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鴨川真発見記<157から162>

 

 

小ネタ集再び 鴨川の魅力に魅せられて(第162号)

初めて目にする光景あり、美しい光景あり

 

 ある日の夕暮れ時に鴨川で空を見上げると、広く開けた空にその時々に雲と夕日が織りなす風景が広がります。空のキャンバスに自然が描き出す風景は刻々と姿を変えていきます。そんな空間で、カップルが語らい合う光景もよく目にします。空の様子を見上げながら何を語らうのでしょうか。

<高く広く青い空に照らし出される雲>

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<その下のベンチで語らうカップル>

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 高野川では、柑橘系の実が流れて行きます。疏水分線の傍にあるお地蔵さんの横に植えられた木から落下した実が高野川へと流れ込んできます。以前疏水の記事で紹介しましたとおり、疏水の水は高野川に全て落ちています。この実がその事を実証しているようです。

 

<黄色いボールのような>

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 この実が“夏みかん”かどうかはわかりませんが、広辞苑によると「夏に花を付けて秋に黄色く熟するが、翌年夏から秋に食する。」とあります。一冬越して“甘み”が出てから食するのですね。夏に実がなるから夏みかんではないそうです。いつも実を付けていて不思議だなと思っておりました。

<柑橘の実です>

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<お地蔵さんの横の木>     

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<右が疏水分線>

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 夕暮れの出町の合流点で、上流に向かって手を合わせる若者がいました。下鴨神社に向かってここからお参りされているようです。この付近もアニメの聖地巡礼の地の1つとなっています。アニメの中に同様のシーンがあるのでしょうか。

 

<下鴨神社方向に手を合わせる若者>

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 また違う日の出町の様子です。賀茂大橋の上から西の空を眺めると、綺麗な夕日が空を赤く染めています。その空の下、同様に赤く染まった鴨川の飛び石で足を流れに浸しながら語らう若者の姿もありました。

<薄紅色に染まる出町>

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<建物のシルエットが浮かび上がります>

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<夕焼けに包まれながら 水面に人の影が映ります>

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 夏の暑い日、出町の水場では足を冷やして川を眺めながら仲良く“おやつ”ほおばる姉弟と出会いました。お母さんの許可を得て後姿を撮影させていただきました。鴨川で何か食べる時は上空の“トビ”に注意してくださいね。

 

<冷たく綺麗な水で足を浸しながら>

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 鴨川の護岸の石積みの間からは、様々な植物が顔を出しています。遠目にはコケかなと思う形状ですが、近くに寄ってみると肉厚の細長い葉が密集していました。なんという名の植物でしょうか。

<遠目にはコケのようにも見えますが>

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<近くで見るとこんな感じです>

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  “アオサギ”が羽の先だけを広げて日光浴する姿は度々目にしますが、この日は“ダイサギ”が同様の姿で日光浴していました。鴨川のサギの仲間でこの姿を見せるのは“アオサギ”だけと思い込んでいましたので、少しビックリです。百聞は一見にしかず。新たな鴨川真発見となりました。

 

<ダイサギのこの姿は初目撃です>

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 鴨川や高野川で見かけるカメといえば、“ミッシッピアカミミガメ”ばかりでしたが、この日は珍しく“イシガメ”に出会うことができました。川の中で佇む姿を眺めていると、ゆっくりと草むらに消えていきました。甲羅が少し割れているようにみえました。

<“イシガメ”の姿が>      

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<大きな瞳>

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<少し傷ついた甲羅>       

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<草むらへと消えていきました>

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 カメと似たような形状で鴨川や高野川でもちょくちょく姿を見かけるのが“スッポン”です。いつも見かけるのは、川の中を泳いでいたり、川から飛び出した石の上で甲羅干しをしたりしている姿ですが、この日は少し様子が違っていました。

 

 高水敷を歩いていると、何やらモゾモゾと動くものが視界に入りました。よく見るとスッポンが川から上がってきています。自力で上がってきたのか、はたまた人が捕獲して放置したのか定かではありませんが、川の中以外で過ごしている姿を見るのは初めてです。

 最近、鴨川の四条辺りの高水敷で大きな“オオサンショウウオ”が歩いていると話題になりましたが、スッポンが高水敷を歩いているのも珍しいです。

<モゾモゾと前進するスッポン>

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 先程ご紹介しました“イシガメ”の大きくつぶらな瞳に対して、“スッポン”の目は体の割に小さくて鋭い目の様に見えます。真上からみると、寄り目をしている様にも見えます。どんな視界が広がっているのでしょう。

<体の割に小さな目>

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<寄り目の様にも見えますが・・・>

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 鴨川での風景、人、動植物、そんな小ネタ集ひとつひとつがその魅力となって目に飛び込んできます。これからもその時々の鴨川・高野川の様子をお届けしたいと思います。

  平成26年8月6日 (京都土木事務所Y)

 

水が繋ぐ人の縁シリーズ第3弾(第161号)

昔の新聞記事で鴨川の様子を探る

 

 鴨川に関しましては、様々な質問が舞い込んで来ます。そんな中、回答するのに窮する質問をお受けすることとなりました。京都市外から市内の大学に入学された一回生の学生さんからです。

<ズラリと並ぶ人々 現在>

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 鴨川の三条~四条ではカップルが等間隔に並ぶ現象が見られるが、それは「いつから?」「なぜ?」という内容の質問です。府の相談センターを通じての質問でしたので、翌日回答ということで、詳しい事は解らないという内容の回答となりました。

 

 三条~四条の高水敷も23年度・24年度の整備で利用の幅が広がりました。

 等間隔にカップルが並ぶばかりではなく、芝生の上に寝転がったり、輪になったりと多様な利用見られるようになりました。

<思い思いのスタイルで憩う人々 現在>

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 真昼の強い日差しにも負けず高水敷で過ごす人もおられますが、太陽が傾いて建物の影が高水敷に伸び始めると、その部分に間隔の狭い列が出来はじめます。

<影を選ぶ人 日差しを受ける人 現在>

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 三条大橋の橋の下には、日差しを避けたグループが固まって座っておられます。人それぞれ、好きな場所を選んで自由にくつろいでおられる姿が鴨川の三条~四条の様子です。「等間隔の法則」という言葉が一人歩きしている感もありますが・・・。

<三条大橋の下で涼む人々 現在>

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 鴨川真発見記的には、少し時間をかけて調べてみようという事で、鴨川が御縁で知り合った方から何か手がかりが得られないか投げかけてみました。

 鴨川関係の取材で知り合った京都新聞の記者さんが、昭和40年代前半の新聞記事の写しを持って来所されました。三条~四条のカップルとは直接関係ありませんが、何枚かのスクラップの中に興味深い記事がありました。

