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京都府レッドデータブック2015

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自然生態系のアイコン古写真で見る自然環境、地域共同体とのかかわり方の変化

大阪府立大学大学院人間社会学研究科●中村 治

はじめに

日本人の自然環境とのかかわり方、地域共同体とのかかわり方は、この100年ほどの間に大きく変わった。われわれの暮らしは便利になり、今では、あたかも自然環境、地域共同体とかかわりなく暮らせると思えるほどである。家の中は冷暖房完備。水は、蛇口をひねれば、好きなだけ出てくる。そして汚れた水は、すぐにどこかへ消え去ってしまう。買い物は、スーパーマーケットへ行けば、だれと話をしなくともでき、好きなものが、あまり季節にかかわりなく手に入る。ゴミは、指定された日に出しておけば、どこかへ持って行ってもらえる。出かけるのはどこへ行くのも車。

しかしそのような暮らしに問題がないわけではない。むしろ、地球温暖化、大気汚染、水質汚濁、放射能による汚染、ゴミ処理、地域社会の消失、孤独死の問題など、さまざまな問題が起こってきており、それへの対応にわれわれが追われていると言ってもよい。ではそのような問題に、われわれはどのように対応すればよいのか。われわれは、今の暮らしを見つめなおし、変えた方がよい暮らし方については、それを変えていかなければならないはずである。

ところがわれわれが今の暮らし方しか知らないと、その暮らし方があたりまえとなり、何か問題が起こっているとわかっていても、その暮らし方を変えることなど、思いもよらなくなってしまうであろう。われわれは、これからどういう方向へすすめばよいのかを考えようと思えば、そのような問題が起こる前のかつての暮らし方がどのようなものであり、それがいつごろから変化し、その変化の結果、われわれは何を得て、何を失ったのかを知って、今の暮らし方を見つめなおす必要があるのではないか。

ところが、自然環境や地域共同体とのかつてのかかわり方とその変化に関する資料は、政治や経済に関する資料とは異なり、意外と少ない。運搬手段の変化、農作業や暮らしの機械化に伴って、自然環境や地域共同体とのかかわり方に大きな変化が起こったのは、地域差はあれ、1960年前後からであり、そう遠い昔のことではない。ところが、自然環境や地域共同体とのかつてのかかわり方が消え去ろうとしているだけでなく、自然環境や地域共同体とのかつてのかかわり方に関する資料も、いわば「レッドデータ」ものとなってきている。

たとえば、かつての暮らしぶりを写した写真などはそのような資料の一つであるが、そのような写真は、それを写した人、写されている人が亡くなると、捨てられることが多い。仮に写真が残されていても、写した人、写されている人などが亡くなると、それがいつ、どこで写されたのか、何が写されているのかよくわからなくなっていく。情報がわかっている場合でも、元の所蔵者が亡くなるなどして、現・所蔵者と連絡がつかなくなると、その写真を使えなくなることが多い。

ここでは、わたしが複写させていただき、それについて話を聞かせていただいた個人所蔵写真の中から、人々の暮らしぶり、人と自然環境、地域共同体とのかかわりを表していると思われるものを紹介し、暮らしの変化がいつごろから起こったのか、その結果、どのようなことが起こってきたのかを見て、自然環境、地域共同体とこれからどのようにかかわっていけばよいのかを考える材料を、提供できればと思う。

なお、ここで紹介する写真は、わたしが調査してきた地域にかたよりがあるので、地域的なかたよりがあるものの、比叡山ドライブウェイの写真を除いて、すべて京都府内で撮られた写真である。「京都府」とはいっても、そこには都会から農村、山村、漁村まで様々な地域があり、なりわいも、暮らしの変化が起こった時期も同一ではない。しかしどのような性格の地域でも、人と自然とのかかわりが薄くなり、地域共同体との結びつきが弱まっていくという一般的傾向だけは、写真から読み取ることができるであろう。

1 かつての暮らし

日本人の暮らしにとりわけ大きな変化が起こったのは、1960年頃以降である。その前の1950年における日本の産業別就業者数を見ると、農林漁業に従事する人が全体の48.6%を占めていた*1。それ以外の人も、当時は電気冷蔵庫などなかったので、旬の食材を少しずつ買って、消費していた。そのため、日本のかなりの人が、農家や漁師の家、とりわけ農家の暮らしに合わせて暮らしていたということができるであろう。それゆえ、以下においてはまず、農作業を人力や畜力に頼っていた頃における農家の一年を、米づくりと麦づくりを中心に見たい。

*1 産業(3部門)別就業者数の推移(1950年~2005年) (国勢調査e-ガイド・総務省統計局)http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/kouhou/useful/u18.htm

(1)農家の一年

稲刈りが終わった田を牛で耕しているところ 1. 稲刈りが終わった田を牛で耕しているところ。二毛作地域では、この後、麦や菜種をまくことが多く、それを5月下旬から6月上旬に刈り取った。南桑田郡保津村(現・亀岡市保津町)。昭和16年(1941)11月9日。

麦刈り 2. 戦争が激しくなってきたため、京都府立第一高等女学校(現・鴨沂高校)では、それまでの臨海学舎を改め、修練生活と称して、竹野郡浜詰村(現・京丹後市網野町)へ行き、麦刈りなどの手伝いをするようになった。昭和17年(1942)。

田堀り 3. 田堀り。久我では、山林が少ないので、稲ワラを燃料にすることが多かった。そのため、ワラを牛馬にふんだんに与えることができず、牛馬を飼うことが少なかったので、田を人力で掘ることが多かった。京都市伏見区久我。昭和34年(1959)頃。

麦打ち台に麦を打ちつけ、穂を落とす作業。左側の夫婦は、風の力を利用して、麦のゴミをとっている 4. 5月下旬から6月上旬にかけて、麦を刈り取り、麦打ちをすませて、家に持ち帰った後、すぐに田を耕し、田植えの準備をしなければならないので、とても忙しいが、青年は兵隊にとられているので、農家に残っているのは、女性と老人と子どもだけ。麦打ち台に麦を打ちつけ、穂を落とす作業に立命館の学生が動員され、手伝った。左側の夫婦は、風の力を利用して、麦のゴミをとっている。京都市伏見区墨染。昭和16年(1941)。

苗とり 5. 苗とり。背後に見えているのは麦。5月下旬から6月上旬にかけては、麦の収穫をすすめる一方で、田植えの準備もしなければならないので、たいへん忙しかった。労働力を対等に交換しあって共同作業を行ない、助け合う「結(ゆい)」の仲間の人たちが、苗とりを手伝っている。京都市左京区岩倉村松。昭和31年(1956)頃。

田植え 6. 田植え。田植えは中腰での仕事になるので、つらいものであった。昔、農村へ行くと、腰の曲がった老人を数多く見かけたが、その原因の一つはこの姿勢での仕事であった。各家がばらばらに田植えをするのではなく、田植えの準備ができた田から順番に田植えをしていくので、「結」の仲間の人が田植えを手伝っている。京都市左京区田中高原町。昭和29年(1954)年6月。

田植えを見学に行った桃薗幼稚園児 7. 田植えを見学に行った桃薗幼稚園児。田んぼに水を張って、土をさらに細かく砕き、かき混ぜて、土の表面を平らにする作業である「代(しろ)かき」と呼ばれる作業を馬を使って行い、それを終えたところから田植えをしている。田の端から端まで細い縄を1m20㎝間隔ぐらいに張り、その縄と縄の間に、各人が苗を縄に沿って6列ずつ植えていくのである。京都市北区柊野の志久呂橋付近。昭和18年(1943)。

夏には、田の水の管理をするほか、夏野菜に水をやることが農作業の中心になる 8. 夏には、田の水の管理をするほか、夏野菜に水をやることが農作業の中心になる。背後に見えるのは京阪電気電鉄(現・阪急電鉄)の線路。京都市右京区桂(現・西京区桂)。昭和17年(1942)。

誘蛾灯(ゆうがとう) 9.  誘蛾灯(ゆうがとう)。昆虫が光の方に集まってくる性質を利用して、害虫を退治する装置。光源に石油ランプや電球などを用いて、昆虫をおびき寄せ、油滴をたらしておいた水盤に誤って落下させて、退治した。乙訓郡久我村(現・京都市伏見区久我)。昭和15年(1940)頃。

稲刈り 10.  稲刈り。稲刈りは刃がのこぎり状になった鎌で行った。稲株を3つほどずつ切って持ち、合計6株分ほどを1把として束ねたのである。それを稲木((いなき)稲架(はさ)ともいう)にかけて干した。干すのは10日から2週間ほどであった。京都市左京区花脊原地井の口。昭和27年(1952)頃。

脱穀 11. 脱穀。今では機械化がすすみ、田植えや稲刈りを一気にできるので、地域ごとに単品種を植えることが多くなっているが、昔は何事も手作業で行ったので、早稲、中稲、晩稲を植えて、収穫時期をずらし、台風などの被害を分散させるとともに、集中的に忙しくなることを避けた。そのため、この写真のように、11月29日に脱穀ということも見られたのである。脱穀には千歯扱(せんばこ)きが使われていたが、明治時代末期に足踏脱穀機が発明されると、それが次第に使われるようになり、千歯扱きに取って代わっていった。足踏脱穀機は、直径約40㎝の円筒状の胴体に逆V字型の高さ約5㎝の針金100本ほどがついたものである。踏み板を踏むと「ガイコガイコ」とにぎやかな音をたて、円筒状の胴体が回転する。その針金のところに穂を当て、脱穀するのである。足が棒のようになり、苦しいが、千歯扱きに比べると、作業はずいぶんはかどった。それでも1反(300坪)分の脱穀に2人で半日ほどかかったので、脱穀だけで何日もかかった家がほとんどであった。愛宕郡岩倉村長谷(現・京都市左京区岩倉長谷)。昭和14年(1939)11月29日。

モミ干し 12. モミ干し。モミを保存するためには、乾燥させなければならない。天気がよいと、「かど」(前庭)一面にむしろを広げ、モミを干し、それを何回もひっくり返す。そのため、農家の庭先は何もない広い空き地になっていた。しかし天気が急に変わる時もある。そんな時には、大あわてでむしろをしまいこむのであった。天気がよいと、この作業は1~2日ですんだが、悪いと、それが長びいた。京都市左京区岩倉中在地。昭和46年(1971)頃。

水車 13. 水車。一般家庭が水車を使うのは精米のためであった。集落近くに水車が造られ、各家庭は持株に応じて1か月に半日とか1日の使用権を持っていた。水車の規模に応じて臼数は異なるが、臼一つで精米したのは1斗(10升)ほど。所要時間は半日。途中で様子を見に行かなければならないが、それが真夜中にあたると、少し気持ち悪かった。京都市左京区岩倉西河原。昭和35年(1960)頃。

