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京都土木事務所Yとして情報発信してきました「鴨川真発見記」も春の訪れと共に私の手を離れる時が来たようです。
今回は京都土木事務所Yとして鴨川・高野川を歩き回った6年間を思い出しながら私からの最後の「鴨川真発見記」をお届けします。
2017年3月最後の日曜日となった26日は、いつもの様に朝から川へと向かいました。高野川の松ヶ崎橋から下流へと向かいます。
まだつぼみの固いサクラの枝には“エナガ”が数羽やってきてさえずっています。急いでカメラを取り出したものの、小さくて素早い動きの“エナガ”の姿をとらえきる事が出来ませんでした。
<サクラの枝にかくれんぼ エナガ>
<飛び去るエナガ> <弾丸の様に?>
高野川に入ると、渡りの前の“ヒドリガモ”が一羽餌の水草を食べながら「ピュー、ピュー」と澄んだ声で鳴いています。もうすぐお別れの時がやってくるとでも言っているようです。
<ヒドリガモ 「ピュー、ピュー」> <もうすぐ北へ渡ります>
少々感傷的になりながら、歩いていくと今度は見かけない野鳥がいました。黒い体の“オオバン”かと思いきや、トレードマークの白いクチバシではありません。後日専門家の方に写真を送ってみてもらいました。
<この後姿は?> <草を拾い上げて>
クチバシから額にかけての色が特徴的な赤ではありませんが、“バン”という野鳥でした。私の書く「鴨川真発見記」的には、野鳥探しの真発見はこの“バン”が最後に新たに仲間に加わりました。
<“バン”でした>
鴨川へとやってきました。賀茂大橋では耐震補強の工事が進んでいます。左岸から右岸を望むと早咲きの桜が満開を迎えています。後を振り返ると“ボケ”の花も春を彩っています。
<耐震補強工事が進む賀茂大橋> <早咲きのサクラが2本>
<ボケの花も春の訪れを告げます>
丸太町橋まで行くと、マラソン大会でしょうか。カメラでズームアップすると、「START」の文字が裏返しで読めました。本当に鴨川は様々にご利用頂いています。
<丸太町上流で> <開会式?>
<スタート地点>
丸太町橋下流左岸に到着です。この日の目的の一つ公益財団法人日本鳥類保護連盟京都主催の「鴨川リレー探鳥会」の集合場所です。鴨川真発見記で野鳥を紹介する情報を得てきた鴨川の探鳥会です。
<鴨川リレー探鳥会>
野鳥の名前を一から教えて頂いた、事務局長の中村桂子氏と共に最後の休日の鴨川を巡りました。川の中では、“コサギ”が立っています。いつもに増して立派な二本の冠羽を見せてくれました。
<コサギ 冠羽が二本> <ピンと立ちました>
二条大橋上流の飛び石にやって来ました。何度もご紹介したこの場所の飛び石ですが、昔の地図などを調べていくうちに“真発見”がありました。
この場所には以前「夷川橋」という橋が架かっていました。昭和10年の大水害で流失してから橋は復旧されなかったようです。
<二条大橋上流の飛び石>
新しくオープンしました「京都府立京都学・歴彩館」のHP京の記憶アーカイブにアップされている京都市明細図で確認することが出来ます。鴨川の丸太町橋、二条大橋間に確かに「夷川橋」の表記があり、橋のところに×が記されています。
<京都市明細図 丸太町橋・二条大橋間>
※京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブより
<京都市明細図 夷川橋 京都市立銅駝尋常小学校>
※京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブより
夷川橋の西詰め北側にある現在の「京都市立銅駝美術工芸高等学校」は当時「京都市立銅駝尋常小学校」だったようです。古い地図を覗くと様々な歴史が見えてきて楽しいものです。
その後昭和の終わり頃に、飛び石が設置されて川を渡る事が出来るようになったのです。
二条大橋も現在耐震補強工事が行われています。この6年間ずっと気になっていた構造物のある場所です。橋の上流側に残されているコンクリート構造物です。
<気になっていたコンクリート構造物> <二条大橋上流左岸>
何の遺構かと思って何人かの人に尋ねてみても「橋の橋脚の名残のようだけど、右岸の正面には建物があるから不自然ですね」という回答でした。
何度も目を通した昭和10年の大水害をキッカケとした大改修の計画図面にその答えがありました。計画図面の二条大橋が上流側にクランク状に方向を変えて線が書き込まれています。
<二条大橋> <コンクリート構造物の正体は>
※鴨川(昭和10年)改修計画平面図
二条大橋が昭和10年に流失して、その後現在の橋に掛け替えられた昭和18年までの間の仮の橋の橋脚の名残が残されているのでした。6年間疑問に思っていたことがようやく“スッキリ”しました。
話を戻して、今の鴨川です。二条大橋を下流へ向かうと、少年が水際で網を持って何かをすくっていました。声をかけると「魚を捕っています」との事です。
「そんなに簡単に捕れるの?」とバケツの中を覗いてみると、体長1cmほどの小魚が入っていました。
<網ですくうのは?> <小さな、小さな小魚です>
これぞ「サギシラズ」。小さすぎてサギも知らないという意味です。このサギシラズは佃煮にして京の都の名物土産だった時代もあるそうです。水産関係者の方が復活させようと取り組んでおられるとも聞いた事があります。
三条大橋上流では、寄州に降りて何かを探すご家族連れの姿がありました。「何をお探しですか?」と声をかけると「つくし」ですとの返事がありました。
<捜し物は何ですか?> <「つくし」です>
「この街中でつくしですか」と半信半疑で寄州に降りてみると、指さす先には確かにつくしの姿がありました。
<写真中央 「つくし」の姿> <石積みの間からも>
実は昨年一般の方から質問を頂きました。鴨川で「つくし」が出る場所はどこですか?という質問でした。事務所の職員に確認しましたが、長年鴨川の管理に従事している職員でさえも鴨川では見た事が無いという反応でした。
その後、偶然京都土木事務所のある北山大橋下流の寄州で見つけたのですが、こんな街中にも「つくし」があろうとは。
鴨川の様々な場所で、寄州にしゃがんで「何か」を探しておられる方の姿を目にします。それが「つくし」採取だったのかもしれません。
「探さなければ見つからない」鴨川真発見記の原点を思い出す事になりました。
<よ~く見ないと見逃す「つくし」>
京都土木事務所Yが書く鴨川真発見記最後の写真は、鮮やかな黄色が目立つ“キセキレイ”の後ろ姿でお別れしたいと思います。
<キセキレイの後姿で「さようなら」>
(京都土木事務所Y)
鴨川のあらゆるジャンルの情報を発信するツールとして京都土木事務所の公式ホームページ内に創設させて頂いた「鴨川真発見記」のコーナーも開始から5年余りが経過しました。
「わかりやすく」をモットーに小学4年生の目線で書いたらどんな風に表現するだろうかと心に置きながら、なるべく「ゆるい」感じの表現で記事を書かせて頂きました。
記事の中に一つでも「ふっと」小さな笑いが入るような文章をお届けしたいと書き続けるうちに、ご覧頂いている方から「忙しい仕事の合間に“鴨川真発見記”を読むと“ふっと”肩の力が抜ける」というお言葉を頂いた時には“想いが届いた”と思ったものです。
記事のジャンルにもよりますが、鴨川を歩いて様々な情報を発信していると、「ライブ感があって鴨川へ行っている様だ」とか「実際に鴨川へ行ってみたくなる」などのお言葉に“やりがい”を感じ、これまで継続してきた原動力になりました。
鴨川の情報を歩いて収集し、整理・発信する事で、私にも鴨川の情報が一つ一つ蓄積し、269号の記事となりました。これは私自身にとって大きな宝物であり、京都府にとっても貴重な資料となると自負しています。これも一重にご協力頂きました皆様、同僚、上司そして家族のおかげです。
これまで「鴨川真発見記」を見守って頂きました皆様、本当に有難う御座いました。「鴨川真発見記」は今後どのような形で継続するかは未定ですが、京都土木事務所Yからの鴨川に関する情報発信は今回が最終号です。
鴨川は今や私のライフワークとなりました。他の所属へ異動しましても個人的には「鴨川よろず研究家」として関わりは続けていきます。何らかの形で鴨川の情報発信を継続して行きますので、またどこかで私の記事をご覧頂ければ幸いです。
鴨川そのものはもとより「鴨川真発見記」を通じて頂いた多くの“ご縁”とそのネットワークの広がりに改めて感謝の意を込めて「このご縁は今後も繋ぎ続けて行きたいと思っております。本当にありがとうございました!」
「京都土木事務所Y」こと 企画調整担当 山本哲 より
<京都土木事務所Yこと山本哲似顔絵>
鴨川でこの顔を見つけたらお声かけください。
※似顔絵:2014年に野々村和真氏に書いて頂きました。
「とり」年野鳥特集もその5「タ」行で始まる名前の野鳥で再開です。「タ」行の最初を飾るのは「ダイサギ」です。
サギの一種。大形で、全身雪白色。世界の温帯・熱帯地域に広く分布。日本でも繁殖するが、これを大陸から来るものと区別して、コモモジロあるいはチュウダイサギと呼ぶ。(広辞苑より)
ダイサギでは、その色を「真っ白」ではなく「全身雪白色」と表現されています。
いつもゆっくりと歩きながら魚を探していますが、魚をくちばしで捕らえる瞬間はスピード感あふれる動きをします。
<ダイサギ 仁王立ち> <抜き足、差し足>
<後ろからの風を受けて> <何処にいるのか魚さん>
シギの一種。中形で、冬期水田に多く、地中の小動物を食べる。北半球北部で繁殖し、日本には冬、渡来する。(広辞苑より)
私はタシギを鴨川で見たのは2度だけです。川底のブロックの間に溜まった泥の中に長いくちばしを差し込んでえさを探していました。水田にも似た環境にある場所だったのですね。
<タシギ 泥の中に頭を突っ込んで> <頭じゃなくてくちばしだよ>
<ほうら> <こんなに長いのさ>
スズメ目ツグミ科の鳥。背面は大体黒褐色で栗色を混じ、顔は黄白色で目の部分に黒斑がある。シベリア中部・東部で繁殖し、秋、大群をなして日本に渡来。かつて、かすみ網で大量に捕獲、食用にされた。なお、ツグミ科の鳥は、主として林地の地表で昆虫を採食する小鳥で、全長10~35センチメートル。日本には20種が分布。特にそのうち全長20センチメートル以上のものをツグミと呼ぶ。(広辞苑より)
ツグミはおいしい野鳥と聞いた事があります。昔、都の周囲の山村では、ツグミを捕まえて都に売りに行って収入を得ていた事もあったようです。
<ツグミ ぴょんぴょん跳ねる> <背面は大体黒褐色で栗色を混じ>
<顔は黄白色で目の部分に黒斑> <翼は“キオツケ”の様にピンと>
スズメ目ツバメ科の鳥。背面は光沢ある青黒色で、顔・のどは栗色、上胸に黒帯があり、下面は白色。尾は長く、二つに割れている。日本には春飛来し、人家に営巣して、秋、南方に去る。なお、ツバメ科の鳥は、全長15~20センチメートル前後。翼が良く発達し、速く飛びながら昆虫を捕食。世界に約90種、日本にはコシアカツバメ・イワツバメなど5種が分布。(広辞苑より)
