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メルマガコラム 写真資料から [総合資料館]

当館では、黒川翠山(すいざん)撮影写真資料、旧一号書庫写真資料など、明治から昭和初期にかけての京都の写真を所蔵しています。その中から、最近新しくわかったことを中心に、随時紹介したいと思います。

祇園祭の山鉾1

明治・大正期を代表する総合雑誌の『太陽』第15巻10号(1909年<明治42>7月発行)に、黒川翠山氏が撮影した「京都祇園会の月鉾」の写真が載っています。

この写真は、当館の黒川翠山写真資料の中に入っているNo.1126と同一です。当館では、これまでこの作品を1910年の撮影としていて、説明に矛盾が生じてきました。

写真を見直しますと、月鉾の後ろに郭巨山(かっきょやま)、放下鉾(ほうかほこ)が見えます。祇園祭は毎年、巡行する山鉾の順番が籤で決められますので、それを調べるとこのような順番になるのは1908年と1909年のどちらかになりした。

関連する写真に見える山鉾の順番を調べますと、1908年の巡行といえます。つまり、黒川翠山が1908年7月に撮影した写真を、翌年の7月に掲載したということになりました。

 総合資料館メールマガジン 第12号(2007年3月14日)掲載

祇園祭の山鉾2

前回にお話した祇園祭月鉾の写真(黒川翠山撮影写真No.1126)は1908年(明治41)のもので、この年の山鉾巡行は、月鉾、保昌山(ほうしょうやま)、郭巨山(かっきょやま)、放下鉾(ほうかほこ)の順番でした。しかし、この写真には月鉾、郭巨山、放下鉾はありますが、保昌山は見えません。

保昌山は東洞院高辻下ルの燈籠町から出る山で、藤原保昌と和泉式部の恋物語を題材に、保昌が紫宸殿の紅梅を手折る人形を飾ります。宵山に縁結びのお守りを授与することでも知られます。

さて、関連する写真を見ると、右側の建物に付く軒先行灯に「加藤吉蔵、電話二千六百五番」という店名と電話番号が記されています。電話番号簿を調べることにより、写真の撮影地点が四条東洞院の西とわかりました。

これより、保昌山の見えない理由について、保昌山は東洞院高辻から北上して、四条東洞院の交差点で合流し、四条通をそのまま東行したためと推測できました。

なお、現在は事前に移動して四条烏丸から合流しています。

総合資料館メールマガジン 第20号(2007年7月4日)掲載

ジャンガラ念仏

当館には、京都出身の矢野豊次郎氏が撮影・収集した矢野家写真資料があります。矢野氏は、民俗学にも興味をもち、「修学院盆踊り(題目踊り)」「西方寺六斎念仏」などの祭礼・民俗等の写真を多く残しています。

その中に、「磐城ジャンガラ念仏」(No.206~210)の写真があります。ジャンガラ念仏は、磐城(福島県)の代表的な伝統芸能で、太鼓や鉦を打ちながら、念仏を唱えて踊ります。しかし、この写真をよく見ると、後ろの建物の柱に「開山袋中上人三百回遠忌大法会」の提灯が懸かっています。

袋中上人は室町時代末から江戸時代初期にかけての浄土宗の学僧で、京都の檀王法林寺(左京区川端通三条上ル)を復興したことでも知られています。提灯の懸かる建物をよく見ると、同寺の本堂と似ていて、関連写真からそのように断定できました。

1938年(昭和13)は袋中の三百回忌に当たり、檀王法林寺ではいろいろな行事が催され、その中に磐城ジャンガラ念仏がありました。袋中は磐城の出身で、その縁で京都まで上演に来られたようです。太鼓の胴覆いの文字などから、飯野村青年団の中山(現いわき市平中山)の人たちによる奉納であることがわかります。矢野氏は、それを写真に収めたということになります。

総合資料館メールマガジン 第24号(2007年8月29日)掲載

時代祭

黒川翠山写真資料には、京の三大祭に数えられる時代祭の写真も100点余りあります(No.1001~1113)。撮影地点は、平安神宮の境内、神宮道、京都御苑内で、これまで撮影年は明らかでありませんでした。

現在の時代祭は、京都御苑を出て、市内の大路を通って、左京区岡崎の平安神宮に達しますが、初めは京都市役所から出発していました。

1931年(昭和6)の市町村合併により大京都市となって時代祭の規模も大きくなり、参加者もそれまでの八講社から十講社へと増えたため、市役所前の広場が手狭となり、翌年から出発地が京都御苑に代わりました。これから、京都御苑内の写真の上限年が押えられます。このとき、行列に加わったのは楠公上洛列と豊公参朝列です。

京都御苑内の写真をよく見ると、背景の異なるものが2種類あります。一つは行列の背後に京都御所の建礼門を望むもので、もう一つは仙洞御所の築地塀を行列の右後ろに見るものです。時代祭が京都御苑から出発するようになった1932年と翌年は富小路御門から、その後は堺町御門から出るようになりました。背景の異なる2種類の写真は、それを反映したものです。

神宮道の行列もそのような観点から見ると、大きく2つに分かれます。それは1928年(昭和3)に完成した平安神宮の大鳥居の有無です。

これらの写真を見ていくと、黒川翠山は一度撮ったテーマの写真も、新しい話題性が生まれると新たに撮りに行っていることがわかります。京都の寺社・祭礼を撮る写真家として、祭りの変化は食指の動くところであったといえます。

総合資料館メールマガジン 第27号(2007年10月10日)掲載

加茂川橋梁を渡る蒸気機関車

公家の出身であった石井(いわい)行昌氏が撮影した写真980点余が、御子孫から総合資料館に寄託されています。その中に、鉄橋を渡る蒸気機関車の写真があります(石井行昌撮影写真資料No.237)。

撮影地点は、背景に東本願寺の御影堂と阿弥陀堂が見えることから、鴨川を渡る東海道本線の加茂川橋梁です。この線路は現在の東海道本線とは異なり、1880年(明治13)に開通した古い路線で、京都駅から稲荷へ南下し、深草から山越えをして、現在の名神高速道路の経路を通っていました。

鉄橋を渡る蒸気機関車は、前面に「46」のプレートを付けていて、旧式の客車20両近くを牽引しています。この機関車は、1881年にイギリスから8両輸入された1800型蒸気機関車で、当初から京都-大津間の急勾配の路線に使用されました。

形態は動輪が3輪のタンク機関車で、1893年から1909年まで「46」番が付けられていました。同形式の「40」番機関車が、鉄道記念物として大阪の交通科学博物館に保存されています。

写真の加茂川橋梁は、円形の石の橋脚の上にI字型の橋桁を渡すガーダー橋です。鴨川に対して斜めに架けられていました。

南側には複線化工事にともなう工事中の橋脚が一列みられます。京都-大津間の複線化は1897年3月に竣工しています。東本願寺の御影堂と阿弥陀堂は、幕末のどんど焼けで焼失した後、1895年に再建されていることから、1895年から1897年の間に撮影された写真と推測できます。

なお、東海道本線の京都-大津間は1921年(大正10)に現在の新線が作られ、加茂川橋梁は奈良線の一部として再利用されました。

総合資料館メールマガジン 第35号(2008年1月30日)掲載

新京極通

新京極通は、京都一の繁華な通りとして、今も多くの観光客を惹きつけています。

黒川翠山撮影写真にも、昭和初期の新京極通の写真があります(No.985)。

通りの両側には土産物や遊技場などの商店が並び、当時としてはまだ珍しい洋装姿の女性の姿も見えています。この写真は、昭和初期の新京極通として、出版物などにもよく利用されています。

撮影場所は、写っている商店などから蛸薬師通を上がった附近だとわかっています。右側の奥に「キネマクラ(ブ)」の表示の見える大きな建物は映画館で、近年まで菊映のあったところです。写真をよく見ると、「(新京極蛸)薬師上ル東」の町名表示板もあります。

撮影年月は、風俗等から昭和初期で、長谷川伸原作「瞼の母」のタイヘイレコードの看板があることから、1931年(昭和6)に千恵蔵プロが制作した同名映画以降のものだと推測されていました。

最近、この写真をよく見ると、「高田浩吉 艶歌流し ポリ□」の看板が目に入りました。

高田浩吉は歌う映画スターとも呼ばれた俳優・歌手で、「艶歌流し」はポリドールレコードから1936年7月に出ています。これにより、この写真が1936年7月頃のものであることがわかりました。通りの両側に、祇園祭の提灯の掛かっていることも頷けます。

総合資料館メールマガジン 第48号(2008年7月30日)掲載

四条通

前回のコラムで、黒川翠山撮影写真の「新京極通」(No.985)は、1936年(昭和11)7月の撮影であると推測しました。

黒川翠山撮影写真には、同じ年に撮影した写真がもう一点あります。それは「四条河原町」(No.984)の写真です。

交差点の南西の建物から北側を望んだ写真で、北西の建物に掛かる「海鳴り街道」という映画の宣伝幕から、映画の上映された1936年7月頃のものと推測されます。

「新京極通」と「四条河原町」の写真が、いずれも同年月の撮影であることは偶然とは思えません。実は、これに関連して気になる写真があります。四条通高倉附近の建物から、四条通の東側を望んだ類似する2枚の写真です(No.982・983)。

東山の麓には1927年(昭和2)に建てられた祇園閣があり、画面の手前には四条柳馬場の角に野村證券のビルが見えます。野村證券の京都支店は1930年過ぎに設立されています。ビルに書かれた会社名の文字は右始まりの横書きで、左始まりの横書きが普及する1940年過ぎ以前の姿と思われます。

四条通を走る市電やバス・タクシーは、「四条河原町」の写真と同じ形です。よくみると、通りの歩道のところには祇園祭の提灯が立っています。

これらのことから、この2枚の写真も「新京極通」「四条河原町」 と同じ1936年7月の撮影ではないかと想像したくなります。このように同時期の同種の写真が複数ある理由は、翠山が雑誌の取材などの目的で撮影したためではないでしょうか。

総合資料館メールマガジン 第50号(2008年8月27日)掲載

北野天満宮前の「大博覧会」駒札

矢野家写真資料には、矢野豊次郎氏が撮影した写真とともに、古写真が含まれています。明治年間前半に遡る京都の写真もあり、貴重な資料といえます。

その中に、北野天満宮の一の鳥居前の写真があります(矢野家写真資料No.27)。鳥居前の広場には人力車が数台停まり、客を待っています。その後ろには、背の高い棒に打ちつけられた駒札が5枚見えます。そのうち3枚には「説教」の文字が書かれていて、寺院や団体の集会を告知しています。

左端の札はそれとは違って、博覧会社の立てた「大博覧会」の駒札です。「来戌三月一日ヨリ六月八日迄百日間 御所内ニ於テ 大博覧会博覧会社」と四行に書かれています。これは、1871(明治4)年に殖産興業の一環として始められた京都博覧会の看板です。駒札に書かれているように、京都御所の一帯を会場にして開催されていました。

「来戌」年は1874年に当たり、この駒札は前年の1873に立てられたと思われます。「説教」看板の一つには、「当二月十六日」の文字も見え、この写真が1874年の1月か2月に写されたものといえます。背景に写る木々も冬枯れの状況を呈していて、それに合って います。

博覧会の駒札の下部には、別の板に「日延なし」の文字も見えます。この写真は、京都博覧会の資料の一つに数え上げることができるだけでなく、当時の催事の告知の仕方を伝える資料ともいえます。

総合資料館メールマガジン 第51号(2008年9月10日)掲載

四条大橋の電飾門

江戸時代末に鴨川に架けられた四条大橋は、1874年(明治7)に木橋から鉄橋に変わり、京都の近代化を象徴する新名所になりました。

この橋の中央に、1903年7月、高さ10メートル余、幅6メートル余の大きな門が作られました。門の上部には、東側に「山紫水明」、西側に「柳緑花紅」の大きな文字が浮き出ていました。

夕刻になると、この門を見るために大勢の人が集まりました。橋の上からだけではなく、河原の中からもこの門を見つめました。実は、この門には840個の電燈が付いていて、日暮れとともに一斉に点灯され、その瞬間にそこにいた人々が驚喜の声を挙げました。

この年の3月、大阪の天王寺を会場に始まった第五回内国勧業博覧会の会場では、イルミネーションが話題になりました。その人気を京都でも再現しようとしたのが、四条大橋の電飾門でした。

石井行昌撮影写真(No.882)をよく見ると、門だけでなく、橋の全体にわたって電灯が吊り下げられています。電飾門の意匠には曲線が多用されていて、19世紀末にヨーロッパから広がったアールヌーボーの影響もみてとれます。石井は、日中にこの門を写しただけでなく、夜の点灯した姿の撮影も試みています(No.883)。

総合資料館メールマガジン 第52号(2008年9月24日)掲載

宇治塔の島

黒川翠山撮影写真の中に、宇治の塔の島に架かる木橋を渡る女性たちの写真があります(No.951)。和服を着た4人の女性は、洋傘を差して等間隔を開けて歩いています。彼女たちは偶然に居合わせたのでなく、宇治橋の写真(No.954)にもよく似た4人の女性が写っていることからも、翠山の撮影のモデルになった人たちです。