(2)かつての農家の暮らし

このような米や麦を中心とする農産物による収入は、わずかであった。明治25年(1892)の日出新聞によると、京都府の農家一人あたりの収入は、1年あたり15円。当時、1人が1年間に米を1石(150kg)程度食べたと言われること、そして京都市における玄米(中位の品質)1石の値段が7円15銭であることを考えると、決して多くない。農家は、明治時代前期には、主に作付面積の拡大によって、そして明治時代末期・大正時代前期には、主に反当収量の増大によって、収入増加をはかった。事実、1880~1886年における京都府の反当収量は1.36石であったのに、1912~1916年におけるそれは1.99石に伸びている*2

しかし反当収量を増やそうとすれば、優良品種を導入するだけでなく、肥料も改善しなければならない。ところが大豆油粕(あぶらかす)、鰊粕(にしんかす)などの金肥を購入するには、金がいる。わずかな収入しか得られない一般農家にとって、金肥の購入は容易ではなく、自給可能な屎尿(しにょう)、厩肥(きゅうひ)、堆肥(たいひ)、ワラ、草木灰、鶏糞(けいふん)などに頼らざるをえなかった。屎尿も、よその家のをもらおうとすれば、無料ではすまされなかったが、それでも大豆油粕、鰊粕などよりは安く入手できた。

また、米以外にも、その土地の風土にあった作物、消費地への運搬の関係で有利になるものをつくり、少しでも収入を増やそうとしたのであった。そして天皇即位の大典に献上する物も、それぞれの地域の特産物を献上した。

ジュンサイ採り 14. ジュンサイ採り。ジュンサイは、夏の京料理に欠かせないものの一つで、新芽先端にある寒天状のまだ開いていない部分を、すまし汁や酢の物に入れる。深泥池でジュンサイ採りを認可されていたのは、2軒の農家で、6月から8月にかけて舟に乗り、先に鎌をつけた竹竿でジュンサイを刈り取り、新芽だけをむしりとって、桶に入れ、残りは池に戻した。新芽は、むしりとられた後も、時間がたつと開いていくので、採取は昼まででやめ、採れた1升ほどの新芽を、午後に京都の料亭やホテルなどに売りに行った。深泥池がある上賀茂村の物産として、すでに明治時代初期の『京都府地誌』には5石(1石=10斗=100升)のジュンサイも挙げられている。ところが戦後、池の東南部丘陵にある松ヶ崎浄水場配水池から高濃度の残留塩素を含む水道水が大量に流入するようになり、酸性環境を好むジュンサイは弱った。さらに昭和30年代中頃、近くの病院から流れ込む屎尿や薬品混じりの汚水の影響が顕著になり、富栄養を好むハス、ヨシ、マコモなどが繁茂して、開水域が減少し、外来種がはびこって、ジュンサイが減少。そのころから農家は深泥池でジュンサイを採らなくなったのであった。京都市北区深泥池。昭和35年(1960)8月25日。

チマキザサ 15.  チマキザサ。祇園祭の時に厄よけのお守りとして売られるチマキは、深泥池の集落でつくられている。チマキの材料であるチマキザサは、『京師巡覧集』(1673年刊)の頃には市原村(現・京都市左京区市原)で、『雍州府志』(1686年頃刊)の頃には鞍馬村(現・京都市左京区鞍馬)で採取されていたが、いつの頃からかもっと奥の花脊村(現・京都市左京区花脊)で採取されるようになり、1990年代からは京都市左京区大原百井でも採取されるようになった。ササを採取するのは9月か10月頃。それまでに採ると、葉の色が白っぽく、葉も弱い。落葉樹の下に生えているササを選んで採り、束ねて天日で2日ほど干した後、鞍馬街道経由で深泥池の農家まで運んだ。深泥池の農家の人は、先を折った稲ワラの芯の部分をササの葉1枚で包みこみ、畳屋で分けてもらう畳の切れ端をほぐしたイグサを割いたもので巻いて、チマキをつくる。そのようにしてつくりためたチマキを、6月に鉾町に納品するのである。そのチマキザサが、最近、ほとんど枯れた。花が咲いて地上部が枯れても、根が残っているので、ササは再生するが、再生したその若芽をシカが食べてしまうので、再生がすすまないのである。シカもササを十分に食べられないようで、近頃見かけるシカの糞は緑っぽくなく、黒っぽいものばかりである。京都市左京区大原百井。平成4年(1992)頃の9月。

豆干し 16. 豆干し。あぜで表作につくるのは、大豆が多いが、小豆も少しつくる。山間部に入り、裏作に作物をつくるのが難しい地域だと、あぜで表作につくる豆が、食糧としてとても貴重になった。船井郡新庄村船枝(現・南丹市八木町船枝)。昭和17年(1942)10月21日。

スグキ畑 17. スグキ畑。上賀茂・深泥池地域では、早稲を植え、9月初めにはそれを収穫。その後すぐに田を耕して、スグキを蒔いた。そのスグキを3回間引き、3回目に間引いた後、スグキとスグキの間に麦を植える。そして麦が芽を出した12月末に、スグキをすべて引く。麦は5月末に収穫。上賀茂・深泥池地域では三毛作を行うところがあったのである。それを可能にしていたのは、京都からもらってくる屎尿(しにょう)であった。区画整理が始まっており、まっすぐな道が畑の間を通っている。背後に見えるのは比叡山。京都市北区上賀茂。昭和16年(1941)晩秋。

スグキ漬け 18. スグキ漬け。スグキは12月末に収穫し、田でおおむね掃除した後、表面の皮をむき、塩をかけて一昼夜荒漬けをした。その後、スグキを、一本一本ていねいに水洗いして、本漬けし、最後に、空気に触れないように葉で覆って、ふたをして、重石をかけた。この仕方では、漬け上がるのに5月ごろまでかかった。ところが明治時代初めに深泥池地区で火事があり、焼け跡から取り出したスグキを食べると、ずいぶんおいしかったので、それ以後、室に入れ、発酵を促進するようになり、2月頃に売るようになった。今では歳暮用に売れるように調整しているところもある。京都市北区上賀茂。昭和32年(1957)11月2日。

杉の葉を乾燥させたものを、水車ですりつぶし、タブの葉のノリコ、染料を混ぜ合わせて、線香用の粉にした 19. 杉の葉を乾燥させたものを、水車ですりつぶし、タブの葉のノリコ、染料を混ぜ合わせて、線香用の粉にした。画面左の小屋の中に見えるのは杉葉。この水車は、この後、ほどなく取り壊された。京都市左京区鞍馬。昭和49年(1974)頃。

大正天皇即位のための大嘗宮(だいじょうきゅう)造営用に小野郷から材木を運んだ 20. 大正天皇即位のための大嘗宮(だいじょうきゅう)造営用に小野郷から材木を運んだ。京都御所。京都市上京区。大正4年(1915)8月8日。

昭和天皇即位の大典用に雲ヶ畑から用材を牛に引かせて運んだ 21. 昭和天皇即位の大典用に雲ヶ畑から用材を牛に引かせて運んだ。愛宕郡雲ヶ畑村(現・京都市北区雲ケ畑)出合橋。昭和3年(1928)7月19日。

昭和天皇即位の大典用に、萩柴40束を馬の背に振り分けて載せ、運んだ 22. 昭和天皇即位の大典用に、萩柴40束を馬の背に振り分けて載せ、運んだ。岩倉のような京都の近郊地域は、京都への柴の供給地であった。愛宕郡岩倉村長谷別れ(現・京都市左京区岩倉)。昭和3年(1928)9月10日。

桂川久我東條前堤防114間余が決壊し、修築工事が行われている時 23. 桂川久我東條前堤防114間余が明治36年(1903)7月9日に決壊し、8月5日に修築工事が行われている時。修築工事には、地元の人もあたっていたであろう。乙訓郡久我村(現・京都市伏見区久我)。

*2 京都府立総合資料館編(1970) 京都府百年の年表(農林水産編) 第3巻:5

(3)かつての冠婚葬祭

以上は、まだ機械らしい機械のないころの農山村の暮らしである。そして農作業だけでなく、暮らしにも人々の協力を必要としていた。たとえば冠婚葬祭には人々の協力が不可欠であった。

葬列 24. 葬列。飯持ち、位牌持ち、はた持ちなどの後に、棺桶が続く。地域の人それぞれが、葬式の準備、葬式、葬列、墓穴堀りなどにおいて、役割をはたしていた。亀岡市宮前町宮川。昭和31年(1956)7月12日。

土葬 25. 土葬。土葬の時は、棺桶を埋めた後、土をこのように山盛りにして盛る。そして棺桶が腐り、盛り土がへこんだ後、地面をならして、墓石を置いたのであった。加佐郡加佐町西方寺(現・舞鶴市西方寺)岡田中の墓地。昭和30年(1955)。

花嫁を見ようと待つ村人 26. 花嫁を見ようと待つ村人。地域の一員となる花嫁の到着は村人の大きな関心事であった。京都市左京区静原。昭和33年(1958)11月19日。

(4)かつての子どもの遊び

かつて子どもたちは、自然の中で遊び、地域共同体の中で育っていた。

百井尋常小学校の朝 27. 百井尋常小学校の朝。女児には「たちかけ」をはいた子が多い。百井のような山村では、仕事を手伝うにも、遊ぶにも、ズボンのような形をした「たちかけ」をはいていないと、活発に動き回れなかった。愛宕郡大原村百井(現・京都市左京区大原百井)。昭和10年(1935)。

ラジオ体操 28. ラジオ体操。当時はテープレコーダーなどなかったので、延長コードを使い、外でラジオをかけて体操した。この写真には写っていないが、子どもたちの後ろでは、町内の大人も体操をしている。京都市上京区小川中立売下る有春町。昭和16年(1941)8月。

比叡山蛇ケ池スキー場 29.  比叡山蛇ケ池スキー場。大正14年(1925)12月20日開業の叡山鋼索(こうさく)線があるので、京都市中心部から一番短い時間で行けるスキー場として人気があったが、温暖化のせいで雪不足になり、人工雪で補っていたものの、平成14年(2002)に閉鎖された。昭和17年(1942)1月2日。京都市左京区。

愛宕山スキー場 30. 愛宕山スキー場。昭和4年(1929)、愛宕山に清滝からの鋼索鉄道(ケーブルカー)が走るようになり、スキー場も開業した。この写真では多くの人が利用しているが、スキー場へは、鋼索鉄道愛宕駅からでも、かなり歩いたはずである。鋼索鉄道は、戦時中に不要不急線に指定され、昭和19年(1944)に廃止。その後、再建されることはなかった。京都市右京区。昭和17年(1942)。

花脊スキー場 31. 花脊スキー場。京都市内から路線バス1本で行けるスキー場として人気があったが、大雪の時などは、バスが花脊峠を越えられなかったので、スキー場へ行くのに、スキーをかついで花脊峠下から、あるいは鞍馬から歩いた人も多かった。しかし温暖化のせいで、雪があまり降らなくなった。京都市左京区花脊。昭和27年(1952)。