 今回はその記事をご紹介したいと思います。記事の見出しは「花と緑いっぱい 堤防公園3月ぶり完成とあります。どこの事が書いてあるのかと記事を読み進めました。

 

【記事引用】

 夜間はあたり一面暗く“アベック天国”として悪名?高かった鴨川の丸太町-今出川間西側に府土木公営所の手で進められていた「鴨川堤防公園」が三カ月ぶりに完成した。鴨川公園の中ではもっとも規模の大きいもので、母子づれで遊べる「都会っ子たちの楽園」は四月にふさわしいプレゼント。

 と記事は導入されていきます。本文を読み進めると、整備内容の中に「250ワットの水銀灯12基」も設置された事がわかります。夜間は河川は危険なので、基本的に照明は設置しません。それは公園区域となっていても同じです。人が近づかないようにとの管理者の判断です。

 

 以前から、この区域は何故照明を設置したのだろうと思っていました。その理由が何となくわかりました。キーワードは「夜間はあたり一面暗く“アベック天国”として悪名?高かった」です。“アベック”という言葉は今の若者には通じない言葉ですが、当時アベックといえば若い男女が二人で過ごす様子を連想した事でしょう。

<写真中央に小さく白い点が並んでいます 現在>

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 人目を避けた暗い河川敷きで、若いカップルが過ごしている事に対する世間の目がこの照明の設置を後押しした様に感じる記事です。照明を設置して夜間も人目につく事でアベックを追い出したのでしょうか。

 人が近づかない様に設置はしない照明が、逆にアベックが近づかない為の設置であることが読み取れます。現在では、この照明の下を早朝にランニングしている学生の集団も見受けられますが、当時の整備から再整備されて様子が変わっています。

<暗くなるにつれて浮かび上がる灯り 現在>

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 鴨川真発見記第131号10年一昔の記事でご紹介しました、10年前の様子がこの時の整備だったのです。整備内容を確認すると、「四季の花の咲く花壇4つ」「大砂場3ヶ所」「ベンチ60個」「つつじなどの潅木類4千本余りの植樹」「ソフトボールが出来る運動広場1ヶ所」「テニスなどが出来る自由広場1ヶ所」「小さな運動広場1ヶ所」と広い敷地内を整備して、更に明るくしてアベックの居場所を無くしたのでしょう。

<広場として整備 約10年前>

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 現在の三条~四条は、お店の灯りで夜間でも見通しがききます。当時のカップルは人目を気にしていたようですが、現代の若者は気にせず等間隔という事になります。世間の風潮も大きく変わった事がわかります。

 

 第131号の記事では設置されていた遊具の正式名前はわかりませんでしたが、この記事の中に出て来ます。「像やキリン、馬、ウサギ、カメなどの形をした“コンクリート製プレースカラプチェア”」「高低の円筒を並べて子供達が飛び歩く“サークルステップ”」と製品名が明記してありました。

<砂場とサークルステップ 約10年前>

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<ウサギ、カメ、カニの“プレースカラプチェア” 約10年前>

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<像と馬の“プレースカラプチェア” サークルステップ 約10年前>

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<コンクリートで固めた広場 約10年前>

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<子供達が遊ぶ姿があります 約10年前>

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<サークルステップは再整備されて 現在>

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 昭和40年代前半といえば、まだまだ外国人を見るのが珍しい時期だったと思います。現在では鴨川の丸太町橋から賀茂大橋の間でも、日本人はもちろんの事、多くの外国人の方が思い思いに過ごしておられます。

<外国からのお客様? お国の武道?舞踊? 現在>

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<広い芝生の上で“ヨガ”でしょうか? 現在>

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 鴨川が縁で手元に届いた新聞スクラップから当時の鴨川の様子を垣間見る事ができました。

 

 お持ち頂いたスクラップには、他にも興味深い内容がありましたので、次の機会にご紹介したいと思います。

 三条~四条の等間隔のカップルがいつ頃からかは、時代背景や鴨川の当時の様子も含めて少し時間をかけて検証して見たいと思います。「等間隔」の理由については、人間の心理の問題だと多くの人がおっしゃいます。

 

 「いつ頃からか」については、鴨川の環境にそのヒントがあると思います。あくまでも推測の域を出ませんが、鴨川の環境の移り変わりと、現在目にするカップルの姿の関係について少し整理してご紹介出来る日が来る事を期待しつつ、今回は失礼いたします。

  平成26年7月17日 (京都土木事務所Y)

 

第161号 【追伸】

 これまでの「鴨川真発見記」で“その名は知らないけれど”ご紹介しました植物などに対する情報が入りましたので。ご紹介させて頂きます。第151号“新緑を追いかけながら第3弾”で源流域に自生していた植物の名前の情報を呼びかけさせて頂きました。

 それに対する情報提供です。「これではないでしょうか?」で頂きました。

<水が滴る緑の葉=ミヤマカタバミ?>

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<ムラサキ・・・忘れました=ムラサキケマン?>

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<2=クリンソウ?>

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<3=ユキノシタ?>

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 さらに、前号の第160号でご紹介しました、“チョウの繁殖”をご覧になった自然観察指導員さんから情報を頂きました。それは、“ナミアゲハ”の夏型で上が♀で下が♂との情報でした。

 ネットで検索すると、日本では人家の周辺でよく見られる馴染み深い蝶だそうで、春に発生する個体(春型)と夏に発生する個体(夏型)があるそうです。

 普段見慣れているはずなのに、全く知りませんでした。♀と♂の区別なんて、一生懸命凝視して違いを見つけようとしましたが、これまた全く見分けがつきません。皆さんはいかがでしょうか。“植物の世界”も“昆虫の世界”も奥が深い事を再再認識する思いです。

<“ナミアゲハ”の夏型>

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 情報提供頂きました皆様有難うございました。ご覧頂いている皆様の情報提供を頂きながら、今後も情報発信させて頂きたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

                                                                                                                                (京都土木事務所Y)

 

 

鴨川真発見記の原点は(第160号)

見たままの鴨川を伝える小ネタ集

 

 今回は、鴨川・高野川で6月の数日間で目にした光景をそのままにご紹介したいと思います。

 最初に目にしたのは、綺麗に草刈りが終わった高野川のトベラの木の下に咲く一輪の花です。鴨川・高野川の除草は、造園業者さんが受け持って頂く例が非常に多く、自生する植物にも配慮した除草を施して頂いています。

 野草の知識が乏しい私に、力強い協力者が現れました。京都府職員さんから情報を寄せていただきました。その名は“アマナ”でした。球根が甘く食用できる事からこの名がついたそうです。

