はじめに
江戸時代、淀川・大和川水系山間部の土砂流出を抑えるために、大名の家臣が担当郡内の現場を定期的に廻り、村々が実施した工事の状態を点検・管理する大掛かりな砂防の仕組みがあった。全体を統括する上級役所としては京都と大坂の町奉行所が充てられていた。
この制度が始まったのは5代将軍の徳川綱吉の治世下、貞享元年(1684)である。「徳川の平和」を迎えた17世紀、全国どこでもそうだったといえるが、この水系においても、山間部にまで進展する開発・開墾事業と表裏一体の関係で、土砂災害、河川水害が増化し、川ざらえや堤普請、砂防工事が喫緊の課題となっていた。本制度はこうした中で着手された幕府主導の広域土木行政の一つである。山城国では宇治川、木津川流域を中心的対象域にして、相楽郡=津藩、綴喜・久世・宇治・紀伊郡=淀藩、乙訓郡(および葛野郡の一部)=高槻藩の割り当てとなった。江戸後期になると丹波国桑田郡・船井郡も対象郡に入り、こちらは京都町奉行所の与力衆が直々に巡回した。
本研究では、この制度に関わる諸史料・絵図類から、災害の様子や工事の在り様、制度が抱えた課題などについて観察する。ちなみに、「砂防」という用語は明治期の造語で、江戸時代においては、砂防工事や砂防用の工作物は「土砂留め」ないしは「砂留め」と呼ばれており、巡回する武士の役職名は「土砂留め奉行」あるいは「砂留め奉行」だった。
第1章 草山とはげ山
第1節 はげ山と草山の景観
土砂留め制度というユニークな仕組みをもって対峙しなければならなかった江戸時代前期の山々谷々はどんな様子だったか。本章では、村絵図、山絵図などを手掛かりにして、土砂留めを必要とした山間部の様子を見てみたい。
源を伊賀国に発し、山城国南部を北流して淀川の源流となる木津川の東岸流域で、制度開始前後の村絵図・山絵図を数点見つけることができた。本節ではこれらの絵図によって、当時の山々の景観を観察することにしよう。川上から川下へと辿ってみる。
① 大平尾・小平尾村絵図(『山城町史』本文編)
図1-1は、土砂留め制度が始まった同じ年、貞享元年(1684)に描かれた相楽郡大平尾・小平尾村の村絵図である。
まさに本制度が直面した景観を活写した図といえる。藤堂藩伊賀城代の記録に、「土砂改めのため、木津川の絵図を提出させて川筋を調べた」とあるから、あるいは本図はそうした提出絵図の控えかもしれない(『永保記事略』同年4月13日条)。
図は手前の木津川付近に立って、東部に広がる村域を眺める構図である。右(南)から左(北)へ流れる木津川縁には「国役堤」が敷設されている。京都町奉行・京都代官が管轄する公儀御普請の堤防である。それぞれ複数集落から構成される大平尾・小平尾の二村は、西流して木津川に合流する「なるこ川(鳴子川)」と「北山川(不動川)」に挟まれた区域に立地していた。
本図から東部の山や山川の様子を観察してみよう。山内は集落に接した口山とその奥側の奥山(一部、平尾村・綺田村との立会い山)からなる。口山一帯は草山で、その中に新開と見られる田が散在している。林の生える山は、山裾の大平尾集落の南に領主片桐主膳正(小泉藩)の「林山」があるのみである。
*草山 茅や薄、芝、笹などの草類の生える山。「茅山」「芝山」などと植生で記することもある。
*柴山 柴山は、萩、馬酔木、山ツツジ、捩木、黒文字などの低木の山。草山のなかに含めることもある。
奥山は「はげ山」と「草山」の入り混じる景観である。「はげ山」の書き込みが4ヵ所、「草山」の書き込みも4ヵ所ある。はげ山とは草木のない裸地の山相である。山と言えば雑木林や杉・桧の繁る山林風景をイメージする現代の私たちにとっては、「はげ山」「草山」ともに常識とかけ離れた景観である。
奥山の東端に山頂部が掘削された「砥石山」も遠望される。砥石原料の採掘であるから、土質は砂岩か粘板岩と推測される。なお、奥山の一部には年貢山(禁裏御料)に指定された箇所もあった。
山間部から流れ出る山川に目を向けると、南側の鳴子川、北側の北山川とも「砂川」である。砂川というから日頃はほとんど涸れ川で、しかし大雨の時にはここを一気に土砂が流れ下り、川床や下流域に堆積する。鳴子川は平野部への出口付近で、田地から川床までの高さが8間、下流部分でも5間から7間に及ぶ。土砂が流路に堆積し、高い堤を必要とする典型的な天井川である。北山川も田地より7間半から10間ほど高い。
*北山川(不動川) 明治8年(1875)お雇い外国人ヨハネス・デレーケが、砂防工の試験施工を行った河川として著名。
草山・はげ山からなる山々、川床が9~18メートルにも上昇した2本の砂川、そして国役堤に囲まれた土砂堆積の著しい木津川。17世紀後期、土砂留め制度が直面した時期の大平尾・小平尾村付近はこんな景観だった。
②-1 5ヵ村新開図(城陽市歴史民俗資料館1998)
大平尾・小平尾村から7キロメートル余り下流域、現在の城陽市青谷・富野地区を訪れてみよう。この地域の景観は、制度開始の25年程以前、万治2年(1659)頃に生じた市野辺村(市辺)と富野ほか3ヵ村との山争い関係絵図から観察できる(図1-2)。
図は同じく西方(木津川側)から東方を望む構図である。在所(集落)は大和街道を挟む平野部に点在し、その東方に各村の村山がある。この奥側に5ヵ村共有山が広がっているのだが、それはここからは見えない。
本図から窺える一番の景観的特色は、集落付近から山手に広がりつつある新田・新畑である。「富野村新開」「観音堂村新開」「中村新開」「今度、市野辺村仕り候開き」など、至る所で山に向かい開発が進んでいる。「徳川の平和」を迎えた17世紀は全国どこでも新田開発、耕地拡大の時代だったが、ここでもその動向は顕著だった。新開の奥に「松林」「草山」が続く山相に鑑みれば、本図は、各村が競うように村山の松林や草山を切り拓き、開墾・開拓に邁進していた江戸初期の自然改造の投影図といってよいだろう。
②-2 5ヵ村立会い山山論関係絵図((『城陽市史』4、付図。掲載は割愛)
図1-2の東方には東西およそ50町(約5.5キロメートル)、南北およそ30町(約3.3 キロメートル)からなる市辺村など5ヵ村の共有山が広がっていた。大絵図のため掲載は割愛したが、享保3年(1718)に描かれた「5ヵ村立会い山山論関係絵図」で一望できる。山地の半分程度ははげ山を表す茶色で着色されており、残りの半分程度が樹木生育を示す緑色地帯となっている。緑色地帯の随所に「松茸出生」などの貼り紙があることから、こちらはアカ松が群生していたとみられる。
このはげ山・アカ松山一帯を水源とする木津川支流の青谷川・中山川・長谷川は、いずれも河道すべてが白く塗りつぶされた砂川である。中村・市辺村明細帳によれば「いずれも常水ござなき」涸れ川であるが、降雨時にははげ山から土砂を流す土砂川となる(『城陽市史』4)。その白色は木津川の広い河原にも及んでおり、本流にも大量の土砂が堆積した様子が描かれている。
③上林代官所村々絵図(部分)(『城陽市史』1、城陽市歴史民俗資料館1998)
最後に、図1-2の北隣、現在の城陽市寺田付近から宇治市西部一帯に目を向けてみよう。幕府代官上林氏の支配領域を描いた図1-3は、他領部分が空白になっているが、山間部の様子はよくわかる。
(地名などを示した英字の注釈は略す。)
掲載割愛箇所に「寛文9(1669)酉の年より開き申し候。来たる子の年(寛文12)より定納130石」とあることから、寛文10年(1670)ないし翌11年の作画と特定できる。
