに出発。10分くらいお会いしたがとても印象的だった。最後に皆で記念写真をとってホテルに戻りました。
東京での4日間のプログラムが終わり、皆2台のバスに乗って新潟県にある信濃平スキー場へ移動しました。そこに着く前に「雪の国に向かってるよ」と言われたが着いてから「あぁー、なるほどなぁ」と思った。私達は3日そこに泊まっていた間、雪が止まず、ずっと降っていました。私にとって初めての雪ではなかったがそれ程の雪が積もるところを正直見たことがなかったのです。この3日の間にいろんなことをしたがその中で、各国の踊り会とかまくら創りは一番楽しくて印象に残ったことでした。
新潟のプログラムも終わって皆でまた東京に戻りました。東京に着いてすぐ新宿駅の前でインド洋大津波で親を亡くした子供達のために各国の子供達それぞれ募金活動に参加しました。30分だけの募金だったのになんと三十万円も集まりました。
募金活動が終わって次の日皆新幹線で神戸に移動しました。神戸でのプログラムも本当に良かったと思いました。例えばスケート場に行って3時間くらい皆でスケートをしたり、また神戸のレインボーハウスを訪ねたりしました。
1月17日は神戸淡路大震災の10年目を迎えました。そのため皆「神戸市主催追悼式典」に参加し、このような災害が二度と起こらないように祈りました。
そしてついに1月18日、最後の日になりました。嫌なことがあれば楽しいことも沢山あった。世界各国の子供達は国境や言葉の壁を越えて、仲良くなって、皆にとって別れの日がどうしてもつらいもんです。でもその思い出が一生忘れられないものになったと思います。
張 銀京(チャン ウンギョン) 「健康食品、キムチ(Kimuchi)」
ソウル特別市出身/平成16年度任命/京都市在住
昨年大使に任命され、小学校での国際交流も増え、子ども達に韓国について紹介する機会が多くありました。キムチについても紹介しましたが、いくつか質問を受けました。たとえば、韓国では幼い子どもも辛いキムチを食べますか?韓国のキムチはいつから食べ始めましたか?韓国はなぜキムチをたくさん食べますか?などです。
韓国の子どもも最初から辛いキムチは食べられません。始めはお母さんが水にゆすいでから食べさせ、少しずつ、そして徐々(じょじょ)に辛さを増やしていきます。そうすることでだんだん辛さに慣れて行くわけです。
キムチをいつの時代から食べるようになったかは私もわからなかったため調べてみました。韓国観光公社によると、韓国では7世紀から塩蔵キムチがあり、その後唐辛子やニンニクが使用され、19世紀には現在のような姿になったといいます。
韓国の食べ物のなかでもっとも消費量の多いキムチは種類と味が多様で、他の材料との愛想もよく、多様な形で応用できます。たとえば、キムチ餃子、キムチチャーハン、キムチ鍋、キムチチヂミなどキムチを使った料理は沢山あります。子どもの頃から毎日食べてきたキムチは韓国人の食生活では欠かせないものです。
今や日本の一般スーパーやコンビニでもポピュラーな食べ物としておいてありますが、辛さを押さえ、日本人の口に合わせたものは味が浅く、深みがないため、韓国人にとってはやはり本場のキムチが懐かしくなります。子どものごろから食べ親しんでいるキムチは韓国人にとっては離れることができないものです。
韓国では漬物を普通キムチと呼び、中では唐辛子の入ってないものもあります。キムチといえば、ほとんどの人が白菜のキムチを思い浮かべると思いますが、それ以外にも大根キムチやキュウリキムチ、その他の野菜キムチなど使う材料や作り方によってその種類と味は多様です。キムチ研究家によると、キムチの種類がなんと200種類以上だということに私もびっくりしたことがあります。
キムチは一見、白菜と唐辛子しか目につきませんが、韓国のキムチには実に多様な材料が入っています。キムチは、白菜、大根、胡瓜などを塩に漬けた後、唐辛子、ニンニク、ネギ、生姜、カキ、イカ、塩辛などの薬味(ヤンニョム)および果物などを混ぜ合わせて、一定温度と一定期間、発酵熟成させた食べ物であります。