大徳寺町の地蔵盆 32. 大徳寺町の地蔵盆。地蔵菩薩は地獄にいる子どもを鬼から守るという信仰により、地蔵の縁日である8月24日に念仏を唱えるなどしていたのが、やがて24日とその前日に子どものための行事を行うようになっていったのが、「地蔵盆」であろう。京都市の中心部などでは、戦前にそのような行事を写した写真が出てくることがあるが、周辺部へ行くと、戦後、それも昭和30年代~40年代になってからである。とても多くの子どもが写っている。「坊ちゃん刈り」と呼ばれる髪型の男の子が多くみられる。京都市北区紫野。昭和30年(1955)8月23日。

川でかけっこ 33.  川でかけっこ。疏水の水のあふれた分を鴨川に流しているところを、子どもたちが走っている。背後に見えるのは丸太町橋。京都市左京区。昭和30年(1955)9月4日。

若王子(にゃくおうじ)水泳場開き 34. 若王子(にゃくおうじ)水泳場開き。大正時代中頃に熊野若王子神社南西側の疏水分線にあった水泳場を、昭和24年(1949)に再開。昭和28年から京都市水道局共済組合が管理していた。当時、京都市内のほとんどの小学校にはプールはなく、水泳の授業は若王子水泳場、南禅寺プール、夷川船溜などで行われていた。この写真に見られる若王子水泳場はたいへんな賑わいである。京都市左京区。昭和31年(1956)7月15日。

児童安全プール 35. 児童安全プール。昭和30年代前半の京都市には、プールのある小学校はほとんどなかった。泳ごうと思えば、琵琶湖や日本海へ行けばよいが、時間も費用もかかる。子どもは近くの川で泳ごうとしたが、川の水量はわずかである。そこで、大人も子どもも協力して、石を集め、川を堰(せ)きとめ、プール代わりにしたのであった。京都市左京区岡崎付近。昭和34年(1959)7月20日。

水泳 36. 水泳。賀茂川ほどの大きな川になると、農業用水を取水するために川を堰きとめたところや、堰(せき)の下などに少し深いところがあり、泳ぐことができた。タイヤの浮き輪の他に、ビニールの浮き輪が見られる。京都市北区上賀茂付近の賀茂川。昭和36年(1961)。

木津川八幡水泳場 37. 木津川八幡水泳場。背後に見える国道1号線(現・京都府道・大阪府道京都守口線)の橋と京阪電気鉄道の鉄橋の間の木津川原は、現在では草木に覆われているが、かつてはこのような砂浜で、夏になると水泳客でにぎわっていた。京阪電気鉄道八幡駅からすぐの位置にあることと、木津川がきれいであったことがにぎわいの理由であろう。浮き輪はほとんどビニール製になっている。八幡市。昭和37年(1962)。

スイカ割り 38. スイカ割り。夏の代表的な食べ物といえばスイカ。今でこそ手ごろな値段で買えるようになったが、昔はずいぶん高かった。冷蔵庫などまだ普及していなかった時代、買ってきたスイカを川につけて冷やし、スイカ割りを楽しんだ後、みんなで食べるのは、最高のぜいたくであった。目隠しをしてスイカを割ろうとしても、なかなか当たらないのであるが、写真では、この人がうまく当てそうであり、皆の視線が集中している。相楽郡笠置町の木津川原。昭和41年(1966)。

2 戦前の交通手段の発達と暮らしの変化

以上のような農業を中心とする暮らしは、つらいわりには大きな収入をもたらさなかった。それだけに、運搬手段や交通手段が発展すると、人々はそれを利用し、暮らしが少しずつ変化していった。

交通手段の発展は、明治10年(1877) における京都~神戸間の鉄道開通、明治13年(1880) における京都~大津間の鉄道開通、明治22年(1889) における京都~宮津間の道路の整備、明治26年(1893) における京都~宮津間の乗合馬車の営業開始、明治28年(1895)の京都電気鉄道開業(2月伏見線・4月木屋町線)、明治45年(1912)における京都~出雲今市間の鉄道開通などから始まった。

車が少しずつはいり始めたのは大正時代であり、大正14年(1925)にフォードが、昭和2年(1927)にゼネラルモーターズが、日本で自動車の生産を始めるようになると、運送屋や乗合自動車にも車が使われるようになった。

日本は、第一次世界大戦(1914~1918年)時には好景気であったが、その後、大正9年(1920)の反動恐慌に始まり、大正12年(1923)の関東大震災後の不況、昭和2年(1927)の金融恐慌、昭和4年(1929)の世界恐慌というように、深刻な不況に明け暮れた。京都の近郊農村で不況が最も深刻であったのは、昭和5年(1930)~昭和6年であった*3。働きに行きたくとも、京都では失業者が増え、勤め先が見つからず、勤め先がある人でも、賃金をずいぶん下げられた。そのようなところに、昭和9年(1934)9月21日、室戸台風が襲い、昭和10年(1935)6月29日には大水害が起こったのであった。

勧進橋を渡る伏見方面行きの電車 39. 勧進橋を渡る伏見方面行きの電車。開業時の七つ窓の電車より大きくなり、九つ窓になっている。現・京都市伏見区深草と南区上鳥羽の間の勧進橋。明治37年(1904)頃。

鐘ヶ淵紡績京都支店 40. 鐘ヶ淵紡績京都支店。鐘ヶ淵紡績京都支店が愛宕郡田中村字高野原(現・京都市左京区高野)に設立されたのは明治39年(1906)10月であった。これはそのころの工場を写したものと思われる。

京都府立医学専門学校前の河原町通 41. 京都府立医学専門学校前の河原町通。河原町通の幅が狭く、市電がまだ通っていない。この当時は寺町通が南北の幹線道路の一つであり、京都電気鉄道は寺町通を通っていた。河原町通に市電が通るようになったのは、大正13年(1924)である。京都市上京区河原町通広小路上る。明治42年(1909)。

西川蒲団店店先のにぎわい 42. 西川蒲団店店先のにぎわい。京都市上京区大宮通寺之内上る。明治時代。

デパート形式の大丸京都店開店 43. デパート形式の大丸京都店開店。鉄筋木造3階建。京都市下京区四条通高倉西入る。明治45年(1912)。

室戸台風 44. 室戸台風。京都における最大瞬間風速最高値42.1mを記録した室戸台風による府下の被害は、死者242人、重軽傷者1258人、全半壊家屋5342戸*4。西陣尋常小学校の校舎がつぶれて、児童41人が亡くなったほか、梅津尋常高等小学校の校舎もつぶれた。その威力は、京都市東山区の清水寺東側の山を写したこの写真からもうかがい知ることができる。山の木がほとんど倒れている。昭和9年(1934)9月。

昭和10年の豪雨による被害 45. 昭和10年の豪雨による被害。明治時代以降の洛北における水害で最悪のものは、昭和10(1935)年6月29日の水害である。京都気象台における総雨量は269.9mmであったが、被害が一番大きかった洛北では、もっと降ったのであろう。鞍馬川と貴船川の合流地点にあるこの伸銅用の水車はこの水害によって壊れた。背後に写っている鞍馬電気鉄道(現・叡山電鉄鞍馬線)の鉄橋は、橋げたが流され、画面右上のあたりで線路が垂れさがっている。この大雨による洛北の被害は、死者2、流失家屋39、全壊家屋26、半壊家屋42であった*5。愛宕郡鞍馬村貴船口(現・京都市左京区鞍馬貴船町)。昭和10年(1935)6月29日水害後。

タクシー 46. タクシー。京都市の市バスの営業が始まったのが昭和3年(1928)4月。その頃から運送業者がトラックを使うようになり、タクシーも多く見られるようになった。京都市上京区出町。昭和5年(1930)頃。

下鴨本通開通 47. 下鴨本通開通。区画整理を進めていた現在の洛北高校付近への通路として、下鴨本通が社家町の真ん中に造られた。京都市左京区下鴨。昭和5年(1930)。

エレベーターガール 48. エレベーターガール。エレベーターガールが初めて登場したのは、昭和4年(1929)に新築開店した松坂屋上野店。そのエレベーターガールが大丸京都店にも登場した。京都市下京区四条通高倉西入る。昭和12年(1937)頃。

友禅流し 49. 友禅流し。友禅染では、反物に色を染め、定着させた後、染着しきらなかった余分な染料や、糊置き加工において施された「伏せ糊(原料は餅米)」を洗い流す必要がある。ところが糊は、しばらく水に浸けてふやかさないと、生地からはがれてくれない。また、常に新しい水で洗ってやらないと、流れ落ちた染料が再び生地を染めてしまう。そこで、いつもきれいな水が流れている川の浅瀬で、友禅流しが行われるようになった。ある時期から、川での水洗いは、鴨川では一条より上流、大堰川では嵐山より下流、桂より上流と決まり、写真では、腰まである長靴をはいた職人が、川に入って布を水にさらし、糊を洗い落としている。京都市右京区梅津上野橋上流。昭和15年(1940)頃。

*3 京都の歴史9(1976) 學藝書林 133-134

*4 京都府立総合資料館編(1970)京都府百年の年表 第7巻: 206

*5 社会時報(1935) 第5巻第7号: 23-34

3 戦争と暮らしの変化

そのような状況の中、日本は戦争に入り、徴兵、徴用によって、農村労働力が、質的にも量的にも不足していった。そのような労働力不足を補うため、農作業にエンジン付の籾すり機が昭和時代初期に登場したが、石油不足のため、昭和13年(1938)頃にはまた土臼を用いての籾すり、手動式の籾すり機を用いての籾すりに戻っていった。車も、ガソリンがなくなり、動かせなくなっていった。木炭車が導入されたが、それはガソリン車の代わりになれるものではなかった。そして食糧の減産を食い止めるため、学生が勤労奉仕に駆り出されていった。また、農家の人が農作業に励めるように、農繁期託児所が設けられ、女学生や主婦などが子どもの世話をしたのであった。

さらに、工場でも労働力不足を補うために、学生が勤労奉仕に駆り出されていった。

そして日本本土に空襲の危険が高くなると、京都でも、昭和18年(1943)頃から防空演習がさかんに行われるようになり、防空壕も掘られるようになった。

また、戦況が悪化し、航空兵を養成する必要性が高まると、グライダーを使った滑空訓練講習会が各地で開催され、少年の飛行機操縦に対する適性を見極め、適性を持つ少年に対して、航空兵になることが勧められるようになった*6

献納米 50. 献納米。昭和14年(1939)3月には「神饌幣帛料共進(しんせんへいはくりょうきょうしん)の制」が定められ、米などを神社に納めることが農村に要求された。これはそれにともない、明治神宮などへ米を献納する時の様子を写したもの。京都市左京区の修学院尋常高等小学校。昭和14年(1939)頃。

