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メルマガコラム 図書資料コラムいろいろ[総合資料館]

寄贈こぼれ話 ―奥田輝一郎氏旧蔵 版画関係資料―

このたび総合資料館では、版画関係資料63点214冊を奥田滋生氏よりご寄贈いただきました。その資料の概要については『総合資料館だより』2007年4月号にご紹介しております。
総合資料館だより4月号(PDFファイル、804KB)(PDF:804KB)

ここでは、奥田氏と当館との仲立ちをしてくださった伏見人形研究家の村上敏明氏のお話を中心に、資料が寄贈されるまでのいきさつをお話ししたいと思います。

発端は平成18年の4月、村上氏から資料館に寄せられたレファレンスでした。それは「奥田輝一郎」という昭和初期に活躍した京都の版画家についての問い合わせで、その方の版画集「伏見人形作品集」をご自分のホームページへ掲載したいのでその許可を取るために連絡先が知りたいというものでした。

早速「奥田輝一郎」の調査を開始しますが、美術関係の辞典などには全く記載がありませんでした。京都の人ということなので古い電話帳を調べ、そこにやっと名前を発見しました。そこから住所がわかり、住宅地図で家の場所を確定することができました。

しかしその記載が確認できるのは昭和51年頃までで、それ以降の足取りは掴めませんでした。

この結果をお伝えした時、村上氏は「一度その場所に行ってみる」と言われて資料館を後にされました。そして再び村上氏が資料館に来られたのは、その5ヶ月後の9月のことでした。

村上氏のお話によると、その後、資料館で得た情報をもとに、その近辺で聞き込み調査をし、ある方から、奥田輝一郎氏のご長男である奥田滋生氏の奥様のご実家が経営されていた会社の名前を教えてもらうことができたそうです。

しかし、はっきりとした住所はわからず、再び教えてもらった近辺の実地調査を開始されました。そして偶然古い看板に探していた会社名と電話番号が残っているのを発見されたのでした。

村上氏はその電話番号へ電話をかけ、その電話の方のお取り計らいにより、ついに輝一郎氏のご長男(滋生氏)と連絡を取ることができたのでした。

すでに輝一郎氏はお亡くなりになっていましたが、遺品に貴重な版画関係資料が多数残されていました。村上氏は奥田氏にその資料価値について説かれ、公共施設への寄贈を勧められました。

村上氏が来館されたのは、奥田氏の意向を受け、その版画関係資料の資料館での寄贈受入の打診のためでした。この日から資料の調査、受入の準備が始まり、平成19年2月、正式に奥田氏から資料をご寄贈いただくことができました。

なお、平成19年4月現在、村上氏のホームページ「伏見人形・土人形のふるさと」に、奥田輝一郎氏作「伏見人形作品集」(http://www.d4.dion.ne.jp/~toshi-mr/okud/(外部リンク))の全画像が掲載されています。

また、輝一郎氏の作品を複製した『奥田輝一郎創作版画集』を奥田氏と共同で作製され、先日当館と京都市中央図書館にご寄贈くださいました。この場を借りてお礼申し上げます。

総合資料館メールマガジン 第14号(2007年4月11日)掲載

版画の年賀状
~奥田輝一郎氏旧蔵の版画関係資料の中から~

12月になりました。みなさん来年の年賀状の準備はお進みでしょうか。この時期になると、干支やお正月飾りの図案をお探しの方がよく来館されます。今回は、年賀状作りの参考に、今年2月にご寄贈いただいた奥田輝一郎氏旧蔵の版画関係資料の中から、昭和初期の版画の年賀状資料3点をご紹介したいと思います。

まず1点目は、版画家同士の年賀状交換会「榛の会」(または版交の会)の年賀状作品集です。(この会については『総合資料館だより』2007年4月号をご覧ください。)
『総合資料館だより』2007年4月号(PDFファイル、804KB)(PDF:804KB) 

当館所蔵の2冊のうち1冊は子年の年賀状集となっておりますのでオススメ資料です。
『丙子創版賀状 第二回版交の會作品集』1936(請求記号733/H29/2)

次にご紹介しますのは、新興版画研究所が発行した『賀状版画集』です。京都の作家、徳力富吉郎や麻田弁次らの版画も収録されており、デザインは申や酉が中心ですが、梅や大原女の図も見られます。
『賀状版画集』新興版画研究所 [出版年不明](請求記号733/I99)

