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京都府名誉友好大使レポートの紹介

毎年、京都府名誉友好大使レポート集を作成しています。その中から、いくつかのレポートを紹介します。
※ レポート集をご希望の場合には無償でお配りしますので、 国際課企画担当までお問い合わせください。

レポート一例

李 熙馥(イ ヒボク)
任命年度:平成18年度
出身地:大韓民国
在住地:仙台市在住 

<東日本大震災を経験して-私が感じた日本人の素晴らしさ、私の中での大きな葛藤・・・そしてこれからの私-> 

 私は現在、宮城県仙台市にある東北大学大学院の博士課程後期課程に在籍しています。2011年3月11日、午後2時46分、私は11階建の5階にある大学院生研究室にいました。3月ということで、私が所属している発達障害学専攻の院生は誰もいませんでした。学校内に設置されている地震警報が鳴り、すぐ大きな揺れがありました。今まで経験したことのない大きな大きな揺れでした。本棚の物が全部床に落ち、蛍光灯が激しく左右に動き、キャビネットが倒れ、何かにつかまっていなければ机の下にもぐっていてもそのままではいられない状態でした。
 私には当時10ヶ月の子どもがいました。その子どもの面倒をみてくれるため、韓国から母親が来日していました。私は揺れている中、家にいる母と子どもが心配になり、電話をし続けました。しかしつながることはありませんでした。少し揺れがおさまった時に、「早く外に逃げて!!」という声が聞こえてきました。キャビネットでドアがふさがれていましたが、それをなんとか取り除いてドアを開け、外に逃げました。
 学校にいたみんなが次々と外に集まり、状況を把握しようとしました。しかし、携帯電話が使えないこともあり、状況を把握することは容易ではありませんでした。しばらくすると、学校側から絶対に一人で行動しないようにということとともに解散が命じられました。私はどうにか家に早く帰らないといけないという一心でした。当日研究のために出張に行くと言っていた同学校の工学研究科に在籍している主人に家に帰るようにとメッセージを送り続けました。友達の車で家に向かおうとしましたが、道路はもうすでに駐車場になっていました。信号機が全部消えて外に出ている人が道路まで溢れている状態でした。

なんでみんな落ち着いているんだろう?
 車で5分の距離を、1時間もかけてやっと動く状態でした。その時、あんなに車や人が溢れているのに、信号機が消えて誰が先なのかわからない状態なのに、運転者も歩行者もみんな静かで落ちついて行動していました。誰もが早く行こうともせず、譲り合いながら道を進んでいました。私のように家の家族が心配で、いち早く家に帰りたい人もいたはずでしょう。家族のことが心配で心配で、なかなか進まない道、道路まで溢れて歩いている人にイライラしてしまい、ちょっとした喧嘩にもなり得るような状況でも、どこでも大きな声やクラクションの音さえ聞こえませんでした。その様子をみて私は本当に驚きました。
「なんであんに落ち着いているんだろう?なんであんなに冷静なんだろう?・・・」
 なかなか進まないため、車から降りて歩いて家に帰ることにしました。すでに夜が暮れて車のライト以外には頼るものは何もない状態になりました。歩いている途中、ある病院の建物に入ってトイレをお借りしました。その時、病院の方々から「どうぞどうぞ、使って」と、そして「帰り道、気をつけてね!」と何度も気にかけてくださいました。その声に思わず涙が出そうになりました。
「こんな状況で助け合っている日本人って、本当にすごい・・・」

私が目にしたこの風景は、全世界に報じられ、日本人の素晴らしさが改めて知られるようになりました。私も緊急一時帰国した際、韓国のニュースを通して流れる日本人の強さややさしさの姿に「そう、そう」と同感しながらみていました。

