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鴨川真発見記<223から228>

 

 

平成27年度 鴨川の浚渫(しゅんせつ)工事(第228号)

思わぬところから注目されています

 

 鴨川では、川の中の中州・寄州の管理を計画的に進めています。平成27年度も柊野砂防堰堤上流と西賀茂橋上流で実施しています。

 

 以前は中州・寄州は撤去せずに自然のままにしていましたが、堆積量が増えすぎてきました。6年前から試行的に10年間かけて全ての対象区間の土砂をある程度残しながら撤去し経過観察を続けています。

※中州管理の考え方の資料にリンク

 

 平成25年度から3年続けて台風や大雨の影響で、鴨川も大増水し多くの土砂が山から流れ出てきました。10年間の試行の期間中ですが、この増水の影響で、既に一度撤去を実施した区間に多くの土砂が堆積しました。

 

平成25年9月の出水

<柊野砂防堰堤下流から上流を望む>      <柊野砂防堰堤下流側から下流を望む>

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<柊野砂防堰堤上流グラウンド>          <同左>

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平成26年8月の出水

<柊野砂防堰堤下流から上流を望む>      <柊野砂防堰堤下流から下流を望む>

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<柊野砂防堰堤上流グラウンド>          <同左>

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※3年間で2度の浚渫工事となった柊野砂防堰堤上流

<平成25年度浚渫工事>     <平成27年度浚渫工事>

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 土砂が多く流れ出た要因は、異常気象とも言われる雨が一番だと思いますが、他にもいくつか要因が考えられます。森林の荒廃による山の保水能力の低下も考えられます。

 

 もう一つ注目されているのが、鹿の増加により山の草が食べ尽くされて保水能力が低下し土砂が流れ出しているというお話しです。

 

<高野川の鹿>                                     <僕らの仲間だけが悪いの?>

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 そんな中、鹿が原因で土砂流出が増えているという新聞報道もあり、毎日放送から浚渫工事現場の取材がありました。夕方の報道番組で、約6分間鴨川源流域の志明院や雲ヶ畑の鹿害の現状を報道されて、その後1分程度工事現場の様子などが報道されました。

<西賀茂橋上流の浚渫工事現場>

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 取材に応じたのは、京都土木事務所の河川砂防室長で、現場の作業風景の撮影の後でインタビューに答えました。

※ 取材内容(概要)は、次のとおりです。

 

Q1:この浚渫工事はなぜ行っているのですか?

A1:土砂が堆積しすぎると、水の流れる部分が狭くなり、水を下流へ安全に流す機能が低下します。その機能回復のため実施しています。

鴨川では、二条大橋から柊野堰堤までは10年サイクルで堆積土砂除去を行う目安としています。

 

Q2:何が原因ですか?

A2:前回は24年度に実施しましたが、25年、26年、27年と3年連続して台風等の豪雨出水で堆積したため今回実施しています。

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Q3:なぜ堆積したのですか?

A3:この箇所は少し内側に湾曲しているため土砂が堆積しやすい箇所となっています。

 

Q4:発生源は上流からですか?

A4:上流のどの場所かは特定できませんが、3年連続の出水で流水と一緒に流れてきたと考えられます。

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Q5:工事の内容と方法はどんなものですか?

A5:約500mの区間に堆積した約3,000m3の土砂を準備工等を除いて実働約1ヶ月(2月下~3月下)で除去する工事です。

イメージされている「水面下の河床も含めて掘削して搬出する方法ではなく、水面より上の堆積土砂を一定寄せ集めて搬出する方法をとっています。これは生態系に配慮しての工法です。また、漁業協同組合とも協議して行っている方法です。

 

Q6:堆積した土砂を放置すればどのような影響が出るのですか?
   下流域への影響はどうなりますか?

A6:放置すれば、流水が溢れて周辺の浸水被害が起こる可能性があります。

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 堆積土砂が流水と一緒に下流へ流出すれば、さらに下流でも被害が予想されるため、堆積箇所毎に浚渫工事を行っています。

 思わぬ事がキッカケでテレビ報道となりましたが、何のために川の中に重機を入れて土砂を取り除いているのか、多くの皆様に知って頂けたのではないでしょうか。

                                                    

 平成28年3月11日 (京都土木事務所Y)

 

江戸時代の鴨川の様子をうかがう"その2"(第227号)

「賀茂川筋絵図」より

 

 鴨川真発見記第224号では、「京都市歴史資料館」所蔵、「賀茂川筋絵図」大塚コレクション№0406を用いて、江戸時代の鴨川修復の様子と共に当時のくらしの一端として“七条通”から“今出川通”までをご紹介しました。

 

 今回は、今出川から柊野までの様子をご紹介したいと思います。現在でも鴨川は、高野川の合流点を過ぎるとそれまでの街中と雰囲気が随分かわりますが、幕末はどうだったのでしょうか。

 

 赤い線が道ですが、上流から続く道が高野川合流点右岸で東西に分岐して今出川通りで再度出会います。右岸の川中に道が造られ、公儀石垣の前には蛇篭が置かれ、川中にも蛇篭が置かれています。その道には「御?道」と書かれているようですので、何か特別な車が通る道だったのではないでしょうか

<今出川通り上流 上が北>

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 高野川側の左岸には、立て札があり「チリステバ札」と読み取れます。ここは当時のゴミ集積場だったようです。ゴミといっても当時は自然回帰するものが中心だったと思われますので、川を汚すという観念はなかったのかもしれません。

<チリステバ札>

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 現在「鴨川デルタ」とも呼ばれ、人々が憩う広場となっている“鴨川”“高野川”合流点の背割りですが、当時はその間に下鴨神社を経由して流れてきた“泉川”と高野川が分流した“高野川切込”と書かれた流れが合流し四川合流地点となっています。

 

 現在では「高野川切込」は無く、泉川は剣先を避ける形、糺ノ森を抜けた所で高野川、鴨川に逆Yの字で合流しています。

<出町 合流点 上が北>                              <同左 現在の地図>

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 鴨川を上流にたどっていくと、東岸には下鴨神社がありますが、西岸には石垣が設置されているのに対して、治水対策のために築かれた構造物が全く見あたりません。

 

 また、西岸には現在の加茂街道沿いに松並木が描かれています。この後明治38年には、葵橋(現在の出町橋)から御薗橋にかけて師範桜と呼ばれる桜2,279本、楓735本が植樹され桜の名所となりました。

 

 それから111年という年月が経過し、明治38年に植樹された樹木が残っているのかどうかは定かではありません。第222号で高野川沿いの桜の植え替えを京都市さんが進めておられる事を紹介しました。