最後は、版画雑誌『版芸術』の年賀状特集号です。当館所蔵の『版芸術』の中には4冊の年賀状特集号があります。その年の干支だけでなく他の干支も描かれていますので参考になるかと思います。
『版芸術』白と黒社
 ・9号「全日本版画家年賀状百人集」1932.12
 ・10号「平塚運一小品版画傑作集付録年賀状傑作集」1933.1
 ・21号「創作版画年賀状傑作集」1933.12
 ・58号「年賀状版画集」1936.12

最近ではパソコンで作成された年賀状がすっかり主流となってきましたが、これらの資料を参考に、手作りの年賀状にチャレンジされてはいかがでしょうか。新年のご挨拶に素敵な年賀状ができることをお祈り申し上げます。

おまけ

その他、年賀状の参考になる資料をいくつかご紹介します。

十二支、子

  • 『十二支の文様 四方山話』造形社 1972(請求記号757/O45)
  • 『十二支庶民文化財図録』笠松町文化協会 1997(請求記号759.9/Mi88)
  • 『新年菓帖』4~40巻 1904-1940(請求記号K1和/588.36/F66) ※欠あり
  • 「吉例子年の年賀状」『墨』189号 2007.12

縁起物、宝船、七福神

  • 『明治の引札』田村資料室 1988(請求記号Y/674.7/040601)
  • 『日本の意匠』続11 吉祥 京都書院 1995(請求記号757.08/N71/2-11)
  • 『たからふね』京都精版印刷社 1930 (請求記号 和/721.8/Y89)

※宝船については『総合資料館だより』86号をご覧ください。

文字、文章、木版作り

  • 『常用六体字典』ぎょうせい 1993(請求記号728.4/I27)
  • 「手から手へ 版画で年賀状」『版画芸術』33(3) 2004.12
  • 「毛筆で書く「名前」から「手紙」まで」『墨』臨時増刊号 1997.12

日本画、浮世絵等で描かれたものをお探しの方は『日本美術作品レファレンス事典』(日外アソシエーツ)の利用をオススメします。この事典は、題名、作者名で検索でき、お探しの絵がどの画集に収録されているのかを調べるのにとても便利です。

総合資料館メールマガジン 第31号(2007年12月5日)掲載

レファレンス余話

当館では『風のクレヨン』という、創作童話集を所蔵しています。これは府内在住の「グループ『風のクレヨン』」の皆さんによる同人誌で、毎号続けてご寄贈いただいているものです。

今回その特別号「平和へ一歩」をご寄贈いただきました。
この中のある作品は、創作ではなくご自身の国民学校時代の体験をもとに書かれたもので、以前に当館にお寄せいただいたレファレンスの回答を参考にして執筆されたものです。

執筆のお役に立てたことはもちろん、このような出版物にして当館にご寄贈いただいたことを大変うれしく思いました。

レファレンスの詳細な内容は、「レファレンス事例」でお読みいただければと思いますが、戦時中に、現在の宇治市の自衛隊大久保駐屯地にあった、日本国際航空工業の工場での学徒動員の実態を尋ねられたものです。

当館に所蔵していた『京都の空襲・学徒動員・工場疎開』(田中はるみ著、『史泉』第81号抜刷、1995年3月)という雑誌論文の抜刷に、この工場に動員された学生の人数や学校名が一覧表として掲載されていましたので、この資料を利用して回答しました。

ところで、そもそもこの表は、当館歴史資料課所蔵の「京都府行政文書」(重要文化財)の「新居前知事、三好知事事務引継演説書」(1945年6月、昭20-15)に所収の「学徒動員学校配当一覧」から引用されたもので、当館の資料を利用された研究成果(雑誌論文の抜刷)を、当館にご寄贈いただき文献課で受入れていたものです。

当館文献課では、特に京都に関する資料については、街の本屋さんで売っている新刊書だけではなく、同人誌等府民の皆さんの活動記録や、雑誌の抜刷といった非市販資料もきめ細かく収集しているのが特徴です。

今回のレファレンスでは、当館の資料を利用した研究成果を資料として受入れ、またそれを活用した資料をご寄贈いただいたということで、資料館ならではの資料群が膨らんでいくことを実感しました。