ツバメとがどこから土を運んでくるのかを知ったのは、鴨川で粘土質の土をくわえて飛び去る様子を目撃した時でした。巣の材料として利用していたのですね。鴨川を飛び回るツバメの様子をカメラに収めたくて何度かチャレンジしましたが、未だ叶ってません。
<ツバメ 土をくわえてセッセと運ぶ> <巣を補修して>
<餌を捕りに出かける>
タカ目タカ科の鳥。市街地や海辺に多い。背面はいわゆる鳶色。主に小動物やその死骸を食う。「ぴいひょろろ」と鳴く。日本を含む旧世界に広く分布。(広辞苑より)
アメリカ大陸発見以前に知られていた世界、すなわちアジア・アフリカ・ヨーロッパの三大陸および付属島嶼(とうしょ)の称⇔新世界(広辞苑より)
鴨川でもトビに食べ物をさらわれるという経験をされた方が多いようです。実は私も油断しているときに背後から音も無く飛来して、一瞬で手から食べ物が消えていました。
<トビ 猛禽類> <紅葉に囲まれて>
<空を旋回しながら> <獲物を狙う>
トビもことわざに登場しますが、トビを良い生き物として扱われていないようです。トビが食べ物を取り去るようになったのは、人間のえさやりが原因のはじまりと言われています。
うまく共存するには、人間が気を付けないといけないという事ですね。
平凡な親が優れた子供を生むことのたとえ。(広辞苑より)
当然自分のものになると思っていたものを、思いがけず横合いから奪われて、呆然とする。
(広辞苑より)
下賤なものも起居が端正であれば品良く見える。(広辞苑より)
カラスの一種。嘴(くちばし)が太い。全身黒色で光沢がある。雑食性。「かぁかぁ」と澄んだ声で鳴く。ハシボソガラスと同じく人家付近にすみ数は極めて多い。東アジア産。(広辞苑より)
カラスの一種。ハシブトガラスよりやや小形で、嘴(くちばし)は細く短い。「がぁがぁ」と濁った声で鳴く。雑食性。人家付近に普通にみられる。ユーラシア大陸北部に分布。(広辞苑より)
鴨川真発見記を書き始めた頃は日本にいるカラスに種類があるとは知りませんでした。何度も“ハシボソガラス”の写真を撮影し、専門家の方に「これハシブトガラスですか?」とたずねる度に「違いますハシボソです」とご回答頂いた事を思い出します。
ハシボソとハシボソの鳴き方の違いを知って、鳴き声でも判別出来るようになりました。
<ハシブトガラス 「かぁかぁ」> <ハシボソガラス 「がぁがぁ」>
<石をひっくり返して水生昆虫を食べる ハシボソ>
スズメ目ヒヨドリ科の鳥。大きさはツグミぐらい。大部分青灰色で、頭の羽毛は柳葉状に立ち、耳羽は栗色。山地の樹林に繁殖し、秋、群をなして人里に移る。波状に飛ぶ。鳴き声は「ひいよひいよ」とやかましい。日本に広く分布。(広辞苑より)
ヒヨドリは鴨川沿いでもよく見かけます。サクラが咲くと、くちばしを黄色く染めながら花の蜜を吸う様子を見る事が出来ます。
<ヒヨドリ 咲き始めたサクラに> <ペア 体の色は大部分“青灰色”>
<サクラの密を吸って> <クチバシの周りが黄色くなった>
幼鳥は、体に斑点があり、星五位(ホシゴイ)という。夜鳥。(広辞苑より)
ホシゴイは、幼鳥期の姿と成鳥期になってからの姿が大きく変わります。その過程を見てみたいものです。
<どこにいるでしょう> <ここ、ここ!>
<わかりました> <夜行性 目は赤色>
スズメ目ムクドリ科の鳥。ツグミぐらいの大きさで、灰褐色。嘴(くちばし)と脚は黄色。日本各地の人家付近の樹林や田圃(たんぼ)に群棲し、果実や昆虫を食う。夏の終りから冬にかけて夜間に大集団で共同ねぐらをなして眠る。鳴き声が甚だ騒がしい。
「鳴き声が甚だ騒がしい」 当事務所にも「ムクドリの鳴き声がうるさい」と苦情を頂いた事もあります。
<ムドリ幼鳥 体の色が淡い> <成鳥は灰褐色>
<渋柿の実食べるの?> <クチバシと脚は黄色>
カモメの一種。小形で、体は白色。冬羽は頭部白く、後頸・耳羽は褐色、雨覆いは銀灰色。夏羽では頭部が黒褐色となる。嘴(くちばし)・脚は暗赤色。ユーラシア大陸北部で繁殖し、秋、日本に渡来。和歌に詠まれた隅田川の「都鳥」はこの鳥という。(広辞苑)
鴨川冬の風物詩。私のコメントは必要無いでしょう。
<ユリカモメ 目の横に“えくぼ”> <夏になると頭は真っ黒>
<光を浴びてより美しく> <人だかりに寄ってきます>
カモの一種。中形の美しいカモで、雄の頭上は紫黒色。背は白黒の細かい斑で、翼は主に灰色、翼鏡は金属光沢のある緑色、最も内側の風切羽は長く、鎌状で、金緑色と白の縞がある。アジア北東部で繁殖し、冬季、本州以南に渡来。(広辞苑より)
鴨川に一羽だけオスのヨシガモを見つけたのは5年程前の事です。例によって専門家の方に問い合わせると、ヨシガモとのこと。「鴨川にヨシガモが居ましたか。珍しい」とうれしい回答を頂いてから5年間。
更に珍しい事に、他の仲間と渡りをせずに5年間一匹オオカミで鴨川と府立植物園を行ったり来たりしているようです。
<ヨシガモ 一羽だけ鴨川に> <渡らず居残り>
<光の当たり方で> <美しく輝く>
やっと最後のヨシガモまでたどり着きました。鴨川で見かける野鳥を全部ご紹介しようと試みましたが、時間がかかりすぎるので何種類か省略させて頂きました。とりあえずこれにて「とり」年野鳥特集を終えさせて頂きます。皆様もこの中から何種類か覚えて頂けることを願いつつ、力をお借りした広辞苑にも感謝しつつ。
(京都土木事務所Y)
3月6日葵橋左岸下に新たな鴨川ギャラリーが設置され、その除幕式が開催されました。鴨川府民会議メンバーと地元の住民の方にご出席頂きました。
<除幕式会場 葵橋左岸> <除幕>
<工事担当者から解説> <出席者の記念撮影>
展示されている写真は1956年、約60年前に市電が開通した当時人や自動車は通れず市電のみが走っている写真です。
解説は、「市電の歴史」では明治45年の営業開始から昭和53年9月末の完全廃線までの経過を紹介し、「葵橋と市電」では市電が走る鴨川に架かる橋の中で最後に開通したのが葵橋で開通当時は道路としての橋は未完成で電車のみが走っていた事が紹介されています。
<葵橋左岸鴨川ギャラリー 皆さんもお散歩がてらお立ち寄りください>
その除幕式に御出席頂いた、地元住民の皆さんの中から一つ疑問???が出てきたようです。
私は当日立ち会っていなかったのですが、後日知り合いの地元住民のお一人からお電話を頂きました。
先日、鴨川ギャラリーの除幕式にご招待を頂き、集合場所が“葵橋”と聞いて地元住民の多くは“葵橋”の一つ下流の橋(出町橋)が葵橋だと思い、その場所に集合したのですが、いっこうにその気配が無いので「おかしいな」と思っていると、一つ上流の橋が葵橋だというではないですか。
<現在の“葵橋”と“出町橋”の位置関係>
古くから下鴨に住んでいる住民は、その橋は“新葵橋”で、私たちは“葵橋”に集合したのに間違っているとは納得がいかない。いつから“新葵橋”が“葵橋”に変わったのか教えて欲しいのです。とのことでした。
私も昭和10年の大水害で流された当時、現在の“出町橋”が“葵橋”だった事は知っていますが、どのタイミングで名前が変わったのかまでは把握していませんでした。
早速、知り合いの京都市の職員さんに問い合わせてみました。すると下記の情報が得られました。
(葵橋にまつわる経過)
大正 7年 出町橋完成 葵橋流失 出町橋を葵橋に名称変更
昭和10年 葵橋流失
昭和29年 葵橋再建
昭和35年 新葵橋架設(葵橋→出町橋、新葵橋→葵橋に変更)
そこで、府立京都学・歴彩館のホームページにリンクされている「京都府オーバーレイマップ」の中の「近代オーバーレイマップ」で葵橋の変遷を確認してみる事にしました。
このオーバーレイマップの中で一番古い地図が、国土地理院の明治25年(仮製地形図)です。
この地図には、橋の名称は表記されていませんが、現在の葵橋の位置に橋が架かっています。そして現在の出町橋の位置の少し下流側に、鴨川と高野川を一本で往来できる橋が架かっていたようです。
<明治25年> <現在>
※仮製地形図(縮尺1/20000)明治中期 国土地理院の地図情報
次に古いのは、国土地理院の大正元年(正式地形図)です。この地図には、明治25年同様の位置に橋が架かっていて、こちらにはハッキリと“葵橋”“出町橋”の名称が表記されています。
<大正元年> <現在>
※正式地形図(縮尺1/20000)大正元年 国土地理院の地図情報
その頃の葵橋の写真と思われる写真が残っています。府立京都学・歴彩館のHP内「京の記憶アーカイブ」にアップされている写真資料です。当時の葵祭が橋を渡るシーンですが、写真内容の説明には撮影年次不明となっていますが、備考に「旧葵橋」とありますので間違いないでしょう。
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(旧葵橋)>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
この後、大正7年現在の位置に出町橋が完成し、同年葵橋が流失し出町橋を葵橋と名称変更となります。
その4年後の大正11年の京都市都市計画基本図を覗いてみると、現在の葵橋の位置に橋は無く、一本で渡河していた橋は現在の形態と同じく鴨川と高野川で2本の橋となっています。そして、“葵橋”“河合橋”の表記があります。
<大正11年> <現在>
※京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都大学文学研究科所蔵の地図情報
旧葵橋から名称を受け継いだ現在の出町橋です。その葵橋を渡る葵祭の行列の様子が同じく「歴彩館」の「京の記憶アーカイブ」に見つけました。こちらの写真説明の備考には、「葵橋(出町橋)」と記載されています。
<葵祭・路頭の儀 黒川翠山撮影写真資料(葵橋(出町橋))>
出典:府立京都学・歴彩館「京の記憶アーカイブ」より
その後昭和に入り、昭和4年の京都市都市計画基本図を見ると、大正11年との違いは、現在の葵橋の位置に橋の計画線が入っています。流失した旧葵橋を再建する計画が出来ていたようです。
<昭和4年> <現在>
※京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都府立総合資料館所蔵の地図情報
6年後には鴨川大水害が発生しました。葵橋を含む多くの橋が流された昭和10年の都市計画基本図と昭和4年の都市計画基本図との違いは、賀茂大橋が架橋されている点です。賀茂大橋は昭和10年の大水害では流失をまぬがれましたので、現在の賀茂大橋と同じ橋です。
<昭和10年> <現在>
※京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都市都市計画局の地図情報
<葵橋流失 上流右岸より> <葵橋流失 右岸より>
