1 はじめに
古い時代の植生景観を知る方法は時代によって異なる。明治以降であれば文献のほかに写真や地形図も重要な資料となる。しかし、江戸時代であれば、その末期にはわずかに写真は残ってはいるが、近代的手法で作成された地形図もないため、文献など他の方法に頼ることになる。
文献をもとにした研究は容易でないとはいえ、それでも文献が比較的多く残るところであれば、それによりたとえば京都周辺を含む近畿圏の一部などでは今日とは大きく異なり、草木がほとんどないハゲ山が多かったところがあることや、その背景までもがわかることもある1。ただ、そうしたハゲ山などの広がりなどを知るには、文献からは限界もある。
また、池や沼などの泥炭中などに含まれる花粉を詳しく調べることにより、過去の大まかな植生を知ることもできる。たとえば、そうした花粉をもとにした研究によると、京都近郊では平安時代にアカマツが大きく増え、それにより森林が大きく変化したこと、またその後アカマツが多い時代が長く続いてきたと考えられている2。
しかし、かつてアカマツの木の高さはどの程度のものが多かったのか、あるいは木々の密度はどの程度だったのかなどは、それによって知ることはできない。森林の木々の高さや密度などを、私たちはつい現代の森林の状態から推測してしまいがちであるが、それは正しいとは限らない。
そのようなことから、古い時代の植生景観を明らかにする方法として絵図類を利用することが考えられる。ただ、絵図類には実際にはないものが描かれることもある一方、実在するものが描かれないこともよくあるため、絵画の主要対象の背景として描かれることも多い山地などの植生景観の描写については、その写実性をとくに慎重に検討する必要がある。
絵図類の写実性を明らかにすることは難しいことも多いが、もしそれをなんらかの方法によって示すことができるならば、絵図類には多くの視覚的情報が含まれるため、それはかつての植生景観やハゲ山の存在などを知る上でたいへん貴重な資料となるはずである。
先に2015年版『京都府レッドデータブック』では、そうした絵図類をもとにして江戸末期から室町後期における京都近郊の植生景観についての考察をまとめてみた3が、ここでは自然景観までもより写実的に描いた可能性がある真景図をもとに、江戸中期から後期における京都の植生景観について考えてみたい。
なお、自然景観までも写実的に描いたとする「真景図」は江戸中期から後期にかけて数多く描かれ、今日まで残されているものも少なくない。そうした図の中には、当時の里山などの景観を知る上で貴重な資料(史料)となるものがあるはずである。ただ、真景図などと呼ばれていても、その描写は図によってさまざまであり、中には実景を描いたことさえ疑われるものもある。
たとえば、日本の文人画(南画)の代表的画家であった池大雅の作品に「朝熊(あさま)山真景図」や「児島湾真景図」など真景図と称されているものがあるが、それらは今日の私たちの視点からは写実的に描かれている図には見えない。そうした図が制作された背景には、大雅など人文画の画家たちが中国への強い憧れや深い知識があり、真景を写生すると称しても、日本の風景を中国の名勝に見立てたり、中国のお手本の山水画に引きずられたりしていたことがあったと考えられている4、5。
そうした流れを変えたのが円山応挙であった。そのことについて、佐藤康宏氏は、「日本の風景は日本の風景であって別に中国文化にたとえる必要はない、という新しい物語が、應擧とともに始まる。」6と述べている。円山応挙が描き、今でも見ることができる真景図は多くはないが、本稿ではまず応挙の作品から検討を始めてみたい。
2 応挙図の考察からみた江戸中期における京都近郊山地の植生景観
(1) 円山応挙と研究対象図について
円山応挙(1733-95)は江戸時代中期の画家で、円山派の創始者である。出生地については丹波国桑田郡穴太〈あのお〉村(現在の亀岡市曾我部町穴太)で、年少の頃に一家とともに京都に移り、17~18歳の頃、鶴沢派の画家石田幽汀の門に入ったと考えられている7。
後述のように、応挙は写生を極める態度で絵を描き、また数多くの作品や写生帖を残した。応挙の描いた草木や鳥獣など、今日でも同じ種を見ることのできる生物画について、図の描写と実物とを比べてみると、その形や色はもちろん、それぞれのもののもつ雰囲気のようなものまでが、きわめて写実的に描かれていることに驚かされることが多い。
しかし、その一方で、風景画については、その写実性を確認することはそう容易ではない。応挙がそれらの風景画を描いたと思われる場所に行って、単純にその描写と現況とを比べてみると、あまりに違いが大きいことが少なくないからである。
では、本当に応挙図をかつての植生景観を考える上での重要な資料とすることはできないのだろうか。応挙が描いた京都近郊の図には、これまでの筆者などによる研究で概要が明らかにされてきた江戸中期のその地の植生景観が詳しく描かれているところもあるように思われる。ここでは、応挙の比較的初期の作品と考えられる「淀川両岸図巻」といくつかの眼鏡絵をとりあげ、それらの写実性を明らかにすることにより江戸中期における京都近郊山地の植生景観を考えてみたい。
(a) 「淀川両岸図巻」と応挙の眼鏡絵について
「淀川両岸図巻」(原美術館蔵)は、京都から大阪に至る淀川とその両岸の風景を鳥瞰図風に描いたものであり、その大きさは、完成画が縦40cmで横1,690cm、下図が縦45cmで横1,670cmである。その制作は、墨書銘によると完成画が1765(明和2)年、下図が1763(宝暦13)年であるが、それは、応挙図の様式の発展からみても妥当と考えられているものである8。そして、それは応挙がまだ眼鏡絵を描いていた頃の作品と考えられるものである。なお、その完成画と下図には、一部に違いも見られるものの、全体的には、完成画は下図をかなり忠実に模して描かれていると言うことができる。
一方、応挙は初期の頃、生活のために眼鏡絵を制作したという9。眼鏡絵は、和蘭陀眼鏡という箱型の覗き装置に入れて見る絵で、その大きさは、半紙大程度かそれよりもひとまわり小さなものである。絵は、ふつう、鏡に反射したものをレンズで拡大して見るために、その描写は左右逆となっている。その制作には、後述のように、かなり写実的な描写が見られることから、写真鏡のようなものが使われたことも考えられる10。
眼鏡絵には、京都の風景を描いたものが多いが、中国の風景や想像上の光景を描いたものなどもある。図の大部分には落款もなく、その作者を特定しにくい面はあるものの、残されている文献や諸先学の詳しい考察から考えると、円山応挙が眼鏡絵を描いたということは確かなようである11、12。
ここで取り上げるのは、薮本莊五郎氏(故人)蔵のほぼ半紙大のもので、数ある眼鏡絵の中でも最も応挙らしい作品と見られているものである。その制作は、図の描写技術などからみて、応挙が20歳代の中後期頃から30歳代の中頃、すなわち、1750年代末期から1760年代中期頃と考えられている13。応挙の眼鏡絵には、西洋的な画法がとり入れられており、その後の彼の画風に大きな影響を与えたとするのが大方の見方となっている。なお、ここで図示した眼鏡絵は、現況などとの比較のために、実物の絵を反転したものである。
(b) 応挙の絵図とその画論
応挙をはじめとする円山四条派が、写生派と呼ばれるように、応挙図の最大の特徴は、洋風画の影響を受けたその写実主義的な描写にあることは言うまでもない。
そのような応挙の写実主義をよく示すものとして、その高弟の一人であった奥文鳴が記した『仙齋圓山先生傳』がある。そこには応挙の言葉として、次のように記されている部分がある。
"・・・先生曾テ云、凡畫圖ノ術タルヤ、物象ヲ寫シ精神ヲ傳フ。其用製作ニアリ。苟モ其理ニ精ケレハ名ヲ成スニ足ヘシ。猶文士ノ博覧強記ナレハ詞章湧カ如ク、行文モ亦縦横ナルカ如シ。何ソ寫字三昧ニシテ止ム者ナランヤ。古人云ルコトアリ。紀傅ハ其コトヲ叙シテ其形ヲ載スルコト能ハズ。賦頌ハ其美ヲ詠シテ其象ヲ備ルコト能ハス。コレヲ傳ルモノハ畫圖ナリ。故ニ眞物ヲ臨寫シテ新圖ヲ編述スルニアラスンハ、畫圖ト稱スルニ足ンヤ。豪放磊落気韻生動ノ如キハ、寫形純熟ノ後自然ニ意會スヘシ。・・・"14
これらの言葉からも、応挙が写生を極めるような態度で絵を描こうとしたことをうかがい知ることができる。しかし、応挙の作品の中には、必ずしも今日で言う写実的な描写とは思われないような部分が見られることもある。たとえば、その風景画においては、ふつうの写生という概念では理解できないような景観が描かれていることが少なくない。応挙の作品に写生的傾向が強かった面があることは間違いのないところと思われるが、ではどうして、応挙の作品に写実的とは見られないような部分があったりするのだろうか。
そのことを知る上で、応挙と早くから親交のあった円満院門主祐常の、『萬誌』と称する日誌の中にあらわれる応挙の次の言葉15は重要なものと考えられる。
"画学之事、雖有習法自学甚徳有之 図出来ルホドナラハ生物ニテ可写学依之、予亦日記ノ小冊ヲ以日々図得之、山川草木禽獣虫魚人物何ニテモ見生可図写置、難見生ハ可依画本、不見物モ生物数品写内、自然ト図モ可出来、動物、難写人物、鳥獣等宜細工之人形等画本ニ用ユヘシ、故ニ予モ漢人物数品和人物男女鳥獣之形小ハ為画本秘蔵ス、器財草木ハ不動故写ヤスシ、色々ニ一品ヲ写置ヘシ、小冊、矢立用之(朱墨二品可用也)時々乗隙而可写置、以一品渡数品、以数品為一品、画之作意也、但彩色亦可附置、遠近大小モ可記置、鳥獣側ヘヨレハ恐テ勢替ル、此類難写者以遠望鏡可写之"
ここでは、一般に考えられているような応挙の写生の姿勢とともに、今日ふつうに考えられる「写生」という概念では理解しにくい応挙自身の絵画についての考え方が記されている。特に、写実的とは見られないような応挙の図を理解する上で重要であると思われるのは、上記の文の後半の「器財草木ハ不動故写ヤスシ、色々ニ一品ヲ写置ヘシ」及び「以一品渡数品、以数品為一品、画之作意也」の部分である。すなわちこの部分は、器財や草木のような不動で写しやすいものは、一つの物を色々に写しておくべきであり、一つの物から数種の下絵を描き、そのような数種の下絵から一つの作品を仕上げることは絵画の工夫した描き方であると述べていると解釈することができる16。
この応挙の画論は、その風景画が、しばしば複数の視点からの下絵をもとに描かれていると考えられることを、より疑いのないものとするものである。
なお、多くの残された応挙の動植物等を描いた絵画から、それらの彩色が全般にきわめて写実的なものであることはよくわかるところであるが、上記応挙の画論からも、彩色に関する応挙の写実主義的態度を読み取ることができる。そして、この後検討する眼鏡絵と一連のものである「勢多橋図」(薮本氏旧蔵)において、かつてはたいへんなハゲ山であり、今日でもその痕跡の残っている田上山(滋賀県南部)付近がすべて茶色に着色されているようなことは、応挙図の山地部の景観の彩色として注目されるところである。
(2) 研究方法
かつての植生景観研究のために、ある絵図類を重要な資料とするには、そこに描かれた植生等の景観描写に関する資料性が明らかにされなければならない。ここで言う資料性とは、資料的価値のことであり、それは写実性と言い換えても差し支えない場合も多い。ただ、絵図の資料性には、その制作時期がわかるかどうかというようなことも含まれるし、また、たとえば江戸時代中期より前の絵図にはとくによく見られることであるが、あまり写実的であるとは言えないような描写の中にも、かつての植生景観がかなり反映されていると考えられるような場合もあり、資料性という言葉は必ずしも写実性という言葉と同義ではない。とはいえ、応挙の作品、また後述の「東山三十六峯図巻」など原在中による作品の資料性についての検討は、その写実性を明らかにすることが中心となる。
筆者のこれまでの絵図類をもとにしたいくつかの植生景観復元の事例から、絵図類の資料性を明らかにするための方法をいくつかまとめることができるが、実景を忠実に描いた可能性があると見られる応挙図などについては、"山や谷などの地形描写の分析的考察"方法を主に用いて考えることにしたい。
すなわち、写実性が相当高い可能性があると見られる絵図類については、そこに描かれた山や谷などの地形描写を、現況や詳しい地形データを基に作製したモデルと比較しながら分析的に考察することにより、その写実性をかなり明らかにできることがある。この方法は、江戸中期以降のかなり写実主義的な絵画の考察にはとくに有効と考えられる。ただ、その際、絵図が描かれた視点ができるだけ正確に特定される必要がある。
(a) 視点の特定