塔の島は、橘島と合わせて浮島と呼ばれ、宇治川が天瀬の渓谷から平地に出たところに形成された中島です。塔の島の名前は、島の中に立つ石塔に由来します。石塔は、鎌倉時代中期の弘安9年(1286)に大和の西大寺の叡尊が宇治橋を修造した際に建てたものです。

その後、1756年(宝暦6)の洪水により倒壊し、長らく川砂に埋もれていましたが、1908年(明治41)に中山通幽※ が率いる宗教団体「福田海(ふくでんかい)」の奉仕により再建されました。翠山の写真には、その石塔が写っています。石塔周辺に植栽された松の背丈は低く、再建後あまり年月を経ない時期の撮影といえます。

今年は、石塔が再建されて100年。宇治では、それを記念して「宇治川」をテーマにした展覧会も開かれています。

※中山通幽(文久2年/1862~昭和11年/1936)は現岡山県の出身。人知れず徳を積む陰徳積善を実践し、1908年に大阪で「福田海」を開く。右京区嵯峨にある化野念仏寺の無縁仏なども整理した。

総合資料館メールマガジン 第54号(2008年10月22日)掲載

農作業の写真

黒川翠山写真資料の中には、京都の社寺、町並み、祭礼などの他に、農作業を写したものもあります。千歯扱きによる稲の脱穀(No.1407)、唐箕・万石による籾の選別(No.1408)、土臼による籾摺り(No.1409)、唐竿による大麦の脱穀(No.1410)などです。

これらの写真は、人物のかしこまった姿勢から、模擬をしてもらって撮影したことは一目で分かりますが、よく見ると同一の場所、同一の人物、同一の状況で写しています。脱穀している稲藁を見ると籾の付いていない藁で、大麦に模しているものも稲藁です。撮影にはかなりの演出をともなっていることが分かります。

ここに写っている農具には、千歯扱き(せんばこき)、簁(とおし)、藤箕(ふじみ)、籠、莚(むしろ)、万石(まんごく)、唐箕(とうみ)、土臼(どうす)、唐竿(からさお)、床机が見られ、背景には苗籠、手熊手などもあります。莚には○の中に「山」の字を書く家印が記されています。農具を見る限り、大正年間から普及を始める足踏み脱穀機などの新しい農具は写っていません。

唐箕は畿内中心部に見られる京屋型と呼ばれる型式です。瓦葺の屋根、二階家ということからも、裕福な農家だといえますが、地域は特定できません。しかしながら、黒川翠山撮影写真には京都近郊の農家の竈や台所を撮った写真(No.1412・1413)があり、そこに農作業をする人と同じ女性が写っています。そのことから、京都近郊の農家だといえます。

総合資料館メールマガジン 第56号(2008年11月19日)掲載

万歳(まんざい)

古写真の魅力の一つは、現在では見られなくなった風景や風俗が写っていることにあります。ここで取り上げる門付け芸能の万歳もその一つです。

江戸時代の京都では、お正月に万歳、春駒、大神楽、ちょろけんなどの門付けが、家々を回ってきました。 門付けとは、各家の門口で祝い歌を歌い、簡単な芸能を演じて、その対価を受ける職業で、祓い、寿ぎなどの民俗的な信仰に基づきます。近代になり、俗信が禁じられ、人々の価値観が変わると、これらの芸能も無くなっていきました。

石井行昌撮影写真には、万歳の写真が5枚あります(No.634~638)。 侍烏帽子を被り、橘の紋をつけた素襖を着た太夫と才蔵が、寿ぎの芸能をする姿の写真です。太夫は右手に扇子を持って舞い、才蔵はいろいろな容姿で鼓を打っています。いずれも、石井邸などの民家の前での一齣です。

京都の万歳は、宮中に出入りした千秋万歳の系譜を引く大和万歳が来ていましたが、幕末からは三河万歳も来るようになり、その後は三河万歳に代わったといいます。ただし、写真の万歳の衣裳には、輪の中に橘紋を染め出し、腰辺りに菊紋、桐紋があって、幕末の『守貞漫稿』に記される大和万歳の姿に一致することから、大和の万歳だと思われます。

万歳の写真は、黒川翠山撮影写真の中にもありますが(No.1284~1288)、平安神宮、下鴨神社での万歳だけで、家々を回る姿は写されていません。石井氏(1876~1923)と黒川氏(1882~1944)の視点の違いもあるのでしょうが、万歳という芸能が僅かな年代差で生活の中から衰退していった様が如実に表れていると見ることもできるのではないでしょうか。

総合資料館メールマガジン 第58号(2008年12月17日)掲載

黒川翠山の初期の作品

黒川翠山は、1882年(明治15)に京都の西陣で呉服屋の家に生まれました。本名は種次郎。10代の終わりごろから写真家を志しました。

翠山の写真で現在知られる最古のものは、中村弥左衛門編『京都写真帖第一巻 京都の山水』(便利堂、1903年4月)に載る「八瀬の初冬」と題する作品で、冬枯れの中にたたずむ山里の景を捉えています(※1)。「黒川翠山君撮影」とあり、既に翠山の号を使用しています。

その後、翠山は総合雑誌『太陽』が主宰する懸賞募集写真に応募し、第27回(1905年1月号)に「雨」という作品で三等に当選します(※2)。翌月の第28回には「朝霧(上加茂附近)」で二等に当選し、口絵に掲載されます。以後、同誌の懸賞募集写真当選者の常連となります。

1905年(明治38)に開催された絵葉書奨励展では画家の橋本関雪を押さえて一等賞を受賞、翌1906年に大阪の天王寺で開かれた戦捷記念博覧会には「雨後」を出品し、銀牌を受賞します(※3)。靄(もや)のかかる杉木立の山中で足を止めた人物を入れて風景として捉えた作品で、絵画的な作品として高く評価されたといわれます。

翠山が写真家を志した時代は、それまでの写真館での肖像写真、報道や記録などの実用的な写真から、芸術的な写真が目指され始めた時代です。翠山はそのような中で芸術写真の世界に入っていきました。翠山の初期の作品からは、そのような意欲に満ち溢れた写真家の姿が浮かび上がります。

(※1)中村弥左衛門編『京都写真帖第一巻 京都の山水』は国立国会図書館のホームページから閲覧できます。

(※2)総合雑誌『太陽』は京都府立図書館で閲覧できます。 

(※3)「雨後」は、『日本のピクトリアリズム』(東京都写真美術館、1992年)に掲載されています。(請求記号P /748 /TO46 / )

総合資料館メールマガジン 第61号(2009年1月28日)掲載

足桶と牛のわらじ

前々回にも見たように、古写真の魅力の一つは現在では失われた風景や風俗が写っていることにあります。今回は、人と牛のはきものを取り上げてみてみましょう。

初めは人のはきものから。
矢野家写真資料には、「加茂川丸太町橋」と原板に墨書された写真があります(No.77)。鴨川の河原や護岸、川端通は改修される以前の姿で、おそらく明治年間前半の風景と思われます。

鴨川の水の流れる傍では、野菜を洗う人の姿が見えます。その横には、竹籠のほかに小さな桶状のものが数点見られます。これは「なんば」などと呼ばれるはきもので、形態から足桶と名付けられています。足の入る大きさで、平面が小判型の桶を2個1組として使います。

足桶は民具として近畿地方の民俗資料館で見かけることがあります。江戸時代の『拾遺都名所図会』にも、冬期に川で水菜を洗う場面で描かれています。この例からわかるように、冬期の川での水洗い時に使用されました。履いて歩くというよりも、立ったままで作業をする時のものでした。

次に牛のはきものです。
矢野家写真資料の「大原女」の写真(No.15。黒川翠山撮影)には、大原女が牛を引く姿が写っています。この牛の足元をよくみると、わらじを履いています。牛のわらじも民俗資料館でよく見かけますが、その使用状況を示す写真として貴重です。

総合資料館メールマガジン 第63号(2009年2月25日)掲載

足桶と牛のわらじ 補足

「足桶と牛のわらじ」について書きましたが、牛のわらじは「牛のわらじ」、「牛のぞうり」、「牛のくつ」というところがあります。

履物の形態からいうと「わらじ(草鞋)」と「ぞうり(草履)」は別のもので、鼻緒の有無により区別します。

写真のものは、形態からは草履に近く、足に結びつける点では草鞋に近いともいえます。

総合資料館メールマガジン 第77号(2009年9月9日)掲載

黒川翠山の桜

花に引かれてカメラを向ける写真家はたくさんいます。黒川翠山もその一人で、梅や桜、藤など季節ごとに花の写真を撮っています。その中で最も多く残るのが、桜の写真です。

当館の黒川翠山の写真には、京都の桜の名所である京都御苑、平安神宮、下鴨神社、金閣寺、清水寺、仁和寺、醍醐寺、勝持寺、常照寺(常照皇寺)、円山公園などで写したものが含まれています。

仁和寺の桜は御室桜と呼ばれ、背の低い遅咲きの八重桜として知られます。雑誌『太陽』17-5(1911年)に載る仁和寺の桜の写真(No.453)では、木々の間に洋傘をさす和服の女性が立っています。同じようにモデルを使った写真には、清水寺の桜の作品(No.361)もあります。

翠山の写真には、桜だけを中心にして撮ったものもありますが、桜の花と寺社の建物とを重ね合わせた作品の方が多く、翠山の撮影趣向がうかがえます。常照寺や円山公園では、夜桜の撮影にも挑戦しています。このような古都の春の風景が、雑誌『歴史写真』では毎年春の号に掲載されていました。

なお、翠山の活躍した時期には、現在よく見るソメイヨシノはまだ広く植栽されていず、ヤマザクラ、シダレザクラ(エドビガン)などが一般的でした。

総合資料館メールマガジン 第67号(2009年4月22日)掲載

葵祭

雑誌『太陽』の第16巻6号(1910年5月発行)に、黒川翠山が撮影した「京の葵祭」の写真が載っています。1点は葵橋を渡る牛車で、1点は風流傘の写真です。翌年の第17巻8号にも葵橋を渡る牛車を別の角度から撮った写真が見られます(黒川翠山撮影写真資料No.1200)。

葵祭は京都の下鴨神社、上賀茂神社の祭礼で、古式の装束を身に着けた参加者が京都御所から神社へ行列をし(路頭の儀)、その後に神社で祭典が営まれます(社頭の儀)。毎年、それらの儀式を見るために多くの見学者が訪れます。当館の黒川翠山撮影写真資料には、葵橋で撮った写真が30点ありますが、よく見ると何回分のものが混じっています。葵橋が木橋とコンクリート橋の2種類の写真があり、これまでは橋の架け換えによるものと考えていましたが、実はそれだけではありませんでした。

近世後期に架けられていた葵橋は、1898年(明治31年)に架け替えられます。『太陽』に載っていた写真は、この橋を渡る行列の一齣でした。しかし、この橋は1918年(大正7)9月の台風で一部が陥没し、翌年から葵祭は下流の出町橋を通るようになりました。その経緯について、10月30日の日出新聞には、出町橋と1町(約110メートル)しか離れていないところに府費で別の橋を架けるのはいかがなものか、また葵祭の通行路変更に関して宮内省に伺書を出したが差し支えないという回答を得たという、府議会での議論を載せています。

黒川翠山のコンクリート橋を通る葵祭の写真は、この新葵橋(出町橋)を通る祭の姿でした。その目で写真を見ると、背景に見える建物や木の形が旧葵橋のものとは違っていて、橋の変更が裏付けられます。祭の写真は出し物などが大きく写されていて、ほとんどの写真は撮影時点や場所などが不明ですが、このように細部を見ていくと少しずつ撮影の様子が明らかになってきます。

総合資料館メールマガジン 第69号(2009年5月20日)掲載

田植え

黒川翠山は、京都の名所や祭礼、風俗以外にも、いろいろな風景・情景を撮っています。その一つに田植えの写真があります(No.1414~1417)。撮影場所は下鴨附近で、撮影年月は大正末期とされています。そのうちの2枚(No.1416・1417)は雑誌『歴史写真』の1925年(大正14年)6月号に載ります。

稲作にとって大事な田植え作業は今では機械化されましたが、1970年代まではすべて人の手で植える労働でした。翠山の写真には、田植えのできる圃場を作る代掻(しろかき)の仕事、苗を運ぶ仕事、田植えをする仕事が写し込まれています。

代掻は、犁(からすき)ですいた田に水を張り、さらに犁や鍬で細かくすいて、最後に馬鍬(まぐわ)で仕上げます。犁や馬鍬は牛馬に牽かせますが、翠山の写真では馬鍬を馬で牽くところが写っています。苗運びは、竹製の苗籠に苗を入れて天秤棒の前後に吊り下げて運びます。田植えは、苗束を左手に持ち、右手で数本を取って圃場に差します。田植え縄で区画されたところを植えながら後ろに進んでいます。

この写真は昔よく見られた田植えの一般的な光景ですが、現在の視点から見ると成苗を植えること、圃場に土の塊りの見えること、土を塗った畔作り、菅笠・手甲等の仕事着、男女による性別分業など、興味深いことがいろいろと読み取れます。そして、水田はダムであるという至言を実感できる写真ともいえます。

総合資料館メールマガジン 第71号(2009年6月17日)掲載

集書院

明治5年(1872年)、京都府によって三条東洞院に設置された図書館は「集書院」と呼ばれ、京都の近代化を象徴するものとしてよく知られています。集書院は明治6年から同9年まで、村上勘兵衛・大黒屋太郎右衛門らが設置した集書会社により運営されました。その歴史や意義については、多くの研究により明らかにされています(※)。