昭和10年の大水害で流失した現在の葵橋(現出町橋)が再建されたのが、昭和29年との情報ですので、その間は葵祭の行列は別ルートで下鴨神社へ向かったのでしょう。
その間橋はどんな様子だったのかを国土地理院のHPで確認してみました。昭和20年~昭和25年の間に撮影された航空写真を見てみると、細い橋が架かっていました。おそらく仮橋で29年間過ごしたようです。
葵橋が再建される1年前の昭和28年の京都市都市計画基本図では、昭和10年と同様の地図ですが、変化を見てとれます。
現在の出町橋のところの表記「葵橋」に取り消し線が入り「出町橋」と表記されています。そして計画線の入った橋には「葵橋」の表記が
<昭和28年> <現在>
※京都市都市計画基本図(縮尺1/3000)京都市都市計画局の地図情報
そして、鴨川ギャラリーの展示にもありますように、昭和31年に市電が開通しました。もしかしたらこの頃は新葵橋と呼んでいたのかもしれません。
現在の葵橋の東詰のバス停は「新葵橋東詰」ですから・・・。
道路の橋としての完成が昭和35年という事で、この時2つの橋は当初の架橋時の名称に戻りました。
“葵橋”という名称が2つの橋を行き来している間に、地元の方も完全に勘違いする状況を生み出したようです。という訳で現在の“葵”橋の位置が元々の“葵橋”の位置でした。
名称は元の葵橋に返上した出町橋ですが、葵祭の行列のコースまでは返上しなかったようです。現在も「葵祭」の行列が渡っているのは「葵橋」と思っておられても不思議では無いですね。
お電話を頂いた方は、葵祭にも関わっておられる下鴨神社の氏子総代なのですから。
<除幕式に御出席頂いた地元の皆さん>
とても「ややこしい」この説明を文字だけでするのは、聞かれる方にもわかりづらいと思いまして、今回の記事に仕上げさせて頂きました。勘違いをされていた地元にお住まいの皆様、納得して頂けましたでしょうか。
平成29年3月17日 (京都土木事務所Y)
今回は野鳥特集その4として、「サ行」で始まる名前の野鳥からご紹介したいと思います。引き続き広辞苑の説明の力をお借りしてお届けします。
これまで、「鴨川真発見記」では、野鳥の色を表現する時に「赤」「青」「緑」「白」「黒」など色鉛筆の基本の色でご紹介してきましたが、広辞苑ではもっと深い表現がされています。
ここで、その表現の色がどんな色なのか、野鳥の実際の写真の色と比べて見てみるのも面白いですね。
「サ」で始まる野鳥のトップを飾るのは、「ササゴイ」です。広辞苑にもササゴイの項目が掲載されていました。
サギの一種。ゴイサギに似るが小さく、背面は暗緑青色、蓑毛(みのげ)があり下面は淡灰色。頭には長い緑黒色の冠羽がある。水辺に住み樹林に営巣。全世界の熱帯から温帯に分布。(広辞苑より)
鴨川では、ササゴイを見かけるのは珍しく、これまでに2回しか見たことがありません。説明にも「ゴイサギに似る」とあるように、遠目で見るとゴイサギと認識してしまう恐れがあるので、もしかしたらもっと遭遇しているかもしれません。
初めて見たのは、京都土木事務所のすぐ傍北山大橋下流です。この頃から野鳥の姿のチョットした違いが判断出来る「野鳥を見る目」の力が高まったように思います。
2回目は、桂川との合流点に近い龍門堰の付近で、川幅が広くかなり遠くからの目撃でした。ちょうど傍に「ゴイサギ」が居て「何か違う?」と専門家の方に確認すると「ササゴイ」でした。
背面は暗緑青色 長い緑黒色の冠羽
<初めての出会いは北山大橋下流> <二度目は龍門堰>
<左:ゴイサギ 右:ササゴイ> <左:ササゴイ 右:ゴイサギ>
スズメ目シジュウカラ科の鳥。小形で頭頂・のどなどは黒、背は緑黄、頬と胸腹とは白。胸腹の中央に黒色帯が一本ある。日本の林地の鳥の代表。ユーラシア大陸に広く分布。(広辞苑より)
シジュウカラは、説明にもあるとおり「胸腹の中央に黒色帯が一本」あります。川で見かける時は木の枝にとまっている姿を見上げる事が多く、この一本を見て「シジュウウカラ」と判断しています。
高野川では、一度水辺に降りている所を見ました。背の「緑黄」を見ることができました。「黄緑」と「緑黄」はどこか違うのでしょうか。
<下から シジュウカラ> <黒色帯一本>
<緑黄> <緑の方が強いから緑黄?>
スズメ目アトリ科の鳥。小形で、ヒバリぐらい。嘴(くちばし)が太く頭が大きい。背は暗褐色。風切羽は光沢ある黒色で、白斑がある。喉は黒色、下面は淡黄色。日本では北海道で繁殖。秋、本州以南に渡来。(広辞苑より)
シメを初めて見た時は、その配色ゆえになんとも鋭い面構えだと思いました。歌舞伎の隈取のような顔で睨まれているようです。
暗褐色
<背面暗褐色> <頭にベレー帽の様な色合い>
<眼光鋭い“面構え”>
スズメ目ツグミ科の鳥。小形でスズメぐらい。冬、野原・田・畑などに多く、美しい。黒い翼に大きな白斑があるので俗にモンツキドリともいい、また、人を恐れないのでバカドリ・バカビタキと呼ぶ。(広辞苑より)
紋付を羽織っているような翼のデザインを見ると、人間の紋付羽織のヒントは実はここにあったのでは無いかと思ってしまいます。
それにしても、「人を恐れないのでバカドリ・バカビタキと呼ぶ」というのは、誰目線なのでしょうか。人を恐れる他の野鳥?それとも人を恐れない事が気に入らない人間?
<ジョウビタキ オス> <ジョウビタキ メス>
<ロマンスグレーの頭>
スズメ目ハタオリドリ科の鳥。小形で、頭は赤褐色、のどは黒色。背は赤褐色に黒斑があり、下面は灰白色。人の住む土地にはほとんどどこにも棲み、人家の軒・屋根などに藁などで巣を作る。群集する事が多い。(広辞苑より)
最近スズメの数が減ったという声を聞くことがしばしばあります。鴨川や高野川を歩いていると「そうでもないけど」と思います。鴨川・高野川は禁猟区であり、鳥獣保護区という事もあってか、1年中スズメの姿をよく見かけます。
野鳥の事は皆目わからないという方も「スズメ」なら知っているという程にポピュラーな野鳥ですが、本当に細部まで理解されているでしょうか。様々な種類がいるカモと違って「スズメ」はスズメですが、一度じっくり見てみてください。
<鈴なりの スズメ>
スズメと人との距離感は近く、親しみのある鳥ということで、雀を頭に冠した動植物も多いようです。
広辞苑より
動物
昆虫 雀蛾(スズメガ)、雀蜂(スズメバチ)
魚介類 雀鯛(スズメダイ)、雀河豚(スズメフグ)雀貝(スズメガイ)
植物
雀瓜(スズメウリ)、雀野豌豆(スズメノエンドウ)、雀の尾苔(スズメノオゴケ)、
雀の帷子(スズメノカタビラ)、雀の田子(スズメノタゴ)、雀の茶挽(スズメノチャヒキ)、
雀の鉄砲(スズメノテッポウ)、雀の稗(スズメノヒエ)、雀の槍(スズメノヤリ)、
上記の動植物の実際の写真もご紹介したいのですが、著作権等の問題がありますので、皆さんネットで検索してみてください。
雀の巣も構(く)うに溜まる
(「構う」は巣を作る意)雀が僅かなものをくわえて運んでいても、ついには巣を作りあげるように、少しのものも積もり積もれば多くなる。(広辞苑より)
コツコツと少しずつ積み上げる事によって、やがて大きな成果(資料)として蓄積してきたと、ある意味自慢の「鴨川真発見記」の事とダブってしまいます。
雀の千声(せんごえ)鶴の一声
つまらぬ者の千言より、すぐれた人の一言がまさっている。(広辞苑より)
「つまらぬ者」というフレーズが少し気になります。「鶴の一声」の前には多くの声があり、それを一蹴する「すぐれた人」の一声で物事が決まるのは、何か昔の政治の気配がします。
雀百まで踊りを忘れず
幼い時からの習慣は、年老いても抜け切れない。(広辞苑より)
「雀は百歳まで生きられるのでしょうか」私のつまらない独り言でした。
セキレイの一種。大きさはスズメぐらい。おおむね体の上面は黒、下面は白。通年、河原に生息、日本特産。(広辞苑より)
セキレイの鳴き声はとても澄んでいて気持ちがいいです。そして、その飛翔の仕方にも特徴があります。スーッと上昇して、はじける様にはばたきながら下降する姿は舞を舞っているようにも見えます。停止している時に長い尾羽を上下にピンピン動かす姿は、さながらオーケストラの指揮者といったところでしょうか。自ら歌い、踊り、指揮をするオールラウンドプレイヤーと呼んでみたいと思います。
<水浴び セグロセキレイ> <頭から>
<尾羽をピンピン> <舞い踊る>
ようやく“サ行”を終えました。次の野鳥特集は“タ行”からです。まだゴールは見えていませんが、息切れしないように頑張りたいと思います。
(京都土木事務所Y)
2017年1月から3月初旬まで、鴨川で目にした光景をオムニバスでご紹介したいと思います。
1月7日(土)は、真冬とは思えないポカポカ陽気でした。暖かい日差しに誘われて高野川から鴨川へ足を運びました。
風もなく穏やかな鴨川で遊ぶ人も多いです。その中で目に留まったお二人に 「なにをしているの?」と訊ねると、「お魚捕り」の返事がありました。近所に住む少女とそのおじさんでした。
<なにをしているの?> <お魚捕り>
枯れ草を束ねてススキの茎を刺して作った自然の道具でチャレンジです。 水に浸けるとすぐに崩れてしまったので、私も新しい仕掛けづくりを手伝って「お魚獲れるといいね」と声を掛けてその場を後にしました。
<新しい仕掛け作り> <少し待ってみよう>
なんとも微笑ましい“さかな捕り”に、「本当に捕れたらいいね」と心から思ったのでした。
トリ年特集でもご紹介しましたイソシギですが、暖かい太陽の下近くで写真を撮ることができました。
<イソシギ> <早い歩行>
2017雪の鴨川を紹介しました号で、最初「ホオジロ?」とご紹介しましたところ、「カシラダカでは?」とのご指摘頂きまして、その旨修正させて頂きましたが、更に専門家の方からご指摘を受けました。
【専門家の方から】
ホオジロ?→カシラダカと紹介されていたスズメと一緒にいた鳥ですが、これはヒバリです。
カシラダカと同じで冠がありますが、カシラダカは腰が赤かっ色で目立つので、背中と腰が同色のヒバリとは少し異なります。
という訳でお詫びして訂正申し上げます。これだけ細かに見て頂いて感謝です。
<×「ホオジロ」 ×「カシラダカ」 ○「ヒバリ」>
専門家の方からご提供頂きました「ヒバリ」の鮮明な写真をご紹介しておきます。
<ヒバリ 2月滋賀県にて>
1月24日は、北山地域にうっすら雪が舞いました。北大路橋右岸上流にある自己再生のサクラも気になって、様子を見に行きました。上向きに開いた幹の中にもうっすら雪が乗っていますが、今年も3月末には♪きれいな花がさくでしょう♪。
※サクラの自己再生について詳しくは鴨川真発見記第25号をご参照ください。
<自力では立っていられない> <それでも自己再生>
6年間鴨川を歩いてきましたが、オオバンは1年前に1羽見ただけで街中の鴨川では珍しい部類のカモでしたが、今年は複数回しかも複数羽が群れています。これまでと環境が何か変わったのでしょうか?
