京都近郊の変化主に明治以降における運搬手段と暮らしの変化との関係において

はじめに

かつて、京都の市街地で消費された農産物、たきぎ、炭、木材の多くは、近郊で生産されたものが多かった。それらを運搬する方法は時代とともに変化し、その変化に応じて、近郊の産物も変化した。そして運搬手段の変化、暮らしの変化、産物の変化によって、近郊は栄えることもあれば、衰退することもあった。

京都の近郊で荷車が増えてくるのは、明治時代後半になってからである。それまでは、ものの多くは、川に浮かせて運ぶか、牛馬に載せるか、曳かせるか、人が担ぐか、背負うなどして運ばれたのであった。そしてこれらの方法で運べないものは、あっても役に立たないものであった。

ところが道路が整備されて、荷車が使われるようになると、電柱材用のスギのように重いものでも運び出せるようになった。そして電力使用量が増えると、たとえば京都北郊の雲ケ畑のように、電柱材の生産で栄えるところも出てきた。しかし、鉄道や自動車が登場してくると、かつて近郊の暮らしを支えたたきぎ、炭、木材の生産は、遠隔地との厳しい競争にさらされることになった。そして戦後、電気・石油・ガスの使用が進むと、たきぎや炭は使われなくなった。また電柱材用のスギも、耐久性と耐火性にすぐれたコンクリート製電柱に取って代わられ、昭和40年頃からはほとんど使われなくなった。さらに木材も、昭和39年(1964)に外材の輸入が全面的に自由化されると、外材との厳しい競争にさらされるようになった。そして建築物に木材があまり使われなくなると、木が切られることがほとんどなくなった。山に仕事がなくなった今では、京都近郊で廃村、もしくはそれに近い状態になっているところも多い。小論では、古写真をはじめとする諸資料、聞取りをもとに、運搬手段や暮らしの変化との関係において、京都近郊の変化を見たい。

もっとも、農産物、たきぎ、炭、木材のように、ものは近郊から都市へと向かうばかりではなかった。都市のものが近郊へ運ばれ、ものの生産に役立てられることもあった。その代表的なものは、屎尿、灰、乳牛のえさである。都市住民は、近郊農村で生産される農作物を消費して、生活する。その結果として排泄される屎尿は、都市住民にとっては不要物であるが、農民にとっては貴重な肥料となった。また、都市住民が調理や暖房や風呂沸かしをするには、近郊で生産されるたきぎや炭が必要であったが、たきぎや炭を燃やすと、灰が残る。その灰は都市住民にとっては不要物であるが、農民にとっては貴重な肥料となった。さらに、都市で豆腐を作る時に出るおからは、食用にもなるが、変質しやすく、大半は食用に用いられない。用いられないおから、そして精米した時に出るヌカなどは、近郊へ運ばれ、乳牛のえさになった。

しかし戦後、化学肥料・化成肥料が使われるようになると、屎尿は農業生産に使われなくなった。電気・石油・ガスの使用が進むようになると、たきぎや炭は使われなくなり、それらを燃やしてできる灰も排出されなくなった。また牛乳生産は、牛の排泄物の臭いや、牛の排泄物に集まるハエに関する苦情が寄せられるようになり、近郊では見られなくなっていった。小論では、屎尿と灰を使っての農業生産、おからなどを使っての牛乳生産に関しても、運搬手段や暮らしの変化との関係において京都近郊の変化を見たい。

近郊から都市へのものの流れ

(1) 筏・舟による運搬と北山地域

川に浮かせて運んだものとしては、木材と薪を挙げることができるであろう。建築用の木材は、川に流し、それを筏に組めるところからは、筏に組んで運び、薪はその筏に載せて、あるいは舟に載せて運んだのである。もっとも、京都の北山・洛北地域では、木を流し、筏に組めるほどの水量があったのは、大堰川・保津川だけであった。大堰川・保津川の川沿いでは、建築材となる木を育て、切った木を川に流し、筏に組めるところからは筏に組み、その上に薪を載せて、嵯峨、梅津、桂まで流したのである。

写真1 大堰川でかつて木を筏に組んで流した最上流地点。ここから下流では、筏流しが行われた。花脊原地新田。2007年。
写真1 大堰川でかつて木を筏に組んで流した最上流地点。ここから下流では、筏流しが行われた。花脊原地新田。2007年。
写真2 筏流し。保津峡。1935年頃。
写真2 筏流し。保津峡。1935年頃。
写真3 薪舟。宇治川。
写真3 薪舟。宇治川。1930年頃。
写真4 舟で荷を運ぶと、舟を上流まで引き戻さなければならない。保津川。1940年頃。
写真4 舟で荷を運ぶと、舟を上流まで引き戻さなければならない。保津川。1940年頃。
写真5 桂川の渡月橋下流の貯木場。背後に見えるのは罧原堤。1907年~1918年。
写真5 桂川の渡月橋下流の貯木場。背後に見えるのは罧原堤。1907年~1918年。

このうち筏に関しては、明治21年(1888)~明治41年(1908)には、年間2,000~3,000乗が流されていたようである。その筏は、西高瀬川が開鑿されてからは、嵯峨で約半分の幅に解体され、千本三条まで流送されるようになった1

写真6 A家の木場跡。写真中央は高鼻川、写真右側は有栖川。嵯峨野高田町。2021年。
写真6 A家の木場跡。写真中央は高鼻川、写真右側は有栖川。嵯峨野高田町。2021年。

他方、筏や舟で運び出された丹波のたきぎは、幕末で年間約50万束(1束=長さ約91cm・重さ11.3kg)といわれている2。そして嵯峨には、安政2年(1855)に76軒のたきぎ屋があった3。そのようなたきぎ屋の一つであったA家(嵯峨野高田町)は、運ばれてきたたきぎを幅の狭い小舟に載せ、西高瀬川と写真6中央の高鼻川を使って写真6左側の木場まで運び、そこで短く切り、乾かしたうえで、京都の公家宅や民家に売っていたのである。もっとも、たきぎ屋としてのA家は、蛤御門の変(1864年)で得意先の多くが火事で燃え、代金を回収できなくなり、倒産したという。

(2) 人力・畜力による運搬と北山地域

大堰川・保津川沿い以外の地域では、自分たちの家の建て替え用にスギやヒノキを植えることはあっても、販売用にスギやヒノキを植えることは、人が担いで運べる程度の長さと太さの床柱を生産した中川・小野郷地区を除き、ほとんどなかった。

写真7 スギ丸太みがき。この程度の長さと太さなので、スギ丸太を人が担いで運ぶことができた。中川。昭和36年(1961)頃。
写真7 スギ丸太みがき。この程度の長さと太さなので、スギ丸太を人が担いで運ぶことができた。中川。昭和36年(1961)頃。

例えば京都へ出るのに萬壽峠を越えていた時代における雲ケ畑では、京都への運搬に荷車を使えず、運搬を人力・畜力に頼っていたので、人力・畜力で運べないものは、あっても、それを利用できなかった。そのため雲ケ畑では、柴・薪・黒木として売ることができるものを育て、自家建築用材としては栗を重用し、スギやヒノキは時々使う程度であり、マツなどは柴に害があるとして伐除したという4。そのような時代の延享・寛延年間(1744~1751)の頃、雲ケ畑の波多野儀左衛門は、スギやヒノキが建築用材として良好であると考え、路辺や谷川沿いなど、柴に適さないところを選び、少しだけ挿杉を始めた。そしてその子孫も挿杉を続け、スギやヒノキの種子の植え付けもした(文化年間(1804~1818)~天保年間(1831~1845)の頃)。ところが、挿杉、スギやヒノキの種子の植え付けを、雲ケ畑の村人は嗤笑ししょうしたという。事情は鞍馬や大原でも同じであった。人々は柴・薪・黒木として売ることができるものを育て、それを収穫して、商品として売ったのである。

写真8 鞍馬寺仁王門付近。明治20年(1887)頃。仁王門付近を除き、山では主に雑木が見られる。
写真8 鞍馬寺仁王門付近。明治20年(1887)頃。仁王門付近を除き、山では主に雑木が見られる。

(3) 鞍馬街道・敦賀街道(大原を通る街道)における物資の運搬

雲ケ畑、鞍馬、大原から京都の出町へは、谷筋は異なるが、その距離は大きくは異ならない。では、出町へ運び込まれた柴・薪・黒木は、雲ケ畑、鞍馬、大原のいずれを通る街道を通って一番多く運ばれてきていたのか。

それは鞍馬を通る街道であった。炭も、その多くは鞍馬を通って出町へ運ばれた。出町は、雲ケ畑、鞍馬、大原から徒歩で日帰りできる距離にあるが、それでも荷を少しでも軽くしようと、雲ケ畑、鞍馬、大原ではもちろんのこと、雲ケ畑、鞍馬、大原からよりは出町に近い八瀬でも黒木が生産されていた5ので、出町からの距離が遠くなる雲ケ畑、鞍馬、大原より北の地域では、荷を少しでも軽くするために、柴や薪よりもむしろ炭が生産されていたが、その炭に関しても、その多くは鞍馬へ運ばれ、産地名ではなく、中継地の名をとり、「鞍馬炭」として京都で売られていたのである。

図表1 『愛宕郡村志』(1911年)に記されている静市野、鞍馬、花脊の薪と炭6
薪(棚) 炭(貫)
静市野 350 1440
鞍馬 1720 10000
花脊 1500 300000
鞍馬街道経由(計) 3570 311440
図表2 『愛宕郡村志』(1911年)に記されている八瀬、大原の薪と炭7
薪(棚) 炭(貫)
八瀬 500
大原 1600 50000
敦賀街道経由(計) 2100 50000

図表1・2によると、鞍馬街道を通って運ばれたと思われる薪は、敦賀街道を通って運ばれたと思われる薪の1.7倍であり、鞍馬街道を通って運ばれたと思われる炭は、敦賀街道を通って運ばれたと思われる炭の約6.2倍である。しかも、大原地域に含まれる尾越、大見、百井の炭のかなりが鞍馬経由で運ばれたと思われるので、鞍馬街道を通って運ばれた炭は、敦賀街道を通って運ばれた炭の6.2倍どころか、10倍にはなったであろう8

では、柴や薪や炭は、なぜ鞍馬経由で運ばれることが多かったのか。かつては運搬を畜力と人力に頼ることが多かったのであるが、畜力と人力を比較すれば、畜力の方がはるかに大きい。それゆえ、牛馬が通りやすい道が、運搬に選ばれたと思われる。そうすると、京都へ出るのに海抜400m以上の萬壽峠を越えなければならない雲ケ畑が選ばれなかったのは、容易に理解できる。

では、敦賀街道よりも鞍馬街道が選ばれたのは、なぜであろうか。それは、敦賀街道が鞍馬街道よりも狭かったからであろう。安永年間(1772~1781)の末、京に遊び、『見た京物語』を著した二鐘亭半山は、「鞍馬は左にあらねども、大原は山道せばく、大原女の馬をき京へ商ひに出かかりたる所へ行きかかりなどすると、一騎立の道ゆゑこまる。是はつづらをりの山道なればなり。馬首もつるるゆゑ暫くよどむ9」と書いている。大原から京都への道は狭く、大原女が馬をいて京へ柴を商いに出てくるのに出会ったりすると、道が狭く、すれ違うのに困ったのであるが、鞍馬から京都への道はそれほどでもなかったというのである。

写真9 背にたきぎを載せた馬を牽く女性。上賀茂の御薗橋東詰。1912年以前。
写真9 背にたきぎを載せた馬を牽く女性。上賀茂の御薗橋東詰。1912年以前。
写真10 背に薪を八束載せた牛を牽き、自らは薪を二束頭上にいただいている小原女(八瀬の女性)。1918年~1933年。
写真10 背に薪を八束載せた牛を牽き、自らは薪を二束頭上にいただいている小原女(八瀬の女性)。1918年~1933年。

では敦賀街道のどこが狭かったのか。一つは、大原~八瀬間の比叡山のすそである。大原から八瀬へ向かうのに、現在では花尻橋、美濃瀬橋を通るが、明治22年(1889)頃に作成されたと思われる仮製地図には、そのような橋はなく、大原から八瀬へ向かう道は、比叡山の山すそを通っていた。そこが狭かったようである10。もう一つは、上高野崇道神社の東側である。そこでは、巨岩が高野川にせり出し、人が一人通るのがやっとであったという11。これらの箇所では、牛馬が多く行き交うと困ったので、多数の牛馬によって柴や薪や炭や黒木を運ぶのが難しく、それが運搬量の差となって現れたと思われる。

図表3 山城州大絵図(1778年)の洛北の部分。大原へ向かう道は上高野の「古城跡」と記されたところの東側で高野川を渡っている。京都府立京都学・歴彩館所蔵。
図表3 山城州大絵図(1778年)の洛北の部分。大原へ向かう道は上高野の「古城跡」と記されたところの東側で高野川を渡っている。京都府立京都学・歴彩館所蔵。
図表4 若狭街道関係地名図
図表4 若狭街道関係地名図
写真11 かつての鞍馬街道(写真右側)。二ノ瀬。1961年。
写真11 かつての鞍馬街道(写真右側)。二ノ瀬。1961年。

もっとも、鞍馬には田がないので、鞍馬で牛馬を飼うことは難しく、鞍馬の人が自らの牛馬で柴や炭を運ぶことはあまりなかったであろう。ではどこの人が、牛馬を使って、鞍馬から柴や炭を運んだのか。それは鞍馬と京都の間の村、具体的には市原、幡枝、岩倉、深泥池、上賀茂、下鴨、松ヶ崎、紫竹村などの人であった12。これらの村には田畑があり、人々は、農耕の合間に牛馬を使って、鞍馬から柴や薪や炭を京都へ運び、京都からは生活必需品を鞍馬へ運んだのである。そして鞍馬の人は、花脊、百井、大見、尾越などから炭や山椒やフキを運んできた人に、生活必需品を売ったのであった。鞍馬が「船のない港」と呼ばれたのは、そのためである。

写真12 フキを洗う人。尾越。1960年頃。
写真12 フキを洗う人。尾越。1960年頃。

鞍馬は昆布、山椒の葉・実・皮、フキなどを醤油で煮たものなどで有名であるが、山椒やフキはともかくも、昆布は鞍馬では採れず、醤油も商業的には造られていなかった。それにもかかわらず、鞍馬で昆布、山椒の葉・実・皮、フキなどを醤油で煮たものが作られたのは、鞍馬が中継貿易地であり、花脊、百井、大見、尾越などから運ばれてきた山椒やフキ、京都あるいは若狭から運ばれてきた昆布、京都から運ばれてきた醤油を使えたからではないか。

写真13 サンショウの軸を取り除いているところ。鞍馬。1974年。
写真13 サンショウの軸を取り除いているところ。鞍馬。1974年。

(4) 鞍馬・尾越・久多と若狭街道

鞍馬には、花脊、百井、大見、尾越の炭だけではなく、かつては久多の炭も運ばれていた。しかし鞍馬は、久多から徒歩で日帰りできる距離にはない。そこで久多の人は尾越へ炭を運び、尾越の3軒の中継問屋が鞍馬へ炭を運んだのであった13

しかし、京都市最北端の久多の人は、その炭をなぜ尾越に運んだのか。

久多は、朽木(現・滋賀県高島市朽木)とともに安曇川水系に属し、安曇川水系の多くの地域と同様、思子淵神をまつり、江戸時代には、久多の大半と朽木は朽木氏に支配されていた。久多(海抜400m前後)から京都側へ約10㎞離れた現・京都市左京区尾越へ行こうと思えば、海抜867mほどのオグロ坂峠を越えなければならないが、久多から安曇川水系に沿って東へ約3.4㎞離れた現・大津市葛川梅ノ木への道は、下りである。それゆえ久多は、同じ安曇川水系の朽木と、文化的にも地理的にも近そうである。

しかし、久多から梅ノ木への道は、『愛宕郡村志』(1911年)によると、険悪な山道であり、牛馬を通せなかったので、人が背負うよりほかに荷物を運ぶ方法はなかったという14。他方、久多から尾越へは、オグロ坂峠を越えなければならないが、牛馬でも通ることができ、しかも尾越の人は、梅ノ木の人よりも少し高く炭を買ってくれた。そして人口465人の久多村に63頭の牝牛がいた(1878年)のであった15