木炭バス 51. 木炭バス。昭和12年(1937)に始まった日中戦争が激化すると、軍需工業用、軍事用の石油需要も増大し、昭和12年末に石油の消費統制が始まった。そして昭和16年(1941)、アメリカの対日石油禁輸を機に、第三次消費規制が実施され、営業用・自家用乗用車、バス等のガソリン消費が禁止された。このため、軍以外の一般の自動車は、ガソリン以外の代用燃料(石炭、木炭、天然ガス等)を使用した自動車(代燃車)を使わざるを得なくなった。しかし燃料として薪や木炭をもやすので、木炭車には、エンジンをかけるのに時間がかかる欠点があった。熟達者でも、エンジン始動準備に1時間程度を要したという。また、木炭ガス発生装置は、使用中、絶えず高温にさらされるため、熱による劣化が激しく、短期間での修繕・交換が欠かせなかった。しかも出せる力も弱かった。船井郡新庄村船枝(現・南丹市八木町船枝)入口。昭和17年(1942)。

サイドカー 52. サイドカー。幅の広い国道1号線(現・三条通)に見られるのは1台のサイドカーだけ。このサイドカーは軍用車なのであろう。京都市東山区四宮(現・京都市山科区四宮)。昭和18年(1943)頃。

農繁期託児所 53. 農繁期託児所。昭和12年(1937)に日中戦争が始まると、農家は、働き手を奪われることが多くなった。しかも農業機械もないので、農業生産力が落ち、国内の食料不足が深刻になっていった。それでも農産物を生産できるのは、農村しかない。せめて農繁期だけでも、農家の人に、子どもに煩わされることなく、農業生産活動に励んでもらおうと、社寺、学校、大きな農家などの場所を借りて、大日本国防婦人会や女子青年団などの人が、子どもを預かった。乙訓郡羽束師村(現・京都市伏見区羽束師)の神川託児所菱川支所。昭和15年(1940)6月頃。

大原村勤労報国隊 54. 大原村勤労報国隊。大原村の女子青年団の人と学生が脱穀を手伝った。愛宕郡大原村(現・京都市左京区大原)。昭和16年(1941)11月3日か。

馬のエサづくり 55. 馬のエサづくり。馬のエサをつくることを奉仕活動として行っているところであると思われる。京都市東山区小野(現・京都市山科区小野)。昭和16年(1941)頃。

師範学校生による勤労奉仕 56. 師範学校生による勤労奉仕。戦争が長期化して食糧不足が深刻になってきたが、食糧を増産しようと思っても、男性の働き手は軍にとられているので、農村は働き手不足になっていた。それを補うことを求められたのが学生である。同志社は昭和時代初期に広い土地を岩倉村内に購入していたが、使われていない土地がたくさんあった。そこを耕し、食糧を増産しようとしていた。愛宕郡岩倉村(現・京都市左京区岩倉)。昭和17年(1942)頃。

中等学校夏期滑空訓練講習会 57. 中等学校夏期滑空訓練講習会。福知山中学校(現・福知山高校。福知山市)。昭和18年(1943)8月18日。

滑空隊に入った人たち 58. 滑空隊に入った人たち。福知山中学校(現・福知山高校)。昭和18年(1943)10月17日。昭和19年(1944)になると、滑空訓練への参加資格に「必ズ陸海軍航空兵ヲ志願スルモノ」という一項が加えられた。

滑空士 59. 滑空士。このような状態で人が乗っているグライダーを引くのは人。ゴム索(ゴムバンドの束)の中央部をウインチ曳航(えいこう)用のフックに掛け、両端にはそれぞれ3~4人が付き、左右に分かれてやや斜めに引っ張った。福知山中学校(現・福知山高校)。昭和18年(1943)。

滑空 60. 滑空。人力で本当に飛ぶのかと思われるかもしれないが、飛んでいる。福知山中学校(現・福知山高校)。昭和18年(1943)頃。

学徒動員。京都織物の工場で働く精華高等女学校生 61. 学徒動員。京都織物の工場で働く精華高等女学校生。昭和19年6月から精華高等女学校の5年生と3年生の一部が京都織物に動員され、パラシュートや軍服の生産に励んだ*7。京都市左京区吉田下阿達町の京都織物(現・京都大学東南アジア研究所)。昭和19年(1944)。

学徒動員。洛北実務女学校から旧・舞鶴海軍工廠(こうしょう)(現・日立造船)へ動員された人たち 62. 学徒動員。洛北実務女学校から旧・舞鶴海軍工廠(こうしょう)(現・日立造船)へ動員された人たち。旧・舞鶴海軍工廠は、昭和20年(1945)7月29日に爆撃を受け、横穴式防空壕(ぼうくうごう)の上に落ちた爆弾のため、97人が死亡、百数十人が重軽傷をおった。この人たちの同窓生も44人中7人が死亡。失明した人もいる。宿舎の和田寮(舞鶴市)。昭和20年(1945)5月6日。

防空演習 63. 防空演習。アメリカ軍は、マリアナ諸島を攻略してからは、陸軍戦略航空軍の大型爆撃機B-29を用いて日本本土を攻撃できるようになり、昭和19年(1944)11月24日の中島飛行機武蔵製作所(現・武蔵野市)への攻撃以降、日本本土を次々と空襲するようになった。京都でも、昭和19年(1944)頃には防空演習がさかんに行われるようになった。京都市中京区柳馬場油屋町。昭和19年(1944)頃。

油屋町防具庫 64. 油屋町防具庫。これらの道具を使って防空演習が行われたのであるが、これらは焼夷弾(しょういだん)に対しては無力であったと思われる。京都市中京区柳馬場油屋町。昭和19年(1944)頃。

防空壕掘り 65.  防空壕掘り。女学生がはいているのはモンペ。府立第二高等女学校(現・朱雀高校)。京都市中京区西ノ京。昭和19年(1944)頃。

防空頭巾 66. 防空頭巾。外出時には防空頭巾をかぶるようになった。疏水から御陵(みささぎ)の京都薬学専門学校(現・京都薬科大学)方向を見ている。京都市東山区(現・京都市山科区)。昭和19年(1944)頃。

*6 武島良成(2007)戦時期の京都における中等学校の滑空訓練 京都教育大学紀要 第110巻: 13-30

*7 精華百年史編纂委員会(2005)精華百年史 250-253

4 戦争直後の暮らしと農作業の機械化

戦後も食料不足はすぐに解消しなかった。土地生産力が極度に落ちていたので、昭和20年(1945)における京都府の米生産高は57万石。豊作の大正9年(1920)には90万石あったことを考えると、ずいぶん少ない。そこへ外地から復員した人と帰国した人が加わったのであった。

そのような苦境から脱却するために食糧増産がはかられ、エンジン付き籾(もみ)すり機や、エンジンの回転運動をベルトで脱穀機に伝えるという方式を用いての動力脱穀機が、昭和25年(1950)頃からまた使われるようになっていった。大八車のゴム車輪、リヤカーもそのころから使われるようになっていった。耕耘機(こううんき)は、それより少しおくれ、昭和30年(1955)を過ぎたころから少しずつ普及していった。

学校でヤギを飼う神川小学校の子たち 67. 野球。進駐軍(しんちゅうぐん)に勧められ、野球をしている神川国民学校6年生。乙訓郡久我村(現・京都市伏見区久我)。昭和21年(1946)。

68. 学校でヤギを飼う神川小学校の子たち。愛宕郡岩倉村の明徳小学校(現・京都市左京区)では、戦後の食糧難の時、学校で飼っていたヤギを食べることになった。ヤギを殺す役目を割り当てられたのは男性教員。ところがうまく殺せない。眼球が飛び出しても、まだ死んでくれない。四苦八苦して殺し、解体して、みなで食べたが、その男性教員は食べる気がしなくなっていたのであった。なお、「国民学校」は、昭和22年(1947)4月から「小学校」と改称された。乙訓郡久我村(現・京都市伏見区久我)。昭和23年(1948)。

サイドカー 69. サイドカー。道を走っているのは外車とサイドカーである。京都市中京区四条河原町。昭和24年(1949)頃。

進駐軍用の教会 70. 進駐軍用の教会。京都市美術館北側の現・岡崎グラウンドに教会があり、進駐軍の兵士が結婚式を挙げたりしていた。現・勧業館は進駐軍の下士官宿舎、現・京都市美術館は兵舎、後に病院となり、動物園の西側部分は駐車場であった。京都市左京区。昭和27年(1952)頃。

海外からの引き揚げ 71. 海外からの引き揚げ。第2次世界大戦が終わった後、海外諸地域に残された日本人は、軍人・軍属が330万人、一般人が300万人以上といわれ、これらの人々を短期間に帰国させることが、大きな課題となった。舞鶴港は、昭和25年(1950)以降、国内唯一の引揚港となり、昭和33年(1958)9月の最終船入港まで、重要な役割を果たした。舞鶴市。昭和28年(1953)5月8日。

海外からの引き揚げ船を待つ人々 72. 海外からの引き揚げ船を待つ人々。舞鶴市。昭和28年(1953)5月8日。

耕耘機(こううんき)購入 73. 耕耘機(こううんき)購入。久我地域には山がなく、牛のエサにもなる稲ワラを燃料にまわさなければならなかったので、牛を飼うことが困難であった。そのため、耕耘機の登場は大きな喜びであった。京都市伏見区久我。昭和30年(1955)頃。

動力脱穀機 74. 動力脱穀機。エンジンの回転運動をベルトで脱穀機に伝えるという方式を用いての動力脱穀機は、昭和25(1950)年頃から少しずつ普及していった。足踏み式脱穀機に比べ、ずいぶん能率が上がったが、稲束をしっかり持っていないと、稲束が丸ごと機械に吸い込まれてしまい、機械が止まってしまった。京都市伏見区久我。昭和36年(1961)頃。

5 戦後の運搬手段・交通手段の発達

農作業だけでなく、運搬手段、交通手段も変わっていった。一般の人が物を運ぶ場合は、頭上に載せるとか、背負うとか、大八車、リヤカーを使うことが多かったが、昭和20年代後半からバスやトラックが復活してきた。また、一般の人にも、昭和20年代末からバイクが、そして昭和30年代初めからは自家用車が浸透し、道路が整備されていった。

頭上にものを載(の)せて運ぶ女性 75. 頭上にものを載(の)せて運ぶ女性。手も添えずに上手に運んでいる。賀茂大橋。昭和31年(1956)1月1日。

トロリーバス(無軌条電車) 76. トロリーバス(無軌条電車)。昭和7年(1932)に四条大宮~西大路四条間で開業。昭和12年(1937)に梅津にできた日新電機、昭和19年(1944)に太秦にできた三菱重工業京都機器製作所に通勤する人を運ぶため、東山仁王門~蹴上間の旧市電のレールを外して、西大路四条~梅津間を結ぶ市電に転用していた(西大路四条~天神川間(1945年2月2日)・天神川~梅津間(1945年8月3日))。昭和33年(1958)11月30日にはその西大路四条~梅津間の市電を廃止。トロリーバスがそこを走るようになり、それが昭和37年(1962)には松尾橋まで走るようになった。しかしディーゼルバスが大型化し、トロリーバスでなくとも輸送力を確保できるようになり、昭和44年(1969)にトロリーバスは全廃され、市バスに転換された。京都市中京区四条坊城。昭和30年(1955)頃。

