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絵図類の考察からみた江戸末期から室町後期における京都近郊の植生景観

京都精華大学人文学部 小椋 純一


1 絵図類の利用による
植生景観史研究のための方法論


1)はじめに

  京都近郊のアカマツ林化の時期を知るため、千葉徳爾氏は日記などに記されたキノコの話を手がかりにしてそのことを考えている(千葉,1991)。それによると、京都盆地周辺では13世紀頃からアカマツ林化が進んだと考えられており、それは花粉分析などから考えられる年代よりも新しいものである。こうして、千葉氏の考察がどの程度正しいのかはまだ定かではないが、いずれにしても江戸時代以前における山地などの植生景観を文献から知ることが容易でない。そのため、古い時代の植生景観を明らかにするために絵図類を利用することが考えられる。
 しかし、絵図類には実際にはないものが描かれることもある一方、実在するものが描かれないこともよくあるため、絵図の背景のように描かれていることも多い山地などの植生景観の描写については、その写実性を慎重に検討する必要がある。
 絵図類の写実性を明らかにすることは難しいことも多いが、もしそれをなんらかの方法によって示すことができるならば、絵図類には多くの視覚的情報が含まれるため、それはかつての植生景観やはげ山の存在などを知る上でたいへん貴重な資料となるはずである。
2) 絵図類の利用による里山の景観史研究のための方法論  

かつての植生景観研究のために、ある絵図を重要な資料とするには、その絵図に描かれた植生等の景観に関する資料性が明らかにされなければならない。ここでいう資料性とは、資料的価値のことであり、それは写実性と言い換えても差し支えない場合も多い。ただ、絵図の資料性には、その制作時期がわかるかどうかというようなことも含まれるし、また、たとえば江戸時代中期より前の絵図には特によく見られることであるが、あまり写実的であるとは言えないような描写の中にも、かつての植生景観がかなり反映されていると考えられるような場合もあり、資料性という言葉は必ずしも写実性という言葉と同義ではない。絵図には、時代や作者により画風の異なる様々なものがあり、それらの資料性の考察にあたっては、それぞれの絵図ごとにその方法論は必ずしも一様なものとはならない。しかし、これまでの絵図類をもとにした植生景観復元の事例(小椋,1983;1986;1989;1990a;1990b;1991)から、絵図の資料性を明らかにするための方法論は、一般に下記のようなものとしてまとめることができる。
 ここに示したいくつかの方法は、そのすべてをある絵図の考察に用いることのできない場合が多いが、それぞれの絵図の資料性の考察に際しては、その可能な部分について行うことができる。その際、複数の方法によって考察が可能な場合には、それらの考察結果を総合的に判断することにより、絵図の資料性をより明らかなものとすることができる。ただし、下記の方法論を補足する新たな方法が加えられる可能性については、それが排除されるものではない。







(a)絵図にまつわる情報を可能な限り多くつかむ
 ある絵図をもとにして古い時代の里山の景観を考えるにあたり、まず押えておかねばならないことは、その絵図がいつ頃制作されたかということである。もし、それがわからなければ、その資料性を考える意味は大幅に減少することになる。
 絵図の制作時期については、絵図やそれを収めた箱の一部に記されていることも多いし、また、他の文献によってその制作時期を知ることができる場合もある。ただ、絵図の制作時期については十分慎重でなければならいことから、絵図や文献等の記載を鵜呑みにするのではなく、その記載が間違っている可能性をも考え、必要によっては独自にそれを検証しなければならない。
 制作時期の他にも、作者など絵図にまつわる情報をできるだけ多くつかむことは重要なことである。たとえば、もしある絵図の作者を具体的に知ることができ、その作者が無名でないとすれば、その絵図の制作時期の範囲はおのずと絞られてくるし、その描写の特徴などを知ることができるような場合も多い。また、そのことにより作者の画論を知り、絵図の資料性を考える手掛かりが得られるようなこともある。また、どのような意図のもとに絵図が制作されたかというようなことがわかれば、絵図の資料性を考える上でそれが大きな意味をもってくるようなこともある。
(b)他の絵図、文献との比較考察
 ある絵図の植生景観に関する資料性を考えるにあたり、同時代の他の絵図や文献との比較考察が有効なものとなることがある。 この場合、絵図に描かれた樹木などの植物は、ふつうその種までも特定することは難しいため、マツタイプ、スギタイプ、サクラタイプ、ウメタイプ、タケタイプなどのようにいくつかのタイプに分けることによって考察をすすめることができる。