鴨川を見つめ続けるある方によると、競合する「カワウ」の数がいつもの年より減っているのが原因ではないかと話されていましたが、その「カワウ」が減った原因は何でしょうか?
ご存知の方おられましたらご教示ください。
<オオバンの群れ> <8羽集う>
2月12日(日)この日は少々雲が浮かんでいますが、気持ちのよい晴れ空に覆われた鴨川を散策しました。
<気持ちの良いお天気>
鴨川沿いの梅の木では、膨らんだ蕾が一輪、また一輪と花開いていました。
<蕾が膨らんで> <花開く>
去年の秋に実りのクルミの種を見せてくれた「オニグルミ」の木は、川の中で大きくなりすぎたので、伐採しました。「たまたま」流れ着いて実生から大きくなったのですが、「たまたま」の場所が良くなかったようです。それでも最後の秋の実りを見ることが出来てよかったです。
このオニグルミに関しましては過去の鴨川真発見記でも紹介しています。
<スッキリ? ここは・・・> <オニグルミの切り株>
2月24日は、中国浙江省から視察団23名を受け入れました。鴨川の特徴などを説明した後で、京都土木事務所の近くで現場視察をされました。少々水位が高く飛び石に少し水が乗っていましたが、皆さん気にせず「飛び石渡り」を体験して帰っていかれました。
<所長あいさつ> <体験「飛び石渡り」>
2月25日(土)は、いつもの様に高野川へ行ってみると、ついこの間大型土嚢積みをされていた北泉橋の工事が進捗していました。
舞台がせり出すように右岸から左岸に向けて、橋が伸びてきています。御薗橋もそうですが、橋を架ける工事の手順を近くで見ることが出来るチャンスです。
翌2月26日は久しぶりに連れ合いと2人で鴨川へ向かいました。この日はカメラを連れ合いに渡して「春」をテーマに写真を撮ってもらいました。
暖かい日差しの中を鴨川へと進むと、これまで余り気にしていなかったからか、記憶にあまりない風景に出会いました。
賀茂大橋から荒神橋の間の左岸には、大小沢山のベンチが設置してあるので、そのベンチで憩う人の姿は記憶に強く残っているのですが、石積みの護岸の傍の芝生に間隔を空けて並んで座る人の姿です。
<賀茂大橋・荒神橋間 憩い> <キラキラ光る水面を見ながら>
北の山には雪が残っていますが、鴨川は憩いの空間です。近所の方でしょう、幼い子供を連れての散歩には鴨川公園は最適ですね。
<北の山には雪> <母子で散歩 楽しいね>
三条大橋まで行くと早咲きの「カワヅザクラ」が咲いています。サクラが咲いて春めいてなのですが、みそそぎ川に入って遊ぶにはまだ早いのでは?
元気な子供の声が響いていました。
<カワヅサクラ開花> <みそそぎ川で水遊び>
オナガガモの群れを眺めていると、中に一羽明らかに違う模様のカモが紛れていました。「何だろう?」と写真を撮ってもらって、後日専門家の方に見てもらいました。
すると意外な答えが返ってきました。そのカモは「オナガガモ」と「コガモ」の交雑カモでした。鴨川に初めて飛来したカモの種類かと思ったのですが、鴨川真発見記的には新顔という結果となりました。
ネットで調べてみると、同じ顔した交雑カモの画像が出てきます。「マガモ」「カルガモ」の交雑は鴨川にも沢山いますが、今回は初めての目撃です。以前何の交雑判らなかったカモを紹介しましたが、今回は正体がハッキリして少しスッキリしました。
<君の名は?> <オナガガモ・コガモの交雑です>
3月10日(金)は鴨川一級起点の落差工の工事現場へ向かいました。流れ落ちる水が当たるコンクリート構造物の破損を直す工事を進める中で、オオサンショウウオが発見されました。
<鴨川源流雲ヶ畑の工事現場>
水の勢いで開いた穴の中からオオサンショウウオが顔を出したのを工事の作業員の方が目撃されました。当所の担当職員に連絡が入り、京都市の文化財保護課に捕獲要請し同行しました。
<補修するコンクリートに水たたき> <この中の奥に潜り込んだオオサンショウウオ>
穴の中に入っているのに気がつかなければ、その上からコンクリートを流し込んでしまいますので、オオサンショウウオはコンクリート詰めにされてしまいます。
その中に居ると分っていて、殺してしまうのは忍びないとの作業員さん達の優しい気持ちが今回の捕獲に繋がりました。
作業員さんとオオサンショウウオの格闘の末、身柄を確保しました。
<とりあえず逃げないように> <輸送用の衣装ケースに移動>
<サイズはそれほど大きくない> <ほかには居ないかな?>
<オオサンショウウオ捕獲協力の記録>
急ぐ作業を長時間中断してご協力頂きました施工業者の皆さんに感謝して今回の鴨川真発見記を終えます。
(京都土木事務所Y)
第263号に引き続き、大谷大学で開催されました「昔の写真展」で展示されました北大路界隈の鴨川の写真と現在の写真を比較しながら昔の鴨川を振り返りたいと思います。
前号の戦前の様子に続いて、戦中・戦後の鴨川の変遷です。戦中ということで、鴨川の川原では戦時教育としての軍事教練が必修となっていました。立命館中学の賀茂川での渡河訓練の様子です。
<賀茂川渡河訓練風景 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
当時の中学といえば現在の高校生です。ヘルメットを被って身を伏せながら構えた銃の先には仮想敵国が見えたのでしょうか。現在の平和な鴨川からは想像ができない光景です。この平和を未来に繋ぐ想いを強くさせる写真です。
その軍事教練を観戦する陸軍少将は馬に跨っています。北大路橋の上にも多くの観戦者の姿が見えます。背景には大きな松の木が見えています。昭和10年の水害時の写真では確認出来ませんでしたが、相当に大きな松がそびえたっています。
<訓練を観戦する館少将 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
鴨川堤に集合した府下中等学校野外総合演習後の京都府知事による閲兵の様子です。鴨川が戦場への入り口になっていたようで複雑な気持ちにもなります。
<賀茂川での閲兵式 昭和18年頃>
【立命館中学・高等学校提供】
<現在の様子>
現在の紫明通りは、終戦直前の昭和20年には建物疎開(強制立ち退き)により拡張されました。それ以前の様子です。写真の真ん中に流れているのは、東から堀川に向かってくる疎水分線です。疎水分線の南側(写真右側)の建物が立ち退きとなって道路幅が広げられました。
<紫明通り 大正15年又は昭和18年 2種の記載あり>
【教育大学同窓会提供】
その後、流れの向きを逆にして暗渠化し、鴨川へ街中の雨水を排水する都市下水として利用されています。現在堀川へと流れ込む小川は新たに開削された水路です。
<現在の様子 写真の歩道約1/3が当時の流れ>
古都京都は、激しい空襲に遭うことなく終戦を迎えました。それから10年が経過した昭和30年の北大路橋東詰めの加茂街道の様子です。自動車の往来は無く自転車、バイクの専用道路の様になっていて、ゆったりと走行出来ていました。
北大路橋には市電が走っていますが、加茂街道に信号機は見当たりません。電車が通る時には道を譲る仕組みなのでしょうか。現在東詰めの下流にはニレ科の大樹がありますが、この頃はさほど大きくありません。昭和30年からだと約60年です。60年後のこの風景を誰が想像していたでしょう。
<北大路橋の風景 昭和30年頃>
【京都新聞社提供】
<現在の様子>
この10年後、昭和40年には加茂街道の中央分離帯の様になっている場所でニレ科の大樹が倒れたようです。その時の写真が残されています。この影響で中学校は2日間休校となったそうです。
昭和40年ともなると、加茂街道にも自動車が走行しています。国産の軽自動車でしょうか。
<加茂街道の巨木倒れる 昭和40年>
【加茂川中学校提供】
先程、北大路橋西詰めで大きく育った大樹をご紹介しましたが、そのうちの一本が数年前に強風で幹が裂け、伐採した事を覚えておられる方は少ないと思います。樹齢が進むと幹が老化して強風に耐えられなくなります。大きく育てばいいという訳でもありません。
<北大路橋西詰下流にそびえていたニレ科の大樹伐採>
昭和40年頃の「志波む桜の碑」の写真です。明治38年に師範学校の教職員・生徒などが賀茂川堤に約5,000本の桜・楓を植樹した記念の碑です。
碑を覆うように植えられた二本の樹木が今では大きくなって、碑が小さく見えます。碑の奥に写っているのは、この後昭和47年に架け替えられる出雲路橋の先代の橋です。
<志波む桜の碑 昭和40年頃>
【教育大学同窓会提供】
<現在の様子>
先程の先代の出雲路橋から後を引き継いだ新しい出雲路橋の渡り初めの様子です。新しい橋の上流側には、架け替え工事中に人が渡る仮橋を歩く人が見えます。出来たばかりの橋の欄干は真っ白に見えます。
<出雲路橋の渡り初め 昭和47年>
【永田修二さん提供】
<現在の様子>
昔の写真展といっても昭和の時代までではありません。平成の時代も29年を向かえています。平成の時代の写真もあります。平成元年のころの鴨川でユリカモメ見学をする保育園児も立派に成人して、保育園の保護者になっている方もおられることでしょう。
<鴨川でユリカモメ見学 平成元年頃>
【洛陽保育園提供】
平成のはじめの頃は、ユリカモメに餌を与える事について、「ユリカモメの為になる」という考え方もありました。それを目当てに沢山のユリカモメが賀茂川に群れ飛ぶ様子を続けてご覧頂きます。
<鴨川のユリカモメ 平成6年> <岸で憩うユリカモメ 平成6年>
【上の写真2枚共に川村周仁さん提供】
<群舞するユリカモメ> <ユリカモメの群れ>
【上の写真2枚共に藤本秀弘さん提供】
「エサやり」がユリカモメの為にならない「自然の生き物は自然のままに」という考えのもと「エサやり自粛」が浸透してきて鴨川へ飛来する数は減りましたが、数は減っても鴨川冬の風物詩として毎年姿を見せてくれます。