八瀬と上高野の間を走る京都バス 77. 八瀬と上高野の間を走る京都バス。柴を刈りすぎたためか、背の高い木が山にほとんど見られない。京都市左京区。昭和26年(1951)頃。

百万遍バス停(西行) 78. 百万遍バス停(西行)。市バスのデザインは、昭和27年(1952)に若草色と濃緑色の曲線からなる現在のデザインに変更されたが、その前は紺色であった。これはデザイン変更前のバス。京都市左京区吉田。昭和27年(1952)頃。

オートバイ 79. オートバイ。第二次世界大戦敗戦後、日本の企業は航空機や乗用車の製造を禁じられていたが、オートバイ業界は規制が緩かったので、技術者が流入。昭和27年(1952)に石油製品の価格及び配給の統制が撤廃されたこともあり、オートバイが盛んに造られ、若者の間でオートバイ人気が高まった。京都市上京区千本中立売。昭和28年(1953)。

特急つばめ号。9時間かけて東京~大阪間を走った 80. 特急つばめ号。昭和25年(1950)5月につばめ号の姉妹列車として特急はと号が誕生。それぞれ9時間かけて東京~大阪間を走った。そして昭和25年(1950)11月には所要時間が8時間に短縮された。それでも東京から大阪、大阪から東京への列車は、それぞれ1日に2本しかなかった。この写真には線路が3線写っているが、1線は追い越し車線。上り坂を煙と蒸気をはいて走る姿は力強いが、蒸気機関車が旅客列車をけん引する場合、1km走るのに石炭約16㎏、水約100リットルを必要とした。それだけの石炭と水を運びながら走るのは、列車にとって大きな負担であった。京都市東山区(現・京都市山科区)の山科駅西側。昭和28年(1953)頃。

ボンネット型の市バス 81. ボンネット型の市バス。十二間道路(現・白川通)の別当町(京都市左京区北白川)付近を市バスが走っている。北向きに走っているが、行き先表示は「京都駅」。終点の上終町が近いので、行き先表示を「京都駅」に変えたのであろう。道路の中央のみ舗装されている。昭和29年(1954)頃。

国産のトラック 82. 国産のトラックは、昭和時代初期には走るようになっていたが、敗戦直後はGHQによって製造を禁止された。しかし昭和20年(1945)10月には、トラックにかぎって生産を認められた。そして昭和27年(1952)に石油製品の価格及び配給の統制が撤廃されると、トラックは大いに出回るようになり、戦後復興のための木材などを運んだのであった。京都市左京区花脊原地中の町。昭和30年(1955)頃。

国道1号線を通る神輿 83. 国道1号線を通る神輿。昭和30年(1955)、トヨタが純国産技術で開発した「クラウン」を発表するが、車といえばまだ物を運ぶためのものやバスが主で、車の台数も少なく、国道1号線(現・三条通)でありながら、神輿が通れる状態であった。京都市東山区(現・京都市山科区)。昭和30年(1955)10月20日。

交通整理の警官 84. 交通整理の警官。ずいぶん交通量が増え、警官が交通整理をしている。祇園石段下(京都市東山区)。昭和31年(1956)4月。

急行いずも。東京から福知山線・山陰本線経由で出雲市駅まで運転していた急行列車 85. 急行いずも。東京から福知山線・山陰本線経由で出雲市駅まで運転していた急行列車。昭和31年(1956)に「出雲」と改称され、その後、ディーゼル車のDF50にけん引されるようになった。駅前にボンネット型のバスが見られる。天田郡夜久野(現・福知山市夜久野)。昭和31年(1956)頃。

大堰川沿いの花脊原地新田を走るボンネット型の京都バス 86. 大堰川沿いの花脊原地新田を走るボンネット型の京都バス。昭和32年(1957)頃。京都市左京区。

昭和33年(1958)4月19日に開通した比叡山ドライブウェイの入口 87. 昭和33年(1958)4月19日に開通した比叡山ドライブウェイの入口。この時代には車はまだ一般化しておらず、写っている車もクラウン、ジープ、三輪車、オートバイなど、さまざまである。しかし軽自動車としては史上初めて大人4人が乗れるスバル360が登場し(1958年)、車の大衆化がすすんでいった。大津市田の谷峠。昭和33年(1958)4月22日。

国道1号線。自転車がたくさん走っている。 88. 国道1号線。自転車がたくさん走っている。京都市東山区(現・京都市山科区)。昭和33年(1958)6月。

特急こだま号 89. 特急こだま号。昭和31年(1956)11月、東海道本線全線の電化が完成。電気機関車EF58形が特急つばめ号と特急はと号をけん引するようになり、東京~大阪間の所要時間は7時間半になった。昭和33年(1958)11月からは151系電車の特急こだま号が走るようになり、東京~大阪間の所要時間は、6時間50分、昭和35年(1960)6月からは、6時間半となったのであった。京都市東山区(現・京都市山科区)の山科駅西側。昭和33年(1958)10月の特急こだま号の試運転。

トラック 90. トラック。昔なら、百井からは、炭にでもしなければ、木を運び出すことなどできなかったが、トラックが登場すると、木を運び出せるようになった。百井から神崎製紙へ木を運ぶところ。京都市左京区大原百井。昭和35年(1960)頃。

北野線の市電 91. 北野線の市電。下ノ森(京都市上京区)を走る市電のかたわらを、おばさんがリヤカーに野菜を載せて売り歩いている。昭和36年(1961)4月30日。

出町柳駅発の電車が到着するのを待つ実相院前行き連絡バス(京都バス)の車掌 92.  出町柳駅発の電車が到着するのを待つ実相院前行き連絡バス(京都バス)の車掌。写っている電車は出町柳駅行き。この頃の岩倉には、車はほとんど走っていなかった。京都市左京区の京福電気鉄道(現・叡山電鉄)岩倉駅。昭和36年(1961)頃。

八角行のボンネット型の阪急バス 93. 八角行のボンネット型の阪急バス。京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)東向日町駅(現・東向日駅)。向日市。昭和36年(1961)頃。

大山崎と橋本を結ぶ山崎の渡し舟 94. 大山崎と橋本を結ぶ山崎の渡し舟。大山崎側の水無瀬川の河口あたりから、対岸の橋本までを、昭和37年(1962)まで結んでいた。今でも橋はなく、上流か下流にまわらなければ川を渡ることはできない。昭和36年(1961)頃。

建設中の名神高速道路 95. 建設中の名神高速道路。本格的な車社会の到来を予測し、名神高速道路が建設された。この時、車はまだ走っておらず、自転車で名神高速道路を走ることができた。京都市東山区(現・京都市山科区)勧修寺付近。昭和37年(1962)1月3日。

ガソリンスタンドが並んで建つ国道1号線 96. ガソリンスタンドが並んで建ち、国道1号線をずいぶん多くの車が走るようになっている。ヘルメットをかぶらずバイクに乗っている人、三輪トラックも見られる。背後の山に見えるのは花山天文台。京都市東山区(現・京都市山科区)。昭和37年(1962)4月14日。

建設中の名神高速道路と国道171号線の交差 97. 建設中の名神高速道路と国道171号線の交差。かつて「産業道路」と呼ばれていた国道171号線にずいぶん多くの車が走るようになっている。乙訓郡大山崎村(現・大山崎町)下植野。昭和37年(1962)4月22日。

大手電機メーカーの販売店の車 98. 家庭電化製品がたくさん売れるようになり、大手電機メーカーの販売店の車も大忙しであった。京都市北区上賀茂。昭和37年(1962)。

車に乗る竹鼻稚児 99. 車に乗る竹鼻稚児。この頃には、祭の行列は危なくて国道を歩けなくなり、稚児も車に乗って移動している。京都市東山区(現・京都市山科区)。昭和43年(1968)10月27日。

6 暮らしの機械化と暮らしの変化

暮らしは、運搬手段・交通手段の発達によって大いに変化したのであるが、それとともに、暮らしの機械化によっても変化していった。たとえば井戸の電動ポンプは、人々が戦後の早い時期に求めたものの一つであった。人々は、毎日、炊事、洗濯に使う水はもちろんのこと、風呂用の水も、井戸からつるべや手押しポンプで汲むほか、川から汲むということもしていたが、それはたいへんくたびれる仕事であった。ところが井戸に電動ポンプをつけると、蛇口をひねるだけで、水がとび出てくるのである。井戸の電動ポンプが京都府でさかんに設置されるようになったのは、昭和20年代後半である。

京都府の統計によると、各耐久消費財の普及が急速にすすんだ時期(取得が1,000世帯あたり1年に20個を越え始めた年)は、洗濯機(1955年)、テレビ、ガスストーブ(1956年)、自動炊飯器(1957年)、掃除機、トランジスターラジオ(1958年)、冷蔵庫(1959年)、電気ストーブ(1960年)、石油ストーブ(1961年)、テープレコーダー(1963年)、乗用車、電話(1965年)、カラーテレビ、ピアノ(1968年)というようになる*8

このような耐久消費財の多くは、大量生産による値下がりと、昭和30年(1955)頃から始まる高度経済成長による所得向上によって、次々と手に入るようになった。

衣料に関しては、昭和25年(1950)9月20日に、衣料切符制度がようやく廃止された。そして朝鮮戦争(1950~1953年)特需を背景にして、日本の繊維業界が復興し、洋裁学校は、昭和32年(1957)、全国で7,000校となった。ミシンの年産は昭和28年(1953)に150万台を突破し、昭和31年(1956)には都市部で普及率が75%になっている*9

昭和30年代末にはスーパーマーケットが各地にできた。昭和37年(1962)には全国で2,700店であったのが、昭和38年(1963)には5,000店に増えている。こうして買い物のスタイルも変化していったのであった。

販売店を回る大手電機メーカーの宣伝カー 100. 販売店を回る大手電機メーカーの宣伝カー。この店は、自転車屋であったが、電化製品も置くようになった。南桑田郡宮前村宮川(現・亀岡市宮前町宮川)。昭和29年(1954)2月16日。

ハンドル付洗濯機(宣伝用) 101. ハンドル付洗濯機(宣伝用)。ハンドル付洗濯機では、洗濯をした後、ハンドルを回してローラーを回転させ、洗濯物をそこに通して、脱水した。亀岡市宮前町宮川。昭和30年(1955)5月。

テレビ放送に見入る近所の人たち 102. テレビ放送に見入る近所の人たち。昭和28年(1953)にテレビ放送が始まったが、シャープの国産第1号14インチ白黒テレビは、175,000円。「テレビ1台で家が建つ」とまでいわれ、一般の人には容易に手が出なかった。この写真を撮影した人は、テレビ放送受像機を自分で組み立てた。テレビ放送を見るために、近所の人が集まってきている。京都市左京区修学院中林町。昭和31年(1956)。