 

 植え替えの現場に事業の説明書きがありましたので、ここで紹介させて頂きます。

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<記載内容>

工事名 桜景観創造プロジェクト 街路樹植栽(その1)工事

事業概要

 川端通りのサクラは、老朽化が進み、倒木の危険性、通行の安全性の低下等を招いていました。このため、植え替えを行い、通行の安全性の確保を図ると共に、良好な桜並木景観の保全と創造を進めてまいります。

 京都市 建設局 みどり政策推進室

<高野川との合流点から上流 下鴨神社周辺 左が北>

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 樹木の伐採や植え替え、とりわけ“さくら”に関しましては、皆様の関心も高く、反対の声をしばしば聞きます。しかしながら、昔の風景と今の風景を古写真や絵図でたどると、数十年先の景観を保全するためには、必要な植え替えや伐採は大切な事だと感じます。

 現在の北大路橋から植物園付近の様子です。左岸(東岸)の河原には草さえも書き込まれていません。草も生えない礫河原だったのかもしれません。

 

 そして、現在も植物園の敷地内にある「半木神社」も書き込まれています。その表記は「ナカレ木ノ社」となっています。その向かい側の右岸(西岸)には、御所へと水を引いていた御所用水の取水口があります。

 

 数ある取水口の中でも特に頑丈な石積みの樋門が築かれていましたが、被災したようで、公儀石垣を示す黄色の着色ですので修復されたようです。

<現植物園付近 左が北>                             <現在の地図>

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<ナカレ木の社>                                    <御所用水取水口>

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 御所用水の取水口から上流には、多くの用水の取水口がありました。御所用水を含む用水の水は上賀茂神社が支配して、水を配分していました。上賀茂の社家町「梅辻家」にはその水支配の図が残されています。

 

 後ほどその一部を使用させて頂いて、興味深いものをご紹介したいと思います。

 

 次の画像には、中村樋門が書かれています。川には橋はありませんが、赤い線で道が示されており、川の中を歩いて東西を行き来していた事がよく解ります。

 

<現 北山通りから御薗橋下流付近 上が北>

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 上賀茂神社周辺の様子です。当時、鴨川には板橋が架かっていたようですが、よく見てみると、上賀茂神社から流れ出た明神川を渡る橋に「御薗橋」と表記されています。

 

 現在架け替え中の橋が古来より「御薗橋」と呼ばれていた訳では無いようです。この橋は現在、よくある「何とか“小橋”」的な存在となっていますので「御薗小橋」でしょうか?確認してきました。その名は「内川橋」でした。

 御薗橋の名は鴨川に架かる橋に引き継がれました。

 

<上賀茂神社付近 上が北>

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<御薗橋 左が北>

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<内川橋>

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 御薗橋付近の画像には、もうひとつ注目点があります。それは、現在の御薗橋右岸(西岸)の下流に書き込まれている「大野樋口」です。この絵図では、用水が取水されている様子は無く「道」の場所を示していますが、時代をさかのぼるとここにも水路がありました。

 

 

 先程、「梅辻家文書」を一部使用させて頂いて、興味深いお話しをご紹介します、と予告したのがこの「大野樋」です。

 

 「梅辻家文書」“禁裏御用水図”が描かれた時代には、現在の御薗橋上流の「大野井手」から導水された水が、橋の下流での「大野樋門」で河川区域外へ流されていました。

 

 興味深い話というのは、この大野樋の樋門跡が現在も残っているという事です。ある少年がこの遺構を見つけて「これは何?」と聞いてくれました。

 専門家の方にも確認して、位置的にも「大野樋門」の遺構に間違いないだろうと推測されます。

 

<大野樋口 上が北>

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※梅辻家文書「禁裏御用水図」 梅辻家所蔵 京都市歴史資料館寄託

<禁裏御用水図 御薗橋付近>

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<御薗橋下流右岸 大野樋>     <御薗橋上流右岸 大野井手>

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  現在は植栽に囲まれて気がつく人も少ないですが、三本の石柱が上流側に向けて並んでいます。石柱には板をはめ込む溝が彫ってあり、樋門の形状を為しています。京都は古い物が沢山残っていますが、今回の発見はまさに「真発見」となりました

 

<写真奧が樋門 上流側から>                       <発見してくれた少年>

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後日、梅辻家当主の梅辻諄氏にこの事を報告して、画像の使用を了承して頂きました。

 

 上賀茂神社の上流付近まで来ると、現在も市街地の最上流です。右岸(西岸)には小さな村が点在しています。現在の西賀茂付近です。赤く塗られた修復地が示されています。

<現在の西賀茂付近 左が北>

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 上の画像にも興味深いものが描かれています。家よりも大きな岩が描かれ、その岩に名称が添えられています。その名も「千石岩」です。この付近で大きな岩といえば、柊野砂防堰堤の下流の大きな岩しか思い当たりません。

 

 

 巨大な岩は簡単には動かせませんし、撤去も出来ません。おそらく現在も柊野砂防堰堤下流のこの岩が「千石岩」と呼ばれていたのではないでしょうか。

<千石岩 左が北>                                 <手前の岩が“千石岩”かな??>

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 「賀茂川筋絵図」の最上流まで到達しました。ここまで来ると川の周辺は山ばかりです。この山の上流まで行くと鴨川源流域に辿り着けます。そしてそこには雲ヶ畑の集落もありますが、この時の被災は記録されていません。

 

<最上流域の様子 左が北>

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 そして最後に、最上流域での興味深い箇所をご紹介したいと思います。鴨川は上流域にいくと、鞍馬川との合流点から上流は「中津川」という名だった事は、大正時代の一級河川区域を決める京都府公報で確認する事ができます。

 

 しかしながら、「賀茂川筋絵図」の鞍馬川との合流点より上流に書き込まれた河川名は「イハヤ川」でした。

<クラマ川 イハヤ川>

 

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 「イハヤ川」については、今後の宿題とさせて頂いて、大変貴重な資料を御提供頂いた京都市歴史資料館の皆様に感謝しつつ今回の記事を終えたいと思います。

 

 

 いつか絵図を手にして、鴨川歩きツアーが出来る日を夢見ながら。

 

 平成28年3月4日 (京都土木事務所Y)

 

 

 

2016年 早咲きの桜を目指して(第226号)

一足早い春の訪れ

 

 平成28年3月3日桃の節句のこの日、京都府立植物園樹木係の肉戸裕之氏からお電話を頂きました。用件は、三条大橋右岸下流に桜の花が咲いていると府民の方から情報提供があったが、何の種類の桜か知っていますか?というものでした。

