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メルマガコラム 資料紹介コーナー [総合資料館]

資料紹介コーナー「戦争体験記」

余話-根こそぎ動員と「116師団」-

平成19年の8月31日まで、資料紹介コーナー「戦争体験記」を閲覧室の一角に設けました。夏休み期間中の開催でもあったので、親子連れの方を含め多くの方に見ていただくことができました。

京都で陸軍というと「16師団」が思い浮かびますが、紹介した資料の一部に「116師団」というよく似た師団名が出てきます。

この「116師団」は、大日本帝国陸軍の師団の一つで、日中戦争勃発後の1938(昭和13)年に留守第16師団の担当で編成された特設師団です。特設師団とは、常設師団の戦時動員が終了したあとその地区の予備役と後備役に召集をかけて編成されたもので、平均年齢は30歳を越えたと言われます。

1937(昭和12)年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まり戦火が拡大すると、中国大陸へ大量の派兵が行われました。現役や予備役の兵士だけでなく、「116師団」のような特設師団の動員で、年齢の高い後備役の兵士が多数動員されることとなったのです。

『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<3>』によると、昭和13年8月現在の中国派遣兵士の構成は現役兵(昭和10年~12年徴集)11.3%、予備役兵(昭和5年~9年徴集)22.6%、後備役兵(大正9年~昭和4年徴集)45.2%、補充役兵(大正14年~昭和12年徴集)20.9%という実態を示しています。

資料紹介コーナーに展示されていた「軍隊手牒」の持ち主のF氏は、私の祖父に当たりますが、昭和13年5月15日に編成されたこの「116師団」の砲兵として、なんと38歳の後備役兵として召集されていました。

こうした「根こそぎ」の動員は、日本の労働人口の枯渇を招きました。軍隊に兵士を、軍需産業に労働者を送り出し、農村には食糧増産が要求されるという、総力戦としての国民動員が行われたのが、先の戦争だったわけです。

総合資料館メールマガジン 第26号(2007年9月26日) 掲載

資料紹介コーナー「国勢調査の歴史~国を挙げての大事業~」から

第1回の国勢調査について

第1回の国勢調査は国を挙げての大変な意気込みでポスターや宣伝はがきが作られ、旗行列や花電車をくり出すなどの広報活動も盛んに行われました。

この時の調査方法は現在とは違い、10月1日午前0時現在の「居場所」で調査票に記入することになっていました。そのため、旅館などでは宿泊客全員がその旅館で申告することになりました。

ところで、第1回国勢調査の調査地域に戦前日本の領土であった場所は含まれていたのでしょうか。
当館所蔵の資料によると、「国勢調査に関する法律」で朝鮮・台湾 ・樺太を含む全版図で行うと規定されていました。台湾、樺太では国勢調査として実施されましたが、朝鮮は情勢不安定のため行われず、その替わりに「臨時戸口調査」を実施しました。またほかの地域でも同じ時期に関東庁臨時戸口調査、第1回島勢調査(南洋諸島)、青島守備軍臨時戸口調査、在外本邦人調査が行われています。

これらの調査結果は国勢調査とは別に発行されており、当館では台湾・樺太・関東庁の資料を所蔵しています。今回その一部を展示していますのでぜひご覧下さい。

最後に問題を一つ。航行中の船舶で生まれた人間は、出生地をどう書くのでしょうか?
答えは「水上」で、第1回の国勢調査では1,493人が水上出生者でした。当時交通手段としていかに船舶が多く利用されていたかがわかりますね。

総合資料館メールマガジン 第19号(2007年6月20日)掲載

余話「ありとあらゆる手段で宣伝~第1回国勢調査の宣伝活動~」

平成19年7月10日まで、資料紹介コーナー「国勢調査の歴史~国を挙げての大事業~」を閲覧室の一角に設けました。この国勢調査、最近ではプライバシーの問題やマンションの増加によって回収率が下がっているそうですが、日本最初の国勢調査は大変な意気込みで行われました。

近代国家へ成長したばかりの日本にとって、国勢調査は必要不可欠な条件と考えられたようで、政府だけではなく国民も大変な熱気でこの調査に臨み、特に調査の趣旨や方法の普及宣伝は熱心に行ったようです。以下に詳しく紹介しましょう。

まず国勢調査の実施にあたり、国勢調査局が中心となり宣伝講演会を全国で開催しました。しかしそれだけでは手ぬるいと貴族院議員で統計学社社長でもあった柳沢保恵は、自社の社員をひきいて各府県を巡回し、講演会を開いて国勢調査の趣旨の普及に努めました。

小・中学校においては国勢調査の科目を設け、その意義を教えるとともに、申告書記入方法を練習させました。これら学生生徒を通じて一般家庭に普及させたことは大変効果があったと言われています。

もちろん現在と同じようにポスターも多く作成されました。国はもとより各府県ともデザインを凝らしたポスターを作り、各所に掲示しています。また、イルミネーションなどの装置によって調査時刻や調査事項等を投影し、印象づけることも行なわれました。