「テレビ品切れ」 103. 「テレビ品切れ」。昭和33年(1958)11月27日、皇太子と正田美智子氏の御成婚が発表され、翌昭和34年4月10日に御成婚の儀と御成婚パレードが行われた。そのパレードの実況生中継に先立ち、テレビ放送受像機メーカーがさかんに宣伝したためと思われるが、「テレビ品切れ」となるほどよく売れた。京都市下京区寺町。昭和33年(1958)12月27日。

販売店に持ち込まれた電気ミシンとテレビ 104. 販売店に持ち込まれた電気ミシンとテレビ。亀岡市宮前町宮川。昭和34年(1959)4月。

ミシンで縫い物をする妻 105. ミシンで縫い物をする妻。京都市伏見区羽束師。昭和38年(1963)5月。

川で洗い物をする人 106. 川で洗い物をする人。かつては川で洗面、食器洗い、洗濯などをする人が見られたが、見られなくなっていった。京都市中京区木屋町二条下る。昭和30年(1955)頃。

耐寒マラソンをする洛北中学校生 107.  耐寒マラソンをする洛北中学校生。当時、郊外では車がほとんど通らなかったので、マラソンや遠足などで道路を利用できた。京都市左京区市原。昭和31年(1956)1月。

動物園の遊園地 108. 動物園の遊園地。車は子どもに人気の乗り物であった。京都市左京区岡崎。昭和31年(1956)12月2日。

模型飛行機 109. 模型飛行機。巻いたゴムが元に戻る力を利用してプロペラを回し、飛ばす模型飛行機。この頃からよく流行った。京都市北区紫野。昭和31年(1956)頃。

友禅干し 110. 友禅干し。染着しきらなかった余分な染料や、糊置き加工で施された「伏せ糊」を洗い流した後、友禅染の反物を賀茂川の川原で干しているところ。賀茂大橋北側(京都市上京区)。昭和32年(1957)頃。

テーブルマナー講習を受ける嵯峨野高校生 111. テーブルマナー講習を受ける嵯峨野高校生。当時、ホテルでの結婚披露宴が少しずつ見られるようになってきていたが、ほとんどの人は、洋食に慣れておらず、とまどうことも多かった。そのため、テーブルマナー講習会が卒業生を対象としてよく開かれた。京都市東山区三条蹴上の都ホテル。昭和32年(1957)初め。

フラフープ 112. フラフープ。フラフープは、ポリエチレンやプラスチックなどの素材でできた直径1mほどの輪で、輪の中に入って、腰などを振って回転させ、楽しんだ。1958年にアメリカで大流行したことを受けて、同年10月18日に日本でもデパートで販売され始め、大流行するようになった。京都市北区上賀茂。昭和34年(1959)。

子どもが「月光仮面」に扮(ふん)して三輪車にまたがっている 113. 「月光仮面」。「月光仮面」は昭和33年(1958)から昭和34年にかけて放送された番組。子どもが「月光仮面」に扮(ふん)して三輪車にまたがっている。左端に見えるのは、当時流行していた三菱ピジョンスクーター。京都市中京区寺町通錦上る 。昭和34年(1959)頃。

檀王(だんのう)の朝市。 114. 檀王(だんのう)の朝市。京都には「弘法さん」、「天神さん」のほかにも朝市があった。その一つがこの檀王の朝市。疏水が横を流れ、背後には三条通と京阪電気鉄道三条駅が見える。京都市左京区川端三条上る。昭和37年(1962)頃。

衛生掃除 115. 衛生掃除。疾病対策の一つとして夏場に行われた全戸参加の行事。畳をあげ、畳と畳の間に木切れなどをはさんで、風通しをよくして干した後、畳をたたき、ほこりをはらった。京都市左京区一乗寺稲荷町。昭和39年(1964)頃。

「シェー」。「おそ松くん」の人気キャラクター「イヤミ」氏がとても驚いた時にとるポーズ 116. 「シェー」。昭和37年(1962)から『週刊少年サンデー』に連載された「おそ松くん」の人気キャラクター「イヤミ」氏がとても驚いた時にとるポーズ。大流行した。京都市左京区八瀬。昭和40年(1965)頃。

*8 京都府立総合資料館編(1971)京都府統計資料集 第4巻: 150-151

*9 下川耽史編(1997)昭和・平成家庭史年表 河出書房新社 272

7 農業の変化

このような暮らしの変化、農作業の機械化により、農家の兼業化がすすんでいったが、麦や菜種の収穫と田植えが集中する6月、稲の収穫と麦や菜種の種まきが集中する10月、11月の農作業は、兼業してできるようなものではない。多くの農家は、昭和30年代中頃から麦や菜種という裏作をつくらなくなり、稲だけをつくることによって、兼業化をすすめていったのであった。

兼業化の流れは、都市近郊における宅地化の進行による田の減少によって、加速された。京都府の耕地面積は、昭和35年(1960)には56,800haあったが、平成25年(2013)には31,500haに減り、その53年間に48%減っている*10

また農家は、草刈り機、種蒔き機、育苗器(いくびょうき)、苗を植えつける機械、稲刈り機、脱穀機、コンバイン、籾すり機、乾燥機、精米機などを借金しても買うようになり、草取りも農薬の散布ですませ、うんかやいもち病などにも農薬の使用によって対応するようになった。

さらに、用水路がコンクリートで造られ、道路がアスファルトで舗装されるようになって、用水路や農道の維持にもあまり手間がかからなくなった。以前なら、農道や用水路の維持、田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾すりなど、共同作業が多く、他の家の都合も考えて作業をすすめなければならなかったが、農業の機械化と農薬の使用による省力化がすすむと、他の家の協力なしに、自分の家の都合で農作業をすすめることができるようになった。

こうして休みの日だけで、そして家族だけで農作業を行うことが可能になってきたのである。もっとも、そら豆、大豆、小豆などをあぜに植えていると、草刈り機で草を刈ることはできず、鎌で刈らなければならない。やがて農家の人は、草刈り機を使うために、そら豆、大豆、小豆もつくらなくなっていった。今では、あぜに豆を植えている農家がきわめてめずらしくなり、植えている農家でも、ほんのわずかしか植えていない。

また、宅地にされる農地が増えてくると、農地面積が減り、昔ほど水不足に悩まされることはなくなった。そして水への農家の関心が次第に薄らいでいったのである。

ヘリコプターによる農薬散布 117. ヘリコプターによる農薬散布。京都市左京区静原。昭和40年(1965)8月18日。

*10 「統計からみる京都府農林水産業の概要」(http://www.maff.go.jp/kinki/toukei/toukeikikaku/gaiyo/kyoutogaiyou/pdf/kyoto_gaiyo.pdf

8 林業の変化

戦後しばらくは、家庭用燃料としてたきぎや炭が使われていたので、里山では柴かりや炭焼きが行われていたが、昭和30年代に、調理にプロパンガスや電化製品が、そして暖房にガスや石油や電化製品が使われるようになると、柴や炭の需要がなくなり、雑木林が切られ、スギやヒノキの植林がさかんに行われるようになった。

林業の機械化は、木を切るのにチェーンソーが昭和40年(1965)頃までに大いに使われるようになり、切った木の運搬にトラックが導入されて、すすんで行った。しかし外材が輸入され、しかも昭和40年代中頃には、国内で生産される木材よりも輸入される木材の方が多くなり、電柱もコンクリート製にとって代わられ、また、家をつくっても、木をあまり使わない家が多くなったので、林業は急速にすたれていった。

牛に木を曳かせているところ 118. 牛に木を曳かせているところ。車が入ることのできないような悪路でも、牛なら入ることができ、木を曳くことができた。京都の北山。昭和10年(1935)。

石炭ストーブ 119. 石炭ストーブ。鋳鉄製(ちゅうてつせい)で、その形から「ダルマストーブ」と呼ばれていた。学校で主に使われていたのはこれ。当番にあたると、石炭と焚(た)きつけをもらって来る。ストーブの中に新聞紙と細切れの木を入れて、火をつけ、木が十分燃えたころに、石炭を少しずつ入れていく。普段はこの写真のように、上にやかんを置いて、湯を沸かし、湿度を保つようにしていたが、昼食時には、ストーブの上に金網を置き、アルマイト加工をした弁当箱を温めるとか、給食時代には給食のパンを焼くとかした。授業が終わり近くになると、火を消し、授業が終わると、当番が石炭の燃えカスを取り出し、それを捨て場へ持って行った。石炭の燃えカスを、でこぼこ道の補修に使うこともあった。冬休みには、専門業者がスス掃除をしていた。ところが昭和40年代に、石油ストーブへの転換がすすめられた。たとえば、京都大学において石油ボイラーへの転換がなされたのは、昭和43年(1968)3月であった。「石炭ボイラーやったら、石炭を放り込まんといかんし、燃えカスも取り除かんといかん。石油ボイラーやったら、コックをひねるだけですむ」と元ボイラー係は言う。京都市左京区永観堂町の東山高校。昭和26年(1951)冬。

七輪でおかずをつくっているところ 120. 七輪でおかずをつくっているところ。七輪では、火をおこすのも、火力の調節もむずかしかった。京都市左京区岩倉中在地町。昭和32年(1957)。

新しい台所。ガス湯沸かし器、ガスコンロ、換気扇が見える 121. 新しい台所。ガス湯沸かし器、ガスコンロ、換気扇が見える。京都市左京区修学院狭間町。昭和43年(1968)。

炭焼窯内 122. 炭焼窯内。木炭は、木材などをこのような窯の中に入れ、半ば密閉した状態で加熱し、炭化させてつくる。木は重く、運ぶのが困難であるが、炭にすると、木の水分が抜けているので、軽く、運ぶのが比較的容易になる。そのため、消費地から比較的遠距離のところで、炭はつくられた。京都市左京区大原百井。平成4年(1992)頃。

9 暮らしの変化の結果として起こってきたこと

農作業、暮らしの変化の結果、どのようなことが起こってきたのか。まず肥料の変化から見ていくと、昔は自給可能な屎尿、厩肥、堆肥、ワラ、草木灰、鶏糞などに頼らざるをえなかったのであり、屎尿に関しては、近郊農家はそれを都市部へもらいに行っていた。その屎尿に関して、昭和10年(1935)頃までは近郊農家が屎尿を汲み取らせてくれる家にお礼をしていたが、その後はお礼をあまりしなくなり、昭和25年(1950)頃になると、農家がお礼をするのではなく、汲み取り先の家が農家にお礼をしてくれるようになった。さらに昭和30年代中頃からは、わざわざもらいに行かずとも、バキュームカーが屎尿を野つぼに入れてまわってくれるようになった。そして下水道が普及してくると、屎尿は下水として流されるようになり、肥料として屎尿に頼ることがほとんど無くなった。化学肥料が普及し、屎尿への依存が小さくなっていったからである*11

その結果、都市と近郊農村の間になりたっていた循環、つまり作物が近郊農村から都市へ、屎尿が都市から近郊農村へという循環がなくなり、屎尿は下水として排出され、農村では大量の化学肥料が使われるようになった。