ここもまた山々は「はげ山」と「草山」中心の世界だった。「立相はけ山」「白川領はけ山」「寺田領草山」「久世・寺田立相草山」「白川領草山」「宇治領草山」等など。村山、共有山の別なく両様の様態が見られる。そして、白川領から流れ出る山川(白川)も「砂出る川(砂川)」である。他方、集落近くの口山には樹木も見られ、「小松有り」「2尺廻りより下松有り」の書き込みもある。「草山」「はげ山」を主流とし、里近くに小松山がある景観といえよう。
以上、制度開始前後の木津川東岸山々の様子を絵図から観察した。17世紀後半から18世紀初めの頃の山地景観を要約すれば、次のようにまとめられる。
在所に接した近くの山々は、新開田畑と草山・松林が混在し、他方、入会形態の多い奥側の山々は、はげ山・草山・松山がエリアごとに優占する状態だった。とくに草山とはげ山の多いことが特徴的である。そして、これらの山々から流れ下る山川の多くは天井川化した砂川で、降雨時には大量の土砂を下流に流していた。
第2節 土砂流出の諸要因
絵図の景観を念頭に置きながら、関係文書を読んで土砂流出の要因を整理してみよう。
土砂流出の要因には自然的理由と人為的理由があった。
図1-1の両平尾村東部山々について記した元禄15年(1702)の文書が、状況をわかりやすく語っている。「奥山」内の新田開発計画取り消しを訴えた北隣綺田村の訴状である(『山城町史』史料編)。内容は次の3点にまとめられる。
①山城国相楽郡綺田村と平尾村の立会い山は(中略)、全体の7分がはげ山で、3分が草山である。藤堂和泉守様土砂留め御奉行様の指示で普請をしているが、山城第一の大はげ山のため土砂が止まらず、はげ山は鎌止めを仰せ付けられている。
②両村2千石の百姓は、残りわずか3分の草山で「焼き柴」「牛馬の飼料」「田地の肥やし」を刈り取り渡世を送っている。和束村の清兵衛と重蔵による草山「そぶ谷」の新田計画は迷惑である。
③「そぶ谷」の流れが綺田村の天神川と合流する所に、右の大はげ山がある。年々の土砂留め普請にもかかわらず土砂流出がおびただしい。天神川は田地より7、8間も高い砂川になっている。右の3分の草山を穿ち新田を作れば、土砂流出は一層激化し、田地は永荒れとなり、村中の作毛は押し流されて亡所になってしまう。
はげ山から盛んに土砂が流れ出ていること、残りの草山で燃料の柴や飼葉、草肥を取得していること、綺田村の天神川もまた天井川であること、新田開発により土砂災害がより大きくなること。訴状はこのようなことを述べている。
まず、①にあるように、この時期立会い山の7割は、当時すでにはげ山と化しており、土砂流出・天井川化の元凶として、山内立ち入り禁止(鎌止め)状態だった。
地質学の研究を参照すると、綺田・平尾付近の山々は、もともと風化作用に弱い花崗岩や片麻岩からなっており、またこの地域に隣接した城陽、宇治付近(図1-2、1-3)は、「大阪層群」と呼ばれる砂礫などが堆積した地層で、いずれも土砂を流出しやすい自然的条件にあった。右史料と同時期に記された木津川・宇治川沿岸村々の文書にも、これと類似の描写が見られる(『山城町史』史料編)。
余国と違い、山城国の山々は一式砂山である。大雨大水になると洲留めなどを押流して、山々岑(みね)谷は崩れ、また雨ごとに土砂が崩れ流れ出す。川床は次第に高くなり、堤内の本田が川より低くなって内水が川筋へ出ず、堤内に溜まってしまう。
いつごろからこの地の山々がこのように裸地化し荒廃状態になったのか、またその原因は何によるものか、これらについては16世紀以前の史料を欠くためによくはわからない。しかし、少なくとも土砂留め制度開始期の時点に立ってみると、当時の人々にとって、はげ山状態とそこからの土砂流出は、すでに所与の自然条件・自然的環境としてあったといえるだろう。
第3節 新田開発
先の綺田村の訴状は、「草山を穿ち新田を作れば、土砂流出は一層激化し、田地は永荒れとなり、村中の作毛は押し流されて亡所になってしまう」とも記していた。17世紀に急速に進行した新田開発は、自然的環境に加重して土砂流出を急増させる人為的要素だった。
新田開発の様子を活写した図1-2に登場する市辺村が、隣村中村の開発に反対する訴状を淀土砂留め奉行に提出していた(元禄4年(1691)、『城陽市史』4)。
隣郷中村・奈島村と市辺村の立会い山は、3ヵ村で相談して土砂留めをしています。にも関わらず中村が我儘に山を開発したので、洪水の節には中山川の川筋へ土砂が流れ出ます。小水でも同様です。近年、中村は護岸のために堤を川中にまで張り出して拵えました。そのため川床が高くなり、川幅もことのほか狭くなって、洪水の節は市辺側の堤が危うくなり迷惑しています。もし堤が切れれば市辺村は亡所になってしまいます。
中村の山開発で土砂が流れ出し、市辺村に被害が及ぶと訴えている。崩壊しやすい土壌に加えて、新田開発という人為が土砂災害を増加させるのである。しかし図1-2に見られるように、市辺村自身も他方では積極的に開発を進める主体だったから、開発と災害はワンセットで進行したことになる。開発拡大と災害の増加は盾の両面の形で規模を拡大・増幅させていた。
第4節 草山と土砂流出
絵図から眺めた山々のなかに、はげ山と並んでたくさんの草山が見られたが、この草山もまた土砂災害の元凶の一つだった。草山からの土砂流出を語る史料をあげてみよう。
・城州菱田村はたくさんの山川が流入する在所です。川上は北稲八間・下狛・菱田3ヵ村立会いの柴草山で、風雨の時分には土砂が流出します。公儀より毎年杭・枷工事の人夫賃を下付され工事していますが、たびたび堤防が決壊し、本田へ土砂が入り荒地となり、次第に村が衰微してきています。(延宝5年(1677)頃。平尾村・綺田村の木津川対岸に位置する相楽郡菱田村の訴え。『精華町史』史料編2)
・木幡村領山内では土砂が流出しないように、立木、草、柴などを一切伐採しないと申し合わせ土砂留めを行っています。しかし、相手の五ヶ庄山は草山なので年々土砂が流れ出して川筋が埋まり、木幡村の用水井溝や土砂留めの柵、山林などまで押し流し、難義しています。(元文4年(1739)頃。山城国宇治郡木幡村の訴え。『宇治市史』5)
土砂流出は草山からも生じていた。
ところで、この草山は、じつは草や芝が勝手に生え出している自然の姿ではなく、草刈りや山焼きなどにより森林化への遷移が抑えられている人為の産物である。日本の気候では、草地は放置すれば数年足らずで森林への移行が始まるが、それが森林にならずに草山や柴山状態のままに保たれているのは、人間が働きかけて遷移を抑えているからである(岩城1971)。
なぜ、そうした草山・柴山が必要だったのか。先の綺田村訴状の②がその理由を端的に記していた。両村の百姓たちにとって草山は、「焼き柴・牛馬の飼料・田地の肥やしを刈り取る」ために必須の山である、と。焼き柴は日々の生活に必要な燃料源であり、牛馬は当時の農耕・運搬に不可欠の家畜だった。牛馬の糞尿は草・藁とブレンドして厩肥にもなった。
そして厩肥も含む「田畑の肥やし」の主原料こそ草・柴であった。刈り取ったそのままを刈敷として田畑に敷き込む、あるいは積み重ねて腐らせ堆肥にするなど、魚肥(金肥)以前の農業生産活動に占める草柴の役割は大きく、その確保のためには田畑面積の数倍から十倍にも及ぶ草山が必要だった(水本2003)。他地方の事例だが、美作国の津山藩領では、立ち木があっては芝草が育たず肥やしに差支えがあるとして、延宝2年(1674)から2年の間に百姓たちは数百年来の大木・小木を一時に伐り払い、はげ山・木樹なしの山にしてしまったという報告もある(「美作一国鏡」『岡山県史』27)。立ち木のある山々は、新田畑に改造されるだけでなく、肥料・飼料・燃料源として草山・柴山へと作り変えられていた。
