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当館では京都府立庁以来の行政文書を収集・公開しています。そのうち1万5000点が重要文化財です。このコラムでは、レファレンスなどで行政文書を調査した際に見つけた小ネタを随時掲載します。
日清戦争が終了して数年たった明治31(1898)年8月に、現在の向日市・長岡京市・大山崎町などの地域を管轄していた乙訓郡役所が、一通の「告諭」を郡内に発布します。
その内容は、社寺の宝物・建物の防火対策については日頃から注意をしているところだが、先日、北垣国道氏から京都府教育会に「銀杏樹」の防火上の効用についての一文が寄せられた。イチョウに火災への特効があるかどうかは不明だが、風情もあり、また安価なので、境内の適当な場所に植樹してほしい、とのものでした。
そして、この「告諭」には、「公孫樹」と題する北垣の文章が、活版に組まれて添えられていました。その文章には以下のようにイチョウの効能が述べられていました。
鴨川の東、四条の南、団栗巷にあるイチョウは、天明8(1788)年の天明の大火(団栗火事)にも「頻(しきり)に水分を噴出し」て焼けなかったとの伝説があり、また、北垣が実見した話として、近年の四条大和大路の民家数十戸を焼いた火事の際にも、「燼片(じんぺん:燃えかす)の公孫樹(イチョウ)辺に来るや忽(たちまち)滅えて他方に転じ、絶えて樹の周辺に墜落するもの有るを認めず」という状況だった、としてます。
その上で、この現象になお「識者の説明」を求めるとしつつも、防火・風雅・樹木に吸水させて土地を乾燥させる効果・将来の「塗板材」の準備、という4つの利点をあげ、「学校樹」として各学校にイチョウを植えることを勧めています。前出の乙訓郡の「告諭」は、北垣の「学校樹の勧め」を、「境内樹の勧め」として読み替えたものでした。
明治14(1881)年から25(1892)年まで第3代京都府知事をつとめた北垣国道(1836~1916)は、京都府知事退任後、貴族院議員・枢密顧問官として中央政界に重きをなしていました。このエピソードは、近代化をすすめた名知事として、北垣が退任後も京都府域に強い影響力を保っていたことをしめすものでしょう。
なお、肝心なイチョウの「防火力」ですが、イチョウやシイなどの特定の樹木が、燃えにくく、火を防ぎやすいことは、古くから知られていましたが、現在ではその要因が幹や枝葉に含む豊富な水分であることが確かめられています。また、京都府内や全国各地にも同様の伝説を持つ「火伏せのイチョウ」はたくさんあります。
また、北垣が紹介した団栗巷のイチョウは、大阪の夏の陣(1615年)で破れて刑死した、長曽我部盛親の首を埋葬した塚がこの場所にあったという伝説により、「盛親銀杏」と呼ばれていたイチョウと考えられ、東山区団栗通大和大路西入ル井手町(団栗橋の東、南座の裏側)に近年まで残っていたようです。
酒肆がならぶ団栗橋界隈で、おいしい銀杏をつまみに、往事に思いを致すのも、いい夜の過ごし方ではないでしょうか。
消防の歴史・現在・未来>ギャラリー>身近な発見ギャラリー>3 本能寺の「火伏せのイチョウ」
第3号(2006年11月8日)
「孟買」の意味を即答できる方は、そう多くはないでしょう。「孟買」とは、インド西岸のムンバイ市(旧称ボンベイ)の漢字表記です。100年前の京都の愛宕郡に、この「孟買」の状況が影響を与えていた、というのが今回のお話です。
前回の小欄(「北垣とイチョウ」)と同じ年、明治31(1898)年の5月に、現在の京都市左京区とほぼ重なる区域であった愛宕郡の郡長が、郡内に「訓令」を発します。
その内容は、「孟買」「台湾」でペストが流行し、内地でも昨年流行した赤痢の再流行の兆しがある。また、東京・横浜・門司でもコレラが発生し、「盤谷」(タイのバンコク市)から「香港」へ到着した船舶にも35名のコレラ病死者が出ている状態であるので、衛生に気をつけ、予防するように、というものでした。
幕末の開国以来、各種の伝染病が国内であいついで流行します。これは単に日本が開国した、ということのみが原因ではなく、19世紀後半に、汽船の本格的な普及と西洋諸国の植民地政策のため、世界的な人と物の大移動期に突入したためです。
各国の防疫対策はこの状況に追いつくことができず、伝染病の大流行が日本のみならず各地で起こります。ちなみに日本での「伝染病予防法」の施行は明治30(1897)年でした。
このような訓令は、明治期にはくり返し出されていたものですが、特に都市京都に隣接する愛宕郡においては、衛生対策は重要な問題でした。この訓令にも「交通頻繁ノ町村」は特に注意するようにとの記述が見られます。
しかし、東シナ海を介して列島とつながる「香港」や、日清戦争後にも日本軍による征服戦争が続けられていた「台湾」のみならず、どうして「孟買」の状況も特記されるのでしょうか?