それにはビタミン、ミネラル、繊維質などが多く含まれており、また、熟成の過程では乳酸菌など、優れたいろいろな成分を生成するものであります。以前、SARSが流行した時には、キムチがSARSを予防する効果があるとマスコミで報道されたこともあります。キムチは韓国人にとっては毎食欠かせない物で、味と栄養、貯蔵性など兼ね備えた食べ物であります。
近年、キムチの研究が進むにつれ、美容と健康にとてもよい食品であることも分かってきて健康商品としてキムチの人気は世界的に高まっています。
廬 吉慶(ラウ キットヒング) 「田舎のお正月」
ペラ州(マレーシア)出身/平成16年度任命/大津市在住
多民族のマレーシアは民族に関わらず一緒に祝うお正月は四つとなっている。それは、マレー人のハリラヤ、インド人のディパバリ、西暦の新年、と華人の旧暦新年(又は農暦新年)である。今年の二月の九日はマレーシアの華人のお正月であったため、一年ぶりに田舎に帰ってきた。
田舎がマレーシアの西海岸にありパンコール島という島である。おかげさまで今回のスマトラ地震・津波による被害があまりなくってよかったと思いながら、家の全壊、半壊などの被害とかはないけれど、経済的な被害がかなり大きかった。田舎の主な産業が観光業であるため、津波以降観光客数が8割ぐらい落ちてしまった。昔みたいに観光客が溢れて賑やかなお正月ではなかった。マレー半島に行く唯一の手段とする船の会社が3社くらい増えているけど、津波のせいかいつもガラガラの船しか見かけなく、海に遊びに行く人々の姿がなかった。お土産を売るお店にとってお正月が売上をあげるチャンスなのだけれど、今年は例外になっており、ほとんどのお店の売り上げがいつものお正月期間の3割しかなかった。
「年年有余」はお正月の縁起のいい言葉であり「余」と「魚」が同音で人々がお正月によく魚など食べる。パンコール島では漁業も大事な産業であるため、もちろん島民の食卓に欠かせない料理が魚料理である。特にお正月に魚や海鮮のお鍋をよく食べていたが、津波のせいで魚などの海産物にばい菌が付いているなどのウワサで魚を買う人が少なくなり、漁師さんの損失も大きかったらしい。
お正月は一年の開始であるため、人々ができれば縁起のいいことをしたりし、これからの運勢がよくなることを願う。夜、華やかな花火が寂しそうな夜の空を飾ってくれて私も田舎の経済が早く完全に回復できるように願っている。
ミャ ティダ キョウ 「ヤンゴン」
ヤンゴン市(ミャンマー)出身/平成16年度任命/豊中市在住
ヤンゴンはミャンマー(旧ビルマ)の首都で、昔ダゴンと呼ばれた。ミャンマーは主な人種8種類(ビルマ、モン、シャン、カレン、カヤー、カチン、チン、ヤカイン)と少数民族127で構成されている多民族の国家である。ダゴンは8世紀までがモン族の土地であり、1755年にビルマ族のコウパウン王朝の初代の王がモン族のハンターワディー王国の首都バゴーを攻撃してダゴンを占拠し、その時からヤンゴン(戦いの終わり)と命名された。1886年のイギリス植民地時代には総督府が置かれ、発展してきた。1948年の独立後も引き続き連邦の首都として発展を続ける。ラングーンとはイギリス人が聞き間違えって付けた英語の名称であり、現地のミャンマー人はヤンゴンのみ使用してきた。
日本の1.8倍の面積を持つミャンマーは人口5260万人で、現在ヤンゴンの人口は450万人を超えるが、面積は1万平方kmで、ミャンマーでは一番小さい管区である。ミャンマーの有名なエヤーワディ川の支流であるヤンゴン川は海まで34km続いている。西と南はベンガラー湾、アダマン海に囲まれ、貿易最大の港でもある。
ヤンゴンにはミャンマー仏教国の象徴である有名なシュェーダゴンパゴダがあり、歴史によると2500年前 ミャンマーの兄弟2人 商人がインドで仏陀と出会って8本の整髪をもらいうけ、紀元前585年にこのパゴダに奉納したのが起源だとされる。現在シューダゴンパゴダの高さは99.4m、基底部の周囲は433mで塔の最頂部には1個76カラットのダイヤモンドをはじめ、数えきれないほどの宝石が散りばめられている。ミャンマーの仏教徒たちはパゴダを建立する、貴重な宝物を寄付するということは人生において最大の功徳を積むと考えるのである。毎日パゴダに参拝するミャンマー人の姿は信仰心の強さを表している。ヤンゴンにはとても綺麗な湖2つと広い人民公園がある。第二次世界大戦の激戦インパール作戦の戦没者をはじめ明治時代からのからゆきさんのお墓もあり、日本人観光客は必ず墓参する(日本人墓地)がある。