草山の広がりについて、河内国を対象にした興味深いデータがある。正保年間(1644~48)、3代将軍家光の時代に作られた「郷帳」(村々の石高の取調べ帳)に書かれた山記事である。帳簿作成に際して「生え山・芝山のある所は書き上げよ」との指示があったため、各村の山相が記録されたのである(『枚方市史資料』8)。ごく大まかな記述であり、かつ「はげ山」は調査外のためその広がりはわからないが、各村の草・柴山と木山の割合は知ることができる。表1-1に示した。面積比ではなく村数比ではあるが、草柴系の山々が木山系を凌駕している様子を見て取れる。
草山は、当時の生産・生活のために不可欠の空間として広く作り出された人為の状態だった。そして新田開発と同様に、それがまた土砂流出の大きな要因ともなっていたのである。
第5節 樹根の掘り取り
この時期の土砂流出の人為的要因の一つとして、樹根の掘り取り(刈杭掘り)やワラビ・薬草掘りが挙げられることも多い。早くは、山地荒廃を憂えた熊沢蕃山が樹根掘りの弊害を指摘していた。
山々の草木を伐り尽し、土砂の絡み・保ちなきゆえに、一雨一雨に川中に土砂流れ入りて、川床高く川口埋もれ候也。(中略)今は草木を伐り尽すのみならず、刈杭まで掘り申し候。切杭掘りたる山は、なお以て土砂多く川中に流れ入り候。
(「集義外書」宝永7年、1710)
樹根掘りをこの時期の土砂流出の主要因に挙げたのは、民俗学・地理学者の千葉徳爾氏である。氏は江戸時代初頭から急増した農民の夜業が灯火を必要としたとし、そのため横行した「灯火用樹根の掘り取り」が土砂流出の原因だったと論じた(千葉1956)。灯火用樹根とは、肥松、マツノジン、アカシ、ヒデなどと呼ばれる松柏科の油の多い根のことであるが、その採取のために山々が掘り荒らされ、土砂災害に結果したとしたのである。
その後、この論点は近世史家の塚本学氏によって深められ、灯火用松根に加えて、食用のワラビ根や薬種としての草の根・小灌木の採取も盛んだったことが明らかになった(塚本1979)。
絵図上で歩いた木津川沿岸山間部に即していえば、たとえば正保4年(1647)、平尾村の南隣の村々の山論史料にも「かつくい」文言が登場する(『山城町史』史料編)。ここでも刈杭掘りは田地荒廃の要因となっていた。
瓶原村は、この方の山内(神童寺・椿井・北河原・狛・林)に新道を作って砥石を掘り柴を刈り盗むだけでなく、「かつくい」まで掘り取り田地を荒らすので迷惑している。
ただし、「かつくいまで」との表現が示すように、樹根の掘り取りはここでは付随的な記述である。千葉、塚本氏が強調するように、樹根や薬草掘りなどの人為が土砂流出の要因の一つだったことは間違いないが、その影響の程度については今後とも調査・検討が必要である。
木津川流域をフィールドにして、山絵図や関係文書から制度導入前後の時代の山々や山川の様子を観察した。崩壊しやすい地質といった自然的条件に加えて、17世紀、新田開発や草山化・草山維持、あるいは砥石・樹根掘りなど、山間部に対する人間の活発な働きかけによって山地荒廃が進み、土砂流出量が急速に増加していた。
土砂留め制度は、こうした事態・局面に対処するべく創出された新しい人為の仕組みだった。
第2章 土砂留め制度
第1節 大坂町奉行所記録から
江戸時代後期、文化5年(1808)の頃、大坂町奉行所の河川関係業務についてまとめた覚書が何種類か作られた。そのうちの一つ「川筋大意」の中に、「土砂留めの事」と題して、土砂留め制度成立時の経緯や仕組みについて簡潔に記した項目がある。
一、山城・大和・河内・摂津・近江の御料・私領川筋の山方土砂留めについて、貞享元年(1684)3月に初めて仰せ出された。大名衆へ郡分けをもって仰せ付けられ、京都町奉行の支配下に置かれた。ただし、摂・河両国については元禄2年(1689)に大坂町奉行支配とされ、大名衆4人へ命じられた。大名衆は土砂留め役人を差し廻し、百姓に普請を申し付けている。毎年右の役人は巡回のたびに奉行所へ報告に来る。変わったことがあれば窺いを立てるので、町奉行が吟味を遂げ指図をしている。
*御料・私領 御料は幕府直轄領(天領)、私領はそれ以外の大名・旗本・寺社などの領地を指す。
すなわち、この制度は貞享元年に山城など5ヵ国山方からの土砂流出防止を目的として始まった。郡を単位にして大名衆に受け持たせ、京都町奉行所を支配役所とした。その後、元禄2年に摂津・河内両国は大坂町奉行所管轄に移行した、とする。
同書はさらに続けて、次のように記す。
一、元禄2年に大坂町奉行支配になってから享保7年(1722)までの35年の間に、(摂・河の土砂流出は)総高にしておよそ6分通り止まったように見える。土砂留め普請は百姓が農業の隙に、杭・しからみ(柵)・植え付けなどをして、たえず普請をするという方式である。
制度の導入により大坂町奉行所管内ではかなりの成果があがった、また工事は百姓たちが農業の合間に行う方式だとしている。なお、類書「川筋御用覚書」には、「土砂留め山方普請は、御料・私領の百姓ども自普請仰せ付けられ候」とあり、工事は村の事業として、百姓たちが自力で行う「自普請」の位置付けだと明確に記されている。
第2節 制度開始の通達
貞享元年(1684)、制度開始の幕府通達は、幕府の法令書『御触書寛保集成』や藩の諸記録、あるいは村々の御触れ留め帳など色々な所に書き留められている。まず3月に老中から、ついで8月に老中と勘定頭(勘定奉行)から発信された。ここでは、後年、膳所藩で土砂留め奉行を勤めた高橋家に伝来した記録によって確認しておきたい(「土砂留め前々より仰せ出さる御書付写し」高橋正孝家文書)。
*高橋正孝家文書 天保期に膳所藩土砂留め奉行を勤めた高橋正直関係の記録を含む。以下、同文書については『新修大津市史』編さん収集写真史料(大津市歴史博物館蔵)を利用した。
三月の老中触れは次のように命じている。
山城、大和、河内、摂津、近江、御料・私領川筋の山々木草の根、連々掘り取り候につき、風雨の時分川筋へ土砂流れ出し水行滞り候あいだ、自今以後、木草の根掘り取り候義、堅く停止たるべく候。
山間部での木や草の根掘り取りが土砂流出を招き河川水行の妨げになっているとして、山城など5ヵ国の全領主の川筋山々を対象に、木草の根の掘り取りを禁止した。そして、以下これに続けて、川筋にある山畑や河原にある新旧の田畑は廃棄して、その跡へ木苗・竹木・葭・萱・芝を植え付けること、また、川端に新規の築き出しを作ることや山中での新規焼畑・切畑は禁止、としたうえで、その筋々へ奉行を派遣し、違反者は取調べのうえ処罰せよと厳命した。
これは相当に思い切った施策である。年貢を課す耕作田畑でも土砂流出箇所ならば廃棄せよというのである。膳所藩はこの通達を3月15日に京都町奉行の井上志摩守経由で受け取った。
この3月令では、関係箇所への奉行の派遣については抽象的な表現に留まっていたが、5ヵ月後の8月になり11大名が奉行派遣大名に指名され、担当区域や業務の詳細が示された。新制度の開始は正確にはここから始まるといってよい。担当大名の1人に指名された膳所藩本多氏は、老中阿部豊後守と勘定頭の大岡備前守から8月13日に直接書き付けを受け取った。阿部豊後守からは次のような指示だった。