ユリカモメの最近の様子は野鳥特集でたっぷりご紹介するとして、次に進みましょう。
平成10年代の初期の風景写真もご提供頂きました。ピンホールカメラで撮影された写真です。
柊野砂防堰堤の写真と、まぶしく光る夕陽の写真です。レンズの無いカメラの写真にはデジタルカメラには無い独特の味がありますね。
<柊野ダム 平成11年頃> <デジカメの写真>
【松原活泉さん提供】
<鴨川の夕景 平成13年頃> <デジカメの写真>
【松原活泉さん提供】
最後に時は戻って昭和30年代の北山通りの写真です。鴨川に近い北山通りかと写真データを提供頂きましたが、場所の特定作業をすると意外な場所でした。地元出身の当所職員に協力を依頼すると、手前から奥で突き当たる縦の道が北山通りだとすると、この形状の場所は紫野泉堂町しかないとの見解を頂きました。
<北山通り風景 昭和30年代>
【提供者匿名希望】
現場に行ってみると、三叉路の先には建物などで遮られて、山は全く見えません。ネットの3D航空写真で確認してみると正面の山の形が全く同じ「左大文字」の山でした。紫野泉堂町の交差点で確定です。ご興味のある方は、ネットでご確認ください。
<現在の様子> <ネットでなくても少し離れて稜線を確認>
2回に渡って、大谷大学主催の「昔の写真展」の画像データを提供頂いて、昔と今の鴨川の様子をご紹介させて頂きました。
貴重な写真をご提供頂きました関係機関、個人の皆様、そして大谷大学の関係者の皆様に感謝を申し上げて今回の「鴨川真発見記」を終えたいと思います。「ありがとうございました」
(京都土木事務所Y)
鴨川の出町以北の昔の写真をあまり見たことが無かったので、この辺りの写真が無いものか知り合いに尋ねていたところ、ある方から2004年と2006年に北大路近辺の昔の写真を集めた写真展が大谷大学で開催された事を教えてもらいました。
<2004年昔の写真展> <2006年昔の写真展>
当時作成された展覧会のパンフレットを見せて頂くと、鴨川関連の貴重な写真も多く見受けられました。早速大谷大学へ連絡を入れ「鴨川真発見記」に掲載したい旨伝えると、個人所蔵の写真が多く連絡先が現在も繋がるか確認して頂ける事になりました。
連絡先を教えて頂いて、個々に掲載が可能か確認しようと大谷大学からの返事を待っていると、大学側で掲載希望写真の掲載OKの確認までして頂いて、写真の元データを提供して頂きました。
今回は、その貴重な写真を通じて昔の鴨川を振り返ると共に、現在の鴨川と比較してご紹介したいと思います。
昔の写真といえば、京都土木事務所としては昭和10年の大水害が一番に挙げられます。これまでも鴨川真発見記でその様子をご紹介してきましたが、三条大橋から下流の街中が中心で北大路近辺がどうなっていたのか写真資料が少ない状況でした。
最初にご紹介するのは、この時流失した中賀茂橋の様子です。当所に残されている中賀茂橋の様子は、完全に流失した橋が濁流に飲み込まれて見えなくなってしまっている様子ですが、今回ご紹介するのは濁流に飲まれて流失していく中賀茂橋と、流れが治まって残された残骸があらわになった様子です。
<1 刻々と流されゆく中賀茂橋> <2 濁流に完全に飲み込まれました>
【川村周仁さん提供】 【京都土木事務所蔵】
<3 残骸があらわに> <4 現在の様子>
【京都市歴史資料館蔵】
中賀茂橋は鴨川と直角に交差して架かっていましたが、北大路橋は北大路通りが東西に真っ直ぐ貫いていますので、北から南東に斜めに流れる鴨川とは斜めに交差しています。
当時の地図を覗いてみると、西から東を望むこれらの写真の正面は現在京都府立大学のグラウンドになっていますが、当時は府立植物園の敷地で「京都植物園運動場」であった事がわかります。
<中賀茂橋位置図>
続いての写真は、増水した北大路橋を上流から見た写真ですが、先程の中賀茂橋の位置を考えると、北大路橋の手前に中賀茂橋が写っているはずですが、流失した後のようです。川の水が引き始めて橋の上や河川敷でその様子を傘をさして眺める人の姿があります。
川の中には上流から流されてきたのか、砕いたような石が堆積しています。東岸の北大路橋には流木や土砂が橋脚に引っかかっているようです。
個人的に気になるのは、東詰め北に立っている樹木です。現在は自然生えの「ヤマザクラ」が同じような場所に立っていますので、お近くにお寄りの際はご確認ください。
<北大路橋西岸上流より> <現在の様子 冬>
【京都市歴史資料館蔵】
やれやれ水が治まったと川の傍にも人が集まったようですが、その少し前の北大路通りはどんな様子だったのでしょうか。
北大路通りの商店街も冠水して自動車がその中を走っていきます。写真の中にはズボンの裾をまくっている人が見えます。これだけ冠水すると長靴ではかえって危険です。濡れてもいいので“かかと”のある履物で非難してください。
<北大路水没1> <北大路水没2>
【堀口大学堂・川村周仁さん提供】
<現在の様子>
この大水害をキッカケに昭和11年から順次進められた大改修の様子も展示されていました。
川底を約2m掘り下げて、平常時に水が流れる水際に石積みで護岸を造っていきました、写真に写っているのは、掘り下げた時に出る土石をトロッコに乗せて運び出す機械でしょう。人の手でこのバケツのような容器に土や石を詰め込んでこの装置に乗せたのでしょうか。
加茂街道となっている鴨川の堤防も嵩上げされて、東側の家屋は2階部分しか見えていません。
<加茂街道沿いの鴨川大改修工事の様子 1 昭和14年頃>
【上下写真共に 京都市歴史資料館蔵】
<加茂街道沿いの鴨川大改修工事の様子 2 昭和14年頃>
写真2の手前に転がっているのは、護岸の石積用の石です。この写真を見て驚きを伴って気がつく事が2点あります。一つ目は川の水がとても少ないことです。
当時は農業も盛んで、上流から農業用水が多く引き込まれていたこともありますが、降った雨も田畑から地下へ浸透していたことも原因かと思います。
二つ目は、加茂街道沿いの景色です。現在ではニレ科の大樹が立ち並び、その向こう側の景色は見えない程に大きくなっています。当時は背の高い松だけが立ち並んでいます。
実はこの風景こそが、昔の鴨川写真を探し求める一番の動機の答えだったのです。現在の加茂街道沿いに立ち並ぶニレ科の大樹の樹齢はどのくらいで、いつからこの風景・景観が形成されたのかということです。
この写真の説明に「昭和14年頃」とありますので、今から77年前には影も形も無かったことになります。70年余りの時の流れが景観を大きく変えたようです。あなたは「昔と今」どちらがお好みですか?
<現在の様子 秋>
冬になるとニレ科の大樹は葉を落とし、松の存在がハッキリとわかる様になります。
昭和14年の頃にそびえていた松なのか、その後に植えられた松なのかわかりませんが、加茂街道沿いに松は健在です。
<現在の様子 冬 ニレ科の大樹は葉を落とし透けて見える並木>
遠目に見ても明らかに背の高い松ですが、もっと近くでその高さを実感する写真もありました。同じく昭和14年頃のものですが、手前に電柱の2倍以上の高さの松並木になっていたようです。
<立ち並ぶ松 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬> <現在の様子 夏>
現在は公園としても整備され、人々の憩いの場となっている北大路近辺ですが、当時の人々と鴨川の関わりが垣間見られる写真がありました。
工事の最中ということもあって石がごろごろ転がっています。通学する学生でしょうか、ひたすら歩いているようにも見えます。その手前には和服姿の女性に抱かれてカメラを見つめる子供の姿があります。
よそ行きの洋装でベレー帽を被る姿に何かの記念写真かと思われます。戦前も鴨川で「記念写真」。この6年間鴨川で様々な写真を撮り続けてきた私の興味を引く一枚です。
<鴨川で記念写真 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬>
ここまで、鴨川の西から東を眺める風景はありませんでしたが、その象徴的な風景の写真がありました。同じく昭和14年頃の写真です。比叡山を目の前に望む風景で、この辺の護岸の石積は完成しているようです。
鴨川沿いの東側に樹木が並んでいます。これらが何の種類かわかりませんが、桜や楓であれば明治38年に植樹された「師範桜」なのかもしれません。
樹木の向こう側に建物が見えません。現在鴨川東岸堤沿いは住宅地で建物が連なっていますが、当時はどうだったのでしょう。これがどこからの風景か見当をつけてみました。
<比叡山遠望 昭和14年頃>
【西川忠樹さん提供】
<現在の様子 冬>
昭和10年の大水害以前の様子はどうだったのでしょう。大正9年頃の葵橋上流から北西を望む写真がありました。学生帽を被った若者が鴨川で記念写真を撮ったようです。
鴨川の流れは川の真ん中に細く流れていて、両岸は今の寄州とは様相が違いゴロゴロと石が並ぶいわゆる「河原」です。
この写真でも、現在大樹の木陰が出来るニレ科の樹木の姿の無い松並木道だった事かわかります。
<葵橋上流東岸から北西を望む 大正9年頃>
【日下部有信さん提供】
<現在の様子 冬>
<現在の様子 秋>
今回は、昭和10年の大水害を中心に戦前の鴨川の様子をご紹介させて頂きました。次回は戦時中の驚きの鴨川利用や戦後の鴨川の変化をご紹介したいと思います。
それにしても、大正9年頃から100年近くの時間が作り上げた景観に脱帽です。さて、100年後の鴨川はどうなっているのでしょうか。街中の自然的風景は人の手による影響が大きいです。あなたはどんな100年後を想像されますか?
