1 はじめに
里山は農業集落の周辺に展開する森林を交えた景観であり(田端 1997)、里山林はその主要な要素である。そのため、里山の管理あるいは里山景観の保全は、林学の課題ともされてきた(四手井 1974)。しかし、近世の里山は必ずしも森林が卓越していたわけではなく、牛馬の放牧や、刈敷や堆肥、厩肥などの材料生産に供される草山や主に燃料として使う灌木程度の低い木々が中心の柴山も広く存在していた(水本 2003;小椋 2012;須賀ら 2019など)。また京都府を含む西日本の各地では、過剰な植物資源採取により瘠悪地あるいはハゲ山となり、荒廃するところも広くみられた(千葉 1991)。
近世の本州以南の農業は、農地の生産力を維持する方法としては休閑システムを採らず、施肥で連作するシステムを採用し、耕地周辺の丘陵や山地の草木を大量に採取して、刈敷や堆肥、厩肥として施用してきた(スプレイグ 2015;大住 2022)。中でも、刈りとった草木を直接耕地に投入する刈敷は、近代以前の本州以南の農業における主要な施肥法となっていた(古島 1955)。近世の松本盆地の農村の例では、肥料用の採草に必要な草山や柴山の面積は耕地の10~12倍に及び、燃料自給のために必要な薪炭林の面積を大きく上回っていたと推定されている(所 1980)。採草や放牧のための草山や柴山は、近世から近代にかけてかなりの広がりを持っていたようだ。小椋(2012)は、20世紀初頭における草山や柴山などを含めた草地面積は、国土の15%程度であったと推定している。また中国地方では、草地は現在全面積の0.7%を占めているが、1950年代には9.5%、1900年代には14.8%を占めていたと推定されている(Ohta et al 2021)。それらの草地は、通常集落や農地周辺に配置されるため、里山域の多くが草地であったと考えられる。
近い過去において里山に草山が広がっていたことは、近年知られるようになってきたものの、現在の里山景観で卓越し主要な要素となっている二次林、あるいは里山林は、近世以来維持されてきたものであるという理解を前提にした議論も多い(例えば、武内 2001;環境省 2021など)。近世の里山のかなりが草山や柴山あるいはハゲ山であったとすれば、現在の里山林の多くはその後成立したものであり、森林としての歴史は浅いと考えなければならないだろう。二次的な森林植生には、過去の土地利用などの人為攪乱の履歴が、しばしばその場の自然条件を上回る影響を与えてきたことが指摘されている(Foster 1992;大住 2003;Ito 2004;Rackham 2006など)。里山についても、森林ではなかった可能性や履歴を把握したうえで、現在の里山林を理解することが必要だろう(Osumi 2005;Mitani and Osumi 2022)。
里山林は必ずしも近世から引き続き存在してきたわけではなく、近代以降という比較的最近に森林化したのかも知れないという問いは極めて重要であるにもかかわらず、いつ頃、どのように森林化したのかということについての具体的な議論は乏しい。現在のところ、全国スケールでの時系列資料で森林化過程の検討に参照できるのは、小椋(2012)により整理されたものである。これは、明治以降の日本列島の草山や柴山などの無立木地を含めた草地面積の推移の復元を、複数の統計資料を吟味し調整することで試みたものであるが、それによれば、草地面積は明治年間に大きく減じ、大正初期には明治前期に比べて半減する。以降の減少はやや緩やかになるが、1950年代以降再び減少が急になり、1980年代には明治前期の5%程度になる。
草地の減少と森林化の経過は、全国的にはこのように把握されるものの、地域によって差異があったと考えられる。京都盆地の京都市周辺については、小椋(1992a、b、1996、2002、2012)や中嶋(1996)の研究により、近世あるいはそれ以前から明治初期にかけての過剰利用により広がった無立木地は、明治年間にはアカマツが成長し森林化が進んだことが詳細に明らかにされている。ただし、京都市周辺は都市に隣接し、官有地、社寺有林が多く、風致的な管理も早くから目指されていた点で、農業集落を核とした一般的な里山景観とは異なった条件下での経過である可能性は否定できないだろう。農村地帯における里山の森林化についての情報としては、森林化に焦点を当てた議論ではないものの、いくつかの報告から読み取ることができる。本研究の対象地にも近い京都府南部の現在の木津川市鹿背山地区では、明治後半に「広葉樹林」および「荒地」の顕著な減少と松林の拡大がみられた(岩佐ら 2010)。また、丹後半島の山間部では、無立木地を指す荒地は昭和初期の1930年頃には広くみられたが、戦後の1960年頃には消滅していた(深町ら 1996)。一方、関東の茨城県南部では、明治中期から後半にかけて草地は急減し、多くは森林に移行した(スプレイグ・岩崎 2009)。また、房総丘陵や筑波山地でも明治前期から後期にかけて草地が大幅に減少している(小椋 2019)。あるいは、岡山県北部(小椋 2011;増井 2019)や広島県北部(小椋 2018)の中国山地では、草地は20世紀半ばから後半の高度成長期に入って大きく減少し、アカマツやコナラ、クリなどの混交する二次林や、スギやヒノキの人工林に変わっていった。