訂正とお詫び

 下の画像の花を”アマナ”とご紹介しましたが、専門家の方から”アマナ”は春の花なので、今の時期に咲いているのは”サフランモドキ”に近い種ではとの御指摘を頂きました。”サフランモドキ”の根には毒があるので「根が甘い」はよくないですね。くれぐれも食さない様にお願いいたします。訂正してお詫び申しあげます。

<“サフランモドキ”を残して綺麗に除草>

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 足元に赤い実が目に止まりました。田舎で食べた記憶があります。あまり美味しいとは思いませんでしたが、こんな所にもあるのかと驚きです。野いちごと呼んでいましたが、正式な名称は知りませんでした。ネットで調べてみると“ナワシロイチゴ”と解りました。苗代の季節に花と実を付けることがその名の由来だそうです。

 

<完熟の実を付けた“ナワシロイチゴ”>

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 その隣では、蝶が草に留まっています。何だか見慣れない形だなと思いよく見てみると同じ柄の蝶が上下に鑑で写したようにドッキングしていました。繁殖期を迎えた蝶が繁殖行動をしている最中でした。

 トンボが飛びながら繁殖行動している様子は良く見かけますが、蝶の繁殖行動をまじまじと見るのは初めてです。綺麗な蝶の様子をご覧ください。

<蝶の繁殖行動>

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 その下では、小さな小さな花が咲いています。蝶に気が付かなければ見落とすほどのちいさな花です。これも前出の職員さんから情報を得ました。和名を“ヤブカラシ”というそうです。ネットでは、薮を覆い尽くして枯らしてしまうほどの生育の旺盛さを示しているそうです。薮の辛子ではないようです。

 

<“ヤブカラシ”の花>

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 お隣には、目玉の集合の様な植物があります。これは、“ギシギシ”だそうです。この目玉の様なものは、“ギシギシ”の果実のようです。その名の由来は諸説あるそうですが、見た目にも“ギシギシ”感がありますね。植物の名の由来を知る度に、先人が付けた植物の名に感心します。

 土木建築に携わる技術職員も“ギシ”と呼ばれます。“技師技師”とでも変換しておきましょう。

<“ギシギシ”の果実がこちらを見ているようにも・・・>

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 スズメが何やら大きめのエサをついばんでいます。少々手に余るのか置き去りにして飛び去りました。近くに寄ってみるとバッタを食していたようです。“舌切りスズメ”でお馴染みのスズメは草食のイメージがありますが、肉も食する雑食なのです。

 

<格闘するスズメ>

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<残されていたのは“バッタ”>

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 石張りの上に止まっているのは“オニヤンマ”でしょうか、“コオニヤンマ”でしょうか。黒と鮮やかな黄色の柄が綺麗です。

 

<朝日に照らされる“トンボ”>

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 トンボの次に姿を見せてくれたのは、スズメバチです。頭を刺されると生命の危険もあるハチですが、少々お疲れなのかグッタリとした感じです。

<元気のないスズメバチ>

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 お次は人間です。四条大橋のしたの石張りの上で涼んでおられます。日差しの届く日中は橋の下の空間が憩いの場となっています。

 

 この場所に今年新たな鴨川ギャラリーがお目見えすることになっています。橋の下を吹き抜ける風で涼を取りながら、京都の文化に触れて頂きたいと思います。完成しましたあかつきには皆様にもご紹介したいと思います。

<四条大橋の下で涼む人々>

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 鴨川の三条~四条間でカップルが等間隔に並ぶのは有名ですが、野鳥だって負けていません。熱い求愛をする“ドバト”が目の前で仲の良さを見せつけてくれます。周りの方も思わずカメラを向けておられました。

<求愛する“ドバト”>

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<それを眺めたり、撮影したり>

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<もう 人が見てるでしょ>

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 三条~四条の間には、芝生を植えて養生しています。昨年の台風18号の増水により大部分が流失した芝生です。流失前から芝生が禿げていることが、新聞でも報道されました。利用者の多いこの場所では、歩く所と休む所を明確にするために芝生区域は少し盛り上げて差別化すると共に、ジックリと養生期間を設けて芝生が根付く様に工夫しています。

 これまで、雨の少なかった今年の夏は水を撒いています。皆様も芝がしっかり根付くまでご理解をお願いいたします。

<少し盛り上げた芝区間 水を撒いて枯れないように>

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 芝区間は養生中なので御利用は控えていただいていますが、護岸の方は御利用頂いています。護岸に繋がる通路も設けていますので、皆様に御利用頂けます。

<ハトに負けずに人間のカップルも>

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 鴨川や高野川には、どなたかが放流されたのか“錦鯉”を目にします。比較的水深の深い場所では、庭園の池に泳ぐかのごとき“錦鯉”の様子を見る事が出来ます。高野川の、ある場所では三匹の錦鯉が悠然と泳いでいます。

<庭の池を泳ぐかの如き“錦鯉”>

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 何かの遊びをしておられたのでしょうか。飴食い競争の後の様に顔が真っ白になっている若者達がいます。この後、鴨川公園に設置された水道で顔を洗っておられました。

 

<コメディアンの“バカ殿”状態の若者>

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<白塗り顔で記念撮影>

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 先日ご紹介しました、バーバスカムの花は、茎が数本もぎ取られていました。しかし、残った茎がまた新たな花を咲かせようとしています。子孫繁栄の為にひたすら頑張っているようです。

 

<残った茎に花を咲かせようと>

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 水の少なくなった出町の魚道下では、“ゴイサギ”と“アオサギ”が小魚を狙っています。体の大きい“アオサギ”に漁場を譲りながら“ゴイサギ”も獲物を狙いますが、アオサギの方が一枚上手のようです。

 

 魚道から落ちて来た小魚が、浅瀬に向かうと“アオサギ”がすかざず追いかけて小魚ゲットです。

<小魚を待っていると>                                      <“アオサギ”がやって来た>

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<浅瀬に追い詰めて>                                   <見事小魚ゲット>

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<お先に失礼>

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 今年は平年の2割という降水量の少なさに、みそそぎ川や高瀬川に引き込む水も調整されているようです。半分蓋がされています。水量が多い時には、少し下流の余水吐けから鴨川へ水が戻る仕組みになっています。

 

<半分塞がれた取水口>

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<余水吐け>

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 そのすぐ傍では、若者が鯉を釣り上げたようです。丸々と太った鯉を持ち上げて見せてもらいました。「それ食べるの?」と聞くと「“鯉こく”にして食べようと思います。」との答えが返ってきました。

 これまで、鯉を釣り上げてリリースする方はよく見かけましたが、食べると答えた方には初めてお会いしました。鯉コクとは鯉の味噌汁と聞きました。何人前の“鯉こく”が出来るのでしょうか。