そうした絵図の描写の分析的考察においては、絵図が描かれた視点は必ず特定されなければならない。視点を特定するには、地形図なども適宜用いながら、足でかせいで探すのが一般的な方法である。絵図には、しばしば視点が複数あることもあり、複数の視点からかなり広範な風景を描いたものもあるため、絵図の内容によっては、それらの視点を探すのに自動車やバイクや自転車などの乗り物をうまく使うとよいこともある。ただ、乗り物を使うときには、それによって絵図の視点の範囲をある程度絞りこむことができるが、最終的に視点を特定するには、ふつう人間の足でできるだけ細かく歩いて探さなければならない。この視点の特定は、誤りのないよういろいろな可能性を考えながら慎重になされなければならない。
なお、今日では、過去に描かれた絵図の視点を特定しようとする際、樹木の繁茂や、市街地の拡大などにより、求める視点を自由に探すことが困難なことも少なくない。そのようなときには、視点の範囲をできるだけ絞りこんだ上で、高い建物に上るなどすることによって、絵図の視点を推定により特定してゆくことになる。
また、近年、精度の高いデジタル化された地形情報を利用して、パソコン上で視点を特定することもできるようになってきた。そのためのソフトとしては、カシミール3D(図1)やAutoCADなどがある。
(京都市北部岩倉付近の地形が5mメッシュの地形データをもとに表示されている)
(b) 現況との比較
ある絵図の視点が特定できれば、その描写とその視点から見た現況とをまず比較することができる。もし、特定された視点から、目的の方向の視界が何かに遮られているときは、そこからできるだけ近いところから目的の場所を見ればよい。そのことによって、その絵図の資料性についていろいろなことが考えられるようになる。絵図の風景と現況とには、ふつう類似点と相異点とが見られるが、それらの類似あるいは相違の理由を考えることにより、植生景観等に関するその絵図の資料性が明らかになることもある。
(c) 詳しい地形データを基にした地形現況と絵図の描写との比較考察
絵図に描かれた風景と現況との比較の次のステップの一つとして、詳しい地形デ-タを基にした地上に植生のない場合の状態(地形現況)と絵図の描写との比較がある。この比較考察は、絵図の写実性を判断する上でかなり有効である場合が多い。
この考察の前提としては、ふつう対象とする地域の地形の状態が、絵図の描かれた頃と今日とでほとんど変化していないと考えられることがあるが、対象地域に自然災害や土木工事などによる変化のある場合でも、それが部分的であり、かつその変化の概要を確認することができるようなときにはこの限りではない。
この考察は、たとえば、絵図に描かれている谷の一つを確認するようなことであれば、地形図を見るだけでできるような場合もあるが、ふつう地形現況と絵図の描写との比較を可能にするためには、詳しい地形データを基にして、絵図の視点から見た地形現況をなんらかの方法によってビジュアルな形でとらえられるようにする必要がある。
その一つの方法は、詳しい地形データを基にして、できる限り精巧な地形現況のモデルを作成することである。上述のように、そうした地形データは国土地理院の基盤地図情報ダウンロードサービスサイトなどから入手することもでき、それを可視化するソフトウェアもある。また、より詳しい地形情報が必要な場合は、独自に測量するなどして地形データを作成し、それをCADソフトなどによって可視化することもできる。
なお、一般に入手可能な5mメッシュ(標高)あるいは10mメッシュ(標高)といった地形データは、航空レーザ測量や写真測量によるものであるが、空中写真をもとにした写真測量の場合は、標高データの誤差が生じやすい。また、航空レーザ測量であっても、そのデータは5mあるいは10m間隔の標高データであることから、それを基にした地形モデルにはこまかな地形までも反映されないことも少なくない。絵図類にはそうした地形データに反映されない小さな谷などの地形までも描かれていることもあるため、現地に足を運んで、実際に地形の状態がどのようになっているかを見る必要が生じることもある。また、2,500分の1や3,000分の1のようなかなり詳しい地形図についても、一般に空中写真をもとに作成されているため、地形情報が十分正確でないことがあるので注意する必要もある。
ここでは、図の視点から見た詳しい現況地形のモデルは、カシミール3D(スーパー地形セット利用)17やAutoCAD18により作成したもので、国土地理院の基盤地図情報をベースにした5mメッシュあるいは10mメッシュの高密度地形データ19を反映したものとなっている。
図には、しばしば目立つ樹木や木立などの植生が描かれているところがある。そうした樹木の樹高推定や山地の植生高推定のため、5m、10m、30mの3種類の指標樹木モデル(図2)を作成し、その樹木モデルをAutoCADによる現況地形モデル上に挿入して図の植生描写と比較することにより、樹高や植生高を推定した。
なお、その現況地形モデル作成のためのソフトウェアとしてGeoCoachSE20も用いた。それは、国土地理院の標高データを基にAutoCADで使う3次元地形のDXFファイル21を作成するためのものである。
(3) 「淀川両岸図巻」からの考察
淀川とその両岸の風景を詳しく描いた「淀川両岸図巻」の中で、京都近郊の山地を詳しく描いている所として、石清水八幡宮のある男山付近などがある。そこには、山裾の里の風景とともに山の姿もかなり細かく描かれているように見える。「淀川両岸図巻」には、その下図も今日まで残されており、ここではそれらの図をもとに、それが描かれた時代の男山の植生景観を考えてみたい。
応挙の「淀川両岸図巻」(完成画:1765(明和2)年、下図:1763(宝暦13)年、共に原美術館蔵)において、石清水八幡宮のある男山の山並みは図3(完成画)、図4(下図)のように描かれている。その図の部分は、現況などとの比較から宇治川と木津川の合流地点に近い地上から描かれたものと考えられる。その図の視点近くから見た現況(写真1)と応挙図の山地部分を比較してみると、その山の部分の稜線の形状は互いに割合よく似てはいるものの、応挙図の方が山地の起伏の状態が少し大きく描かれていること、応挙図には山地に小さな谷の描写が多く見られるが、現在ではそのような小さな谷は全く見られないことなどがわかる。そのような応挙図と現況の違いの中で、小さな谷の描写は、かつての男山付近の山地の植生を考える上での重要な手掛かりの一つになる可能性があるように思われる。
そこで、5mメッシュ(標高)の地形データを基にしたカシミール3Dによる地形モデル(図5、視点は応挙図の視点付近)と比較してみると、現況では見えない谷のいくつかが応挙図とほぼ対応する所にあることがわかる。ただ、そのようにして検討してみると、応挙図には、実際にはあるはずの谷の少なくとも1つが省略されていると考えられる部分があることもわかる。
なお、模型や地形図で確認できないような小さな谷が、応挙図の描写に対応する形で今日存在するかどうかということについては、問題となるいくつかのその山地の部分に実際に分け入ってみると、応挙図にほぼ対応すると思われる所に、カシミール3Dによる地形モデルや2,500分の1などの詳しい地形図でも確認できないような小さな谷状の地形を見ることができることが多い。
これらのことから、「淀川両岸図巻」は、細かな地形描写まで詳しく描かれているところが多いと考えられる。そして、そのような細かな地形が遠くから見えていたということは、そうした細かな地形の場所の植生はかなり低かったか、あるいは植生もないようなところであった可能性が高いと考えられる。
一方、図には樹木や木立が描かれていると見られる場所も少しある。最も樹木がまとまって描かれていると見られるところは、図の左方上部の山地あたりである。そこは石清水八幡宮のある場所である。また、その山の最も左方稜線部付近にもやや大きめな木々が描かれているようにも見える。また、図の中央よりもやや左手の山の稜線部付近にも少しまとまった木立があるように見える。
そうした木立や木々の大きさを考えるために、AutoCADで作成した地形モデル上に指標となる樹木モデルを数本置いてみた(図6)。
図6では、応挙図で樹木が描かれているとみられる山地最左方の稜線部分に3本の高さ30mの樹木モデルを挿入している(赤い円と楕円内)。また、図の中央より少し左方の稜線部分には高さ10mの樹木モデルを2本挿入している(青い円内)。応挙図と図6を比較することにより、図が描かれた頃、石清水八幡宮がある部分には、高さが20m前後かそれ以上の比較的高い樹木がまとまって存在していた可能性があることが考えられる。また、山地最左方の山の稜線部分の一部には高さ20m前後ほどの比較的高い樹木があった可能性が高いと考えられる。一方、図の中央より少し左方の稜線部分の小さな木立の木々は、さほど高くはなく、せいぜい10mの程度の高さであったのではないかと思われる。
このように、石清水八幡宮付近などの一部には高木、あるいはやや高い木々が見られるところもあったが、男山でそうしたところは一部であり、その図が描かれた頃、男山にはかなり小さな谷状の地形までも遠くからよく見えるような低植生地、あるいは植生のないような部分が広く見られたと考えられる。
(4) 眼鏡絵からの考察
筆者が最初に応挙の眼鏡絵をもとにした考察をおこなったのは、今から三十数年前のことで、今日のようなデジタル環境はなく、現況地形モデルを作るとしてもそれは手作りでおこなうしかなかった。また、現況地形モデル作成を簡略化して山の稜線形状だけを描いて図の写実性を検討したりもしていた。上記男山の場合は、大学の地理学の演習で教わった模型作り方法によって現況地形モデルを作って検討したが、下記の眼鏡絵については山の稜線形状だけで検討した。本稿は、図のカラー化とともに、それを最近のデジタル環境を利用して再検討するものである。
(a) 「清水寺」
応挙の眼鏡絵「清水寺」(図7)は、いわゆる清水の舞台の西方から、舞台や南方に広がる山地などを描いたように見える図である。
この図における山地の植生描写の写実性を考えるにあたり、まず、図の視点を考えてみたい。その応挙の図は、清水の舞台の描写から考えると、舞台の西方、図8のA付近から舞台が左手に見えるよう描かれているが、今日その視点から同じ方向を見た景観は、それとは大きく異なっている(写真2)。
その図の舞台のすぐ右手には、その視点から見える清水寺南方の阿弥陀ヶ峰と思われる山がやや高く、またそのさらに右手にそれに連なるなだらかな山なみ、そして遠方の男山から西山南部が描かれているように見える。その比較的近い山なみのスカイライン(稜線)など、現状とかなり似ているところがある(写真3)。
図9は5mメッシュ(標高)の地形データを基にしたカシミール3Dによる図で、その視点から見える阿弥陀ヶ峰やその右手(西方)の山なみなどの地形であり、それは地上に植生などがない状態を示すものでもある。応挙図は、山の稜線など、この図と一致するところも多い。
一方、今日では樹木の枝葉などもあり見ることが難しい音羽の滝のあたり(写真4)は、その視点からは正面に近い形に見えるはずであるが、応挙図ではそれがかなり斜めから見た形の描写になっている。いくつもの他の古絵図などから、音羽の滝の場所は図が描かれた頃と今と変わっていないと考えられることから、図の視点は別にもあり、複数の視点からの図をもとに、この眼鏡絵が描かれている可能性が高い。その別の視点は清水寺舞台の下、図8のB付近と考えられ、それは後述の山地の稜線を含む地形の考察からも言えることである。図10は5mメッシュ(標高)の地形データを基にしたカシミール3Dによる図で、その視点から見える阿弥陀ヶ峰やその右手の山なみなどの地形を表示したものである。この図も山の稜線の形状は、応挙図と共通するところが多い。
図9と図10を応挙図と比較することにより、応挙図は高さが少し強調され、山地の傾斜がやや急に描かれていること、阿弥陀ヶ峰の形は図9と図10で共通するところも多い一方、図9では阿弥陀ヶ峰の山頂から右手に少し下ったところに段状の地形が見えるのに対し図10ではそれが見えないことなどから、応挙図の山なみの右方部分は図8のA付近の視点からの景観が描かれ、左方部分は図8のB付近の視点からの景観が描かれているものと考えられる。なお、図9の左下方から右へ斜めに延びる深い谷のあたりは応挙図では描かれていない。
このように、この応挙の眼鏡絵の山なみは2つの視点からの下絵をうまく合成して描かれていると考えられるが、応挙図には描かれていると見える男山のあたりが今は見えないことやB地点のあたりから阿弥陀ヶ峰付近がまったく見えないことなど、応挙図と現況との違いは、今は様々な高木の樹木で覆われている山地の植生の状態が、その眼鏡絵が描かれた頃と今では大きく異なっているためであろう。
そのことについて少し詳しく考えるため、AutoCADで作成した現況地形モデル上に指標となる高さ10mと5mの樹木モデルを置いてみたのが図11と図12である。それらの図では、挿入した樹木の存在が分かりにくいところは、樹木を赤色などの円で囲んで示している。応挙図は地形の高さが少し強調され、それと同様に樹木の高さも少し強調して描かれている可能性が高いが、応挙図と図11、また図12を比較することにより次のようなことが考えられる。