私の中での大きな葛藤
 3月11日当時、紆余曲折を経て、私たち家族も夜中に無事に再会することができました。そして韓国の領事館に避難し、韓国政府が緊急に手配をしてくれたおかげで、私たち家族は一時帰国することができました。新潟を経由して帰る際は、仙台に残っている仲間が心配で、とても深い申し訳なさを感じました。しかし私の心のどこかには、帰れる国があってよかったとも思いました・・・
 帰国して1週間ほど経った時に、「これでいいんだろうか」という思いがよぎりました。メールを通して学校の仲間の安否や仙台と学校の状況について知らせてもらいながら、私の中で大きな葛藤が生じ始めました。ライフラインが寸断された町で暮らしている友達が助け合いながら、食料を調達したりして、一日一日を必死に生きている様子について知らされたときは、「私だけこんな安全なところで気楽にいてもいいんだろうか」という申し訳なさを感じました。

ある程度状況が落ち着き始めた4月初旬からは、私の研究室を中心に、復興支援として子どもへの支援などが行われました。みんなが被災しているのに、大学で学んだ専門性を生かし、先生や学生が集まって毎日毎日被災した施設にボランティアに出かけたり、子どもに遊ぶ場を作って提供したりするなどの活動を行っていたのです。そのことをメールで知らされたときには、「私ももう日本に戻らないといけないんじゃないか」「これまで日本でたくさんの人に助けられてここまで来たのに、いざとなった時には外国人だという理由で、日本を離れて、いつのまにか第三者になっているのはおかしいんじゃないか」という、思いがありました。しかし、私には幼い子どもがいるし、今子どもをつれて仙台に戻るのはまだ不安だという家族の反対もあり、いても立ってもいられない気持ちになりました。

 一時帰国ができた際は正直「帰れる国があってよかった」とも思いましたが、日本で頑張っている仲間の姿をみると、「今まで日本でやってこられたのは日本の沢山の友達や先生などに助けられたおかげなのに・・・私も日本の社会に馴染もうと必死に頑張ってきたのに・・・いざとなった時には日本を離れてしまう・・・やっぱり私は外国人なのか・・・」という思い、一方「今はまだまだ子どもをつれて帰れる状況じゃない」という思い・・・ とても複雑な葛藤でした。

これからの私
 5月初旬になって仙台に戻ってきました。私に今できることをやろうと思いました。そして、外国人として留学生として日本に住んでいることの意味を考えようとしています。一つは外国人として日本の社会のルールをきちんと守ることが、日本に住んでいる私が果たす責任でしょう。そして外国人として何か提供できること(友好大使の活動もそうでしょう)があれば、積極的に参加することが、今私が日本で暮らしながらやるべきことの一つなんじゃないかなと思います。それ以外にもたくさんあると思います。これからも私がここでできること、やるべきことをやっていきたいと思っています。

京都府国際課の方々へのお礼
 一時帰国してからしばらくすると、国際課の方から安否を尋ねるメールをいただきました。私や家族のことを心配してくださり、大丈夫かというメールをくださったのです。京都を離れて4年にもなるのに、4年の間なんの活動もできていないのに、私のことを覚えて心配してくださったことにとてもうれしかったですし、感謝の気持ちでいっぱいでした。ここに記して深くお礼申し上げます。

最後に東日本大震災で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。仙台をはじめ、被災地の一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。 

 

この他にも4つのレポートを紹介しています。ぜひご覧ください。

 梁 永(リョウ エイ)
任命年度:平成23年度
出身地:中国河南省周口市
<印象に残った名誉友好大使の活動> (PDF:223KB) 

 

 李 花(リ カ)
任命年度:平成22年度
出身地:中国吉林省
<料理教室を通して> (PDF:105KB)

 

 周 瑛(シュウ エイ)
任命年度:平成20年度
出身地:中国陝西省西安市
<一期一会> (PDF:123KB)



ワドウレス アリヤワンサ
任命年度:平成4年度
出身地:スリランカ
<2012年京都府友好大使レポート> (PDF:457KB)

 

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知事直轄組織国際課

京都市上京区下立売通新町西入薮ノ内町

ファックス:075-414-4314

kokusai@pref.kyoto.lg.jp

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