 ( i )他の絵図との比較考察
 一般に、過去の植生景観を考察するためにその資料性を検討しようとする絵図は、少なくともそうする価値があると判断されるものであるが、そのようなある絵図の描写が、同時代に同一の場所を描いた他の資料性が高い可能性があると見られる絵図の描写と矛盾が少なければ少ないほど、双方の絵図は互いに高い資料性をもつと考えることができる。その際、両絵図の作者は同じでもよいし異なっていてもよく、また、二つの絵図が描かれた視点がそれぞれ異なることにより、互いの風景が大きく違ったものになっていたとしても、ある同一地域の景観の比較検討が可能であれば、それは問題ではない。むしろそのことにより互いの絵図の資料性をよりはっきりと判断することができる場合も多い。
 なお、絵図同志の比較考察を行う際、比較検討しようとする二つの絵図の制作時期ができるだけ近いことが望ましいことは言うまでもない。





( ii )文献との比較考察
 ある絵図と同時代の文献に、絵図の植生景観に関する資料性を考える手がかりになる記述があれば、絵図の描写とその記述を比較検討することができる。ただ、古い文献にあまり名もない場所の植生について直接的に記してあることは稀であり、ふつうある絵図の描写が文献の植生に関する直接的な記述と比較できるのは、社寺などの名所付近に限られるが、それでも、絵図の資料性を考えるある程度の手がかりとはなる。
 なお、その場合、文献の記述は必ずしも植生等に関する直接的なものだけである必要はなく、間接的なものも有効なこともある。植生等に関する間接的な記述からは、名所付近に限らずより広い範囲の景観を考えることができる場合もあり、そのことが絵図の資料性を考える別の手がかりになることがある。

(c)山や谷などの地形描写の分析的考察
 写実性が相当高い可能性があると見られる絵図については、そこに描かれた山や谷などの地形描写を、現況や詳しい地形図をもとに作製したモデルや図形と比較しながら分析的に考察することにより、その資料性をかなり明らかにできることがある。この方法は、江戸中期以降のかなり写実主義的な絵画の考察には特に有効と考えられる。ただ、その際、絵図が描かれた視点ができるだけ正確に特定される必要がある。

 ( i )視点の特定
 この絵図の描写の分析的考察においては、絵図が描かれた視点は必ず特定されなければならない。視点を特定するには、ふつう地形図なども適宜用いながら、足でかせいで探すのが早く確実な方法である。
絵図には、しばしば視点が複数あることもあり、複数の視点からかなり広範な風景を描いたものもあるため、絵図の内容によっては、それらの視点を探すのに自動車やバイクや自転車などの乗り物をうまく使うとよいこともある。ただ、乗り物を使うときには、それによって絵図の視点の範囲をある程度絞りこむことができるが、最終的に視点を特定するには、ふつう人間の足でできるだけ細かく歩いて探さなければならない。この視点の特定は、 誤りのないよういろいろな可能性を考えながら慎重になされなければならない。
 なお、今日では、過去に描かれた絵図の視点を特定しようとする際、樹木の繁茂や、市街地の拡大などにより、求める視点を自由に探すことが困難なことも少なくない。そのようなときには、視点の範囲をできるだけ絞りこんだ上で、高い建物に上るなどすることによって、絵図の視点を推定により特定してゆくことになる。あるいは、精度の高いデジタル化された地形情報を利用して、パソコン上で視点を特定することも考えられる。

( ii )現況との比較
 絵図の視点が特定できれば、絵図の描写とその視点から見た現況とをまず比較することができる。もし、特定された視点から、目的の方向の視界が何かに遮られているときは、そこからできるだけ近い所から目的の場所を見ればよい。そのことによって、その絵図の資料性についていろいろなことが考えられるようになる。絵図の風景と現況とには、ふつう類似点と相異点とが見られるが、それらの類似あるいは相異の理由を考えてゆくことにより、植生景観等に関するその絵図の資料性が明らかになってゆくこともある。