(京都土木事務所Y)
野鳥特集その2では、カ行の「か」で始まる名前の野鳥をご紹介しました。「か」は完了したと思っていたのですが、他の号の訂正と共に追加で1種類ご紹介させて頂きます。
第258号・259号でスズメの群れに混ざって一羽だけ「ホオジロ」かな?とご紹介しました野鳥ですが、ご覧頂いている専門家の方から「カシラダカではありませんか」と連絡を頂きました。
カシラダカはスズメ目ホオジロ科の野鳥で、全く見当違いでは無いようですが、これまでの鴨川真発見記では初登場となりました。新たなお宝を知らないうちに手に入れていたようです。広辞苑の解説にも一見ホオジロに似るとあります。
スズメ目ホオジロ科の野鳥。小型でスズメくらい。一見ホオジロに似るが、腹が白く頭頂の羽毛を立てることがある。シベリア北部で繁殖し、日本に大群をなして渡来する。(広辞苑より)
※ カシラダカではなく「ヒバリ 」とご指摘頂きました
第265号で修正しています。
<ホオジロ改め“カシラダカ”? いやいや「ヒバリ」でした>
キジバトの解説文にも冒頭に「ハトの一種」とありますので、先に「ハト」の項目の解説を見てみます。
ハト目ハト科の鳥の総称。ほとんど全世界に分布し、約300種。全長20~80センチメートル。嘴は短く厚みがあり、体はずんぐりしている。日本にはカラスバト・キジバト・アオバトなどが分布。また、ヨーロッパ・中東・南アジア原産のカワラバトが家禽(かきん)化され、愛玩用・観賞用・食用などの多くの品種がある。
それが野生化し、都市周辺などに多く、ドバトと呼ばれる。(広辞苑より)
皆さんが良く目にされるハトは、外国原産のカワラバトが家禽化した後に野生化するという経過をたどった事がわかります。「愛玩用・観賞用・食用」として飼われたハトが野生化して繁殖し、マンションなどに巣をつくり迷惑とされている。これも人間が招いた事とはいえ、えさやりで更に増やすことは慎みたいと思います。
<カップル成立> <繁殖中>
<排水路から続々と> <鴨川で集団水浴び>
<レース鳩もドバトの仲間>
(写真提供:公益財団法人日本野鳥保護連盟京都)
それでは、キジバトの解説です。
ハトの一種。翼の色は大体雌雉(めすきじ)に似る。「ででっぽうぽう」と鳴く。主に田園地域に多く市街地にも現れる。(広辞苑より)
キジバトは、ドバトのように様々な模様の個体が交配を繰り返して見せる個々の個性的な模様ではなく、「雌キジに似る」とあるように決まった模様なので、見た目で「キジバト」と簡単に判断できます。
ウロコのような体の模様で、案外どこにでも姿を現しますが、私は目の前で鳴いているのを聞いた事がありません。何処からともなく聞こえてくる「ででっぽうぽう」の泣き声が聞こえたら、この姿を思い出してあげてください。
<草むらで目立つ キジバト> <水辺にもやってきます>
<石の上でも案外目立ちます> <枯れ草が混ざると保護色に>
<砂利の上でも正面からは保護色 小枝を運んで巣作り真っ只中>
キセキレイは単独での項目がありました。セキレイの仲間でまとめての項目はありません。
スズメ目セキレイ科の鳥。大きさはスズメぐらい。背はねずみ色。胸・腹は黄色。眉斑は白色。オスの夏羽では喉が黒色。水辺に多く、市街地でも見かける。常に尾を上下に動かし、飛翔は波状。(広辞苑より)
キセキレイも鮮やかな黄色が目を引きます。併せて常に尾を上下するので、チドリの種などのように完全保護色の野鳥に比べて見つけるのか容易です。
<遠目にも鮮やかな黄色 キセキレイ> <横から見ても黄色が目立ちます>
説明にもありますとおり、前に進む時の飛翔は波状ですが、今回ご紹介する飛翔は飛び上がって急降下、辺りに飛ぶ虫を「舞い」を舞うように捕獲していました。
<何度も同じ場所から> <飛び上がって>
<急降下>
カモの一種。マガモよりやや小形。雄は背面が黒色で頭に冠羽があり、腹は白色。雌は全体に褐色。秋、北方から渡来し、湖沼や大きな川に群棲。巧みに潜水し、水底の貝や甲殻類を捕食する。(広辞苑より)
私が野鳥に強い関心を持つキッカケとなったのが、この「キンクロハジロ」です。目の前で水の中に潜る様子を見て、これはなんという名前の野鳥かと知りたくなった野鳥です。なんといっても「カモ」の一種と知って驚きは倍増しました。
潜るカモがいるなんて思いもしませんでした。なんせカモの種類がこれほど沢山あるなんて知りませんでしたし、「カモ」は「カモ」でしょうという認識しか持ち合わせていませんでしたので。オスの白黒くっきり分かれた配色と金色の目が見るものを魅了します。
<オスとメス> <オスとオス>
※左の写真は初期のカメラ 右の写真は現在のカメラ
<正面からメス> <腹だしポーズオス>
<初めて見た感想「潜ってる!これ何なの?」>
(醍醐天皇が神泉苑の御宴の折、五位の位を与えた故事による名という)中型のサギ。背は緑黒色で、翼・腰・尾は灰色、後頭に二本の細長い白羽あり、額・頬・下面は白色。樹上に群棲・営巣、夜飛びながら「ごぁっ、ごぁっ」と鳴く。世界中の温帯から熱帯に広く分布。幼鳥は体に斑点があり、星五位(ほしごい)という。(広辞苑より)
サギの仲間の中で首が比較的短く、背の緑黒色は「アオサギ」よりの青っぽく見えます。夜行性だけあって目の色は赤く、夜に写真に収めると目が光って写ります。以前知り合いが山の中の取材で宿泊した時に、夜中に「ごぁっ、ごぁっ」と集団の鳴き声を聞いて少し不気味だったと話してくれた事を思い出します。
<落差工の下で> <ダイサギと背中合わせ>
<野草の向こうに後姿> <暗闇に光る目>
カモの一種。小形で、雄は頭が栗色、目から上顎に至る白い縁のついた緑色帯がある。雌は暗褐色。冬日本各地の水辺に見られ、長く日本に留まる。(広辞苑より)
「コガモ」って子供のカモなの?と聞かれる方もおられますが、コガモという種類です。オスの特徴は解説にあるとおり「目から上顎に至る白い縁のついた緑色帯」です。
この姿を見ると「黒覆面の謎の剣士 ゾロ」を連想するのは私だけでしょうか?