実は、わが国最初の遠洋定期航路が、明治26(1893)年に神戸-孟買間に開かれていたのです。これは、当時の殖産興業政策の柱である紡績の原料であった綿花がインドから大量に輸入されていたためです。
京都近郊の愛宕郡の流行病予防に、インド西岸の港町が関係してくる。19世紀末には世界史はすでにそのような段階を迎えていたのです。
第6号(2006年12月20日)掲載
明治12(1879)年から、京都府内各地に18箇所あった郡役所は、大正15(1926)年に一斉に廃止されます。50年あまりにわたって、性格を変えながらも、府と各町村のあいだで町村の監督役・広域課題の調整にあたっていた郡という行政組織は姿を消すことになりました。その際、課題のひとつとなったのは、元郡役所庁舎の使用方法でした。
現在のように各施設が十分でなかった当時は、大きな会議場や執務室・倉庫を備え、電話も設置されている元郡役所庁舎は利用価値の高い施設でした。
郡役所廃止から9ヶ月後の昭和2(1927)年4月の府の調査によると、3月初旬の丹後震災の直撃を受けた峰山町・網野町役場として、それぞれ中郡役所・竹野郡役所庁舎が無料で貸与されているほか、葛野郡役所庁舎が太秦村役場用として月額30円で貸与されています。
その他の多くの元郡役所庁舎は、農会や各種の産業組合(現在の農協の源流)の事務所として無料で貸与されます。もともと郡役所ではこれら半官半民の地域団体の事務を取り扱っていたこともあり、元庁舎の貸与は自然な流れではありました。
大正15年6月に制定された、「郡役所庁舎管理要綱」には、郡一円を区域とする公益団体の事務所使用や、「公集会」(おおやけのしゅうかい?)のための臨時使用については料金を徴収しない、という規程もあり、一定の優遇措置もとられていました。
今年度は、全国的にも「近代の郡」がブームになっているようです。小ネタ集でも注目していますが、下記のような展示が各地の文書館で企画されていますので、ご紹介します。
「平成の大合併」による行政の広域化が課題化されるなか、当時の広域行政の単位・担い手である「郡」「郡役所」の存在が、あらためて注目されているといえるでしょう。
第9号(2007年1月31日) 掲載
死者約3000名を出し、丹後地方に大きな打撃をあたえた丹後震災(北丹後地震)から、2007年3月7日で80年になります。その日を一週間後にひかえた今回は、丹後震災時の京都府の情報政策についてお伝えします。
1927(昭和2)年3月7日午後6時27分、丹後半島のつけ根を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。夕食時ということで、峰山などで大火災が発生し、全焼6459戸、全壊5149戸、死者2925名の大被害をもたらしました(『京都府大事典〈府域編〉』)。
数年前(1923(大正12)年9月)の関東大震災の記憶も生々しい時期でしたので、京都府は発生後直ちに震災救護本部を府庁に設置します。その一部として、警務部に特別高等警察課長を長とする情報係が置かれました。
情報係は、現地や関係先から入ってくる情報を整理してとりまとめ、 謄写版(ガリ版)などで府庁内および内務省・関係先・報道機関に配付しました。当時の新聞にも現地派遣記者からの情報とともに、府情報係の発表が重要な情報として掲載されています。情報係は緊急時の情報センターの機能を担ったのです。
「震災情報」と題された情報係の謄写版は、地震から2日後、9日の80号弱をピークに、2週間後の21日までに480号を発行し、最終的には1000号を越えて発行されました。