<ざっと80cm といったところでしょうか>

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 川の中では、オレンジ色のユリの様な花が咲いています。“ヤブカンゾウ”だそうです。その名の由来は漢名の“萱草”を日本語読みしたものだそうで、薮のような場所に生息するという意味のようですが、草原や田畑の縁に生息するそうです。

 

<“ヤブカンゾウ”の花>

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 その近くでは、鹿がムシャムシャと蔓草を頬張っています。ふんだんにある蔓草の柔らかい葉を美味しそうに食べていました。どこかの鉄道会社が羊やヤギを使って鉄道沿線の除草をしている事が話題になっていました。

 高野川でも“鹿”が除草に一役買っているようです。

<美味しそうに“もぐもぐ”>

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 出町の飛び石では、近くの幼稚園児が記念撮影をされていました。先生がこっちを向いてと呼びかけても、飛び石を渡るのが楽しくてなかなか揃いません。

 

<ハイ、写真を撮るよ>

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 すっかり親ガモと同じ柄になった“カルガモ”の雛が親子水入らずで泳いでいます。最初はもう少し多くの雛がいたのでしょう。雛が減っていく一番の原因を日本野鳥の会京都支部の方に尋ねると「カラスに襲われるのが一番の原因でしょうね。」と教えていただきました。

 

<ミニチュアの様なカルガモの子>

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 四条大橋の下流の落差工付近では、カメラを構えてシャッターチャンスを待つ方が並んでおられます。お一人の方にお話しを伺うと、「繁殖期を迎え、お腹が赤くなった“オイカワ”を鷺が捕獲する瞬間が迫力があって絵になる。」とお話しになっておられました。

<腰を下ろしてカメラを向ける>                               <対岸からも狙います>

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<小魚を狙う“ゴイサギ”>                                  <それを狙う“カメラマン”>

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 その下流では、アユの友釣りをする方の姿があります。鷺に負けずと、けっこう大きなアユが釣れたようです。

<タモの中にアユの姿が>

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 先程とは違って、7羽の子と共に泳ぐ“カルガモ”の姿も見えます。雛が大きく育ってから鴨川へ移動して来たのでしょうか。カラスからの難を逃れて仲良く育ったようです。

<可愛い七つの子があるからよ それはカラスの歌でした>

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 このように、鴨川や高野川を歩いていると、いつも何か興味深い光景に出会うことができます。晴れた日も雨の日も、天候に関係なく様々な鴨川・高野川の魅力を皆さんも満喫して頂けたらと思います。

  平成26年7月2日 (京都土木事務所Y)

 

水が繋ぐ人の縁シリーズ第2弾(第159号)

高野川の昔を伝える随筆 昔話“高野川の畔”その2 

廣庭氏の目が捉えた昭和の京都と共に

 

 鴨川真発見記第156号でご紹介しました郷原先生の随筆は(上)(下)2回に分けて左京医報に掲載されました。松下医院の松下先生にお願いして、(下)の文章を頂きました。

 今回は、(下)のお話しから引用させていただいて、廣庭先生から御提供頂いた写真とあわせてご紹介させて頂きたいと思います。

 それでは、早速随筆からの引用文章からご紹介いたします。

<郷原先生 随筆より>

 市電は1934年(大洪水の前の年、室戸台風の年)に植物園前から延び来て北大路通りを一中前・膳部町・高木町・高野橋西詰・高野と来て、イズミヤの前で終点折り返しになっていました。

 終点で車掌が二本の長いポールから下がっているロープにぶら下がって180度ポールを後ろに切り替えるのを面白く眺めていました。

 その頃の電車は古いタイプで、パンタグラフではなしに二本の角のような長いポールで架線から電気を取り込んでいましたから・・・。

 通りとしては高野から百万遍まで広い道として通っていましたがここを電車が走るようになったのは、もう少し後の1943年(終戦の2年前)のことです。

 

 廣庭氏所蔵の写真は戦後の写真なので、当時走っていた車両は出て来ませんが、市内を細かく網羅して走る市電を紹介されている写真集「市電が走った京の街-ワンマンカー時代を中心として-」を2004年に自費出版されています。

 その中に高野橋を渡る市電が掲載されていますので、ご紹介したいと思います。廣庭氏の写真は昭和25年頃以降の写真ですので、随筆の中に登場する二本の角の様な長いポールの電車ではありませんが、高野橋での電車の様子をご紹介します。写真下のキャプションは写真集から書き写しました。

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106:「高野橋」にて 1

 この写真は高野橋東詰めで、東行きの電車を撮ったものです。実は「高野橋という電停は、東行きは橋の西詰めにあり、西行きは橋の東詰めにありましたから、1836号は既に橋を越える前に「高野橋」で客扱いを済ませてきた事になります。マツダ自販のビルの上に如意ヶ岳が雪で大文字を描いています。

 1978(昭和53年)正月。画面の「スリップ注意」の標識は高野橋が北山からの寒風で凍結するから掲げてあるのです。

<廣庭基介氏「市電が走った京の街」より>

 1978年という事で、今からですと36年前になります。NTTの建物や自動車会社、スーパーの並びは大きな変化はありませんが、自販の看板は現在ではドイツを創業とする外国車メーカーの看板に変わっています。

 スリップ注意の標識につきましては、車道と軌道が共存していた頃のお話しです。雨に濡れただけでも滑りやすい軌道敷内です。凍結したらかなり危険ですね。特にオートバイで肝を冷やした方も多いのではないでしょうか。

 現在では、冬場には橋のたもとに凍結防止剤が積み上げられています。軌道敷きが無くなっても凍える朝には御注意を。

 この頃はまだ京都市内でも比較的雪の量がソコソコ多かったのでしょう。最近では雪が積もる日は数える程しかありません。

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107:「高野橋」にて 2

 雪化粧した比叡山をバックに高野橋を渡りきろうとしている1800型市電。「京都バス」は終戦前までは「鞍馬バス」という社名で、銀色のボディの木炭バスに八つ手の様な天狗団扇のようなマークを付けて、北大路大橋の西詰めの本社前から、鞍馬寺や岩倉実相院、雲ヶ畑などへ運行していました。現在は当時と比較にならない大きなバス会社になり、主に京都の北郊、西郊を守備範囲として活躍していますが、マークは同じ天狗団扇です。なんで天狗団扇なのか、判りますか?