淀川・大和川へ落ち合う川上の山々の開き畑・山畑は停止して、向後は林にするように(将軍が)仰せ付けられた。そこで、領内または近辺の御料・私領に1年に2度ずつ家来を派遣し、油断なく林に仕立てるよう申し付けられよ。山割り(担当区域割り)や奉行の業務については御勘定頭に伺いを立てよ。
勘定頭の大岡備前守からは、担当郡名と郡内の関係河川名を記したリストと、細かい指示書が渡された。リスト冒頭の津藩と最後の膳所藩部分を例示してみる。
一、山城 相楽郡
大和 添上、山辺、広瀬、式上、十市、式下郡 藤堂和泉守
山城木津川筋は、和泉守領分伊賀国境より城州相楽郡石垣村まで、川筋道法7里ほど。
和泉川・山田川そのほか小川これあり。いずれも木津川へ流入。和州添上郡は奈良川(佐保川)、式上・式下・山辺郡は初瀬川、十市郡は葛城川(寺川ヵ)、広瀬郡は五所川(葛城川)、その外小川いずれも亀瀬筋大河(大和川)へ流入。
(中略)
一、河内 石川郡
近江 栗太・滋賀郡 本多隠岐守
河州石川郡東条川、金剛山千早村(現、千早赤阪村)向き寄り。江州栗太郡・志賀郡勢多橋より山城国境まで。田上川その他多し。鹿飛・曽束渡しの向き寄り。
藤堂氏の担当は山城国相楽郡と大和国の6郡で、木津川などの河川がある。本多氏の担当は河内国石川郡と近江国栗太・滋賀郡。郡内にはこれこれの河川がある、というのである。5ヵ国内全63郡のうちの41郡が2~7郡ずつに小分けされて、11人の大名に振り当てられた。担当大名、担当郡、関係河川などを表2-1にまとめた。淀川・大和川水系を対象にした土砂留め制度の始まりである。
第3節 周知令
この新しい制度の施行について、関係地域へは9月に入って京都町奉行所から周知された。同奉行所の下役(雑色)を勤めた荻野家文書には山城国内宛の触れ書きが記録されており(『京都町触集成』別巻2)、同じく大和に通達されたものが、忍海郡笛吹村(現、葛城市)で書き留められている(『新庄町史』史料編)。ここでは後者で見ておこう。触れ書きは幕府の奈良代官三田次郎右衛門の添え状付きで廻って来た。意訳して紹介する。
①〈京都町奉行の御触れ書き〉9月16日発信。発信者:井上志摩守・前田安芸守。宛て所:大和国高市・忍海・葛上郡村々庄屋年寄。
8月13日に江戸で(老中から担当大名に)次のような指示書が渡された。内容は、淀川・大和川へ落ち合う川上の山々の開き畑・山畑は停止して、向後は林にするように(将軍が)仰せ付けられたので、御料・私領ともに1年に2・3度ずつ家来を派遣し、油断なく林に仕立てるよう申し付けられよ。
というものである。それゆえ、今後は私領の家来を奉行にして山川筋在々を巡見させ、川面の広狭調べや工事計画を立てることになる。奉行巡廻に際しての旅宿代や人馬賃銭は相対で受け取ること。また御用が滞らないように村々は奉行の指示に従え。
②〈代官三田次郎右衛門の添え状〉9月19日発信。
京都郡代衆(町奉行)からこのような廻状が到来したので、拝見し順々に廻すように。
廻状は留まり(最後)の村から京都奉行所へ持参せよ。この書き付け(添え状)はこの方へ返却せよ。
①の触れ状にある「私領の家来を奉行にして」巡見させるという表現は、この制度の特色を象徴する文言としてとても興味深い。すなわち新制度は、大名(領主)の家臣を幕府主導の土砂留め行政の奉行(役人)と位置付けて事業を担わせる、という新しい試みだった。
この御触れ書きの到来と前後して、指名された高取藩から村高や川筋の調査があった。笛吹村から土砂留め奉行(寺尾五右衛門・三村佐左衛門)に提出した明細書の写しが残っている。村高や山年貢・藪年貢、新開畑の面積、「もど(戻)川」の川幅などを書き上げたうえで、「右の通り少しも相違ござなく候。新田、新畑隠しおき、後日に相知れ候わば、くせ事に仰せ付けらるべく候」としている。同村の領主は新庄藩永井氏だったが、村内の田畑や河川に関する明細や変化は、他藩である高取藩の土砂留め奉行にも掌握されることになったのである。
制度が始まると、村々は毎年奉行の廻村ごとに「砂留め証文」の提出を義務付けられた。高取藩では次のような項目の証文を書かせ提出させている(『橿原市史』史料編)。
・毎年仰せ付けられている山方川筋の砂留めについて、油断なくきっと守ります。
・山方の禿げ所には筋芝を植え、萱・葭・木苗などその所に相応なものを植え付け、土砂流出を防ぎます。土砂が流れ出る方面において新規の焼き畑・切り畑は致しません。
・川面に杭や柵を設置し、川刈りをして、水行が滞らないようにします。
・川筋や川原に、新開はもちろん、藪開き・堤築き出しなど川幅を狭めるような新規の事業はしません。
・川筋破損、山方崩れ、井手・通井崩れなどがありましたら早速注進し、少しも隠し置くことはしません。
・右の条々について毛頭背きません。もし背いた場合はどのようにも仰せつけください。
担当大名にとって、巡回郡・巡回村はあたかも自藩領の一部のようになった。たとえば淀藩では、「淀土砂留め御領分村々」という表現が用いられている(道明寺天満宮文書『藤井寺市史』6)。土砂留め担当郡村々を自藩の「領分」と見る認識である。
大名家来を奉行として幕府主導の土木行政を担わせるということと、他方、担当郡を準自領とみなす藩側の認識の併存、つまり「奉行的」と「領主的」の2要素の重なり合いは、この制度が内包した大きな特色である。
第3章 土砂留め事業の進展と課題
第1節 木津川流域の様子
はげ山、草山景観が顕著だった山城国の木津川地域においては、事業の進展により一定の成果が見られたものの、大雨時には崖崩れや土砂流出が生じ、継続的な土砂留めの修築が必要だった。享保7年(1722)時点で、先に村絵図で観察した相楽郡平尾村付近の様子は次のようだった(『山城町史』史料編)。
・木津川の川床は50年以前(延宝元年、1673)から39年前(貞享元年、1684)までに4尺(約1.2 メートル)ほど高くなった。
・39年前に土砂留めが始まり土砂流出も留まった。
・11年前辰年(正徳2年、1712)より、またまた4尺ほど埋まり、都合50年で8尺(約2.4 メートル)も高くなった。
・砂留めを厳しく仰せ付けられてから、木苗を植え付け砂留めに取り組んだので、谷々も生い茂り、兀げ所からの土砂はだんだん出なくなった。しかし大雨洪水になると山が崩れ川岸が崩落し、あるいは田畑が崩れるなど、土砂の流出を防ぐことができない。
・宇治川、木津川、桂川、加茂川が落ち合う淀から大坂までは、川幅が狭く水行が滞るので、木津川の土砂も流れないと思われる。
制度開始からの取り組みによって一定の成果は上がったものの、効果は限定的だとしている。
木津川西岸、綴喜郡美濃山(現、八幡市)付近の土砂留めを、18世紀後期の時点で観察できる絵図が残っている。ここでは、土砂留め工事が継続する山川と、成果が上がって草木が茂り、土砂流出が止まっている山川の併存が見られた。
原図をトレースした図3-1でみてみよう。
トレースは八幡市教育委員会(竹中百合代氏)。
絵図は宝暦9年(1759)に淀藩土砂留め役所へ提出されたものの写しで、綴喜郡松井村の庄屋安倉孫次郎によって保管された後、相楽郡祝園村の森島國男家文書の一点として伝来したものである。
対象の美濃山一帯は、松井村および内里・岩田・戸津村の共有山で、一部に享保12年(1727)開発完了の新開場もあったが、大部分は牛馬飼育や肥料取得のための草刈り山だった。この図で注目されるのは、大谷川とその支流の中谷川・与三ヶ谷にたくさん記入された番号付きの横線である。大谷川に19ヵ所、中谷川に20ヵ所、与三ヶ谷に9ヵ所ある。土砂留め役所への提出絵図ということに鑑みるならば、これは谷川に敷設された土砂留め堰と見られる。他方、同じ山川ながら、御幸谷川と東谷川にはそうした印はないから、こちらは土砂を出さない留まり川ということだろう。