集書院の写真は、当館の旧一号書庫写真のNo.1として、大判(縦45センチメートル、横55センチメートル)の鶏卵紙に焼き付けられたものが残っています。同じ写真は大正4年(1915)に編まれた『京都府誌』にも載せられています。写真には石柱による柵の外側に屋根付きの看板が見え、そこに「集書会社」の貼紙があることから、その間に写されたものであることがわかります。

看板をさらに詳しく見ると、「京都新報 第百十二号、第百十三号」「太政官日誌 第百五十四号、第百五十五号」などの文字があります。太政官日誌は毎年1号から数え始め、第155号まで出されたのは明治6年と7年です。京都新報は明治7年5月頃に廃刊になっています。これらのことからこの写真は明治6年の撮影で、太政官日誌第155号の内容から明治6年12月頃に写されたものであることがわかります。

看板には、新聞雑志、単語注解、制度沿革便覧、製茶新説、皇朝単語字類、修身初級などの図書名も見え、これらが集書院に架蔵されていたことがわかります。写真の裏面には、「大正十四年五月十八日 皇太子殿下当庁行啓ノ際台覧二供ス」の貼紙があります。この年5月15日から、皇太子(後の昭和天皇)は関西に行啓し、18日に府庁で府内の宝物等を拝観しました。その中に、この写真が含まれていたことになります。

※竹林熊彦『日本近世文庫史』(1943年)。竹林忠男「集書院についての史的考察」(『資料館紀要』第2号、1973年)。文献課(文責:辻本定代)「明治初期の蔵書(三)- 集書院の蔵書-」(『資料館紀要』第12号、1984年)。多田建次著『京都集書院』(玉川大学出版部、1998年)など。

総合資料館メールマガジン 第73号(2009年7月15日)掲載

巨椋池のデンチ漁

「巨椋池のデンチ漁」と題する写真が、黒川翠山撮影写真資料(1425番)にあります。池の岸に近いところに木造の小船があり、先端には大きな円錐形の網を持つ漁師がいて、船尾には長い棹を手にする人がいます。大きな円錐形の網はデンチ網と呼ばれ、デンチ漁はこの網を魚のいるところに突き立てて魚を捕る方法で、巨椋池で見られた特徴のある漁法の一つでした。

巨椋池は淀川の中流域に発達した湖沼で、1940年代に干拓され、今はその姿を見ることができません。この写真に類似するものが、雑誌の『歴史写真』145号(1925年)に「山城巨椋池の網打」(黒川翠山撮影)という題名で載っています。こちらは和船から投網を打つ漁師の写真ですが、よく見ると「巨椋池のデンチ漁」の写真と船や人の配置はほぼ同じで、網類だけを代えて同じ時に撮影されたものと思われます。

黒川翠山の巨椋池を題材とする作品は他にもあります。『太陽』の第12巻1号(1906年発行)に載る「巨椋の夕照」は、同誌の第39回懸賞写真の第二等に当選した作品です。この写真は手前に漁をする和船を小さくシルエットに配し、雲と山と池の葦の描線で遠近感を出すことにより、巨椋池の夕焼けを絵のように表現しています。よく見ると、この漁の姿もデンチ漁でした。

総合資料館メールマガジン 第75号(2009年8月12日)掲載

祇園石段下

四条通を東に向って進むと八坂神社の西楼門の下に辿り着きます。室町時代に建てられた瓦葺の楼門とそこに至る幅広の石階段のある附近は、現在では「祇園石段下」または「石段下」と呼ばれ、京都を象徴する景観標識として写真や映像によく出てきます。

この場所を撮った写真が、矢野家写真資料に2点(No.20、21)と黒川翠山写真資料に1点(No.818)あります。矢野家No.20は、3間1戸の楼門の下に、1間幅の15段の石階が着くもので、江戸時代からの景観を引継ぐものです。撮影年は、看板類などから円山の吉水温泉が作られた明治6年頃のものではないかと推測されます。

矢野家No.21は、楼門側から四条通を望んだものです。四条通には瓦葺2階建ての町家が並び、通りでは人力車を曳く人、物売りの人、往来の人で賑わっています。類似の景観を撮った写真は、『京都百年パノラマ館』(淡交社、1992年)、『幕末・維新 彩色の京都』(京都新聞出版センター、2004年)にも載っていて、明治20年前後のものとされています。写真の片隅に写る石造狛犬が1882年(明治15年)の建立であることからも、その頃のものとしてよいと思われます。

黒川翠山No.818は、現在見る景観になっています。楼門の横には両翼廊の建物があり、石階は楼門の3間1戸の幅より広くなり、そこに銅造獅子・狛犬が置かれ、官幣大社八坂神社の社号標が建てられています。八坂神社が官幣大社になったのが1915年(大正4年)、社号標が翌1916年(大正5年)の建立、楼門の両翼廊が建てられて獅子・狛犬が置かれたのが1926年(大正15年)頃、絵馬堂の移転が昭和初期であることから、それ以後の写真といえます。

このように祇園石段下の風景は、近代の2回にわたる大きな改修を受けて今日に見る景観になっていて、写真でそれを跡付けることができます。

総合資料館メールマガジン 第77号(2009年9月9日)掲載

黒川翠山の1905年の撮影旅行

1905年(明治38年)までの黒川翠山の写真は京都をフィールドにしたものでしたが、1906年には『太陽』に「寄する浪(常陸大津港海岸)」、「帆をあげて(松島)」、「写真例題集』に「華厳瀑布(下野日光)」、「帆をあげて(陸前松島)」などを投稿し、全国的な名所を撮る写真家として活躍の場を広げています。この過程について、最近、いくつかのことがわかってきました。

前年の1905年10月、黒川翠山は松島、塩原、日光、富士山南麓などに撮影旅行をしています。翠山の残したガラス乾板には、撮影場所・年月日などの文字を書き込んだものがあり、それにより3・4日に松島、10日に塩原、17日に日光、23・24日に富士山南麓で撮影していたことがわかります。おそらく、先の雑誌掲載写真はこの時の成果を発表したものです。

富士山を写した写真の一つに「柏原ノ冨士」と書き込まれたものがあります。この写真は、京都の写真家である今尾掬翠が撮影した『富士百景』(実業之日本社、1912年)に掲載される写真と同じで、今尾掬翠と黒川翠山が何らかの関係をもっていたと思われます。例えば、黒川翠山は今尾掬翠とともに旅行し、富士山を撮影したのでしょうか。

1907年・1908年ごろの『太陽』『写真例題集』などには翠山が撮影した塩竃(宮城県)、松川、須賀川(福島県)、磯原(茨城県)、西浦(神奈川県)などの写真も載ります。現在とは違って撮影旅行のたいへんだった時代に、毎年のように北関東・南東北へ行ったのでしょうか。その辺の事情はよくわかりませんが、後年の雑誌『歴史写真』にも、その頃の写真を掲載しています。

総合資料館メールマガジン 第79号(2009年10月7日)掲載

建設中の内国勧業博覧会会場

1877年(明治10年)に東京の上野で始まった内国勧業博覧会は、第4回目が1895年(明治28年)4月から7月にかけて京都で開かれました。会場は、鴨川の東部の岡崎が選ばれ、陳列会場の建物が幾棟も建てられました。当時の岡崎は畑地の広がる農村で、琵琶湖疏水の建設直後でもあり、村の景観は大きく変わりました。

この年、京都では延暦13年(794年)の平安京遷都から1100年を迎えるということで、いろいろな事業が企画され、博覧会はその目玉事業の一つでした。会場の一画には平安京を開いた桓武天皇を祀る平安神宮が創建され、秋には記念祭、市民の有志が企画した時代祭風俗行列も行われました。博覧会の会期中には日本が日清戦争に勝利したこともあり、大いに盛り上がったと伝えられます。

石井行昌氏の写した博覧会の建設中の写真(石井行昌撮影写真資料No.886)には、会場の敷地を囲う柵が延び、建設途中の建物には足場が架かっています。作業小屋も立ち並び、石材などの資材も見えます。その中に、完成の間近い応天門、大極殿、美術館の建物が姿を現しています。応天門と大極殿は式典会場として使われ、その後に平安神宮の拝殿等となって現在に残ります。

会場の敷地の手前には1890年(明治23年)に完成した琵琶湖疏水が写っています。北流してきた疏水が西に曲がる地点で、今日の岡崎西天王町の南西隅にあたります。第四回内国勧業博覧会の準備時の写真は他所にもあまり残らず、その点でも石井行昌氏の撮影した写真は貴重です。

総合資料館メールマガジン 第81号(2009年11月4日)掲載

大典記念京都植物園

 京都府立植物園は1924年(大正13年)に開園し(当初の名称は大典記念京都植物園)、今年で開園85周年を迎えました。総面積は24万平方メートル、1万2千種類・約12万本の植物が育てられています。

 黒川翠山撮影写真資料の中にも京都植物園を写したものがあります(No.999)。園内から東を向いて撮った写真で、背景に比叡山が見えます。手前には沈床花壇が、その奥には観覧温室があり、その境目にはツツジの植え込みが写っています。
 黒川翠山撮影写真資料 京都府立植物園 999

 観覧温室は1923年(大正12年)12月に完成したもので、内部は7室からなり、外側には機関室がありました。1号室はベゴニア、ポインセチア、シクラメンなど、2号室は菌類、羊歯類、食虫植物、3号室はバナナ、パインアップル、ヤシ、4号室は観葉植物、蔓性植物などを見ることができました。5~7号室は作業用の部屋として使われていました。

 温室は、冬期の11月から3月下旬にかけては室温を保つために蒸気暖房が入りました。写真に写っている大きな煙突が暖房のための機関室の煙突です。写真をよく見ると、その向こうにも煙突が見えます。植物園の東側には京都府立京都農林学校があり、1931年(昭和6年)11月に温室等が新築落成していて、その煙突と思われます。

総合資料館メールマガジン 第83号(2009年12月2日)掲載

社頭松・丹頂鶴

 雑誌や新聞の正月特集には、お正月に相応しい写真・記事がつきものです。黒川翠山が正月向けに選んだ写真は、社頭や丹頂鶴を写したものでした。

 神社神道を重んじた日本の近代では、神社の風景は正月に相応しい状景でした。そのため社頭の写真は、雑誌の正月号に歓迎されました。黒川翠山の写真では、下鴨神社、上賀茂神社、北野神社などの社頭杉・社頭松などの風景(No.651など)が、『太陽』『主婦の友』『新小説』などに掲載されました。著名な神社に初詣に行く風習も近代になって広がったものですが、黒川翠山の写真にはそのような神社の風景はなく、荘厳な場所を感じさせる対象として撮影しています。

 正月に相応しい吉祥の動物に、ツル(鶴)がいます。なかでも頭の赤いタンチョウヅル(丹頂鶴)は、その美しさからも人気があります。天然のタンチョウヅルは釧路湿原にしか居ませんが、飼育されているツルは動物園など各所にいます。なかでも岡山の後楽園のツルは、江戸時代から飼われていて有名です。黒川翠山撮影写真資料にも、後楽園を舞うタンチョウヅルの写真が残されています(No.1871など)。『歴史写真』には「双鶴欣鳴」と題して、二羽の鶴が舞う姿を載せています。

 この他に、黒川翠山が正月号に使った写真は、万歳、富士山などを題材にしたものです。

総合資料館メールマガジン 第85号(2009年12月30日)掲載

坂本龍馬像

 今年のNHKの大河ドラマは「龍馬伝」ということで、坂本龍馬所縁の地は観光客で賑わっています。京都でも、伏見の寺田屋、木屋町の酢屋、霊山の坂本龍馬墓など、関係史跡がたくさんあります。

 東山区の円山公園には坂本龍馬・中岡慎太郎像があり、黒川翠山写真にもその写真があります(No.1444)。同像は初め1934年(昭和9年)に建てられました。龍馬像として著名な桂浜(高知県)の銅像が建てられた6年後です。戦争末期の金属供出により撤去されましたが、1962年(昭和37年)に京都高知県人会により再建されたのが現在のものです。

 戦前の像と戦後の像、立ち姿の坂本龍馬に座する中岡慎太郎と、見た目に大差はありませんが、よく見ると容貌、刀の持ち方、手の置き位置、羽織の長さ、台座など、いろいろと違いのあることに気付きます。その点から、黒川翠山写真は昔の像の姿を伝えるものとして貴重です。

 古い像は、桂浜の像と同じく本山白雲の手になる作品でした。新しい像は、菊地一雄が原型を作りました。ともに著名な彫刻家です。本山白雲は龍馬の肖像写真をもとに製作したといわれ、菊池一雄は戦前の銅像の写真と龍馬を描いた絵などを参考にしたともいわれます。

 坂本龍馬と中岡慎太郎は、ともに土佐出身の幕末の志士です。二人は、慶応3年(1867年)11月、京都の近江屋で襲撃され、命を落としました。そのような関係から、坂本龍馬・中岡慎太郎像が京都に作られているとのことです。

(参考文献)
木村幸比古『龍馬暗殺の真犯人は誰か』(新人物往来社、1995年)