多くはB5版程度のザラ紙1~2枚に電話・電信で伝えられた情報を簡単にまとめたものですが、京都府が行う震災への対処に大きく貢献しました。現在当館に残されているのは、土木課に配付された「震災情報」をまとめた簿冊です。
通読するだけでも、刻々と飛び込んでくる情報によって、現地の状況が具体的に把握できます。またほかの資料と組み合わせる事によって、どのような情報をもとにどのような対処を行っていたか、緊急時の組織の対応を具体的に分析できます。この簿冊は、丹後震災への京都府の対応を考える際に重要な資料といえるでしょう。
また、震災記録映画も多数作成されました。たとえば、大阪毎日新聞(毎日新聞の前身)は、地震当日の夜に撮影班を現地に派遣しました。翌日の8日夜には、大阪中之島の大阪市公会堂で映写会を行い観衆7000名を集め、翌9日には、京都・神戸・名古屋でも映写しています。
京都府の情報係も現地に技師を派遣し、寄附金募集のための記録映画を8本作制します。これらは、地震6日後の13日に東京・大阪などの大都市に発送されて上映されたようです。
第11号(2007年2月28日)掲載
今年も梅雨の季節になりました。梅雨空にも独特の風情がありますが、長雨は、しばしば水害も引き起こしています。今回は、昭和10(1935)年6月29日に鴨川・桂川流域に大きな被害を出した水害をとりあげます。
この水害は、数日降り続いた梅雨によってもたらされたもので、多数の河川が同時に氾濫したものです。被害は各地に及び、府内全体で死者18名・重傷者51名、床上浸水以上の被害家屋は、約1万4000戸におよびました。
この水害については、京都の中心であり、三条大橋・四条大橋などが流出した、三条-四条間の鴨川沿岸地域、木屋町・河原町・寺町・祇園などの被害に注目が集まりがちですが、桂川流域、乙訓地域や京都市の北側の山村も大きな被害を受けました。
山村の被害については、「昭和10年 水害一件」(昭10-202)に、7月12日付けで府知事が宮内次官の求めに応じて提出した、愛宕郡八瀬村(現在の左京区八瀬)の被害報告のほか、7月2日現在の「水害ノ概況並ニ府ノ施設事項」にも記述が残されています。
八瀬村は、当時人口770名・戸数182戸の小村ですが、府内一と言われた激しい雨により、高野川堤防が各地で決壊し、全戸数の3分の1が被害を受け、耕地はほとんど埋没、通信設備と道路も破壊され、一時、交通途絶の状態に陥ったようです。
その他の山村も、この水害で大きな被害を受けたうえに、交通が途絶しました。もともと耕地が少なく、林業や流通業で生計をたてていた地域でしたので、府は、「餓死ニ至ランコトヲ慮(おもんばか)リ」、緊急措置をとりました。
八瀬村はじめ鞍馬・花背・小野郷・中川・静市野の各村に対し、道路橋梁護岸の応急工事などを急ぐとともに、人力で物資を輸送、約4000名分の食糧の配給、衣服・ローソクの支給を行いました。
人口密集地であった京都市内の被災地では、直後から伝染病が心配されましたが、交通手段を奪われた山村では、食糧危機が最大の課題であったことがわかります。被害のあらわれ方が各地域で異なることは、当時も現在も同じだったようです。
前年の昭和9年9月にも室戸台風の被害があり、この年の8月11日にも水害が発生しました。これら連続する水害を受けて、府は京都市と協力して、鴨川・高野川・御室川・天神川の改修を昭和11年から昭和22年にかけて実施しました。現在われわれになじみ深い、低い河床や堰が連続する鴨川の風景は、この工事によってできあがったものです。