合計48ヵ所にのぼる横線が間違いなく土砂留め堰であること、また御幸谷と東谷の2川が土砂不出状態にあることは、絵図とセットで保存された幕府普請役人宛ての寛政2年(1790)「土砂留め場覚え」から判明する。
・大谷川土砂留め場 横留めが28(19)ヵ所あります。先年より杭柵でやって来ましたが、8年前から土木留めにしました。ほかに杭柵、根巻き植林や芝伏せをした箇所もあります。
・中谷川土砂留め場 横留め20ヵ所。右に同じです。
・東谷川 先年より留まり川です。
・御幸谷川 右に同じ留まり川です。
・与三ヶ谷 横留めが9ヵ所あります。
大谷川と中谷川の横留めは、8年前(天明3年(1783))に杭柵製から土木製に切り替えたという。なお、大谷川には川中の横留めのほかに、川縁に杭柵を設置したり根巻き植林や芝伏せを行った箇所もあるとしている。
この美濃山に関しては、内里村の庄屋文書の中から次の史料も収集できた(島田市郎家文書)。覚え書きの翌年の寛政3年4月、4ヵ村庄屋から淀藩土砂留め奉行に提出した土砂留め手入れに関する届書である。
・大谷川 小松苗/3100本、雑木/30本、雑木種蒔き付け/種5合、薄穂蒔き付け/3俵、ヤナギ/12束挿し木、梔子/5束挿し木 株芝/300株、捨て藁/100束。以上、植え付けました。
・与三ヶ谷 小松苗/1100本、株芝/700株。以上、植え付けました。
・中谷川 当秋木苗を植え付け、その後継続する予定です。
・御幸谷 雑木や下草が生い茂り、土砂は留まっています。
・東谷 雑木や下草が生い茂り、土砂は留まっています。
この年の春の普請では、大谷川と与三ヶ谷には芝伏せ、藁蒔き、植林などの植栽工も実施されていた。他方、御幸谷と東谷には雑木や下草が生育し、それによって土砂流出が抑えられている様子も判明する。
第2節 瀬田川支流の普請箇所帳
時代は少し遡るが、制度開始から50年ほどを経た延享年間(1744~48)に瀬田川流域の土砂留めの様子を詳しく記した帳簿が、滋賀県立図書館(湧出文庫)に所蔵されている。近江の事例であるが、江戸時代の土砂留め工法がよくわかるので紹介しよう。
ちなみに、この史料を最初に紹介されたのは千葉徳爾氏である。氏はこの史料を用いて田上山地の荒廃と土砂留めについて論じられた(千葉1956)。ただし、佐野静代氏も指摘するように、残念なことに千葉論考には史料の誤読があり(佐野2015)、延享年間設置の土砂留めを帳簿書写年の明和9年(1772)とするなどの錯誤が見られる。ここでは原史料に立ち戻って整理・紹介する。
さて、帳簿は「江州滋賀郡・栗太郡土砂留御普請箇所控 明和9壬辰歳六月 穂積重記」と表記された横半帳・43丁の小冊子である(以下、「延享普請帳」とする)。表紙に記された明和9年は帳簿の書写年であり、記載事項はこれより20数年を遡った延享3年(1746)時点での土砂留めリストである。筆者の穂積重記は、明和~安永年間(1764~81)に膳所藩の土砂留め奉行を勤めた穂積文太夫と見られる(高橋正孝家文書)。
帳簿は、工事現場1ヵ所ごとに字名・構造物の種類・その規模を書き上げるとともに、延享元年(1744)以前の設置施設には「古」、延享元年(子年)の新設には「子」、同3年(寅年)新設には「寅」と、設置時期も明示している。なお、穂積が携行して加筆修正したと見られる書き込みも所々にある。書式を例示してみよう。次のような記述である。
平野村 かよ川筋(田上川支流)
字池之谷
一、小谷 古1ヶ所 石垣 高4尺・14間
字西かよ谷二
一、小谷 古1ヶ所 杭木芝留 高3尺・12間
字せんぞく谷
一、杭木芝留 子2番1ヶ所 高2尺・16六間
字鳩か山
一、石垣 寅一番 1ヶ所 高3尺・15間
この普請帳は、この頃の工法を知る上でも重要である。表3-1に工法別のヵ所数を示した。
当該地域の延享元年時点での既存施設の工法(古)、および同年と3年の新設普請の工法を見てみると、いずれも第1位は「杭木芝留め」であり、ついで「石垣」である。
第2位の「石垣」は、谷間に石堰を作り土砂流出を防ぐ谷止め工法と見られるが、第1位の「杭木芝留め」とはどのようなものか。千葉氏によれば、これは「掘り取った青芝を山腹斜面に張り付け、剥離防止のため小さい杭木を打ち付ける工法」であったとする。植栽工の一種ということになる。
しかし、普請帳の記事を丹念に読んでいくと、一部の杭木芝留めの横に「石垣に成る」という後筆があることや、「石垣」を修正して「杭木芝留め」とする箇所のあること、谷止めの一種である「胴木留め」に「杭木留めか」と注記する箇所もあること等からして、この工法は石垣留めに準じ、また木材を組み合わせた胴木留めに類似した谷堰の一種であると見なければならない。念のために、古・子・寅の57ヵ所の石垣留めと209ヵ所の杭木芝留めの規模を書き出して比較すると、
・石垣留め 高さは1尺から8尺まで。3~3.5尺が最多。横幅は1間から20間まで。
4~4.5間が最多。
・杭木芝留め 高さは1尺から4尺。2尺が最多。横幅は1間から22間まで。4、4.5間が最多。
となり、ほぼ同型にして杭木芝留めの方がやや小振りというデータが得られる。
延享年間、瀬田・田上地方の土砂留めは、谷を堰き止める工法を主流に、一部、菰敷、植林、芝伏せなど、山地の崩壊そのものを予防する治山系の工法も行われていたとまとめられる。
上記の普請ヶ所帳に関連して、延享元年の新普請時に作成された仕様書が、大津市芝原の共有文書の中にあるので補足しておこう(『新修大津市史』編さん収集写真史料 大津市歴史博物館蔵)。田上川中流域に位置する芝原村ほか5ヵ村(牧郷6ヵ村)に対して、土砂留め奉行が示した構造物の仕様書である。支流の4川筋に限ってであるが、必要な資材や人足数、費用、工法が書き上げられている。要点を表3-2に示した。
石垣留めは大小の石と松材や枝松葉を材料にして、石積み技術を持つ石工(石方)の指揮で組み立てるとしている。必要な石は近所で拾えという指示が面白い。
「普請箇所帳」第1位の「杭木芝留め」用の資材についても判明する。川底に横置きする胴木には直径7寸ほどの松材を使い、大量に打ち込む杭木は、長さ5尺、直径2.5寸に揃えた松材が使われた。なお、石垣留めと同様に、こちらも杭木の裏側に枝松葉や芝を敷き詰め、挟み込む技法が用いられている。
第3節 寛政2年のデータ
寛政2年(1790)、幕府普請役の秋月元三郎が5ヵ国土砂留め場を見分した。その際に集計された普請の状態を示すデータがある。普請箇所の数え方や集計の仕方などの詳細は不明だが、①5ヵ国全体の概要と、②近江滋賀・栗太郡の様子がわかる貴重な史料である(前者は高槻市しろあろ歴史館所蔵・三島家文書、後者は高橋家文書)。
①5ヵ国(近江、山城、大和、摂津、河内)の土砂留め場4,982ヵ所。
この内、787ヵ所は現在木草が生い立ち、土砂の押し出しなし。203ヵ所は川除け用水堰などの場所にあり。125ヵ所は険阻のため手入れができない由。3,867ヵ所は木の根掘り起こしはさせず、木苗植え付け、谷堰設置などの普請を致すべき箇所。今後、抜き伐り・下草刈り・下掻きを慎む。
②近江国栗太・滋賀両郡 村数35ヵ村、土砂留め場366ヵ所。
この内、17ヵ所は木草生い立ち土砂留まり場所。5ヵ所は川除け・用水堰の分。残り344ヵ所は継続して普請すべき箇所。