たとえば、応挙図では阿弥陀ヶ峰の地形が正確に描かれている一方、決して小さくはなさそうに見える樹木も少なからず描かれている。そのことから、図が描かれた頃、その山の木々の密度は全般にさほど高いものではなく、その大部分は木々の下の稜線地形がよく見える程度のものであったと考えられる。また、その地の中高木あるいは高木と見える樹木は、その山の稜線上に高さ10mの樹木モデルを2本置いた図11との比較から、さほど高いものではなく、高さ10m前後のものが多かったのではないかと思われる。
一方、応挙図の中央付近から右下方に延びる山地の稜線のあたりには樹叢らしき描写が見られる。そこは、現在、国道1号線が走っているところに近い丘陵部であり、その稜線部に5mと10mの樹木モデルを置いた図11と応挙図との比較から、その樹叢の高さは一部に10m近いものもあったかもしれないが、ほとんどは5m前後かそれ以下の高さだった可能性が高いと思われる。
応挙図の多くの部分を占める図のやや左方から右下方に延びるややなだらかな山地部手前の植生について、図11ではそこに高さ10mの指標樹木モデル1つと5mの高さの指標樹木モデル2つを置いているが、そのあたりは視点に近いところであるため、高さ5m程度の樹木でもだいぶ目立ち、高さ10m程度の木であればいっそう目立ち、それにより遠方が見えにくくなってくることがわかる。このようなことから、その応挙の眼鏡絵が描かれた頃、その山地部には高さ5m程度までの樹木や樹叢も一部にはあったかもしれないが、大部分は植生がかなり低かったか、植生もほとんどないようなところがあった可能性も考えられる。
それについては、B視点から見たAutoCADによる地形モデルに、阿弥陀ヶ峰の手前の山地部に2本の高さ5mの指標樹木モデルを置いた図12から、その山地部にもし5m程度の樹木であっても、それが一面にあれば阿弥陀ヶ峰をほとんど隠すことになることから、その付近の植生はきわめて低いものであったか、植生自体ないようなところであった可能性が考えられる。
そのいずれが多かったかを考える手掛かりとして、図の彩色がある。応挙図のその部分の色は、稜線付近の一部と谷部付近かと見えるところにわずかに描かれた緑系統の色で着色された樹木的表現の部分を除けば、ほとんど茶系統の色であることから、それが冬枯れの草の色を示している可能性もあるが、地肌の色を示していることも考えられる。もし、地肌の色を示しているのであれば、そのあたりは植生がきわめて少ない状態のところが多かった可能性が高いと思われる。
なお、応挙図で音羽の滝の上部に何本か描かれているスギタイプの樹木や、その右手の竹林は、江戸時代を通して多くの他の絵図に見られるものであることから、その付近も実景が描かれている可能性が高いものと思われる。
(b) 「知恩院」
知恩院と題されている応挙の眼鏡絵は、主に知恩院の参道付近を描いている図であるが、その背後には京都東山中央部の山地の一部も描かれている(図13)。
今日、この図の視点と考えられる付近からの景観は、参道の両側にやや高く大きな建物が目立つなど、図のそれとはかなり異なっているところもあるが、参道の先には図とよく似た山なみが見える(写真5)。
この図の視点は知恩院新門近くで、図14は5mメッシュ(標高)の地形データを基にしたカシミール3Dによる地形モデルで、その視点(知恩院新門の東10m、標高43m)から東方を見たものである。
その図と応挙図を比較すると、応挙の図に描かれている山の稜線の形状などは図13に近いところが多いことがわかる。また、その山地に描かれている高木などの樹木を除いてみた場合、応挙図は実際の地形とよく一致することから、そこに描かれている植生も実景に近い状態が描かれている可能性が高いと考えられる。
それを前提として、応挙図に描かれている山地部分などの樹木の高さなどについて考えるために、AutoCADで作成した地形モデル上に、図15のように指標となる高さ10mの樹木モデルを9本、高さ30mと5mの樹木モデルをそれぞれ2本置いてみた。その図では、挿入した樹木の存在がやや分かりにくいところ(稜線上の2本の5mの樹木モデル)は、そのあたりを赤色の円で囲んで示している。応挙図と図15を比較することにより次のようなことが考えられる。
応挙図では右上方に山の最も高い部分が見えるが、その付近はやや高い木々で覆われているように描かれている。その付近の樹木は図15と比較することにより、高さ10m前後のものが多かったことが考えられる。また応挙図ではその近くに山道かと思われる部分や木々の描かれていないところも少し見えるが、山の上部から下方にかけて樹高の高い可能性のある木々も多く描かれている。それらの樹木は高さが10m以上のものが多く、中には20m前後かそれ以上のものもあったと考えられる。
一方、その山地の左方、応挙図の左右中央に近い山地の稜線付近の樹木は比較的小さく描かれているものが多く、それらの樹高は図15との比較から5m前後かそれ以下の高さのものも多かったと考えられる。また、応挙図ではその稜線の下にやや広く林空が描かれているところがある。その山地に描かれている樹木の樹形は、大きいものも小さいものも、そのほとんどが明確にマツとわかるものである。
そうした山地部分以上に、応挙図では参道沿いなどにも樹木が多く描かれている。そこに描かれているマツやサクラは高さ10m前後程度までのものも多いと思われるが、図のやや左方などに描かれているものは高さ20m前後、あるいはそれ以上と考えられる。
この応挙の眼鏡絵から、知恩院参道近くのそうした樹木の状況とともに、上記のような知恩院裏山のかつての状態、すなわちそこに高木の木々の林などがあるところもあった一方、さほど高くない木々が多く見られたところや、樹木のないところも少なからずあった可能性が高いことを知ることができる。この知恩院裏山のあたりは、京都市周辺ではもっとも早くからマツ林からシイ林への変化が見られ、江戸時代から比較的りっぱな林があったところであるが、応挙の時代と似たような山の状況がかつてあったことは、他の絵図類の考察22からも考えられるところである。
(c) 「宇治」
この宇治との裏書のある眼鏡絵(図16)は、宇治川を臨むやや高所から、宇治橋や平等院付近などの風景を描いたように見える図である。図の山地の部分には、わずかに樹木の描かれている所もあるが、何も描かれていない所の方がはるかに多い。
この図は、宇治橋のあたりの描写から考えると、橋寺(図17のA)付近から描いたもののように見えるが、今日のそのあたりからの景観は応挙の図とは大きく異なっている(写真6)。
たとえば、応挙図では槇尾山23(図の中央付近に描かれている山)がたいへん大きく描かれており、その上部などには別の山は見えず空が広がっているのに対し、図17のAあたりの視点からの現況では、その山はそれほど大きくは見えず、また、槇尾山の上方などには背後の山が見える。一方、その眼鏡絵には、図17のAの視点からは、たとえ前方に障害となる樹木や建物がなかったとしても見ることができない亀石(応挙図で宇治川の最も左方近くに見える)が描かれたりしている。
これらのことは、視点を興聖寺の参道入り口に近い宇治川右岸など、複数の視点を考えることにより理解することができる。写真7と写真8は、それぞれ図17のBとCに近い宇治川沿いから槇尾山や宇治川の現状を写したものであるが、それらの視点からの景観は、応挙図では山地の傾斜がだいぶ急であるなどの違いもあるが、山や川の様子など応挙図と似たところも少なくないように見える。
すなわち、Cの視点からの景観(写真8)は川の流れや槇尾山の川に近い側の形は応挙の眼鏡絵とよく似ている。また、Bの視点に近いところからの景観(写真7)は、槇尾山のとくに最上部付近から右手が応挙図と似ているように見える。
ちなみに、図18は5mメッシュ(標高)の地形データを基にしたC視点からのカシミール3Dによる地形モデルで、図19はB視点からのカシミール3Dによる地形モデルである。また、図20は図18の左方部分と図19を少し拡大してその右方部分をつないだものである。応挙図では山地が実際よりも急に描かれてはいるが、この図の山の稜線の形など応挙図とかなり近いものとなることがわかる。こうしたことから、この図も前述の清水寺の図と同様に、複数の視点からの下図をうまく合成して作られているものと考えられる。
こうして、複数の視点からの写実的な図をもとに制作されたものと考えられるこの宇治と題する眼鏡絵は、そこに描かれている樹木等の植生についても比較的写実的に描かれている可能性が高いと考えられる。そこで、応挙図に描かれている山地部分の樹木の高さなど知るために、AutoCADで作成した地形モデル上に、数本の樹木モデルを置いて考えてみたい。
図21は、図17のB視点から見た地形上に指標となる高さ10mの樹木モデルを5本置いたものである。一方、図-22は、図-17のC視点から見た地形上に指標となる高さ10mの樹木モデルを2本、高さ5mの樹木モデルを4本置いたものである。
それらの図と応挙図を比較することにより、槇尾山の左方、その中腹から宇治川の間に少し描かれている樹木の高さは比較的低く、高いものでも5m前後であったと思われる。一方、その山のやや右手、山頂に近いところに3~4本の樹木がまとまって描かれているところがある(小さな図では樹木とはわかりにくく黒っぽく見える)。また、山のかなり右手、遠方の山並みと稜線が交わるところの近くにも数本の樹木がまとまって描かれているところがある。それらの樹木についても、応挙図と図20との比較から、高さが10mを超えるようなものはなく、高くても7~8m程度のものであった可能性が高いと思われる。
一方、槇尾山の下方には平等院の周囲と思われるところにほとんどマツと見られる樹木が多く描かれている。そこには様々な高さの樹木が描かれており、高いものは20mを超えるようなものもあったかもしれないが、その樹形や近くに描かれている建物との関係から多くはマツとしてはさほど高いものではなかったのではないかと思われる。
この応挙の眼鏡絵には、山地に何も描かれていないように見えるところが多いが、そうした部分は山地の稜線の形状が、植生がない場合の形を乱すような木立が少なく実際の地形をよく反映して描かれていると思われることや、高めの植生があったとすれば見ることができない細かな地形描写が見られることからも、実際に何の植生もないような状態であったか、もし何らかの植生があったとすれば、それはかなり低い均一なものであった可能性が大きい。その彩色から考えると、そこには冬枯れの草地的植生があったことも考えられるが、地肌が見えているようなところが広がっていたところが多かった可能性も考えられる。
【まとめ】
以上の初期の応挙図をもとにした考察を簡単にまとめると、それらが描かれた頃の江戸中期の京都近郊山地の植生景観は、おおよそ次のようなものであったと考えられる。
その当時、京都近郊の山地には、今日とは異なり、よい高木の林は少なく、その大部分は、植生があったとしても、それはかなり低いものであり、また、植生自体がほとんどないような部分も相当広く見られた可能性もある。男山の石清水八幡宮周辺や知恩院の裏山など、比較的よい高木の林が見られたと思われるところも一部あったが、そのようなところは社寺有地が中心であった。しかし、そのような比較的よい高木林も、必ずしも今日のように樹木密度が高い鬱蒼としたものではなかったと思われる。一方、低植生地や植生の少ない山地にも、孤立的な木々や林が見られることはさほど珍しくはなかったと考えられる。なお、当時の高木の樹種の大部分は、図の描写からみるとマツタイプのものであり、クロマツが植えられることもある社寺付近などを除けば、それは今日の植生から推定するとアカマツと考えられる。
3 原在中作品の考察からみた江戸後期における京都の植生景観
(1) 「東山三十六峯図巻」24からの考察
江戸中期、円山応挙により写実的な風景画が描かれるようになった後、応挙よりもさらに写実的な風景画を描く画家が現れる。原派の祖となった原在中もその一人である。その在中の作品の中に京都近郊の山並みまでも広く描いた「東山三十六峯図巻」(京都府蔵〈京都文化博物館管理〉)がある。ここでは、その資料性を明らかにしながら、それが描かれた時代における京都近郊の植生景観について考えてみたい。
(a)「東山三十六峯図巻」と原在中について
(i)「東山三十六峯図巻」について
「東山三十六峯図巻」(図23)は縦幅56.7cm、長さ254cmの巻物の図で、1803(享和3)年に原在中が描いたものである。その制作年代や作者については、図の最も左下方に「享和三年癸亥春三月 原在中寫真」と記された款記や落款印(図24)により確認することができる。