地理的・文化的には朽木に属していても不思議ではない久多が、京都の愛宕郡に属していたのは、経済的に京都と強く結びついていたからであろう。また、徳川家康は、敦賀から退軍する時、根来坂、針畑、鞍馬経由で京都へ戻っている16が、それは、小浜から根来坂、針畑、久多、鞍馬を通るこの道が、馬でも通ることのできる安定した道であったからであろう。そして久多に関所が置かれていた時代があったのは、この道が小浜と京都を結ぶ最短の道であり、よく使われていたからであろう17

しかし明治22年(1889)頃からの木材需要急増期以後に盛んになった筏流しの筏に、炭が載せられ、安曇川が琵琶湖に注ぎ込むところにある船木港へ運ばれるようになると、久多の人は、炭を尾越へ運ばなくなっていった。そして。途中越からはなおれ峠を経て安曇川沿いに朽木へ至る道が、大正9年(1920)に県道として整備されると、久多から尾越へ越える道は、全く廃道と化したのであった18

また、若狭から久多、尾越、鞍馬を通っての物流は、大正9年(1920)をまたずとも、鉄道が、明治17年(1884)に金ケ崎(現・敦賀港)~長浜間全通、明治22年(1889)に東海道線全通、明治29年(1896)に米原~福井間開通、明治32年(1899)に京都~園部間開通、明治43年(1910)に京都~新舞鶴(後の東舞鶴)間全通、大正7年(1918)に敦賀~小浜間開通19などしたことにより、大いに変わり、若狭~京都間における物資の通過点として久多の重要性は、なくなった。

(5) 自動車と鞍馬

鞍馬の北に位置する花脊、百井、大見、尾越の人は、徒歩で鞍馬まで日帰りできたが、京都までは日帰りできなかったので、主産物の炭を鞍馬で売り、生活必需品を鞍馬で買って帰った。その炭を京都まで牛馬の背に載せて運び、京都から生活必需品を鞍馬まで運んでいたのが、鞍馬街道沿いの市原、幡枝、岩倉、深泥池、上賀茂、下鴨、松ヶ崎、紫竹などの人であったことは、先に述べた(第3章)。鞍馬は中継貿易地として栄えたのである。ところが昭和時代初期にトラックを使えるようになると、中継貿易地としての鞍馬の重要性が低下した。もっとも、冬季には積雪のため、また戦争時にはガソリン不足でトラックを使えず、炭の運搬を畜力、人力に頼らざるをえなくなり、鞍馬は、中継貿易地としての地位を保つことができたのであった。

写真14 トラックで炭運び。T型フォード。鞍馬岩仲町。昭和5年(1930)頃。
写真14 トラックで炭運び。T型フォード。鞍馬岩仲町。昭和5年(1930)頃。

その炭が戦争のために品薄になり、値が高くなり、昭和12年(1937)に1円49銭であった白炭1俵20㎏の卸売価格が、昭和17年(1942)には2円96銭になった20。木炭の増産が奨励されたが、ガソリン不足でトラックを使えず、十分な量を運べなくなったことなどにより、消費地には十分な量の木炭が届かなかったようである。昭和14年(1939)頃になると、鞍馬では、約8km離れた百井や別所へ、雨の日を除き、一年中、毎日のように百井峠(標高741m)や花脊峠(標高759m)を歩いて越え、炭2俵(1俵=約15kg)を買って、背負って帰る女性が出てきたのであった。

炭を背負って歩く女性の姿を写した写真15が知人の家から出てきたので、わたしは鞍馬で生まれ育った伯母(1924年生)にそれを見せ、「炭を運んでいる人を見たことある?」と尋ねたところ、伯母は「わたしも運んでいた」という。小学校高等科を出たばかりの伯母は、未明の3時頃に鞍馬の家を出て、一人で百井へ行き、炭2俵を買って朝7時頃に帰宅。炭1俵を持って8時過ぎの電車に乗って出町柳へ行き、出町柳から三条京阪まで歩き、三条京阪からはまた電車に乗って淀、橋本、大久保、寺田、宇治などへ行き、それを米2升や麦やイモなどと交換してもらったというのである。祖母は残りの1俵を換金。翌日、伯母はそのお金を持って百井へ行き、また炭2俵を買って帰るという日々が、薪炭配給統制規則が制定されて統制が厳しくなる昭和18年(1943)頃まで、続いたようである。鞍馬には耕地がほとんどなく、戦争による食糧難の影響を強く受けたため、このようにして食糧を確保する必要があったのであろう。伯母がそのようにして家の生活を支えてくれていたとは、思いもよらないことであった。

写真15 炭運び。花脊峠。昭和26年(1951)頃。
写真15 炭運び。花脊峠。昭和26年(1951)頃。
写真16 炭を運んでもらうためにトラックを待っているところ。昭和30年(1955)頃。尾越。左端の大きな石は、朽木の殿様が尾越で泊まり、馬に乗る時の馬乗り石。邪魔になるので、立てたという。
写真16 炭を運んでもらうためにトラックを待っているところ。昭和30年(1955)頃。尾越。左端の大きな石は、朽木の殿様が尾越で泊まり、馬に乗る時の馬乗り石。邪魔になるので、立てたという。

(6) 荷車と雲ケ畑の電柱生産

運搬を人力・畜力に頼っていた時代に、スギやヒノキが建築用材として良好であると考え、たとえ柴に適さない路辺や谷川沿いなどにであっても、人力・畜力で運べないスギやヒノキを植えていた波多野氏を嗤笑ししょうした雲ケ畑村民もいたのであったが、波多野氏はなおも挿杉を続け、村人の協力を得て、文政5年(1822)、雲ケ畑川沿いに下道を開鑿し、「挽物トナシ牛馬ニ依リ京都ヘ搬出」し始めた。元治元年(1864)の禁門の変によって京都で大火が起こり、木材需要が生じると、雲ケ畑の村人もスギ・ヒノキの造林が村に適していることを知るようになり、明治元年(1868)にはスギ・ヒノキ3,000本を植林した。

波多野氏は、村人と協力して、明治13年(1880)、下道の車坂の険路を付け替え、荷車による運搬を可能にしたという。それまでは、「挽物トナシ牛馬ニ依リ京都ヘ搬出」していたというが、それは、切った木を牛馬に曳かせていたということであろう。荷車による運搬が可能になった結果、より多くの木材を運べるようになったようである。

写真17 牛に木材を曳かせているところ。北山。1935年頃。
写真17 牛に木材を曳かせているところ。北山。1935年頃。
写真18 荷車を使っての御用材搬出。雲ヶ畑出合橋。1928年7月19日。
写真18 荷車を使っての御用材搬出。雲ヶ畑出合橋。1928年7月19日。
写真19 増水で崩れた雲ケ畑下道(大岩付近)。1959年8月。
写真19 増水で崩れた雲ケ畑下道(大岩付近)。1959年8月。

もっとも、下道は川沿いにあるため、大雨による災害には弱く、その維持には大きな労力が必要であった。それでも収入は少しずつ増え、明治14年(1881)以後、100円ほどの収入になり、明治20年(1887)以後、収入が300~400円になり、植林を毎年5万~10万本するようになった。明治30年(1897)以後、電柱用として長木のまま搬出するようになると、収入が700円~1,000円になり、スギ・ヒノキの植林が、90戸未満の雲ケ畑村で、明治37年(1904)以後、毎年40万本を越えるようになったという21

それでも、明治41年(1908)における雲ケ畑村の主要物産の産額は、米1,037円(72石)、丸及び角材6,250円、挽材4,000円、木炭7,000円、薪材10,440円22なので、明治時代末期においては、薪や炭による収入がスギ・ヒノキによる収入より多く、電柱用のスギは、雲ケ畑の最重要産物にはまだなっていなかった。

しかし、昭和10年(1935)度の林産物収入では、スギ材21,650円、木炭11,342円、柴3,197円、檜材2,930円、磨き丸太2,850円となり、スギ材による収入が最も多くなっている23。それは、京都において電燈の普及が進み、電燈の普及に必要な電柱の生産が拡大したからであろう。

関西は北九州から石炭を安価に入手できたので、京都において最初に開業した発電所は、(現・中京区)備前島町の火力発電所であった(明治22年(1889))。その次が、明治24年(1891)に一部竣工した蹴上水力発電所である。明治時代末期から大正時代初期にかけて、大容量水力発電技術の開発が進み、送電技術も進んで、水力電源の開発が進み、大正4年(1915)に電燈料金が下がったこともあり、電燈の普及が京都市においてそのころから急に進んだ。たとえば、京都電燈が現・八瀬比叡山口駅の南側に高野水力発電所(180kW)を完成させたのは、明治33年(1900)であり、小野川(雲ケ畑川)と鞍馬川の合流点付近にある洛北水力発電所の水路が開鑿され、発電機据え付けが竣工したのは、明治41年(1908)8月のことである。そして郡部においても、大正時代末期から昭和時代初期に普及が進んだ。雲ケ畑に電燈がついたのは大正9年(1920)である24。それゆえ、電燈の普及に応じて、電柱の需要が増えたと考えると、電柱生産もその頃に大いに拡大したのであろう。

写真20 鞍馬寺仁王門前。電柱が立っている。1920年頃。
写真20 鞍馬寺仁王門前。電柱が立っている。1920年頃。

 もっとも、電柱の需要が増えたからといって、電柱用のスギをすぐには大量生産できない。電柱として使える程度にスギが成長するには、かなりの年月がかかるからである。その点、雲ケ畑では、明治時代初期からスギが大量に植林されており、明治時代末期から大正時代中期にかけての電柱需要の増大に、対応できたのであった。それゆえ、電柱需要の増大期に十分な量のスギを供給できたことが、雲ケ畑が電柱の生産地として成長することを可能にした理由の一つであったと思われる。

 しかし、本数だけが問題であったのなら、建築材や電柱材としてのスギの有用性に気づいた他の産地も、スギを植林し、荷車でスギ材を搬出できるように道路を整備して、雲ケ畑の競争相手にやがて成長していったであろう。例えば東隣の谷筋の鞍馬でも、雲ケ畑と同様、電柱に必要な長さのスギを生産できたはずである。しかも道路に関しては、『愛宕郡村志』(1911年)に、鞍馬から京都への道は「明治廿七年開修」や、鞍馬「以南は近年開修車運に便なり」と記されているのに対し、雲ケ畑から京都への道に関しては、「明治十三年十二月車坂道を附替へ所々の谷を夷らけ新道を開修せしより本村より以南は荷車を通ずる事となれり即今の道路なり明治二十八年始めて府費の補助を受け工事を起したり」と記されているものの、「道路開修の為め車運の便あり然れども車行の頻煩なるが為め時々道路の損壊を免がれず人力車も稍通行を得べし」と記されており25、鞍馬から京都への道の方が安定していたという印象を受ける。ところが、鞍馬の古老は「鞍馬では電柱用のスギはできなかった」という。

いったい雲ケ畑と鞍馬では、何が違ったのか。電柱を過酷な環境のもとでも折れにくくするため、電柱には、腐朽菌や昆虫の攻撃にさらされないように、防腐処理を施さなければならない。上賀茂朝露ケ原町、西賀茂上庄田町にあった防腐処理工場へ雲ケ畑のスギ材を運んだ経験がある波多野勇氏(大正14年(1925)生)、波多野喜吉氏(大正15年(1926)生)によると、工場では巨大な注薬缶の中で、スギ材の根元から末の方に薬剤(クレオソート油)を注入していたという。ところで、木に節や傷があると、そこから水が入り、腐りやすくなる。その点、雲ケ畑のスギ材は、上の方まで枝打ちが施され、木に節がないので、重宝されたという。電柱の頂上部に切断面ができるが、そこには真鍮製のキャップがかぶせてあった。それゆえ、雲ケ畑のスギに電柱材としての競争力を持たせたのは、枝打ち法であったことになる。

写真21 丹礬注入工場。上賀茂朝露ケ原。左端に見えるのは賀茂川。1925年頃。
写真21 丹礬注入工場。上賀茂朝露ケ原。左端に見えるのは賀茂川。1925年頃。

波多野六之丞は、明治22年(1889)~明治23年頃から「枝打法」が長足の進歩をとげたという。それは、その頃から電柱の需要が発生し、節や傷のない杉材が電柱材として競争力を持つことが明らかになったからではないか。

枝打ちといえば北区中川地区などにおける床柱用の北山丸太が有名であるが、床柱用の北山丸太を作るのに枝打ちをする理由としては、

1.丸太表面に節痕の無い、ツルツルの木肌に仕上げるため。

2.まっすぐに伸び、真円の杉をつくるため。

3.成長を抑え、年輪の詰まった、強度のある干割れしにくい丸太をつくるため。

などが挙げられている。つまり、床柱用にまっすぐで、真円に近く、強度があって、干割れしにくく、節痕が無い美しい磨き丸太をつくるために、枝打ちが行われているのである。

中川地区などが床柱生産に力を入れたのは、木材を筏流しで搬出するには、清滝川の水量が少なく、木材を人力で運び出すには、床柱程度の太さと長さが限度であったからであろう。

ところが雲ケ畑では、明治13年(1880)に車坂の険路を付け替えたことにより、荷車による杉材の運搬が可能になっていた。つまり電柱の太さと長さの杉でも、荷車で運び出せるようになっていたのである。そこで北山丸太の枝打ち法を用い、杉を電柱に使える太さと長さまで育てたのであろう。

電柱として出荷する時は、地中に埋める部分も含めるので、実際に見える長さよりも長い木材として出荷しなければならない。電柱の高さは一律ではなく、用途や場所に合わせ、46尺(≒13.9m)、43尺(≒13m)、40尺(≒12.1m)などで切っていたようである。13.9mほどまで枝打ちをするとなると、その作業は大変なものであったと思われるが、その作業をすることによって、雲ケ畑は電柱という大きな需要を手に入れることができたのであった。

写真22 電柱用の杉材を木馬で運んでいる雲ケ畑の人。この写真の横には「電柱46尺43尺40尺13本」と記されている。大森小ケ谷。1948年4月。
写真22 電柱用の杉材を木馬で運んでいる雲ケ畑の人。この写真の横には「電柱46尺43尺40尺13本」と記されている。大森小ケ谷。1948年4月。

では雲ケ畑は、電柱生産によってどれほどの利益を得たのか。「波多野六之丞家文書」には木材を売却した時の代金がわかるもの(大正10年(1921)12月~大正13年(1924)8月)が少しある26。立木、つまり山に立っている状態の木は、同じ樹種でも太さや長さや質によって、そして搬出しやすいかしにくいかによって値が異なり、また、木材にしてからでも、相場が変わるであろう。しかしそれらを無視して1本あたりの値段を計算すると、杉立木が6.41円、檜立木が12.25円、間伐した松が0.43円であった。檜立木には杉立木の倍近い値がついているが、成長にかかる年月や耐久性を考えると、そうなるのであろう。

さて、大正12年(1923)9月5日に杉立木156本を売却した時の買主は「愛宕郡上加茂丹礬注入工場」であった。「丹礬たんばん」は硫酸銅からなる鉱物であり、除虫剤に用いられるので、それを注入する工場は、杉を電柱用に防腐加工する工場のことであり、その杉立木は電柱用に売却されたと思われる。この時は、杉立木156本を売却した代金として1,000円を受け取っているので、電柱用であっても、山に立っている状態で杉を売れば、1本あたり6.41円であったということであろう。

他方、大正12年(1923)11月5日には、杉電柱材60本を売却した代金として、800円を受け取っている。それゆえ、杉を伐って運び、電柱材として売れば、1本あたり13.33円になったということであろう。杉を立木の状態で売るのではなく、切って電柱材として売ると、成長に長い年月を要する檜の立木よりも高く売れたのである。

さて、電力消費量は、戦時中と戦争直後に低下したが、昭和23年(1948)には昭和18年(1943)の水準にまで回復し、それ以後、ほぼ順調に増加していった。ところが昭和30年代になると、耐久性や耐火性に優れたコンクリート製の電柱が増え始め、木製電柱は使われなくなっていったのである。それでも、雲ヶ畑森林組合の昭和36年(1961)度の業務報告書には受託販売事業実績として「電柱材1834立米」と記されている27。高さ13mの電柱材として計算すると、約1,600本に相当する量である。それゆえ、その頃までは、電柱材生産は雲ケ畑にかなりの富をもたらしたと思われる。