しかし屎尿を下水として排出し、田畑で化学肥料を大量に使うようになった結果、自然は、含窒素化合物(がんちっそかごうぶつ)に関して、二重の負担を受けるようになった。現在の下水処理能力では、屎尿の含窒素化合物を完全に取り去ることは困難なので、含窒素化合物が川に流されるだけでなく、田畑に肥料として施される含窒素化合物も、そのかなりが川に流れ込むからである。また、笹などを腐らせて肥料として使うことがなくなったので、里山には笹や下ばえが繁茂するようになった。

牛に引かせて肥汲みに 123. 牛に引かせて肥汲みに。一乗寺地域の場合は、集落が急な坂道を登ったところにあるので、牛を飼って、牛に荷車を引かせている家が多かった。荷車の車輪は鉄輪(かなわ)を巻いたもの。京都市左京区一乗寺才形町と釈迦堂町の間の道。奥に見えるのは北山御坊。昭和17年(1942)。

野つぼ 124. 野つぼ。屎尿を作物に直接与えると、含まれる尿素(にょうそ)によって作物に害を与えるが、一定期間貯留(ちょりゅう)し、醗酵(はっこう)させると、尿素が炭酸アンモニウムに変化し、作物にとって肥料となるだけでなく、チフス菌やコレラ菌などの病原菌、人体寄生虫卵が死滅する。しかし肥料を作物に与える時期まで家の便所に屎尿を貯めていては、便所があふれるので、屎尿を汲みだし、田の脇にこしらえたこの写真のような野つぼに貯め、雨水が入らないように屋根を設けた。京都市東山区(現・京都市山科区)御陵四丁野町の旧渋谷街道脇。昭和34年(1959)頃。

また、化学繊維の登場により、荷物の梱包(こんぽう)用にとどまらず、化学繊維がさまざまな用途に使われるようになり、ワラでつくる縄が使われなくなった。今ではワラは、コンバインで稲を刈る時に、同時に切り刻まれ、田にまき散らされるだけである。他方、化学繊維やプラスチックは大量につくられ、しかも腐らないので、町だけでなく、山野や海にも化学繊維やプラスチックのゴミが散らばるようになった。ポイ捨てというのもあるが、トラックにゴミを満載して、わざわざ山奥に捨てに行く者もいる。

さらに、農薬を使うようになった結果、川からウナギ、カワエビ、ドジョウ、メダカなどが姿を消していった。

水道の普及は、農薬に汚染されていない水を供給するという意味を持つとともに、水汲みの労力の軽減も意味した。かつては、たきぎがもったいないということもあり、農村部では、風呂のない家がほとんどであって、風呂がある家でも、風呂を沸かすのは週に一度というところも多かった。現在では、水を入れるのは、蛇口をひねるだけですむ。そして、風呂を沸かすのも、ガスで沸かすところが多い。そのため、毎日のように風呂を沸かす家が多くなった。

また、水道や洗濯機や合成洗剤の普及により、洗濯が容易になった。1930年代ぐらいまでは、川で洗濯をできる日が決まっていて、それ以外の日に洗濯をすると、しかられるところもあった。洗濯などする時間があれば、仕事に励むべきであり、洗濯をすると、川の水が汚れるというのである。ところが水道や洗濯機が普及すると、洗濯が容易になり、下水道が普及して、汚水が下水道に流れるようになると、自分の都合の良い日に洗濯しても、だれも文句を言わなくなった。

さらにまた、屎尿を肥料として使わなくなり、上下水道が普及したこともあって、水洗便所が普及するようになった。下水道が整っていなかった頃なら、台所で使う水を流しの下で桶に受け、水がたまると、それを畑へまきに行っていたので、多くの水を台所で使うことはできなかったが、下水道が整うと、いくらでも水を流すことができる。そして風呂をひんぱんに沸かすようになったこと、洗濯が容易になったこともあり、水の使用量がずいぶん多くなったのである。

また昔なら、川から飲料水を得、川の水を汲んで風呂を沸かし、川で洗濯をしている家も多かったので、川の水を汚すと、村人にしかられたが、今では、水をいくら使っても、その水は下水道を流れ、川に直接流れ込まないようになっている場合が多く、洗剤を使用するとか、水を汚すようなことをしても、あまり気にならなくなってしまった。最近では、毎日のようにシャンプーで洗髪する人も多くなっている。

さらに、風呂を沸かし、ごはんを炊き、調理をし、暖をとるのにたきぎを使わなくなり、ガスや石油や電気を使うようになったことが、森の環境を悪化させた。たきぎを使わなくなったため、雑木林は価値を失い、伐採(ばっさい)され、スギやヒノキが植林されるようになったが、スギやヒノキの植林地帯というのは、植物相が貧弱で、動物や鳥や昆虫が生息しにくい環境である。

それでもスギやヒノキが利用されればまだよいが、今や、家は建っても、木を使う家が少なくなり、おまけにスギやヒノキが、外国から輸入される木材との競争に勝てず、間伐(かんばつ)もされずに放っておかれている場合が多くある。もちろん、スギやヒノキは、商品としての価値をほとんど失ってしまう。それに、そのスギやヒノキが、花粉症の大きな原因として登場してきた。戦後に植林されたスギが、花粉を大量にまき散らす大きさに成長してきたのである。他方、外国では、乱伐(らんばつ)により、深刻な環境破壊が起こっている。

また、わずかに残った雑木林は、切られることなく放置されたため、樹齢40年以上、直径10㎝をはるかに越える木が増えてきたが、そのような樹齢と直径のナラやクヌギを好むのが、カシノナガキクイムシである。この虫が幹に穴を開けて持ち込む病原性のカビ菌が、木を枯らし、平成22(2010)年夏、京都でナラやクヌギが大量に枯れたのであった。

ナラ枯れ 125. ナラ枯れ。色が変わっている木がナラ枯れを起こした木。大文字山。京都市左京区。平成22年(2010)8月2日。

*11 中村治(2011)京都市における屎尿の処理と環境問題―昭和30年代までの肥料からそれ以後の廃棄物へ― 大阪府立大学紀要 第6巻: 213-239。中村治(2015)大阪における屎尿の処理と環境問題 大阪府立大学人文学論集第33集:1-20

10 人間関係の変化

(1)共同作業が減ったことによる共同体の崩壊

農業の機械化と農薬の使用による省力化は、農家が、他の家の協力なしにも、自分の都合で農作業をすすめることを可能にし、その結果、兼業化をすすめ、休みの日だけで農作業を行うことを可能にしたのであった。

しかし機械をひととおりそろえると、相当な金額になる。機械の耐用年数は20年というが、それまでにもよく故障し、その費用がばかにならない。故障しなくとも、新しい機械が出てくると、それを買いたくもなる。それに、農業機械は、それぞれ1年のうち数日しか使わないのに、その保管に広い場所が必要である。

共同作業が減ったということは、昔なら「農作業の時に手伝ってもらわなければならないから」と思ってぐっとこらえたことでも、すぐにけんかできるということでもある。農村の人間関係、近所づきあいも変化していったのであった。

(2)子どもの生活の変化

また、共同作業が減って、地域共同体がくずれてくると、地域の目とでもいうべきものがなくなっていった。そして車が増え、道路が危険になったこともあって、子どもは、テレビを見るとか、ゲームをして、家の中に留まって一人で遊ぶか、少年サッカー、少年野球、児童館などで、大人に監督してもらい、指導してもらわないと、安心して遊べなくなり、子どもどうしの社会が育ちにくくなっていったのである。

それに、昔の子どもは、子守をはじめ、たきぎひろい、風呂沸かし、牛馬の世話など、さまざまな役割を与えられていたが、最近の子どもはそのようなことをする必要がない。子どもは学校で良い成績をとること、運動や絵画や音楽などで才能を発揮することだけを期待され、親は子どもの塾や習い事の送り迎えに励むということにもなってきた。しかし勉強や運動や習い事で才能を発揮できる子は、ほんの一握りである。それ以外の子は、挫折感(ざせつかん)を味わうことになる。しかし昔の社会では、そのような子にも活躍の場が与えられていたのであった。

(3)都市近郊において農地を生産の場と見なさず、投機の対象として見ることによる問題

また、都市化の進行が、人々の心をむしばんでいった。都市化がすすみ始めた時、農家の人たちは、農地として条件の悪いところを手放していった。耕作に不向きな湿田、水を得にくい田、家から遠い田である。農地解放の時に農家が手放したのも、そういう田である。

ところが土地の値段は、農地としての良し悪しではきまらなかった。通勤にどれだけ便利か、土地のイメージが良いか悪いかで決まったのである。そうなると、家の近くの良い田で、汗水流してせっせと農業生産に励んだ人が米をつくって得る金よりも、農地解放の時に得た小作地を売って得た金を貯金して得た利子の方が、はるかに大きいということも、起こった。そして農地を生産の場と見なさず、投機の対象として見るようになると、土の世話をして、農業生産を高めることによって暮らしをよくするという気も、なくなってくるのであった。

(4)遺産相続による農家の崩壊

また、地価が値上がりした時、農家の人の中には、自分が金持ちになったと思った人もいた。そして家を建てかえたり、車を何台も買ったり、海外旅行に出かけたりした。しかし遺産相続の時、地価の上昇が災いした。相続税は、農業や他の仕事に一生励むだけで払えるような額ではなくなっていたのである。そこで農地を売るということになる。

しかしそれで事がすめば、まだよいほうであろう。相続財産が何億円というレベルになってくると、「どうして兄の相続財産は2億円で、弟の自分の分は1億円なのだ」というような争いが起こってくる。そして話し合いがつかず、田や家を売って、その金を分配しなければ、事がおさまらないということにもなり、兄弟姉妹間の関係が修復不可能になってしまうのである。

(5)家族の崩壊

また近頃、子どもが、両親と自分たちそれぞれの生活スタイルをまもるために、両親と同居せず、別居することが多くなってきた。子どもにせよ親にせよ、自立という意味で、それはよいことなのかもしれない。しかし子どもは子どもで、自分の子育てに苦しみ、親は親で、年老いてくるとともに、健康に不安を覚えるとか、認知症を患ってくる。そして孫は、祖父母から学ぶとか、祖父母の生きる姿勢をあまり見ることなく、育ってしまうことになる。

親に衰えが目立ってきたからといって同居を始めても、長い間別の生活スタイルをとってきた者がすぐにうまく一緒に暮らすのは、容易ではない。

さらに、昔に比べ、1戸あたりの居住者数が減っている。家族が一緒に暮らしている場合でも、家屋は各部屋の独立性が高くなるように設計されているので、家族構成員それぞれが個室にこもって好きなことをして暮らしている場合が多い。おまけに、冷蔵庫や電子レンジなどの電化製品の普及、1990年頃から急速に増えた24時間営業のコンビニエンスストアなどにより、家族構成員それぞれが勝手な生活時間帯で暮らすことができるようになっている。

他方、家族としてまとまらなければならない理由を見出すのは、困難である。これでは他人どうしが同じ屋根の下に住んでいるようなものであり、こうして、家族という最小の共同体まで崩壊しはじめたのである。