 

 私は把握していませんでしたので、「知りません」と答えましたが、鴨川真発見記を書いている者としては、「気になります」。一度見に行ってみますとお伝えしました。

 

 その週末、足は自然と三条大橋へと向かいます。三条大橋へと向かう途中にも春を探しながら歩いてみました。

 

 気温も上がってきて春めいてきましたが、冬鳥として飛来した“つぐみ”はまだ日本に留まっています。胸を張って、翼をピンと下に伸ばして「きをつけ」をしているように見えます。

<冬鳥の“ツグミ”>                   <胸を張って>

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 もう少し季節が進むと、鴨川・高野川にも一面に花を咲かせる“セイヨウカラシナ”も小さな花を咲かせ始めています。

 

<セイヨウカラシナ発見>               <少し花が開いています>

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 落差工の石積みに根を張った植物が緑の葉を茂らせています。落差工を流れ落ちる水に透ける姿は、滝に打たれているようにも見えてアクアリウムのようです。

<落差工の水に透ける緑の葉>

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 そうこうしているうちに、三条大橋まで到着しました。少し色濃く大きな桜の花が見頃を迎えています。少しだけ採取させて頂きました。

<三条大橋右岸下流のサクラ>           <3月5日 もう見頃>

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<さて何という種類でしょうか?>

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 その翌日、京都府立植物園へ足を運んで、樹木係の中井貞氏に同定をお願いすると、「カワヅサクラ(河津桜)」とのことで、植物園のも見頃を迎えているので確かめてみてくださいと教えて頂きました。

 園内をぐるりと回って、カワヅサクラを探してみると、お話しのとおり同じサクラが見頃を迎えていました。

 

<京都府立植物園の“カワヅサクラ”>       <三条大橋のものと同じ>

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<ここにも“カワヅサクラ”>              <説明板>

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 お隣にも、小さなサクラが花を咲かせています。キンキマメザクラという名札が架かっています。このサクラも早咲きのサクラのようです。

<控えめに咲くのは>                 <キンキマメザクラ>

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 これまで鴨川沿いのサクラで一番早いサクラの開花は、西賀茂橋右岸下流の「カラミサクラ」だと思い込んでいた私は、そちらの開花状況が気になります。その足で西賀茂橋へ向かいました。

 

 途中、これまた冬鳥の“キンクロハジロ”が姿を見せてくれました。お馴染みのキンクロハジロですが、この日はこれまでに見た事のないポーズを見せてくれました。

<キンクロハジロの群れ お腹が白いのがオス>

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 いつものポーズだったのが、お腹の白い面積がやけに大きいと思ったら、ラッコの様にお腹を上にしたポーズになって、足が見えていました。

<違う種類の野鳥か?>               <足が見えているではないですか>

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 野鳥観察を楽しみながら、西賀茂橋右岸下流に到着です。カラミサクラの花は蕾は充分膨らんでいますが、花はどうでしょうか。探してみると一輪だけ開いていました。隣の蕾は明日にでも開きそうになっています。

<西賀茂橋右岸下流>                <カラミサクラ>

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<明日にでも開きそうな“つぼみ”>

 

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 サクラの開花と冬鳥の観察、季節の移り変わりを感じる休日となりました。

 

 平成28年3月7日 (京都土木事務所Y)

 

京都市内で発生した土石流災害を振り返る(第225号)

昭和47年「音羽川」の氾濫 砂防堰堤の役割と共に

 

 鴨川真発見記223号では、京都の風水害を学習されている京都市立養徳小学校5年生児童の音羽川砂防堰堤の見学と学習の発表会の様子をご紹介しました。

 音羽川の見学の前日に養徳小学校で、京都の水災害のお話しをさせて頂きました。もちろん昭和47年の災害当時の様子もご紹介しましたので、その時の画像を使用して皆様にも記憶に留めておいて頂きたいと思います。

 

 今回は、その音羽川で昭和47年9月16日夜間に台風20号による暴風雨により発生した土砂災害の記録をたどります。

 

 音羽川の土砂災害の歴史の詳しい事を御存知の方は、当時の地元以外の方では案外少ないのではないでしょうか。(新しく越してこられた方は特に)

 

 音羽川は、比叡山の山腹を源流として東から西へ流れ出て、松ヶ崎橋上流で高野川と合流する一級河川です。管理河川としての一級区間は1.2kmと短いですが、その上流に砂防指定地があります。砂防指定されている区間には、砂防堰堤が連なる様に設置されています。この砂防施設の設置管理は京都土木事務所が管轄しています。

 

<音羽川位置図>

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 今回「音羽川」を紹介するにあたって、お一人の自然災害研究者をご紹介したいと思います。

 

 昭和47年の災害についてその調査が実施され、その後平成5年に音羽川の災害や比叡山の地質、自然などあらゆる情報をまとめた「比叡山音羽川読本」と題された音羽川学習副読本が発行されました。

<比叡山音羽川物語 -自然環境 フィールドワーク 資料->

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 この企画は当時の京都府土木建築部で、編集委員会による編集・発行です。この編集委員には京都府の砂防課職員も名を連ねていますが、委員長は当時奈良大学の池田碩教授でした。(現在は退官されて同大学名誉教授)

<編集・発行:音羽川学習副読本編集委員会>

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 池田氏は、災害発生当時京都市内の高等学校で教鞭をとっておられました。池田氏は地質に詳しく、比叡山が茶色く変色荒するほど荒廃している事が気がかりだったそうです。

 

昭和47年の台風接近を知って、教え子も多く住む修学院で夜通し台風を待ち受けました。

 

 ご自分の車で待機し、土石の災害現場の一部始終を写真に収めて、山腹の崩壊現場などもつぶさに調査されました。今回は、「音羽川物語」から池田氏の撮影された写真や解説を引用させて頂いて、当時の様子をご紹介したいと思います。

<編集・執筆委員>

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 それでは、音羽川の氾濫について昭和47年の災害を中心にご紹介したいと思います。次の写真は災害時の住宅街の象徴的な写真です。当時の音羽川は乗用車が一台はまりきらない程度の幅の狭い川でした。

 

 この流れは、写真の先で逆くの字に曲がって流れていましたが、災害時にはその流れは土石と共に一直線にその先にある修学院小学校へ向かいました。

 

<音羽川の氾濫>

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 それでは、昭和47年の土砂災害が発生するまでに、それを防ぐために何もしていなかったのでしょうか。昭和10年の大水害以降の防災対策について順を追って見てみましょう。