ヤンゴン市は軍事政権によって15年の間、政治、経済、社会面においてだいぶ変化してきた。政府は開放経済政策に力をいれ、特に観光面では外国人に注目される環境を整えている。外国資本のホテル、企業が立ち並んで、外国製品もあふれる一方である。現在ヤンゴン市内のいくつかのインタネットカフェでインターネットやメールをしたり、ゲームをしたりする若者の姿は他の東南アジアの大都会の風景と同じである。今年の4月からE政府に変わり、オンラインで仕事を処理している。Eコーマス(E取引)をしているミャンマー人にEパスポートを発行し,外国人旅行者のためのビザ発行も、オンラインで申請できるようになった。ミャンマー政府は2006年に開催されるASEANの首脳会議の議長国としてヤンゴン市をアピールするため大いに努力している。聞くと見るとは大違いミャンマー、仏、法、僧、親、先生を敬うミャンマー人の明るさ、礼儀正しさは実際にいってみないとわからないと思う。是非皆様にヤンゴンを案内させていただきたい。
欧州の大使から
センブ ユージン ビャレン ヤッケレン
ベルゲン市(ノルウェー)出身/平成6年度任命/ノルウェー在住
拝啓。
今日は大晦日で、一年ぶりの報告書になりますが、皆様にとって良い年でありましたでしょうか?これからの一年もまたお幸せに、しかもご有意義にお過ごしになれますようお祈り致します。
私の方も大変勉強になったよい年でした。去年の報告書に書いたように、二年前に私は再び母国ノルウェーを離れ、イギリスに位置しているお寺に入ってきたのです。出家の希望は最初からあったのですが、一年以上の準備的訓練をうけさせてもらい、(2004年の)夏いよいよ沙弥として出家することになりました。その際に新しい法名JINAVAMSO(ジナワンソー)を授けられまたので、俗名ユージン・ビャーレン・セレブはもう使わなくなったのです。決して達者ではないが、修行および出家生活にはかなり気に入り、このごろ私にとってこれ以上に有意義に感じられる生き方がないのではないかと思われるほどです。この気持ちもそのうちいくらか変わっていくでしょうが、よっぽどことが起こらない限りこのまま続き(師匠の許可にはよりますが)今度の夏中に一人前の僧侶である比丘の授戒を受けるつもりです。仏教徒でもないのに、家族にも応援してもらっているので本当に恵まれているように思います。
「出家」といえば、なるほどそれは家を出ることを意味し、世間とまるで縁を切ってしまうかのようにとらえることがあるかもしれません。しかし実のところそうではないと思われます。私が理解しているところでは、出家者のもっとも重要な仕事は修行であり、それによりよく集中できるように一般社会とは一定の間隔を置く手段がとられています。修行とは簡単に言えば、道徳を生かし、心を定めて平和にさせ知慧つまり身・口・意による多種多様な行動の結果的善悪の分別力を育てることだと言えます。これを充実させて行けば、自分はもちろん、他人までもその良い影響が及ぶとされています。
我々のあらゆる体験は心の中でされ(科学者なら、脳の中でされるでしょうが)、外的条件がどのようであっても幸せというものは結局この心の中に求めるしかないのです。そこでどうすれば心中に幸せが生じるかどうすれば不幸が生じるかを見分ける智慧を育てる必要があります。例えば怒りや嫌悪というような感情が苦しく感じられるので、(うれしくて怒ったり人を嫌ったりすることはないですよね。)それらをもたらす思考・行動を減らせば結果として不幸も減って行くはずです。反対に欲望のない愛情や満足感というような感情なら快く感じられるので、それをもたらす思考・行動を増やせば幸せもふえていくはずです。このようにして、幸で溢れて来る平和な心には、人を苦しい目に合わせる欲求はなかなか生じにくく、かえってその平和や幸せがシェアーしたくなるはずです。自分自身の人生経験を振り返ってみると、やっぱり今まで他人を不幸にさせたのは、私自身が不幸な時と(例えば怒っていて人に傷つけるようなことを言った時)私の行動か発言が相手にどのようように影響するか分からなかったときとのどちらかだったようです。