しかしこれらのように、地域ごとの森林化の時期は、まだ断片的にごく少数の事例が報告されているに過ぎない。本研究ではそのような情報の欠落を補うために、里山景観における近代以降の土地利用の変化を、森林の種類や発達過程に焦点を当てて、地図の植生表現から空間的に把握して復元することを目指した。そして、里山の土地利用の変化についてより詳細な解析を行うために、以下のような点に特に注意を払った。まず、対象地としては、西日本そして京都府で最も古い時代の地形図が得られる地域を選んだ。さらに、解析した無立木地の森林化の歴史的過程が、京阪奈丘陵北部で本研究が解析対象とした区域の近傍に対し、一定の代表性を持つかどうかを明らかにするために、隣接する複数の地区について、地区ごとに植生景観の変化を解析し、その同調性を検証した。なお、明治期の地形図は年代や地域により地図記号の変化が激しい上に(大森編 1964;国土地理院編 1984)、それぞれの記号が表す植生の様態が明らかでないことが多い(小椋 1992b、2002)。そのため、解析する地形図が依拠する図式を特定し、使用されている記号の形と記号が持つ情報を確認しつつ、判別と解読を行った。
2 研究対象地
本研究は、京都府京田辺市西部の京阪奈丘陵北部を対象として行った。木津川の西岸に並んで位置する旧・松井村、大住村、薪村、田邊村の四カ村で、現在は京田辺市に属している。1888(明治21)年の記録によれば、戸数はそれぞれ、171、315、182、269であった(村田編 1968)。四カ村の面積は概ね3~5km2で、類似した地形と景観構造を持つ。すなわち、それらの村々の北東部を流れる木津川沿いの標高20~30m前後の沖積地や、そこから南西部の丘陵地に貫入する浅い谷沿いに水田や畑、果樹園地などからなる農地を配置し、一方の南西部の丘陵地は、甘南備山(標高221m)以外は、谷底との比高が概ね100m以内の緩やかな起伏となっていて、現在は森林や竹林に覆われている。またそれぞれの集落は、沖積地と丘陵地の境界付近に置かれている(図1)。
※背景となる陰影図は国土地理院基盤地図情報10mメッシュ(標高)を基に作成した。
この地域は京都、大阪、奈良の県境に位置し、木津川流域にある。また、1235(文暦2)年に本研究の対象地である薪荘と大住荘の間で、薪採取権や用水権の帰属をめぐって5度も紛争が起きており、(黒田 1975;山陰 1990)、中世以前から里山的な資源利用が盛んであったことがうかがわれる。近世においては、本研究の調査地に隣接する宇治市南部から城陽市東部に広がる丘陵は、刈敷や牛馬の飼料となる下草の採取、燃料となる薪の確保のための山野(立相山)として里山的な利用がなされていた(水本 2009)。同じ地域に属し、地形も類似した本研究の対象地でも、同様の利用がなされていたと推測される。
研究対象として四カ村地を選んだ理由は、この地域では古くから里山利用がなされていたことに加えて、西日本でも早い時期にあたる1888(明治21)年に地形図が作成されていて、明治前半にさかのぼる植生景観の情報を得られることにある。明治以降に作成された近代的な地形図の古い例としては、1880(明治13)年から1886(明治19)年にかけて関東地方で作成された迅速図が知られているが、関西地方においては1884(明治17)年から1890(明治23)年にかけて、京阪地方仮製2万分1地形図(以下、「仮製地形図」と表記)が製作された。その範囲は京都府、大阪府、兵庫県、奈良県、和歌山県のそれぞれ一部に限られているが、そこには本調査研究対象地も含まれている。
3 研究方法
里山域の草山や柴山などの無立木地が森林化する時期や課程を、時間・空間的に復元するため、対象とした旧四カ村の植生の明治中期から昭和40年代にかけての移り変わりを、表1の地形図を利用して推定した。
解析に利用した地形図は、1888、1908、1922年および1970年代前半に測量されたものである。それ以外にも何度も改版されているが、それぞれの版の植生表記の比較を行ったところ、旧版を踏襲していて見直しが行われていないと判断できたため利用しなかった。また、1970年代以降は、都市化などにより、この地域の丘陵地帯の開発が進み、森林化の過程を復元するという研究目的に沿わない状況となっていったため、対象から除外した。