〔図の最左方の高い山が洛北岩倉周辺で最も高い瓢箪崩山、図中央よりも少し左手に比叡山、図右手に大文字山がやや高く見える。その大文字山の少し右手に如意ケ嶽がある。〕
その落款の右上にはマツやサクラの多い美しい庭園が描かれ、図の最も右下方には雲林院村などの書き入れも見える。また、図の中央付近には洛北の田園風景が広く描かれている。そして、その先(上方)には東山や北山の景観が細かく描かれている。その山並みの中で、比叡山は図の中央上部にひときわ高く目立っている。図の最左上方には鞍馬方面、その少し右手には大原方面の山並みが描かれている。一方、図の最も右上方(南方)には清水山の南にある阿弥陀ヶ峰と思われる山が描かれ、その後方には醍醐山の文字が見える。それらの山並みの視点は、京都の北西、船岡山の北東約700mの地点と考えられる(詳細後述)。
図中には山名や地名など、多くの書き入れがある。書き入れの多くは金泥により直接図に記されているものであるが、一部は後に別の紙に書いて貼られたものもある。そうした書き入れの中には、後述のように誤った記載も一部見られるが、概ね正確であり、その数がかなり多いことから、本図は単なる風景絵巻ではなく、何らかの特別な意図のもとに描かれたことが推測される。
(ⅱ)原在中について
「東山三十六峯図巻」の作者の原在中については、いくつかのまとまった論考がある25、26。それらによると、原在中は1750(寛延3)年に京都に生れ、1837(天保8)年、88歳27で没した。生家は酒造を業とし、先祖は若狭国小浜と伝えられる。在中が画家となり、それ以後、原家は画業を家業となすようになり、原派として京都画壇の名家の一つとなった。
在中26歳の時、1775(安永4)年版の『平安人物志』には、応挙、若沖、大雅、蕪村、呉春、蕭白などの大家に伍して記されている。また、1782(天明2)年版の『平安人物志』にも、応挙、若沖、蕪村、玉仙、岸駒、蘆雪らとともに列記されている。これらのことから、在中は若くして名をなしていたことがわかる。
図の制作年代がわかる早い例としては、在中41歳のとき、1790(寛政2)年の禁裏造営の際に、狩野派、土佐派の画家や、応挙、源琦、藍雪、岸駒などとともにその障壁画を描いたことが知られている。その後、1796(寛政8)年には、今宮神社の「神馬図」絵馬、1808(文化5)年には西明寺襖絵を描いたりもしている。また、1819(文政2)年には、相国寺方丈に「琴棋書画図」、「群仙図」などの障壁画を描き、その後も仁和寺や聖護院などに数多くの作品を残している。それら寛政期から文化、文政期を中心に多く残された在中の作品には、中国や日本の古画に倣っているものが多い。
そうした図の傾向もあり、松尾勝彦氏は、「在中の画風には応挙的なところ、あるいは円山派風のところは余り認められず、むしろ、伝統的な狩野風が色濃く認められる。」としている。また、同氏は「今日伝えられる多くの大作を残した在中が応挙の弟子であるならば、当然、師弟関係を記した文献が先の二つ以外にも見いだされたり、応挙十哲の一人に数えられたであろう。」などとして、応挙が在中の師ではないと見ている28。
一方、『古画備考』中の千春(高島千春29)の話と、寛政造内裏に伴う在中願書の記述から、在中の師が円山応挙とする説がある。『古画備考』の中で、千春は在中について「応挙門人、所々相勤メ、畫業ノ繁カランコトヲ求メシ人也、応挙歿30後、其門ニ非ズト稱ス・・・(中略)・・・門人帳ヲ見ルニ、在中自筆ニテ、入門ノ名簿アリ」と述べている。また、応挙と関わりが深い大乗寺31に残る円山派の門人名簿には、「原在中」の名も記されている32。また、寛政造内裏に伴う在中願書の記述には、自身の生い立ちなども書かれており、そこには「原在中」と記した右肩のところに「同」と記され、それは前文の書様から「円山主水(応挙)弟子」を意味するとされる。
あるいは、在中子孫の家々などに伝えられてきた説として、在中の絵の師は狩野派の石田幽汀とされるが、石田幽汀は円山応挙の師でもあり、在中は応挙と同門の関係にあったと考えられる。そして、早くから名を成し17歳年長の応挙に対して、在中は応挙に畏敬の念をもって交わっていたことが考えられる。土居次義氏は、そうしたことから「在中の作風の一つの重要なる特色と認められる写実的傾向には応挙の感化が働いてゐると見て大過ないであらう。」としている33。
このように、原在中の師承関係については不明な点もあるが、在中は写生を極めた円山応挙の影響を何らかの形で少なからず受けていた可能性が高い。残された在中の絵には中国や日本の古画に倣っているものが多いとはいえ、ここで対象とする「東山三十六峯図巻」は、以下で述べるように、山地については応挙以上にきわめて写実的な描写を広く確認することができる作品である。そのことからも、在中に応挙の強い影響があった面を感じることができる。在中の作品について、「風景表現としては常識的で、特に斬新な傾向を示しているわけではない。」34といった美術史家の見方もあるが、かつての景観を知る上で、その作品の資料的価値はきわめて大きい。
(b) 方法
きわめて写実的に山地などを描いた原在中の場合も、上記、応挙図の考察の場合と同様、山や谷などの地形描写の分析的考察が中心となる。なお、「東山三十六峯図巻」の場合、市街地の拡大や樹木の繁茂により視点を地上から探すことが難しいため、視点の特定にはカシミール3Dも用いた。同図はかなり広範な場所を描いた図ではあるが、図に描かれた山の形状や山並みの重なりの状況などから、山並みの部分については視点が1つと考えられる35。その視点は京都の北西、船岡山の北東約700mのところで、図では田園風景などが少し俯瞰して描かれていることなどから、建物の上階、地上6mほどの高さから描かれている可能性が高いと考えられる。それは、京都でも2番目に古い山門とされる大徳寺山門の上層階のあたりになる。今日ではその視点からの展望が難しいため、図の視点の南西約700mの舟岡山からの眺めを参考とした。ただ、図の最も右方(南方)については、舟岡山の一視点からは良い眺めを望むことができなかった。
また、この図の考察については、他の絵図類との比較考察も少しおこなった。ある絵図の植生景観に関する資料性を考えるにあたり、同時代の他の絵図類との比較考察が有効なものとなることがある。一般に、過去の植生景観を考察するためにその資料性を検討しようとする絵図は、少なくともそうする価値があると判断されるものであるが、そのようなある絵図の描写が、同時代に同一の場所を描いた他の資料性が高い可能性があると見られる絵図の描写と矛盾が少なければ少ないほど、双方の絵図は互いに高い資料性をもつと考えることができる。その際、両絵図の作者は同じでもよいし異なっていてもよく、また、二つの絵図が描かれた視点がそれぞれ異なることにより、互いの風景が大きく違ったものになっていたとしても、ある同一地域の景観の比較検討が可能であれば、それは問題ではない。むしろそのことにより互いの絵図の資料性をよりはっきりと判断することができる場合も多い。絵図同士の比較考察をおこなう際、比較検討しようとする二つの絵図の制作時期ができるだけ近いことが望ましいことは言うまでもない。
一方、絵図の彩色についての検討もおこなった。上記応挙図の場合も同様であったが、この図などのように絵図が彩色されているものであれば、その彩色を検討することにより、絵図の彩色と植生などとの関係が大きいと考えられる場合がある。絵図によっては、ある色がどのような地表の状態を表しているかを凡例で示している場合もあるが、そうでないことの方が多く、彩色のみを見て直ちに絵図から植生景観を判断することは一般に難しい。しかし、他の方法によっておおよその景観の状態がわかっている段階では、それと彩色との関連を見ることにより、絵図の彩色を植生等の景観を確認してゆく一つの手段とすることができるものと考えられる。たとえば、ある絵図中において、植生があるとすれば全般に低いことが他の方法によって確認できる部分があるような場合、彩色は植生があるかないかを知る大きな手がかりとなることがある。
(c) 「東山三十六峯図巻」の写実性の検討とそれから考えられる江戸後期の植生景観
「東山三十六峯図巻」には、京都の北方から南東にかけての山並みが広く描かれている。ここでは、その部分を5つに分けて図の写実性を検討し、またそれによりわかる江戸時代後期における京都周辺の植生景観について考えてみたい。
(i)貴船、鞍馬から大原西部方面
「東山三十六峯図巻」の最左方にあたる部分(図25上段、図中の長四角は後の説明のためのもの)の左上方には、金泥で記された「鞍馬山」の文字の上に「貴船絶頂」と記された貼り紙がある。また、そのすぐ右下には「鞍馬」と記された貼り紙がある。一方、この部分の右上方には「江文山」、またその少し左手に「小塩山」の書き入れがある。江文山は、今では金比羅山、また小塩山は焼杉山と呼ばれている山である。それらの山々は比較的遠方のものであるが、図の中央から右手には比較的近くの上賀茂神社東方の山並みがやや大きく描かれている。
〔「東山三十六峯図巻」のこの部分には、左方に貴船や鞍馬、また右端近くに江文山の文字が見える。その図の中央付近から右端近くの長方形の枠は、AutoCADによる仮想モデル作成範囲。カシミール3Dによる3D画像は、上図部分に対応する画像で、視点は船岡山の北東約700mの地点で地上6m(図27、29、32も同様)。図の上部には主な山名なども表示されている。一方、船岡山より見える現況は、「東山三十六峯図巻」の視点に比較的近いとはいえ少なからず異なるため、参考として示すものである(図27、29、32も同様)。〕
図25中段の図は、カシミール3Dにより作成した現況地形モデルで〔視点は「東山三十六峯図巻」の視点と思われるところ〕図25上段部分に対応するところである。その上部には、視点から見える主な山名(一部地名を含む)が表示されている。それらの山名と図25上段の図に記された山の位置を比較することにより、「東山三十六峯図巻」では貴船山や鞍馬山の位置が誤認されていることがわかる。鞍馬山は、実際には図25上段の図の中央よりも少し左方の全体的にかなり黒っぽく描かれている比較的なだらかな小さな山である。「東山三十六峯図巻」で鞍馬山と記されているところは、市原の北側にある向山(むかいやま)の北西の山である。
なお、現況地形モデルでは、上賀茂神社東方の山並みの高所部分に「箕ノ裏ヶ岳(箕裏ヶ岳)」の山名が見えるが、その山は上賀茂の北東に位置する岩倉北方の山である。視点からその山頂部が上賀茂の山の先にかすかに見えるため、その山名が現況地形モデルに表示されているが、その山体のほとんどは手前の山に隠れて見ることができない。
上記のように、「東山三十六峯図巻」には山名の記載に一部誤りがあることがわかるが、その山並みの地形はどの程度写実的に描かれているのだろうか。そのことを考えるために、「東山三十六峯図巻」の描写とカシミール3Dによる現況地形モデルを詳しく比較してみたい。その結果、次のようなことがわかる。
「東山三十六峯図巻」の山並みは、全体的に高さが少し強調されて描かれているが、きわめて写実的に山や谷などの地形を描いているところが多く見られる。中でも図25上段の図の中央付近から右手の上賀茂の山並みは、山の輪郭や山襞などが驚くほど写実的に描かれていることがわかる。その背後の大原西部の山並みや天ヶ岳付近は遠方でもあり、「東山三十六峯図巻」では山の輪郭しか描かれていないが、その山の輪郭も概ね写実的に描かれている。ただ、「東山三十六峯図巻」では、江文山(金比羅山)の上部に、わずかにくぼみが見えるのに対し、カシミール3Dによる現況地形モデルでは、その山にくぼみは確認できない。また、「東山三十六峯図巻」では天ヶ岳の右方がわずかしか見えないのに対し、カシミール3Dによる現況地形モデルでは、その付近がより広く見える。
「東山三十六峯図巻」の江文山(金比羅山)の上部に小さなくぼみが見えるのに対し、現況地形モデルではそこにくぼみが確認できないのは、現況地形モデルは5mメッシュ(標高)というかなり詳しい地形データを基にしているとはいえ、人の目には目立って見えることもある細かな地形まで完全に表示できないためである可能性もある。また、「東山三十六峯図巻」では天ヶ岳の右方が現況地形モデルよりもわずかしか見えないのは、わずかな描写の狂いのためかもしれないが、その下方の上賀茂の山の森林により隠れて見えにくくなっているためであることも考えられる。その付近は上賀茂の山並みの中でも、とくに黒っぽく描かれているところであり、「東山三十六峯図巻」の別の部分の描写の検討(後述)も含めると、樹高が比較的高い森林が広くあったところと考えられる。