総合資料館メールマガジン 第87号(2010年1月27日)掲載

橋本関雪・上村松園・今尾津屋子

 黒川翠山は京都の風景だけでなく、京都の著名な画家やその絵も被写体にしています。

 橋本関雪(1883年~1945年)は、近代の京都を代表する画家の一人です。銀閣寺の近くに白沙山荘を建て、そこで作品を制作しました。黒川翠山撮影写真資料には、1936年(昭和11年)の改組第1回帝展に出品された「唐犬図」(現在、大阪市立美術館所蔵)の前での関雪が写ります(No.1428~1434)。絵の右端には「二月上浣」「於東山草堂」という書き込みが既にあります。現在の作品は2曲1隻の屏風仕立てですので、まだ表具以前の状態といえます。

 「上村松園と浜岡夫人」と名付けられた、二人の女性画家を撮った写真もあります(No.1435~1436)。一人は近代日本を代表する女性画家上村松園(1875年~1949年)で、浜岡夫人の作品を横から見つめる姿として写っています。浜岡夫人については、今のところ不詳です。

 日本画家の今尾津屋子の画稿(下絵)も写真に撮っています(No.1249、No.1366)。津屋子は、日本画家今尾景年の甥(今尾掬翠)の娘です。No.1366の作品は1933年の第14回帝展に出品された「お化粧」の下絵で、鏡台の前に座って化粧に余念のない二人の女性を描く絵です。No.1249の作品は翌年の第15回帝展に出品された「少憩」の下絵で、和服姿の二人の女性がしばしほっとしている情景です。

 津屋子の父今尾掬翠(1872年~1914年)は写真家で、掬翠の写真集『富士百景』(実業之日本社、1912年)には黒川翠山の写真も使われています。このような縁もあり、津屋子の画稿の写真を撮ることになったのかもしれません。

総合資料館メールマガジン 第89号(2010年2月24日)掲載

矢野豊次郎の土俗写真

 矢野豊次郎氏(1897年生まれ)は、江戸時代に絵図師を務めた矢野家の五代目で、四代目長兵衛は政治家・実業家として知られています。豊次郎氏は青年の頃から写真に興味を持ち、黒川翠山などから写真技術を学ぶ一方で、郷土史家田中緑紅らと親交を深め、民俗学にも関心を広げました。

 田中緑紅との関わりは、1921年(大正10年)頃から始まりました。緑紅は1920年9月から1923年4月にかけて8回にわたり「東海道土俗研究旅行」を同好の士と開催し、自身の主宰する郷土趣味社の雑誌『郷土趣味』などにその成果を発表しました。豊次郎氏は、その第6回に参加しています。1922年の奥羽土俗巡りには撮影担当者として同行しました。

 豊次郎氏が土俗研究旅行で撮影した写真は、郷土趣味社の出した『奇習と土俗』に載ります。1921年8月6日に撮影した「岡崎市徳王稲荷神社七夕額祭の額」(『奇習と土俗』2-2)が最初のものです。やがて自ら京都市内や奈良県、滋賀県、愛知県などに出向いて、祭礼や珍奇な風俗を撮影し、『奇習と土俗』や『郷土趣味』に投稿していきました。

 最初の頃は被写体の珍しさを中心に紹介する写真が多く見られますが、徐々に祭礼や習俗の全体を対象とするようになりました。そして、メルマガ第24号で紹介した磐城のジャンガラ念仏の写真に見るように、踊り前、踊りの途中、全員の踊り、個人の踊り、太鼓の叩き方、鉦の打ち方など、各部分がわかるような記録性のある写真に代わっていきました。

(参考)
黒岩康博「田中緑紅の土俗学」(『近代京都研究』、思文閣出版、2008年)

総合資料館メールマガジン 第91号(2010年3月24日)掲載

木戸孝允邸

 黒川翠山が顧問となっていた雑誌『歴史写真』(歴史写真会発行)第260号(1935年1月号)には、「節婦烈女の口絵に因みて 木戸孝允臨終の室」として木戸邸の写真が載ります。撮影は黒川翠山で、当館の黒川翠山撮影写真資料No.1941の写真です。

 長州藩出身の木戸孝允(1833年(天保4年)~1877年(明治10年))は、尊王攘夷・討幕の主導的な役割を果たし、維新後は政府の中枢にあって活躍した政治家です。木戸の京都の邸宅は、現在の中京区土手町通竹屋町上ルにありました。夫人は、三本木の歌妓であった幾松(木戸松子)として知られています。

 1877年1月から、明治天皇は京都・奈良に行幸していました。5月19日、天皇は三条実美らを従えて騎馬にて木戸邸を訪れ、病室に臨んで「今親しく病痾の軽からずを見、朕深くこれを憂う。よく保護を加えよ」と言葉を掛け、花瓶と盆栽を賜わりました(『明治天皇記』)。木戸は、この家で5月26日に亡くなりました。

 1930年代、明治天皇が立ち寄ったところが全国的に史跡に指定されました。この家も1933年11月に「明治天皇行幸所木戸邸」として選ばれました(1948年指定解除)。『歴史写真』への掲載は、これを受けてのものと思われます。その後、木戸邸は京都市に寄贈され、現在も財団法人京都市職員厚生会の運営する職員会館かもがわの敷地にその一部が残ります。

総合資料館メールマガジン 第93号(2009年4月21日)掲載

京都府庁警鐘楼

 総合資料館の写真資料の内に、京都府庁旧館創建時等写真資料があります。これは1904年(明治37)に竣工した京都府庁旧館(重要文化財)建設時の記録写真等を含む111点の写真です。この中には、旧館以前の京都府庁舎等の写真も含まれています。

 その旧館以前の写真の中に「京都府庁警鐘楼」と題された建物があります(No.18)。警鐘というのは緊急の際に突く鐘のことで、その建物のことを警鐘楼と呼びます。写真を見ると、石垣を積んで土を盛った高台に、切妻造の柱だけの建物があり、中央に梵鐘が吊り下げられています。

 京都府庁が現在地に移ったのは1885年(明治18)ですが、それまで府庁は二条城内にありました。その時、府庁(二条城)の東北の隅に望火楼と警鐘楼が建っていました。この二つの建物は、もともとは京都所司代下屋敷(二条城の北西に隣接)に建てられていたもので、所司代から府への業務の移譲によりに府庁に移されたものです。

 その後、京都府庁が二条城から現在地に移るに際して、警鐘楼のみ移築されたものと思われます。その写真が京都府庁警鐘楼です。さらにその後、警鐘を打ち鳴らす業務が府から市に移行されるにともなって建物も府庁から市役所に移され、昭和初年の市役所の建設によりその使命を終えたとされます。現在、二条城の二の丸御殿の前に2口の梵鐘がありますが、おそらくそれが関係の品ではないでしょうか。

参考:「二條離宮と火見櫓」(田中緑紅『京の面影』、郷土趣味社、1931年)

総合資料館メールマガジン 第95号(2010年5月19日)掲載

古代印:四天王寺印

 矢野家写真資料には、古代の印章等の写真が10点含まれています。「四天王寺印」(No.248~250)、「華厳供印・尊勝院印」(No.251~252)、「東大寺印」(No.256)、「西大寺印」(No.257)などです。

 東大寺印・西大寺印は大和国の東大寺・西大寺の印章で、華厳供印・尊勝院印も東大寺に伝わる古代印として著名なものです。四天王寺印は律令国家が日本海側の北方防備の拠点とした秋田城(出羽柵)にあった寺院(四天王寺)で使用された印です。

 矢野氏の「四天王寺印」の写真には、印面、印の形態、印の入っている厨子と附属の古文書が写っています。この印は、江戸時代の前期に秋田から京都の聖護院末の積善院に移されたと伝えられ、秋田祭と呼ばれる印輪祭が行われていました。矢野氏の写真に見られる古文書はそれを伝えるものです。

 現物の四天王寺印は青銅の鋳造品で、方形の印面は各5.6センチメートル、鈕の形は弧鈕で、鈕を含めた高さは6.3センチメートルです。印文は「四王寺印」の四文字を2字ずつ縦2行で書きます。「四」の字と「天」の字が合字となっていて、四天王寺印の意を表します。平安時代前期の9世紀ごろの製作で、昭和年間後半に国の所有となり、現在は京都国立博物館の所蔵になっていて、「四王寺印」の名称で重要文化財に指定されています。

総合資料館メールマガジン 第97号(2010年6月16日)掲載

宇治川の帆船

 黒川翠山撮影写真資料の中で「瀬田川の帆船」としていた写真(No.1593)は、他の写真と比較した結果、宇治川の帆船であることがわかりました。この写真には、山に挟まれた広い川面を帆掛け船が風を受けて疾走する情景が写されています。

 写真には、手前の岸に松の木が写り、対岸には旅館のような建物が見えます。撮影地点は、宇治川が山中から平野に出てくる地点で、亀石の瀬の少し上流に当ります。旅館は明治年間から操業する亀石楼です。この位置関係から、船は上流に向っていることがわかりますが、この先は急流になり、ここからはあまり遡上できませんでした。

 写真の船には、艪を操る船頭の他に、外套を着た乗客が一人乗っていて、観光用の船だと思われます。写真をよく見ると、奥の方にもう一~二艘の帆船も見え、荷船から遊船に代わる時代の光景を写してといると言えます。遠くには宇治橋も見えています。

 宇治川を含む淀川水系の川船は、都に繋がる交通路として古来より盛んに運行されていました。近代になっても、20世紀の10年代に京都・大阪間等を結ぶ電車が運行されるまでは、旅客・貨物運輸の主役でした。その後も一部の貨物輸送で川船が使われていましたが、20年代にトラック輸送が始まることにより最終的になくなります。その過渡期に、観光用の遊船があったようで、写真もその頃のものです。

総合資料館メールマガジン 第99号(2010年7月14日)掲載

左大文字送り火

 京都では盂蘭盆会に、各家で祖霊(精霊)を迎えてお祀りし、火を焚いて霊を送り返す風習があります。京都の郊外にあたる旧浄土寺村、旧松ヶ崎村、旧西賀茂村、旧大北山村、旧上嵯峨村では、村として祖霊送りをします。それが大文字五山の送り火で、京都の晩夏(初秋)を代表する年中行事として知られています。

 黒川翠山撮影写真資料の中に、左大文字送り火を撮ったものが2点あります。1点(No.1227)はまだほのかに山の輪郭が見える明るさの中で送り火が燃える様子で、1点(No.1228)は周囲が暗くなってからの写真です。撮影年は不詳ですが、黒川翠山が左大文字に隣接する金閣寺の撮影をしていた1930年代頃のものと想像されます。

 左大文字は、衣笠山の近くの旧大北山村で灯される火で、「大」の字の第一画は48メートル、第二画は68メートル、第三画は59メートルで、如意ヶ岳の「大」文字と較べると、かなり小さいといえます。現在、火床の数は53床ですが、1960年(昭和35)までは現在よりも10床少なかったそうです。写真から見ると、「大」字の第一画が2床、第二画が5床、第三画が3床、増えていることがわかります。

 左大文字の歴史は古く、正保2年(1644)の大北山村絵図の写(『寛永文化のネットワーク』所収)に見られることから、他の五山送り火と同じく江戸時代初期に成立したものと推測されます。現在、左大文字の点火の時間は午後8時15分ですが、大文字よりも早く午後8時前に点火されていた時期もありました。また、現在のコンクリート火床になる以前は、篝火により灯されていました。

参考文献:『京都大文字五山送り火』(京都市観光協会)

総合資料館メールマガジン 第101号(2010年8月11日)掲載

神武天皇陵

 矢野家写真資料No.83は、小高いところから平野部に広がる農地を撮った写真です。近景に低木と集落を置き、遠景に山を配する構図をとっています。田の畔に稲藁が積まれたものが多数見えることから、季節は晩秋から冬にかけての頃といえます。資料受け入れの整理の段階では「遠景」という仮題が付けられ、撮影場所等については不詳でした。

 この写真をよく見ると、平野部の山の形に特徴があり、大和三山の一つの耳成山のように感じられました。それにより位置関係を押さえると、近景の低木は畝傍山でした。農地をよくみると、画面の中央に樹木の生えた一画があり、そこには鳥居などがあって御陵と判断され、奈良県橿原市にある「神武天皇陵」であることがわかりました。

 神武天皇は、現在の皇統譜では初代天皇とされ、日向国から東征して大和に来て橿原で即位したという伝承をもちます。その御陵については江戸時代以来いろいろな考証が行なわれましたが、1863年(文久3年)に現在地に決定し、修築工事が行なわれました。それが現在の神武天皇陵の土台をなすものです。

 神武天皇陵は近代以降も数回の修築が繰り返されていて、現在のように南側に参道がついたのは1940年(昭和15)からのことです。それより以前の1880年(明治13)に御陵の周囲に石柵が作られ、1898年には陵墓の本体に盛り土が加えられています。矢野家写真資料をよく見ると、参道は東側で、陵墓の盛り土もはっきりせず、石柵もまだ作られていないようです。神武陵を写したものとしては初期のもので、貴重な古写真といえます。

総合資料館メールマガジン 第103号(2010年9月8日)掲載

稲扱き(いねこき)

 秋は農作物の収穫の時期です。初夏に水田に植えられた早苗は、すっかり稔って頭を垂れています。現代では自脱型コンバイン(刈取機と脱穀機を組み合わせた機械)でまたたく間に収穫されますが、1960年代までは一株ずつ手刈りされ、乾燥させた後に手間隙かけて脱穀されました。