( iii )詳しい地形図をもとにした地形現況と絵図の描写との比較考察
絵図に描かれた風景と現況との比較の次のステップの一つとして、詳しい地形図をもとにした地上に植生のない場合の状態(地形現況)と絵図の描写との比較がある。この比較考察は、絵図の写実性を判断する上でかなり有効である場合が多い。
 この考察の前提としては、ふつう対象とする地域の地形の状態が、絵図の描かれた頃と今日とではほとんど変化していないと考えられることがあるが、対象地域に自然災害や土木工事などによる変化のある場合、それが部分的であり、かつその変化の概要を確認することができるようなときにはこの限りではない。
 この考察は、たとえば、絵図に描かれている谷の一つを確認するようなことであれば、地形図を見るだけでできるような場合もあるが、ふつう地形現況と絵図の描写との比較を可能にするためには、詳しい地形図をもとにして、絵図の視点から見た地形現況を何らかの方法によってビジュアルな形でとらえられるようにする必要がある。
 その一つの確実な方法は、詳しい地形図をもとにして、できる限り精巧な地形現況の模型を作成することである。また、詳しい地形情報をパソコンに入力することにより、コンピューター・グラフィクス(CG)によってそれを行うことも考えられる。
 なお、この考察の際、もとにする地形図がたとえ2,500分の1程度のかなり詳しいものであっても、
それから実際の細かな地形を読み取るには限界があり、絵図には地形図からは読み取ることができないような小さな谷などの地形が描かれている場合もあるため、そのようなときには、現地に足を運んで、実際に地形の状態がどのようになっているかを見る必要がある。また、2,500分の1や3,000分の1のようなかなり詳しい地形図でさえ、作図があまり正確でない場合があるので注意をする必要もある。
 また、模型の作成やCGの利用は必ずしも容易ではないが、地形現況と絵図の描写との比較考察を便宜的に行う方法の一つとして、山地部の稜線(輪郭線)の形状について、絵図のそれと絵図と同一視点から見た地形現況のそれとを比較検討する方法がある。地形現況における稜線の形状の予測は、2,500分の1から1万分の1程度の詳しい地形図を適宜用い、地形の範囲や複雑さに応じて適当に、視点から稜線への10点から数十点ほどの仰角(俯角)を求めてゆくことにより行うことができる。
 地形現況や現況において、対象とする地域と視点との距離が近く、植生高によって稜線の形状が大きく変化するような場合には、地形現況にある一定の高さのものが加わったときの稜線の形状を予測することによって、ある絵図が描かれた時代の植生の状態を判断できる場合もある。






(d)岩や滝などの特徴的なものの描写と現況との比較
 絵図の描写の中で、岩や滝や城跡などの特徴的と見えるものの描写に着目し、そのような描写と絵図に描かれているその付近の今日の状況とを比較することにより、絵図の資料性をある程度判断できることも少なくない。
 ただし、この場合、絵図に描かれている岩や滝などが、樹木の繁茂などによって今日では隠れて見えないこともよくあるため、それらの存在の確認には、ふつう、こまめに現地に足を運ぶ必要がある。しかし、土砂崩落地のような部分が絵図に描かれている場合は、今日ではそこに植生が回復し、地盤が安定化していることによって、絵図の描写のような状態を確認できないこともある。

(e)絵図の彩色の検討
 絵図が彩色されているものであれば、その彩色を検討することにより、絵図の彩色と植生などとの関係が大きいと考えられる場合がある。
 絵図によっては、ある色がどのような地表の状態を表しているかを凡例で示している場合もあるが、そうでないことの方が多く、彩色のみを見て直ちに絵図から植生景観を判断することは一般に難しい。しかし、他の方法によっておおよその景観の状態がわかっている段階では、それと彩色との矛盾などを見ることにより、絵図の彩色を植生等の景観を確認してゆく一つの手段とすることができるものと考えられる。特に、ある絵図中において、植生があるとすれば全般に低いことが他の方法によって確認できる部分があるような場合、彩色は植生があるかないかを知る大きな手掛かりとなることがある。

(f)植生とは全く関係のない部分の景観描写についての考察
 建物や橋梁などのように、植生景観とは関係のないもので、他の絵図や現存物との比較が可能なものの景観描写の考察は、絵図に描かれた植生等の景観に関する資料性を考える上で、
ある程度参考となるものと考えられる。すなわち、たとえば、それらの描写の写実性が疑わしい場合は、一般に植生等の景観描写に関しても同様な可能性が高いことが予測される。ただ、これはあくまでも参考となるものであって、このことが直接的に絵図に描かれ植生景観に関する資料性を明らかにするものでないことは言うまでもない。

 (g)考察結果の総合的判断
以上の(a)から(f)までの考察可能な部分の考察結果を、総合的に判断することにより、結論をまとめる。その際、ある地域のある時代の植生景観を、いくつかの場所の考察から考えるような場合には、それぞれの場所ごとに結論をまとめながら進めてゆくこともできる。