こういったことは頭には分かりやすくて、あまりにも当たり前に聞こえるかもしれません。しかし。心にはそう分かりやすくはないのです。ですから。我々は繰り返して繰り返して自・他を不幸にさせ、やめたくても簡単にはやめられないのです。煩悩は甚だしく多くて、修行での上達も特に早くはないこの愚僧(わたし)なのですが、そのうち少しでも自他に被害を与えることを少なくし利益することを多くさせることができるようになっていけばと、心から思っています。
一年後また報告書を出すつもりですが、それまで皆様お体をお大事にお元気でお過ごしください。
ロシアの大使から
ミハイロワ オクサーナ 「2004年をふりかえる」
モスクワ市出身/平成15年度任命/名古屋市在住
皆様にとって2004年はどんな年でしたでしょうか。私は去年一年を振り返りますといろいろなことがありました。先ずは大学の卒論で合格をいただき、大学を無事に卒業できたことが一番大きな成功だったと言えます。
しかし今年は更に大きな一年になることと思われます。それはなぜかと言いますと、特に愛知県市民やここで働いている方々にとって、大きな世界の舞台と言える、愛知万博が訪れるからです。名古屋市はこの博覧会を通じて世界への大きな一歩を踏み出そうとしています。
私は去年は会場の下見に行く機会もあり、こうした舞台で働けるチャンスを待ち望んでいます。万博へのプーチン大統領の来日訪問も期待されているなか、私もこの一年を大変楽しみにしております。
そして去年は更に、在日ロシアのルシュコフ大使が名古屋を訪れ、講演で愛知万博が今後の日露関係の発展にとっても非常に大きな幕開けになると話しておられました。私はそんなルシュコフ大使の講演通訳を務める機会も与えられ、大変貴重な経験をしました。 大使の演説には、日露関係はこの10年で最も望ましい変化を遂げることができました。これまでの歴史にないほど良い関係にあり、対ロ投資も明らかに増大しています。そして東シベリアから大西洋までの石油パイプライン建設プロジェクトで、サハリンのガス・石油開発に基づき、近い将来、サハリンから日本へ天然ガスが供給されます。昔と比べて、日本側のロシアに対する共同ビジネスへの関心が高まっています。しかしこうしたことがよりスムーズに更に進むには、両国の北方領土問題が懸案となっている、と多くの新聞では取り上げられています。
これに対しルシュコフ大使は、相互発展のために何かの前提条件を出し、しかも領土問題の解決と結びつけることは間違いであるという考えを表し、第一に両国のよりいっそうの相互理解を深めることで領土問題にも次第に解決の糸口が見えてくるはずと語られました。私も日ロ関係の発展を期待しながら、今年しかできない万博での自分の飛躍に頑張りたいと思います。
ブラジルの大使から
タカノ ヴィオレッタ ミサキ 「学校の安全を守るために-ブラジルの場合」
バラー州(ブラジル)出身/平成14年度任命/京都市在住
日本の学校で起きている惨事には、ショックを隠し切れない。本当に残念でたまらない。友好大使として小・中学校を訪問するたびに「みんな元気で安全に通学できているのだろうか」「学校の安全対策はどうなっているのか」と心配してしまう。
日本では、どこでも安全であるという意識がある。実際そうだったといえるだろう。だから学校は「子供達が学び、遊ぶ場」であっても「子供達を外部から守る場」として意識ことはない。そのため、日本の学校の門も塀も低い。それは単に学校の敷地を認識させるための囲いであって、外部からの進入を防ぐためのものではない。