<廣庭基介氏「市電が走った京の街」より>

 今も変わらぬ京都バスの建物が写っています。高水敷を歩く人が、足元を見ながら積もった雪の感触を楽しんでいるようにもみえます。(廣庭氏にお聞きすると、実は雪合戦の最中だったそうです)現在では、高野橋東詰め下流の階段にも手すりが設けられています。今年の3月まで、高野橋近辺に住んでおりましたので、「鴨川真発見記ネタ探し」のスタート地点がこの階段でした。

<郷原先生 随想より>

 登下校といえば、毎日高野橋を渡って通っていたわけですが、北側の欄干が、真ん中で5~6mにわたって大洪水の時に壊されていて、ずっとそのままになっていました。御影石で出来た綺麗な欄干でしたが、たぶん戦後に経済が落ち着くまであのままであったと思われます。交通量の増大に対応して橋の幅を広げ、車道歩道ともに広くて平成13年(2001)今の立派な橋に変容しました。

 

 郷原先生の随筆(上)で写真が無かった時のためにと、先生が昔の高野橋~上流を望むスケッチが掲載されていました。そのスケッチの橋の欄干が欠けている様子が見てとれました。「高野橋の欄干が欠けていた時期があったのかな。」と思っていましたが、やはり昭和10年の大水害時のダメージだったようです。

 今一度ご紹介したいと思います。

<当時を正確に記憶された郷原氏のスケッチ>

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<随筆より>

 高野橋の川上には馬橋まで橋はありませんでした。馬橋を渡ると大黒さんの方へ斜めの道が昔からある道で、川沿いに狭い道を行くと釣堀があったらしいのですが、ボクは行ったことはありません。

 この頃はまだ高野橋の上流側には馬橋までの間に橋が無かった事が語られています。現在では、人と自転車だけが通る事が出来る「松ヶ崎人道橋」がこの間に設けられています。

 松ヶ崎人道橋が出来るまでは、橋間距離が約835mあり、高野川の平均的な橋間距離約500mに比べて長く、少々不便であったと思われます。

<松ヶ崎人道橋 現在>

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 「川沿いに狭い道を行くと釣り堀が・・・。」この一文に何かを感じました。この川沿いとはどんな川だったのでしょうか。高野川なのでしょうか、それともこの御縁の始まりである、今は無き農業用水路なのでしょうか。その農業用水路の名は「蓼倉川」です。

<馬橋 現在>

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<馬橋を渡り大黒さん(松ヶ崎大黒天)へ斜めの道>

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<郷原先生 随筆より>

 夏休みには前半、毎朝学校の運動場でラジオ体操をしたあと下鴨神社に参拝してスタンプを押してもらい、蓼倉町から高木町を通り抜けて帰ってくるのが日課になっていましたし、友達のいる北園町の辺まで遊びに行くことはありましたが、遊びの区域が特に広がることはありませんでした。糺の森のすぐ西側に、白い壁の下鴨小学校がありました。

 蓼倉町から高木町を抜けて高野橋上流右岸の自宅へと帰っておられたということは、「蓼倉川」の名残を見ておられたかもしれません。「蓼倉川」の事につきましては、その全容がもう少しはっきりした後に「水が繋ぐ人の縁シリーズ」にてご紹介したいと思います。

 廣庭氏の写真の中に、下鴨神社の参道へと続く御蔭橋西詰めから比叡山を望む写真があります。この頃は高い建物も無く比叡山を見る事ができます。高い煙突も見えています。郷原氏の随筆にも登場する「カネボウ」の工場の煙突でしょうか。

 橋のたもとの階段とスロープは、現在は舗装されましたが、この頃から変わらずに残されています。新たなものとして転落防止柵が設置されました。郷原先生も同様の景色を眺めながらこの辺りを遊びの区域とされていたのでしょう。

<昭和20年代 御蔭橋東詰め下流側より比叡山を望む>

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(写真撮影:廣庭 基介氏)

<現在 かろうじて比叡山の稜線が見えるのみ>

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 この御蔭橋の下流対岸(左岸)から西に向けて、カメラの位置を北端とする写真も廣庭氏が所蔵されていました。ここには、老舗料亭があります。同店のホームページを覗いてみますと、「160年近く続く」とあります。ここに写っている建物はその老舗料亭のようです。

 

 短パン姿で川の中を歩く人の風景は、鴨川、高野川のあちらこちらで良く見かける、今も変わらぬ風景です。

<昭和20年代 御蔭橋下流左岸より対岸と望む>

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(写真撮影:廣庭 基介氏)

<現在 木が大きく育ち 勾配のゆるいスロープが設置されています>

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<現在 北大路橋下流にて水遊び>

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 水の少ない時に川の中に降りて、スケッチをする子供達が見えます。その視線の先には何があるのでしょうか。鴨川や高野川からの景色を描く人の様子は今でもよく見かけます。今も昔も人に絵筆を取らせる魅力があるのですね。

<昭和20年代 御蔭橋下流 スケッチをする子供>

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(写真撮影:廣庭 基介氏)

 

<鴨川スケッチ教室 第86号より>

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<こちらは卒業作品かな>

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<郷原先生 随筆より>

高野橋の南の蓼倉橋が大洪水で流されて、コンクリートの橋脚だけが長い間

残っていましたが、狭い歩道橋だけが復活して今の形になっています。

 

 「細い歩道橋だけが・・・」そうなんです。この蓼倉橋、橋脚の幅に対して橋の幅がやけに狭いと思っていたのです。流された後に小さく復元されたものだったのですね。

 完成が昭和48年4月となっています。昭和10年から数えると38年間橋脚のみが存在した事になりますが・・・。高野橋から蓼倉橋の一つ下流の橋までの距離は約1.025mありますので、松ヶ崎人道橋よりも更に地元要望があったのではないでしょうか。

<蓼倉橋>

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<昭和46年4月完成>

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<たでくらはし>

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<昭和10年以前の橋台>

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<橋脚の3分の1程の橋の幅>

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 蓼倉橋といえば、その上流の少し淵の様になった所で、釣りをする方をよく見かけます。郷原氏もこんな風に遊ばれることもあったのでしょうか。でも当時は「蓼倉橋」は橋脚だけだったのですね。

<蓼倉橋上流 現在>      

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<家族で釣り>

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<郷原先生随筆より>

 川端の桜並木は高野橋から南へ、そのころ既に老樹でありました。小さいさくらんぼが出来ていて齧っていたことがありました。

 この2、3年後にすっかり植え替えられた若い樹が今の老樹です。高野橋から川上には、桜はもちろん並木はありませんでした。

 

 現在京都市内でも屈指の桜の名所ともいわれる「高野川」沿いの桜並木も、70年以上の歳月を経て立派な「老木」となっています。枯死した桜も散見し、若い苗木が植えられている場所もあります。

 ソメイヨシノの寿命は、約80年と言われていますが、限りある命です。この壮観をいつまでもこのままに眺める事は難しい事だと感じます。当時ほぼ一斉に若木が植えられて、現在へと景観を引き継いできたようです。現在の老木も「すっかり植え替える」時が来るのかもしれません。