2 「再撰花洛名勝図会」の考察からみた江戸末期における 京都近郊の山地の植生景観

1)はじめに

 江戸時代の後期を中心に、日本の各地で多くの名所図会がつくられ、京都のものもいくつも刊行されている。名所図会は、ある地域の名所を中心にした図入りの地誌で、ふつう数冊の本の形になっている。そのような名所図会の挿図には、社寺などの名所の背景として、その地域の山などの自然景観が広く描かれていることも少なくない。しかしそのような植生等の景観描写が、十分写実的と見えるものは決して多くはない。
 ここに取り上げる「再撰花洛名勝図会」は、一連の京都の名所図会の中でも、その背景までも含めて、最も細かく描かれているものである。また、「再撰花洛名勝図会」の描写は、ほとんど東山方面に限られ、また挿図が多いため、同名所図会はかつての京都近郊山地の植生景観を考える上で、その挿図の比較考察が特に行いやすいものである。ここでは、その考察(小椋,1983)の概要を述べる。






2)「再撰花洛名勝図会」について

 「再撰花洛名勝図会」に至る京都の名所図会の歴史などの概要について、まず述べておきたい。京都の名所図会は、江戸時代の初期、1600年代の半ば頃から現われ始める。明暦4年(1658)に刊行された「京童」と「洛陽名所集」は、京都名所案内のはじめとされるものである。その後、寛文7年(1667)に「京童跡追」、延宝5年(1677)に「出来斎京土産」、元禄3年(1690)に「名所都鳥」など、1700年代の初期までに挿図のある京都の名所案内が相次いで刊行されている。これらは、ここで対象としている京都近郊の山々とそこにある林が多く描かれているものであるが、この時期の名所図会の挿図は概して記述に対して補助的なものであり、京都周辺の林が細かく描かれているものはない。
 この時期の後、1700年代の後期に「都名所図会」をはじめとする一連の京都の名所図会が刊行される。その主なものは「都名所図会」(安永9年〈1780〉)、「拾遺都名所図会」(天明7年〈1787〉)、「都林泉名勝図会」(寛政11年〈1799〉)である。これらはすべて秋里籬島の執筆によるもので、はじめの2つの挿図を竹原春朝斎が、最後のものの挿図を西村中和、佐久間草堰、奧文鳴の3人が描いている。これらは、前記の1700年頃までのものと比べるとかなり写実的に描かれていてはいるが、その背景である山地などの描写には重点が置かれていないものが多い。ただ、「都林泉名勝図会」では、挿図によっては京都近郊の山々の林の様子が比較的細かく描かれているものもあり、山地の植生を考える上での資料となる可能性があると見られるものもある。

 その後「帝都雅景一覧」(前編・文化6年〈1809〉、後編・文化13年〈1816〉)のように、山地の植生描写について全般にやや細かい描写の見られるものも出てくるが、元治元年(1864)に刊行された「再撰花洛名勝図会」は、ほとんど東山に限られるものの、そこには山の植生の細かい描写も多く、それは当時の京都近郊山地の植生景観を知るためのよい資料となる可能性があるものと考えられる。
 「再撰花洛名勝図会」は平塚瓢斎の草稿をもとに木村明啓と川喜多真彦が分担して執筆したもので、挿図は横山華渓、松川半山、井上左水、梅川東居らによるものである。当初は、洛陽の部、東山の部、北山の部、西山の部など6篇が予定されていたが、実際に刊行されたのは第2篇の東山の部のみであった。
 挿図が綿密に描かれていることは一見すればわかるが、本図会中、東山名所図会序には『・・・安永のむかし、秋里某があらはした都名所図会の、絵のようの、事そぎすぐして、しちに似ぬが、おほかるをうれへ、音羽山の、おとに聞こえたるすみがきの上手に、かき改めさせ・・・』と、また、例言には『・・・其本原たる都名所の沿革異同あるのみならず、図作の粗漏之を他邦に比すれば恥づる事多し。余是を慨歎するの余り・・・』とあるように、挿図の写実性を高めることが意図的にねらわれていることがわかる。一方、同じ例言の中には『絵図は其地に画者を招きて真を写すといへども、斜直横肆位置を立つるの遠近に随ふて違ふ所無きことを得ず・・・』とあるように、多少の不正確さのあることも断っている。