解析に先立って、各図幅が依拠している地図記号の図式を特定し、記号の表現する植生の同定を確かなものにした。地形図の地図記号は、明治以降、製作された時代により様々に変化してきたことが知られていて(大森編 1964;国土地理院編 1984)、本稿が注目する樹林地に関わる記号も、明治期に形や分類が頻繁に変化している(小椋 1992b)。
図幅ごとに使用されている植生あるいは土地利用に関する地図記号を同定した後、それぞれの地形図の記号を判読し、地理情報システムQGIS3.10.6で(QGIS Development Team 2018)それらの分布を図化した。図化にあたっては、平面直角座標系JGD2000のⅥ系を使用し、地形図に地理的位置情報を利用した幾何補正を行った。判読した地図記号を中心としたポリゴンを作成し、その面積を集計して各植生、土地利用の面積を算出した。さらに、判読した地図記号の分布により、植生および土地利用を区画して分布パターン図を作成した(図2)。農業地のように土地利用境界線がひかれている場合は、それにより区画した。一方、林野については植生の境界線が明確でない場合も多く、その場合は目視判読により、異なった植生あるいは土地利用を表す地図記号の境界を判断した。
森林の成立経過について焦点を当てて解析を行うために、地形図で使用されているそれぞれの植生に関する地図記号を、次のように無立木地と森林の二つの状態に分けて取り扱った。ここで無立木地とは、林学や森林法でいう立木が乏しい本来は森林であるべき土地という定義に、現存する個体群がそのまま成長しても、閉鎖した森林を形成しないか、する可能性が低い植生という、生態学的な意味を加えたものとする。植生に関する地図記号のうち荒地や土崩、土流、草地、矮松地などは無立木地に該当すると推定した。矮松地は、木竹が占める植生は鍼葉樹林や竹林のように「林」と表現されているのに対し、荒地や草地と同様に「地」と表現されていること、またその樹高は『京都府地誌』などの考察から2mにも満たないものが多かった可能性が高いと考えられる(小椋 1996)ことから、樹高が極めて低い松が散生している状態と推定して、森林には含めなかった。一方、森林は立木が密に成立し、概ね閉鎖した林冠層を持つ土地あるいは植生を想定し、広葉樹林(濶葉樹林)と針葉樹林(鍼葉樹林)および松林の記号で示されている区域をこれに含めた。農地など森林以外の主要な土地利用は、適用されている地形図図式に従い分類した。
地形図より判読した各植生および土地利用別の面積を基に、前出の四カ村それぞれに分けて時系列変化を推定した。明治初期の村(以下、「旧村」と表記)は中世以来の惣村に起源する場合が多く、調査地を含む山城南部地域では、共同体としてのまとまりが強かったことが知られているため(水本 1990)、土地や資源の共有や共用が広く行われてきた里山の理解には、旧村を単位とすることが適切であると考えられたからである。
4 結果
(1) 植生に関する地図記号の同定
本稿で扱う一番古い、1888(明治21)年測量で1891(明治24)年発行の京阪地方仮製2万分1地形図「田邊村」(以降、「明治24年 田邊村」)には、明治24年図式以降では廃止される陸田の記号が存在し、針葉樹類の林も明治24年図式以降の図式のように鍼葉樹林に統一されず、松林が独立して表記されている(表2)ことから、それは1884(明治17)年の仮製2万分1地形図記号(以降、仮製図式)により作成されていると考えられた。なお、その時期には1985(明治18)年に正式2万分1地形図の明治18年図式、1891(明治24)年にやはり正式2万分1地形図の明治24年図式も制定されているが、明治18年図式は仮製図式とほとんど変わらないものである。
※明治24年式以降の図式では、マツ林の記号は廃され、スギ林やヒノキ林などと統合して鍼葉樹林とされた。
明治24年式以降は昭和30年制定の地形図図式(以降、昭和30年式)まで、樹林地の記号に顕著な変化はみられない(表2)。本研究で解析対象とした1908(明治41)年測量、1912(明治45)年発行の正式2万分1地形図「田邊」(以降、「明治45年 田邊」と表記)では、凡例が地図枠に印刷されていて、明治42年の地形図図式(明治42年式)と一致する。1922(大正11)年測量、1925(大正14)年発行の2万5千分1地形図「田邊」「枚方」「宇治」「淀」(以下、「大正14年 田邊・枚方・宇治・淀」と表記)も凡例が印刷されていて、ともに1917(大正6)年の地形図図式(大正6年式)に依拠していることが確認された。
「明治24年 田邊村」には、根元から上向きに三本線が広がった記号がおびただしく認められる。また、一部には、根元から上向きに五本線が広がった記号もみられる。これらは仮製図式に表示された松林の大小二種類の記号(表2、仮製図図式欄参照)や、仮製図式とほぼ同じころ作成された「明治18年式図式」に示された松林の大小二種類の記号(表2、明治18年式図式欄参照)それぞれに同じであると判断できる。昭和30年式より前の図式では、鍼葉樹林や濶葉樹林にはそれぞれ大小2種類の相似する記号が使われていて、それらは樹高の違いを反映しているが、仮製図式の松林の2種類の記号も、樹高の違いを示していると考えられている(小椋 1992b、2002)。