 

<音羽川災害・砂防の歴史>

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  ↑   昭和49年から52年の工事で22mに嵩上げ

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 この歴史の流れの様に、昭和47年以前にも昭和10年の大水害をキッカケに砂防堰堤が設置され、しばらくの安定期を経て更なる砂防施設の整備を進めましたが、昭和47年の災害発生となりました。

 

 その後、この災害を契機に更なる砂防施設が設置され、音羽川の流路も現在の川幅に広げられて、安全に水を流せる様になりました。

 

 音羽川には砂防施設が連なっていますが、川を遡っていくと砂防堰堤(土砂災害から人の命財産を守る施設)から治山施設(山が崩壊するのを守る)へとその役割をバトンタッチします。その役割分担の図が下の図です。赤い丸で囲った区域に砂防堰堤が並んでいます。その上流域は治山事業の区域です。

 

<音羽川流域全体図>

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 次にご紹介するのは、音羽川流域の崩壊発生地と氾濫状況です。比叡山と大文字山に挟まれた山並みは、花崗岩地帯です。比叡山と大文字山はフォルンフェルスという硬い岩盤でできていますが、その山麓は風化しやすい花崗岩です。

 

 白川砂を御存知でしょうか?神社や仏閣の庭に敷き詰められた少し粒の大きな砂です。あの砂が更に風化すると真砂土というサラサラの砂になります。こうして風化した花崗岩が100m近くの深い所から一気に崩落すると土石流となって流れでます。これが修学院を襲った土石流のしくみです。

<音羽川流域の崩壊発生地と氾濫状況>

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 この図にも書き込まれていますが、地名に「川尻町」「水川原町」「出水」の地名がつけられた地域で氾濫が起こっています。これは、昔から水が溢れる地域を示しているそうです。こうした地名を残す事が、後世に災害の記憶と歴史を残す重要なポイントとなります。(by池田碩氏)

 

 それでは、「比叡山音羽川読本」から災害直後の山の中から市街地の様子をご紹介しましょう。

 

<音羽川流域の災害模式断面図>

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 崩壊が発生した最上流域の様子です。ここは小崩壊集中地域で、比叡山ドライブウエイの下の一本杉から始まっています。

 

※以下「比叡山音羽川物語」より解説文章と写真

音羽川最上流の崩壊集中地域

 上流域は地累部分にあたり、そこでの花崗岩はあたかも砂山のごとく深層風化している。

 そのようなところでの工事は、風化の進んだ軟弱地盤故に充分注意をしておかねば地形は全体的にバランスを失ってくる。

 そのようなところに豪雨を受ければ崩壊が集中して発生することになる。

 写真は一本杉周辺の北側斜面に発生した崩壊を示す。

<崩壊地の上部>                                   <崩壊地の中部から上方を望む>

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<同崩壊地の下方を望む 新鮮な岩盤は全く見られない>

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中流域の厚い河床堆積層とその洗掘

-通常降雨時は堆積域 豪雨時は浸食域-

 山間中流域には崩壊こそ少ないが、河床には長い間に砂礫が堆積している。

 そこに豪雨を受けると急激に流量が増してくるので、浸食域へと一変し、深く洗掘されるので、今回のような異常豪雨を受けた場合、この地域から送流される土砂も大きい。

 すなわち異常豪雨は山間中流谷の掃除役ともいえるのである。

<河床が洗掘されて段丘化した本流沿いの状況>

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<同上>

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<最大支流が本流と合流する付近にみられる洗掘状況>

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山間中下流域の大崩壊集中地

 地塁山地から山腹斜面へ移行する部分、つまり地塁の肩にあたる地域は山地の開折の最も進むところである。音羽川流域でもこの部分で河床勾配は急変し、一部は滝(音羽の滝)となって落下しており、谷壁はそそりたち典型的なV字谷となっている。このため谷壁の不安定な急斜面には大崩落地やその痕跡が集中している。

 

<最大崩落地(かまくら)の全景 崩落は上部と下部の2段にわかれている>

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<同上 上部 深層風化層の崩れ>

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補強を要する古い石積み堰堤

-昭和15年築造第3堰堤を例として- 

 堰堤は当時完全に満砂されている。なお、この堰堤の左肩上部は岩盤に付着して築造されていない。

<下流側からながめた全景> 

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<同堰堤の右上部 常時かなり水漏しており、その高さの石面には植生が付着している。最上端部は石積みの石が飛んでいる>

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<堰堤底部 堰堤下部の水タタキの部分はすべて崩壊流出、底部自身も約2m程えぐられている。つまり堰堤全体が破損してきており早急に補修しておかねば、堰堤自体が崩壊して大被害を招く可能性がある。>

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沈砂池 災害時と災害後

<災害時>

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<土砂搬出後 最大貯砂量2,500立米>

<災害時には写真左側下部の黒い線の部分まで埋まっていた>

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<音羽川下流部の氾濫状況>

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大きくえぐられた道路と河道

-林丘寺南側 雲母坂への道-

 護岸、川底部の復旧・補強を緊急に必要とするが、とくに弱い部分は石積ではなくコンクリートでまくべきである。

<昭和47年9月19日10時30分撮影>

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<昭和47年9月21日15時撮影>

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無理なS字カーブ直下での惨状

-災害時と災害後-

河道のカーブに注意

<写真中央は災害を受けた民家の屋根の一部>

<昭和47年9月17日11時撮影>

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<復旧作業後>

<流出したかつての護岸石積部には応急的に土のうが積み上げられた>

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市街地内上流部の災時と災後

 <災害時>

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<堆砂排出後>

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 上の「堆砂排出後」の写真 これが昔のほぼ自然の川幅であったらしい。地元出身の古老達の話によると、右岸には堤防が下流まで続き、そこにクヌギが並木状に植えられており、左岸はうっそうとした竹薮だったという。

 現在もこの写真すぐ下流に直径50cmのクヌギのある旧堤防がわずかに保存されている。

 

災害時には川と道の役割が逆転する

 つまり川幅がせまく、しかも川には各家毎に橋を架け、パイプ類やその他の構造物がまたいでいるので、洪水時には流木などで川はふさがれてしまう。これに対し道路上には何の抵抗物もないので、洪水時には川と道の役割が“逆転”するのである。

 護岸はえぐられたり、くずれかけており全体にルーズな状態になっている。

 

<これが昔の川幅で建ち並ぶ家屋はかつての堤防の上、またはその跡という>

<川はどこなのだろうか? 昭和47年9月17日撮影>

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<川が左側で、右側が道のようだが? 昭和47年9月19日撮影>