 鴨川、高野川に植樹されている桜は、各種団体からの寄附によるものも多く、桜並木の景観も地元の河川を愛する皆様の心意気でもあるのです。

 随筆の中に「高野橋の川上には桜はもちろん、並木もありませんでした。」とあります。先にご紹介しました郷原氏のイラストを見ると、高野橋より上流の川端通沿いには桜並木はありません。随筆の内容が見事に再現されているイラストであることを再確認する事ができました。

<高野橋~河合橋間の桜並木 70数年経過>

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<高野橋上流の桜並木 昭和10年代にはありませんでした>

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<馬橋上流の桜並木 もちろんここにもありませんでした>

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<郷原氏 随筆より>

 川が氾濫蛇行して堤防も道路も、そしてかなりの住宅までもが崩壊流失した大水害の後、それまでボツラボツラと行われていた改修工事が急ピッチで進むことになりました。

 ボクの家の南側の空き地で堤防補修のための蛇じゃ かご 作りが始まります。細割の長い竹を編んで長さ10m、直径60cmくらいの大きな蛇籠を作り、その中に河原の栗石を詰め込み、何段かに積み重ねて堤防にします。

 削り取られた道や宅地に土を埋め戻して、昔ならこれで川筋が整ったことになるのでしょうが、今の都会ではがっしりとした石垣かコンクリートで護岸工事をして、二度と堤防の崩壊や決壊が起こらないようにしますから、改修工事は大仕事になり工事日程も長くなりました。川原にトロッコのレールが敷かれて、土砂を川上と川下の間で運搬移動させます。工事の人夫が帰ってしまった後で、トロッコに乗って遊ぶ・・・のは子供にとっては当然のことでしょう。  

 この頃家の直ぐ近くにある警察の官舎に引っ越してきた兄弟がいました。兄の方がボクと同じくらいの歳でしたから、格好の遊び仲間になってトロッコ転がしで遊び始めたのでしたが、残念なことに南側の空き地に掘っ立て小屋が出来て、工事管理人が寝泊りするようになってからトロッコ遊びは出来なくなってしまいました。

 工事の都合で川の流れを運河を掘って深くして、あっちへやったりする時期があり数十メートルのことでしたが、狭く深くなった流れに乗って泳ぐことが出来ました。

 

 昔の土木工事の様子が描かれています。「細割りの竹で編んだ蛇篭」が登場しています。今では鋼製の籠に石を詰めて蛇篭を設置しますが、この頃の蛇篭は竹製だったのですね。おそらく、現場で蛇篭を編んで設置したのでしょう。少年の目に焼き付いた光景だったのでしょう。

 「河原にトロッコのレールが敷かれ、土砂を川上と川下で運搬移動。」というくだりもあります。廣庭氏の古写真の中に、この光景と似たような一枚があります。場所は恐らく「鴨川」の賀茂大橋よりも下流の箇所だと思いますが、川の中にレールが敷かれ、作業員が川底の土砂を掘り起こして、“振るい”にかけている様子です。

 土木建築に関わる者として、まだ重機がふんだんに配備されていない昔の土木工事の様子を伝える貴重な写真です。この写真を残して頂いた廣庭氏に感謝いたします。

<昭和20年代 鴨川での工事の様子>

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(写真撮影:廣庭 基介氏)

 古きよき時代の少年が工事現場で楽しく遊ぶ様子が目に浮かんで来ます。現在では工事現場には重機も置いてある場合もありますので、工事現場には立ち入らないようお願いいたします。

 水の流れが繋いでくれた“縁”で貴重なお話しと写真の数々を皆様にご紹介する事ができました。今回は「郷原先生の随筆」「廣庭氏所蔵の写真」そして「鴨川真発見記」のコラボレーションでお届けしました。

 今後も廣庭氏所蔵の「鴨川」「高野川」に関係する写真を活用させて頂きながら、「水が繋ぐ人の縁シリーズ」としてご紹介したいと思います。“御縁”を繋いでくれた川の流れに感謝しつつ。

  平成26年6月24日 (京都土木事務所Y)

 

音羽川砂防堰堤を視察(第158号)

台湾の台北市からのお客様をご案内

 

 鴨川の支流高野川その又支流の音羽川に設置している砂防堰堤の視察に、台北市の政府機関の工務局長をはじめ土木関係の管理職の皆さん5名と京都大学防災研究所の王助教が京都土木事務所へ来所されました。

 今回は、高野川の支流の音羽川の様子を台北市からのお客様と一緒に皆さんにも御紹介したいと思います。

 訪問団一行を、京都土木事務所の会議室にお迎えして京都府の砂防事業について資料をもとに説明しました。

 最初に京都土木事務所長から挨拶をしました。通訳を介しての挨拶ですので「ようこそ京都へおいでくださいました。昨日は奈良県の深層崩壊の現場を視察されたと聞いております、が」と細切れに切りながらの挨拶となりました。

<京都土木事務所長の挨拶>

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 所長挨拶が終わると、訪問団長(日本でいうと都道府県の建設部長相当)張さんから、「台湾でも昨今の異常気象により、土砂災害の危険が高まっている。情報交換をして協力しながら対策を進めたい」と挨拶がありました。

<張工務局長のご挨拶>

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 続いて、京都府砂防課の担当職員から、京都府の砂防事業のハード対策についてパワーポイントを使って説明しました。

 京都府内の砂防事業の実例を示しながら、土砂災害に対する京都府の取組を理解して頂きました。

<担当職員によるハード(施設)対策の説明>

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 説明の中で、平成25年に発生した台風18号災害時の降雨の状況を示しました。その内容は「府の広い範囲で総雨量が200mm(由良川、桂川上流では、400mm以上)を超え、」というくだりのところで、張局長から発言がありました。

 「台北では、総雨量600mmの雨は珍しくなく、200mmの雨は日常的に降ります。日雨量で1,000mmを超える事もあります。台北では総雨量200mmでは雨量が多いとは言いません。」との発言です。

 これに対する担当職員の回答は、「雨量に対する災害の状況は、その土地の気候と土質に関係があります。昔から雨の多く降る地域は、それなりの対応力があると思います。その雨量に変化がある時に経験のない災害が起こります。」です。なるほど!納得です。

<担当職員の丁寧な説明>

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 続いて、京都土木事務所砂防担当職員からソフト対策(危険を知らせる、避難する)について説明しました。法律に基づき、土砂災害警戒区域の指定を危険度によってイエロー、レッド(特別)で指定していることなど、被害を最低限に抑える取組を紹介しました。

<土砂災害警戒区域について説明>

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 この指定の説明に対しては、その法律は京都府が定めた法律か、それとも全国的な法律かとの質問がありました。もちろん全国的な法律です。新聞でも全国的な指定の遅れが大きく報じられましたが、京都府は着々と指定を進めています。