11 暮らしの変化を可能にしたものとしての石油

では自然環境、人間環境の変化をもたらした運搬手段・交通手段の発達、農作業や暮らしの機械化を可能にしたものは何であったのか。それは石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料ではないか。化学繊維やプラスチックにしても、その登場を可能にしたのは、石炭や石油である。化学肥料や農薬の生産にも、石油が用いられている。雑木林がなくなっていったのも、化石燃料を使うようになり、雑木林がその経済的価値を失ったからである。

また、急激な都市化が可能になったのも、化石燃料を安価に大量に使用できるようになったからである。もし化石燃料を使用できず、現在の大都市に生活する人たちの燃料を木に頼るとするなら、山はすぐに丸裸になるであろう。さらに、化石燃料を燃やしてつくられる電気、あるいは原子力発電所でつくられる電気がなければ、電灯がつかず、電話を使えず、コンピューターを使えず、エレベーターも動かないが、そうなると、高層ビルなど、不便極まるものである。現代の大都市の誕生は、燃料の確保がなければ、不可能なのである。

比叡山アルプス(曼殊院〈左京区一乗寺〉の裏山の南東方向) 126. 比叡山アルプス(曼殊院〈左京区一乗寺〉の裏山の南東方向)。一乗寺や修学院の山はもろい花崗岩(かこうがん)でできているので、木をさかんに伐(き)っていると、このようにはげ山に近い状態になった。昭和10(1935)年頃。

それゆえ、長い間あまり変わることなく続けられてきた人々の暮らしを大きく変え、現代の便利な生活を可能にし、人間に自分の身のほどを越えることもできると思い込ませているのは、石炭や石油や原子力であると言えるのではないか。そしてその石油、石炭などの大量消費が酸性雨、地球温暖化などを引き起こし、原子力発電所の事故などによってまき散らされる放射能が、土や水を汚染しているのである。

また、石油、石炭、原子力などが可能にした人間の活動の拡大が、森林の減少、砂漠化の進行、フロンガスによるオゾン層の破壊などを引き起こし、大量のゴミを産みだしている。そして今や、人類の活動規模が生命圏としての全地球の許容度を越えてしまっているのではないかと、危惧されるようになってきている。

さらに、石油などが可能にした現代の便利な生活が、善きにつけ悪しきにつけ、共同体のあり方を変え、子どもの社会も変えてしまったのではないか。

どの時代の人間であれ、物質的に豊かで便利な暮らしを求めてきた。しかし何事も人力で、あるいは家畜の力、水力、風力で行い、共同作業を必要としていた時代には、たとえ物質的に豊かで便利な暮らしを求めても、自然環境の変化、人間関係の変化はさほど深刻にはならなかった。ところが化石燃料、あるいは原子力を用いることができるようになると、われわれは自然支配をさらにすすめ、物質的に豊かで便利であることを求める気持ちを制御できなくなり、ここ数十年に自然環境の変化、人間関係の変化が急激にすすみ、その変化がさまざまな問題を引き起こしたのである。

問題が深刻になれば、昔の暮らしを取り戻そうとする動きが、やがておのずと出てくるかもしれない。事実、年配の人に「幸福に感じたのはいつ頃か」と尋ねると、それは1960年代であり、それから後は幸福とはいえないという答えが返ってくることが多かった。1960年代というと、車や機械が日常生活に導入され始めたばかりのころである。日々便利になっていくと感じられたので、そのように思った人が多くいたのかもしれない。その理由はともかくも、社会全体が1960年代程度の便利さの生活をしても、幸福と感じる人がかなりいるのではないか。そして社会全体が1960年代程度の便利さの生活をすれば、自然環境はそれほど悪化しないと言われている。

しかし若い世代の人にしてみれば、車や機械があるのは当然のことである。それに、老人世代にしても、車や機械がある生活にあまりにもひたりきっているので、今や、彼らが車や機械なしに生活することなど、不可能になっている。また、石油ストーブを使わず、山の手入れをして、薪ストーブを使おうとする人もいるが、薪の入手と保管に問題がある。また、住居密集地で煙を出すと、近所から苦情が出るであろう。こうしてほとんどだれもが、車や機械があるのは当然のことであり、化石燃料を使うのも当然と考え、その結果、たとえ環境が急速に悪化し、人間関係もどこかおかしくなり、そして物質的に便利で豊かな生活が、自然環境にとって悪く、人間関係にとっても何かしらよくないということがわかっていても、そのような生活をやめられずにいるのである。

暮らしにおける日本人一人あたりの化石燃料使用量は、アメリカ人のそれと比べると、まだ少ないと思われるかもしれない。しかし他の国の人には、日本の便利な暮らしは、アメリカの暮らしと同様、過度に便利であると見えているのではないか。われわれは自らの暮らしを見つめなおす必要があると思われる。

ところで、自らの暮らしを見つめなおすのに、日本は、アメリカと比べると比較的有利な位置にあるのではないか。アメリカでは、機械化が1930年頃から少しずつすすんだので、その変化の過程を覚えている人はあまりおらず、現在の機械化された便利な暮らしがあたりまえであり、それに感謝することもあまりない。その点、日本では1930年代に機械化が少し始まったものの、戦争のためにその動きが止まり、1960年代から急に機械化がすすんだので、変化の過程を覚えている人も、今ならまだたくさんいる。昔の地域共同体のあり方が持つ良さも悪さもよく知っている人が、今ならまだたくさんいる。われわれは、学ぼうと思えば、そのような人や古い写真から、自然環境、人間関係がどのように変化したのかを学べるのである。

われわれは、そのようにすることによって、その変化の過程をしっかりと見つめ、われわれが機械化によって何を得て、何を失ったのかを、考えなければならないであろう。太陽光など、環境に悪い影響を与えないエネルギーの有効利用を考えることは、もちろん大切なことである。それとともに、われわれが過度に便利な暮らしに慣れきってしまうまでに、現代の暮らしを自然環境の面からも人間関係の面からも見なおし、これからどういう方向へすすむべきかを考えなければならないのではないか。

文献一覧

  • (1935)社会時報 5巻7号
  • 京都府立総合資料館編(1969-1971)京都府統計資料集 1-4 京都府
  • 京都府立総合資料館編(1970-1971)京都府百年の年表 1-7 京都府
  • (1976)京都の歴史9 學藝書林
  • 中村治編著(1995)洛北岩倉誌 岩倉北小学校創立20周年記念事業委員会
  • 中村治編著(1997-2007)洛北岩倉研究1-8 岩倉の歴史と文化を学ぶ会
  • 下川耿史編(1997)昭和・平成家庭史年表 河出書房新社
  • 下川耿史編(2000)明治・大正家庭史年表 河出書房新社
  • 中村治(2000)京都洛北の原風景 世界思想社
  • 中村治編著(2000)癒しの里・洛北岩倉 岩倉の歴史と文化を学ぶ会
  • 日本の100年(2000)第4版 国勢社
  • 中村治(2003)卒業写真で見る暮らしと風俗の変化 岩倉の歴史と文化を学ぶ会
  • 中村治(2004)あのころ京都の暮らし 世界思想社
  • 精華百年史編纂委員会(2005):精華百年史
  • 武島良成(2007)戦時期の京都における中等学校の滑空訓練 京都教育大学紀要 110
  • 中村治(2007)洛北岩倉 コトコト
  • 中村治(2008)洛北八瀬 コトコト
  • 中村治(2011)京都市における屎尿の処理と環境問題──昭和30年代までの肥料からそれ以後の廃棄物へ 大阪府立大学紀要 6
  • 中村治(2012)京都洛北の近代 大阪公立大学共同出版会
  • 中村治(2013)洛北岩倉と精神医療 世界思想社
  • 中村治(2014)洛北一乗寺 大阪公立大学共同出版会
  • 中村治(2014)洛北静原 大阪公立大学共同出版会
  • 中村治(2014)あのころの阿倍野 大阪公立大学共同出版会
  • 中村治(2015)洛北修学院 大阪公立大学共同出版会
  • 中村治(2015)大阪における屎尿の処理と環境問題 大阪府立大学人文学論集 33

写真所蔵者・所蔵機関(敬称略)

1.岡本多佳子、2.宇野美子、3.森口亮介、4.牧瀬巌、5.森本孫之助、6.西村武生、7.西川八重子、8.岡本多佳子、9.埜村千代、10.開原露子、11.松尾順子、12.澤田幸雄、13.房岡夏代、14.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、15.久保一男、16.岡本多佳子、17.岡本多佳子、18.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、19.伊良知清子、20.椋本産業株式会社、21.波多野隆志、22.川島松平、23.埜村千代、24.岡本多佳子、25.上野み代子、26.徳岡敏子、27.鈴木尚、28.岡本多佳子、29.岡本多佳子、30.牧瀬巌、31.伊藤恵子、32.松谷晴代、33.中嶋浩、34.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、35.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、36.土田隆一、37.土田隆一、38.宮澤潔、39.森榮一、40.西村正久、41.田中雅樹、42.西川八重子、43.鈴木尚、44.近畿中国森林管理局京都大阪森林管理事務所、45.近畿中国森林管理局京都大阪森林管理事務所、46.中川節子、47.黒野藤一郎、48.鈴木尚、49.斎藤重治、50.酒井明治、51.岡本多佳子、52.宮澤潔、53.前田一實、54.中村源吾、55.宮澤潔、56.上野み代子、57.牧瀬巌、58.牧瀬巌、59.牧瀬巌、60.牧瀬巌、61.狩野俊子、62.今井知恵子、63.牧瀬巌、64.牧瀬巌、65.埜村千代、66.宮澤潔、67.森本弘一、68.前田一實、69.斎藤重治、70.廣庭基介、71.久保民夫、72.久保民夫、73.埜村千代、74.竹中定夫、75.久保民夫、76.斎藤重治、77.伊藤恵子、78.廣庭基介、79.森本孫之助、80.森榮一、81.廣庭基介、82.開原露子、83.宮澤潔、84.久保民夫、85.森榮一、86.古原卓三、87.宮澤潔、88.宮澤潔、89.宮澤潔、90.久保一男、91.廣庭基介、92.廣庭基介、93.中井建樹、94.中井建樹、95.南聿子、96.宮澤潔、97.南聿子、98.土田隆一、99.宮澤潔、100.岡本多佳子、101.岡本多佳子、102.鈴木尚、103.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、104.岡本多佳子、105.前田一實、106.廣庭基介、107.浜吉郎、108.三村美恵子、109.松谷晴代、110.廣庭基介、111.長嶺桂子、112.土田隆一、113.永松勇、114.(公財)世界人権問題研究センター所蔵(符川寛撮影写真)、115.岡本謙二、116.石川美智子、117.中村源吾、118.鈴木尚、119.富田龍也、120.伊佐成子、121.森川三穂子、122.久保一男、123.野村祐三郎、124.宮澤潔、125.中村治、126.中村治

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