しかしその後は、昭和43年(1968)1月の『雲峯時報』において「この[雲ケ畑森林]組合における収入源の王座は販売部門で電柱生産受託販売である。京都府における唯一の電柱防腐会社へ販売の特殊な取り扱いである28」と述べられているものの、その頃から電柱材への需要が急速になくなっていったのであった。

それでもしばらくは、住宅用の木材やパルプ材にまだ需要があった。スギの価格は、昭和50年(1975)頃までは上昇している。しかしその後は、住宅がどんどん建てられても、そしてパルプ材に需要があっても、外国産の木材が多く使われるようになり、国内産の木材は使われなくなっていった。スギの価格は、昭和50年代中頃から低迷している29。今では、住宅は建てられても、住宅に木があまり使われなくなっている。そうなると、植林されたスギやヒノキは手入れもされずに放置されることになる。そして伐られることなく放置された木が、山の生態系を乱しているだけでなく、2018年9月4日の台風21号のような狂暴化した台風によって倒され、土砂崩れを起こしたところもある。スギは、売れないだけでなく、災害をもたらす危険性を持つようになってしまったのである。

山に仕事がなくなった今では、京都近郊で廃村、もしくはそれに近い状態になっているところも多いが、災害からの復旧が重荷となって、廃村化が加速しているかのような感もある。そして廃村は、地域の文化が消滅することを意味するであろう。

写真23 台風による雲ケ畑たてはら付近の惨状。2018年9月9日。
写真23 台風による雲ケ畑たてはら付近の惨状。2018年9月9日。

(7) 祇園祭のチマキ

京都では民家の入口の脇にチマキがかけられているのをよく見かけるが、それは、疫病や災いからのお守りとして、祇園祭の時に売られているものである。

それに用いられるチマキザサの葉は、『京師巡覧集』(1673年刊)によると市原で、『雍州府志』(1686年頃刊)によると鞍馬で採られ、鞍馬街道を通って運ばれていた。もっとも、産地はいつの頃からかもっと北へ移動し、花脊、そして1990年頃には大原百井でも採られていた。

写真24 チマキザサを束ねているところ。百井。1992年頃の9月。
写真24 チマキザサを束ねているところ。百井。1992年頃の9月。
写真25 ササの葉運び。鞍馬街道。昭和時代初期。
写真25 ササの葉運び。鞍馬街道。昭和時代初期。

花脊や百井の人がチマキザサの葉を採るのは9月か10月。それまでに採った葉は弱く、色が白っぽいという。落葉樹の下に生えているササの葉を採り、束ねて、天日で2日ほど干した後、深泥池まで運んだ。

深泥池の人は、野菜売りなどを通じて鉾町の人と親しくなり、鞍馬街道を行き交う人からササの葉を入手し、チマキを作るようになったのであろう。チマキの中身は、今では岩倉、上高野、亀岡などで育てられた稲のワラである。

まず、ワラを3本ほど手に持ち、先を折り、そこにワラを折ったものを芯として付け加え、その芯の部分をササの葉1枚で包む。それを、畳の切れ端をほぐしたイグサで巻く。そうして作ったチマキを10本束ね、根元の部分をイグサで巻く。こうして作りためたチマキを、6月に鉾町に納品するのである。

さて、そのチマキザサであるが、2004年から2007年にかけて京都市北部において一斉開花現象が起こって、チマキザサが枯れ、ほとんど見られなくなった。花が咲いて、地上部が枯れても、残った地下茎、あるいは結実した種子から芽が出てくるので、ササは再生するはずであるが、出てきた芽を、増えすぎたシカが食べてしまうので、再生が進まないのである。また、薪炭が使われなくなり、チマキザサの生育に適した落葉樹林が減っているという問題もある。深泥池の人は、丹後産、福井県産、長野県産などのササの葉も、チマキに使うようになったが、『雍州府志』に「他産は用ゆるに堪へず」と記されているように、他産地のササの葉は、品質面で京都市北部産に及ばないという。チマキザサの再生が進まないと、香りがよくて葉の裏に毛がない京都市北部産のササを使ったチマキは、見られなくなるのかもしれない。

(8) 鳥捕り

『京都府地誌』(1881年頃)の上賀茂村の物産欄に「小鳥一万五千頭」と記されている小鳥は、昭和22年(1947)まで、現・左京区百井、大見、尾越、右京区京北芹生、北区雲ケ畑などでかすみ網を使って鳥を捕り、上賀茂の商人に売っていた人がいたことを考えると、主に山で捕獲された鳥のことであろう。

山で鳥を捕る場合、鳥を捕る人は、山の所有者と契約して、10月に米や缶詰を持って山に入り、小屋を建てて暮らし、山頂から山頂へ続く峰すじの低くなったところ約100mを、幅1mほど柴刈りした。猟が始まると、柴刈りしたその峰すじに、朝3時、長さ100mのかすみ網を、たるみをつけて拡げ始める。明るくなる前に網を拡げ終え、おとりの鳥を入れた鳥かごをいくつも出して鳴かせ、鳥をおびき寄せた。太陽が昇るまでが勝負の時。網にかかった鳥を「どんごろす」(麻袋)に入れておくと、10時には運び屋が上賀茂柊野から自転車で来て、鳥山で暮らす人が食べる野菜などを配達し、捕れた鳥を上賀茂の商人宅へ運んでくれた。

捕っていたのはツグミ、アトリなど。11月3日前後に一番よく捕れ、300羽ほど捕れる日もあった。その頃に捕れる鳥は、稲の落ち穂を食べており、肉がおいしかったが、鳥がサカキやクスの実を食べる時期になると、肉が臭くなっていったという。鳥を捕っていた人は、11月末には下山した。

昭和20年代初め、アトリは1羽5円、ツグミは30円で売れ、メジロやウグイスは、生かせたまま観賞用にすると、100円ほどで売れたという。

食料事情がずいぶん悪化していた昭和19年(1944)11月に結婚したある夫婦は、鳥を捕っていた人からツグミを分けてもらい、結婚式に来てくれた人に5羽ずつ渡した。もらった人は「あのツグミで作ったトリメシはうまかった」とよく話していた。

鳥の糞も売り物になり、悉皆しっかい屋が買った。鳥の糞が着物のシミ抜き、模様抜きに使われたのである。ウグイスの糞は、肌を白く見せるために使われ、上流階級の奥方、芸者、役者に重宝されたので、それは他の糞といっしょにせず、それだけで売った。

鳥捕りは、染めた網さえあればできるが、網を修理し、おとりを飼わなければならない。しかも、本来は春に鳴く鳥を秋に鳴かせるため、夏には鳥かごに黒い布を貼り、エサを工夫しなければならなかった。鳥山の地元の人が鳥を捕らなかったのは、よいおとりを飼うのが面倒であったからという。

上賀茂の商人は、京都で鳥が売れることに目をつけ、洛北の人を組織して、鳥を入手していたのであろう。

写真26 害鳥としてのスズメ狩り。昭和34年(1959)8月31日。宇治。
写真26 害鳥としてのスズメ狩り。昭和34年(1959)8月31日。宇治。
写真27 害鳥としてのスズメ狩り。昭和34年(1959)8月31日。宇治。
写真27 害鳥としてのスズメ狩り。昭和34年(1959)8月31日。宇治。

(9) 柴と割木

さて、『愛宕郡村志』では、燃料が薪と炭に分けられているのを見た。運搬手段が畜力と人力にほぼ限られていたので、大まかにいえば、消費地から遠い地域では、切った木を蒸し焼きにして炭にし、できるだけ軽くして消費地へ運んだのである。他方、薪は、木を切って、使いやすいように短く切りそろえ、乾かすだけで商品になるが、重く、消費地に比較的近い地域、洛北でいえば、一乗寺、修学院、上高野、八瀬、大原、岩倉、市原、静原、鞍馬、雲ケ畑などで生産された。

炭は比較的高く売れたが、炭を作るには、燃料や手間が必要である。また、炭にマッチの火を近づけたところで、着火させるのは容易ではない。まず、たきつけとして落ち葉などを燃やし、次に小枝を燃やし、しだいに大きい枝、割木やまきを燃やしていくことになる。それゆえ日常生活には、そのような木の枝、まきやまきを割った割木も必要であり、それが「薪」として記されているのであろう。

さて、木ならば何でも薪になるように思えるが、煙の多さ・少なさ、火力の大小などにより、高く売れる木と売れない木があった。たとえば松割木は、燃やした時に出る火力は大きいが、煙が多い。その点、クヌギは燃やした時に出る火力はかなり大きいが、煙は少ない。またクヌギは、燃えて赤くなっているときに、消壺に入れて上手に火を消すと、炭のようにして使える。そのような理由で、クヌギは高く売れたが、重い。それゆえ、薪生産地帯でも、比較的京都に近く、荷車が使えるところ、たとえば岩倉、市原、上高野、八瀬などで多く生産されていた30

木は毎年少ししか成長しないので、全部切ってしまうと、しばらく木を薪として利用できないことになる。そこで山主は、自分の持山を7区画に分け、毎年、そのうちの1区画の木だけを切って、薪として利用した。7年たてば、木が薪として利用できるほどの大きさに成長するという。そして切った薪が自家用の分量を越えていれば、その越えた分を京都へ運び、売ったのである。

山を持っていない家も多くある。そういう家の人は、山主に木を伐らせてもらい、そのお礼として、作った薪の一部をもらってもらう等、他の仕事で奉仕をした。1月~3月は、麦に肥料をやるぐらいで、農作業が忙しくないので、農家の人は、山仕事に集中したのであった。

さて、クヌギの場合も、7年程度の周期で切ったようである。もっとも、クヌギの場合は、根元からは切らなかった。下生えがクヌギの新芽の成長を妨げず、シカがクヌギの新芽を食べることができない程度の高さで、クヌギの幹を切る。次からは、その切口から下を「株木」と称して切らず、その切口から生えてくる新芽を数本だけ伸ばし、それを7年周期ぐらいで切り、薪として利用したのである。そして切った枝の太い部分はまきとして、そして細い部分は柴として利用した。もっとも、薪は、切ってすぐには売り物にならない。まきや柴として切りそろえた後、半年ほど乾かしてから、売りに行ったのであった。

そのまき、そしてそれを割った割木の価格が、戦時中・戦後に高騰した31。戦後、基本給が1,800円とか2,200円といった時代に、割木1束がヤミ取引で50円したという。人々はせっせと山に入って薪を作ったのであるが、まきや割木は統制の対象である。大八車には柴を横に3束並べて積めるので、1段目中央列を割木の束にし、両側の列を柴の束にして、2段目はすべて柴の束にすると、まきや割木は外から見えない。また、肥桶の中に割木を入れて運ぶということもした。そのようにしないと、交番がある花園橋(左京区上高野)を通れなかったのである。

それでも花園橋の検問所でひっかかることがあった。八瀬のある女性は二度ひっかかったという。「もう割木を持ってこないように」と言われて、釈放されたが、それからは夜中の2時頃に家を出て、割木を運んだという。

それほど人が欲しがった薪であるが、化石燃料が少しずつ出回るようになると、値が下がり、昭和26年(1951)には小学校教師の初任給が月約5,000円になったのに、薪は1束40円32になった。そして昭和30年代にプロパンガスや電気炊飯器が普及すると、薪は売れなくなったのである。

もっとも、売り物にならなくなってからも、岩倉の人などは、自宅の風呂沸かし、暖房、調理用に、しばらくは、毎年木を切って利用していた。そのため、わたしが小学校低学年生であった昭和36~38年頃の岩倉には、ゲンジ(クワガタムシ)やカブトムシが好む樹液が出ているクヌギの株木がたくさんあり、学校から帰ると、すぐにゲンジやカブトムシを捕りに行った。獲物は一緒に行った子で分けあい、虫かごに入れて眺めたり、ゲンジ屋に売ったりした。祇園祭の日まではゲンジ屋が来て、1匹あたりカブトムシ15円、ガンド(ノコギリクワガタ)10円、ベタ(ヒラタクワガタ)10円、ヘイタイ(ミヤマクワガタ)5円、坊主(カブトムシのメス)5円というような値で、買ってくれたのである。一夏に1,000円以上稼ぐ子もいた。もっとも、デパートでは、カブトムシ1匹が150円で売られていたらしい。

さて、薪として重宝され、そのように大切に育てられていたクヌギなどであるが、昭和40年(1965)頃から石油ストーブなどが出回り始めると、クヌギなどに限らず、薪というものが使われなくなっていった。

その頃から萌芽更新されることなく放置されたクヌギなどは、樹齢を重ねていったが、そのような高齢の太いクヌギなどを好むのがカシノナガキクイムシである。この虫が幹に穴を開けて持ち込む病原性のカビ菌が、木を枯らし、平成22年(2010)夏、京都でクヌギなどが大量に枯れた。木を使わないわたしたちの暮らしがクヌギなどの枯死を招いたと言えるであろう。

写真28 ナラ枯れが見られる大文字山。2010年8月2日。
写真28 ナラ枯れが見られる大文字山。2010年8月2日。

(10) 運搬手段の変化と白川女

京都では毎月1日と15日にサカキ、仏花、荒神松を換える家が多かったが、それらを入れたふじ箕を頭上に載せ、手には紺の手甲、脚には白脛巾はばきをつけ、白たび、わらじをはいて甲当てをつけ、頭と襟には白地手ぬぐいをかけた姿で売り歩いたのが、白川女である。

写真29 白川女姿の田中くめ氏。北白川仕伏町。昭和6年(1931)。
写真29 白川女姿の田中くめ氏。北白川仕伏町。昭和6年(1931)。

どのあたりへ売りに行っているかは白川女同士で知っていたが、個々の得意先は秘密。もっとも、初めは得意先などなく、初めて訪れる地域で「花いりまへんかぁ」と声をかけても、売れるものではない。とはいえ、嫁入りすると、当時の習わしでは、売り上げを姑に渡さなければならない。そこで実母が、嫁いだ娘を自分の得意先へ連れて回り、「これからはこの娘から買うてやってください」と頼んだのであった。

売り歩いたのは月末と月半ばの3日ずつ。他の日は、商品となるツツジ、ヤマブキ、ウツギ、シャガなどの花、サカキやシタクサを山へ採りに行くとか、畑でキンセンカ、百日草、ナデシコ、千日紅、ケイトウ、小菊などの世話をし、売りに行く前には花を束ねたのであった。かつてはたきぎ採りがさかんに行われ、林に陽光が差し込み、シカも今ほど多くいなかったので、花を咲かせる木や草が、山に今より多く見られたのであるが、それでも、いつ、どこで、何を採るかは、各白川女の秘密事項で、これも母から娘に伝えられた。

もっとも、冬には花が少なく、ウメのほか、ネコヤナギを火であぶって皮をむいたもの、乾燥させた千日紅を使って、しのいだ。また、正月飾りに使うウラジロは近くの山で採り、ユズリハは近くの人や植木屋から分けてもらい、クマザサは大原の奥の方まで採りに行き、ナンテンは大枝、鳴滝、岩倉などで分けてもらった。白川女は花を採取し、集め、商品化して売る専門家であったと言えるであろう。

写真30 白川女の仏花。北白川。2022年5月1日。
写真30 白川女の仏花。北白川。2022年5月1日。

もっとも、白川女は花だけを売っていたのではない。写真29の田中くめ氏は、姑が宇治の木幡で摘んで来る茶葉を番茶にして、売ってもいた。また、チマキザサを鞍馬の人から買い、祇園祭用のチマキも作って、売っていた。花売りを通じて鉾町の人と親しくなり、作っていたのであろう。深泥池で作られるチマキは平べったく、北白川で作られるチマキは少し丸みを帯びていたという。さらに、モチ米のワラを滋賀里から買い、正月用のしめ縄、しめ飾りも作って、売っていた。得意先の需要に応じてこれらも作り、売っていたのである。

写真31 しめ飾りを作る白川女。京都でよく飾られた「チョロケン」が中央右に4つほど見える。1963年12月8日。
写真31 しめ飾りを作る白川女。京都でよく飾られた「チョロケン」が中央右に4つほど見える。1963年12月8日。