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 続いて、同じく砂防担当職員から、この後視察する音羽川の砂防堰堤群について説明をしました。

 ※音羽川砂防堰堤の説明資料を見る(PDF)(PDF:1,569KB)

 

 音羽川の砂防堰堤の概要と、その歴史、そして子供達が砂防という事について学習できる学習ゾーンの整備などを説明しました。訪問団からは、台北でも砂防施設に住民が憩える空間を整備している例があるとの発言もありました。

<音羽川砂防堰堤の説明>

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 一通りの説明が終わり、意見交換の時間となりました。「貯まった土砂は何処へ運ぶのか?」という説明には、公共事業に土砂が必要な箇所があればそこへ運ぶが、近くに対象が無ければ、山砂利採取跡地などの残土処分場へ処分する旨回答しました。

<熱心にメモを取りながら 張団長>

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 台北では、何億立米という膨大な流出土砂の処分に頭を悩ませているとのスケールの違う話も飛び出しました。

 さらに、異常気象など、「気象環境などが昔と変化している現在、昔の技術では災害を防ぎきれないと思うが、どの様な対応をされているのか。」という質問が京都土木事務所長指名でありました。

<難しい質問>

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 この質問に所長は、「我々も住民の生命、財産を守りきるとの気概を持って事業に取り組んできましたが、土砂災害への施設整備には大変なお金と時間がかかります。対策工も必要な箇所の20%程度しか完了していません。ソフト対策に力を入れて、避難していただく方向に向いています。」

とお答えしました。

<少し考え込む所長>

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<手振りを交えて丁寧に回答>

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 そして、参加者の記念写真で事務所での説明を終えました。

<台北からのお土産を頂いて 記念撮影>

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 その後、一路音羽川砂防堰堤群へと向かいました。今にも雨が落ちて来そうな空模様ですが、なんとか雨は落ちて来ません。

<沈砂地下流のデッキに到着>

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 現地に着くと、こちらの説明よりも訪問団からの質問が次々と出て来ます。さすがは同じ仕事に携わる方々です。海外からの訪問団も何度か受け入れてきましたが、これまでは議員さんや林業関係者の方が中心で、現地では砂防堰堤の事業の進め方についての質問は殆ど受けていません。

<質問が次々と>

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 「用地は買収するの?」「堆積した土砂は何を目安に運び出すの?」「この木が倒れてきたら誰の責任?」などなど、事業者・管理者の視点から台北での対応と比較しながらの質問が相次ぎました。

 

<王助教の通訳を介して細部に至って説明>

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 学習ゾーンでは、砂防堰堤の仕組みのミニチュア模型に大変興味を示され、かがみ込んで写真を撮影される方もおられました。

<砂防の仕組みをカメラに収めて>

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<一番大きな砂防堰堤に向かいます>

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<見上げる砂防堰堤>

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 一番大きな砂防堰堤の下から流れ落ちる水を見上げながらの談笑では、張局長が現場で従事していた頃(35年程前)の技術の話も飛び出し、「あなたの小さい頃の話だよ。」と当所技術職員の肩に触れる一場面もありました。

<張団長の思い出話も>

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 肩を触れられた職員も地面から70センチ程の高さを示して、「この位小さい頃の話ですね。」と笑いを誘っていました。

 張団長は、御年68歳とのことですが、大変元気でユーモアを持ち合わせておられました。

 

<笑顔で和やかなムード>

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 視察団の皆さんの足元に目をやると、これまた、さすがは同業者です。普通の革靴ではなく山を歩ける靴を履いておられました。キッチリ準備をしてこられています。革靴でお越しになる方も多いのですが・・・。

<足元はトレッキングシューズ>

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 和やかなムードのうちに視察は終了し、車へ戻る頃にはポツポツと雨が落ちてきました。視察時間中は雨に降られずに無事終了となりました。

<音羽川現地での記念撮影>

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<砂防堰堤をバックに>

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 帰り際に張団長から「是非今度は台北に来てください。」とのお言葉を頂きました。お言葉に甘えて、台北を訪問する日を夢見ながら一行をお見送りしました。

 

 「鴨川真発見記」でも折に触れて支流に設置されている砂防堰堤の事もご紹介していきたいと思います。

 

  平成26年6月23日 (京都土木事務所Y)

 

新緑を追いかけながら第6弾(第157号)

“きになる”植物と人々

 

 新緑を追いかけながらも第6弾です。季節は梅雨、新緑もほぼ出そろった感じです。鴨川や高野川では、有名なのに見かけ無い植物もあれば、名前も知らないけれどその存在感がとても気になる植物もあります。今回はそんな植物の生育の過程を追いかけてみました。

 

 それは5月6日の事でした。高野川沿いを歩いていると、私にとっては初めて見る植物が石積みの間から瑞々しい肉厚の葉を広げていました。前後他の場所では見かけ無い一株だけの植物が朝日を浴びて、その存在感を誇示するように目に入りました。

<平成26年5月6日>

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 うっすらと葉の表面に毛が生えているようです。5月13日の朝には、ついさっきまで降っていた雨が、葉の表面の毛に滴が引っかかっています。中心からは蕾でしょうか何か出てきています。

<平成26年5月13日>

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 5月16日には真ん中から顔を出した芯の様なものが少し伸びてきました。いよいよ花が咲くのかなと期待がふくらみます。

<平成26年5月16日>

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<芯の真ん中に水が乗っています>

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 5月20日に通りかかると、そんな期待も半減です。真ん中の芯のところが無くなっていました。この頃、鹿が出没していたので、味見してみて美味しくなかったのでしょうか。一口分くらい葉と共にもぎ取られていました。

 まだ見ぬ花を想像して楽しんでいましたが少しがっかりです。

<平成26年5月20日>    

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<もぎ取られた芯の部分とまわりの葉>

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 5月23日に京都府立植物園の植岡技師にこの植物の名前を教えていただき、ネットで検索してみると、最初に想像した花(大輪の花一輪)とは全く別の花の様子が出て来ました。

 

 5月28日に約一週間ぶりに見に行くと、もぎ取られた芯をものともせず、もぎ取られた葉も枯れずに上へ上へと大きく葉を伸ばしていました。

<平成26年5月28日>     

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<もぎ捕られた葉も大きく成長>

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 この植物の事も少し忘れかけていた約2週間後の6月12日、久しぶりに様子を見に行ってみると大きな変化がみられました。もぎ取られた中心の芯とは別に4本の芯が姿を現しています。生命力を感じます。