広葉樹林は、明治42年式以降は濶葉樹林として一括されるが、仮製図図式では「楢林及椚林」と「雑樹林」のように分けられている。しかし、この2種の記号は類似する円型記号で表記されていて判別が難しいうえに、解析の対象とした「明治24年 田邊村」では、各旧村の面積の一部(<5%)を占めるのみなので、本研究では明治42年式に準じ濶葉樹林として一括した。
(2) 土地利用の変化
旧四カ村の1888(明治21)年、1908(明治41)年、1922(大正11)年および1970年代(昭和45年と47年)の各時代における植生あるいは土地利用の分布を図2に、また旧村ごとの各植生および土地利用ごとの面積比率を図3に示す。以降の議論では、耕地と茶畑や果樹園を含む農地と集落を「農業地」、荒地、草地、森林、竹林などの直接農業に関わらない傾斜地の土地利用を「林野」、さらに河川敷を主とする農業地にも林野にも当てはまらない土地利用を一括して「その他」として区分した。ただし、その他は各時代の各村の5%以下と小面積にとどまっている。
※各棒を結ぶ実線は、農業地(上部)と林野(下部)の境界。破線は林地(上部)と無立木地(下部)の境界を示す。
1888年では旧四カ村の51.6%を農業地が、45.5%を林野が占め、ほぼ拮抗していた。また、それぞれの旧村ごとの農業地の面積比率は薪村が35.0%とやや小さく、他の三村では55.2~59.0%であった。一方、林野の面積比率は薪村が63.5%と大きな値を示したが、他の三村では36.9~44.8%であった。農業地は、旧四カ村ともに1908年と1922年でやや減少し、1970年代に回復しているものの、両者の比率や分布域に、1888年から1970年代までの約80年間に大きな変化はみられない。
1888年における林野の内部構成をみると、旧四カ村共に林野面積の過半(51.5~74.0%)は荒地、草地あるいはそれらの混合地として標記された無立木地であった。次いで広い面積を占めていたのは松林(小)(16.9~41.8%)であった。一方、松林(大)は僅かな面積比率にとどまっていた(0.0~4.0%)。なお、杉林や檜林など、松林以外の針葉樹林はみられない。濶葉樹林は(小)、(大)ともに面積比率は低く、それぞれ1.5~6.1%、0~2.0%であった。約20年後の1908年には無立木地は大幅に減少し、その面積比率は各旧村の林野の半分以下(14.4~45.4%)となる。代わって鍼葉樹林(大)が拡大し、各旧村の林野面積の38.0~70.8%を占めるようになった。また、松井村では竹林がやや拡大した。1922年には無立木地はさらに減少し、林野面積の0~14.2%だった。鍼葉樹林(大)は引き続き優占し、38.6~60.0%を占めたが、田邊村においては減少し、代わりに鍼葉樹林(小)が拡大した。松井、大住、薪の各村では、わずかながら濶葉樹林(小)がみられるようになる(4.6~10.8%)。
鍼葉樹林と濶葉樹林それぞれの(大)と(小)を合わせた区域を森林とすると、森林面積は1888年には非農地面積の22.6~46.0%であったが、1922年には80.4~96.8%を占めるようになり、丘陵地はほぼ森林化されていた。1922年時点で森林化の大半を占めていた鍼葉樹林が、どのような土地利用区分から移行したのか、1888年の土地利用分布と重ね合わせて旧村ごとに判別し、面積を基準に集計したところ、各村共に1922年の鍼葉樹林(小)の大半は1888年には無立木地であり(52.9~82.6%)、次いで鍼葉樹林(小)であった(10.0~28.1%)。鍼葉樹林(大)も各旧村共に、1888年にはほぼ過半は無立木地であり(48.0~79.1%)、次いで鍼葉樹林(小)(12.4~44.8%)が占めていた。
1970年代には無立木地はごく僅か(0~1.2%)となっていた。この年代の図式では、針葉樹林(鍼葉樹林)および広葉樹林(濶葉樹林)の記号の大小区分が廃止されている。そのため、1970年代の針葉樹林、広葉樹林それぞれの面積を、1922年の鍼葉樹林(大)と鍼葉樹林(小)、濶葉樹林(大)と濶葉樹林(小)それぞれを合算した面積と比較した。森林の総面積は大住村と薪村では大きな変化はなかったが、松井村と田邊村では二割以上減少していた。森林の構成は1922年に比べて大きく変化し、旧四カ村ともに針葉樹林が減少していた。針葉樹林(鍼葉樹林)は、1922年には各旧村の林野面積の大半を占めるまで拡大したが、1970年代初頭には再び30%以下になっていた。代わって広葉樹林が増加し、林野面積の約30~50%を占めていた。1970年代の広葉樹林面積の66.3~86.5%は、1922年の図版の鍼葉樹林(大)および(小)から移行していた。