さて白川女は、はじめは季節の花を入れたふじ箕を頭上に載せて売り歩いていたが、箕で運べる量はわずかである。出町橋から白川村を通って滋賀県滋賀村に通じる白川越道は、「往時は運輸困難なりしも、漸次改修を加へ、今や格別困難を感じざるに至れり」と記され、人口2,103人の白川村に大七車が113あったと記されている(『愛宕郡村志』(1911年))ように、明治時代末期には大七車が多く使われるようになっていた。白川女も、大七車を使うようになり、西は西大路、南は十条から伏見のあたりまで売り歩くようになったのであった。そうなると、花もたくさん用意しなければならない。サカキ、シタクサ、お盆に売るシキミは、山で採っていたが、昭和時代初期には、亀岡の篠村からトラックで運んでもらえるようになった。また、北白川の2軒の家でたつ花市に、生花や伊勢の荒神松がオート三輪車などで運ばれてくるようになり、そこから買うようにもなった。

順調に商売を拡大していった白川女であるが、太平洋戦争が始まると、ひどい食糧難になり、花を栽培していた畑でジャガイモや大根を作るように要求された。しかし許可をもらってそれを半分だけにしてもらい、なんとか花を作り続けたのであった。

そのようにして花の確保につとめ、売っていたのであるが、戦後、流通が整備され、トラックや飛行機で花が運ばれてくるようになると、生花市場へ行けば、日本各地のみならず外国から運ばれてきた生花も、入手できるようになった。そうなると、あとは買ってきた花を束ねて、売り歩けばよいことになるが、そのようなことなら、白川女でなくともできる。やがて、他地域の人も花を車に載せて売るようになっただけでなく、花屋が各地にでき、さらにはスーパーマーケットでも花が売られるようになり、人は、スーパーマーケットで、だれと話をせずとも、好きな時に花を買えるようになった。白川女は、昭和20年代中ごろの最盛期には、200人ほどいたが、今では見られなくなった。

2-1 都市から近郊へのものの流れ――屎尿と木灰

都市-近郊間の物流は、近郊のものが、都市へ運ばれ、消費されるばかりではなかった。都市のものが、近郊へ運ばれ、作物の生産に役立てられることもあった。その代表的なものは、屎尿と灰である。都市住民は、近郊農村で生産される農作物を消費して生活する。その結果として排泄される屎尿は、都市住民にとっては不要物であるが、農民にとっては貴重な肥料となった。また、都市住民が調理をするにも、暖をとるにも、風呂を沸かすにも、近郊で生産されるたきぎや炭が必要であったが、たきぎや炭を燃やすと、灰が残る。その灰は、都市住民にとっては不要物であったが、農民にとっては貴重な肥料となった。以下においては、屎尿がどのように扱われていたのかをおもに見ていきたい。

(1) 屎尿有料時代

かつて農作物の肥料としては金肥、例えば菜種油かす、大豆かす、過リン酸石灰なども用いられたのであるが、効果と費用のことを考えると、屎尿の方が有利であったという33。ただし屎尿の汲み取りには手間がかかる。いかに費用面、効果面ですぐれていても、汲み取りに手間がかかりすぎれば、肥料として用いることはできない。

その点、都市近郊の農家は、都市の屎尿を汲み取るのにあまり手間がかからないので、屎尿を肥料として用いるのに有利であった。しかし、京都の近郊農家は必要量の屎尿を入手できなかった。京都の市街地が、近郊農家の需要を充たすのに十分な量の屎尿を供給できなかったからである。そのため、屎尿は肥料として渇望され、農民は、継続して屎尿の汲み取りをさせてもらうためには、京都の市街地の居住者と親善関係を結び、「得意先」・「肥得意」を持つ必要があった。そして汲み取りをさせてもらうたびに「得意先」・「肥得意」にダイコンなどを提供するほか、一年の一人当たりの汲み取り屎尿代を決めておき、年末にその汲み取り先へその家族の人数に応じてモチ米を提供するならわしであった(たとえば大人1人あたり年にモチ米3升(明治20年(1887))34。まれには金銭を提供する場合もあったという。そして京都市では、家主が借家人の屎尿を家賃の一部として収得する事も行われたのであった。それゆえ、京都市の住民は、排泄する屎尿の処理に少しも困らず、農民に屎尿を汲み取ってもらうことができた35

京都市当局も屎尿の処理に少しも頭を悩ます必要はなかった。放っておいても、京都市の屎尿はうまく処理されたからである。

もっとも、行政は、市中における屎尿の汲み取りの衛生問題には関与しようとした。幕末の文政5年(1822)、安政5年(1858)にコレラが流行し、その原因として、特に屎尿等の悪水や悪臭がコレラを媒介するという説も有力であった。実際、明治8年(1875)3月の京都府布令書第130号(京都府立資料館所蔵)では

「屎尿は人体を補給したる飲食の余分あまり滓物かすなり。若し腹内はらとどこおりすれは乍ちやまをなす。此臭気も亦之に等しく之を嗅く時は諸のわるやまいを伝染すること、衆人の知るところなり。人常に此臭気を防ぐことの難きを以て余儀なく之を忍ぶ所にして、農民と雖も此臭気を好むもの一人も無きは、天性人に害あるのしるなり。」

と記され、臭気が悪病伝染の原因の一つであると述べられている36。そうであるならば、屎尿を一刻も早く処分してしまえばよいようにも思えるが、京都府布令書第130号は、上記の文章に続いて、

「然れども此臭気植物には却って毒せず、沃品こやしとなり、大に有益の品にして、之を棄物すてものとせば、国家の損失たること、亦衆人の知る所なり。」

と記し、屎尿の臭気が植物のこやしとなるので、それを捨てると、国家の損失であるともいう。

明治5年(1872)5月28日の府布達甲第125号(京都府立資料館所蔵)において

「糞尿桶は蓋をおおひ運搬すへきこと。」37

と通達され、明治5年9月24日の京都府布令書第199号(京都府立資料館所蔵)では

「腐敗物之悪臭気者人身の滋養を害する事ニ付、府下市中糞尿其外悪水汲除持運び之儀者暁天日出の一字[ママ]ヨリ前ニ限るべし。若右之刻限ヨリ後ニ取扱ものハ咎方ニおよぶべき事。」

と通達され、その後、何度も通達が出され、できるだけ糞尿の臭いがしないように、そして糞尿の汲み取りや運搬が人の少ない時間帯に行われるように、糞尿の運搬方法、運搬時間が制限されたことには、屎尿が伝染病の原因であるとともに、こやしと考えられていたことが関係しているのであろう。

しかし日出前に屎尿の汲み取り・運搬を終えよと言われても、農民は困ってしまう。自宅から汲み取り先まで片道2~3時間かかるところに住む農民なら、真っ暗な中、いったいどうやって京都の市街地へ行き、汲み取りをすればよいのか。

その後、コッホがコレラ菌の発見をドイツ政府に報告した(1884年)ことが関係しているのかもしれないが、明治19年(1886)5月19日の京都府布達甲第72号(京都府立資料館所蔵)によって

「下京区及ひ伏見市街に於て屎尿を運搬するは午前零時より同八時迄に限る。尤も猥りに屎尿桶を道路に差置又は道路に於て屎尿の移替をなすへからす。」

というように屎尿運搬時間が改正され、明治21年(1888)6月には府令第61号でもってその時間制限は

「午前零時より午前十一時迄に限る。」

とさらに改正されたのであった38

そして明治28年(1895)に京都で平安遷都記念祭と第4回の勧業博覧会が開催されるにあたり、出された答申書は

「世界の公園とも称すへき日本、日本の公園とも称すへき京都にて白昼糞桶を車にて市中を縦横し、往来の人をして時には其臭気の紛々たるに耐へさらしむ。是れ実に野蛮の風趣たるを免れす。宜敷平常大小便運搬の時間は夜間に限るへし。」39

と述べ、屎尿の汲み取りと運搬がもたらす臭気、体裁の悪さを問題視するようになり、明治28年3月の府令第28号によって

「京都市街に於て屎尿の運搬を為す時間は午前零時より同八時迄に限る。違ふ者は一日の拘留に処し、又は拾銭以上一円以下の科料に処す。」

という厳しい規則に戻している40

しかしこのような厳しい規則がいつまでも効力を持ち続けていては、農民に不都合である。博覧会と平安遷都記念祭が終了すると、明治28年11月に府令第79号により

「京都市街にて屎尿を運搬する時間は四月乃至十月は午前零時より同八時迄、十一月乃至三月は午前零時より同十時迄の間に限る。違ふ者は一日の拘留に処し十銭以上一円以下の科料に処す。」

と改正され、明治28年12月には府令第89号によって

「明治二十八年府令第七十九号同十時とあるは同十一時と改む。」

と改正されたのであった41

しかしそれでも4月~10月には、それが屎尿の主な需要時期であるにもかかわらず、朝8時までに汲み取りを終えて市街地を出なければならず、それは農民にとってとてもつらいことであった。そこで明治31年(1898)3月、京都市に近接する愛宕、葛野、乙訓、宇治、紀伊郡などが連合して、屎尿運搬時間取締規則の緩和を陳情した42

また、明治35年(1902)には屎尿の購入価格を低減させるための運動も行われたのであった43

もっとも、このような運動は、都市が大きくなるにつれて都市から排出される屎尿量が増大し、農民が屎尿を比較的容易に入手できるようになるにつれ、自然消滅していったようである44。農民が肥得意に渡すモチ米も、明治20年(1887)には、大人一人あたり年3升渡していた農家が、明治40年(1907)には年2升を渡すようになっている45。 そして大正6年(1917)7月3日には、府令第29号でもって、京都市中における屎尿運搬時間は

○5月1日より10月31日に至る期間は午後7時より午前8時まで

○11月1日より4月30日に至る期間は午後5時より午前10時まで

というように改正されたのであった46

(2) 屎尿汲み取り有料時代

(a) 屎尿汲み取りが有料になった時期

第一次世界大戦の頃から京都市の人口は急激に増加し、屎尿排泄量も増加した。また、商工業が発展し、観光も盛んになって、労働需要が増大し、大正6年(1917)から大正10年(1921)の間に賃金が急激に高くなった。さらにまた、近郊農家の生活程度が向上するに伴い、農家の青年が屎尿の汲み取り労働を嫌悪するようになり、有料ではもちろんのこと、無料でも、屎尿を汲み取ってきて使用するより、むしろ金肥を使用した方がよいと考えるようになった47。そのため、京都市民は掃除料として若干の金品を提供しなければ、屎尿を処分してもらえなくなったのである。

このような「屎尿汲み取り有料時代」とでもいうべき時代は、京都市においては大正7年・大正8年頃から始まったようである。京都市の公衆便所の屎尿処分に関する統計を見ると、京都市は、大正10年(1921)までは屎尿を有価物として処分し、代価を得ているが、大正12年(1923)以後は掃除料として支出するようになっているので、「屎尿汲み取り有料時代」は大正12年に始まったと言うこともできるが、公衆便所の屎尿は、定期的に大量に供給され、搬出に有利であったから、有料時代の開始が大正12年まで遅れたのであって、一般家庭の屎尿の汲み取りは、それより数年早く有料時代に入ったと思われるのである48

もっとも、この時代区分は厳密なものではない。その後も一部の農民は都市住民に野菜などを届けたし、無料でも都市住民の屎尿の汲み取りをしたからである。

(b) 京都市による屎尿汲み取り対策の始まり

「屎尿有料時代」から「屎尿汲み取り無料時代」、「屎尿汲み取り有料時代」への移行は、放っておくだけで、円滑に行われたのではない。農作業が忙しくて汲み取りに行きにくい時期には、農家は屎尿の汲み取りに行けず、屎尿をあまり必要としない時期には、汲み取りに行かないので、農家が汲み取りに行きにくい場所で、屎尿の停滞が起ったのである。

京都市の場合は、大正10年(1921)春頃から市街の一部において、屎尿の停滞する場所が急に生じたという。そこで京都市は対策を講じる必要にせまられ、調査を実施。大正11年(1922)8月9日の市告示第274号によって、市営による屎尿応急汲み取り開始を告げ、約90名の人夫ならびに90台の肩引車、および3台の自動車を用い、1日150石(屎尿1石を48貫として換算)を限度として汲み取りを開始した49。汲み取り先は汲み取りを希望した者。汲み取り料は無料であった。たちまち市民からの申し込みが殺到し、大正11年12月頃には1日平均313戸の申し込みがあって、数日ほど待ってもらう状態になっていたという50。汲み取った屎尿については、京都市内まで農家が汲み取りに来るには不便な地域へそれを移送して、売却。そのことによって汲み取りにかかる費用を捻出したのであった。そして汲み取り自体を無料とすることにより、近郊農家が汲み取りに来る時の汲み取り料の高騰を牽制した。もっとも、大正13年(1924)1月1日からは、市指定の容器1個につき、5銭、昭和6年(1931)4月からは7銭というように、京都市も有料で汲み取るようになったのであった51

ちなみに、大阪において屎尿汲み取り無料期間があったのは、大正6年(1917)である。大正6年秋に北摂地域に水害が起こり、それを機に、汲み取りがとだえ、大阪市で屎尿の大停滞が起こった。そこで大阪市は、11月から12月にかけて応急汲み取りを市費で実施した。その非常事態を切り抜けてからも、屎尿の停滞が続くようになり、従来、一定の代価を民家に払って屎尿を汲み取っていた業者や農民は、民家が汲み取り料を支払わないと、屎尿を汲み取らないようになった。それゆえ大阪では、大正6年11月から12月にかけてのわずかの期間が屎尿汲み取り無料期間であり、それ以後は汲み取り有料時代となったと思われる52

(c) 屎尿処理が市の義務に

さて、そのようにして京都市営による屎尿汲み取りが始まったのであるが、それだけでは対応できないと思われる事態が起こった。昭和3年(1928)における天皇即位の御大典である。パレードが行われる沿道や京都御苑内には、多数の人出が予想され、既設の公共便所だけでは、とても足りそうにもない。板葺、よしず張りの仮便所を設置するほか、沿道の民家には、市が無料で汲み取りを行う事を条件として、下便所の開放を依頼。さらに空地がある家には4斗樽あるいは石油缶などを預け、一般の用便に使わせてもらえるように依頼。定傭人夫に夜間も汲み取りをさせるだけでなく、近接町村青年団の応援も受け、汲み取りを進めた53

そのようにして汲み取りを進めたものの、御大典が行われたのは昭和3年11月であり、屎尿に対する農家の需要が減少する時期であった。そのため、処分が進まず、大宮十条と植物園北側の松ヶ崎街道に営業者が設置した屎尿溜(合計容量約600石)に売却処分したほか、太秦村字安井ほか数箇所の藪地に搬入して、急場をのがれたのであった54。「屎尿問題は都市衛生の癌である55」と言われる状況に京都市は入ったのである。昭和5年(1930)、汚物掃除法とそれの施行規則の改正が行われ、屎尿が市中に停滞しないようにすること、しかも衛生的に処分することが、市の義務となったのであるが、それを待たずして、京都市は、大正時代末期には、屎尿の処理に真剣に取り組まざるを得なくなっていたのである56

(d) 市営屎尿処理場の建設

屎尿問題に頭を悩ますようになった京都市は、御大典記念施設の一つとして屎尿浄化処理所を新設しようとした57。場所は(現・南区)西九条仏現寺町の塵芥焼却所の東隣。御大典に伴う市営屎尿汲み取り増加量1日約280石の内、200石を促進汚泥曝気式によって浄化処分しようという計画であった。ところが用地買収が難航し、起工は昭和3年(1928)8月30日、竣工は昭和4年(1929)2月15日58となり、御大典には間に合わなかった。

この処理場では、屎尿はまず投入槽に入れられ、井戸水で約13倍に希釈された後、貯留槽へ導入され、沈殿槽から来る活性汚泥と混和されて、曝気槽へ送られた。そこで汚水は、井戸水と(水温をあげるために)下水とによってさらに3倍強に希釈され、槽の底から噴出する空気によって酸化ならびに硝化され、撹はんされた後、沈殿槽に導かれた。そこで汚泥の沈殿作用に基づいて分割された上澄み液が、清毒槽に導かれ、塩素水で殺菌されて、川に放流された。ところが、処理場の構造上の不備と運用の欠陥により、期待された成績はあげられず、昭和5年(1930)当時でもなお試験中であった59

(e) 水槽便所の普及促進

さらに大正15年(1926)6月、府令第80号によって水槽便所に関する取締規則が制定され、大正15年8月には河原町通の下水管埋設工事の認可が行われて、水槽便所の普及がはかられた。その結果、昭和3年(1928)1月の既設水槽便所は248個であったが、昭和3年末には317個となり、そのほかに工事中のものが53個あった60