まず、①の5ヵ国全体を見てみると、5千近くの普請場所のうち、成果が上がり草木が生育して普請を完了した箇所が全体の16パーセント弱。継続して普請を要する箇所が77.6パーセント、また普請困難箇所2.5パーセントという割合である。203箇所4パーセントの「川除・用水堰」項目は、川中仕置(流路整備)の対象事業のため土砂留めの集計から外された件数である。このデータによれば、制度開始から100年余りを経過した時点で、5ヵ国普請場の状態は、一部に樹木が生育し土砂流出が抑えられた箇所があるものの、全体の8割近くは引き続き継続的な工事を必要としていたということになる。
②は5ヵ国の一部を構成する近江栗太・滋賀郡限定のデータである。こちらでは普請を継続すべき箇所の割合はさらに多くなり、対象の9割以上の344ヵ所が継続普請箇所とされている。草木が生育し土砂流出が抑えられているのはわずか17ヵ所、4.6パーセントに過ぎない。
制度開始から百年ほどを経過した時期、一部に土砂流出が抑えられた地域も存在したが、多くの土砂留め場は継続しての普請を必要としていた。
第4節 住民からの献言
土砂災害は関係地域の村々にとってはもちろんのこと、川床上昇による堤防決壊や川舟運行の障害になるなど、河川中・下流域に対してもさまざまな影響・被害を及ぼしていた。制度開始から50~60年を経過した18世紀中ごろになると、淀川中・下流域の住民から、土砂留めや川浚えについての願書・口上書が繰り返し奉行所に提出されるようになった。
一例として、河内国交野郡星田村(現、交野市)出身の大坂道修町町人吉田屋藤七が、天明8年(1788)に大坂町奉行所に提出した口上書を挙げてみよう。
*この口上書は井上清太郎の収集に係る。
井上清太郎 嘉永5(1852)~昭和11年(1936)。オランダ人技師デレーケに砂防工法を学ぶ。内務省土木局職員となり、淀川、富士川などの改修に携わる。明治27年(1894)第5区土木監督署(現在、近畿地方整備局)に転じ、田上山(滋賀県)の砂防に尽した。著作に「砂防大意」(1926年)など。
長文なので、大きな段落ごとに番号を付け、またポイントになる部分に傍線を引いて紹介する。なお、この内容は、藤七の親(宝暦7年(1657)死去)も常々指摘していたことだったという。
吉田屋藤七の口上書
淀川筋枝川の川上山々の土砂留め御普請については、毎年春秋土砂方御奉行様が御見分になり厳しく御普請を仰せ付けられています。しかし、土砂は留まりかね年々川床が高くなるので、大坂通船を始め、淀川縁両側の村々、大坂川口入船そのほか諸方に差支えが生じています。そこで恐れながら御普請の致し方について申し上げます。
①土砂留め御普請の致し方について。川筋山々の下刈り・下掻きを差し止め、見え渡りできない(里から見渡せない)土砂山の峰々谷々へも年々木を植えさせ、また山奥から差し口(山の口)まで所々に井関を設置すれば、年々樹木が生い立ち自然と土砂は留まると思われます。土砂さえ留まれば川を掘らなくてもよくなるでしょう。
見え渡りの所へのみ杭木を打ち、木の枝を結び付けるだけでは、なかなか土砂は留まりません。その訳は、土砂山というのははげ山で、厳冬の砌に凍て崩れ、春になると山々の半ばまで土砂が下がり、春の末から夏秋の大雨の度に流れ出します。その勢いは甚だ強く、水一升のうち土砂が半分も交じっているように見えます。見え渡り山の差し口に井関を設けるだけでは、一度の大雨で井関は土砂で一杯になり流れ出します。それでは土砂は留まりかねます。
右に申し上げたように、川筋山々の下刈り・下掻きを差し止め、所々見繕い木を植え立てて、7年も経てば草木も茂り、現在の土砂の過半は減るでしょう。さらに15年も過ぎれば土砂も留まり、川も次第に深くなり、御普請は年を追って容易になるでしょう。もし今後、我儘勝手に材木を伐り出し、茂った所も伐り荒らしてはげ山にするならば、これまで土砂が出なかった山々からも土砂を引き出すことになります。川床が高くなってからでは、どのように御手当されても容易に土砂は留まりません。よんどころない入用で材木などを伐り出す時は、その跡に木苗などを植え、十分に念を入れ繕うようにさせたいものです。
②根本の川上山々の土砂が止まらなくては、川下でどんなに普請をしても無益の事です。まず川上の根本の土砂を留め、それより5・7・10年も成り行きを見届け、その後に川下の御普請を行えば、川上川下ともに前後・始終間違いないことと存じます。何分にも川上根本の御普請を先に行いたいものです。
③格別に土砂を出すはげ山は、松木種・稗種などを蒔いた上へ藁・古俵などを散らし敷くのがよろしいかと存じます。そうすれば、ふつう5・7年かかって草木が生え付くところ、2・3年で木が生え付くでしょう。年数を考えず緩々と土砂留めするのならば藁・古俵を敷くには及びませんが、ことのほか川床が高くなっているので、急ぎ土砂が止まるこのような御普請が必要です。草木が生え付きさえすれば土砂は自然と留まります。
④山際の村々の内で、山方の事をよく心得ている者一両人を土砂留め御普請方下役に仰せ付けられれば、万事勝手がよいと思います。草鞋を履き山奥や大小の谷々迄ことごとく見廻るのでなくては、行き届きません。
⑤寅・卯年大旱魃(天明2、3年の飢饉)の砌、江州湖水の水がもう5寸引いたならば淀川の流れが止まるだろうという風聞がありました。これ以上川床が高くなり、もしも先年のような大旱魃になったならば、一番に大坂の飲み水に差し支えるでしょう。
⑥星田村から枚方迄の天野川筋2里余の間、川床は田地より1丈余り高いように見えます。天野川と同様に諸方の川々からも落ち込むので、淀川は次第に埋もれ、諸方の差支えになると嘆かわしく思います。
⑦山々の下刈り・下掻きを差し止められると、山稼ぎを渡世の助力にしている小百姓どもが困ることになります。しかし、これは永久のことではないので、少々遠くても土砂の出ない場所で柴・薪を取らせるか、または御普請が始まったならば小百姓を御普請方に雇用し相応の日雇い賃銀を遣わす。そうすれば、これまでの山稼ぎ渡世と同様に差支えはないでしょう。10ヵ年も過ぎれば土砂場のある山でも、よく茂った所は枝葉そのほか間々を切り取っても土砂は出なくなりましょうし、2・30年も過ぎれば、近所での柴薪取りもできるようになるでしょう。当面の難義がないように計らえば問題はないと思われます。(後略)
藤七の口上書の中心部分を紹介した。彼によれば、現在の土砂留め工事は、村里に近い「見え渡りの所」「見渡山」「差し口」とされる山川の出口付近を中心に、杭木を打ち木の枝を結び付ける工法(杭木柴留め)や井関の設置が中心である。しかし、それでは流れ落ちる土砂を食い止めることはできず、井関もすぐ一杯になって役に立たなくなる。土砂流出を止めるためには、流出土砂の元となっている奥山への植林がぜひとも必要であり、井関も村里近くの出口付近だけではなく、奥山から適宜設置する必要があるというのである。根本の奥山からの流出を抑えなければ、いくら川下で工事をしても無益だと断じている。
はげ山への植林方法や山管理についての提案もあった。山腹への松木や稗の種蒔きに際しては、その上に藁や古俵を散らし敷くと生え付きがよい、また、山管理には山内の事情に通暁した人物を雇い、日常的に見廻らせるのがよいとしている。