当館の所蔵資料の蓄積は、このように皆さまの暖かいご理解とご協力の賜であることをご紹介するとともに、今後ともよろしくご支援いただきますようお願い申し上げます。

総合資料館メールマガジン 第22号(2007年8月1日)掲載

お宝発見! -楠葉台場の設計図の巻-

当館には『川々御普請定法書』という、江戸幕府の普請方つまり土木建築に携わった役人の手引書を所蔵しています。本書には「河州交野郡楠葉付関門絵図」(以後、設計図)という絵図が貼付されていますが、これは、幕末の元治元年(1864)から翌年にかけて江戸幕府が現在の枚方市楠葉に築造した台場(砲台)の設計図です。

この設計図は、今から十数年前に、筆者が『川々御普請定法書』について調査していた時に偶然に発見したものです。

楠葉台場については全く知識がなかったのですが、調べるうちに貴重な資料であることが判明しました。おそらくこの資料は、台場の建設に関わった役人が所持したもので、内容的にも貴重ですが、現存するものはこれ一枚だけとも思われました。

そこで『川々御普請定法書』とともに、ほとんど利用がないまま書庫に眠っていた貴重な資料をぜひとも紹介したいと思い、「御普請定法書について」(『資料館紀要』第25号(平成9年3月)所収)という小論を執筆しました。

せっかく発見したお宝です。できるだけ早く公表したいという思いとは裏腹に、筆者がこの資料紹介の小論をまとめるのには、4年の歳月を費やしました。その理由は、産休、育休のためおよそ1年間お休みをいただき、職場に復帰してからも育児や家事に追われ、時間的な余裕が全くなかったことに因ります。

さて、このように自分なりには大変苦労して書き上げた論文ですが、残念ながらこれについての反応は全くありませんでした。3年後の平成12年に当館で開催した「京都の20世紀をさきがけた人々」展で展示したところ、思いがけず地元の枚方市教育委員会の関係者の目に留まり「すごいものが展示されている。」と驚いて駆けつけていただいたのが最初の反響でした。

また同年、大山崎町歴史資料館の「はるかなる淀川-三川合流の歴史-」展にも出品していただき、図録にも掲載されました。ここではこの設計図を読み解き、街道筋の関門と台場が合体した珍しい構造である旨の解説をいただきました。

この二つの展覧会により、ようやく楠葉台場の設計図が「知る人ぞ知る」存在になり、私自身の長年の念願が叶いました。

さて、楠葉台場の設計図について拙稿で紹介してから10年の歳月が流れましたが、最近、とてもうれしい出来事がありました。大阪歴史学会の機関誌『ヒストリア』第206号(2007年9月)の誌上に掲載していただいたのです。設計図の学界デビューです。

「小特集 大阪府枚方市楠葉台場跡の保存問題をめぐって」と銘打つ特集で、巻頭に、楠葉台場跡の現状写真に併せて当館所蔵の設計図のカラー写真を掲載していただきました。

馬部隆弘氏が「京都守護職会津藩の京都防衛構想と楠葉台場」という論文を寄稿され、楠葉台場の復原的考察や歴史的な意義について詳述されています。

馬部氏は、設計図を地籍図や現状の地割りと対比し、遺跡の位置を明確に特定されました。これにより楠葉台場は間違いなく設計図のとおりに築造されていたこと、その遺跡は一部を除いて比較的良好に現存していることを確認されたのです。
(『ヒストリア』は当館にも所蔵していますので、詳しくは本文をご覧ください。)

今回の『ヒストリア』の特集は、資料を発掘した私自身にとって、貴重な設計図を広く学界に周知していただいたことが何よりもうれしいことでしたが、研究者の論文執筆のお役に立てただけではなく、研究者の団体による遺跡保存の取組みのためにも資料を提供することができたということで、微力ながらも資料保存機関に働く者としての役割を果たせたように感じました。

この特集が契機となって、楠葉台場の遺跡の存在が知られ、またその保存がすすめられることを期待しています。

私が設計図を発掘したのは全く偶然の幸運でした。「棚から牡丹餅」と言いますが、まさに「書架からお宝」です。探そうとして見つかるものではありませんが、これからも書庫の中にはお宝が眠っていることを肝に銘じて日々の仕事に精進したいと思います。