しかし、「京都市に下水道の布設されたるは極めて最近の事にして其範囲は市の一小部分に過ぎず、未だ下水処分場を有せず。されば既に下水道の布設されたる所は下水道を経て、下水道の布設なき所は不完全なる溝渠を経て何れも各河川に放流されつつあり61。」

という状態であった。昭和9年(1934)に吉祥院下水処理場、昭和14年(1939)に鳥羽下水処理場ができる62まで、下水処理場がなかったのであるから、いかに水槽便所の普及、下水道の整備がはかられても、便所から出る下水は、下水道を通って、未処理のまま、河川に放流されたのであった。

では、市営屎尿処理場で処分された屎尿の量、水槽便所から下水道や溝渠を経て川に流された屎尿の量は、全体からみると、どれぐらいの割合であったのか。昭和6年(1931)当時、隣接する町村を合併する前における旧京都市の1日の屎尿排出量は、市保健部清掃課の調査によると約4475石と推定されている(昭和5年10月国勢調査による旧京都市の人口は76万5,142人であり、1人1日の排泄量を5合5勺とすると、約4,200石。他に、他府県や京都府内から京都に来る者と近郊からやって来る者を約10万人と仮定し、その1人1日の排泄量を前者の半量と見積ると、275石。合計4,475石)63。そしてその処分は図表5の5つの仕方でなされたという。

図表5 京都市における屎尿処分法とその量(屎尿1石を48貫として換算・1931年)
市の汲み取り 450石(内1日平均約45石を浄化処分)
水洗便所による処分 250石
公共便所 100石
営業者汲み取り 700石
農家汲み取り 2,975石
4,475石

それゆえ、市によって汲み取られた屎尿のうちの45石、そして水洗便所に流された屎尿250石が河川に流されていたことになる(その250石は未処理で)。従って、残り4180石がすべて農地で肥料として用いられたとすると、全体の約93%が農地で肥料として用いられ、農地に還元されていたことになるであろう64

(3) 地域別主要作物と施肥時期

では、汲み取られたその屎尿は、何に、いつごろ、どれほど施肥されていたのか。屎尿が施肥された主要作物によって京都市の近郊を大別すると、次の4つ、つまり屎尿が(1)蔬菜に施肥された地域、(2)竹林に施肥された地域、(3)茶に施肥された地域、(4)雑多なものに施肥された地域に分けられたという。

(a) 蔬菜に施肥された地域

蔬菜に施肥された地域というのは、京都市を包囲する近接の蔬菜栽培地域であって、浄土寺、衣笠、下鴨、紫野、九条、東七条、朱雀野、西院、吉祥院、上鳥羽、下鳥羽、修学院、松ヶ崎、上賀茂、大宮、鷹ヶ峰、花園、太秦、京極、梅津、久我、竹田、深草、堀内、向島、佐山、大久保、久津川、寺田、都々城、有智郷地域などであり、滋賀県内では大津、瀬田、山田、笠縫、守山、速野、中洲地域である。これらの地域では、ごく少量の金肥を施肥するほかは、ほとんど屎尿のみで蔬菜栽培がおこなわれていたのであるが、そのうち、葉菜類栽培の蔬菜集約栽培地域とでもいうべき、京都市にごく近接する地域、つまり浄土寺、衣笠、下鴨、紫野、九条、東七条、朱雀野、大宮、太秦、花園、修学院、西院、梅津、京極、吉祥院、深草、竹田、上鳥羽、下鳥羽、大津地域では、主として人尿を使用したという。その理由は以下のようなものである65

○人尿は屎尿に比べて速効性にすぐれている。

○人尿を昔から使いなれているので、失敗する憂いが少なく、また、人尿を施肥すると、蔬菜の葉が軟らかくなり、繊維が硬くなる事がない。

○ナス、里芋などに屎尿を施肥すると、ナスの色が濃くなり、美しくなるが、施肥の際、枝葉などに付着した屎尿が自分の手足を汚し、時にはそれが原因で肥マケし、手足にブツブツが生じることがある。

○比較的遠距離地域の農業者は屎尿の汲み取りを希望するので、屎尿と比べると、(農業者間での)人尿の交換価値は低い。他方、近接地域の人は、肩引車で屎尿を運ぶ場合でも、3、4時間以内で運べるので、掃除料として若干の金品をもらえるなら、人尿でも金肥を施肥するより経済的である.

蔬菜類に対する屎尿の反当施肥量は、市に近接する地域では、少ない場合でも500貫前後、普通は1,000貫前後使用され、多い場合は2,000貫以上にもなったようである(1荷(肥桶2つ分)は15貫から25貫)66

(b) 竹林に施肥された地域67

写真32 竹林に施肥する屎尿を載せた牛引き車。昭和36年(1961)頃。大原野。
写真32 竹林に施肥する屎尿を載せた牛引き車。昭和36年(1961)頃。大原野。

京都市の屎尿が主として竹林に施肥された地域は、大枝、大原野、向日町、新神足、海印寺、大山崎、松尾、嵯峨、八幡、大住、田邉、棚倉、高麗、上狛、稲田、大阪府三島郡島本、五領地域であった。

これらの地域では、少量の油かすを混用するほかは、全て屎尿を施肥していた。そして屎尿の主たる施肥時期は、孟宗畑においては4月から10月、淡竹はちく苦竹にがたけ(真竹)林などにおいては8月から3月までの8箇月であった。

反当施肥量は、孟宗畑では約150貫から1000貫、苦竹、淡竹林などにおいては約60貫から300貫であった。それだけの屎尿を自給することはできないので、乙訓郡などでは農閑期、つまり冬から早春にかけて、あるいは他の小閑時を利用し、農家が自ら京都市まで汲み取りに出て、持ち帰り、野壺に貯蔵し、腐熟させ、施肥していたが、相楽郡地域では、主として購入して施肥していた。その購入屎尿の多くは大阪から運ばれてきたものと思われる68

ただし、この竹林施肥地域においても、大枝、大原野、田邉地域を除く他の地域では、相当多量の屎尿が米麦に、または茶、果樹などにも施肥されていた。

(c) 茶に施肥された地域69

京都市の屎尿が主として茶に施肥された地域は、山城南部の茶業地帯であって、醍醐、宇治、小倉、槇島、宮之荘、青谷、多賀、井手、田原、宇治田原、草内、三山木、普賢寺地域などである。茶に屎尿が施肥された時期は、基肥としては9月から10月、寒肥としては2月上中旬、春肥としては彼岸前後、夏肥としては6月頃であり、その間における屎尿施肥量は、栽培者によって異なるが、反当100荷(1荷は15貫から25貫)から20荷ぐらいであった。通常、玉露園では反当40~50荷の屎尿を施肥した。屎尿は茶に甘味を付けるための必需品とみなされていたのである。

(d) 雑多なものに施肥された地域70

雑多なものに施肥された地域というのは、京都市の屎尿が、蔬菜、竹林、茶以外の、主として稲、麦、菜種、果樹、桑などに施肥された地域のことである。これらの地域では、屎尿が施肥された主たる作物は地域によって異なった。静市野、岩倉、大原地域では、屎尿は主として稲、麦に、そして一部蔬菜に施肥され、篠地域では、主として麦に施肥されたほか、栗、蔬菜にも施肥され、亀岡、大井、吉川地域では、麦、蔬菜に、薭田野地域では、栗、蔬菜、竹林に施肥され、曽我部地域では稲に施肥された。桂、川岡、羽束師、久世、横大路、納所、淀、美豆、山科、大阪府北河内郡樟葉、管原地域では、屎尿は主として稲、麦に、一部蔬菜に施肥された。御牧地域では、屎尿は主として稲、蔬菜に施肥された。狛田、相楽地域では麦に、山田荘地域では麦、竹林などに、祝園地域では桑と茶に主として施肥されていた。

滋賀県では、滋賀郡滋賀地域では屎尿は主として麦に、そして一部竹林に施肥され、真野地域では麦、菜種に、坂本、下坂本地域では稲、麦、蔬菜に、栗太郡の下田上地域では麦、菜種に、老上地域では麦、果樹に、志津、治田地域では麦、菜種に、大寶、常盤地域では菜種に、金勝地域では菜種と竹林に、野洲郡小津、玉津地域では麦、菜種に主として施肥されていた。

これらの地域において屎尿が施肥された量は、静市野、大原、岩倉地域などにおける稲作の場合は、柴草(雑木・雑草)、堆肥などの自給肥料とともに反当20貫から30貫の石灰と少量の金肥、つまり大豆かす、油かす、過リン酸石灰などを使用するだけで、屎尿の反当施肥量は200貫から400貫であった。

麦作の場合はほとんど石灰と屎尿だけとも言い得る状態であり、屎尿の反当施肥量は約500貫であった。

菜種の場合は、屎尿の反当施肥量は約300貫から600貫であった。

以上、屎尿が施肥された地域を主たる作物別に大きく4つの地域に分けたが、京都市の屎尿が最も多く施肥された作物は京都市近郊の蔬菜であり、総使用量の51%を占めていた。次は稲、麦、菜種(果樹、桑、栗その他)などで、総使用量の約34%を占め、次が竹林で、11.8%、そして茶で、2.9%となっていた71。このような差が出たのは、京都市からそれぞれの作物の主要産地への距離によるところが大きかったと考えられる。屎尿は、その成分価に比べて容積が極めて大きいため、運搬に多くの労力を必要とし、仮に無料でもらえても、あるいは掃除料をもらえても、供給地である京都市からの距離が遠くなるにつれ、その有利さが減少していった72。 それゆえ、京都市に一番近い蔬菜栽培地域で最も多く施肥され、ついで近い稲、麦、菜種(果樹、桑、栗その他)栽培地域に二番目に多く施肥され、ついで竹林地域であり、一番遠い茶栽培地域で施肥量が最も少なくなっていると思われるのである。

(4) 運搬手段と屎尿施肥量

上記の4つの地域における屎尿の使用量の差は、屎尿の運搬手段にもよると思われる。明治時代初期、京都市にごく近い西院地域や比較的近い乙訓郡大枝地域では農業者自らが肥桶を1荷、肩の前後ににない、杖をついて、運搬していたという73。そして少し遠い乙訓郡海印寺地域では、明治10年(1877)頃までは牛に2荷の肥桶を、背の両側に1荷ずつになわせて運搬したという。その程度の運搬能力では、運び出せる京都市の屎尿の量はわずかであったと思われるが、当時は京都市の人口も少なかったので、需給のバランスがとれていたのであろう。明治時代中頃における道路の改修によって、郊外でも荷車を使用できるようになると、肩引車、牛引車が主となり、大正12年(1923)頃からはトラックも使えるようになって、運び出せる屎尿の量がかなり増えたのである。昭和6年(1931)における調査当時において、京都市の屎尿の運搬に主に使用されたのは肩引車、牛引車・馬力車、トラックであった。そのうち、最も多くを運んでいたのは肩引車であり、運搬された屎尿量全体の66.87%を運んでいた。次は牛引車・馬力車であり、屎尿量全体の29.98%を運び、トラックによって運ばれていたのは、屎尿量全体の3.15%だけであった74。肩引車は、最も容易に所有できるものであるが、人が荷車を引くのであるから、運べる量は少なく、運べる距離は短い。それゆえ、屎尿汲み取りの往復にあまり時間がかからないところに住んでいる人、つまり京都市に極めて近い地域の人(汲み取り往復所要時間が3~4時間の人)が使う場合がほとんどであった。そして京都に極めて近い地域といえば、それは蔬菜栽培地域であった。

写真33 牛引車で屎尿汲み取りに出かけるところ。昭和17年(1942)頃。一乗寺才形町。
写真33 牛引車で屎尿汲み取りに出かけるところ。昭和17年(1942)頃。一乗寺才形町。

牛引車・馬力車の場合は、運べる屎尿量は肩引車の場合より多く、運べる距離も長くなるので、牛引車・馬力車によって京都市の屎尿を運搬していたのは、肩引車地域の周囲、つまり汲み取り往復所要時間が6~9時間のところの人が多い。そしてそれは稲、麦、菜種栽培地域、竹林地域の人であった。ただし、牛馬を飼わなければならないのであるから、資本投資が必要であり、だれでも牛引車・馬力車を所有できたわけではない。牛引車・馬力車によって運ばれた屎尿量が、肩引車によって運ばれた屎尿量より少なかったのも、不思議ではない。

トラックによって京都市の屎尿を運搬していたのは、牛引車・馬力車地域の周囲の人、つまり肩引車でも牛引車・馬力車でも運搬できない遠くの人が多かった。牛引車・馬力車による汲み取り往復所要時間は、10時間が限度であったようである75。ただし、トラックは牛馬よりもはるかに高価であったから、トラックによって運ばれる屎尿量が牛引車・馬力車によって運ばれる屎尿量よりさらに少なかったのも、不思議ではない。

もっとも、京都市からの距離、運搬手段によるこの分け方は厳密ではなく、同じ距離の場合でも、肩引車と牛引車・馬力車とが入り混じっていたことは言うまでもない。たとえば汲み取り往復所要時間が5~7時間である向日町地域の場合は、肩引車が6割近くで、残りが牛引車であった。また、奈良街道沿いの大久保地域の場合は、汲み取り往復所要時間が8~9時間であったにもかかわらず、肩引車で汲み取りに出たが、それは、蔬菜類の出荷のついでに屎尿の汲み取りをし、汲み取り料金を得るためであった。

愛宕郡岩倉地域では牛引車・馬力車で運搬した者35名に対し、肩引車を使用した者は約50名であった(岩倉地域においては、肩引車は3荷、牛引車・馬力車は6~7荷を積載していた)。岩倉地域は京都市の市街地と比べて高いところにあるので、屎尿を汲んで帰る時は登り坂になり、京都の市街地から2時間程度の距離にあるものの、牛引車・馬力車で運搬する者の割合が大きかったと思われる。それとともに、岩倉の場合は、農作業の合間に鞍馬~京都間の炭や生活必需品の運搬に牛馬を用いて従事していた者がいたことも関係しているであろう。

大阪府北河内郡管原地域では約20名の者が牛引車、トラックを使って汲み取りに出たが、牛引車による搬入量が8割で、トラックによるものは2割であった。京都府久世郡寺田地域では牛引車による搬入量が8割、肩引車による搬入量が2割という割合であった。宇治郡宇治地域では8名が京都市内に汲み取りに出たが、そのうち牛引車による者は7名、肩引車による者は1名であった76

なお、トラックによる運搬は、大正12年(1923)頃に始まったことであり、それまではなかったことであった。京都市の屎尿を運んで利用することができなかった所、困難であったところは、堆肥や金肥を用いていたところであるが、トラックの出現により、京都市の屎尿を用いるようになったところもでてきた。トラックを使用してまで、京都市の屎尿を用いるようになったのは、昭和初期の農村不況のせいで、それまでのように金肥を主として用いて農業をしていては、採算があわなくなってきたからである。昭和時代初期にトラックが普及して、その運賃が低下し、他方、京都市において屎尿の汲み取りに際し、掃除料をもらえるようになったため、その掃除料でトラック運賃をかなり支払えるようになったことも、大きな理由であろう77

主としてトラックを使用して京都市の屎尿が運ばれた地域は、滋賀県内の諸地域が多かった。滋賀県内では、京都市の屎尿をトラックで濱大津まで運び、そこから和船によって、琵琶湖東岸の栗太郡山田、速野、中洲、玉津地域などへ運ぶ場合もあった。

京都府内で主としてトラックを使用して京都市の屎尿が運ばれた地域は、南桑田郡吉川、綴喜郡大住、有智郷、久世郡御牧、相楽郡相楽地域である。綴喜郡大住地域の場合、京都市まで汲み取りに出る農家は字・松井区152戸のうち45戸、字・大住区229戸のうち60戸、合計105戸であったが、一年を通じての各運搬用具別出車割合は肩引車25回、牛引車200回、トラック400回であった78

なお、新しい運搬手段としてこの時期に登場したものとしては、リヤカーとオートバイがあった。リヤカーは上賀茂、吉祥院、上鳥羽、下鳥羽、堀内、向島、大久保地域などのように、京都市に近いところで用いられ、少量の屎尿を運ぶのに便利であった。オートバイは、後ろに荷車を取り付けて、蔬菜の出荷に用いられ始めたのであるが、それが屎尿運搬にも用いられ、吉祥院地域ではオートバイを屎尿運搬に用いていた者が5、6名いたという79