竹林は1888年には各旧村の一部(林野面積の1.2~7.3%)を占めるに過ぎなかった。その後1922年に松井村では13.1%に拡大したが、他の三カ村では拡大はみられない。しかし、1922年から1970年代の間では四カ村共に大きく拡大し、林野面積の19.5~37.5%を占めるようになっていた。1970年代の竹林の分布域を旧村ごとに1922年の土地利用と比較すると、1922年時点で竹林であったところは3.7~14.7%に止まり、多くは鍼葉樹林や濶葉樹林などの森林(21.1~72.3%)、あるいは茶畑や果樹園などの樹園地(1.4~41.3%)から移行していた(図2)。
各旧村の35.5~61.5%を占めていた農業地の割合は、1970年代まで大きな変化はみられない(図2、3)。農業地のうちでは、1970年代になって松井村以外では集落の面積割合が拡大し、水田や畑で構成される耕地はやや減少した。茶畑、桑畑、果樹園などを含む樹園地は、林野との境界となる場所を中心に配置され、1888年には合計でそれぞれの旧村の農業地の6.2~14.7%前後を占めていた。1908年には大住村と薪村で拡大したが、1970年代には旧四カ村共に縮小し、0.4~8.4%になっていた。
以上、四つの旧村を分けて記し図化したが、図4はそれら旧四カ村全体の各時代における植生あるいは土地利用の分布を、また図5は同じく旧四カ村全体の各時代における各植生あるいは土地利用ごとの面積比率を示すものである。
※各棒を結ぶ実線は、農業地(上部)と林野(下部)の境界。破線は林地(上部)と無立木地(下部)の境界を示す。
5 考察
研究対象地である旧四カ村それぞれの南西部に広がる丘陵地では、明治中期の1888年頃には過半が荒地や草地、ハゲ山、あるいはそれらの混合地などの無立木地であり、地形図で森林とみなされた区域は狭小であった。その後森林化が進み、34年後の1922(大正11)年には、旧四カ村ともに丘陵地の大半は針葉樹林に覆われていたことを地形図は示している。本研究対象地の里山景観では、森林は近代に入ってからの明治期後半から拡大し、卓越するようになったと結論づけられる。これは小椋(2012)による全国の草地の時系列的な減少過程の推定結果で、明治期に草地面積が大きく減少していたこと、同じ京都府南部の木津川市鹿背山地区(岩佐ら 2010)や関東の茨城県南部(スプレイグ・岩崎 2009)、房総丘陵や筑波山地(小椋 2019)においても明治後半に草地が急減し森林化が進んだとされていることに同期している。一方、丹後半島(深町ら 1996)や岡山県北部(小椋 2011;増井 2019)や広島県北部(小椋 2018)の山間では、より遅れて20世紀中期以降に荒地や草地が減少し、森林化が進んだことが報告されている。この限りにおいて、明治期に森林化が進んだとする報告が平野部や低標高な丘陵地での事例であるのに対し、20世紀中期以降に森林化したという報告はいずれも山間部の事例であった。里山を取り巻く経済・社会的な状況の地理的な違いが、森林化の時期のずれに影響した可能性が考えられる。
旧四カ村の丘陵部に明治中期に広く存在した森林として表現されない土地、つまり無立木地には、土崩や土流などの土壌浸食、尋常荒地、草地、篠原、矮松地など多様な様相の土地被覆が含まれる。小椋(2002)は、京都盆地周辺の仮製地形図の植生に関する地図記号の分布と、同時期の1881(明治14)年から1884(明治17)年にかけてまとめられた『京都府地誌』の記述などを照合し、尋常荒地の典型はススキ草原、草地の典型はシバ草原ではないかという仮説を提示している。一般的にススキ草原やシバ草原は、それぞれ採草や放牧、家畜密度の高い放牧に利用されてきたところに発達する人為植生であり、管理のための火入れを伴うことが多い。土壌浸食は植生の過剰利用により引き起こされることが多く、遅くとも室町時代後期から近代初期において、京都近郊の起伏地でも同じ理由により林地の荒廃が進んでいたとされる(小椋 1992a、 2012)。旧四カ村の丘陵地でも、明治初頭にはまだ植物資源の過剰利用により植生が劣化した状況が引き継がれていて、1872(明治5)年に作成された『松井村明細記』には、薪炭採取地においても立木が乏しかったと記録されている(田辺町近代誌編さん委員会 1987)。
明治後期の丘陵地に成立した森林は、地図記号によればほぼ松林であった。西日本の内陸の低標高地という立地から、それはアカマツ林であったと考えられる。それから約80年近く経過した1970年代の地形図で表示された「針葉樹林」も、昭和58年度調査の現存植生図(環境庁 1988)と突き合わせると、針葉樹人工林は極めて小面積であり、大半はアカマツの天然生林に分類される森林であったと推定される。アカマツは地表に鉱物質土壌が露出した疎開地を好んで更新し、一斉林を形成する(四手井編 1963)。この地域の丘陵地を19世紀後半から20世紀中期までアカマツ林が形成されていたことは、それ以前にその場所が、少なくとも一時的には表土層が劣化した疎開地であったことを示唆している。