 稲から籾を落とす脱穀作業には、1960年代には発動機で動く脱穀機が使われましたが、それ以前には足踏み脱穀機が主流でした。足踏み脱穀機は、足踏みの力により回転する胴があり、そこに付けられた針状の突起により脱穀する仕組みで、1910年ごろに発明された機械です。

 それ以前の脱穀道具は、江戸時代前期に発明された(中国から入ってきた)千歯扱きです。台木に打ち付けられた櫛状の鉄歯に、稲束を打ち置いて引き抜くことにより、籾を脱粒させる仕組みでした。千歯扱きは、それ以前の竹箸や棒による脱穀と較べると極めて能率の高い画期的な農具でした。

 石井行昌撮影写真資料No.1には、千歯扱きにより脱穀する女性が写っています。稲架により乾燥させられた稲束を脱穀する様子で、近くには籾と屑藁などを選り分けるトオシもあります。写真の千歯扱きをよく見ると、鉄の歯(穂)の並びが少し湾曲しているようです。もしかすると明治後期に発明された湾曲千歯扱きを使っているのかもしれません。

総合資料館メールマガジン 第105号(2010年10月6日)掲載

耳塚

 1910年(明治43)の日韓併合から100年が経過した今年は、条約の公布施行された8月29日を中心に、いろいろな催しや報道が行なわれました。日韓の歴史は、古代からの長い歩みを記しますが、京都における日韓の歴史を語る場の一つに豊国神社前の耳塚があります。

 耳塚は、豊臣政権の文禄・慶長の役(壬申・丁酉倭乱)に際して、戦場となった朝鮮においての戦果の証として、朝鮮・明人の鼻・耳を持ち帰ったものを、慶長2年(1597)に供養したところです。高さ5間(約9メートル)の塚を築き、高さ3間(約5.4メートル)の五輪塔を据え、周囲に堀を巡らしました。

 矢野家写真資料No.68は、耳塚を東側から見た写真です。五輪塔には発心門の梵字が見えますが、風輪・空輪は少しずれ動いています。その後、豊臣秀吉300年忌に当たる1898年(明治31)に改修・整備され、1915年(大正4)に周囲の石柵が作られました。1969年(昭和44)年には、「方広寺石類および石塔」の一部として国史跡に指定されています。

 写真に見える耳塚の右側の建物は、1869年(明治2)に開設された下京二十九番組の正面小学校です。1878年(明治11)、豊国神社の造営整備計画により西方へ移転し、貞教校へと改名されました。教室の建物の左後ろには、太鼓楼も見えます。このことより、撮影年が1869年から1878年の間に限定されます。

参考:金洪圭編著『秀吉・耳塚・四百年』(雄山閣出版、1998年)、貞教校創立百周年記念事業委員会編『貞教百年』(1969年)

総合資料館メールマガジン 第107号(2010年11月3日)掲載

大石良雄銅像建設予定地

 元禄15年(1702)12月、赤穂浪士による江戸本所の吉良邸討ち入りの事件は、歌舞伎などを通じて、忠臣蔵の物語として広く知られています。京都では、山科区西野山にある岩屋寺が大石良雄の隠棲地で、そこを中心にしてゆかりの地が点在します。

 現在、岩屋寺には大石良雄の念持仏、浅野内匠頭の位牌、四十七士の木像などが祀られています。岩屋寺の北隣には、大石良雄を祭神とする大石神社が鎮座します。神社境内には赤穂浪士所縁の資料等を展示する宝物館もあり、毎年12月14日に義士祭が行われます。

 黒川翠山撮影写真資料No.885には、岩屋寺の境内にある四十七士像を安置する木像堂と、その手前の竹垣の中に立つ「大石良雄銅像建設地」の標柱が写っています。この附近が、隠棲地とされるところです。この写真は『歴史写真』昭和7年2月号に掲載されていて、撮影年もその直前ではないかと思われます。

 1933年(昭和8)、京都府庁内に大石神社建設会が設置されました。山科義士会等が「誠忠義烈を顕揚」するために関係機関に働きかけた結果です。浪曲師の吉田大和之丞なども協力して、1935年12月に神社が創建されました。それが大石神社です。それゆえか、岩屋寺の銅像は建設されなかったようです。

総合資料館メールマガジン 第109号(2010年12月1日)掲載

勅題写真

 歳が改まり何もかもが新しく生まれ変わると考えられる正月には、いろいろな「○○始め」の行事があります。宮中で年頭に和歌を詠ずる儀式は、歌会始めの儀と呼ばれます。歌会始は、事前に御題が決まっていて、一般の国民もそれに因んだ歌を詠じることができます。

 黒川翠山は、歌会の御題に因んだ写真を年始の雑誌等に発表しました。歌に代わって写真で表現し、それを勅題写真と名づけました。そのような写真は、1908年(明治41)1月号の『太陽』の口絵に掲載された、北野神社の松を撮った「社頭松」から知られます。1911年(明治44)の「寒月照梅花」は、吊り燈籠、梅花、満月を組み合わせた絵画的な写真です。

 勅題写真は、その後、黒川が亡くなる年まで続けました。大正初年には『写真界』、大正末年から昭和初年には『婦人画報』、『主婦之友』などの雑誌にも掲載されました。各雑誌とも翠山の写真を普通号に載せることは余り無く、正月の勅題写真は特別扱いにより掲載されたといえます。

 1927年(大正16)の勅題は「海上風静」で、『婦人画報』の同年正月号には三保松原から見る富士山を載せています。しかし、1926年(大正15)12月下旬の大正天皇の崩御により、1927年(昭和2)の宮中歌会始めは中止されました。黒川の没年に当たる1944年(昭和19)の「海上日出」の作品は、当館にある矢野家写真資料No.1の写真です。その図柄は、伊勢の二見が浦の夫婦岩から昇る日の出の情景で、正月を寿ぐに相応しいものでした。

総合資料館メールマガジン 第111号(2010年12月29日)掲載

保津川鉄橋

 幕末からアジア・太平洋戦争期にかけての産業・交通・土木に関する建造物等を近代化遺産と呼び、近年の全国的な調査を受けて、各地で保存・活用が進んでいます。嵐山と亀岡間の保津峡を走る嵯峨野トロッコ列車が保津川を渡る鉄橋もその一つです。この鉄橋は長さ84メートルで、鉄骨を組んだトラス橋で、トラス部分に「昭和二年 鉄道省」の銘板が取り付けられています。

 現在この鉄橋のある嵯峨野観光鉄道の路線は、1991年(平成3)までは西日本旅客鉄道(1987年<昭和62>以前は国鉄)の山陰本線の一部であり、新路線による複線電化により廃線となったところです。歴史を遡ると、この路線は鉄道国有化法により1907年(明治40)に国有化された京都鉄道の一部であり、嵯峨と亀岡間は1899年(明治32)に開通しています。

 ところで、黒川翠山撮影写真資料の中には、保津川の筏流し、遊船の川下りの写真が20数枚あります。その中に保津川橋梁を背景にする写真もあり(No.1316、1317)、この鉄橋附近が保津川の写真の撮影好適地になっていたことがわかります。その橋のトラス部分をよくみると、現在の橋のものとは異なり、1927年(昭和2)以前の写真であるといえます。

 1923年(大正11)4月3日、保津川橋梁で列車が転覆し、30余人の死傷者を出す事故が発生しました。それに伴い鉄橋の架け替えが検討され、再架橋されたのが現在の橋です。古い鉄橋は、1930年(昭和5)に愛知県の名古屋機関区敷地に移され、跨線橋として使われました。現在、名古屋市中村区にある向野橋 (こうやばし)がそれで、アメリカ合衆国の橋梁メーカーであるAアンドP・ロバーツ、ペンコイド鉄工所製の鉄橋として知られています。

参考文献:『京都府の近代化遺産』(京都府教育委員会、2000年)

総合資料館メールマガジン 第113号(2011年1月26日)掲載

婦人画報社の黒川翠山

 1926年(大正15)の『京都電話番号簿』を見ると、黒川翠山の職業は「婦人画報支局長」と載っています。婦人画報は1905年(明治38)に国木田独歩により創刊された、戦前の女性誌を代表する総合雑誌の一つです。画報とあるように、当初は写真の誌面と読み物を売りにしていました。

 その181号(1921/大正10年)の掲載写真「雪の朝」には、「本社京都支部黒川翠山撮影」と書かれています。271号(1928/昭和3年)の写真「山色新」には、「写真部黒川翠山撮影」とあります。このように、この時期、黒川翠山は婦人画報社により生計を立てていました。

 そのような点に注意して「婦人画報」の目次を見て行くと、京都の庭園を取り上げた記事が見つかりました。執筆者は筆名「みをつくし」氏です。その挿図として載る写真のいくつかが当館の黒川翠山撮影写真資料と同じでした。これにより、これまで不明とされていたものの幾つかの撮影地点がわかりました。

 みをつくし氏の書いたものを読むと、「同じくはなるべく有り難い経文の個所をと、レンズを構えながら、Kさんが尋ねていらっしゃる」(『婦人画報』第273号、1928/昭和3年)と、同行者の名前が出てきました。このKさんこそがカメラマンの黒川翠山です。みをつくし氏と翠山たちは2~3人で取材先を廻り、みをつくし氏が文章を、翠山が写真を担当して記事を作り上げていたといえます。

総合資料館メールマガジン 第115号(2011年2月23日)掲載

黒川翠山撮影写真資料の不明分

 古写真にとって、撮影者、撮影年、撮影場所がわかるということは大事なことです。黒川翠山写真の場合、最初の整理時には撮影年、撮影場所の不明なものがかなりありました。その後、撮影場所等がわかってきたものがあります。今回は、その内の神社に関するものを紹介します。

 黒川翠山撮影写真資料No.1891の写真は、大規模な神社の建物が左右に二棟並んで写っています。No.1891からNo.1895までの写真も一連のものと思われます。社殿の形式は、三間社流造り檜皮葺です。京都で同形式の建物といえば、一番に下鴨(賀茂御祖)・上賀茂(賀茂別雷)神社が思い浮かびます。そこで、現在の写真と比較すると、一連の写真は下鴨神社であることがわかりました。

 No.1900の写真は、寄棟造りの上に流造りの建物が乗るような二階建ての社殿をもつ神社です。この形式は浅間造りと呼ばれ、静岡県富士宮市にある浅間神社(現.富士山本宮浅間大社)の本殿に見られます。これより同社の建物であることがわかりましたが、現在のものと比べると大棟に千木・鰹木が見られません。これについて所在地の静岡県立図書館で調べていただいたところ、1925年(大正14)から1952年(昭和27)の間は千木・鰹木がなかったことがわかりました。したがって、その間の撮影だといえます。黒川翠山は、富士山写真家としても知られていて、その関係もあって同社を写したものと推測されます。

 No.1908の写真は、杉の大木と神社の建物が写っています。建物には大きな千鳥破風と唐破風が付いていて、本社ではなく、拝殿だと思われます。社前にある神木のような大きな杉と立派な拝殿から思い浮かぶのは、山そのものを御神体とする奈良県の大神(おおみわ)神社です。現在のものと比較すると、少し異なる部分もありますが、大神神社のようです。

 まだまだ不明なままの資料もあります。お気づきの方があれば、ご教示ください。

総合資料館メールマガジン 第117号(2011年3月23日)掲載

清水寺の子安塔

 京都の代表的な観光地である清水寺の境内には、二つの木造三重塔が建ちます。一つは西門のところにあり、もう一つは本堂の南谷を隔てた丘の上にあります。後者は1911年(明治44)に、西門の外にあったものが移されました。塔内に子安観音と呼ばれる千手観音像を祀ることから、子安塔と呼ばれています。

 この塔は、高さ約15メートルの小振りの塔で、屋根は檜皮葺です。もとは清水寺門前にあった塔頭の泰産寺の塔で、これまでは江戸時代初期の建物と考えられ、重要文化財建造物に指定されていました。昨年、修復にともなう調査が行われ、室町時代後期の明応9年(1500)に建てられたことがわかりました。

 矢野家写真資料No.37の清水寺入口の写真には、この三重塔が写ります。門前の土塀の南側の一画にあり、長押の彩色などがわかります。この写真は、清水寺側に新しく造られた石柵の銘文から、1883年(明治16)8月以降の写真です。矢野家写真資料No.36は同所の改修以前の写真ですが、三重塔は木々に隠れて相輪部分しか見えません。

 この塔については、永正14年(1517)の清水寺縁起絵巻の詞書に「三重の塔婆、俗呼称子安塔」と載ります。室町時代後期の清水寺を描いた清水寺参詣曼荼羅という絵図にもこの塔が描かれていて、既に著名なものでした。建物の移転以前、この塔は清水寺への参詣の目印の役割を果たしていました。

 三重塔の門前から境内南谷への移転は、1900年代に清水寺が上地された官林の復旧を願い出て実現したものです。その申請書の添付図面には、境内の阿弥陀堂・経堂等なども南谷に移し、泰産寺跡には地主神社を移転する計画案が描かれています(京都府行政文書 明37-48「寺院境内外地」)。

総合資料館メールマガジン 第119号(2011年4月20日)掲載

京都の名庭1

 メルマガ113号(写真資料から39)に記したように、黒川翠山は『婦人画報』誌に連載された、みをつくし氏の京都の庭園を取り上げた記事の挿図写真を撮っていました。今回は、その中の写真を紹介します。