<平成26年6月12日>     

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<頂きに4本の芯>

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 ここまで成長すると、ネットで見た姿が見えてきました。その名は「ビロードモウズイカ」別名「バーバスカム」だそうです。その特徴をネット上の国立環境研究所侵入生物データベースから抜粋します。

 ヨーロッパ原産で、明治初期に鑑賞用・薬用に「ニワタバコ」の名で日本に持ち込まれた。二年草で、全体に灰白色の毛を密生する毛深い植物、毛は輪状に分岐する。茎は高さ0,9~2.5m根本の葉は花の咲く時期まで残り長さ30cmになる。花は黄色で大きさは径2~2.5cm。日当たりの良い砂質土壌に多い。

 在来種、畑作物、などと競合とあります。高野川の石積みの間から一株のみのこの「ビロードモウズイカ」はそういった心配はないようです。

 ビロードという名前もこの毛がその名の由来のようです。多種の虫や菌の奇主(宿り主)となることも影響として記述されていました。

 二年草ということで、1年目は地面にロゼット(バラの花びら状)の葉の姿で冬を越し、2年目に茎を伸ばして花を咲かせるそうです。昨年の台風18号の増水にも耐えて花を咲かせる時が来ました。

 

 6月17日には、黄色い花が開きました。砂質土壌を好むということは、中州の砂質の場所を好むと考えられますが、増水時には流されます。石積みの間に根を張ったおかげで花を咲かせる事ができました。

<平成26年6月17日>     

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<小さな黄色い花が咲きました>

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 次の“きになる”は“木になる”です。高野川沿いの高水敷を歩いていると、足元に黄色い実が3つ転がっていました。少しつぶれていましたので「これは何の実」と頭上を見上げると、木に実が成っていました。

 

 どうやら“ビワ”の実の様です。何度もこの道を歩いていますが、ビワの木が存在することには気が付きませんでした。“足元を見て頭上を知る”です。

 反対方向も気にしながら歩くと、気が付かなかった事に気づくものですね。

<足元に黄色い実>        

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<見上げると黄色いものが>

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<美味しそうな“ビワ”の実がなっていました>

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 もう一つの“木に生る”はイチジクの実です。3月11日の様子はといえば、そこに木がある事さえ見落とす程に葉もなく、細い枝が不規則に伸びているだけです。

 

<平成26年3月11日 イチジク>

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 4月に入ると、枝の先端から葉が出始めて、小さな果実が顔を出しました。イチジクは漢字で「無花果」と書きます。無花果の解説がJA福岡グループの子供向けの解説ページにわかりやすく解説されていたので、受け売りでご紹介します。

 イチジクの花は無いのではなく、実と称される部分の中に咲いているのです。イチジクの実は内側に空洞のある袋状になっていて、内側に小さな花がたくさん並んでいるそうです。そういえば、イチジクを食べると中に小さな突起があります。あれが花なんですね。

<平成26年4月4日 イチジク>

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 四月も下旬になると葉も実もはっきりと姿を確認出来る様になりました。イチジクはどうやって受粉するのでしょうか。イチジクの発祥はアラビアなどの地域だそうです。イチジクコバチという小さなハチがイチジクの実のおしりに開いた穴から中に入って卵を産みます。

 

<平成26年4月24日 イチジク>

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 約一ヶ月後の5月下旬には、葉も実も一層大きく成長しました。お馴染みのイチジクの形が見えてきました。産み付けられた卵は幼虫へと成長し、必要な養分と安全な空間で育ったイチジクコバチは成虫となって、他のイチジクに飛んで行き同じく卵を産み付けます。そこで受粉するという仕組みだそうです。

 そこで心配なのが、「イチジクにはハチの幼虫がいるの?」という事です。

<平成26年5月24日 イチジク>

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 6月に入ると、先に出て来た実に続いて、小さな実が顔を出してきました。イチジクの旬は8月から10月まで3ヶ月近く続くそうです。その長い旬の訳は、リレーの様に次々と実が出て来る仕組みなのですね。

 

 日本で栽培されている“イチジク”には、イチジクコバチの幼虫はいません。なぜなら、日本にはイチジクコバチが存在しないからです。日本で栽培されているイチジクは花粉が運ばれなくても花粉がついたと同じように実がなる性質(単為結果性)だそうです。

<平成26年6月17日 イチジク>

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 単為結果性で検索すると、同じ性質を持つ植物が紹介されていました。他にキュウリ、バナナ、ブドウがあるそうです。

 イチジクの花は、花ビラが無く花とは思えない形をしています。皆さんもイチジクを頬張る前に、中の花(突起)をじっくり観察してみてはいかがでしょう。

 

 続いての“きになる”は、人が“気になる”です。ある朝の出勤途上、出町のウッドデッキに若者がジャージや短パンといった運動をする格好で集まっていました。

<ウッドデッキに集まる若者>

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 よく見ると、そのお尻のところにタオルが尻尾の様に挟まれています。何が始まるんだろうと見ていると、そのうちの何人かがタオルを奪おうと狙います。

 ルールはよく解りませんが、攻撃側(タオルを奪う)と守備側(タオルを守る)での遊びのようです。

<真ん中の三人が攻撃側かな?>

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<動き始めました>

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 京都市内では、小学生の学童保育が実施されています。その学童保育をお手伝いしてくれている大学生のサークルもあります。そんな、サークルの皆さんが、学童保育で児童達と行うレクレーションのシミュレーションをしているのかなと思いつつその場を後にしました。

 

<タオルが沢山集まってきました>

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<1ゲーム終了の様です>

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<新たなゲームが始まりました>

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 最後の“きになる”は、動機が“気になる”です。以前から通勤時間帯に、京都市のゴミ袋を持って、川の寄州に落ちているゴミを拾って頂いているこの方をお見かけしました。大変有り難い事と思っていました。

 

 この日の朝はいつもと少し状況が違っていました。おおよそ一般的なサラリーマン家庭には常備されていないであろう「胴長」と呼ばれる胸まである長靴を装着されています。

<川の中に人影が>

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 そして、川の中に沈んでいるゴミを拾い上げておられました。早朝の散歩時に高水敷のゴミを拾ってゴミ箱に収めて頂いている方も多くおられますが、京都市のゴミ袋を持って、川の中のゴミを拾って頂いている姿は初めて見せていただきました。

<川の中へ“ざぶざぶ”と>

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<「胴長」姿でごみ拾い>

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 川の中にゴミが落ちているから清掃してくださっているのだとは思いますが、またいつかお会いした際には、「どうしてそこまでして頂けるのでしょうか?」とその動機をお尋ねしたいと思います。河川愛護の精神に感謝しつつ、今回の鴨川真発見記を終えたいと思います。

  平成26年6月17日 (京都土木事務所Y)

 

 

 

 

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