宣伝映画や演劇、余興も街角で行われました。この方法は見ているうちに調査事項はもちろん、その目的や方法の概略についてまで理解させることができ、最適の方法だったそうです。

さらに小学生や青年団が手旗を振りながら宣伝の歌を歌っての行進、自動車パレード、花電車の運転、仮装行列なども行なわれています。

このほか、記念絵葉書、記念切手の発行、男女予想人口の懸賞募集、変わったところでは、各世帯に申告すべき住所氏名の標札を整備させた地域もありました。巷では都々逸・八木節等の国勢調査の替え歌が多く創られたようです。

『国勢調査記念録』にはこれらの国勢調査の宣伝について詳細に書かれており、京都での宣伝の様子を撮った写真もあります。期間中には熱心にご覧になっていた方もたくさんおられました。

ちなみに、第1回国勢調査を記念して、熊本県小国町には「国勢橋」という橋があり、近くにある造り酒屋では、清酒「国勢」が販売されているそうです。

総合資料館メールマガジン 第23号(2007年8月15日)掲載

資料紹介コーナー 「嵐電と京都の路面電車~京都の電車1」から

資料紹介

平成19年4月18日~5月18日の資料紹介コーナーでは、嵐電を中心に叡電、京電、市電、京阪京津線と、次世代型路面電車LRTの資料を特集しています。今回は実際には開通することのなかった計画線が描かれている路線図を2点ご紹介します。

1点目は『高雄電気鉄道株式会社 営業概要・起業予算書・建設費用・営業収支予算書・定款』(昭和5年)の付図です。右京区近辺の図で、そこには高雄電気鉄道の高雄から中京区西ノ京に至る本線と渡月橋に至る支線の計画線が描かれています。

もう1点は『鞍馬電鉄沿線名所図絵』(昭和3年)。鳥瞰図で有名な吉田初三郎による路線図で、現在の叡山電鉄鞍馬線に加え、小山-大宮-西賀茂-柊野-二軒茶屋を結ぶ路線と、大宮-上賀茂-深泥ヶ池-松ヶ崎-山端(現在の宝ヶ池駅)を結ぶ2本の計画線が描かれています。

どちらの計画線も実際には開通していないので、今となっては地図のなかに残るのみです。この計画線の沿線にお住まいの方たちの間では今も語り継がれているかもしれませんね。

総合資料館メールマガジン 第16号(2007年5月9日)掲載

余話

平成19年5月17日まで、資料紹介コーナー「嵐電と京都の路面電車~京都の電車1~」を開催しました。図書資料に併せて閲覧室入り口付近でチンチン電車の写真パネル(石井行昌撮影)も展示しましたが、ご覧になった年輩の方には懐かしい街の風景とともに、昔日の記憶が蘇った方もおられたようです。

ある晴れた土曜日のお昼前、閲覧室のカウンターで、入り口の写真パネルをご覧になった老紳士に話しかけられました。
「昔、市電の車体に、「明治五年 梅鉢工場」というプレートが掲げられていた記憶があるのだが、この記憶は正しいのだろうか。」

資料館の近くの老舗ちまき店の紙袋を下げておられるその姿は、いかにも観光客のようですが、実は京都で生まれ育ち、現在は東京にお住いとのことで、懐かしいチンチン電車の写真を見て、思わず話しかけてこられたようでした。

さて、チンチン電車の開業は明治28年…ということから察すると、明治5年というのは、ちょっと早すぎる気がします。また、「梅鉢工場」とは???「梅鉢」とは紋所や、梅鉢紋の形の駄菓子にその名前が使われていますが、地名にでもあるのでしょうか?少なくとも京都の地名では聞いたことがありません。

はてさて、とりあえずネット検索したところ、意外なことに、Web上のフリー百科事典『ウィキペディア』の「帝國車輛工業」という項目にヒットしました。
これによれば「明治23年頃、堺市で冶金業を営んでいた梅鉢安太郎が梅鉢鉄工所を創業し、路面電車、客車の製造を始めた。後に、梅鉢車輛株式会社→帝國車輛株式会社と改称し、梅鉢車輛株式会社となる前には、梅鉢鐵工場、あるいは梅鉢工場とも称した」ということが判明しました。

梅鉢工場は、各地の路面電車を製作し、京都電気鉄道の車両はその製品として著名であり、現在、博物館明治村で動態保存されているチンチン電車も梅鉢製であるとのことで、『さよなら京都市電』(京都市交通局、昭和53年)をみると、京都電気鉄道や京都市電で、多数の梅鉢製車両が使用されていたことがわかりました。

以上の内容をお伝えし、この工場の創業は明治23年頃とのことですので、明治5年というのは、25あるいは35、45年のいずれかの間違いではないかということに落ち着きました。
(後日、梅鉢工場が京電の車両を製造し始めたのは明治39年という記述を発見。〈『堺市史 続編第2巻』堺市役所、昭和46年〉どうやら明治45年が正しいようです。)

皆さんも、明治村へ行かれたら、ぜひチンチン電車に乗り、この「梅鉢工場」のプレートを確認してみて下さい。

総合資料館メールマガジン 第21号(2007年7月18日)掲載

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