 東山清水にある霊鷲山荘は、京都の実業家であった平井仁兵衛の山荘です。平井は西陣織物の卸商を家業とし、京都瓦斯・京都拓殖会社取締、京都商工会議所議員などを務めました。山荘には客室の大きな建物、広い庭園、雲錦居・清涼庵・寒雲亭などの茶席がありました。その故地は戦後に料亭の京都坂口となり、現在は商業施設の青龍苑となっています。みをつくし氏の「山荘巡り」企画はこの霊鷲山荘から始まっています(『婦人画報』260号、1927年4月)。挿入写真は5点で、「霊鷲山荘の客室」「茶室より庭園を望む」「庭園の門より清水寺を遠望す」「茶席雲錦居」「茶席清涼亭」の題名が付いています。このうち当館の黒川翠山写真資料には、客室(No.1951)、雲錦居(No.1953)、清涼亭(No.1472)の写真があります。

 みをつくし氏の「山荘巡り(二)」は、南禅寺の和楽園です。この山荘は、貴族院議員にもなった実業家の稲畑勝太郎によるものです。稲畑は京都府の留学生としてフランスのリヨンで染色等を学び、帰国後に京都の繊維産業で活躍した人物です。シネマトグラフを持ち帰り、新京極等で興行したことでも知られます。みをつくし氏の連載(『婦人画報』261号、1927年5月)では、「臥雲庵より南禅寺山門北白川鹿ケ谷方面を望む」「和楽園客室」「和楽庵桃山時代の鐘楼」「瑞龍の瀑布」「茶席龍吟亭」「隧道内の観音」「神泉亭」「茶席臥雲庵」の8点の挿入写真が載ります。このうち南禅寺山門(No.432)、鐘楼(No.1920)、観音(No.2019)が当館の黒川翠山写真資料に含まれます。本文の記事には黒川翠山がK氏の名前で出てきます。

総合資料館メールマガジン 第121号(2011年5月18日)掲載

京都の名庭2

 前回に引き続き、みをつくし氏が『婦人画報』誌に連載した京都の山荘巡りの挿図写真を紹介します。

 洛西の御室にある滴翠園は、京都綿ネル会社の取締役を務めた内藤小四郎氏の別邸です。道一つ挟んだ北側には、西陣織物問屋で、京お召で名声を得た矢代仁兵衛氏の別荘住吉園がありました。「山荘めぐり(三)」 (『婦人画報』262号、1927年6月)では滴翠園と住吉園が取り上げられ、滴翠園の「玄関」「書斎前の庭」「客室」「庭園」、住吉園の「前庭の広場」「茶席」「書院の前庭」「空泉水と松の庭」の8点の挿入写真が載ります。このうち茶席(No.1947)、松の庭(No.1962)の写真が当館の黒川翠山写真資料に含まれます。本文中にはK氏(黒川)が内藤氏に「お精が出ますなあ、いゝお楽しみで」と声掛けするところがあります。

 「山荘めぐり(四)」(『婦人画報』263号、1927年7月)は南禅寺の碧雲荘、「山荘めぐり(五)」(『婦人画報』264号、1927年8月)は岡崎の居然亭です。前者は大阪の野村家の山荘、後者は京都の中井三郎兵衛氏の別邸です。それぞれ何点かの庭園、茶室の写真が掲載されますが、当館の黒川翠山写真資料には該当物は見当たりません。

 修学院にある雲泉荘は、京都の実業家であった杉浦三郎兵衛氏の山荘です。杉浦氏は丘園の号をもち、郷土史家としても知られた人物です。「山荘めぐり(六)」 (『婦人画報』265号、1927年9月)に取り上げられた雲泉荘では、「雲泉荘の正門」「洋館と池泉」「阿仏屋敷の旧物宝篋印塔」「古瓦の廊古塔古絵馬」の4点の写真が載ります。このうち古瓦の廊(No.1943)の写真が当館の黒川翠山写真資料に含まれます。

総合資料館メールマガジン 第123号(2011年6月15日)掲載

放下鉾稚児人形

 祇園祭の長刀鉾の階上には、囃し方とともに稚児と禿(かむろ)が乗ります。現在、稚児の一番大きな見せ場は四条通麩屋町通付近に張られた注連縄を切る神事ですが、これは1950年代に始まったものです。稚児の役割は、もともとは階上を舞台として舞いをすることにあったのではないかと考えられています。

 現在、稚児の乗る鉾は長刀鉾だけで、他の鉾には稚児の人形が乗ります。以前は、それらの鉾にも稚児が乗っていましたが、稚児の確保の難しさなどから、徐々に人形に置き換わってきました。その始まりは函谷鉾で、天保10年(1839)からです。文久3年(1863)には鶏鉾、1912年(明治45)には月鉾も人形に変わりました。

 放下鉾では1929年(昭和4)に稚児から人形に変わりました。人形の制作は丸平大木人形店の大木平蔵で、久邇宮多嘉王殿下より三光丸と命名されました。京都日出新聞の同年7月7日の紙面には「金ピカ天冠の美しい人形」という見出しで、写真と記事が載ります。それによると、丈は3尺、唐織衣裳に撚絹の袴を着け、胸に革鼓を持つと記されています。

 黒川翠山写真資料には、放下鉾の稚児人形の写真が3枚あります(No.1440~1442)。頭部を見ると天冠と烏帽子姿とがあり、3枚それぞれに姿勢や衣裳が少しずつ異なります。実は、この稚児人形は操り人形として作られ、巡行中に各所で舞わせることになっています。そのため、異なる姿の写真3枚を撮って残したといえます。

総合資料館メールマガジン 第125号(2011年7月13日)掲載

初秋の琵琶湖巡り

 大津市の琵琶湖文化館には琵琶湖や比叡山を写した黒川翠山の写真が約150点近くあります。その中に、1920~30年代に琵琶湖の観光船みどり丸に、モダンガールが乗って楽しむ写真があり、よく知られています。みどり丸は、太湖汽船が1922年(大正11)に就航させたことから、この写真はその頃のものとされてきました。

http://www2.ocn.ne.jp/~biwa-bun/takaramono/takaramono3.html#28(外部リンク)

 『婦人画報』266号(1927年)には、みをつくし氏の「初秋の琵琶湖巡り」が載り、みどり丸船上のモダンガールの写真が載っています。これにより、琵琶湖文化館の写真は1927年(昭和2)に写されたものであることがわかりました。琵琶湖には、人の住む沖島、西国巡礼で知られる竹生島、彦根沖の多景島の三つの島があります。「初秋の琵琶湖巡り」では、往路は近江舞子で休息した後、竹生島に向かい、帰路は多景島の傍をとおり、沖島の近くの長命寺港に立ち寄り、浜大津に戻っています。

 総合資料館にある黒川翠山撮影写真資料には、この時に写されたと思われる琵琶湖の写真が何点かあります。『婦人画報』266号(1927年)に載る「沖の石(琵琶湖の風景)」もその一枚です(1585番)。多景島の写真(1569~1572番)もこの時のものです。島の真ん中に見える棒状の塔は、五箇条の御誓文を記した「誓の御柱」と呼ばれる紀念碑で、1925年秋に起工され、翌年春に竣工・序幕されました。全国及び海外の70万人から浄財を集めて建設されたもので、翠山もそのことを知っていて写真に収めたものと想像されます。

参考文献:『滋賀県の近代化遺産―滋賀県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書―』滋賀県教育委員会事務局、2000年

総合資料館メールマガジン 第127号(2011年8月10日)掲載

京都府庁旧本館

 京都府庁旧本館は、1904年(明治37)に久留正道と松室重光の設計で創建されたもので、当時の官公庁の建物の姿を現在に伝えるものとして貴重なことから2004年(平成16)に国の重要文化財に指定されました。この建物の建設中の写真が当館の府庁旧館創建時等写真資料にあります。基礎工事の様子、竣工間もない議事堂等の写真は、珍しいものです。

http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N096901(外部リンク)

 石井行昌撮影写真資料No.74は竣工後の旧本館を撮ったものですが、石柱の建つ門の左右に白壁が続いています。この写真をよく見ると、門前には門松があり、1904年(明治37)12月竣工直後の正月風景だとわかります。旧一号写真資料No.93の府庁旧本館の写真では、白壁に代わって鉄柵になっていて、周辺も含めて完全に竣工した後に撮られたことがわかります。

http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N007401(外部リンク)

 先の府庁旧館創建時等写真資料には、旧本館創建以前の府庁建物の写真が含まれています。No.35の写真では、敷地の入り口に瓦葺の高麗門があり、その左右に上記の白壁が見えます。門の奥には三階建ての式場と呼ばれる府庁正庁があり、式場から斜め四方に廊下が延びて四棟の事務室に繋がっていました。敷地の一画には、「写真資料から」29で紹介した警鐘楼の建物も写っています(No.42)。

http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N100301(外部リンク)

 京都府庁が現在地に移る以前には、この地には京都府中学がありました。当時の建物配置を示した図によると、中央の建物は学務局で、二階建てと記してあります。京都府中学の景観については、画家の森寛斎が1873年(明治6)に京都名所四季図に描いていて、二階建ての学務局と周囲にある四棟の教場とが見えます。森寛斎の描いた絵の景観が、1904年近くまで続いていたといえます。

参考文献:石田潤一郎『都道府県庁舎-その建築史的考察』(思文閣出版、1993年)、『京都府教育史』(1940年)

総合資料館メールマガジン 第129号(2011年9月7日)掲載

時代風俗行列

 1895年(明治28)、京都の町は平安遷都1100年行事で春から沸き返っていました。4月からは上京区岡崎(現左京区)で第4回内国勧業博覧会が開かれ、会場への足として木屋町通・二条通には京都電気鉄道の路面電車が走りだしました。岡崎には平安宮を復元した建物が建てられ、10月22日から24日まではそこを会場に紀念祭及び紀念式が行われました。

 式典に続き、10月25日には時代風俗行列が京都市内を巡りました。この行列は、紀念祭を盛り上げようと、この年の6月になってから企画されたものです。延暦文官参朝列、延暦武官凱旋列、藤原公卿参朝列、城南流鏑馬列、織田公上洛列、徳川城使上洛列など、各時代の風俗を模した六組の行列が提案され、市内に作られた平安講社を六社に分けて分担しました。当日は、寺町御池の京都市役所を出発し、二条通、烏丸通、四条通を通って岡崎に向かいました。

 石井行昌撮影写真資料No.769には、この行列が写っています。通りの両側には「遷都千百年」と書かれた提灯が揚げられ、通りは町屋の2階まで大勢の人で埋まっています。行列の先頭には馬に乗った人に続いて幡が見えます。それには木瓜文があることから第五社の織田公上洛列の一場面といえます。とすれば、馬に乗った人物は織田信長の入洛に功のあった町衆の立入宗継(たてりむねつぐ)といえます。No.768は城南流鏑馬列に向かう第四社の人を撮影したもののようです。この風俗行列は評判となり、翌年以降は神幸列も加わって、10月22日に開催される平安神宮の祭礼(時代祭)になります。

http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N076901(外部リンク)

 平安遷都1100年行事は、この後11月13日から18日まで、町々から紀念踊が出ました。石井行昌撮影写真資料No.770~774はこの時の写真で、No.770・771、774は石井邸の近所の福長神社での記念写真、No.772・773は岡崎の会場での記念写真です。

参考文献:『平安神宮百年史』(平安神宮、1997年)

総合資料館メールマガジン 第131号(2011年10月5日)掲載

八坂法観寺浮図・愛宕山遠望

 当館の文献課に収蔵されている『撮影鑑 二』は、明治初期の京都府及び奈良県の名所の写真帖です。京都舎密局所蔵の原板を使って1881年(明治14)4月に作られています。表紙に『撮影鑑 二』とあることから、第一巻の存在が推測されますが、当館にはこの「二」しか存在しません。

http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo11/kaisetsu.html

 東山の町並に聳える八坂(法観寺)の塔は、京都を代表する景観として知られています。江戸時代、京都の名所を絵で表した『都名所図会』では、塔の北西の上空から俯瞰した図を描きました。近代初頭の写真家たちは、東側から坂道を見下ろす視線で塔を真横に写しました。現代では、東大路通の方から見上げる景観としてよく紹介されます。『撮影鑑 二』に載る「八坂法観寺浮図(ふと)」は、東側から写しています。なお、「浮図」は塔を意味する漢語です。現在の塔は、室町時代の永享12年(1440)に足利義教により再建されたものです。

http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo11/fsbunrui/k01003.html

 『撮影鑑 二』に載る「愛宕山遠望」は、画面の真ん中に傾いて立つ道標が印象的な写真です。この道標には「左あたご」の文字が見えることから、京都市歴史資料館のいしぶみを紹介するホームページから該当資料を探すと、右京区嵯峨野嵯峨ノ段町に現存する文政7年(1824)5月再建の道標であることがわかりました。したがって、この写真は嵯峨野村(1889年に合併して太秦村、1931年から京都市になる)方面から北西方向に愛宕山を遠望したものといえます。

http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo11/fsbunrui/k01042.html