3)「再撰花洛名勝図会」の植生景観に関する資料性の検討

 では、実際にこの「再撰花洛名勝図会」において、それぞれの挿図には植生景観がどの程度正確に描かれているのだろうか。「再撰花洛名勝図会」には、その最初の挿図として東山全図が見開き3枚にわたって描かれている(図−1〜3)。南は伏見稲荷付近から北は比叡山にわたって描かれたこの図には、主な社寺などの名所も描かれている。一方、同図会中には、それらの名所をより近くから描いた挿図も多く収められているため、両者を比較することにより、東山全図とその他の挿図の大凡の写実性がわかり、その写実性によっては東山全域の様子を知ることができるものと考えられる。また、比較的近景の図には、山地などの同一部分がその背景となっているものも少なくないことから、そうした比較的近景の図同士の比較考察が可能なものもある。
 ここではその検討例を少しあげ、東山全図とその他の挿図の資料性を考えてみたい。

図-1.再撰花洛名勝図会(東山体図、その一)
図-1

図-2.再撰花洛名勝図会(東山体図、その二)
図-2

図-3.再撰花洛名勝図会(東山体図、その三)
図-3






(a)聖護院の森付近
 図−4は井上左水による聖護院の森付近の図であり、図−5は梅川東居筆の図の一部で、そこにも聖護院の森付近が描かれている。また、図−6は東山全図中の聖護院の付近を拡大したものである。3人の画家により全く独自に描かれたと考えられるこの3種類の図は、聖護院の森付近が決して同じような詳しさで描かれているわけではないが、その付近の大まかな植生景観はよく一致している。
 すなわち、どの図においても、聖護院の森は主にマツタイプの高木からなる森として描かれているが、鳥居のすぐ近くには一本の広葉樹の大木も描かれている。また、そこには、マツタイプの樹木のようには高くはないが、マツタイプとは異なる樹種も多くあるように見える。また、鳥居の手前の部分には、ウメタイプの林が共通して描かれている。
 このことから、これら3種類の絵図は、聖護院の森付近の江戸末期の植生景観を考える上で十分な資料性があり、その植生景観の描写は、概して写実的であると考えることができる。



図-4.再撰花洛名勝図会(聖護院付近 1 )
図-4

図-5.再撰花洛名勝図会(聖護院付近 2 )
図-5

図-6.再撰花洛名勝図会(東山全図 聖護院付近)
図-6





 (b)清水寺
 音羽山清水寺の比較的近景の図(図−7〜8)では、本堂の舞台の下方や西門の周辺などにサクラタイプの木が多数見られる。図−7の三重塔の後方、成就院の右手にはタケタイプの林と共にスギタイプの木も10数本見える。スギタイプの木は、図−8の奥ノ院の右手にも2本見える。また、寺の周辺には桜以外の広葉樹も多く描かれており、背景の山の部分はマツタイプの林でよく覆われている。また、図の下部にはタケタイプの林が3〜4ケ所ある。
 一方、東山全図(図−9は部分的に拡大したもの)では、本堂の周辺には多くのサクラタイプの木が描かれていて、他のタイプの木はほとんどない。寺の周辺には広葉樹タイプの木も見られ、三重塔の左手にはスギタイプの木が2本、奥の院の右手にもスギタイプの木が少なくとも2本は描かれている。また、寺の下方にはタケタイプの林が3ケ所ある。また、背景の山はマツタイプの林でよく覆われている。
 このことから、これらの絵図も江戸末期の植生景観を考える上で十分な資料性があり、その植生景観の描写は、概して写実的であると考えることができる。




図-7.再撰花洛名勝図会(清水寺)
図-7

図-8.再撰花洛名勝図会(清水寺、上図の続き)
図-8

図-9.再撰花洛名勝図会(東山全図、清水寺付近)
図-9





 (c)東大谷
 近景の図−10では阿弥陀堂の手前にマツタイプの木が1本、その左手に2本のスギタイプの木が描かれている。また、阿弥陀堂の右手、鐘楼の手前にも3本のスギタイプの木が描かれ、祖廟の左手にも2本の杉タイプの木がある。祖廟と阿弥陀堂の間や玄関の周辺には広葉樹タイプの木も多く見られ、唐門の下の石段の両側にはサクラタイプの木が数本見え、石段の左手には2本のマツタイプの木も見える。その石段の右手すこし離れた所にはタケタイプの林も見られ、また、背景の山はマツタイプの林で覆われている。もう一つの近景の図、図−11では、参道の両側にはマツタイプの並木が多く描かれていて、特にその上部の木は大きい。参道の下部にはマツタイプの木の他に、サクラタイプの並木もあり、スギタイプの木立ちも見られる。図の右手、祇園女御家と記されている塚の後方にはタケタイプの林も見られる。背景である知恩院裏山から丸山付近にかけては、マツタイプの林となっている。
 一方、東山全図(図−12は部分拡大図)では、阿弥陀堂付近には、その手前に樹高の高いマツタイプの木が1本と、唐門に近い所に同じマツタイプの木が2本、