図25上段の図の中央から左方の部分については、描かれている山並みの輪郭については概ね写実的ではあるが、山襞の形などが現況地形モデルのそれと少し異なるところがある。その一つは、図の中央よりも少し左方にかなり黒っぽく描かれている鞍馬山付近である。現況地形モデルでは、そのあたりにも細かな地形が見えるが、「東山三十六峯図巻」のその部分には、そのような地形は見られない。それは、その付近がかなり黒っぽく描かれていることと関係があり、後述のように、そうした描写部分は比較的高木の森林があったところであり、そのために細かな地形が見えなくなっていたと考えられる。
また、その鞍馬山の左方、現況地形モデルでは「向山」などの表示が見える山並み部分は、「東山三十六峯図巻」では山襞が全般的に薄く描かれていて、現況地形モデルとやや比較しにくいとはいえ、図に描かれた山襞の形状が現況地形モデルと一致しないところが少し見られる。また、現況地形モデルでは鞍馬山の最下方に低い円弧状の山が見えるが、「東山三十六峯図巻」では、その山が省略されているか、その背後の山と一体化して描かれているように見える。このような省略や、実際とは異なる描写がなされている可能性のある部分は、後述の「東山三十六峯図巻」の部分も含め、同図ではかなり珍しい。それは、実際に省略などがなされたりしたのかもしれないが、光の当たり方によって、山襞の見え方は大きく変わることもあるため、目に写る状態が描かれただけで、省略や実際とは異なる描写がなされたのではなかったのかもしれない。
いずれにしても、図25上段の図の中央から左方の部分にはそのようなところも少しあるが、大部分はやや薄い筆致ながら、実際の細かな地形までも写実的に描かれているように見える。上記の鞍馬山と同様、かなり黒っぽい描写で、比較的大きい樹木があったと見られるところも一部あるが、遠方から細かな山襞まで見えるところが多かったと考えられるため、そのあたりの山地には大きな樹木がないところが多かった可能性が高いように思われる。
以上のように、ここで検討した「東山三十六峯図巻」の部分には、小さな山や谷などが省略されている可能性がある部分もあるが、とくに図の右方の上賀茂の山の部分は、現況地形モデルと変わることなく細かな山襞やわずかな谷状の地形まできわめて写実的に描かれている。そのように山の地形が細かく描かれるためには、その付近は高木の木々で覆われた現在のような状況とは大きく異なり、かなり低い草木が広く茂るようなところか、あるいはそうした草木も少ないか、まったくないようなところであったと考えられる。参考に示した現況写真(図25下段)は、視点が少なからず異なるとはいえ、樹高10m以上の木々が山全体を覆う状況では、山の細かな襞や谷の地形を見ることはできない。また、図中、上賀茂などの山には、薄い赤茶系の色が塗られているところが広く見られるところがあるが、そのようなところは、後に詳しく述べるように、とくに草木が乏しかったことが考えられる。一方、天ヶ岳の手前の山の部分など、黒っぽく描かれている部分には、(やや)高い樹木の森林があった可能性がある。
ここで検討した「東山三十六峯図巻」の部分では、上賀茂の山の下方の平地部に高木の樹木の並木が描かれているが、山地部分にも山上に1箇所だけやや目立つ樹木がある。その樹高を推定するために、AutoCADにより、10mメッシュ(標高)の地形データを基にして作成した現況地形モデルの該当箇所に高さ10mの指標樹木モデルを挿入したのが図26である(遠方の山並みは省略し、その稜線部を点線で示した)。
〔図の中央円内には樹高10mの指標樹木モデルが見える〕
その視点は「東山三十六峯図巻」と同じところで、指標樹木モデルは図の中央に示した円の中心部にある。このモデルの範囲は、図25上段の図に長四角で示した部分であり、両図の比較から「東山三十六峯図巻」に見えるそのやや目立つ樹木の樹高はせいぜい10m程度の高さと考えられる。また、その樹木の右手山上に列状に薄く描かれた樹木の樹高は高さ5m前後までのものが多いと考えられる。
(ⅱ)大原西部から比叡山北方方面
図27上段の「東山三十六峯図巻」の部分は図25上段部分の最右方のあたりから右手の部分で、その図の左方の一部は図25上段部分と重なっている(図中の長四角は後の説明のためのもの)。この部分の左方には、遠方に小塩山(焼杉山)や江文山(金比羅山)といった大原西部の山が小さく描かれている。また、最右上方には比叡山の頂上に近いところが見える。図の中央付近には、山地に文字が記されているため見にくいが、「八瀬」の書き入れがあり、その少し左上には山の上方に「大原」の書き入れが見られる。その他にも、山地や山の上方、また手前の農地に10ほどの書き入れがある。それらの書き入れのうち「大原」は、それが記されている直下の山並みの先(奥)を意味していると思われ問題はないが、「八瀬」の書き入れがあるあたりは岩倉東部の山地で、その記入には問題がある。このように、ここでも場所の認識に一部間違いが見られる。
〔この「東山三十六峯図巻」の右方部分は、図29の左方部分と重なるところで、江文山などの文字が見える。一方、図の右上方に比叡山の山頂付近が見える。その図の中央付近の長方形の枠は、AutoCADによる仮想モデル作成範囲。〕
ここで描かれている比較的近景の山地部分は、上賀茂や松ヶ崎の山並みであり、その後方に岩倉東部の山並みや比叡山の北側のあたりが主に描かれている。そのうち、図27上段の図中の長四角内には岩倉東部の山並みもかなり見える。その長四角内左方に高く見える山は、今は瓢箪崩山(ひょうたんくずれやま)と呼ばれている山で、岩倉周辺では標高が最も高い山である。
図27中段の図は、図25と同様にカシミール3Dにより作成した現況地形モデルで、図27上段部分にほぼ対応するところである。そこには、上記の瓢箪崩山など、現在の主な山名や地名が示されている。この図で最も右手(東方)に記された山名は「西山」で、その左に「横高山」、またその左方が「水井山」となっている。西山は松ヶ崎裏の西方の山、また横高山と水井山は比叡山北方にやや目立つ2つの山である。図27上段の「東山三十六峯図巻」の山並みの地形がどの程度写実的に描かれているか、このカシミール3Dによる現況地形モデルと詳しく比較することにより、次のようなことがわかる。
この「東山三十六峯図巻」の山並みの部分も全体的に高さが少し強調されて描かれているが、山や谷などの地形は概して写実的に描かれているところが多い。とくに図27上段の図の中央付近から左手、上賀茂東方の比較的近景の山並みは、山の輪郭などかなり写実的に描かれているところが多い。江文山(金比羅山)の右下方に見える部分については、両図に若干違いがあるようにも見えるが、それは現況地形モデルでは、そのあたりは日光がよく当たらずだいぶ暗く表現されているのに対し、「東山三十六峯図巻」では、そのあたりに日光がよく当たって見えていることによるためと思われる。
また、「東山三十六峯図巻」の岩倉東部の山の稜線形状はかなり写実的ではあるが、水平方向に少し圧縮されて描かれている。また、少し遠方部分については見えにくいこともあってか、細かな山の襞や谷の地形が描かれていないところもある。それについては、比叡山北方部分も同様である。なお、ここで切り取った「東山三十六峯図巻」の部分の最右方については、現況地形モデルとうまく対比できないところがある。その付近の図の写実性の検討は、この後の図29の考察の中で行いたい。
そのように一部比較検討が難しいところなどがあるとはいえ、図27上段の「東山三十六峯図巻」の部分も、概してかなり写実的に描かれていると考えられる。そのうち、図の左方の上賀茂の山の部分は、図25上段の部分の続きで、とくに写実的に描かれているところであり、図25上段の図の場合と同様、高木の木々で覆われた現況とは大きく異なり細かな山の襞や谷などがよく見えることなどから、その付近はかなり低い草木が広く茂るようなところか、あるいはそうした草木も少ないようなところであったと考えられる。後述の色合いについての検討も含めて考えると、草木の乏しいところも珍しくなかった可能性が高い。ただ、江文山(金比羅山)の右下のあたりに見える山地部分には、稜線付近がかなり黒く見えるところもあり、そうしたところでは、樹高はさほど高くはないものの、樹木が比較的密に茂っていたことが考えられる。また、図27上段の図の長四角の中心よりも少し左下方の稜線上には、やや目立った木立が見える。
その木立の樹高を推定するために、図25の場合と同様、AutoCADにより作成した現況地形モデルの該当箇所に高さ10mの指標樹木モデルを挿入したのが図28である(遠方の山並みは省略し、その稜線部を点線で示した)。その視点は「東山三十六峯図巻」と同じところで、指標樹木モデルは図中に示した円の中心部にある。このモデルの範囲は、図27上段の図に長四角で示した部分であり、両図の比較から「東山三十六峯図巻」に見えるそのやや目立つ木立の樹高は高いものは10m前後の高さがあったと考えられる。
〔図の中央よりやや左下方の円内には樹高10mの指標樹木モデルが見える〕
図27上段の図の右方の比較的近景の山の部分は松ヶ崎の裏山で、そこには若干写実的でないと思われる部分も見られるとはいえ、概して写実的であり、やはり細かな山の襞や谷までも描かれていることから、図の左方の山地と似た植生が広がっていた可能性が高いように思われる。
その図の中央付近に見える岩倉東部の山地は、水平方向に少し圧縮された形で描かれているが、現況地形モデルとの比較から、稜線の形状は現況地形をよく反映した形となっている。また、山の襞や谷も薄くではあるが、現況地形モデルに見られるものが描かれているところが少なくない。山の稜線上に(やや)大きな樹木があると、稜線付近の形が大きく変わり目立つことになるが、この岩倉東部の山地付近ではそのようなことはない。また、山腹に細かな地形も見えることから、その山地部分には大きな木々はなかった可能性が高い。なお、緑色系の彩色からは、なんらかの植生があったところが多いと思われる。
比叡山の北側部分も、稜線の形状や、山腹に見える山襞などの状況から、岩倉東部の山地と同じような植生のところが多かったものと考えられる。ただ、稜線付近にやや広く黒っぽく描かれている部分があるが、そこには高木の樹木が多く見られた可能性が高いと思われる。
(ⅲ) 比叡山北方から瓜生山方面
図29上段の「東山三十六峯図巻」の部分は図27上段部分の最右方のあたりから右手の部分で、その図の左方の一部は図27上段部分と重なっている(図中の長四角は後の説明のためのもの)。この部分の左方には比叡山が大きく描かれ、また最も右方には瓜生山のあたりが描かれている。図の左方下部には主に松ヶ崎の山並みが描かれているが、図の最左方、その松ヶ崎の低い山並みの背後には岩倉の南東から上高野のあたりの山並みも少し見えている。図には「比叡山」をはじめ、現在の瓜生山のところに「元将軍地蔵」、また山地や農地のところに金泥による20近い書き入れが見られる。
〔この「東山三十六峯図巻」の左方部分は、図27の右方部分重なるところで、比叡山が大きく描かれている。一方、図の右端近くには元将軍地蔵の文字が見える。そこは今、瓜生山と呼ばれている山の最上部付近である。その図の中央付近から右端近くの長方形の枠は、AutoCADによる仮想モデル作成範囲。〕
図29中段の図は、図25、図27と同様にカシミール3Dにより作成した現況地形モデルで、図29上段部分にほぼ対応するところである。その上部には、視点から見える主な山名が表示されている。山名には、「比叡山」と「瓜生山」に加え、松ヶ崎の「東山」がある。「東山三十六峯図巻」の山並みの地形がどの程度写実的に描かれているかを考えるために、ここでも「東山三十六峯図巻」の描写とカシミール3Dによる現況地形モデルを詳しく比較してみたい。その結果、次のようなことがわかる。
この部分の「東山三十六峯図巻」の山並みも、全体的に高さが少し強調されて描かれている。また、「東山三十六峯図巻」の描写と現況地形モデルとで大きく異なるのは、「東山三十六峯図巻」のこの部分では、上高野の山並みがわずかとはいえしっかりと見えるのに対し、現況地形モデルでは、その山並みの部分がほとんど見えないことがある。上高野の山並みの現況地形モデルは図27中段の図により確認でき、それは「東山三十六峯図巻」に見える上高野の山の稜線や山襞の形状とよく一致している。このことから、その上高野の山並みの部分は、「東山三十六峯図巻」では実際よりも少し右方(南方)へ移動して描かれていることがわかる。また、同図は比叡山頂上付近から右方(南方)瓜生山のあたりにかけて、少し横方向に圧縮して描かれている。
このように、「東山三十六峯図巻」のこの部分についても、高さが少し強調されたり、図が少し圧縮されたり、あるいは山地の一部が実際の位置よりも少し場所を変えて描かれていたりしているということはあるが、図はほとんどの部分において、山や谷などの地形がきわめて写実的に細かく描かれている。そのことから、図25や図27の場合と同様、この「東山三十六峯図巻」の部分でも、山地の大部分は植生がかなり低いか、植生もないようなところもあったものと考えられる。それは、瓜生山の上に大きく目立つ数本のマツと見られる木々からも考えられる。