1888、1908、1922年測量の図幅では、森林を表す各地図記号には大・小二つの大きさがあるが、これは樹高の違いを表現していると考えられる。仮製地形図の樹林記号の大・小の基準を示した文献は見当たらないが、小椋(1992b、2002)は前出の『京都府地誌』の森林の状況に関する記述と仮製地形図の記号を対比し、仮製地形図では一般に高さが3間(約5.4m)または5mのあたりで森林の大小が分けられていたと考えられること、さらに1間半(約2.7m)にも満たないマツを中心とした林も広く存在していたと考えられることを述べている。小椋の見解が本研究で解析した図幅にも当てはまると仮定すると、旧四カ村では、明治後半から大正期にかけて時代が進むにつれ、無立木地が低いマツ林、そして樹高の高いマツ林へと変化していった様子を、図2~5から読み取ることができるだろう。なお、仮製図図式では明治24年図式以降出現する矮松地の記号はない。
京都盆地周辺の起伏地が明治後期に一斉に森林化した背景として、小椋(2012)は、明治初期から中期にかけて、行政による林地の過剰利用の規制が始まったことと、無立木地の緑化が推進されたことを挙げている。前者としては、京都府が発布した伐採規制(1872(明治5)年)、火入れ規制(1874(明治7)年、1883(明治16)年、1886(明治19)年)、伐採や下草刈り、落葉掻きを制限する共有林管理の強化(1883(明治16)年)などがある(京都府立総合資料館 1972)。松井地区でも1891(明治24)年に『綴喜郡大住村大字松井共有林管理規定』が締結され(田辺町近代誌編さん委員会 1987)共有林の管理が強化されていた。しかし緑化については、当地域における実施状況はあきらかではない。
明治後期に研究対象地内の丘陵地が一斉に森林化した背景としては、行政的措置による山地植生の過剰利用抑制の他に、利用の必要性が低下したことも考えられるだろう。近世における主要な山地利用としては刈敷と呼ばれる緑肥の生産があり、研究対象地一帯でも盛んに行われていた。例えば、17世紀後半には、隣接する城陽市や宇治市近辺の山々は、主に草山として田畑に施用する刈敷を採取するために維持されていて、一部に小松の生育する山と、全く草木を欠くハゲ山があった(水本 2009)。同じく研究対象地近傍の木津郷惣山の九ヶ村共有林では、江戸時代後期から明治時代初期にかけて、下枝や下草を採取して刈草・厩肥・藁・草木・灰などの形で肥料として使用し、その一部は船で京に向けても運ばれた(水本 1990)。しかし、全国的な傾向として、江戸末期には徐々に身欠き鰊や油粕などの金肥の利用が進み、明治に入ると刈敷採取は減少し、地域差はあるものの昭和初期にかけて草山・柴山管理は衰退していったことが知られている(古島 1955)。研究対象地における刈敷利用についての情報は見つかっていないが、対象地の一画にある甘南備山は、古くから薪や柴を採取するための入会地であり、周辺地域では1945(昭和20)年代後半ごろまで柴刈りが行われていたことが報告されている(薪区文化委員会 2014)。
明治後半以降に成立したと推定される丘陵地のアカマツを主とする針葉樹林は、1970年頃にはその面積が減少に転じ、代わって広葉樹林が広がり始める。1970年頃に旧四カ村において広葉樹林に区分された区域は、概ね1983(昭和58)年度調査の現存植生図(環境庁 1988)の中の、コナラ群落あるいはクヌギ-コナラ群落に重なる。これは、植生遷移や進入した広葉樹の成長に伴い、アカマツ林から移行したものであろう。この時期にアカマツ林が減少した理由としては、伐採などの跡に、中下層に前生樹として進入していた広葉樹や、伐採後に更新した広葉樹により後継林が成立したことが考えられる。また、マツノザイセンチュウ病によるアカマツ林の崩壊も考えられるが、関西地方で大発生が始まるのは地形図測量中の1971年からであり、発生数が最高に達するのは1980年頃であるため、1970年代前半に発行された25000分1地形図の地図記号では、まだ大発生の被害が反映されていない可能性が高い。