第19号(2007年6月20日)掲載
戦後ながく総理大臣をつとめた吉田茂に良く知られた逸話があります。敗戦直後、吉田は連合国軍最高司令官であったダグラス=マッカーサーに食糧支援を要請しました。しかし、当時日本は混乱しており統計など不備だったので、吉田がマッカーサーに要請した食料援助の量は実際には過大なものでした。
その後、この点をマッカーサーから質問された吉田は、「それはわがほうの統計が未熟なために誤算したものだ。だが、もし統計がシッカリしていたらたぶん、日本は対米戦争に勝利を収めたろう。つまりマッカーサー元帥は不備なわが統計の恩恵を受けたわけだ」と即答し、マッカーサーの爆笑を誘って一件は落着しました。
吉田の機知をものがたるものとして以前から知られているエピソードであり、最近では孫にあたる麻生太郎衆議院議員が著書のなかでも取り上げています。しかし、この吉田とマッカーサーとのエピソードに直接つながるかどうかはともかく、吉田が述べた、未熟な「わがほうの統計」には、どうもからくりがあったようです。
敗戦直後の1945(昭和20)年8月25日、近畿地方総監府から近畿の各府県知事宛に「諸統計調査ニ関スル件」という「極秘」の朱印が押された通知が出されます。これは、占領軍からの行政資料提出の要求に備えて、トラブルを避けるために関係各機関の「諸統計ヲ統一整備」するために出された指示でした。
この通知は、これを受けて京都府から報告した統計が綴られている「近畿地方総監府諸統計調査ニ関スル件併ニ人口調査表各種」(昭20-68)の冒頭に綴られていますが、異なる形式のものが2通あります。この2通の通知には切り取りの痕はなどはなく、その他の状態から考えても、表向き用と実際に指示するためのものの2種類の通達が作成されて配布されたと考えられます。
表向き用と思われる方には、統計を整備するように、という一般的な指示があるだけで、実際に指示するための、以下のような具体的な記載がありません。もう片方にしか記されていない具体的な指示内容をあげると以下のようになります。
そしてこの統計の整備にあわせて、その他の事項や内容についても矛盾を生じないように留意するようにとの指示も記されています。
つまり、当時の政府は占領軍に国力を正確に把握されないために、統計数値の大幅な改変を指示し、その改変された数字を表向きのものとして取り扱おうとしていたのです。
実際にこの指示に基づいて京都府から報告された数字を検討すると、医師数などは、「真実数」は府内全体で2141名であるのに対して「誤差修正」欄は1065名と、ほぼ半減になっています。ほかの数値もほぼ同様の傾向があり、これまで公表されている数字と矛盾がないように、しかし、占領軍に国力を正確に把握されないようにする工夫がいたるところに見えます。
いまの段階では、9月以降、京都府をはじめとした各機関が実際に占領軍の監視下にはいったあとにも、この指示が徹底していたとは言い切れません。また、厚生省発行の『衛生年報』には、昭和20年度末現在の京都府の医師数として、2663名が計上されており、かなり早い段階から占領軍にも実数が把握されていると考えられます。
しかし、焼却されずに残ったこの通知とそれを含む簿冊は、占領軍と日本政府との敗戦直後の関係をうかがうことの出来る貴重な資料といえましょう。
第42号(2008年5月7日)掲載
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