図30は、それらの木々の樹高を推定するために、図25や図27の場合と同様な方法により、AutoCADで作成したモデルの該当箇所に高さ30mの指標樹木モデルを挿入したものである。その視点は「東山三十六峯図巻」と同じところで、指標樹木モデルは図中に示した円の中心部にある。このモデルの範囲は、図29上段の図に長四角で示した部分であり、両図の比較から「東山三十六峯図巻」に見えるその大きく目立つ木々の樹高は、図では見かけの関係で高さが強調されやすいとはいえ、20m以上の高さがあった可能性が高い。このように高い樹木は、京都近郊の山地では珍しかったものと考えられる。なお、図29上段の図で比叡山の左方(北方)の稜線の付近に黒っぽく描かれている部分は、図27についての説明でも述べたように、そこには高木の樹木がまとまって多くあったところと思われる。その部分は、現在スギの大木が多く見られるところであり、スギの植林地と考えられる。
〔図の右端に近い円内には樹高30mの指標樹木モデルが見える〕
一方、「東山三十六峯図巻」では元将軍地蔵と書かれた瓜生山の左方(北方)の山の稜線付近を中心に、薄い赤茶系の色で山地が塗られているところが多い。その付近は、遅くとも江戸初期の頃からハゲ山が広く見られたところで、その薄い赤茶系の色は、ハゲ山の部分を示しているものと考えられる(図25、27、32、33、34についても同様)。参考までに、図31は京都の役所方で作成したと思われる18世紀初頭の大絵図の一部で、比叡山から大文字山付近である。この図ではハゲ山の部分は白く描かれており、「東山三十六峯図巻」が描かれた頃よりも100年ほど前は、ハゲ山の範囲がより広かった可能性を示している。
〔比叡山は左上方。その右手の山地上部には、図の右端の大文字山近くまで、白色系の色を使い長くハゲ山が描かれている。〕
(ⅳ) 瓜生山から南禅寺裏山方面
図32上段の「東山三十六峯図巻」の部分は図29上段部分の最右方のあたりから右手の部分で、その図の左方の一部は図29上段部分と重なっている。この部分の左方は瓜生山付近で大文字山のあたりが中央にやや大きく描かれている。その大文字山の少し右下方には吉田山がやや小さく見える。また、図の最も右のやや下方には「南禅寺」の書き入れが見える。その書き入れの少し左上方には、「大日山」と記された白い紙が貼られている。山地部に金泥で記された書き入れには読みにくいものも多いが、この図の部分には「銀閣寺」、「黒谷」、「永観堂」など、白い紙に記されたものも含め全部で20ほどの書き入れが見られる。なお、そのように多くの書き入れがあるにもかかわらず、「大文字山」の書き入れはない。大文字山が含まれる「如意嶽(如意ヶ嶽)」や銀閣寺のすぐ裏手、大の字下方の「月待山」の書き入れはあるが、「大文字山」の書き入れがないのは、当時「大文字山」の名称は、まだ広く使われていなかったためと考えられる36。
〔「東山三十六峯図巻」のこの左方部分は、図29の右方部分とも重なるところで、図の左端近くに元将軍地蔵の文字が見える。一方、図の中央付近に大文字山がやや高く見える。また、図の右端近くには大日山の文字が見える。〕
図32中段の図は、図25、図27、図29と同様カシミール3Dにより作成した現況地形モデルで、図32上段部分にほぼ対応するところである。その上部には、視点から見える主な山名がいくつか表示されている。山名には、瓜生山のほかに、「大文字山」、「吉田山」、そして山科東部の「音羽山」がある。「東山三十六峯図巻」の山並みの地形がどの程度写実的に描かれているかを考えるために、ここでも「東山三十六峯図巻」の描写とカシミール3Dによる現況地形モデルを詳しく比較してみたい。その結果、次のようなことがわかる。
この部分の「東山三十六峯図巻」の山並みも、これまで見てきた部分と同様、全体的に高さが少し強調されて描かれている。また、「東山三十六峯図巻」は、瓜生山と大文字山の間が横方向にだいぶ圧縮された形で描かれていることがわかる。それは、かなり広範囲の山並みを1巻の図に収めるための工夫と考えられる。一方、大文字山の左下方には、わずかながら省略されて描かれていると思われる部分が見られる。そのように、図は高さが少し強調されていたり横方向にだいぶ圧縮されていたり、あるいはわずかに省略されていると思われるところもあるとはいえ、この「東山三十六峯図巻」の部分についても、山の稜線や山襞や谷の形状は概してかなり写実的に描かれていることがわかる。
そのことから、図25や図27や図29の場合と同様、この「東山三十六峯図巻」の部分においても、山地の大部分は植生がかなり低いか、植生もないようなところもあったものと考えられる。大文字山の右方(南方)、大日山のあたりにかけては、図27で確認したハゲ山を示す赤茶系の色で彩色されているところがとくに広く見られる。そのあたりは、明治期においても、ハゲ山が比較的広く残っていたところであり37、「東山三十六峯図巻」も、そのようなハゲ山部分を写実的に彩色した可能性が高いと考えられる。その色が見えるところは、瓜生山から大文字山の間などにも所々見られる。また吉田山の右方(南方)にも、その色が薄く塗られている。これまで見てきた「東山三十六峯図巻」のきわめて高度な写実性を考えると、そのような彩色のところは、実際に草木が乏しく、遠方から地肌が見えるようなところであったものと考えられる。
一方、「東山三十六峯図巻」のこの部分(図32上段)にも、大文字山の上部など、山地に黒っぽく見えるところが所々に見られる。そのような部分を詳しく見ると、無数ともいえるごく短い線、あるいは小さな点が描かれていることがわかる(図33上段はそのあたりの拡大図)。
〔下図円内に樹高10mの指標樹木モデル、その右上に、それを少し拡大し吉田山のマツと並べている〕
そのような描写からも、山地に黒っぽく見えるところは、木々が多い樹林地で比較的高い樹木が多かったところと考えられる。ただ、「東山三十六峯図巻」の描写と現況地形モデルとの比較などから、そのような森林の樹高はさほど高くないところが多かったと思われる。ちなみに、図33(上段)では、大文字山の右下の吉田山には、マツと思われるやや目立つ木が1本描かれていることがよくわかるが、吉田山は瓜生山よりも図の視点から約1km近いにもかかわらず、瓜生山に描かれた樹木の高さ38の半分にも満たない高さで描かれていることから、その樹木の高さは10m前後であったと思われる。そして、その木の左方(北方)に黒っぽく描かれている吉田山の樹林の樹高は、その木の半分程度のものが多かったことが推察される。
なお、吉田山のマツについては、AutoCADで作成したモデルの該当箇所に高さ10mの指標樹木モデルを置くことにより、その樹高についての検討もおこなってみた(図33下段)。その視点は「東山三十六峯図巻」と同じところで、指標樹木モデルは図中に示した円の中心部にある。ただ、その樹木モデルがだいぶ小さく見えることもあり、山などの高さが少し強調されている「東山三十六峯図巻」と同程度にその樹高を強調するとともに、明るさやコントラストも調整しながら少し拡大し、それと同程度に拡大した吉田山のマツを並べてAutoCADのモデル右上に青線で囲って示した。この検討からも、当時吉田山で少し目立っていた1本のマツは、高くても10mを少し超えるくらいの高さであったものと思われる。
「東山三十六峯図巻」のこの図32の部分を詳しく見ると、瓜生山のあたりから大文字山にかけては、上述の吉田山の木のように、やや目立つ樹木が単木で、あるいはややまとまって描かれているところが所々にある。図の視点からそれらの樹木への距離は、瓜生山への距離と大きく変わらないことから、瓜生山の樹木との比較から、それらの木々は10m前後から十数m程度の高さのものが多かったものと考えられる。
(ⅴ) 大日山から阿弥陀ヶ峰方面
図34上段の「東山三十六峯図巻」の部分は図32上段部分の最右方のあたりから右手の部分で、その図巻の最も右側の部分である。その図の左方の一部は図32上段部分と重なっている。この図の最左方は大日山付近であり、図の最右方には阿弥陀ヶ峰と見られる山が描かれている。また、その図の後方には山科の山並みが描かれ、そこには「音羽山」や「醍醐山」などの書き入れが見られる。一方、大日山の右下の「南禅寺」と記されたところより少し右手のあたりから右の部分には、東山中心部の山並みが大きく描かれ、そこには「清水山」や「霊山」などと書かれた白い紙が貼られている。そのような白い紙に書いて貼られているものも含め、この図の部分には全部で20余りの書き入れが見られる。
〔「東山三十六峯図巻」のこの左方部分は、図32の右方部分とも重なるところで、大日山の文字が見える。一方、図の右端に近い下方には八坂の塔が描かれている。また、その少し右手には大仏の文字が見える。〕
図34下段の図は、図25、図27、図29、図32と同様にカシミール3Dにより作成した現況地形モデルで、図34上段部分にほぼ対応するところである。その上部には、視点から見える主な山名が11表示されている。山名には、左方(北方)から「音羽山」、「千頭岳」、「醍醐山」、「阿弥陀ヶ峰」などの名が見える。それらの多くは山科東部や、それよりもさらに遠方の山である。「東山三十六峯図巻」の山並みの地形がどの程度写実的に描かれているかを考えるために、ここでも「東山三十六峯図巻」の描写とカシミール3Dによる現況地形モデルを詳しく比較してみたい。その結果、次のようなことがわかる。
この部分の「東山三十六峯図巻」の山並みも、これまで見てきた部分と同様、全体的に高さが少し強調されて描かれている。また、図が全体的に横方向に圧縮された形となっており、現況地形モデルで音羽山と記された山のあたりから高塚山と記された山のあたりは、とくにその圧縮度が大きい。
一方、現況地形モデルに見える音羽山の形や位置は、「東山三十六峯図巻」の音羽山付近の山の形や位置と大きく異なる。また、「東山三十六峯図巻」では、音羽山の左方(北方)に「陀羅谷」と記した白い紙が貼られているが、陀羅谷は音羽山よりも南方に位置する。その貼り紙については、剥がれたものが間違って別の場所に貼られた可能性も考えられるとはいえ、これらのことから、「東山三十六峯図巻」のこの部分では、山科東部の山は正しく認識されていなかったと考えられる。また、山が正しく認識されていないだけでなく、「東山三十六峯図巻」では珍しく山の稜線の形状などがやや不正確に描かれているところがある。具体的には、現況地形モデルで醍醐山と記されている山のあたりから右方(南方)、清水山の左方背後にかけての山科東部山地の稜線の形状は、「東山三十六峯図巻」のその部分の形状とはだいぶ異なっている。また、阿弥陀ヶ峰のすぐ左手に描かれた山の形状も、実際とは少し異なる。
このように、「東山三十六峯図巻」のこの部分では、山の認識が正しくなく、一部に山の稜線の形状が写実的でないと思われるところもあるが、大部分はかなり写実的に描かれていると考えられる。ただ、この「東山三十六峯図巻」の部分は、これまで見てきたところとはだいぶ異なるところがある。それは図の中心付近に広く描かれている東山中央部のあたりの山並みで、左方は永観堂や南禅寺のすぐ裏手の山の部分からその右方の知恩院裏山、清水山を経て阿弥陀ヶ峰のあたりである。現況地形モデルでは、そのあたりの山地に細かな地形が見られるところが多いが、「東山三十六峯図巻」のその部分では、そうした細かな地形を見ることができない。それは、そのあたりの山が広く森林で覆われているため、細かな地形がそれによって隠されているためと考えられる。それは、その付近は全面的に無数ともいえる短線あるいは点が描かれ、黒っぽくなって見えるところが多く、また緑色系の色が塗られているところが多いことからも考えられるところである。なお、その珍しく森林が広く覆う山地部分は、南禅寺や知恩院や清水寺などの寺社の山であり、一般の里山とは異なるところである。
一方、それらの山並みの後方、山科東部の山並みなどには、現況地形モデルに見える細かな地形が「東山三十六峯図巻」でも見えるところが多い。そのため、そうした山地部の植生はかなり低いところが多かったと考えられる。また、「東山三十六峯図巻」で「陀羅谷」と記され貼られた紙の下方には、ハゲ山を示す赤茶系の比較的濃い色が塗られた山がある。「東山三十六峯図巻」では、そこには金泥で「粟田口」と記されており、京の七口の一つであった粟田口北側の山の部分と考えられる。そのあたりは、明治の頃にもハゲ山が見られたところであり39、「東山三十六峯図巻」のその部分の彩色もかなり写実的であると考えられる。
【むすび】
以上、「東山三十六峯図巻」の描写を現況地形モデルなどと比較し、その写実性を明らかにすることを中心にして、その図が描かれた頃の京都周辺の植生景観を考えてみた。その結果、同図にはごく一部に不正確と思われる描写があったりもするが、そのほとんどの部分はきわめて写実的に描かれていると考えられる。そして、それによって江戸後期、19世紀初頭における京都周辺の植生景観を詳しく知ることができる。