 『撮影鑑 二』は、原板から密着して焼き付けた中判写真109枚を貼り付け、撮影地点を墨書します。110番の東大谷阿弥陀堂から214番の法隆寺夢殿まで、洛外から山城・奈良方面の写真です。このことから、『撮影鑑 一』は洛中から洛北の名所を主とする109番までの写真帳で、全2冊で完結したと推測されます。この年のこの月には東京で第二回内国勧業博覧会が開催されているので、それと関係するかもしれません。

 この年の11月、英国皇孫が入洛した際、京都名所を撮影した百枚貼の写真帳2組が京都府から英国皇孫に進呈されました(京都府庁文書 明14-48)。その写真帳の代金60円が舎密局に支払われています。このことから、英国皇孫が目にした京都名所撮影帳は、『撮影鑑』と類似の写真帳ではなかったかと思われます。

 なお、『撮影鑑 二』は、総合資料館企画展「目で見る京都の今昔」(平成23年10月15日~11月13日)で陳列しました。

参考:高木博志『近代天皇制と古都』(岩波書店、2006年)

総合資料館メールマガジン 第133号(2011年11月2日)掲載

祇王・祇女

 来春のNHKテレビの大河ドラマは「平清盛」で、その関係地は早くも観光客で賑わっているようです。京都も、六波羅、西八条邸など、清盛ゆかりの地は数多くあります。今回は、黒川翠山撮影写真資料のなかから平清盛に所縁の深い祇王・祇女を祀る祇王寺を取り上げます。

 平家の盛衰を書いた『平家物語』の第一段に、清盛に寵せられた白拍子の祇王・祇女の姉妹が出てきます。物語では、清盛に寵せられていた祇王・祇女は、やがて来た仏御前に清盛の寵愛を取られてしまい、尼となって母刀自とともに嵯峨野の地に住むことになります。その後、仏御前も後を追って尼となります。

 祇王・祇女らが尼となって住んだ地には、後に往生院祇王寺が建てられます。寺はいつしか荒廃し、明治中期に再建されたのが現在の祇王寺です。境内には祇王・祇女・仏御前・母刀自を祀った層塔、清盛を供養した五輪塔が立ち並びます。庵内の仏間には、母刀自・祇王・清盛・祇女・仏御前の木像が並びます。

 黒川翠山撮影写真資料No.469~474には、祇王寺境内、石塔、木像の写真があります。No.473は母刀自・祇王の木像、No.474は祇女・仏御前の木像で、清盛像はNo.473にわずかしか写っていません。『婦人画報』第270号(1928年2月)に掲載の写真で、おそらくその直前に撮影されたものと思われます。

総合資料館メールマガジン 第135号(2011年11月30日)掲載

富士山

 黒川翠山が生涯にわたって力を入れていた題材に、富士山があります。富士山は日本で一番高い山であるだけでなく、神のいる山としての信仰・伝説があり、その形は秀でて美しく、古来より多くの歌人・文人を魅了してきました。近世には富嶽百景を残した葛飾北斎、近代には富士山を画題の一つとした横山大観などの画家もいます。

 黒川翠山もまた富士山に惹かれた一人です。翠山は1905年(明治38)に松島・日光などの撮影旅行の帰りに、静岡県内の東海道本線沿いの地点から富士山の写真を何枚か写しています。その後、1907年、1916年(大正5)にも、富士山への撮影旅行を行なっています。翠山の富士山は、山麓の各所から雪を頂いた富士山を俯瞰するという構図ですが、絵画のような写真を目指した翠山にはどこからも魅力的な撮影地点に思われたことでしょう。

 1905年に出版されたハーバード・ポンティングの『Fuji San』は、富士山写真の魅力を多くの人々に伝えました。翠山の蔵書にもポンティングの写真集の再版本があり、その影響を受けたのではないかと想像されます。京都の日本画家今尾景年の甥である今尾掬翠は、1912年に『富士百景』と題する写真集を出版しました。その中に、翠山の写真も10点余り使われていました。

 翠山は、富士山の写真を献呈用や、新聞・雑誌の正月用写真などに使いました。そして、富士山をテーマにした写真展を1912年、1916年、1923年に、京都や東京で開きました。翠山の富士山写真の多くは静岡県立美術館に寄贈されています。当館には、富士山の写真はありませんが、富士五湖の一つである精進湖の写真(No.1730、1731)、富士山の地下水が滝となって湧き出ている音止滝、白糸滝の写真(No.1725~1727)があります。

参考:堀切正人「黒川翠山の富士山写真」(『静岡県立美術館 紀要』第21号、2006年)

総合資料館メールマガジン 第137号(2011年12月28日)掲載

 

讃岐の薬売り

インターネットが普及した現在、ネット上に展開する商店やネットを介しての商品の販売が盛んです。テレビショッピング、通信販売等も人気があり、商店で品物を手に取ったり、販売員と対面して商品を購入する機会は昔と比べて減りました。商品販売の歴史をたどると、20世紀後半は店舗による店売りの盛んな時代でしたが、それ以前は行商による販売も盛んでした。飲食品や雑貨だけでなく、農具などの大型のものまで、いろいろな商品が背負われて販売されていました。行商の代表的な商品の一つに薬がありました。

20世紀後半に病院が地方にまで普及し、国民皆保険制度が確立するまで、風邪等の軽い病気には各種の民間療法が実行され、市販の薬が服用されました。薬の購入は、薬局・薬店で求めるだけでなく、行商による置き薬(配置売薬)もありました。薬は、商品としては軽くて持ち運び易く、比較的に高額でもあったことから、行商販売にふさわしかったといわれます。薬売り人は訪問先の家庭で必要と思われる薬を置き、半年か1年周期で巡回した時に、使われた薬の代金を回収し、使用されたものを補充する仕組みでした。

石井行昌撮影写真資料(総合資料館寄託)には、「千金丹」の文字を書いた白い布製の洋傘を手にする薬売りの写真があります(石井58、59、61)。石井58と59の写真は屋敷内の庭で撮影したもので、石井61の写真は石井氏の自宅前の上京の室町武者小路付近の道路上での撮影です。石井61には近所の子供たち3人も写っています。石井59に写る薬売りは、帽子は被らず、頭髪をきれいに分ける若い男性で、肩から黒い革の鞄を掛け、足元は脚絆に草鞋履きでした(石井58と61は草履履きの別人物)。

石井59の薬売りが手にする傘を見ると、「官許」「千金丹」「薬、神□□」「舗、讃岐国高□、岡内製」「御用薬」などの文字が見えます。洋傘は日本では19世紀後半に普及し始めた新しい生活雑貨ですが、配置売薬業では日傘として実用的に使うとともに、商品名を書いた宣伝用具として逸早く使っていました。「岡内」は、1875年(明治8)に讃岐国(香川県)高松で創立された岡内勧弘堂のことで、家庭常備薬の「千金丹」の製造販売で知られていました。そのことから、この写真は讃岐の薬売りを撮ったものと言えます。石井58(石井61も同一)の人物の服装をよくみると、着物にも「千金丹」の文字が散りばめて染め抜かれ、鞄の側面にも「千金丹」の文字が書かれています。

寺田寅彦の『物売りの声』(1935年初出)には、白張りの蝙蝠傘(こうもりがさ)をさした千金丹売りのことが載り、その呼び声として「エーエ、ホンケーワーア、サンシューノーオー、コトヒーラーアヨ」と高い声で歌って歩く姿が活写されています。この声を聞くと、子どもたちが駆け寄ってビラ紙をねだったとも書かれています。石井氏の写真を見ると、ポーズをとって写真に納まる薬売りの姿からは、石井氏と旧知の間柄であったことがうかがえます。

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
・石井行昌撮影写真資料「売薬」
【石井58】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N005801(外部リンク)

【石井59】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N005901(外部リンク)

【石井61】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N006101(外部リンク)

 総合資料館メールマガジン 第204号(2014年7月23日)掲載

 

石井氏邸前の風景

「祝日」(石井65)は、武者小路通に面する各家で日の丸の旗を立て、軒先に提灯を吊り下げる景色の写真です。通りの奥に見える烏丸通りには、ガス灯のようなものが見えます。通りには手前に子供が2人、奥に荷車を曳く男性、石井氏邸前には人力車と人、手前の家の入口にも人がいます。その様子を見ると畏まっていて、撮影のために協力してもらっているようです。人力車は、明治初年に日本で発明された乗り物で、自動車の普及するまで広く使われました。石井氏邸の人力車の写真は、石井614にも見えます。

「魚売り」(石井62、63)は、小型の大八車を引く写真です。石井63では、大八車の上に四角形の木箱と小判型の桶とが載っています。左の人物が魚屋のようで、右の少年は手に魚を持っていて、その手伝いのようです。石井62は、同様の車に木箱を4箱ほど載せています。石井60は邸内で小型の大八車を引く魚屋の写真で、少年が車を引きます。木箱の上には、魚が見えます。

「魚売り(魚亀)」(石井64)は、自転車の前に取り付ける二輪の荷車です。荷車の車輪はスポーク製で、ゴムタイヤになっています。荷台には木箱が載っています。荷台の下には「魚亀」の看板が取り付けられています。空気を送って音を鳴らす警音器(ホーン)も付いています。魚屋さんの履物も洋靴になっていて、前段の「魚売り」の写真より時代が新しいことを物語ります。

「自動車」(石井244、245)は、石井氏邸前に駐まる自動車で、T型フォード車に似た四輪車です。石井244は前から写していますが(西から東向きに撮影)、石井245は後ろからの姿です。2枚共に西から東向きに撮影していますが、車の向きが変わっています。車の登録番号板からは同一の車で、乗っている少女の雰囲気からも同じ時の写真のように思われます。登録番号は「京465」で、このように都道府県の漢字頭文字一字と数字の組み合わせになるのは、大正8年(1919)2月の「自動車取締令」以降です。

 

 

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井62】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N006201(外部リンク)

【石井63】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N006301(外部リンク)

【石井64】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N006401(外部リンク)

【石井65】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N006501(外部リンク)

【石井244】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N024401(外部リンク)

【石井245】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N024501(外部リンク)

 総合資料館メールマガジン 第206号(2014年8月20日)掲載

 

公家屋敷としての石井氏邸

石井氏邸(室町武者小路東入ル梅屋町)の表門は、土塀が凹字状に窪まったところにあります。その写真(石井611)からは棟門のようですが、後ろからの写真(石井47)には控柱があり、小規模ながら高麗門の形です。棟の鬼瓦には石井家の梶の葉紋の文様が見られます(石井家の家紋には「丸に揚羽蝶」もあります)。門の左手側には通用口の扉があります。門の中には奥の目隠しとして板塀が立ちます。

板塀の内側には庭が広がり、奥に東西を棟とする小さな平屋の建物が見えます。石井行昌撮影写真資料には、この建物の前に玄関付きの棟を増改築する写真が何枚もあり(石井26~29、他)、明治年間末頃の建築工事の記録として貴重です。増改築に合せて中庭の東側にも塀が作られ(石井36、37、他)、門内の一帯がかなり変わっていることがうかがえます。

改築の有無に注目することにより、石井写真のかなりの点数の撮影時期が推測できます。それとともに人物写真等の背景に写る建物から、石井氏邸の明治年間前期の姿が浮かび上がります。公家邸の多くが公家の東京移住とともになくなっていることから、公家の邸宅を撮った写真としても貴重なものといえます。

当館の行政文書の中に明治4年(1871)に記された「華族建家坪数書扣(控)」(京都府庁文書 明4-23)があります。それによると石井家は間口19間3尺1寸2分、奥行28間1尺の535坪余の敷地に、瓦葺き平屋建ての建物等が立ちます。敷地内には、平屋の住居(一部2階建)2ヶ所、土蔵1ヶ所、鎮守1ヶ所、物置3ヶ所、中間部家1ヶ所、湯殿2ヶ所、雪隠4ヶ所の建物がありました。

石井562を見ると、正面に平屋建ての建物があり、左奥の板塀の中に二階建ての建物等が見え、この板塀の中の建物が主屋と思われます。正面の平屋建物は、縁側・沓脱石等も備えないことから簡易なものであり、府庁文書の中に見える中間部家に当たるように思われます。

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井611】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N061101(外部リンク)

【石井47】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N004701(外部リンク)

【石井26】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N002601(外部リンク)

【石井36】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N003601(外部リンク)

【石井562】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N056201(外部リンク)
総合資料館メールマガジン 第208号(2014年9月17日)掲載 

石井行昌氏について

石井行昌撮影写真資料を残した石井行昌(いわい ゆきまさ)氏は、石井行知(ゆきさと)、辰子の子として1876年(明治9)6月23日に生まれました。石井家は江戸時代前期に成立した堂上方の公家で、平家の系統に属し、公家の家格(※)では半家に位置しました。明治維新以降も東京に移らなかった京都公家です。

父の行知は嘉永2年(1849)生まれで、行昌氏には姉(善子)がいました。行知は1878年に若くして死去したため、行昌氏は幼くして石井家の家督を継ぐことになりました(9代目)。祖父の行光(ゆきてる)も翌1879年に亡くなっています。1884年7月、行昌氏は子爵となりました。1896年に従五位、1901年に正五位に昇格しています。その後、1908年に従四位、1914年(大正3)に正四位、1922年に従三位となりました。

行昌氏は、1906年10月に京都御所の事務をおこなう殿掌の仕事に就きます。1914年2月には宮中祭祀を担当する掌典職も務めました。1910年と1916年には賀茂祭の役を担っています。結婚年は不明ですが、妻の三枝子さんも行昌氏と同じ1876年生れでした。長女治子さんは1903年に生まれ、長男行敬さんは1907年に、次女君子さんは1911年に、その数年後に三女恒子さんが生まれています。