以上、屎尿の処理に関する状況を、京都市とその周辺地域を例にとって、昭和時代初期まで見た。排出された屎尿量は、年中あまり変わらなかったと思われるが、肥料として施肥された屎尿量は年中一定していたのではなく、農家も、屎尿を必要としていた時期にはせっせと汲み取りに行ったものの、そうでない時期にはあまり汲み取りに行かなかったので、時期により、屎尿の停滞が生じても不思議ではない。そして実際、大正10年(1921)春頃から京都市の市街の一部において、屎尿の停滞する場所が急に生じたのである。この危機は、トラックが登場して、京都市の屎尿をそれまで肥料として使うことができなかった遠隔地まで運べるようになったこと、掃除料としてわずかながらも料金をとることができるようになり、それを運搬費のたしにできるようになったことなどによって、回避されたのであった。水槽便所から下水道や溝渠を経て川に流された屎尿、市営屎尿処理場で処分された屎尿も、昭和4年(1929)頃から少しずつ出てきたのであるが、京都市の屎尿の大部分が近郊農村へ運ばれ、近郊農村から京都市へは、屎尿を肥料として育てられた作物が運ばれるという循環が、まだなんとか維持されていたのである。

では、この状況はその後どうなったのであろうか。昭和時代初期に新しい運搬手段としてリヤカーが登場し、上賀茂、吉祥院、上鳥羽、下鳥羽、堀内、向島、大久保地域のように京都市に近いところで用いられ、少量の屎尿をこまめに運びだすのに活躍したこと、また蔬菜の出荷に用いられ始めたオートバイが屎尿運搬にも用いられ、吉祥院地域ではオートバイを屎尿運搬に用いていた者が5、6名いたということ、トラック輸送がますます盛んになったことなどは、京都市の屎尿の利用を促したのではないかとも思われる。しかし、戦争によるガソリン不足で、トラックもオートバイも使えなくなった。また、昭和恐慌による失業者対策として下水道の整備が進められ、昭和9年(1934)には吉祥院下水処理場が完成し、昭和14年(1939)には鳥羽下水処理場も完成したが、第二次世界大戦が始まると、京都市の下水道事業は「不急不要の事業」として進められなくなった80。そして、食糧増産のためにむしろ全屎尿の肥料化がはかられた。つまり、トラックもオートバイもなかった時代の状態に戻ったようなものである。しかし、戦争による人手不足のため、屎尿の汲み取りを充分に行えなかった。その頃までに、屎尿の汲み取りには朝鮮人が多く従事するようになっていたのであるが、そうした人々も招集や勤労動員の対象となっていた。昭和19年(1944)には、大日本翼賛壮年団(大政翼賛会の下部組織)による非常搬出によってなんとか屎尿が処理される状態であったという81

(5) 昭和26年の洛北における屎尿利用

戦後もガソリン不足は解消されなかったので、屎尿利用、屎尿処理に関しては、戦時中に近い状態が昭和26年(1951)頃でもまだ続いていたようである。昭和26年に京都大学農学部農業経済研究室が、京都市近郊の洛北と洛南の農業経済に関して調査を行い、屎尿利用に関しても調査を行っている。その調査をもとに、昭和26年当時の京都市における屎尿利用、屎尿処理に関する状況を見て行きたい。

洛北では、京都の市街地に近い順に松ヶ崎、修学院、岩倉、八瀬、大原地域が取り上げられ、農業経済に関して昭和26年(1951)に調査が行われている。その調査結果から言えることは、当時、肥料において化学肥料の占める割合が極めて低かったことである。硫安(硫酸アンモニウム)、硝安(硝酸アンモニウム)、石灰窒素、過リン酸石灰、硫酸カリウムなどが化学肥料の主なものであるが、それらが肥料全体において占める割合は、図表6のように、京都の市街地に近い松ヶ崎、修学院地域においては極めて低く、市街地から北の方に離れた岩倉、八瀬、大原地域で少し高くなっているが、それでも肥料全体からみれば低い。

図表6 洛北において化学肥料が肥料全体に占める割合(1951年)82
窒素成分(%) リン成分(%) カリウム成分(%)
松ヶ崎 4.7 6.8 0
修学院 4.4 12.5 0.5
岩倉 20.0 22.0 1.8
八瀬 22.3 30.5 0
大原 18.6 25.4 8.1

他方、屎尿が肥料全体において占める割合は、図表7のように、京都の市街地に近い松ヶ崎、修学院地域において極めて高く、市街地から北の方に離れた八瀬、大原地域において、その割合は小さくなる。修学院に隣接してその南側に位置する一乗寺地域のA氏は、次のように言う(2009年談)。

「昭和25年(1950)頃から牛に荷車を引かせて肥汲みをしていた。市中の丸太町などまで行っていたけど、だんだん近いところで済ませるようになった。昭和34年(1959)に修学院第二小学校ができてからは、もっぱらそこ。昭和30年代初めで、1荷(肥桶2つ)あたり200円もらえた。7荷載せていたから1,400円。そのころ、アルバイトをした場合の日当が800円だったから、それよりよい仕事になった。毎日行っていた。1日に2回行く者もいた。」

近くに肥汲み先があり、しかも肥汲みをすれば、屎尿を得られるだけでなく、アルバイトをした場合の日当よりも多くの金を得られるのであるから、毎日肥汲みに行き、1日に2回行く者もいたのである。都市に近い地域ほど屎尿が肥料全体に占める割合が高くなったのは当然であろう。

図表7 洛北において屎尿が肥料全体に占める割合(1951年)83
窒素成分(%) リン成分(%) カリウム成分(%)
松ヶ崎 85.6 60.0 63.0
修学院 80.0 52.0 54.8
岩倉 52.8 29.2 35.4
八瀬 30.2 11.4 14.8
大原 31.7 13.0 17.8

逆に、堆厩肥が肥料全体において占める割合は、図表8のように、京都の市街地に近い松ヶ崎、修学院地域において低く、市街地から北の方に離れた八瀬、大原地域において、その割合は高かった。

図表8 洛北において堆厩肥が肥料全体に占める割合(1951年)84
窒素成分(%) リン成分(%) カリウム成分(%)
松ヶ崎 6.5 10.4 10.5
修学院 13.9 19.9 20.1
岩倉 23.7 28.8 33.6
八瀬 38.0 31.6 39.2
大原 36.7 32.9 32.9

また、木灰が肥料全体において占める割合も、図表9のように、京都の市街地に近い松ヶ崎、修学院地域において低く、市街地から北の方に離れた八瀬、大原地域において、その割合は高かった。

図表9 洛北において木灰が肥料全体に占める割合(1951年)85
リン成分(%) カリウム成分(%)
松ヶ崎 15.4 23.2
修学院 13.9 20.9
岩倉 14.7 25.7
八瀬 20.6 38.4
大原 20.9 31.3
写真34 灰小屋として使われていたもの。上高野。2018年。
写真34 灰小屋として使われていたもの。上高野。2018年。

以上のことから、昭和26年当時、肥料全体に化学肥料が占める割合は、まだほんのわずかであり、屎尿、堆厩肥、木灰が占める割合が高いのであるから、洛北においては、昭和6年(1931)当時と基本的には同じような状態が続いていたと言えるであろう。そして京都に近い松ヶ崎、修学院地域においては、屎尿が肥料に占める割合が極めて高く、堆厩肥、木灰が占める割合が低い。他方、京都から離れた八瀬、大原地域においては、屎尿が占める割合が低く、堆厩肥、木灰が占める割合が高い。それゆえ、京都から遠くなるにつれて屎尿の使用量が減ることに関しても、昭和6年当時と基本的には同じような状態が続いていたと言えるであろう。その状態を地域ごとにもう少し詳しくみていくと、図表10のようになる。

図表10 洛北における屎尿・緑肥・堆肥・厩肥の反当施肥量(1951年)86
屎尿(貫) 緑肥(貫) 堆肥(貫) 厩肥(貫)
松ヶ崎 1,343.3 0 36.0 9.0
修学院 1,459.3 3.8 43.0 214.9
岩倉 389.3 11.7 38.9 160.2
八瀬 225.5 64.3 32.0 2.9
大原 223.7 78.3 29.0 6.5

屎尿に関しては、京都の市街地に近い松ヶ崎・修学院地域において反当施肥量が極めて多く、市街地から遠い八瀬・大原地域において反当施肥量が少ないが、他方、緑肥(レンゲなど)に関しては逆で、市街地から遠い八瀬・大原地域において反当施肥量が多く、市街地に近い松ヶ崎・修学院地域において少ないことがわかる。

なお、松ヶ崎地域も修学院地域も京都の市街地に近いが、1戸当たりの屎尿汲み取り量を見ると、松ヶ崎地域が少なく、修学院地域が多かった。それは、松ヶ崎地域の場合、汲み取り先が近くにあるため、肩引車を使って容易に汲み取りに出ることができ、小規模農家でも京都市の屎尿を利用していたのに対し、修学院地域の場合は、村が急な坂道を登ったところにあるので、牛を飼って、牛に荷車を引かせている家が多く、その分、運搬できる屎尿量が多くなったからである。そして牛を飼っていたため、修学院地域においては厩肥の施肥量も多かった87。岩倉地域において厩肥の施肥量が多かったのは、岩倉地域が京都の市街地から遠く、市街地よりも高い所にあるため、また、鞍馬~京都間の炭の運搬に従事するため、牛馬を使って荷車を引かせている家が多かったからである。汲み取り先に関しては、明治時代には、岩倉地域の人の中には、京都市中心部の夷川通あたりまで屎尿を汲みに行く人もいた88ので、それと比べると、昭和26年当時に岩倉地域の人が主に汲み取りに行っていた高野地域・出町地域・下鴨地域・立命館大学広小路校舎・京都大学は、岩倉地域からずいぶん近いことがわかる。

図表11 洛北農家の屎尿主要汲み取り先と汲み取り料金(1951年)89
主要汲み取り先 汲み取り料 汲み取り農家 1戸当汲み取り量(貫)
松ヶ崎 山端・下鴨・田中 2戸が1荷20円程度 13戸中12戸 4,385
修学院 高野・出町・烏丸車庫・夷川通・寺町 3戸が1荷20円。2戸が盆暮に物をもらう。 14戸中12戸 7,733
岩倉 高野・出町・下鴨・立命館大広小路・京大 1荷10円(2戸)、15円(2戸)、20円(2戸)。 31戸中22戸 2,063
八瀬 出町 もらっていない 10戸中1戸 2,400
大原 不明 不明 18戸中1戸 2,400

なお、屎尿を自ら汲み取りに行かない農家、つまり零細で荷車を持っていない農家、兼業していて、自ら汲み取りに行くひまのない農家でも、肥料は必要であった。また、自ら汲み取りに行った農家でも、規模が大きいと、自ら汲んでくる屎尿の量では足りないことがあった。そのような場合には、近所の農家や業者から屎尿を買う、あるいは近所の農家や親せきから屎尿を分けてもらい、手間で返す(修学院地域の農家の場合、16荷(256貫)の屎尿に対し、2日の手間)とか、ワラで返す(岩倉地域の農家の場合、屎尿150貫に対し、ワラ85貫を返す)ということが行われていた。屎尿を買う場合、京都の市街地から遠い大原地域や八瀬地域の方が、近い松ヶ崎地域や修学院地域より割高であった。また、業者から買う方が、近所や親せきから買うより割安であることも多かったようである90

さて、肥料としては、土質改善のためにも堆肥・厩肥が重要であった。特にナス、キュウリ、トマトなどの栽培には、絶対に必要とされていた。このうち、厩肥に関しては、昭和25年(1950)当時、松ヶ崎、修学院、岩倉、八瀬、大原地域における牛馬の飼育数は図表12のようになり、岩倉、修学院、大原地域においては、厩肥を比較的入手しやすかったが、松ヶ崎地域のように馬1頭しかいない地域では、厩肥の入手に困り、厩肥をワラと交換してもらうか、購入していた。その際、馬車1台分の厩肥200貫を入手する場合、ワラ40束と交換してもらうか、自ら受け取りに行って、300円を支払うかであった(運んでもらった場合は500円を支払った)。岩倉、八瀬、大原地域では、草、ワラに、石灰窒素、屎尿、細かく切ったレンゲを混ぜて堆肥を作ることも多かった91

図表12 洛北における牛馬飼育数(昭和25年(1950))92
牛(頭) 馬(頭)
松ヶ崎(70戸) 0 1
修学院(298戸) 128 0
岩倉(454戸) 146 46
八瀬(81戸) 19 0
大原(295戸) 151 0

(7) 昭和26年の洛南における屎尿利用

洛南では、京都の市街地に近い順に吉祥院、上鳥羽、下鳥羽、横大路、納所地域が取り上げられ、農業経済に関して昭和26年(1951)に調査が行われている。これらの地域では、京都の市街地から南へ離れるに従って、肥料費の割合が大きくなっていた。それは、市街地から離れるに従って屎尿運搬の労苦が増したからであり、金肥(硫安・過リン酸石灰など)の使用量が増えたからである93。そして京都市に近い吉祥院、上鳥羽地域においては、京都市の屎尿を用いて主として蔬菜が栽培され、京都市から遠い納所、横大路、下鳥羽地域においては、稲作に重点があった。

ただし図表13に見られるように、反当たりの屎尿施肥量を見ると、下鳥羽地域が上鳥羽地域より京都の市街地から遠いのに、下鳥羽地域の施肥量が上鳥羽地域のそれより多かったのは、下鳥羽地域が伏見の市街地に近いからである。また図表14に見られるように、上鳥羽地域で石灰使用量が多かったのは、京都市に近いという利点を活かして蔬菜を作ろうと思うと、上鳥羽地域の用水源となっている天神川、堀川に硫酸ソーダ、その他、硫酸塩類、塩化ソーダ、その他の塩化物、浮遊物などを多量に含む汚水が大量に流れ込んでおり、蔬菜は土壌の酸性に対して抵抗力が弱いため、石灰使用量を多くせざるをえなかったからである。酸性に弱い蔬菜を作るより、酸性に比較的強い稲を作ればよいではないかと思われるかもしれないが、天神川に屎尿を放棄する者があり、酸性に強い稲を作る場合でも、たとえ無肥料で栽培しても、窒素過多になるおそれがあり、葉ばかり出来すぎるおそれがあったという。そのため、上鳥羽地域では、取水口に里芋のうねを、水の入ってくる方向と直角に幾つか作り、水がそのうねの間を通ってから稲の方に入る工夫をし、汚水の内容物を少しでも沈殿させ、その影響を少なくしようとしていた94。無肥料で栽培しても窒素過多になるというのであるから、屎尿を放棄する者がかなりいたのであろう。屎尿がすでに相当余ってきていたようである。

なお、これらの地域で調査した農家には、馬が一頭も見当たらず、牛も吉祥院、上鳥羽地域にはいなかったという95。その理由としては次のようなことが考えられる96

図表13 洛南における反当たり自給肥料施肥量(単位:貫)(1951年)97
屎尿 緑肥 堆肥 厩肥・家畜尿 木灰 油かす 鶏糞
吉祥院 1,907.3 25.1 1.8 16.2
上鳥羽 934.3 6.0 0.1 0.1
下鳥羽 1,703.0 0.1 35.9 23.1 9.8 0.5 0.5
横大路 605.1 54.0 13.7 0.4 0.4
納所 115.4 9.4 54.0 10.8
図表14 洛南における反当たり購入肥料施肥量(単位:貫)(1951年)98
硫安 硝安 過燐酸石灰 石灰 油かす 厩肥 屎尿 石灰窒素 塵芥
吉祥院 4.8 0.6 2.1 6.2 42.5 73.2 0.4
上鳥羽 5.9 0.9 4.2 14.8 0.7 9.9 20.9 0.5 0.1
下鳥羽 5.1 0.3 4.9 4.4 1.6 12.3 4.1 0.2 82.1
横大路 9.6 0.4 5.6 4.4 0.9 8.1 42.7 0.3
納所 11.3 4.1 3.1 4.9 0.3

○これらの地域には山林がなく、牛の飼養に必要なワラを、燃料として使わなければならなかった。

○耕地は砂質壌土、もしくは壌土であって、人力でも容易に耕起できた。さらに、人力なら、耕起と同時に整地もできたが、牛耕の際には、「うね」を立てた間の「たに」が広くなり、少面積を高度に利用するには不適当であった。