すなわち、「東山三十六峯図巻」からわかる江戸後期における京都周辺の里山には、大きな木々は珍しく、かなり低い草木の植生のところが多く見られた。また、草木がまったく、あるいはほとんどないハゲ山も珍しくなかった。高木も含むと思われるまとまった森林は、知恩院裏山や清水山などの東山中央部や比叡山北方の一部などに見られたが、それらは寺社などが所有するとくべつな森林で、一般の里山とは異なるところがほとんどであったと思われる。
そうした200年以上前の山地の景観は、当時の社会状況や人々の暮らしを反映したものであった。すなわち、当時の京都ではマツの落ち葉までも貴重な資源として使われるなど、里山から供給される資源に強く依存していた。京都の町や周辺の村々を支えるには、京都周辺の里山だけの資源ではかなり不足があり、たとえば、遠く九州や四国からもかなりの量の炭などが輸入されたりもしていた。そのような状況であったため、里山の草木は強度に利用され、大きな木々はほとんどなく、草木のないハゲ山さえも珍しくない状態になっていたと考えられる。
そのようなかつての京都周辺の里山の状態については、他の絵図類の考察などからも明らかになってきたところではあるが、ここで考察した「東山三十六峯図巻」は、京都周辺の山々をかなり広範囲に、またきわめて写実的に描いたものであり、かつての植生景観を考えるためのとくべつな資料(史料)と言うことができる。
(2) 「嵐山図六曲屏風」からの考察
原在中は日本の古画に倣った作品や中国風の作品も多く描いたが、上記「東山三十六峯図巻」のように自然の景観もきわめて写実的に描いた作品も描き、今日まで残されているものも少なくない。ここではそうした作品の一つ、「嵐山図六曲屏風」(敦賀市立博物館蔵)を取り上げ、その写実性を明らかにしながら、それが描かれた時代における嵐山付近の山地の植生景観について考えてみたい。
(a) 「嵐山図六曲屏風」について
「嵐山図六曲屏風」は一雙、絹本着色の作品で、その大きさは縦55.5cm、横350cmであり、左隻に"古稀翁原在中画"、右隻に"七十翁原在中画"の落款がある40。その落款から、この作品の制作年代は江戸時代後期の1819(文政2)年と考えられる。
その屏風図は、渡月橋の北端に近いところから、嵐山を中心にその周辺の山地や川の様子などを詳細に描いている。左隻の左端に近いところには、渡月橋の先に法輪寺の伽藍が見える。また、その右やや下方には、サクラやスギとみられる樹木にだいぶ隠れながら櫟谷社の鳥居と社殿の一部が小さく描かれている。中州の先の橋を渡り、右手に少し行ったところである。その右手、図の中程から右方の川沿いを中心に多くのサクラが描かれ、またその上方には櫟谷社の裏山のあたりとは大きく異なり、高木と見られるマツが山をびっしりと覆う様子が描かれている。
一方、それに続く右隻でも図の中程まで川沿いを中心に多くのサクラが描かれ、またその上方には高木のマツがたいへん多く描かれている。ただ、図の中程上部の山のあたりは、樹木の描写は少なく、その左方、あるいは下方部分とは大きく異なっている。
なお、右隻の右端に近いところの遠方に描かれている山は、その山容から愛宕山と思われ、またその左手には嵐山地区東方にある亀山と思われる山が描かれている。それらの山々は、その図の左方に描かれている嵐山のあたりが見える視線では見ることができず、視線を大きく変えないと見ることができない山々である。そのため、この図は、上記の円山応挙による図の考察でもよく見られたように、複数の図をうまく合成することにより制作されていることがわかる。
(b) 方法
ここでも、上記、応挙図の考察や「東山三十六峯図巻」の考察で用いた方法で「嵐山図六曲屏風」についての考察をおこなってゆく。
なお、ここでも図の視点を求めるために、現地での調査とともにカシミール3Dも用いた。一方、ここでは現況地形を示すのにカシミール3Dによる画像を省略し、5mメッシュ(標高)地形データを基にしたAutoCADによる地形モデルのみとした。
(c) 「嵐山図六曲屏風」の写実性の検討とそれから考えられる江戸後期の嵐山付近の山地の植生景観
「嵐山図六曲屏風」には、それが描かれた当時も京都近郊で重要な名所であった嵐山のあたりが詳細に描かれている。その図の写実性を検討することにより、江戸時代後期における嵐山付近の山地の植生景観について考えてみたい。
その図の視点は、現地調査とカシミール3Dを用いた調査により、渡月橋北端に近いところと考えられる。
(i)「嵐山図六曲屏風」左隻部分について
「嵐山図六曲屏風」左隻(図35上段)には、法輪寺や櫟谷社の裏山からその右手(北西)に嵐山山頂を含む嵐山の南東部分が描かれている。その図の山地の植生描写は図の中程から左と右とでは大きく異なっている。すなわち、その左方、櫟谷社の裏山などには樹木の描写がほとんど見られないのに対し、図の中程から右手の山地はほとんど全面的に樹木で覆われた描写となっている。その下方、川に近いところには多くのサクラの合間にマツもだいぶ描かれているが、それらのマツはサクラなどとの比較から、樹高がかなり高いものが多いように見える。
そうした「嵐山図六曲屏風」左隻部分の写実性を考えるため、図の視点から見た現況地形モデル(図35中段)や現況(図35下段)とその図の描写を比較してみたい。その現況地形モデルは5mメッシュ(標高)の地形データを基にAutoCADで作成し、後述の説明のために指標樹木モデルを少し置いたものである。また、現況写真(2025年3月21日撮影)は図の視点に近い渡月橋北端から撮ったものである。
まず在中の図と現況地形モデルを比較することにより、図にはその山なみの稜線の形状の一部など、わずかに地形が正確に描かれていないと思われるところもあるが、そのほとんどの部分はきわめて写実的に描かれていることがわかる。
また、図の中程から左方、櫟谷社の裏山など樹木の描写がほとんど見られないところに、現況地形モデル以上に細かな谷状の地形が多く見えるのは、5mメッシュの現況地形では表せない細かな地形が描かれているためと思われ、そこになんらかの植生があったとすれば、それはかなり低いものであったと考えられる。なお、そのあたりが高木の木々で覆われている現況(図35下段、視点は図と若干異なる)では谷状の細かな地形などまったく見ることができない。
在中の図では、よく見るとそのあたりの山地には細かな縦向きの短線が無数といえるほど多く描かれているところが多いことから、そのあたりには柴地41が広がるところが多かった可能性が高いと考えられる。現況地形モデルにはその山地の上部(赤円内)と下部に高さ10mの指標樹木モデルを置き、やや右手川の近くに高さ30mの指標樹木モデルも1つ置いているが、それらの指標樹木モデルとの比較でも、その柴地と思われる植生はかなり低く、せいぜい2m前後の高さであったと思われる。一方、櫟谷社の少し右方川沿いに描かれているマツ並木のマツは、現況地形モデルでそのあたりに置いた指標樹木モデルとの比較から、高さが10m前後かそれを少し超える程度のものであった可能性が高いと思われる。それに対し、その右手、図の右側の川沿いにはその左方のマツと同じくらいの高さかと思われるサクラが多く見られ、そのサクラの合間には高さ20mを超えると思われるマツが所々に描かれている。
その図の右側上部の山地の木々の高さについてはよく分からないが、現況地形モデルで高さ30mの指標樹木モデルの上方に明確に見える山地の輪郭が在中の図ではまったく見えないことなどから、そのあたり一帯はそれなりに高い木々で実際に覆われていた可能性が高いと思われる。
(ⅱ) 「嵐山図六曲屏風」右隻部分について
「嵐山図六曲屏風」右隻(図36上段)には、上記その左隻の右手(北西)の嵐山の部分が主に描かれている。
先に記したように、その右端に近いところには、その嵐山の視線からは見えない遠方の愛宕山と嵐山地区東方にある亀山が描かれていると考えられ、ここでは嵐山の部分についてのみ考えたい。
この「嵐山図六曲屏風」右隻に描かれている嵐山部分についても、その比較的近くの山地部分とその先の山地部分とでは、描かれている植生がだいぶ異なっている。すなわち、比較的近い山地部分はそのほとんどが木々で覆われ、川に近いところではサクラや高木のマツが多く描かれているのに対し、その先の山地部分では一部に高木らしきマツがまとまって描かれているところもあるが、樹木がまったく描かれていないところが多く、また樹木が描かれているところも、それはまばらに描かれている。
そうした「嵐山図六曲屏風」右隻の嵐山部分の写実性を考えるため、図の視点から見た現況地形モデル(図36中段)や現況(図36下段)とその図の描写を比較してみたい。その現況地形モデルは5mメッシュ(標高)の地形データを基にAutoCADで作成し、後述の説明のために高さ30mの指標樹木モデルを4本、高さ10mのものを1本置いたものである。そのうち、高さ10mのものは図のもっとも上部に置いたもので、それらの位置はややわかりにくいため、すべて円で示した。一方、現況写真(2025年3月21日撮影)は図の視点に近い渡月橋北端付近から撮ったものである。
この右隻の嵐山部分は霞で隠されているところが左隻以上に多いが、左隻同様、現況地形モデルとの比較から、そのほとんどの部分はきわめて写実的に描かれていると思われる。そして、在中の図と現況地形モデルや現況との比較から、在中の図で木々が多く描かれている部分には実際にそうした木々が多くあったこと、また樹木モデルとの比較から川に近いところには高さ20m以上のものが多く、中には高さ30m以上のものもあった可能性も考えられる。
少し先の山なみの部分については高木の木々が山を覆っている現状では見ることができない地形が在中の図でははっきりと描かれていることなどから、そのあたりにはやはり図に描かれているように高木の木々が少なかったものと思われる。そのやや下方に少しまとまって描かれている木々や山地中腹の稜線付近に描かれている木々はマツと思われるが、それらの樹高は指標樹木モデルとの比較から20m前後かそれ以上のものが少なくなかったと考えられる。一方、その山地上部に点在する木々はさほど高くなく、10m前後までの高さのものが多かったと思われる。
(ⅲ) 同時代の他作品の描写との比較
嵐山は古くから京都近郊のとくべつな名所であったため、そこを描いた絵図類が比較的多く残されている。「嵐山図六曲屏風」が描かれたのと近い時代に嵐山のあたりを描いた図として、原在中による「嵐山図」や「山州嵐山真景図」(いずれも敦賀市立博物館蔵)、また田中訥言による「嵐山図」(敦賀市立博物館蔵)、あるいは少し年代はさかのぼるが、円山応挙筆の「京名所図屏風(左隻・嵐山図)」(1789〈寛政1〉年、MIHO MUSEUM蔵)などがある。
それらの図の嵐山の描写範囲は同じではないが、共通に描かれている部分を見ると、「嵐山図六曲屏風」のそれと概してよく似たものとなっている。ただ、円山応挙の図については制作年代が30年ほどさかのぼることもあってか、嵐山の植生描写が「嵐山図六曲屏風」と少し異なるところも見られる。
(3) 「天橋立図」からの考察
原在中は京都の町に近いところだけではなく、たとえば「富士三保松原図」(1822〈文政5〉年、静岡県立美術館蔵)や「伊勢湾真景図」(1820〈文政3〉年、京都国立博物館蔵)のように京都から遠く離れたところの風景も詳細に描いた作品を残している。また、京都府内では日本三景の一つ、天橋立のあたりを描いた「天橋立図」(敦賀市立博物館蔵、図37)も残している。
その制作年代は定かではないが、それは在中が上記「東山三十六峯図巻」や「嵐山図六曲屏風」などの詳細な風景画をいくつも描いていた在中晩年の江戸後期の作品と思われる。「天橋立図」としては雪舟筆のものなどもあるが、ここでは、その原在中筆「天橋立図」から、江戸後期における天橋立付近の植生景観を考えてみたい。
(a) 原在中筆「天橋立図」について
原在中による「天橋立図」は、上記のように在中晩年の江戸後期の作品と思われるもので、日本三景のひとつとして名高い天橋立とともに、その先(東方)に見える栗田(くんだ)半島のあたりなどもかなり詳しく描いている。その大きさは縦48.8cm、横86cmで、落款には"與謝海天橋立冩眞景"と、上記「東山三十六峯図巻」などと同様、真景を描いたものと記されている。図の上部には加茂季鷹による"くしきかも あやしきかもや 和堂都海の 浪上なる あまの橋立"との賛文が記されている。