ブラジルでは中産階級以上の家庭の子供達はほとんどが私立学校に通う*1。残念ながらブラジルは決して安全な国とはいえないため、子供の安全を確保することは最も重要なことである。親はそのために学校に月謝を払う。もちろん塀は外部からの侵入はもちろん、学校の中からも絶対に出られないようにするためにある。門にはかならず門番がおり、生徒や職員の出入りをチェックする。教師は職員カードを門番に見せて入る。中学生の生徒は制服を着ていないと呼び止められ、生徒手帳を見せるようにいわれる。生徒手帳を持っていないと、氏名、住所、父兄の名前を書かされる。それを拒否する生徒は帰らされるか、校内の職員に付き添われて直接カウンセリング・ルームに行くことになる。父兄や訪問者は学校へ入る場合、必ず身分証明書の提示を求められ、氏名・身分証明番号などが控えられる。身分を証明することは当たり前で、証明書を見せることはむしろ誇らしい行為なのである。世界で唯一の存在である自分を証明するのであるのだから。
日本の子供達は、集団で登校・下校する。これは公立学校の場合、学校区があるため、可能になる。通り道も決められ、途中で父兄やボランティアの方が見守っていたりする。子供たちが集団で行動することは安全面から考えても、子供の自立心を養うためにもいいと思う。しかし、家までずっと集団で行動するわけではなく、一人になる場面もある。何か事件が起きた直後は、父兄や教職員が総出で通学路に立つのだが、しばらくするとそうした姿が消えてしまう。父兄やボランティアの方が毎日見守るというのは大変である。しかし、事件はいつ起こるのか分からないのである。
ブラジルでは、学校内の安全は確保しても学校以外の場面では一切責任を持たないことを徹底している。そのため学校の管理外の場での行動では制服を着ないようにとの指示されることがある。学校以外では父兄が自分の子供に責任を持つ。奨学生の場合一人で通う子供もいるが、親が車で学校まで送ったり、自ら、あるいは誰かを雇って通学の付き添いをさせたりすることも多い。
公共施設、たとえば図書館などでは、利用者は身分証明書を受け付けで預けて入る。大きいかばんなどはロッカーに預けるのが義務となっており、帰りにはハンドバッグなどの点検を受ける。ボディ・チェックを受けて出入りする場合もある。利用者は、こうしたチェックがあるからこそ安心して利用できると考えているので、不快には思わない。むしろ誰でも自由に侵入できる場所は信用できないという印象がある。
最近は日本の学校でも安全対策として防犯カメラを取り付けるようになっている。しかし、問題は防犯ビデオをチェックしている人がいないということである。職員室などのモニターに映されているのだが、教員は忙しく見ているどころではない。
日本の学校も安全管理に対して敏感にならざるを得なくなっている。安全対策の強化だけが解決策ではないと思うが、最低限のことは必要であろう。そのためには、まず学校への人の出入りを厳しくチェックすべきだと思う。出入り口をひとつにし、門番や巡回ガードマンを置く。外部の人間には、証明書の提示を求め、場合によっては鞄の中身の点検、ボディチェックなどを行っても良いのではないだろうか。それは、人を疑っているということではなく、あくまでも安全のための手続きである。
また、ボランティアの協力があれば心強いだろう。特に地域のシルバー人材の方に登録してもらって、子供達との交流会や、登校下校時の見守り、校門での受け付け業務などを行うような組織があればと思う。地域の方と学校との連絡を密にすることは、子供の安全を守るためにも重要である。
学校の安全を確保するために、父兄と地域の人々と話し合う場が求められてる。学校の予算が足りない場合、父兄から月々いくらか徴収してガードマンを雇う、ボランティアの方にはボランティア保険をかけることなども考えられるだろう。
日本でも安全が無料で努力もせず手に入る時代は終ったことを認識しなければならないだろう。
*1 ブラジルの公立学校は、職員への給料が安いことなどか教師が集まりにくく、安全面や環境面で整備が整っていないところがほとんどである。公立学校へ通うのは、私立学校へ通えない子供達ということになる。公立学校間でも格差が大きく、日本のように全国どこでも一律に同じ教育が受けられるということはない。ブラジルの公立学校のイメージは悪い。麻薬の売買が行われていたり、学校の設備は夜中にごっそりと盗まれるということは珍しくない。