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<いや川は右側だった!! 埋砂排出後>

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修学院小学校の校舎内にたまった堆砂

<昭和9年の室戸台風の折にもほぼ同量の堆砂があったとの事>

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<校舎内の渡り廊下を洗い建物を半壊させた>

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高野川との合流点

 背後左側の山頂が比叡山・右側の高まりが一本杉付近。音羽川はこの間の広い範囲の降水を集めて流下してくる河川であることを留意すべきではなかろうか。

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<平成5年当時の“音羽川”と“白川通り”の交差点から上流を望む>

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 音羽川の川幅が広げられ、砂防堰堤も強化され、川の南側にもマンションが建ちました。同じ場所からの風景も大きく変わりましたが、昭和47年の災害の記録は語り継いでいかなくてはならないと思います。

 

 

<平成28年現在>

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 養徳小学校の出前講座では、砂防堰堤の役割を同じく「比叡山音羽川物語」からイラストを拝借して説明させて頂きました。

 砂防堰堤が満砂になっているので、土砂を排出して欲しいという声も寄せられます。砂防堰堤に砂が満杯になったから直ちに危険というわけではありません。溜まりすぎると機能が発揮できませんが、一定の砂が貯まることでその機能を発揮しています。

砂防堰堤の役割

 

① 上から削られてきた土砂を徐々に貯めます。

② 土石流を止めます。

③ 土砂が溜まると河川の縦断勾配(下流に向かう傾き)が緩くなり、また川幅が広くなるために土石流や流水の流れる力を小さくします。

(1)このため、土石流を止める事ができます。ふだんの流水で小さな砂を下流へ徐々に流しますが、大きな石はこれを動かすのに必要な力がないため、堆砂敷に残ります。

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③(2)流水の流れる力が小さくなることから、谷を削る力も小さくなります。

河川勾配が急だと流水のエネルギーにより川床はどんどん削られますが、土砂が溜まって川底が削りとられない。

 

③(3)河床が上昇する事により山の谷の斜面を安定させます。溜まった砂が斜面を支える役割をして重力で崩れてくる力を押さえます。

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 以上が養徳小学校の出前講座でお話ししました「昭和47年 音羽川の氾濫」に関する内容です。

 

 この学習副読本の作成実行委員長だった池田碩氏は、音羽川の災害をキッカケに自然災害の調査に携わるようになられました。その後「地震・津波」「地滑り」「豪雨・豪雪」といった自然災害のメカニズムの調査を手掛けられ、日本国内のみならすアメリカへも調査に出向いておられます。

 

 平成26年1月には御自身が手掛けられた自然災害調査のまとめとして、「自然災害地研究」という本を出版されています。

 奈良大学を退官された今年度も、国土交通省から「阪神淡路大震災から20年」のまとめを受託されて精力的に自然災害地の調査を進めておられます。

 

 池田氏が口癖の様に語られるのは、「100年位災害が発生していない地域ももっと昔を紐解けば大きな災害が発生している地域がある。そして、その災害にちなんだ地名が残る地域もあるが、全く地名が消滅している地域もある。災害の記憶と記録を後世に引き継いでいくことが重要だ」という事です。

 

 今回の養徳小学校の学習は、まさにその理念に沿ったものでした。

 

 平成28年2月16日 (京都土木事務所Y)

 

江戸時代の鴨川の様子をうかがう”その1”(第224号)

「賀茂川筋絵図」より

 

 鴨川真発見記では、これまで明治時期以降の鴨川の様子を何度かご紹介してきました。今回はそれよりも少し前の様子を、江戸時代に作成された絵図を使ってご紹介してみたいと思います。

 

 その絵図は、「京都市歴史資料館」が所蔵されている資料で、資料名「賀茂川筋絵図」大塚コレクション№0406というものです。同館から資料等特別利用許可を頂き、電子データのご提供を頂きました。

<賀茂川筋絵図>

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※出典:大塚コレクション№0406(京都市歴史資料館所蔵)

 その内容は、鴨川の洪水で被災した際の修復を示した絵図で、下流は現在の七条大橋の下流から上流は柊野地区上流まで長い区域の様子が描かれています。

 

 「公儀石垣」と「町石垣」も色分けされ、どこを誰が修復したかがわかるのみならず、大変興味深い記述や絵が描き込まれていますので、何度かに分けてシリーズでお届けします。

 公儀を広辞苑で調べると「朝廷や政府などの評議」とあります。今で言うと、役所が整備したものか、民間が整備したものかの違いです。

 絵図の下流側(先頭)には、「公儀」と「町」が分担した石垣(石積護岸)の延長とその区間が示されています。その単位は「間」でメートルに換算すると1間=約1.818 1818mですので、メートルに直してみましょう。

 

<公儀石垣>

 約1,823m

 内 約1,357m

   今出川上がる所より荒神口下がる所まで 西堤

 内 約466m

   三条、五条橋䑓至る 丸太町下がる西堤

堤頭御用水其の外の所々野石垣

 

<町石垣> 

約4,018m

荒神口下がる所より五条橋まで所々に有り

<石垣延長>

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 続く「凡例」には「御修復料」「御修復之場所」「蛇篭」「町家」「町ヨリ出来の石垣」と絵図が色分けして着色されています。

<凡例>

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 最初に公儀石垣の示された区域を絵図から特定してみましょう。公儀石垣を示す箇所は2区間に分けて示されています。最初の1,357m区間です。

 絵図の賀茂川の下側が西岸(右岸)で、黄色く帯状着色された部分です。その川側には、凡例緑色の蛇篭が並べてあるのがわかります。

 

 

今出川上がる所より荒神口下がる所まで 西堤>

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 公儀石垣の残りの約466m区間が次の画像です。この区間も3箇所に分けてあります。

 画像右が五条大橋、左が三条大橋で、橋の両岸の石垣が黄色く着色されています。

<三条大橋・五条大橋>

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 同じく丸太町橋の下流西岸が黄色く着色されています。

 

<丸太町下がる西堤 画像上が北>

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 画像下側、御所に引かれていた御用水の取水口も被災して、公儀石垣として修復されました。この場所は他にも興味深い記述などがありますが、後ほど詳細に見ていきたいと思います。

 

<堤頭御用水其の外の所々野石垣>

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 町石垣は「荒神口下がる所より五条橋まで所々に有り」と書かれていますので、これから先にご紹介する画像で、西岸の白い石垣が「町石垣」です。

 

 ここでは省略させて頂きます。

 