明治後期から大正期にかけて、丘陵地では無立木地から森林への変化が一斉に進んだのに対し、丘陵地の末端の農業地では様々な土地利用が行われた。明治前半の南城山の丘陵地では、お茶と共に桃、烏梅、柿渋、蜜柑、筍など、多様な特産物が生産されていた(京都府立山城郷土資料館 2017)。調査対象域の丘陵地の末端部も1888、1908、1922年の各時点では、茶畑や果樹園として利用されていた。1873(明治6)年に製作された『松井村農産物高調帳』では、松井村から域外への輸出品の中に、お茶の他にミカンやサツマイモが挙げられている(村田編 1968)。また梅は、過去には主に紅染に用いられていたが、1874(明治7)年ごろから食用の販売が盛んになった。宇治などの玉露生産に比べて収益性の低い煎茶生産が主流であった木津川中流域では(武田 1998)、輸出用製茶の需要低下と、一方での梅干しの需要増加に押され、茶から梅園へと転換が進んだと考えられている(京都府立山城郷土資料館 2017)。また田邊村では、1880(明治13)年ごろ同村の加藤某が発見した牡丹杏(ボタンキョウ、スモモの品種)や、1882(明治15)年ごろ同村の村田某が摂津の池田地方で苗を求めた巴旦杏(ハタンンキョウ、スモモの品種)がこの地域のやせ地に適合していたため、その後栽培地域が拡大した(村田編 1968)。このようにこの地域の丘陵において、明治期には梅とともに梨や桃、李といった果物が特産物であったが、昭和期以降、梅以外は次第に衰退した(村田編 1968)。
竹林は、旧松井村でいち早く1888年には拡大し始めているが、松井村に隣接する八幡市は江戸時代より筍の産地であり、当時筍栽培が拡大していたので(八幡市教育委員会 2005)、その影響をうけた可能性がある。1970年代では竹林が大きく拡大しているが、調査地を含む京都南部のこの時期の竹林の拡大は、1950年代以降の植栽による影響が大きいと指摘されている(鳥居・井鷺 1997)。
このように、丘陵末端部では、果樹栽培などのように旧村それぞれの選択に基づくと思われる土地利用の変化がみられた。これは、明治後半から大正期にかけて発生した丘陵部の森林化が、行政による指導や農業技術の変化といった地域外部からの力により引き起こされたと考えられるものであり、旧村の違いを超えて画一的な変化を示したことと対照的であった。
補記
本稿は、宮田ほか(2022)論文「近代における京阪奈丘陵地北部の里山景観の森林化過程」(日本森林学会 104(4) 205-213)をもとに、京都府レッドデータブック改訂版に向けて加筆修正をおこなうとともに図をカラー化するなどしたものである。
文献一覧
- Foster DR(1992)Land-use history(1730-1990)and vegetation dynamics in central New England USA, J Ecol, 80: 753-772
- Ito S, Nakayama R, Buckley GP(2004)Effects of previous land-use on plant species diversity in semi-natural and plantation forests in a warm temperate region in southeastern Kyushu Japan. For Ecol Manag, 196: 213-225
- Mitani E, Osumi K(2022)Long-term nucleation effect of remnant trees in a temperate forest established on abandoned grassland, Acta Oecol, 114: 103794
- Ohta Y, Tsutsumi M, Watanebe S, Inoue M, Shirakawa K, Yokogawa M,Sakuma T, Toma M, Takahashi Y(2021)Changes in the distribution of grassland in the twentieth century in the Chugoku region of western Japan, Landsc Ecol Eng, 18: 125-130
- Osumi K(2005)Reciprocal distribution of two congeneric trees, Betula platyphylla var. japonica and Betula maximowicziana, in a landscape dominated by anthropogenic disturbances in northeastern Japan, J Biogeogr, 32: 2057-2068
- QGIS Development Team(2018)QGIS Geographic Information System. Open Source Geospatial Foundation Project, http://qgis.osgeo.org, (2021年11月6日確認)
- Rackham O(2006)Woodlands, Harper Collins
- 岩佐匡展、深町加津技、奥敬一、福井亘、堀内美緒、三好岩生(2010)大都市近郊に位置する京都府木津川市鹿背山地区における1880年代以降の里山景観の変遷 農村計画学会誌 28: 321-326