※楠葉台場について、拙稿「御普請定法書について」では楠葉砲台としていましたが、学界の呼称にあわせて楠葉台場と改めました。

総合資料館メールマガジン 第27号(2007年10月10日)、第28号(2007年10月24日)掲載

京都博物館目録

よその宣伝を少し。あとわずかですが、24日まで東山七条の京都国立博物館で、「特集陳列 館蔵品のはじまり -京都博物館からの贈りもの-」が開かれています。

現在の京都国立博物館は、明治24年(1891)に京都府から寄贈された1076点が館蔵品の出発点となったとされています。これらは、京都府が明治8年(1875)に設置しながらも実際には建築にいたらなかった幻の博物館「京都博物館」の旧蔵品であったとのことです。

ところで、資料館文献課に『京都博物館目録』と題する12冊の資料があります(特-994-4-1~12)。このタイトルは12冊をまとめて後で命名したもののようで、個別のタイトルを略記すると次のようになります。

  1. 戊第壱号 京都博物館蔵書簿
  2. 第弐号 明治九年中 類聚品番号簿
  3. 第三号 明治九年中 類聚品番号簿
  4. 第四号 諸品道具出品録
  5. 第五号 書籍北蔵軸物目録
  6. 第六号 第壱回古画陳列(~第十回古画陳列目録)
  7. 第七号 [博覧会目録]
  8. 第八号 明治十一年十一月 南庫品物目録
  9. 第九号 明治十五年六月起 改正 書籍貸シ渡簿
  10. 第十号 画図模写物之目録
  11. 第十一号 書籍目録
  12. [付録]

6のみ博覧会社の、その他は京都府の罫紙が使用されています(10を除く)。1には「京都博物館」の印が捺され、12には新島襄や明石博高あての文書も綴り込まれています。1から12とも、明治40年11月14日購入との記載があるので、京都府から一度市中に流出したものを府立図書館が買い入れたものと思われます。

『京都博物館目録』については、京都博物館時代からの歴史を叙述した『京都国立博物館百年史』にも言及がありませんので、この機会に紹介しました。

総合資料館メールマガジン 第32号(2007年12月19日)掲載

資料館だより(新年号)の表紙が変わりました!

資料館だより(新年号)の表紙が変わりました!

昨年まで朏(みかづき)健之助氏が収集された人形や玩具などの資料である「朏コレクション」の伏見人形の中からその年々の干支を選び、資料館だより新年号の表紙を飾っていました。今年からは装いも新たに、当館所蔵資料から新春にふさわしい題材を選んで紹介させていただくこととなりました。

今年は吉田文庫(※)の資料から「年画」を紹介しています。
「年画」とは中国の民間における伝統的な絵画芸術の一つで、春節(旧正月)に、一年がよい年であるように祈って、門や扉、家の中などに飾られる版画です。

年画は元々「門神」といって厄除けの武将や神を描いた紙を張り、無病息災を祈るものでした。その後木版印刷の発展に伴い、災難除け、商売繁盛、長寿、五穀豊穣など幸福を招こうとする図柄の縁起物も作られるようになりました。これは「吉祥図」と呼ばれ、主に室内の壁を飾りました。

これらを総称して「年画」と言い、明・清の時代には民間に広まって最盛期を迎えましたが、中国では一年ごとに更新されました。このため、中国では古い年画はあまり残っていませんが、日本には江戸時代に渡来した清代の蘇州年画が多く保存されています。この年画は浮世絵版画に大きな影響を与えたともいわれています。

この年画ですが、一枚の絵の中にさまざまな祈りがこめられているのが特徴で、今回の資料館だよりに掲載したものも、立身出世、子孫繁栄、富貴栄華などいろいろな祈りがこめられています。

※「吉田文庫」とは京都大学名誉教授・初代京都文化博物館長であった故吉田光邦氏が所蔵されていた資料です。

総合資料館メールマガジン 第33号(2008年1月2日)掲載

「京タケノコ」と竹林

春四月。京野菜の一つとして有名な「京タケノコ」が出回るシーズンとなりました。

食用になる竹には孟宗竹、真竹、淡竹などの種類がありますが、京タケノコが採れるのは孟宗竹の竹林です。孟宗竹は、宇治黄檗山万福寺に明国の僧・隠元が母竹を携えて来日し、これが西山の麓一帯に定着したという説と、唐に渡っていた僧が持ち帰り、長岡京市の奥海印寺辺りに植えたのが由来だという説の二説があるそうです。