 

 ひとつ当時の橋の様子について注目してみると、「橋脚のある橋」は、「五条」と「三条」のみで、その他の橋は川中に板を並べただけの仮橋的なものでした。当然欄干もありません。

 

 

 

 それでは、下流から区間を区切って見ていきましょう。最初は七条通付近から五条通付近までです。

 

 七条通りの川幅と大仏正面通り約142mです。現在の七条大橋の橋の長さは、約82mですので、明治時代に入って琵琶湖疏水の幅の分狭くなっています。

 両方の通りに架かる橋も板橋で、川幅の中の水が流れる範囲内のみに橋が架かっていました。五条・三条以外の橋も同様です。

<七条通から大仏正面通区間 画像上が北(上流)>

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 五条の橋は、当時幅約116mで幅が、約8,7m、橋の平均の高さは敷き詰められた石敷きから約2.5m程の高さでした。両岸の石積みも敷き詰められた石6,000㎡も修復されました。現在の五条大橋の下にも石敷きがあります。当時の石が幾つかは残っているかもしれません。

 

 

 石敷きの下流側には、「幅3間(約5.5m)の間に「乱杭」が川幅一面に有り」と書かれています。「乱杭」を広辞苑で調べると、

 「秩序なくやたらに打ち込んだ杭。地上や水底に順序を乱して杭を打ち込み、網を張りめぐらし、敵の侵入を防ぐもの」とありました。幕末の時代、敵の侵入とは誰の事でしょうね。歴史に詳しい方ならわかるのでは?

 

 

 更に注目したのは、その下流東岸(左岸)から流れ込む川の名前です。そこには「音羽川」と書かれています。音羽川といえば、比叡山から流れて高野川に合流する「音羽川」、そして山科区の「音羽川」は知っていますが、ここに「音羽川?」と首をひねってしまいます。

 

 現在この場所付近には、京都市の“雨水”と“下水”の合流式都市下水の増水時の鴨川への「水吐き口」があります。

 

 「音羽」といえば、もう一つ有名なものがありました。五条通りを東に行けば清水寺の「音羽の滝」があります。ここから流れ出た流れが鴨川に向かって流れていたものを「音羽川」と称していたのではないでしょうか?

 

<五条通上下流>

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 松原通りに架かる橋も板を渡しただけのものでした。牛若丸と弁慶が出会ったと伝えられる「五条の橋」は当時、現在の松原橋付近に架かっていた橋を指すとの説もあります。

 

 松原通上流の左岸には、「悪水抜き」とあります。今の下水道と同じ様な役割をしていましたが、今の下水道ほど汚れた水ではなかったでしょう。

 農業用水路の余り水や、生活排水が流れていましたが、化学洗剤やトイレの汚物は含まれていませんでしたが、飲み水には適さなかったようです。

 その対岸(西岸)には、「コエ場」とあります。「コエ」とは当時の貴重な農作物の肥料でした。人間の糞尿は貴重なものとして、高瀬川の高瀬舟で下流域の農地に運ばれました。

 

 今では「下水道」を通って運ばれます。要するに金銭価値のあった「コエ」の集積場と「悪水抜」が対面しているのも偶然ながら時代の流れを示している様で少なからず因果を感じます。

<松原橋上下流>

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 四条通り三条の橋の間です。四条大橋は、他の板橋の形状と異なって、川の両岸から中州に向かって板が渡されています。中州には「日小屋」と書かれた小屋が描かれています。

 

 橋の左右岸には、「牛馬杭」という杭が設けられていて、牛や馬を繋いだようです。川の中には車道と書かれており、牛車、馬車は川の中を渡ったそうです。

 

 左岸からは、今も変わらす「白川」が合流しています。現在も変わらず支流が合流する様子をみると何だか“ホッ”とした気分になります。

 この区間の川の中では、当時見せ物小屋や飲食店が所狭しと並んでいたと聞きます。増水時には速やかに避難できたのでしょうか?

<四条通りと白川>

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<牛馬杭 東岸(左岸)>      <牛馬杭 西岸(右岸)>

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 三条通りの橋は、五条の橋と同様に石敷きが被災して修復されています。

橋の長さは約105m、幅約6.5m、石敷きからの高さが平均して約2.4m、石敷き面積約6,700㎡でした。

 

 上流左岸からは、高瀬川が引き込まれています。この辺りに多く見られる白い石垣がご紹介を省略しました「町石垣」です。左岸側の川の傍の町家は、修復料を示すピンクに着色されています。左岸の被災した町家は、持ち主が修復されているようです

 

 二条通りの橋は、四条大橋と同様に中州に向かって両岸から板が渡されていて、これまた四条同様に「日小屋」という小屋が設けられています。

<三条通りから二条通り>

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 丸太町通り上下流です。この区域を見て気がつくのは、当時の「洛中」「洛外」の扱いの違いです。「洛中」と呼ばれた平安京の都側は、石積みの「石垣」が並んでいて、修復されているのに対し、「洛外」とされた鴨川東岸には蛇篭(竹で編んだ籠に石を詰めたもの)が並んでいます。

 

 

 しかも公儀石垣の前には、更に蛇篭で補強されているのがわかります。

 

 そして町家と「町石垣」の部分は、持ち主が修復されていますが、公儀石垣に守られたお住まいは石垣と共に公儀が修復したのでしょうか。

<丸太町通り上下流>

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 続いては、荒神口上下流の様子です。荒神口上流の妙経寺と書かれたお寺は、公儀石垣に面していますが、自力で修復されたようです。

 

 

 荒神口の下流へは、鴨川に沿って北から流れる川が合流しています。歴史好きな方はこの川の名前を御存知かもしれません。もう少し上流の様子の画像でご紹介したいと思います。

 

 

 

 下流から一貫して、川の流れは川幅の中央に寄っていて、水量も少ないようです。上流で農業用水などを多く取水していた事と、川底が固められていなかったので、地下に浸透して流れる水量が少なかったとの説もあります。

 

<荒神口上下流>

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 荒神口上流から今出川通までの区間です。今出川の下流には吉田井口があり、ここから農業用水が引かれたようです。その下流には、砂川という川が流れ込んでいます。

 

 

 

 砂川は、高野川の上流から引かれた「太田川」と合流して鴨川に流れ込んでいたようですが、その後太田川は賀茂大橋上流に流路を付けかえられて、現在では都市下水となっています。

 

 

 

 今出川通りの西側には、先程荒神口下流で鴨川と合流していた川が流れています。東西に伸びる通りの名の由来となった今出川ですが、東西に流れていた区間は少しの長さで、ほとんどの区間は北から南に流れていました。そうです、正解は「今出川」でした。