このような家族関係の中で、写真撮影が行われていました。写し始めたのは、1894年(明治27)の終わり頃からと思われます。この年は旧堂上華族恵恤金の設置された年で、そのことと関係するかもしれません。写真はその後も長く続けられ、大正年間撮影のものも数多く見られます。行昌氏は、1923年(大正12)5月14日に、享年48歳(満46歳10ヶ月)で亡くなりました。

 ※公家の家格は、摂家、清華家、大臣家、羽林家、名家、半家
  という序列がありました。

【石井行昌氏の全身写真】 http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N062301(外部リンク)
(参考)
橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年【E/281.035/H38】
杉謙二編『華族画報』上・下、1913年(吉川弘文館から2011年復刻)
【E/281.035/Su32/1,2】
刑部芳則『京都に残った公家たち 華族の近代』吉川弘文館、2014年

総合資料館メールマガジン 第210号(2014年10月15日)掲載 

石井行昌氏の写真撮影

当館の石井行昌撮影写真資料は、収集の経過から3群に分かれます。最初は1966年(昭和41)に石井氏の御子孫から収集した紙焼き写真約1000枚、次は1974年(昭和49)と1979年(昭和54)に同氏から寄託された硝子乾板(ガラスかんぱん)約1000枚、3回目は1997年(平成9)に追加寄託された紙焼き写真、絵葉書等約500枚からなります。最初の紙焼き写真と硝子乾板には重複する図柄も約700枚あります。

石井氏の硝子乾板には、手札判(3.5×5インチ(89×119mm))と、カビネ判(5×7インチ(119×170mm))とがあります。手札判の一部は、短冊形の桐箱に入っていました。箱の大きさは長さ41.5cm、幅10.0cm、高さ12.8cmで、内側の側板に刻みをいれて硝子乾板を約50枚立てて入れられるように作られています。木箱は10箱あり、蓋の表には「全身」「半身」「数人」「人物」「景色」などと墨書されていて、全身と半身、一人(全身か半身)と数人、人物と景色を
区別していたといえます。

「供奉騎兵撮影種板箱」という蓋の表書きからは、硝子乾板を種板と呼んでいたことがわかります。蓋裏に「明治廿有七年(※)十二月十五日」「明治廿八年六月七日新調」「明治丗年秋九月十一日新調」「明治三拾三歳丁酉秋九月新調」の墨書のあるものがあり、点数の増加にともない箱を新調していたことが窺えます。

石井氏は1896(明治29)年6月29日に従五位になったころから写真撮影を始めたとされていましたが(『写真にみる明治・大正の京都』、京都府立総合資料館、1983年)、箱書きからは1894(明治27)年の年末までには写真を始めていたと言えます。箱の仕様から見ると、最初の箱は、「全身」「半身」「数人」の3箱で、翌年に「景色」の箱を新調しています。

カビネ判の硝子乾板は1903(明治36)年の第五回内国勧業博覧会を撮影したころから見られますが、その後も手札判の写真も撮り続けています。石井623、石井624には、三脚に取り付けられた写真機が写っていて、写真機を2台以上持っていたと言えます。

                (※)直前の「年」は、禾の下に千の字で表されています。

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井623】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N062301(外部リンク)

【石井624】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N062401(外部リンク)

総合資料館メールマガジン 第212号(2014年11月12日)掲載

 

カメラの前の少女(石井氏の家族写真1)

三脚に取り付けられた写真機とともに写る二人の少女の写真があります(石井624)。年齢の大きな少女は、カメラのシャッターを押すレリーズを左手に持ち、こちらを見ています。小さな少女は、椅子に腰かけて、足はぶらりとし、顔だけをこちらに向けています。撮影の場所は、石井家の前庭です。

大きな少女は、丸顔で目鼻立ちがはっきりしています。服装は軽やかな和装で、下駄を履いています。小さな少女は涼しそうな洋装で、素足のままです。二人の少女の目や鼻・口の形が似ていて、姉妹と思われます。

写真の収集・整理時の記録によると、この姉妹は石井家の二女君子と三女恒子です(「京都府立総合資料館文書66 写真関係綴」)。そこには、「恒子、5才位、大正6.7.3」、「君子、13才位」の注記があります。恒子は、石井写真を寄託した人の母親で、「大正6.7.3」は生年月日だと思われます。

前々号で紹介したとおり君子は1911年(明治44)生まれです。先の注記によると君子と恒子は8歳違いのようですが、実際は6歳違いでした。とすれば、撮影は1922年(大正11)頃でしょうか。これらのことから、二女と三女の二人の姉妹が、父の自慢のカメラの前でポーズをとって撮ってもらったのがこの写真だと言えそうです。

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井624】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N062401(外部リンク)

総合資料館メールマガジン 第214号(2014年12月10日)掲載

 

「子ども」写真の家族 (石井氏の家族写真2)

「子ども」と名付けられた写真(石井625)には、三人の大人(左から女性、男性、女性)と、真ん中の男性に抱かれている子どもとが写ります。写真から受ける印象と題名には少し違和感がありますが、寄託資料を受入れる時に他に適当な名前が思い浮かばなかったのかもしれません。

ところで、この写真には画面の左側に人の影のようなものが見られます。目を凝らしますと、着物を着た男性が走っているように見えます。この画像から想像できるのは、撮影者が自動露光により、自分で撮った写真に自身も入ろうとしたのではないかということです。

この写真と同じ場所で、同じ服装の人たちが立ち並ぶ写真がもう一枚あります(石井392)。これには四人の大人(左から男性、女性、男性、女性)と抱かれている子どもが写ります。とすると、左端の男性が撮影者でしょうか。最初の写真を失敗し、撮り直して、今度は目出度く写ったということになるようです。

撮影の場所は、おそらく石井家の前庭です。とすると、左端の撮影者の男性が石井行昌氏で、その右側の女性は石井氏の夫人の三枝子さんではないでしょうか。右側の男女は、この家の使用人でしょうか。子どもは石井氏の子どもの誰かということになります。

「無題」(石井956)は、女性が庭の花の世話をしている写真です。よくみると、この女性が先の写真の夫人と思われる女性と同一人で、石井氏の自宅の庭の光景ということになりそうです。石井行昌撮影写真資料には、このような家族写真が何枚も含まれています。

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井625】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N062501(外部リンク)

【石井392】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N039201(外部リンク)

【石井956】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N095601(外部リンク)

 総合資料館メールマガジン 第216号(2014年1月7日)掲載

 

 写真館での写真 (石井氏の家族写真3)

石井行昌撮影写真資料には約1000点の写真がありますが、撮影年次のわかるものは僅か数例だけです。その1枚が「人物」(石井408)で、1904年(明治37)11月11日のものです。別の「人物」(石井418)は、1909年(明治42)11月19日のものです。

2枚の「人物」は、ともに幼児を撮影したものです。背景をみると、床の敷物や椅子などから、常設の写真館の写場で撮影したものと思われます。ただし、敷物や椅子の形が異なることから、別の写場です。写真館での記念撮影ということから、石井氏の子供の可能性が高いと思われます。(石井408)はようやく独り立ちできた時期の写真で、(石井418)はしっかりと独りで立っています。後者の子どもは被っている帽子から男の子のようです。

それでは、なぜこの写真の撮影年次がわかるかというと、写真の元になったガラス乾板に日付が書いてあるからです。(石井408)には「明治三十七年十一月十一日」、(石井418)には「四二、十一、十九、P 石井□□」と、ガラス乾板の膜面と反対側の面に朱書されています。(石井408)は膜面側にも文字がありそうですが、擦れていて判読できません。

写真館での写真は、一般的には印画のみ給付され、ガラス乾板は写真館で保管されるものでした。先の朱字も、写真館で乾板を区別するために記されたものでしょう。しかし、石井氏は自身で写真を撮影・現像等していたと思われることから、ガラス乾板を特別に入手したと推測されます。

以上のことから、(石井408)は1903年(明治36)5月生まれの長女治子で、1歳6ヶ月の時の写真、(石井418)は1907年(明治40)7月生まれの長男行敬で、2歳4ヶ月の時の写真だといえます。

 

総合資料館「京の記憶ライブラリ」
【石井408】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N040801(外部リンク)

【石井418】http://kyoto-shiryokan.jp/kyoto-memory/detail.php?id=N041801(外部リンク)

総合資料館メールマガジン 第218号(2014年2月4日)掲載

 

舎密局の写真

当館の所蔵する『撮影鑑 二』(図書 貴/T36)は、明治初期の京都府南部から奈良県の名勝の写真帖です。見返しに「明治十四年四月調製 京都舎密局蔵板自」とあることから、京都舎密局の原板を使って1881年(明治14)4月に作られたことがわかります。伝来の経過は、初代京都市会議長、衆議院議員、京都府会議長などを務めた中村栄助氏(1849~1938)から、三男で元京都市長であった高山義三氏(1892~1974)に引き継がれ、当館に入ったものです。この写真帖は、原板から焼き付けた中判写真109枚を貼り付け、撮影地点が墨書されています。110番の東大谷阿弥陀堂から214番の法隆寺夢殿まで、洛外から山城・奈良方面の写真です。このことから、『撮影鑑 一』は洛中から洛北の名所を主とする1番から109番までの写真帖であったと推測できます。その写真内容についての手がかりが、1877年(明治10)3月の京都博覧会の博物館陳列目録(図書 珍事集201)にあります。

その目録には、京都舎密局が出品した32点の写真目録が載ります。その内容は京都の名勝写真で、宇治茶園、金閣林泉、円通橋、清水寺楼門、本願寺、梅宮神社、松尾神社、御室仁和寺伽藍、宇治鳳凰堂、御香宮、宇治観月橋、黄檗宗万福寺伽藍、相楽郡炭酸泉涌出所、童仙房支庁、同所開拓地、笠置山皇居跡2枚、宇治川の18枚が、
『撮影鑑 二』の目録と対応していて、同一の写真であったと思われます。目録に載る内侍所、紫宸殿、御庭花、八坂神社、錦織野、御祖神社、銀閣林泉、知恩院楼門、東山鉱泉所、永観堂伽藍、別雷神社、真如堂伽藍、天橋の13枚は、洛中から洛北、府北部の名所であることから、『撮影鑑 一』に含まれていた可能性が推測されます。この時の京都博覧会の陳列記録は行政文書にも残されていて、2月16日に舎密局から博物館に額数13枚として39枚の写真が出品されていました(行政文書 文No.563-2)。

1877年(明治10)8月に東京で開催された第一回内国勧業博覧会では、京都舎密局から「京都名勝撮影(二七)紙」が出品されていて、この中には同年3月の京都博覧会の写真と同一のものも含まれていたことと思われます。『撮影鑑』の作られた1881年(明治14)4月には東京で第二回内国勧業博覧会が開催されていて、その制作と何らかの関係があっただろうと想像されます。
                  

【北山アーカイブズ 『撮影鑑 二』】
  http://www.pref.kyoto.jp/archives/shiryo11/index.html
『京都博覧会総録中博物館陳列品目録 明治十年三月』(『珍事集』201)
  http://www.dh-jac.net/db11/kyofu/chinji/FMPro?-db=chinji02.fmj&-lay=layout2&-error=search_error.htm&-format=results02.htm&f2=chinji201&-Max=1&-Find(外部リンク) (特||991||1||5)

総合資料館メールマガジン 第220号(2014年3月4日)掲載

 

京都金閣寺林泉鏡湖池

写真家黒川翠山が顧問をしていた雑誌の『歴史写真』第230号(昭和7年7月号)の表紙頁には、黒川翠山の撮影した「京都金閣寺林泉鏡湖池」と題するカラー写真が掲載されています。「鏡湖池」とは、鹿苑寺(金閣寺)舎利殿(金閣)の面する庭園の池の名称です。

総合資料館の黒川翠山撮影写真資料(全2031点)には324点の金閣寺関係写真があります。全体の約16%の割合で、他の写真から突出しています。これは、『金閣百景』(1941年(昭和16))の制作のために写された写真が多く残ったことによるものと推測されます。残念ながら、「京都金閣寺林泉鏡湖池」の元になる写真は、その資料の中には含まれていません。

『歴史写真』の表紙頁で最も注目できるのは、カラー印刷であることです。黒川翠山の撮影した写真はすべて白黒ですが、印刷の技術によりカラー化を実現させています。雑誌等の印刷のカラー化は大正年間頃より進んでいて、『歴史写真』でも表紙頁は早くから色刷りになっていました。

『歴史写真』第265号(昭和10年6月号)の表紙は黒川翠山の撮影した「金閣究竟頂」でした。究竟頂(くっきょうちょう)とは金閣の3層目の名称(1層目は「法水院」、2層目は「潮音洞」)で、究竟は究極の意であるとともに、仏教的な意味合いも込めて名付けられているようです。この写真は、当館の黒川123番に関連する写真のようです。

鹿苑寺金閣は不幸にも1950年(昭和25)7月に焼失していて、黒川翠山が写した金閣の写真、特に建物内の天井画・仏像等の写真は、貴重な記録写真となっています。

 

総合資料館メールマガジン 第222号(2014年4月1日)掲載


                   


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