○京都の市街地に近いので、その屎尿を利用でき、京都から屎尿を運搬するためには、この地域が一般に平坦であり、南に向かってゆるやかな下り傾向を持つので、特に牛を必要としなかった。

○耕起だけでは、肥育などによる収入機会があっても、牛の利用日数が少なかった。

○下鳥羽、横大路、納所地域には牛飼養農家が数戸あったが、それは経営規模が比較的大きく、稲ワラを燃料だけでなく、飼料にもまわす余裕があり、牛の年間使用日数も比較的多く、屎尿の運搬の際にも、運ぶ屎尿量が多かったからである99

(8) 化学肥料の登場による屎尿の不要化と環境問題

以上、昭和26年(1951)頃でも洛北や洛南の近郊農家が化学肥料をほとんど用いず、屎尿や堆肥・厩肥を用いて農業をしていたことを見た。ところがその状態は、その後、急速に変化していったようである。すでに昭和26年には、洛南の天神川に屎尿を放棄する者がいると報告されていたのを見たが、当時の近郊農家は化学肥料をまだほとんど使っていなかったので、天神川への屎尿放棄は、化学肥料の登場によるのではなく、屎尿運搬能力の不足によるのであろう。昭和25年には二ノ橋投入所から下水道への屎尿の投入が始められ、昭和30年(1955)には十条投入所でも投入が始められるようになった。農家による屎尿汲み取りは、昭和30年でも屎尿汲み取り量の40%を占め、業者、農協による汲み取りがこれに続くという状態であった100ので、農家は屎尿をまだ主たる肥料として用いていたように思われるが、その後、昭和32年(1957)頃から尿素の、そして昭和34年(1959)頃からは化成肥料の工場出荷量が増え101、農家や農協による屎尿の汲み取りが激減し、農家は屎尿を肥料として用いなくなっていったのであった。

農家や農協が汲み取りをしなくなった屎尿は、業者が汲み取りをするか、下水に流されるようになっていった。そのうち、業者によって汲み取られた屎尿の一部は、業者によって農家の肥溜や野壺に入れられ、肥料として用いられたようである。洛南の久我地域のB氏は「中学を卒業した後、昭和25年(1950)頃から肥汲みに行くようになった。京都の五条大和大路まで肥とりにいった。4時半に家を出、7~8軒で汲ませてもらって、家に戻ると、昼過ぎだった。昭和28年(1953)頃からは汲みとり賃をもらえるようになった。1荷で20円ぐらい。昭和31年(1956)頃には、肥を久我地域の福生寺南側の肥溜に入れてもらえるようになったので、そこへ肥をもらいに行くようになり、京都へ肥とりに行かなくなった。それに、昭和32年(1957)~昭和33年頃に尿素が出てきた。尿素は扱いが簡単だった」と言う(2008年談)。洛南の羽束師地域のC氏は「肥汲みに行っていたのは昭和35年(1960)~昭和36年まで。それまでに、西羽束師川の橋の南西側のたもとにあった肥溜に肥を入れてもらえるようになっていたので、昭和35年~昭和36年頃からはそこへとりに行った」と言う(2008年談)。そのような大きな肥溜だけでなく、個人所有の小さな野壺にも屎尿が勝手に入れられたようである。洛北一乗寺地域のD氏は「昭和30年代中頃、肥とりに行って帰ってきたら、自分の野壺に肥が入れられてしまっていて、汲んで来た肥を空けられずに、困った。それからは野壺に鍵をかけた」と言う(2009年談)。さらに、農家に依頼されてのことではあるが、ポンプ車を使って屎尿を田にまくこともあった102。筆者も、そのような光景を昭和30年代末に洛北の岩倉地域で見たことがある。

しかし、業者が汲んだ屎尿の大部分は下水道に投入されたようである。下水道への屎尿の投入量は、昭和39年(1964)の196,148klから昭和40年には325,327klへ、激増している。「東京オリンピックの頃からは化成肥料だけを使うようになった」という聞き取り証言とも一致しているので、バキュームカー(ポンプ車)が屎尿を肥溜や野壺に入れることは、おそらくこの頃になくなっていったのであろう103

屎尿の汲み取り量はその後も増えたが、昭和46年(1971)の511,164klをピークに、その後は減って行った。下水道の整備が進み、汲み取らずとも、下水道に流される屎尿の量が増えたからである。

では、下水道に投入または流された屎尿は、適切に処理されたのか。そうではないようで、屎尿の大量投入は、下水処理場からの放流水の水質悪化をもたらした。放流水の水質汚濁の指標として用いられるBOD(生物化学的酸素要求量)値は、昭和29年(1954)頃には平均で15ppm、最高でも20ppmであったが、昭和33(1958)年には平均で48ppm、最高では90ppmを越えるようになったのである104。その後、高いBOD値の原因となるアンモニア態窒素を硝化して硝酸態窒素にすることにより、BODなどを指標とする有機物汚濁は、昭和63年(1988)頃から減っている105が、硝酸態窒素やリンは残ったままであり、半分ほどしか取り除けていない106。それらがプランクトンに取り込まれると、また有機物に戻る。そして海や川が富栄養化して、赤潮などが発生するのである。

また、東京や大阪など、初期に下水道が整備された地域では、雨水も下水道に流れ込む合流式になっていることが多い。特に大阪市は布設延長の97%が、東京都は82%が合流式となっており、京都市は約4割となっている107。この合流式は、管路が1本のため、整備コストが割安であり、雨水が洗い流した道路上の汚濁も下水処理できるといった利点がある半面、大雨が降った時、下水処理場の処理能力を越える量の下水が処理場に流れ込まないように、下水が、下水処理場に到達する前に、雨水吐口からそのまま放出されるという問題を持っている。それゆえ大阪や東京などのように合流式下水道を多くかかえる地域では、大雨のたびに、川や湖や海を未処理下水が汚染することになる。

さらに、屎尿に代わって施肥されるようになった化成肥料が、農作物にすべて吸収されるのではなく、吸収されなかった分が、川を通じて湖や海に流れ込み、富栄養化を起こすという問題もある。

下水道が整備されることにより、屎尿の汲み取りと運搬がもたらす臭気、体裁の悪さの問題は解消されたが、屎尿は肥料としてしだいに使われなくなり、やがて化成肥料にとって代わられ、廃棄物として下水道に流されるだけになった。下水道に流されるとしても、屎尿が適切に処理されるのならよいが、今のところ、それは難しく、屎尿は、流されれば流されるだけ、水を汚染してしまう。そして屎尿は水の主要汚染源の一つに留まっている108

屎尿が有価物であった時代、屎尿のほとんどが肥料として農地に還元され、作物の生産に役立っていたのであった。もちろんそのことには衛生上の問題、臭いの問題、体裁の問題などあったであろう。現代においては、それらはほぼ問題にならなくなった。しかしそれと引き換えに、我々は水質の悪化という問題を引き起こしてしまったといえるのではないか。農地には、屎尿の代わりに化成肥料が使われているが、使われた化成肥料がすべて農作物に吸収されるわけではなく、一部は川に流れ出る。それゆえ自然界は、屎尿を下水道に流すことだけではなく、農地に使用される化成肥料によっても汚染されていることになるであろう。我々は、その汚染された水をもとにして飲料水を作り、汚染された湖や海で捕れる魚介類を食べて暮らしていかなければならないことが多いだけに、屎尿処理問題は、我々にとって避けて通れない問題であると言えるであろう。

2-2 都市から近郊へのものの流れ――牛のえさ

ものが都市から近郊へ運ばれて何かの生産に役立ち、近郊で生産されたものが都市へ運ばれて消費されるという関係は、牛乳の生産に関しても見られる。

京都において、殖産興業の一環として牛44頭・羊19頭を飼育する京都牧畜場が明治5年(1872)に開設されたのは、鴨川の御幸橋(現・荒神橋)と丸太町橋間の東側であった(兵部省練兵場跡地8町4反24歩)109

写真35 京都牧畜場(宮内庁書陵部所蔵、一部トリミング)
写真35 京都牧畜場(宮内庁書陵部所蔵、一部トリミング)
図表15 御幸橋と丸太町橋間の東側に「牧畜場」と記されている。1897年。
図表15 御幸橋と丸太町橋間の東側に「牧畜場」と記されている。1897年。

明治19年(1886)に平安牧場が開設されたのは、岡崎村であり、林牧場が開設されたのは、愛宕郡田中村であった。明治21年(1888)に共進牧場、日進牧場、正進牧場が開設されたのも、田中村であった。明治41年(1908)における京都の牛乳の主生産地は、田中村(1711石)、修学院村(414石)、上賀茂村(308石)、大宮村(235石)、白川村(117石)であり、愛宕郡のこの五村で、京都市の牛乳需要の約7割を生産していた110

ではなぜそのように都市近郊で牛乳が生産されたのか。日本で牛乳が飲まれ始めた明治時代には、牛乳は高級飲料であり、消費者の多くは都市住民であり、運搬手段も冷蔵技術も未発達であった。そのため牛乳は、できるだけ都市に近い所で生産され、生産後、速やかに消費してもらう必要があったのである。

しかし、牛乳が都市近郊で生産された理由としては、牛のエサが都市にあったということもあげなければならないであろう。都市にあったエサというのは、おから、大豆かすで、その他、米ヌカ、麦ヌカもそういってよいであろう。

25頭の牛を飼育していた左京区一乗寺のある乳牛牧場(昭和2年(1927)頃創業)の一日は、次のようなものであった。夜中12時に起き、牛の糞尿の掃除をして、牛に米ヌカ、大麦ヌカ、小麦ヌカ、おから、大豆かす、ワラ、あぜで刈る草などの餌を与えた。その後、乳を搾り、乳を入れた1斗缶4~6本を自転車に載せ、4時に家を出て、府庁前の牛乳高温殺菌処理施設まで届けた。5時すぎに戻り、朝食をとってから、仮眠。7時半には起き、またえさをやり、乳を搾り、10時半に家を出て、乳を府庁前まで自転車で届けた。12時には家に戻り、昼食を済ませて、14時半まで昼寝。その後、またえさをやり、乳を搾り、16時半には家を出て、乳を府庁前まで自転車で届けた。帰路、豆腐屋に寄り、おからを30㎏ほど分けてもらい、19時頃に帰宅して、夕食。そして眠ったのである。

昭和10年代前半頃からは、東寺近くの森永工場へ、1日に1回、オート三輪車で乳を運ぶようになり、ガソリン不足でそれを使えなくなった昭和17年(1942)頃からは、馬車で運んだが、その後、戦争に馬をとられて、馬も使えなくなり、自転車による運搬に戻ったのであった。

写真36 牛乳入り一斗缶4本を自転車で運ぶ姿。一乗寺向畑町。昭和21年(1946)。
写真36 牛乳入り一斗缶4本を自転車で運ぶ姿。一乗寺向畑町。昭和21年(1946)。

なお、乳牛牧場は、牛にやるワラを近郊農家からもらい、近郊農家は、乳牛牧場から牛の糞尿混じりのワラをもらって、野菜を育てたのであった。

昭和40年代までは生えさとして畜産業者に利用されていたおからであるが、その後、畜産業者は飼料として配合飼料を使うようになり、おからの需要は減少した。また、近郊の都市化とともに、畜産業者に臭い・ハエ等に関する苦情が寄せられるようになった。そこで、行政からの指導を機に、多くの乳牛牧場が廃業した。上記の一乗寺の乳牛牧場は、牛の飼育をやめ、宮崎県からタンクローリーで運ばれてくる牛乳を瓶詰めして、販売するだけになった。そして中学生を雇えなくなり、牛乳配達が困難になると、販売もやめてしまった。運搬手段が発達した今では、牛乳は、外国から輸入される飼料を主として用いて、北海道や九州など遠隔地で生産されるようになった。

さて、そのようにして生産される牛乳であるが、国産とはいえ、外国産の飼料が姿を変えただけのものともいえよう。他方、おからは、品質の劣化が早いので、食用として利用されるのは1%未満である。大手豆腐製造業者には、おからを乾燥させるとか、発酵させて、飼料として製品化し、販売しているところもあるようであるが、製品化に費用がかかりすぎ、採算はとれておらず、廃棄されるおからも多いようである111。そして牛の糞尿も、畜産地帯では利用が進まず、処理に困るようになっている。

終わりに

かつて、京都近郊では、地域に適したもの、有利なものが作られ、京都へ運ばれ、消費されていた。その産物は、道路事情、運搬手段、暮らしの変化によって変わっていった。そして鉄道や自動車が登場してくると、かつて近郊の暮らしを支えたたきぎ、炭、木材の生産は、遠隔地との厳しい競争にさらされるようになり、戦後、電気、石油、ガスの使用が進むようになると、たきぎや炭は使われなくなり、電柱材用のスギも、耐久性と耐火性にすぐれたコンクリート製電柱に取って代わられ、建築物に木材があまり使われなくなると、木が切られることがほとんどなくなった。山に仕事がなくなった今では、廃村、もしくはそれに近い状態になっているところも多い。そして伐られることなく放置された木が、山の生態系を乱しているだけでなく、災害の原因にさえなっている。

他方、京都で排出される屎尿や灰は、京都にとって不要なものであったが、近郊農家にとっては、貴重な肥料となった。近郊農家は、京都から排出される屎尿や灰を使い、農産物を生産した。

同様のことは、主に都市で排出されるおから、豆かす、米ヌカ、麦ヌカについても言える。これらは食用にも用いられるが、大量には用いられない。おから、豆かす、米ヌカ、麦ヌカと、農家が米を収穫した後の稲ワラを用いて生産されたのが、牛乳であった。そして牛の排泄物は、近郊で野菜生産に用いられたのであった。

しかし今では、たきぎや炭を使うことがなくなったので、その灰は都市では排出されなくなった。屎尿は今でも排出されるが、下水道へ流されるようになった。下水は、下水処理場で処理されるとはいえ、完全には処理されず、処理下水による水の汚染が問題になっている。また、屎尿に代わって肥料として使われるようになった化学肥料・化成肥料のうち、作物に吸収されなかった分による水の汚染も問題になっている。

牛乳は、牛舎からの臭いが問題となり、近郊ではなく、都市から離れたところで生産されるようになった。ところがおからは、水分を多く含んでおり、変質しやすいので、飼料として利用するには、乾燥させるなどしなければならないが、それには費用がかかる。そのため、産業廃棄物として廃棄されることが多くなった。他方、牛乳生産地では、牛の排泄物を肥料としている耕地の窒素負荷量が、その上限を超えてしまうという問題が起こっている。

近郊から都市へ農産物、たきぎ、炭、木材などが運ばれて、都市の暮らしが支えられ、都市から農村へ屎尿、灰、おからなどが運ばれて、農産物や牛乳の生産に使われるという循環は、このようにしてほとんど消えてしまった。我々は、昔と比べると、はるかに便利な暮らしをしているが、全体としての環境に対しては、問題の多い暮らしをしているのではないか。

写真所蔵者

1. 中村 治 2. 松尾 順子 3. 中村 治 4. 斎藤 重治
5. 中村 治 6. 中村 治 7. 同志社人文科研 8. 鞍馬自然護会
9. 中村 治 10. 中村 治 11. 同志社人文科研 12. 下坂 恭昭
13. 林 忠義 14. 松本 善尋 15. 伊藤 恵子 16. 下坂 恭昭
17. 鈴木 栄吉 18. 安井 昭夫 19. 雲ケ畑自治会 20. 中村 治
21. 柿谷 均 22. 岩井 達男 23. 岩井 達男 24. 久保 一男
25. 徳岡 敏子 26. 同志社人文科研 27. 同志社人文科研 28. 田中 寿美子
29. 田中 寿美子 30. 中村 治 31. 同志社人文科研 32. 同志社人文科研
33. 野村 祐三郎 34. 中村 治 35. 宮内庁書陵部 36. 北川 幸

注 「同志社大学人文科学研究所」を「同志社人文科研」、「鞍馬の自然を護る会」を「鞍馬自然護会」、「雲ケ畑自治振興会」を「雲ケ畑自治会」と略記している。

図表所蔵者

3. 京都府立京都学・歴彩館 15. 中村 治

文献一覧

1 「嵯峨から千本三条にいたる西高瀬川に大堰川筏を流すようになるのは明治一七年一〇月以降である――西高瀬川では大堰川筏を解体して大堰川筏の約半分の幅で流送された――」が、「その計画は文政期ないしそれ以前からあり、一部には実現していたともいわれている」(京都嵯峨材木編纂委員会編(1972)京都嵯峨材木史 嵯峨材木株式会 p.134)