- 小椋純一(1992a)絵図から読み解く人と景観の歴史 雄山閣出版
- 小椋純一(1992b)明治中期における京都近郊山地の植生景観 造園雑誌 55: 37-42
- 小椋純一(1996)植生からよむ日本人のくらし―明治期を中心に― 雄山閣出版
- 小椋純一(2002)明治中期における京都府南部の里山の植生景観(京都府レッドデータブック下巻、京都府企画環境部環境企画課編) 京都府企画環境部環境企画課 354-371
- 小椋純一(2011)高度経済成長期を契機とした植生景観の変化について 国立歴史民俗博物館研究報告 171: 223-261
- 小椋純一(2012)森と草原の歴史―日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか― 古今書院
- 小椋純一(2018)高度経済成長期を画期とした西中国山地の植生景観変化とその背景について 国立歴史民俗博物館研究報告 207:43-77
- 小椋純一(2019)房総丘陵と筑波山地における明治前期から後期にかけての草原の減少 生物科学70-4: 217-224
- 大住克博(2003)北上山地の広葉樹林の成立における人為撹乱の役割 植生史研究 11: 53-59
- 大住克博(2022)里山と刈敷―我々は農業を見ずに「里山」を理解しようとしていないだろうか? 地域自然史と保全 43: 111-122
- 大森八四郎編(1964)地形図図式変遷表 地図2: 付表
- 環境庁(1988)現存植生図京都南西部・大阪北東部・奈良第三回自然環境保全基礎調査(植生調査)―昭和58年度調査― 環境庁
- 環境省(2021)里地里山とは https://www.env.go.jp/nature/satoyama/top.html(2025年3月18日確認)
- 京都府立総合資料館(1972)京都府百年の資料―3 農林・水産編― 京都府
- 京都府立山城郷土資料館(2017)茶どころ南山城―茶園景観と歴史― 京都府立山城郷土資料館
- 黒田俊雄(1975)日本中世の国家と宗教 岩波書店
- 国土地理院編(1984)地形図集 国土地理院技術資料:C・1(132) 国土地図センター
- 四手井綱英編(1963)アカマツ林の造成:基礎と実際 地球社
- 四手井綱英(1974)もりやはやし 中央公論社
- 須賀丈、岡本透、丑丸敦史(2019)草地と日本人[増補版]縄文人からつづく草地利用と生態系 築地書館
- スプレイグ デイビッド、岩崎亘典(2009)迅速測図をはじめとする各種地図のGIS解析による茨城県南部における農村土地利用の時系列変化の研究 ランドスケープ研究 72: 623-626
- 薪区文化委員会(2014)薪のいま・むかし 薪区文化委員会
- 武内和彦(2001)里山の自然をどうとらえるか 里山の環境学 武内和彦、鷲谷いづみ、恒川篤史編 東京大学出版会 1-38
- 武田晴人(1998)上狛村の階層構成と茶業の担い手たち 近世・近代の南山城 綿作から茶業へ(石井寛治、林玲子編) 東京大学出版会 315-350
- 田辺町近代誌編さん委員会(1987)田辺町近代誌 田辺町
- 田端英雄(1997)里山の自然 保育社
- 千葉徳爾(1991)増補改訂はげ山の研究 そしえて
- 所三男(1980)近世林業史の研究 吉川弘文館
- 鳥居厚志、井鷺裕司(1997)京都府南部地域における竹林の分布拡大 日生態誌 47: 31-41
- 中嶋節子(1996)明治初期から中期にかけての京都の森林管理と景観保全 京都の都市景観と山林に関する研究 日本建築学会計画系論文集 481: 213-222
- 深町加津枝、奥敬一、横張真(1996)京都府上世屋・五十河地区を事例とした里山の経年的変容過程の解明 ランドスケープ研究 60: 521-526
- 古島敏雄(1955)日本林野制度の研究―共同体的林野所有を中心に 東京大学出版会
- 増井太樹(2019)草山利用の歴史的変遷:岡山県蒜山地域を事例として 生物科学 70-4: 205-209
- 水本邦彦(1990)南山城の村々 (けいはんな風土記、関西文化学術研究都市推進機構編) 関西文化学術研究都市推進機構 123-138
- 水本邦彦(2003)草山の語る近世 山川出版社
- 水本邦彦(2009)近世の里山景観―城陽市域を素材に― 南山城・宇治地域を中心とする歴史遺産 文化的景観の研究京都府立大学文化遺産叢書 第1集 菱田哲郎編 京都府立大学文学部史学科 61-69
- 村田太平編(1968)田辺町史 田辺町役場
- 八幡市教育委員会(2005)男山で学ぶ人と森の歴史 京都府八幡市教育委員会
- 山陰加春夫(1990)薪・大住荘の用水・堺相論(けいはんな風土記、関西文化学術研究都市推進機構編) 関西文化学術研究都市推進機構 63-78