小百姓に対する救済策も注目される。下草刈りや柴刈などの禁止によって、採薪や伐木、狩猟、山菜取得などの山稼ぎを禁じられた下層百姓に対しては、別の稼ぎ場所を提供するか、もしくは普請人夫として雇用すべしとするのである。新制度は様々の点で百姓の生業と抵触し矛盾を抱えていたが、鎌止めによる山仕事・山稼ぎの禁止もその一つだった。こうした小百姓救済への言及は、出身村に天井川を持つ者ならではの目配りといえよう。
土砂留め制度の下での土砂流出阻止の取り組みは、様々な問題・課題を抱え込みながらの運用だった。
第4章 丹波の土砂留め
第1節 丹波2郡を制度に加える
土砂留め制度は19世紀に入ると、制度的な手直しが行われた。
・文化5年(1808) 猪名川上流の摂津国能勢郡を巡回郡に加える。尼崎藩担当。
桂川上流域の丹波国桑田郡・船井郡を巡回郡に加える。
・文化6年(1809) 猪名川支流の摂津国豊島郡を巡回郡に加える。高槻藩担当。
・文化7年(1810) 一部淀藩担当村のあった近江国栗太郡を全郡膳所藩担当に変更。
このうち、摂津国能勢郡と豊島郡については、従来通り大名に担当させる形だったが、丹波国の2郡についてはそれまでとは異なる方式が導入された。京都町奉行所の与力・同心が「土砂留め奉行」として直々に村々を廻り、現場を直轄する方式である。京都町奉行所管轄郡では、寛政5年(1793)から奉行所与力・同心による現地見分が始まっていたが、この両郡には、藩を介在させない直轄体制が採られたのである。以下、淀川水系の土砂留め制度の一つの到達点として、丹波における町奉行所の土砂留めについて観察したい。
園部藩領の船井郡完人村の九兵衛家で書き継がれた日記のなかに、制度開始に関係する記事があった(『園部町史』史料編4)。文化6年(1809)1月の項である。
・昨年公儀から山に砂留めをするようにとの御触れがあった。今年正月に地頭(園部藩)から仰せ付けられ、3ヵ村立会い地の神坂・奥谷・高原に3ヵ村で杭打ちをした。家毎に杭20本を出した。 *3ヵ村=完人、大坪、西山村
・神坂に続く「あい谷」の工事は、大坪村1村で行った。
・長谷山については、持ち高1石当たり杭2本を出し、村中家別総出で杭打ちをして砂留めを作った。ただし、はなはだ粗雑な作りだった。
前年に公儀(京都町奉行所)から土砂留めについての御触書が廻り、その後、自領主の園部藩からの指示もあって、この年6年に入り入会山や村山に土砂留めの工事を行ったという。
初めての見分についても、9月9日の条に記載されている。一行は総勢11人。土砂留め奉行は京都東町奉行小長谷和泉守組与力の石崎勇蔵と、同じく西町奉行牧野大和守組与力深谷平左衛門だった。以後、日記が残る天保10年(1839)までの30年の間、与力たちは毎年9月から11月の間に必ず見分に到来している。また、一度だけ、文政6年(1823)12月に、京都西町奉行所から普請の精勤を賞する御手当銭15貫文が下付されている。
この日記には書き留められなかったが、後年の史料によれば、制度開始を告げた京都町奉行所からの触れ書(文化5年(1808)閏6月発信)は次のような文面だったという(文化12年「土砂留御触書并法度趣意書」京都府立歴彩館蔵)。
丹波国船井郡・桑田郡の御料・私領山々のうちで、木立のない所から土砂が川筋へ流れ出ないよう草木の根を植え付け、山々を林に仕立てるようにせよ。崩れ所が険阻で植付けができない地味の悪い所は、石堰や築留めまたは胴木などで土砂留めせよ。
第2節 「土砂留め手入れ帳」
毎年春秋に京都町奉行所に提出した手入れ帳の控えが、船井郡玉ノ井村(園部藩領)に保存されている(南丹市玉ノ井区有文書)。普請の様子を概観してみよう。
帳面は「土砂留め手入れ仕来り帳」と題する文化7年(1810)3月作成の1冊と、「土砂留め手入れ帳」と表記する文化8年3月から文政13年(1830)8月に至る33冊である。後者は毎年春と秋に1冊ずつ作成されていた(7冊の欠本あり)。
唯一「仕来り」の文言を記す文化7年の帳面は、土砂留め新制度開始にあたり実施された当初の工事の書き上げと見られる。表4-1にその内容を示した。
工法は胴木留めと筋芝留めを中心にし、一部に植木留めも見られる。胴木留めは、松丸太などを縦横に組み合わせ間に粘土などを塗り込む伝統的な工法であり、筋芝もポピュラーな植栽工法である。
文化8年以降は、毎年春秋の工事の概要が「手入れ帳」から判明する。工法ごとに手入れ箇所数などを集計してみた(表4-2)。
谷間にダム状の工作物を築造する谷止めから見てみると、ここでは、松材などを組み合わせた土木堰、石を積み重ねた石堰、および粘土を突き固めた堤と推定される堤堰の三種類があった。土木堰は文化7年「仕来り帳」の胴木留めに対応するものであり、堤堰は他地方で築留めと呼ばれる工法と同類だろう。
土木堰は幅1間から1間半の小さなものが多く、長くても2間から3間程度、また石堰も高さ2、3尺程で長さは土木堰と同程度の大きさである。これに対して堤堰の方はより大型で、高さ3間半に長さ3間、あるいは高さ5尺に長さ4間といった規模のものが作られている。このうち土木堰と石堰は、文政6年3月時の石堰拡張を除いて毎回新造されたと見られるが、堤堰はその過半が欠損箇所に土盛りをする「置き上げ」工事であり、一度設置したものを修補しながら使い続けている。
これら3工法の推移を辿ると、文化年間には土木堰が主流だったが、やがて堤堰へと移行。他方、石堰の築造は最初の数年に集中し、以後はほとんどなかった。石や松材などを用いる石堰や土木堰から、修復しながら活用可能な粘土土を主材料にした堤堰への転換といえるだろうか。他方、植栽系の工法についてみると、こちらは、文化10年に一度550本の植え付けがあったのみで、それ以外はもっぱら芝伏せに特化され、おおむね毎年春秋ともに実施されていた。
なお、この区有文書のなかに一点だけだが、「土砂留めほうび割合帳」と題する横帳が含まれている。文政12年(1829)12月に普請良好を褒められ手当金を下付された時の覚え帳である。褒美料は10貫文。ここから飛脚賃や町奉行所与力・同心衆への進物(大豆)代、京都と園部への庄屋の出張旅費など4貫657文を引いた残りを、村民20軒で均等に配分している。
以上、本節では町奉行所与力・同心衆が直轄した丹波国2郡の様子を観察した。与力=土砂留め奉行の態勢は、制度的には担当大名に多くを依存する仕組みを改変し、町奉行所への権限集中構造へと転換させる試みと位置付けられるが、巡回の様子や普請の技術面などにおいては、大名担当の場合ととくに変わるところはなかったようである。17世紀末に始まった土砂留め制度は、おおむね当初の枠組みを維持しながら、江戸時代を通じて維持されたといえるだろう。
第5章 明治初年の取り組み
第1節 継承と革新と
こうした特色を持ちながら推移した土砂留め制度は、江戸時代の終焉とともに廃止になり、明治新政府の担う「砂防制度」へと衣替えしていった。最後に、明治初年の動向のいくつかについて触れておきたい。
さて、江戸時代の土砂留め制度は、慶応4年(1868)4月に廃止された。藤堂和泉守(津藩)、柳沢甲斐守(郡山藩)、植村駿河守(高取藩)に対して、新政府から次のような通達があった(『法令全書』)。
これまで近国村々へ土砂留め役人と唱え廻村せしめ候儀、廃止せられ候条、向後家来差し出すに及ばず候事(4月27日付け)。
通達したのは、この年1月に定まったばかりの3職7科のひとつ、内国事務科に所属する民政役所(元の京都町奉行所)である。ほぼ同文の通達が大坂裁判所発信で尼崎藩の松平遠江守に届いているから(『日本砂防史』)、残りの高槻、膳所、淀、岸和田へも同様の通告があったものと思われる。17世紀末に始まり、180年余の歴史を持つ淀川・大和川水系土砂留め制度はここに終焉を迎えた。