この図は大内峠からの眺望42(写真9)との説もあるようであるが、その峠からは図のもっとも上遠方に描かれている大浦半島はまったく見ることができない。また、その手前の栗田半島と天橋立との見え方なども図とは大きく異なる。また、栗田半島先端近くの見え方が図のように見える視点からも、大浦半島を見ることができない。大浦半島もその地形を反映した描写となっており、その図は実際の大浦半島の景観を見て描かれていると考えられることなどから、この図は複数の視点からの下図をもとに制作されていると考えられる。
(b) 方法
ここでも、上記の応挙図、「東山三十六峯図巻」、「嵐山図六曲屏風」の考察で用いた方法で考察をおこなう。
なお、ここでは図の視点を求めるために、カシミール3Dを主に用いた。また、ここでも上記「嵐山図六曲屏風」の考察と同様、現況地形を示すのにカシミール3Dによる画像を省略し、5mメッシュ(標高)地形データを基にしたAutoCADによる地形モデルのみとした。
(c) 「天橋立図」の写実性の検討とそれから考えられる栗田半島と天橋立付近の植生景観
(i) 栗田半島の植生景観
上記のように、この「天橋立図」は複数の視点から描かれた下図をもとに制作されていると考えられるもので、栗田半島北東部(図37ではその半島の左方部、図38上段図の手前陸地部)はカシミール3Dによる検討から、現在の天橋立ケーブルカー傘松駅から西方約300mの小高いところ、標高160mあまりの視点からの下図をもとに描かれている可能性が高い。もう少し成相寺方向に登ったところに視点があった可能性もあるが、その栗田半島部分の見え方はさほど変わらない。図では、その半島部山地には明確に樹木とわかる描写は見られないが、半島の最先端近くに見える山の最上部のあたりには樹木の可能性もある小さな突起部分が3箇所見られる。
図38下段の図は、在中の図の視点と考えられるところから見た在中図部分の現況地形モデルで、5mメッシュ(標高)の地形データを基にAutoCADで作成したものである。そのモデルには、説明のために高さ30mの指標樹木モデルを2本(赤円内)、高さ10mのものを1本(黄円内)置いている。
両図の比較から、この「天橋立図」には若干省略などされているところもあるが、地形は概ねかなり写実的に描かれており、5mメッシュデータによる地形表現では現すこともできない小さな谷状などの地形も多く描かれていることから、その半島の植生高は全般にかなり低かったと考えられる。また、植生自体乏しかったところもあったことも考えられる。在中の図では、山地の稜線部分などに薄茶色の彩色が見られるところもだいぶあるが、そのようなところは植生が乏しかった可能性がある。
なお、現況地形モデルに置いた指標樹木モデルとの比較から、半島の最先端近くに見える山の最上部の3箇所の小さな突起部分が樹木であれば、それはその描写からマツではない広葉樹で、その高さは10m前後であったものと思われる。また、在中図の右方に見える山の頂上付近もやや濃い色で薄く塗られているところがあるが、もしそれが樹木の表現であれば、その木々の高さはせいぜい5m程度であったと思われる。また、在中図では右手に小さな湾状のところが見え、その左方から湾の奥に水面がつながって描かれているが、もし、その湾の手前に見える陸地の先端部に5m程度の高さの木々があっても、その小さな湾付近の水面は左右につながらず分かれることになる。またその右方に、もし10m前後の高さの木々が連なっていたとしたら、その湾の水面はかなり見えなくなってしまう。こうしたことからも、在中の図に描かれている栗田半島の植生はかなり低いところが多かったと考えられる。
(ⅱ) 天橋立付近の植生景観
在中筆「天橋立図」の中心は、丹後半島東南端にある阿蘇海をその外側の海と約3.6kmにわたって長く隔てる湾口砂州、天橋立である。
その天橋立が描かれた地点は、上記のように大内峠との説もあるようであるが、在中の図にはその視点からは見えない知恩寺のあたりも描かれている。そのため、大内峠からの下図ももとになっているかもしれないが、在中図には天橋立を描いた別の視点があると考えられる。
その別の視点については、カシミール3Dによる検討でも特定が難しいが、在中図のように天橋立の左方が少し近く見え、また知恩寺のあたりも見える視点として、かつて丹後国分寺があったところの裏山のあたりが考えられる。
図39の上段は在中図の天橋立の右半分ほどのところとその先の山地などが描かれているところである。図39の中段は、丹後国分寺跡の裏山(標高102m)から見た在中図部分と思われるところの現況地形モデルで、5mメッシュ(標高)の地形データを基にAutoCADで作成したものである(遠方の地形は省略)。そのモデルには、高さ30mの指標樹木モデルを4本置いている(円内)。
また、図39の下段は、天橋立の展望所の一つである益軒観から天橋立やその先の山地などを写したものである(2019年8月18日撮影)。江戸時代の儒学者・貝原益軒が天橋立を眺めたとされるその場所は、在中図の視点より天橋立寄りで、ケーブルカー傘松駅の西方約600mのところにある。そのため、天橋立が在中図よりも近くに見え、また天橋立をより斜めから見る形になるが、天橋立やその先の山地の近年の様子は分かるので、近況として参考までに並べたものである。
図39の上段の在中図の部分をその下の指標樹木モデルを置いた現況地形モデルや写真と比べることなどにより、次のようなことが言える。
在中図のやや右手には天橋立がだいぶ膨らんでいるところがあるが、そこは天橋立神社があるところで、その付近には高木のマツと見られる樹木が多く描かれている。そのマツと見られる樹木の高さは指標樹木モデルとの比較から、高いものは30m前後の高さがあった可能性も考えられる。その他の天橋立の部分には、その神社付近にあったほど高いものはなく、樹高は様々であったと見られるが、高いものでも20mあまり、低いものは10m以下のものも少なくなかったのではないかと思われる。
一方、在中図の天橋立の先に描かれている山地部分の樹木には、指標樹木モデルとの比較から高さが20m以上あったものも少なくなかったのではないかと思われるが、さほど高くないものも少なからずあったと思われる。また、その山地部分には5mメッシュの地形データを基にしたモデルでも現せないような小さな谷状の地形がいくつも見られることから、低い植生のところがそのあたりの大部分を占めていたと考えられる。
なお、現状(近況)でも、天橋立神社付近の木々はその少し手前の天橋立の部分などと比べても高木の木々が多いなど、天橋立の樹木も場所によって樹高など一様ではない。ただ、在中図ではほとんどの木々の一本一本がマツとわかる描写となっているのに対し、現状ではマツではない樹種が増えているところもあったり、樹木が密集しているところが多かったりするためか、在中図の時代とは遠方からの眺めが変わってきていると思われる。また、天橋立の先の山地部分は、近年はその大部分がマツではない高木の木々や竹林で覆われていて、在中がその図を描いた頃とは植生が大きく変わっている。図40は図39上段の図と下段の写真の右方部分をそれぞれ拡大したものである。
謝辞
本稿の執筆、公表に際しては、「淀川両岸図卷」からの考察については原美術館、応挙の眼鏡絵からの考察については薮本莊五郎氏(故人)、「東山三十六峯図巻」からの考察については京都府京都文化博物館と慶応大学、また「嵐山図六曲屏風」と「天橋立図」からの考察については敦賀市立博物館にそれぞれの図の利用掲載をご快諾いただいた。ここに記してそのご厚意に対し深く謝意と敬意を表したい。
文献一覧等
- 1 水本邦彦(2022)土砂留め奉行 吉川弘文館
- 2 高原光(2015)京都府における最終間氷期以降の植生史 京都府レッドデータブック2015
第3巻(地形・地質・自然生態系編) 京都府 299-307
URL:https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/rs/2015rs01.html - 3 小椋純一(2015)絵図類の考察を中心にみた江戸末期から室町後期における京都近郊の植生景観 京都府レッドデータブック 2015 第3巻
(地形・地質・自然生態系編) 京都府 308-330
URL:https://www.pref.kyoto.jp/kankyo/rdb/eco/rs/2015rs02.html - 4 山本健吉(1978)山水画から真景図へ 芸術新潮 29 (7) p90-93
- 5 横尾拓真(2017)中林竹溪筆 琵琶湖真景図 國華 122 (11) 34-38
- 6 佐藤康宏(2022)若冲の世紀 : 十八世紀日本絵画史研究 東京大学出版会
- 7 佐々木丞平(1981)応挙写生画集 講談社
- 8 上記註7
- 9 改訂新版 世界大百科事(2009、平凡社)中の河野元昭による記述。
- 10 中川邦昭(1991)カメラ・ギャラリー 美術出版社
- 11 黒田源次(1931)円山応挙の眼鏡絵について 松本亦太郎博士記念論文集 心理学及芸術の研究 改造社 1827-1865
- 12 外山卯三郎(1936)応挙洋風画集 芸術学研究会
- 13 上記註7
- 14 森銑三(1934)圓山應擧傳箚記 美術研究第36号 10-19からの引用。
- 15 上記註7からの引用。
- 16 「以一品渡数品、以数品為一品、画之作意也」の意味を、佐々木丞平氏は、「一つの物を色々な角度から写しとり、その数種の写生を以て一つの物の写生と考えるべきである。」としている。
- 17 カシミール3Dはフリーソフトであるが、スーパー地形セット(ライセンス:1年分税込¥1680〈2025年3月時点〉)を組み込むことにより国土地理院の基盤地図情報をベースにした5mメッシュの高密度地形データが使用できる。
- 18 オートデスク株式会社による汎用のCADソフトウェア(1982)最初のバージョンが発売され、建築・土木・機械分野をはじめとして、汎用CADとして多く利用されている。
- 19 国土地理院の基盤地図情報ダウンロードサービスサイト(下記URL)からダウンロードできる。 http://fgd.gsi.go.jp/download/(2025年3月30日確認)
- 20 GeoCoachSEは、平面直角座標系の座標で記録されているデジタルマップの3Dビューアで、国土地理院の基盤地図情報などをもとに3D表示することができる。また、その3DデータをDXFなどの形式で保存することなどができる。
- 21 DXF形式のファイルはAutoCADのほか、比較的多くのCADソフトで読み込むことができる。元は、AutoCADの異なるバージョン間のデータ互換を目的でつくられたもの。
- 22 小椋純一(1990)「華洛一覧図」の考察を中心にみた文化年間における京都周辺山地の埴生景観 造園雑誌 53 (5) 37-42
- 23 平等院の南東700mあまりのところにある標高106mの山。
- 24 「三十六峯洛外景観図」との別名もある。
- 25 土居次義(1944)原在中の画業 日本近世絵畫攷 283-290
- 26 松尾勝彦(1983)原在中研究 美術史 Vol.32 No.2 121-127
- 27 数え年齢(生まれた時を1歳とし、正月を迎えるたびに年齢を一つ重ねる)。下記の年齢も同様。
- 28 上記註26
- 29 江戸時代後期の土佐派の画家。
- 30 1795(寛政7)年歿。
- 31 兵庫県美方郡香美町にある高野山真言宗の寺院で、745(天平17)年に行元によって開創されたとされる。円山応挙と関わりが深い寺院で、応挙とその一門の画家たちの襖絵など多く見ることができる。
- 32 愛知県美術館(2013)中日新聞社編 円山応挙展 : 江戸時代絵画 : 真の実力者 円山応挙展実行委員会
- 33 上記註25
- 34 成瀬不二雄(1998)日本絵画の風景表現 原始から幕末まで 中央公論美術出版
- 35 この図の左下方に描かれた庭園については、山並みとは異なる視点から描いたものを加えている可能性がある。図をよりきれいなものに仕上げたりするために、絵画ではそうした手法が用いられることは珍しくない。
- 36 「東山三十六峯図巻」と制作年代が比較的近い「華洛一覧図」(1808<文化5>年)には、珍しく大文字山の書き入れが見られるが、その山名は当時の文献にもほとんど出てこない。
- 37 小椋純一(1992)絵図から読み解く人と景観の歴史 雄山閣出版
- 38 図-29の考察から、瓜生山の山上には20m以上と思われる高さのマツと思われる樹木があったと考えられるが、図の描写や京都近郊で見られる古木のマツの樹高などから、それは30mを超えない高さであったと思われる。
- 39 小椋純一(1996)植生からよむ日本人のくらし 雄山閣出版
- 40 敦賀市立博物館編(2001)京都画壇原派の展開 特別展図録 敦賀市立博物館
- 41 柴地の木々は主に燃料として使われ、その高さは灌木ともいえる低いものが中心であった。
- 42 筆者不明(2010)敦賀市立博物館誌上ギャラリー/31 げんでんふれあい福井 No.37 11