2 京都嵯峨材木史 p.102
藤田叔民(1968)近世後期丹波薪の生産と流通『社会科学』 同志社大学人文科学研究所 p.200。

3 京都嵯峨材木史 p.103。

4 波多野富之助「植林ニ付調」(明治42年(1909)7月18日・東昇編『京都雲ケ畑・波多野六之丞家文書調査報告』(『京都府立大学文化遺産叢書』第19集)、京都府立大学文学部歴史学科、2020年、pp.18-19)。

5 黒木の「多ハ洛北矢背大原鞍馬ヨリ出ツ」(黒川道祐(1682~1686)雍州府志 第6巻黒木の項)。

6 洛北誌(旧京都府愛宕郡村志)(1972) 大学堂書店 p.409; p.426; p.449。

7 洛北誌(旧京都府愛宕郡村志) p.343; p.373。

8 敦賀街道を通って運ばれた薪炭としては、伊香立、途中からのものもあったかもしれないが、伊香立や途中は滋賀県に属するので、ここには含まれない。鞍馬街道を通って運ばれたと思われる薪炭としては、芹生のものもあるが、それが鞍馬村貴船の分に含まれていたかどうかはわからない(橋谷民吉(1935)今次水禍に因って極度に窮迫せる芹生の里 社会時報 第5巻第8号 pp.33-34
また、北桑田郡黒田村の黒木も芹生経由で京都へ運ばれた(「黒田村は禁裏御料百姓で……黒木を御所へ運ぶ時は牛の背に載せ芹生を経て市原で休む事になつてゐた。市原には舊くから黒木を取扱ふ家があつた。」(井上頼寿(1940)京都古習志 館友神職会 p.158)
尾越の下坂恭昭(昭和3年(1928)生)氏は、炭については、すべて鞍馬に売ったという(2020年談)。

9 二鐘亭半山(1929)見た京物語 日本随筆大成編輯部編『日本随筆大成』第三期第四巻 日本随筆大成刊行会 p.581

10 「若狭街道の大原と八瀬の境に峠がある。人々はこの峠を、「下瀬峠」といって、昔から随分難所であったと語られている。明治以前は大原の花尻の地点から八瀬の橋立てまで(比叡山登山口)川沿いの道がなく、山の中腹を縫い、更に小高い部分を曲折しながら越えていた。」(後藤武雄(1976)大原の物語 新日本写植 pp.191-192
「今でこそ大原に行くのは疑いもなく高野川の川筋の道ということになっているが、昔は川筋が通れなかったので上賀茂から山越えしていった。その後川筋に道が開かれるようになったが、それも一気に現在のように川添いに出来たのではない。はじめはかなり上部の高巻きの道であった。現在も比叡山側に三段くらいになって残っていると聞く。これは上段ほど古く、世が下るにつれて道もだんだん下部に移行していったことを物語る。」(金久昌業(1988)北山の峠(上) ナカニシヤ出版 pp.232-233)。

11 上高野地区の最東端に住む二股正和氏の母(大正8年(1919)生)は、比叡山ケーブル線(1925年開業)の建設資材を運ぶために、上高野地区の崇道神社東側から八瀬地区へ向かうことの妨げとなっていた巨岩を発破で破壊する音を覚えているという(二股正和氏2019年談)。大原・八瀬から京都へ行く人は、その場所を通らず、その場所の東側で高野川を渡っていた時代もあった(図表3「山城州大絵図」(1778年)参照)。八瀬から高野川を南へ渡ったところにある一区画は、そこで履物や服装を整えた名残か、上高野領内にあるにもかかわらず、八瀬の飛び地となっている。

12 「鞍馬村炭問屋訴につき荻野勝之助申渡書写」(京の暮らしの文化普及啓発実行委員会(2020)鞍馬 くらしと行事 鞍馬下在地大惣仲間文書・安政4年(1857)4月15日 京の暮らしの文化普及啓発実行委員会)
幡枝の大西末義氏(昭和6年(1931)生)の父は、農業のかたわら、鞍馬~出町間の物資の運送に自らが飼う牛に荷車を引かせて従事していたという(2023年大西末義氏談)。また、深泥池には、馬を複数頭飼って、運送業を営んでいた家もあったという。

13 「尾越村取調書」(片岡家文書S51-G8・京都市歴史資料館蔵)によると、人口66人の尾越村に10頭の牝牛がいた(1878年)。

14 「滋賀郡葛川村梅の木に達する道路は米穀及一切日需品の輸入物産薪炭輸出の途なり。然るに管内[久多村]に属する所は改修なるも管外は舊来の険悪山逕にして擔荷の外牛馬を通ぜず」(洛北誌(旧京都府愛宕郡村志) p.463)。

15 多村取調書 片岡家文書S51-G 8 京都市歴史資料館蔵

16 吉田東伍(1900)大日本地名辞書 冨山房 p.1854
上方史蹟散策の会編(1998)鯖街道 向陽書房 p.35。

17 「当所(久多荘)関所奉行の事、先々の如く公文源三郎に申し付くべく候」(長禄年間(1457年~1460年)のものと推定される左京区史料京都の歴史第8巻(1985) 平凡社 p.574)
「請け取る、関公用銭の事。合わせ参貫六文といえり。右 天文五年[1536]拾二月廿一日 久多荘 公文殿」(『左京区』、p.578)。「朽木の殿様が京へ行くとき同[種田]家で休むのが習わしだった」(岩田英彬(1972) 若狭からの裏街道 (『あしなか』132輯)。
尾越の下坂家の前には大きな石(写真16の炭の左側に立てられている石)があったが、それは朽木の殿さまが馬に乗る時の踏み台にしていた石であると下坂恭昭氏はいう(2020年談)。朽木の殿さまは、京都へ行くのに久多・尾越経由の道をよく通ったようである。

18 「安曇川源流部の各支流は本流に注ぐ手前で著しい回春地形を呈するために、尾越・大見などの源流域から本流河谷方面には、勾配の比較的緩やかな久多川渓谷に沿う径路以外に連絡路がなかった。一方、京都方面には峠越えの山道が5ルートにも分れて、洛北の鞍馬と大原に通じていた。それで明治時代には、尾越・大見と近江側との交流は久多を経由して行なわれ、また久多では特産の木炭を、この高原上の山道を利用して鞍馬に搬出した。しかしこの場合、久多~尾越間(10km)に、小黒坂(久多側の急坂部の登攀高度350m)とフン坂(尾越側の同上高度150m)の非常に急な曲折の多い峠があり牛背による運搬ではその往復に1日を要したから、尾越には3戸の木炭仲継問屋が成立していた。しかし、明治末期に久多川で筏輸送が始まると、この久多~尾越間の山道の利用は衰え、尾越の木炭問屋も廃業している。その後この山道は、大原から久多入の郵便や行政連絡にしばらく使用されているが、大正中期に西近江路の花折峠が改修されると、全く廃道と化し、尾越のそれまでの通過地的な仲継機能は完全に失なわれ、最奥地集落に変位するのである。」(坂口慶治(1975)京都市近郊山地における廃村化の機構と要因 人文地理27-6 p.7。

19 大久保邦彦、三宅俊彦編(1987)鉄道運輸年表 日本交通公社出版事業局

20 白炭2等(1貫)京都市の物価
京都府立総合資料館編(1971)京都府統計史料集第4巻(物価・家計・府民所得・賃金・労働・社会保障・社会福祉) 京都府 p.41。

21 東昇編『京都雲ケ畑・波多野六之丞家文書調査報告』、pp.18-19。

22 洛北誌(旧京都府愛宕郡村志) pp.284-285。

23 雲ケ畑林業研究会総会(1995年4月22日)配付資料。

24 京都府立総合資料館編(1971)京都府統計史料集第3巻(金融・運輸・通信・建設・電気・ガス・水道) 京都府 pp.294-295;p.298;pp.336-337
京都府立総合資料館編(1970)京都府百年の年表7(建設・交通・通信編) 京都府p.118; p.134
波多野文雄(2005)むかしのはなし 山と木とくらし たんけんたい」

25 洛北誌(旧京都府愛宕郡村志) pp.279-280; pp.420-421

26 東昇編『京都雲ケ畑・波多野六之丞家文書調査報告』 pp.81-83。

27 雲ヶ畑森林組合「昭和36年度業務報告書」(京都府立京都学・歴彩館所蔵行政文書)に「受託販売事業実績」として「素材市売239立米、電柱材1843立米、パルプ材385立米」と記されているので、この時点では電柱材がまだ主産物であったことがわかる。

28 波多野周造(1968)雲ケ畑の農協と森林組合 雲峯時報 雲ケ畑自治振興会 p.9。

29 雲ケ畑林業研究会総会(1995年4月22日)配付資料。「全国平均山元立木価格の推移」(「林業の動向(1)」(林野庁『令和2年度森林・林業白書』第1部第2章第1節)・https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/R2hakusyo_h/all/chap2_1_1.html)。

30 「岩倉行き。この日、金木苗百本一円四五銭にて買う」(3月28日)。「金木苗を細谷に植える。三人にて百本」(3月29日)。「K家日記」明治22年(1889)。岩倉ではクヌギが金木と呼ばれていた。

31 昭和17年(1942)4月30日に薪の統制販売要項が京都府森林組合連合会から発表され、それは昭和24年(1949)1月27日に薪の自由販売が実施されるまで続いたようである(京都府立総合資料館編(1970)京都府百年の年表3(農林水産編) 京都府、 p.224; p.238)。

32 森和男(1952)昭和二十六年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について― 京都市産業観光局 pp.72-73。

33 橋本元(1935)京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業 橋本傳左衛門、大槻正男監修 京大農業経済論集 第4章 養賢堂 p.218。

34 「雇人足・屎尿運搬覚」、山口功家文書。

35 橋本元 京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業 p.104。

36 「虎列刺病予防法」として「悪水塵芥ヲ溜メ置ベカラズ」とか「腐敗ノ臭気ヲ鼻口ヘ引入ル時ニ伝染スル者ナリ」などとも述べられている(明治10年9月24日府史政治部衛生類第243号乙第79号(京都府立総合資料館編(1972)京都府百年の資料4(社会編) pp.458-459
酒井シズ(2008)病が語る日本史 講談社 pp.178-193
酒井弘憲(2014)ジョン・スノウとコレラ ファルマシアvol.50、No.6、 pp.558-559。

37 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.105

38 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.108

39 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.109

40 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.109

41 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.109-110

42 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.110

43 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.116

44 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.118

45 「雇人足・屎尿運搬覚」 山口功家文書

46 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.123

47 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.126-128

48 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.126-127
京都市市政史編さん委員会編(2009)京都市政史第1巻 京都市 p.467(「都市住民にとって屎尿は有価物だったのである。こうした都市・農村間のリサイクル関係は、少なくとも1918年(大正7)ごろまではまだ続いていた。このことは、たとえば次年度予算編成にあたり、屎尿処分を市営化して、汲み取人が支払う年間約20万円の代価を市の財源に入れようとする計画がもちあがっていたことからもわかる(「日出新聞」一九一八年一二月一六日)。」)

49 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.131-132。

50 京都市政史第1巻 p.468。

51 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.131-132; p.136。

52 大阪市清掃局処理課(1949)大阪市し尿処理事業の沿革とその現状」 p.6
大阪府経済部農務課(1949)大阪平野に於ける屎尿利用の変遷 1949年 pp.24-25
小林茂(1983)日本屎尿問題源流考 明石書店1983年 p.308

53 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.136-137

54 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.142-143

55 石塚恒太郎(1930)京都市屎尿処分場作業概要 京都市衛生試験場『昭和4年京都市衛生試験場報告』 p.171。

56 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.145
京都市政史第1巻 p.468

57 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.136

58 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.140-141

59 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.144-145
石塚恒太郎「京都市屎尿処分場作業概要」 pp.170-180。

60 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.141
京都市政史第1巻 p.469

61 沖野茂(1930)「京都市の河川並びに下水の汚染度に就て」 京都市衛生試験場昭和4年京都市衛生試験場報告 p.134

62 京都市下水道局(2001)京都市下水道史 京都市下水道局 p.25

63 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.150

64 農会の見積りによれば、排泄された屎尿の60%が、市の見積りによれば、66%が近郊農業に使われたという。近郊農業に使われ得るはずの93%との差の理由としては、農業者以外が利用したこと、便壺が不完全なため、地中に浸透したものがあることなどもあげているが、不明であると述べられている。橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.214-215

65 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.202-203

66 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.204; p.215

67 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.207-208

68 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.158

69 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.208-211

70 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.211-212

71 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.212

72 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.124

73 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.178

74 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.180

75 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.171

76 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.173-178
岩倉に関しては、岩倉の人からの聞き取り。

77 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.179

78 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 pp.178-179

79 橋本元「京都市に於ける屎尿の處理と近郊農業」 p.175

80 『京都市下水道史』 p.26。

81 『京都市政史』第1巻 pp.585-586
昭和16年(1941)末の時点で京都市における下水道使用戸数は42000戸ほどあった。

82 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.122

83 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.122

84 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.122

85 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.122

86 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 pp.121-122
屎尿量は、購入下肥と自給下肥の量をたした数値。

87 修学院には牛乳牧場があったので、そこから出る厩肥も含まれていたと思われる。

88 「雇人足・屎尿運搬覚」 山口功家文書。

89 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 pp.125-126

90 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 pp.126-127

91 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 p.127

92 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛北地区について―』 pp.36-37

93 京都市産業観光局(1952)『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.67; p.73

94 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.7; p.73。

95 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.31。

96 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 pp.32-33。

97 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.72。元の資料で欄に横線が記されている箇所には、そのまま横線を記した。

98 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.72。

99 『昭和26年度農家経済農業経営実態調査概要―京都市洛南地区について―』 p.33。

100 『京都市下水道史』 p.396。

101 京都府立総合資料館(1970)京都府統計史料集第2巻(農林水産業・商工業) 京都府 p.102。

102 京都市には昭和33年度には大型5台・小型21台のポンプ車があった(『京都市勢統計年鑑』昭和34年版)。

103 『京都市下水道史』 pp.395-397。羽束師のMK氏と久我のTS氏、2008年談。

104 『京都市下水道史』 pp.395-397。

105 『京都市下水道史』 pp.395-397; p.413。

106 『京都市下水道史』 pp.395-397; p.413。「好気槽における脱窒に関する調査――浅川処理場と小菅処理場の共同調査――」(2001年年報 p.78 https://www.gesui.metro.tokyo.lg.jp/business/pdf/02-07_2001.pdf・2024,2,16閲覧)によると、東京の浅川処理場では処理水に残る窒素の割合は50%であり、小菅処理場では30%であるという。大阪市のホームページ「水質保全対策」によると、流入時にはBODでおよそ130mg/ℓあった汚れを90%以上除去し およそ10mg/ℓに浄化したうえで放流しているが、しかし、なお一部の河川で水質環境基準が達成されていないところがあり、また、大阪湾では現在も毎年赤潮が発生している(http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000007936.html・2024,2,16閲覧)。

107 『月刊下水道』vol.27(10) 2004年 p.44
「雨の日東京湾大腸菌汚染」 『サンデー毎日』2002年7月14日号 pp.30-33。
大楽尚史(2006)京都市における合流式下水道改善への取組 『環境技術』vol.35(No.10) pp.14-20。

108 大阪府の調査によると 水質汚濁の指標として用いられるBOD(生物化学的酸素要求量)の総排出量のうち 生活排水の占める割合は 1970年には39.4%であったが 2004年には79.9% 2009年には81% 2014年には77% 2019年には73%になっている(「どうして生活排水対策が必要なの?」(http://www.pref.osaka.jp/kankyohozen/sei-hai/sei-hai_why.html)・「大阪府域の生活排水処理計画のまとめ」(https://www.pref.osaka.lg.jp/attach/4289/00020442/R5torimatome.pdf)2023年10月閲覧)。

109 三橋時雄、荒木幹雄(1962)京都府農業発達史 京都府農村研究所 p.16
京都府立総合資料館編 京都府百年の年表(農林水産編) pp.56-57。

110 洛北誌(旧京都府愛宕郡村志) p.23。

111 日本豆腐協会(2011)食品リサイクル法に係る発生抑制https://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/syokusan/recycle/haiki_h23_04/pdf/111202_data2-6.pdf