新しい動きは旧制度を廃棄した翌々明治3年(1870)から始まった。11月、民部省大阪出張所の土木権小佑・伴時彦が木津川筋の水源調査を実施(『日本砂防史』)。そして、翌4年1月、民部省から5畿内と伊賀国管轄の府藩県に対して、砂防に関する5ヵ条が通達される(民部省通達第2号『法令全書』)。
一、新規に山々開拓の時はよく土地の善悪を考え、有益と判断した場合は田地の四方に畔を作り、土砂の溢漏を防ぐこと。
一、以前に官許を得て開拓した畑園からの土砂溢漏についても同様。
一、はげ山は、旧幕中年々手入れの箇所や鎌山(鎌止め山)場所については、旧制の通り大小樹木・下草などを伐り取る時は、土木司が巡回・立会いの節に許可を得ること。
一、石や石灰を掘り出す時は、予め崩壊土砂を防ぐ工事を行い、掘り出し跡の修復を厳重に行うこと。
一、川沿い山々の樹木伐採などは、旧制の通りすべて官許を経ること。
「溢漏」「官許」「土木司」など新しい用語を用いてはいるが、「旧制の通り」とあるように、まずは「旧幕中」の対策の継承、再確認といってよい。
しかし、工費については、新政府は旧制と全く異なる政策を打ち出した。官費による負担方式である。砂防5ヵ条布告の翌2月24日、民部省大阪出張所は関係府県に対して、木津川関係山々の土砂留め工事を官費で行う旨の通達を発している(『日本砂防史』)。
頻年水害甚だしく良田蕪没、損失莫大にしてまさに国家の衰弊を来たさんとす。よろしく修治の策を施すべし。そもそも水害の源曲は山々崩隋の砂礫流れ、ついに河渠を填塞し、したがって水害日々に倍蓰せり。これをもって土砂留めはもっとも急務にして、なかんずく淀川は七国を流通、浪華の盛衰に関する要港なれば、まず淀川を修めざるべからず。よってその支流木津川の山々土砂見分の分、官費をもって工事施工す。
江戸時代の土砂留め制度が百姓自普請を基本にしていたことに鑑みるならば、これは画期的な施策である。以後、沿岸府藩県では官費による砂防工事が急速に進捗することになる。
明治6年(1873)9月に至り、旧幕中の制度を継承しながら新施策を加えた「淀川水源防砂法」が大蔵省事務総裁大隈重信の名で発令された(大蔵省達番外。「土木掛書類」滋賀県立公文書館)。全8ヵ条からなる新法は、草木伐採など有害行為の禁止や山腹における草木培育を命じるとともに、工事には官費を支給すること、大規模砂防工事は国の直轄で行うと定めた。
①淀川水源の山の斜面は、私有地であっても草木の伐採・野焼き・掘り起こし・開墾などは一切禁止する。やむを得ず許可する時は地方官が土地の形質を調べ、やり方の程度を決めて対応せよ。
②山裾や渓口など傾斜地の田畑で、土砂流出の危険のある所は、地方官が適宜予防法を定めよ。
③草木のない山の斜面には、草木の種類を選んで種殖培育せよ。地味に適さない場合は種類を変えて育てよ。
④従来からの砂防工法については、長年の経験を踏まえて、効果の高い方法を選び行え。効果が不十分なものについてはよく研究せよ。なお、工事が大規模になり地方の力で及ばない場合は事情を記して当省(大蔵省)へ伺いを提出せよ。
⑤①、③、④に要する費用は一切官費を支給する。②の費用は田畑の持ち主の負担とする。
⑥前条までの指示を達成するため、該当地の区画割や施工の時期など、適宜に対応せよ。
⑦山や川の管轄が交錯する箇所は所管の地方官が協力して当たること。
⑧この流域に関わる府県は、所管の地勢に応じて官員を出して対応すること。
ここに、江戸時代の淀川・大和川水系土砂留め制度は、装いを新たに「淀川水源防砂法」として出発することになった。
第2節 新工法の考案
工法はどうだろう。明治13年(1880)時点での工法を、滋賀県と京都府の史料で瞥見してみよう。表5-1に示した。
近江国甲賀・栗太郡の項は、同年1月から6月の間に両郡内で実施された工事の書上げである。工事箇所数は合わせて3,218ヵ所で、工費は5,163円余を要した。この箇所数を寛政2年(1790)の滋賀郡・栗太郡土砂留め場数366ヵ所と較べると9倍に近い。集計方法に違いがあったとしても、明治期に入り普請対象箇所が大幅に拡大されたことは間違いないだろう。
工法にも変化が見られた。旧幕時代以来の石堰堤、土堰堤や苗木植え付けなどのほかに、新たに土俵を用いた土止めや、柴束・藁束を用いた新工法が採用されている。このうち柴や連束藁を多用する工法は、明治政府がヨーロッパから招へいした技術者の一人ヨハネス・デレーケが行った試験施工に名がみえるものである。なかでも、連束藁伏せ込みや柵留め連束藁伏せ込みは、工種として土止めと被覆・植栽を合体させた新しい試みだった。
*連束藁 藁束を連ねて直径12センチメートル、長さ3~4.5メートルに仕立て、4~5センチメートルおきに藁縄で固く縛り、15センチメートルおきに緩く縛る。同様の形状を柴枝で作り藤蔓、藁縄で縛ったものが連束柴。
表の右欄に示した項目は、山城国木津川流域の施工単価表の一部である。それぞれの工法に掛かる経費が数量化されており、この換算で工費、支給官費が算出された。
こちらも採用された工種は近江国とほぼ共通しているが、植栽の項にある「積み苗木(積み苗工)」は、京都府の土木技師(砂防工営係)市川義方の考案による新しい工法である。この工法は、筋芝留や連束藁・藁柵留めと同じく崩れ山に横巻に何本も堀を掘り、そこに別場所の松林・雑木林の根元から掘り起こした坌壤(ちりほこ)土付きの根株を嵌め込んで、その上側に松苗を植えるというものだった。考案された明治7年(1874)に山城国相楽郡湯船村ほか90ヵ所で施工されたのを皮切りに普及していった。
改めて表の甲賀・栗太郡の工費項目に目を移すと、工費のかなりの部分が「連束藁伏せ込み」や「苗木植付け」に充てられていることが窺える。その割合は総工費の65パーセント余を占めている。旧幕中の土砂留めが口山を中心とした応急的・即効的な谷止め・土止めを主流とするものであったことに鑑みるならば、山地緑化に重点を置き始めた明治の砂防行政は新しい段階に入ったと見てよいだろう。こうした動向は、江戸後期の吉田屋藤七らの提案の延長線上に位置するものでもあった。
官費支給による工事、新しい工法の考案、山地緑化への注力、等など、明治の砂防制度は、旧幕時代の土砂留め制度を長い前史としながら、「人間と自然」の新しい関係作りに向かおうとしていた。
*本稿は、拙著『土砂留め奉行-河川災害から地域を守る-』(吉川弘文館、2022年)から、主として山城・丹波国に関係する部分を抄出し再構成したものである。
文献一覧
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・磯田道史(1996)17世紀の農業発展をめぐって-草と牛の利用から- 日本史研 402
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・鈴木康久編集(2022)淀川水系河川絵図集成~近世絵図から河川の利用と管理を学ぶ~ 近畿地域づくり研究所
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・城陽市歴史民俗資料館(2003)時は江戸 村の事件簿-砲術・水論・土砂留-
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