<コガモのオス> <メスは特徴が・・・>
<覆面カモ?> <一眠り>
<コガモの群れ>
キツツキの一種。日本のキツツキ類中最小でスズメぐらい。背面と翼は黒地に白色の細かい横斑、下面は汚白色に褐色縦斑がある。雄は後頭の両側に小さな紅色斑がある。(広辞苑より)
「コ」がつくからといっても子供ではありません。その体が種類の中で小型だからです。キツツキの中で最小ですが、木をつつく行為は他と同様です。鴨川沿いの木の幹を移動しながらつついている姿は京都土木事務所の会議室の窓からも度々観察させて頂いています。
<コゲラはどこだ!>
<文字通り 木をつつく> 振りかぶって → くちばしを打ち込む
→ くちばしを抜いて → 振りかぶる の繰り返し
コウノトリ目サギ科の鳥。カラスより少し大きく、全長約60センチメートル。全身純白で、いわゆるシラサギの一つ。足指は黄色で、繁殖期には後頭に長い冠羽、肩から長い蓑毛(みのげ)が伸び、美しい飾り羽がそろう。竹林・松林などに集団で営巣・繁殖。川や湖沼で小魚を捕食する。(広辞苑より)
「コ」の説明は先ほどと同様です。アオサギなどの大型のサギがゆったりと獲物を狙っているのに比べて、コサギは忙しく動き回って小魚が飛び出したところを捕獲する行動が多く見られます。「は、いそがし。は、いそがし」と言っているように見えます。よく歩き回って水面上に黄色い足指を見れば「コサギ」と判断できます。
<黄色い足指を振動させて> <は、いそがし。は、いそがし。>
<時には水際から落ち着いて> <レースをまっとった様な背>
チドリの一種。イカルチドリに似て小形。背は褐色で腹は白い。海岸・河川・湖畔などにすむ。日本には夏鳥として渡来、冬に南に渡る。(広辞苑より)
イカルチドリの紹介の際に広辞苑での単独項目が無かったため、チドリの解説と併せてコチドリのご紹介をさせて頂きました。コチドリは単独で解説がありましたので、その解説のみ紹介させていただきます。詳しくは「あ行」イカルチドリをご参照ください。
<コチドリ>
なんだか広辞苑の編集者の気持ちが少し分かった様な気になりながら、採用用語はどうやって決定するのか?ますます分からなくなって少々混乱気味ながら今回はここまでとしたいと思います。次回「さ行」から再開です。
平成29年2月9日 (京都土木事務所Y)
鴨川真発見記第257号に続き野鳥特集その2をお届けします。前回は五十音順であ行を終えました。今回は「か行」で始まる名前の野鳥ですが、少々多いので「か」で始まるの野鳥に絞っての紹介です。
前回同様「広辞苑」の解説を盛り込んでのご紹介です。思いつきで、広辞苑の引用を始めてみましたが、その内容を読んで書き写す作業が意外と大変です。最後まで行けるのか少々自信が無くなってきましたが、コツコツと頑張ってみたいと思います。
か行のトップは「カイツブリです。
カイツブリ目カイツブリ科の水鳥。大きさはハトぐらい。夏羽は背面暗褐色喉・頸側は栗赤色、腹部は白色。冬羽は色が淡い。趾(あしゆび)の両側に膜がついていて水かきの働きをする。湖沼・河川などに極めて普通。巧みに潜水して小魚を捕食。(広辞苑より)
広辞苑の解説を疑う訳ではありませんが、私の印象では、大きさはハトほども大きく無い様な気がします。しかし広辞苑奥深いですね。「趾(あしゆび)」文章のつながりで意味は解るのですが、その言葉を耳にした記憶がありません。
鳥類に関する文献を見て、「鳥類特有の足のつま先の事」という意味を知りました。鳥類は5本目の指が退化して一般的に4本の指でつま先立ちしているのです。前回ご紹介しました「チドリ」の解説に「うしろゆびを欠く3本ゆび」と書かれていました。
<水面をスイスイ カイツブリ> <沈んだり浮き上がったりの繰り返し>
<一度潜ると何処から出てくるか> <結構群れになっています>
<解説どおり小魚ゲット>
カモに関しましては、前回の「オナガガモ」の時にありましたとおり、カモをまとめて「カモ」として解説がありましたので、私が知る範囲でご紹介したいと思います。
カルガモの特徴はなんといってもクチバシの先の鮮やかな黄色いラインです。カモの種の多くは、オス体が綺麗なデザインでメスの体が地味なデザインです。オスとメスが一緒に居なければパッとみても何のメスか解りません。
それに反して、カルガモはオスもメスも同じデザインです。ですので逆にカルガモのオスなのかメスなのか見分けがつきません。マガモとの交雑が進んでいて「両方のデザインを兼ね備えた」個体をよく見かけます。
本来は、渡り鳥のカモ類ですが、鴨川に留まり益々交雑が進んでいます。交雑を知らなかった頃「ちょっと変わっているな」程度でしたが、知ってしまうと気になりますね。
<くちばしの先が黄色 カルガモ> <どっちが オス・メス>
<つま先に水かき> <仲良くしてると>
<赤ちゃんが生まれました カルガモの親子>
カワアイサも「カモ」の仲間です。名前に「カモ」が入らない鴨の仲間の多くは、水の中に潜って魚やカニ・エビなどを捕まえて食べる肉食系のカモです。多くの鴨の種のオスとメスの見た目の違いは先ほど「カルガモ」の項目で説明しましたが、カワアイサの場合は少し様子が違います。
<どっちがオス カワアイサ> <あっちかな こっちかな>
オスも白と黒でシックな感じですが、メスの方が茶髪で頭の後に「たてがみ」のようなフサフサの羽が生えています。水の中に潜ってもすぐにフサフサが復活します。
<白と黒の オス> <茶髪でシルバーな メス>
ちょうど4年前2013年の2月の出勤時の事でした。何か見たことない野鳥と思って撮影し、いつもの様に野鳥の中村氏に見てもらいました。それは「カワアイサ」鴨川にいるとは珍しいとのお返事に「お宝ひとつゲット」と思ったことを思い出します。
その時はオス1羽のみだったのですが、翌年から毎年見るようになりました。昨シーズンはメスしか見ませんでしたが、今シーズンは共に飛来し、オスが魚を捕食するシーンを見せてくれました。
<魚を頭から> <ゴクリ>
続いては、釣り人には嫌われているカワウです。カワウの項目が有りませんでしたので、「ウ」の項目の解説を参照します。
ペリカン目ウ科の水鳥の総称。頸は細長く全身黒色。海岸・湖沼に群棲し、巧みに潜水して魚を捕食する。世界に約40種が分布し、日本にはウミウ・カワウ・ヒメウなど。鵜飼に用いるのはウミウ。(広辞苑より)
このカワウも潜水して大量の魚を捕まえて食べています。カワウは浅いところでも素早く泳ぎ回るので、魚が驚いて逃げ回ります。その逃げ回る魚を目当てに、ユリカモメ・アオサギ・コサギ・ダイサギがその周りに集まって協働して漁をしている様子をしばしば目にします。
<深い所も一気に潜水 カワウ> <しばし休憩中>
そして、漁が終わると翼を広げて風を当てて乾かします。この様子もよく目する光景です。
<カワウの周りに集う他の野鳥> <翼を広げるその先に錦鯉>
名前に「カラス」が入っていますが、カラスの仲間ではありません。続いてはカワガラスです。
スズメ目カワガラス科の鳥。大きさはツグミぐらい。尾は短く全身黒褐色。山間の渓流にすみ、滝の裏側などに営巣。巧みに水中を潜行して水底の小昆虫を捕食。(広辞苑より)
解説にありますとおり、カワガラスは山間の渓流にすんでいるため、他の野鳥のように頻繁に目にする事ができません。野鳥観察会に行っても一瞬目の前に現れたり、とても遠いところにいたりと手元にまともな写真がありません。
「巧みに水中を潜行」しての解説の意味は、他の潜水する水鳥とは違って泳いでいるというよりは、川底を歩いている感じです。潜るというよりは「沈む」の表現の方がピッタリです。
沈んだカワガラスは、浮上するのではなく、水中からいきなり飛び出てきます。一枚だけその様子を偶然撮影していましたのでご紹介します。
<写真中央上部に黒い点>
<拡大すると カワガラス>
カワセミを見た日は「今日は何か良いこと有るんじゃないかと」密かに心躍ります。
スズメより大形で、尾は短く、くちばしは鋭くて巨大。体の上面は暗緑青色、背・腰は美しい空色で「空飛ぶ宝石」とも称される。水中の小魚なザリガニなどをとる。(広辞苑より)
カワセミを初めて目の前にした時は「これがあのカワセミか」とテンションが上がりました。目の前の空中でホバリングして一点に留まっていると、そこから一気に加速して飛び去りました。カワセミは飛んでいるとき「チチチチチ」というような金属音に似た音を出すのですぐにわかります。行方を追って写真を撮りました。
<着地点しばし留まる カワセミ> <背中もしっかり見せてくれました>
カワセミは、止まった場所から一直線に川に飛び込んで魚を捕まえて、一直線に寸分違わぬ位置に戻ってきます。これを見ると更にテンションが上がります。
<石の上から狙いを定めて> <魚をくわえて元の位置>
<空飛ぶ宝石 カワセミ>
「か」で始まる名前の野鳥の「取り」はカワラヒワです。ちゃんと単独での項目がありました。
スズメ目アトリ科の鳥。小形でスズメぐらい。体は暗褐色で尾と翼に黄色の班が目立つ。河原や村落周辺に多く現れる。(広辞苑より)
解説にあるとおり、スズメくらいの大きさで、群れて移動していますので、何も考えずに眺めていると「スズメ」という認識しかできません。よく見ると黄色い模様が入っていて明らかにスズメと違うのですが・・・。何事にも共通しますが「関心」が無ければ「気付く」事ができませんね。
<写真中央に カワラヒワ>
<菜の花に囲まれて保護色> <菜の花の実を剥いて>
<種をパクリ> <次の実へ移動>
まだまだ、多くの鴨川・高野川に集う野鳥達がいます。今後も順次ご紹介していきます。皆様にも今年の干支「とり」にもっと関心を持って頂きたいと思います。広辞苑の解説の奥深さと共に。
平成29年1月10日 (京都土木事務所Y)
前号・前々号と今シーズン最強寒波に見舞われた鴨川の雪景色の様子をご紹介しました。大量に積もった雪景色はおしろいを塗った様な「厚化粧」でしたが、1月24日の早朝に“はらはら”と舞う少量の雪をまとった鴨川・高野川は「薄化粧」といった感じです。
京都府の北部では、「府北部 再寒波 大雪にうんざり」と新聞の見出しが伝える程に雪が降っているようです。京都府は南北に長く、雪の降り方も北に行くほど強くなります。京都市内も北上するほどに気温が下がっていきます。
南の方から北上して通勤されている方はよくご存知かと思いますが、北大路通りを過ぎるまでは雪が無く、それより北は雪景色という事も少なく無いです。この日もそんな状況でした。松ヶ崎橋から上流を眺めると、薄っすら雪化粧です。1月15日の様子と比べると随分景色が違います。
<松ヶ崎橋上流薄化粧 1月24日> <同左厚化粧 1月15日>
「馬橋」まで南下して比叡山方面を眺めると、山頂付近にはガスが掛かって流れていきます。雲の隙間から朝日がこぼれていますが、寒々しい空模様です。
<馬橋から比叡山を望む> <薄雲の向こうから太陽の光>
いつも高野川へアクセスする右岸スロープ入り口から松ヶ崎人道橋までは、北泉通りに架かる橋の工事中で通行止めになっています。
この橋が左岸にタッチする場所には、並木の若返りで植樹されたサクラの木があります。そのサクラの前には、告知がしてありました。
この桜木は平成29年1月下旬に白川疎水沿いへ引越しします。
橋りょう工事の完了後この場所には幼木(この木と同じ大きさ)を植える予定をしています。
京都市建設局道路建設部道路建設課
ということは、間もなくこの幼木は引越しです。今春この場所で花を咲かせることは無いようです。
