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北山の歴史

京都北山地方は、京都市町の西北20キロメートルから30キロメートルのところに位置し、磨丸太林業地帯としての特色を持っている。そのなかでも、現在の京都市北区中川を中心とした地域は、江戸期以前より、一説には南北朝時代から磨丸太を生産していたと言われています。

磨き丸太の磨き作業磨き丸太の剥皮作業

中世の北山

御室仁和寺荘園の一つとして存在し、その後、高雄神護寺領から西明寺領へと推移していきました。そして隣接する小野庄(現在の北区小野郷)や梅ヶ畑庄(現在の右京区高雄)とともに、京都御所への産物献上によって、「供御人」としての地位を得て、ある程度の特権を有して、磨丸太類の生産と販売を行っていたことが、現存する古文書によって知ることが出来ます。
京都御所及び京都市街への生産物の供給は、近郊農村からは各種農産物、近郊山村、特に京都市街北部の山村からは、各種林産物という形で行われていたのですが、一般用材・薪炭材と並んで、磨丸太もその中の一つとして存在していたと考えられます。山国を中心とする丹波地方からは用材が、小野郷・鞍馬・大原からは薪炭が供給されたなかで、唯一中川のみが磨丸太類を供給していたことは特異なことでありました。

江戸から昭和初期にかけて

江戸期から明治期にかけては、中川地区を中心とした山林3千ヘクタールの中の、ごく一部で磨丸太の育林生産が行われていたのです。地元で磨丸太加工されて、鷹ヶ峰の中継問屋(鷹ヶ峰は現在同じく北区に属しており、洛北及び北山・丹波地方の諸産物の集荷地でした。)を通じて、京都市内はもちろん、関西一円に販売されていたと思われます。

昭和初期以降、磨丸太需要が増大していく中で、地元の磨丸太林分も増加すると同時に次第に外延部へと拡大し、小野郷・大森・高雄地区でも磨丸太育林が始まります。さらに戦後になると北桑田郡京北町(現在の京都市右京区)一帯にまで拡大し、昭和40年代以降は、船井郡八木町や日吉町をはじめ、隣接市町村にまで波及して行きました。ここで、中川地区を中心として高雄・鷹ヶ峰・小野郷を含めた地域からの産出材を「地山丸太」、それ以外の北桑田郡京北町、船井郡八木町、日吉町等から産出した材を「丹波物」という呼称が一般化してきます。前者が狭義の北山地方、後者を含めたものが広義の北山地方ということが出来ます。

現在の北山地方

北山地方を述べるには、狭義の北山地方と広義の北山地方と分ける方が全体像を捉えやすいと思われます。

狭義の北山地方

面積は約5千ヘクタールでそのうち95%以上が山林であって、農業生産はごく一部に限られており、純山村地域です。
北山と言えば、磨丸太林業地帯ということから、地域全体が磨丸太用のスギ林であるかのように思われがちですが、全山林のうち磨丸太類の林分は3分の1程度に過ぎず、アカマツ林が約2分の1を占め、残りはヒノキ及びスギ用材林です。

北山地方は、秩父古生層に属し、スギの生育には比較的恵まれて入るものの、アカマツ林が多いことや連年、山焼き(もやきと呼ぶ)をして再造林を繰り返していることから総体的に地味の低い地域であると考えられます。そういった地域で一般用材や薪炭材を含めた多面的な林地利用が行われてきたのですが、その中で抑制された条件下で磨丸太生産があったわけです。
従って有名林業地帯であるにも関わらず、現在においても人工林率は日本の平均をわずかに上回る程度にしか過ぎません。

広義の北山地方

面積は約3万ヘクタールで、狭義の北山地方を除きますと、もともとは一般用材林地帯であった地域と薪炭林地域であった地域とを含んでいるのです。

既に昭和初期に、用材林中の間伐材として磨丸太用原木が伐採され、中川地区の加工業者によって加工・販売されていましたが、それはあくまで用材林の育林生産での一環でしかなかったのでした。昭和30年代以降の磨丸太需要の急増期に対応して、桁丸太生産の増大を実現したのに続いて、高度経済成長に伴う規格性の高い大量需要の時代に至って、以後、急速に人工絞丸太原木の生産地としての地位を形成し確立して行きました。

現在、北山地方の年間磨丸太は約10万本(製品3メートル材換算)と推定されます。磨丸太産地としては、我が国最大の吉野地方に次ぐものです。

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