 

 

 鴨川と高野川が合流したすぐ下流の川幅は90間(約163m)と広く、現在も長さ141.4mの賀茂大橋が架かっています。

<今出川通 下流>

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 現在は、高野川との合流点から下流を「鴨川」上流を「賀茂川」と表記するのが一般的となっています。その関連記事は鴨川真発見記第126号でご紹介していますので、そちらを御覧ください。

 今回はその表記が変わる地点をひとつの区切りとしてご紹介を終えようと思います。次はその2として、合流点から上流は柊野までをご紹介したいと思います。

 

 先人が残してくれた、河川土木工事の歴史とともに、暮らしの一端をお楽しみ頂けたら幸いです。

 平成28年2月15日 (京都土木事務所Y)

 

 

 

京都市立養徳小学校で出前講座

5年生「京都の風水害について調べよう」(第223号)

~身近な災害から身を守るために~

 

 京都市立養徳小学校では、京都市教育委員会「セーフスクール推進事業」指定校として、又今年は「セーフティープロモーション(SPS)認証支援校」として、1年生から6年生まで全ての学年で安全について学習されています。

 

 

 研究主題は「気づき、考え、判断し、行動できる子の育成」~見る(観る)、聞く(聴く)ことを大切にし、伝え合える子~ です。

 

 

 2月5日(金)は、その研究発表会が養徳小学校で開催されました。京都土木事務所としては、5年生の「京都の風水害について調べよう」~身近な災害から身を守るために~の全34時間の学習の中で、中盤の5時間の学習のお手伝いをさせて頂きました。

 

 はじめの1時間目は、1月13日(水)の午前中です。昭和10年に発生した鴨川・高野川の大水害をキッカケにして、どの様な整備をしたのかです。これは、鴨川真発見記第220号そして221号でご紹介していますので、そちらをご参照ください。

 

 そして、同日の2時間目は養徳小学校から北へ約1.5kmに位置し、松ヶ崎橋上流で高野川に合流する音羽川で昭和47年に起こった土砂災害についてお話ししました。

 昭和47年に被災した事をキッカケに増設、補強した砂防堰堤や流路整備の詳しいお話は鴨川真発見記ではご紹介できていませんので、近いうちに養徳小学校でお話しした内容を整理して皆様にもご紹介しようと思います。

 

 翌日の1月14日(木)には、前日にお話しした音羽川の砂防堰堤の現場を見学に来てくれました。養徳小学校から徒歩で音羽川の砂防堰堤まで、お日様の当たる道を汗をかきながらの行列です。

 

<養徳小学校5年生の行列が到着>

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 音羽川の砂防堰堤の中でも一番大きな堰堤は、高さが22.5mと大きなものです。その砂防堰堤は、現在の高さに嵩上げした当時は構造上の基準に合致していましたが、その後全国で発生した地震の強さを考慮すると、必ずしも安全では無くなってきました。

 

 そこで、今年度はその堰堤の前に張り出す形でコンクリートを補強して強度を増すための工事を実施しています。現場では、京都土木事務所の工事実施を担当する河川砂防室長と実際に施工してもらっている施工業者の方から砂防堰堤の事や増強工事についてお話しを聞きました。

 

 堰堤が並ぶ音羽川でも一番下流に位置する“沈砂池”では、工事のための通路を確保するための大型土嚢(どのう)が溜まった砂で作られています。昨年の7月の増水で、上流から流されてきた土砂が沢山溜まっていましたが、ほとんどの土砂が取り除かれて、工事用に利用する事が出来ました。

 

<砂防堰堤整備事業・砂防学習ゾーンモデル事業平面図>

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※平成27年10月29日 工事着手前の様子 池いっぱいに土砂が溜まっています。

<沈砂池 下流から>                 <同左 上流から>

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※平成28年1月15日 現場見学時の様子

<沈砂池 下流から>                  <同左 上流から>

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 沈砂池の傍では、施工業者さんから大型土嚢の作り方を教わりました。バックホウの傍に置かれた大きな“じょうご”の様なものの下に大型土嚢袋を設置して、上から砂を袋に詰めて作ります。

<バックホウですくい上げた砂を>                 <この道具で袋に詰めます>

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 音羽川には実際に来た事がある児童は少ないようで、「こんな開けた所があったのか」などと感想が漏れていました。

 

<山の中の広い空間に驚きの感想も>

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 途中、音羽川を渡る“渡り石”を渡って工事現場へ到着しました。現場では、補強工事の準備が進んでいました。流れている水が工事箇所に当たらない様に、大きな管(コルゲート管)を土の下に埋め込んで、ここに水を流します。

 

<渡り石を渡って>                              <工事現場へ到着>

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 思い重機がこの上を走っても大丈夫という大きな管に一堂びっくりです。触ってみたり、中を覗いてみたりと、巨大な管に興味津々でした。

 

 目の前に現れたのは、巨大な壁22mの砂防堰堤です。

<嵩高22mの巨大な砂防堰堤>                 <隣には大きなコルゲート管>

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 ここで、河川砂防室長からこの工事の概要を説明しました。自身の体をこの砂防堰堤に見立てて、お腹を前に突き出して「お腹の前にコンクリートを張りだして、砂防堰堤を太らす工事をしています」と“身振り”“手振り”を交えて解りやすく説明しました。

 私が京都土木事務所に配属になってから、約5年が経過しようとしていますが、小学生が工事現場の見学に来てくれたのは初めての事です。偶然にもその第一号が養徳小学校の5年生となりました。

<河川砂防室長の工事概要説明>

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 児童からは、音羽川へ歩いて来る途中で、ハンドルの様なものがあったけれども、何をするものなのかの質問がありました。上の写真の左側にも同様の施設があります。それは、農業用水を水路に引き込むゲートの開け閉めをするもので、音羽川の水も田畑に引き込まれて農作物を育んでいる事も学習して頂きました。

 

 その後も児童達の学習は進んでいったそうで、2月5日の発表会のご案内を頂きました。

 その発表授業内容のまとめを、担任の先生ではなく、京都土木事務所の職員から話して欲しいという依頼付きでした。

 

 自分ならその時どうするのか?「避難するか?しないのか?」というもので、設定条件の場面に出くわした時に自分はどう判断するのかという問いにどう対処するかです。前置きとして、「正解はないけれども自分で考えてみる」のが大切という事でした。

 