京都では、間伐してタケノコの親となる母竹を選び、母竹の背が伸びると先を切って成長を止めます。こうすることによって地面に適度な日が当たるようになるので、タケノコの生育に良い環境が作られます。良い京タケノコは混みあった竹やぶではなく、広々とした美しい竹林からしか生まれません。

また、秋から初冬にかけて竹藪に藁を敷き、肥料を施しては客土を3~5cmかぶせてフカフカの布団をかけた様にします。京タケノコは、 こうした手作業での竹の間伐・施肥・土入れなどのたいへんな重労働から生まれます。独特の栽培方法が、白くアクのない皮の柔らかい京タケノコを作るのです。

最近は、手間暇がかかり、機械の導入も難しいタケノコ栽培を敬遠する農家も増えてきました。近隣諸国からタケノコが大量輸入されるようになったことも、農家に打撃を与えました。

京都府農産流通課の話では、府内の主な産地は京都市、山城町、長岡京市で、いずれも、宅地化と後継者難のため、栽培面積、出荷量は10年前の1割減、栽培農家の戸数も3分の1に減っている現状です。このような結果、竹が密集し足も踏み込めない放置竹林が目立ってきています。

ある調査によれば、京都府山城、田辺地域では1978年~1985年の7年間に、竹林面積がそれぞれ25%、70%程度増加しているそうです。

放置されている竹林の面積は生産管理されている面積の2倍以上あるものと推定されています。こうした状況に対して、京都府も環境保全の取組一環として、平成14~17年度に放置竹林拡大防止事業に取り組み、放置されたことにより森林に侵入した竹林の伐採整理などを行っています。

実を言うと私の家もタケノコ栽培農家なので、その手入れの大変さ は身をもって知ってるつもりです。しかしその大変さにも増して、いつまでも変わらぬ竹林の美しい眺めと、旬の味覚の「京タケノコ 」を残し続けたいと思う今日この頃です。

参考文献 

  • 『京都府統計書 平成17年』京都府統計課編刊 2007 396p
    (請求記号 MK0/351.62/Ky6)
  • 『現代にいきづく京の伝統野菜』菊池昌治著 誠文堂新光社 2006 287p (請求記号 K1/626/Ki24)
  • 『ほんまもん京野菜ガイドブック』 京のふるさと産品価格流通
    協会[編]刊 2006 56p (請求記号 K0/626/Ky5)

総合資料館メールマガジン 第41号(2008年4月23日)掲載

6月18日は何の日?

6月18日は「海外移住の日」です。明治41(1908)年に、ブラジルへの第1回移民の人々を乗せた船が、現地のサントス港に到着した日を記念して昭和41(1966)年に制定されました。今年はちょうどこのブラジル移民100周年目にあたり、各地で様々なイベントが計画されているようです。

日本人の移民が本格化したのは、明治維新以後といわれ、一時的な出稼ぎの要素が強いものでした。ハワイをはじめアメリカ合衆国本土やブラジルなどの南米諸国等へ、多くの人が海を渡りました。

日本人の海外移民は、南北アメリカでは主に農業に従事する人が多く、養鶏や果樹栽培等の分野を中心に徐々に成功する者も出て、ブラジルでは大地主になる者も現れました。第二次世界大戦直後には沖縄等の戦争の傷跡の深い地域から移民する人も多くなりました。

京都府からの移民の状況はどうだったのでしょう? 
『京都府統計史料集 百年の統計 第1巻』の明治34(1901)年~昭和17(1942)年の海外渡航者数によれば、移民数は、明治34年46人、35年45人、36年27人、37年3人、38年18人と続き、間を置いて昭和3年65人、13年38人、14年14人となっています。

戦後は細かな統計が取られていないようなのですが、『海外移住展示資料』によると、昭和28(1953)年~37(1962)年の京都府移住者送出数は275人となっており、市町村別内訳は、京都市が最も多く155人、次に舞鶴市が26人、福知山市15人、綾部市14人、以下、瑞穂町・丹波町が各9人、亀岡市・向日町が各8人、長岡町7人、三和町6人、和知町5人、宇治市3人、城陽町2人、その他が6人となっています。

