歴史的な峠 [京都林務事務所]
京丹波町から南丹市・京都市北部を結ぶ丹波広域基幹林道の沿線では、数カ所ですが歴史的な峠付近を通過しています。
各峠には、それぞれ歴史的な背景を持っており、史跡などが今もなお残っています。そのため林道の建設では、より付近の環境に配慮した施工を実施しています。
海老坂(えびさか)
南丹市にある丹波美山2号線付近の峠。
京都と若狭を結ぶ若狭街道の重要な峠であり、その起源は古く、峠の開通は奈良時代まで遡るといわれている。そのため、峠にまつわる史跡や伝説も多い。また、昔の人々の生活面でも、筏材を担いでこの峠を越し、大堰川に運んだ歴史を持っている。
峠の名の由来については、峠を挟んだ両側に海老谷という名があり(北側:谷名、南側:集落名、そこに流れる川が蝦谷川)、峠名がさきにあり谷や集落の名が付いたのか、その反対なのかは定かではない。
峠への影響をできるだけ小さくするための峠を迂回しています。
また、峠道の確保や案内板の設置等の配慮も行っています。
八百比丘尼伝説
数ある海老坂に伝わる伝説の一つ。
海老坂峠の南に位置する玉岩地蔵についての縁起譚で、八百比丘尼(奈良時代に若狭で生まれ、人魚の肉を食べて800年の長寿を得、その間に、諸国を巡って、最後は江戸時代に若狭の空印寺で入滅したと伝えられる)が、地蔵を背負って諸国を巡礼し、最後に京都から若狭に帰る途中海老坂にさしかかり、坂の途中で一服したところ、今まで軽かったお地蔵様が急に重くなり、「もう動くのは嫌じゃ、ここは良いところじゃからわしはこの地にとどまって衆生を済度する」と言って動かなくなった。そこで比丘尼は、致し方なく持念仏を岩上に安置して一人若狭へ帰ったと伝えられる。
この時の持念仏が玉岩地蔵の地蔵堂の本尊となっているというもの。
現存する史跡等
- 如意輪観音
- 宝筐印塔(南北朝の銘入り)
- 石標(従是南船井郡)
- 玉岩地蔵(峠より数百メートル南に位置する)
知谷峠
京都市と南丹市の境にある原深見線付近の峠。
峠の成立年代・名前の由来は、はっきりとしていないが、一説には峠を挟んだ2つの集落(上弓削と原)はともに古代集落と考えられるため、この峠道の開通もその集落の成立と同じくすると考えられている。また、この峠と峠道は里と里を結ぶ役割はもちろんのこと、小浜街道と高浜街道を横に結ぶ役割を持っていたと考えられる。
現在、峠周辺は主に林業活動で利用されています。
現存する史跡等
特になし
ソトバ峠
深見大布施線の京都市右京区京北上弓削にある峠。
小塩の馬場谷から廃村八丁を結ぶ峠道である。昭和16年頃八丁集落が廃村になるまで、八丁山に住む人々のくらしを支える街道であった。八丁集落が廃村となった後も引き続き使用はされており現在に至っている。
峠への影響をできるだけ小さくするための峠を迂回し、盛土工法を採用しています。
現在、この峠はハイキングルートの一つでもあり、多くのハイカーなどが行き来することから、峠道の確保や案内板の設置等の配慮も行っています。
現存する史跡等
特になし
衣懸坂
深見大布施線の京都市右京区京北奥馬場谷と京都市左京区広河原菅原町の境にある峠。
元明天皇の頃、香賀(甲賀)三郎兼家と名乗るものの勅命を受け、八丁方面に出没する八頭の巨鹿退治に向い、その途中、この峠の木の枝に衣を懸け甲胃に着替えたことから衣懸というようになったとの説や、その昔に宮廷の奥深く仕える高貴な女人が、なぜか世を儚みこの奥山に分け入り、峠の木の枝に綾羅の衣を懸け、そのまま姿を隠してしまったといった説もある。
現在、峠周辺は林業活動で利用されているほか、ハイカーも訪れています。
現存する史跡等
特になし