<これまでの学習の成果が貼り出されていました>

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 最初にこの授業内容を説明された時には、大人でも判断に迷う課題に「小学5年生の児童がどういった話合いをするのか?授業自体がスムーズに進むのか?」と少々疑問を持ちながら発表会を拝見しに出向きました。

<あなたのとる行動は?>                      <発表してくれる人! ハイ!>

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 授業が始まると、そんな疑問が吹き飛びました。最初の条件設定に対して自分がどうするのか、個人個人がワークシートに書き込んで行きます。僅か「5分の考えタイム」どの児童もすらすらとそのペーパーを埋めていきます。

 

めあて:自分ならどんな行動をとるか考えよう

条件設定

◆家にいる(一軒家) マンションに住んでいる児童も今回は一軒家で考える

◆親が親戚の家に行っていて夜遅くなる

◆時間は夜の8時半

◆風や雨が強くなってきた

◆特別警報が発表されて避難勧告が出た

◆固定電話が使えない

→「そこで自分がとる行動は?」

 

 5分が経過して、考えた事を発表する時間になりました。先生の「考えた事を発表できる人」の問いかけに一斉に手が挙がります。

 

 考えた事を発表して、次の人を指名する「リレー方式」で次々と意見が発表されます。自分も賛同する意見には「いいと思います」という言葉と共にグッドを示す様に、親指を立てて態度で示します。

 

 長い時間をかけて学習されてきたとはいえ、5分間でこれだけの意見をまとめて発表できるのかとひとつ目の驚きです。そのまとめをご紹介しますと、 

 

※自分がとる行動 一人学び

●風で飛びそうなものを家の中へ入れる

●雨風が強まる前に安全なところへ行く

●家の最上階へ行く(高いところ)

●窓のシャッターを閉める

●情報を集める テレビ・ラジオをつけておく

●近所の人にどうするか聞く

●インターネットで情報を集める

●水、衣服、靴、防災バッグなどを用意する

●兄弟や近所の人の安全を確認する

 

ここまで、授業が進んだところで、更なる条件が追加されます。

追加条件

◆高野川の水位が上昇してきた

◆避難勧告が避難指示に変わった

◆近所の人の中には避難を始める人も見える

◆風は強まったり弱まったり

→どうする?「YES=避難する」「NO=避難しない」

 

 「YES」と「NO」のカードが各自に配られて、3~4名の班に別れて話合いが始まりました。ここで、二つめの驚きです。この条件設定を見て、児童達が大きな声で自分の考えを披露して話合っています。出前講座で授業した時は、おとなしい感じを受けていた児童達が、笑顔で楽しそうに盛り上がっているのです。

 

<班で話合おう>                               <あなたは“YES”“NO”>

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 そして、自分の意見発表です。「YES」か「NO」かその理由を明らかにして、自分がとる行動が示されました。この意見も素晴らしかったので、ご紹介します。

 

※「YES 避難する」

●近所の人と一緒に避難すると心強い

●水防団も動いているだろうから避難した方がよい

●近所の大人も危ないと判断して避難している人もあるので、自分も避難する

●避難命令となるかもしれないので、その前に避難する

●土砂も流れてくるかもしれないので早めに避難する

 

※「NO 避難しない」

●自分の家は高野川や疏水に近いのでかえって危険

●外に出ずに家の2階(高い所へ移動する)

●水位が上昇していて危険 家で水位が下がるのを待っている

●マンホールの蓋が外れているかもしれなので危険

●避難所も家と同じ位危ないかもしれない

 

 最後にまとめをと、先生から振られましたが、児童達が自ら出した答えが全てです。

 ※まとめ、自分の命やくらしを守るために

  ・安全確認

  ・情報収集

  ・道具の備え

 

 終了時間が迫っていたので、省略しましたが、その時お話しした内容をご紹介したいと思います。

 

<京都土木事務所からまとめ>

 皆さん大人でも判断に迷う課題を熱心に話合い、答えを導き出そうとする姿勢に感心しました。災害時にどうするか「YES、NO」で答えるのはとても難しい事です。

 

 大切な事の一つには、「備え」があります。「備え」にも二つあって、被災した時に当面必要な「物」を備えて置くこと。停電、断水などのライフラインが途絶えた場合への対応と食べるものです。そしてもう一つの備えが日頃の「心構え」です。今日のような話会いを家族や地域の方と共有する形で「その時」どうするかを話会って置くことです。

 

 二つ目に、「情報収集」です。水災害は地震と違って突然には発生しません。雨が降って水災害が起こるまでには、その前に相当の時間があります。台風や大雨の情報はテレビのデータ放送でも確認できるので、大雨が降りそうな時は事前にどうするか確認しておきましょう。

 

 そして三つ目には、「状況確認」です。高野川の様子を見に入って確認する事は危険なので絶対してはいけませんが、自分の家のまわりがどうなっているのかは、可能な範囲で確認する必要があります。

 

 皆さんの熱心な話合いは、災害が起こる国“日本”に生きる中で大変重要な事柄です。それはわたし達大人にとっても同じ事です。是非、学区主催の防災訓練に参加して、大人の皆さんと一緒に話し合う機会をつくって欲しいと思います。

 

 とお話しさせて頂きました。

<発表会の学習の成果 ホワイトボード>

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 授業の後で開催されました記念講演及び事後研究会の場で、養徳小学校の安全教育に対する姿勢に触れる事となりました。

 

 そのキッカケは、3年前に起こったプールでの事故でした。二度と起こさないために、教職員が一丸となって、学校安全に取り組み、危険を排除するための学習が続けられています。

その時、養徳小学校に勤務していなかった教員もその取り組みに呼応して、まさに学校が地元住民を巻き込んでの取り組みが広がっている事が解りました。

 

 1年生から6年生まで、30時間から60時間近くのカリキュラムを組んで安全学習に取り組んでいる事を知るに到りました。発表会を終えた先生の言葉から取り組みに対する想いが伝わります。「無事に発表会を終えて感極まっています」

 いつもの「出前講座」と軽い気持ちで引き受けましたが、事前の担当教員さんとの3度に渡る熱心な打合せの意味がここで解りました。

 自然災害をはじめとする「安全」に対して、「小学生の頃からの充分な教育が必要」とされる研究者も多く、この授業の意味は大きなものだと思います。この学習が他の小学校にも広がる事を期待して今回の記事を終えます。

 養徳小学校5年担当の相川先生、川端先生、素晴らしい発表会を有難うございました。

そして全教員の皆さん、これからもこの学習の取り組みを継続してください。

 平成28年2月8日 (京都土木事務所Y)

 

 

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