移住先は、100周年を迎えたブラジルが一番多く220人、次いでパラグアイ48人、アルゼンチン・チリが各1人、その他3人となっています。

100年という節目の年。新天地を求めて移住した先人たちの苦労を思いつつ、日本という国家や国民について考えるきっかけにしていただければ幸いです。

参考文献

  • 『京都府統計史料集 百年の統計 第1巻』 京都府立総合資料館編 1969 530,6,11p (当館請求記号 MK0/351.62/Ky6/1)
  • 『海外移住展示資料』 京都府編 京都府・京都府海外協会共同刊行 1963 35p (当館請求記号 MK0/334.4/Ky6)

総合資料館メールマガジン 第45号(2008年6月18日)掲載

失われた年金記録を調べるには

みなさんのお手元には、「ねんきん特別便」が届いたでしょうか?

最近当館では、年金記録の確認に関する調査の相談が増えてきました。ご本人はもとより、社会保険庁に記録がない場合にご本人から申し立てを受けた委員会の方が来館されることもあります。また現在は京都府以外の地域にお住まいの方も多く、電話や文書による問い合わせもあります。

何十年も前に勤務されていた商店、事業所等の正式名称や住所をお調べになることが多いのですが、そんな時に意外と役に立つのが、古い電話帳や住宅地図です。

設立年や代表者名まで知りたい場合には、『京都年鑑』や商工会議所の会員名簿等の企業録がありますが、個人商店等は記載されていないこともあり調査が困難になります。

では、これまでの相談事例の中からいくつかご紹介しましょう。

◇事例1
Q:橋の名称と完成年月。
 (昭和30年頃、南丹地方の架橋工事現場で働いていた。橋の所在地はわかっている。)
A:該当する町誌に架橋工事の記述があり、橋の名称、竣工年月が判明した。

◇事例2
Q:飲食店の開店年月と代表者名。
 (昭和30年代に勤務。現在も盛業中だが途中で経営者が変わっている。)
A:電話帳には昭和38年9月版から記載があった。当時の新聞、雑誌で開店広告等を探すが出てこず。『京都料飲大観』(京都府料理飲食業組合連合会刊 昭和40年)に代表者名の記載あり。

◇事例3
Q:タクシー会社の所在地。
 (昭和20年代に勤務。会社名は、わかっているが、現在この会社はない。)
A:該当する年代の電話帳の所蔵は、昭和21、23年版のみ。電話帳にも『京都年鑑』等にも記載なし。

◇事例4
Q:鉄工所の名称と住所。(現在はなくなっている。)
A:通り名、近隣の学校名をご記憶であったので、古い住宅地図で判明。 

以上のように、調査内容は多種多様で、残念ながらはっきりと判明しない場合もありますが、年金に関する記憶が曖昧で、何か手がかりをお探しの方がおられましたら、是非一度ご来館ください。

総合資料館メールマガジン 第57号(2008年12月3日)掲載

調べ方のヒント「市町村合併をお忘れなく」

平成の大合併により、京都府内の市町村数は合併前の44(11市32町1村)から26(15市10町1村/2007年3月現在)となっています。新しい市や町について調べる際には、旧市町の資料も併せてご覧ください。

(新)京丹後市 2004年4月1日
旧:中郡峰山町・大宮町、竹野郡網野町・丹後町・弥栄町、熊野郡久美浜町

(編入)京都市右京区 2005年4月1日
旧:北桑田郡京北町

(新)京丹波町(船井郡) 2005年10月11日
旧:船井郡丹波町・瑞穂町・和知町

(新)福知山市 2006年1月1日
旧:福知山市、天田郡三和町・夜久野町、加佐郡大江町

(新)南丹市  2006年1月1日
旧:北桑田郡美山町、船井郡園部町・八木町・日吉町

(新)与謝野町(与謝郡) 2006年3月1日
旧:与謝郡加悦町・岩滝町・野田川町

(新)木津川市 2007年3月12日
旧:相楽郡山城町・木津町・加茂町

総合資料館メールマガジン 第61号(2009年1月28日)掲載

お問い合わせ

文化生活部文化政策室 京都学・歴彩館

京都市左京区下鴨半木町1-29

ファックス:075-791-9466

rekisaikan-kikaku@pref.kyoto.lg.jp