地元の方にとって、工事に伴う桜の運命は気になるものです。キチンと告知がされていました。
<桜の木引越しの告知>
松ヶ崎人道橋から高野川に入り、上流に向かって雪景色を撮影していると、若い女性がこちらに向かってジョギングです。イスラム教徒の女性が頭を覆う“ヒジャブ”姿ですので「外国の方」と認識しました。
<松ヶ崎人道橋下流から比叡山を望む> <東の空に青い色が見えてきました>
写真を撮る私の横を通過されましたが、振り返ると再び戻ってきて「スマホで写真を撮って欲しい」と英語で話しかけられました。あまり触ったことも無いスマホで写真を撮って差し上げると、うれしそうな笑顔でお礼の言葉を残してジョギングに戻られました。
「雪景色の高野川で比叡山をバックに記念撮影」京都の思い出がひとつ増えたことでしょう。
<走り去る女性を見送って>
女性を見送って、再び高野川を眺めていると、川の澱みの水面が凍りかけているようです。近づいて見てみるとうっすら凍った水面に薄っすらと雪が乗っていました。石を配置して砂を敷きつめ庭の様にも見えます。
<水面が凍っているような> <凍っているようです>
<凍っています> <石庭のような>
少し川の中を歩いてみようと、そのまま寄州を南下すると、今度は薄く溜まった水が完全に凍っていました。その上を歩くと「パリパリ」と小気味よい音と共に靴底に踏みしめた感覚が広がりました。冷え込んでいました。
<完全に凍っている> <「パリパリ」>
高野橋から上下流を眺める頃には、先程までよりはいくぶん強い太陽の光が届くようになっていました。
<高野橋から上流を望む> <高野橋から下流を望む>
出町まで足を延ばそうかと家を出ましたが、ゆっくり歩きすぎて出勤時間に間に合いそうにありません。北大路通りを西へ鴨川へと向かいました。
北大路橋から上流を眺めると、北の山の一番奥の方にだけ太陽の光が当たり白く積もった雪が照らし出されていました。橋の下では一羽だけユリカモメが浮かんでいます。
<北大路橋から上流を望む> <一羽だけユリカモメ>
北大路橋から右岸を上流へ向かうと、短パン姿でジョギングされている男性の姿がありました。「さむ!」
北の山の奥を照らしていた太陽の光が手前へと移動してきました。太陽が移動したのではなく雲の動きですね。そう雲の動きを感じます。
<太陽の光の当たる場所が移動>
京都土木事務所のある北山大橋の上まで来ると、私の体にも太陽の光が注ぐようになっていました。前号では、刻々と変化する天候を感じましたが、今回は雲の動きが変化させる雪景色を感じることが出来ました。
<北山大橋から上流を望む>
皆様も太陽と雲が短時間で変化を作り出す「景観」を感じてみてはいかがでしょうか。
今回も真っ白な雪景色をご紹介しました。真っ白な野鳥といえば「コザギ」「ダイサギ」など総じて「シラサギ」と呼ばれる野鳥です。
それ以外の真っ白な野鳥を鴨川・高野川では見たことがありませんでしたが、先日見つけてしまいました。
平和の象徴「ハト」です。以前どこかの製薬会社のCMで群れで飛び立つ白いハトを見た記憶が甦ってきますが、目の前でしかも鴨川で見るとは思いませんでした。
様々な色をまとった「ドバト」の群れの中に一羽だけ“白いハト”がいました。ほとんど白くて少し違う色が混ざっているという個体はけっこう見かけますが、真っ白は初めてです。
<右側面> <左側面>
<後姿> <前姿>
<どこから見ても真っ白なハト>
色んな角度から写真を撮って確認しましたが、やっぱり真っ白でした。もしかして「幸運の白いハト?」カワセミを見つけた時の様な「ラッキー感」がありました。
<一番最近(1月22日)勧進橋上流で見たカワセミ ラッキー!)>
平成29年1月24日 (京都土木事務所Y)
今号も前号に引き続き雪景色の鴨川をご紹介します。1月16日(月)は前日撤収を決断した賀茂大橋へ朝一で向かいました。前号同様に一人“つぶやき”を盛り込みながらご紹介したいと思います。「今日は天候どうかな」
※「」内が“つぶやき”
賀茂大橋に到着すると、前日とは打って変わって合流点に日が差して、青空も見えています。早朝のすがすがしい風景が広がっていました。
※「今日は天候安定で良い写真が撮れそうな予感」
<賀茂大橋左岸から上流を望む> <賀茂大橋中央から上流を望む>
<賀茂大橋右岸から高野川を望む> <鴨川側の飛び石>
今朝までに新たに雪が降り、飛び石の上も白くなっています。導線から外れて人が踏んでいないチドリを形どった飛び石には綺麗に雪が残っていて、その形を浮かび上がらせています。
※「なんだかお饅頭みたい。鴨川名物チドリ饅頭」
<チドリの飛び石> <鴨川名物チドリ饅頭?>
葵橋を通り過ぎ、少し進むと視界が大きく開けます。まだまだ残る雪に朝日が眩しく反射します。アオサギも雪に覆われた中洲の隅の方で太陽の光を浴びていました。
※「お日様のおかげでぽかぽかしてきた」
<葵橋上流の視界> <雪に埋まっているわけではありません>
更に少し進むと、加茂街道沿いのニレ科の大樹が途切れる区間です。空を遮る大樹が無く、大きな空が広がっていました。
※「今日は順調に良いお天気」
<広がる青い大空>
この辺りも前日盛んに雪遊びが繰り広げられたのでしょう。広い原っぱに積もった雪には足跡の形跡があります。その後新たに雪が積もり足跡は薄くなっています。振り返ると大文字山の上に日の光が輝いていました。
※「そういえば北風と太陽の話あったよね」
<走り回る子供の声が聞こえてきそう> <暖かな太陽の光>
鴨川好きの絶景スポット「出雲路橋」までやってきました。上空の濃い青から下にいくほど薄くなるグラデーションと山際に残る白い雲、鴨川の両脇に積もった白い雪、そして真ん中を流れる鴨川、良い感じです。
※「鴨川冬の写真コンクール最優秀賞。選者:京都土木事務所Y なんてね」
<出雲路橋から上流を望む 冬景色>
<左へ振っても> <右へ振っても絶景>
いたる所に残る雪だるまにも、新雪がのると元とは違ったものに見えてきます。この雪だるま、あなたには何の形に見えますか?
※「昔のアニメ“タイムボカンシリーズ”の犬型ロボット?」
<雪だるまのへんげ>
昨日の雪の上に今日の雪、近くで見つめてみましたが、さすがに雪の結晶は見る事が出来ませんでした。
※「雪印みたかった」
<ふかふかと乗っかる新雪> <結晶は見えません>
北大路橋から下流を眺めると、中洲の真ん中に池の様に水溜りがあります。そこへ二羽の鴨が飛んできて浮かんでいます。流れのない溜りで一時休息でしょうか。
※「この溜りわざと作ったの?」
<北大路橋から下流を望む> <水溜りに鴨のシルエット>
北大路橋上流を望むと、目立つのは少し溜まりすぎの感がある中洲です。少し浚渫する必要がありそうです。
※「確か近々浚渫するのでは?」
<北大路橋から上流を望む>
北大路橋から上流を眺めていると、京都土木事務所の巡視トラックがやってきました。ベンチに積もった雪を払って回ります。少しでも早くベンチをご利用頂く為の作業です。鴨川管理の知られざる一面をご理解ください。
※「お疲れ様です。ありがとうございます」
<ベンチの雪を払います> <少しでも早くご利用頂く為に>
北大路橋の下に目をやると沢山の種類の野鳥を見る事が出来ました。対岸に設置された看板を見てどれがなんという種類の野鳥か当ててみるのも面白いですね。
<北大路橋下に集う野鳥>
様々な雪だるまに混ざって珍しい形の塊が現れました。雪で作ったイスです。人間がもたれると破壊しそうな背もたれですが、お気に入りのぬいぐるみを座らせてフェイスブックにアップなんて実際にありそうです。
※「座ったら冷たいだろうな」
<雪で作ったイス>
イスのオブジェを撮影していると、「おはようございます」と声が掛かりました。カメラを手にした白衣の女性が鴨川に向かって進み出て、その雪景色を撮影されていました。仕事の前に思わず足が向いたのか近所の病院の女医さんのようです。
※「やっぱり雪景色の鴨川魅力的。人のことは言えないがついつい足が向く」
<上流に向かって> <対岸に向かって>
<たっぷりの雪景色>
「とり年」の野鳥特集その2まで準備していますが、雪景色が間に割って入る事となりました。今後じっくりとご紹介しますが、この日雪の中で見た「キンクロハジロ」と「カイツブリ」をご紹介します。
太陽に光が白い雪に当たり、写真撮影の際の光を当てる「レフ板」の様な役割をしているのでしょうか。鮮やかな写真が撮れました。
<キンクロハジロ 金色の目> <カイツブリ 小魚捕食>
京都土木事務所のある北山大橋まで到着しました。北山大橋から上下流を眺めると下流では空に浮かぶ雲が川面に写っています。上流側を眺めると山際にグレーの雲の層が厚みを増していますが、良いお天気です。
※「せっかくここまで来たんだから柊野砂防堰堤まで足を延ばそう」
<北山大橋から下流を望む> <北山大橋から上流を望む>
北山大橋から上流に向かうと、さすがに園路の雪は解けてきましたが、前に見える「舟形」の山の船の形には真っ白な雪が残っていました。
※「他の送り火の山はどうなっているんだろう」
<山に白い部分が> <舟形の山肌におしろいの様に>
<ここでもユリカモメの群れ>
御薗橋を越えて上流へ向かうと、広い空間で一人雪だるまを転がす人が見えました。一人で作るのは大変だろうと思いながら写真を撮ると、北の雲行きが怪しい感じがしてきました。
※「引き返した方が良いのか、いや、あと少し頑張ろう」
<空模様が怪しい雰囲気>
嫌な予感を打ち消しながら、賀茂川通学橋を過ぎた頃には雪がぱらついてきました。「やはり引き返そうか」とつぶやいたのですが、あと少しです。志久呂橋まで行くと、まともに前が見れない程の吹雪となってしまいました。
※「つらい つらすぎる でもスキー場だと思えば大丈夫」
<志久呂橋に雪が舞う>
「あと少し、あと少し」とつぶやきながら、柊野砂防堰堤へと到着しました。さっきまでの晴天は何だったのかという変化に戸惑いながら、堰堤の風景をカメラに収めて急いで京都土木事務所に引き返しました。
※「なんとか七条から柊野砂防堰堤まで制覇できて良かった 早く帰ろう」
<堰堤のバックは真っ白> <近くの民家もかすんでいます>
<柊野砂防堰堤にも雪だるま> <市街地最上流 残る雪も割増>
吹雪の中を下流へ向かっていると、雪が止み太陽が顔を出しました。振り返ると北の空はまだグレーの雲に覆われています。もう一度引き返そうかとも思いましたが、午後からの約束があるので思い止まりました。「柊野の青空の雪景色欲しかった」
<賀茂川通学橋付近から北を振り返る>
その日の夕刻、前日スズメを見た付近を通りかかると、雪の溶けた園路にスズメとホオジロらしき野鳥が仲良く餌を探していました。綺麗な雪景色、楽しい雪遊びと人間は浮かれていますが、小さな野鳥にとっては死活問題ですね。
※「雪害で困っている人もおられる事を忘れてはいけないですね」
<雪が溶けて餌が探しやすい スズメとホオジロ?>
前回と今回は、鴨川の雪景色をご紹介しました。鴨川に関わって5シーズン目の私ですが、これほどの量の雪を鴨川で目にしたのは初めてです。どの場所でも青空と雪景色を求めて歩きまわりましたが、目まぐるしく変化する天候に思うようにはなりませんでした。
※「“人との出会い”も“美しい景色との出会い”もタイミングですね」
平成29年1月17日 (京都土木事務所Y)
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