図-10.再撰花洛名勝図会(東大谷)
図-10

図-11.再撰花洛名勝図会(東大谷、上図の続き)
図-11

図-12.再撰花洛名勝図会(東山全図、東大谷付近)
図-12





それに阿弥陀堂の左手から後方にかけて広葉樹タイプの林が見られる。祖廟付近の様子は明確ではないが、背後の山はマツタイプの林となっている。唐門から下の参道の上部にはマツタイプの並木が見られるが、下部にはほとんど何も描かれておらず、参道の入口近付に、わずかにマツタイプの木などが描かれているだけである。参道の上部の右手には、タケタイプの林が2ケ所見られる。
 このことから、これらの絵図についても江戸末期の植生景観を考える上で十分な資料性があり、その植生景観の描写は、概して写実的であると考えることができる。
 以上は若干の検討例を示したに過ぎないが、「再撰花洛名勝図会」の挿図を比較することにより、一般に次のことが言える。

 ( i ) 東山全図には省略が多く、樹木については、完全に省略されてしまっている場合もあり、また実際の樹木の本数より少なく描かれることがたいへん多い。そのような省略がおこなわれている場合、ふつう大木よりも小木の方が、また名前が記されていたり囲いがあるような木よりもそうでない木の方が省略されやすい。


( ii )東山全図において、樹木の位置が実際とは少しずれて描かれている場合もあるが、ほとんどの場合、描かれているタイプの樹木はその付近に実際に存在していたものと考えられる。

( iii ) 東山全図に描かれている大木の樹形は、実際の樹形によく似て描かれている。

( iv ) 以上( i )〜( iii )にあげたとおり、東山全図は、かなり綿密に描かれているとはいうものの、写真のように写実的なものではなく、省略もしばしばあり、位置の多少の相異もあるが、全体としては、それぞれの場所の植生景観をよく反映して描かれているものと考えることができる。なお、東山全図の樹木の描写が近景の図と明らかに食い違う部分については、各挿図の視点や描かれた時期がある程度異なるためであることも考えられることから、東山全図の描写が必ずしも誤っているとは言いきれない面もある。

 ( v ) 近景の図については、一部の画家のものを除けば、東山全図以上に植生景観までも比較的写実的に描いたものが多い。




5)東山全図およびその他の挿図に見る江戸末期における東山の植生景観

 上記のような「再撰花洛名勝図会」の資料性を踏まえながら、東山全図およびその他の挿図から江戸末期における東山の植生景観の概要を見てゆきたい。
 東山全図(図−1〜3)からは、平地部では、川添いや社寺の周辺などにタケタイプの林や社寺林などが見られる所もあるが、森林の大部分は山地の部分に見ることができる。その最も南部の山々の様子は、ややわかりにくいが、それほど樹高の高い木が生い茂っている様子ではない。また、それらの山々と阿弥陀ケ峰の間には、相当植生が低いか植生のほとんどないような山が見える。これらは、その付近の山なみも描かれている図−13や図−14のその描写とほぼ一致する。また、豊国神社の裏山である阿弥陀ケ峰は、東山全図では、少なくとも稜線の部分はマツタイプの林に描かれているように見える(図−1)。一方、図−15に見える阿弥陀ケ峰はマツタイプの林でよく覆われている。このように、阿弥陀ケ峰より南の山々には、よい松林の見られる所もあったが、柴草山のような低植生地と思われる所も少なくなかったものと考えられる。


図-13.再撰花洛名勝図会(東福寺)
図-13

図-14.再撰花洛名勝図会(三十三間堂)
図-14

図-15.再撰花洛名勝図会(松原河原)
図-15






 阿弥陀ケ峰より北、華頂山(図−2)までの山々は、東山全図ではマツタイプの林となっており、また前掲の図−7、図−10〜11や高台寺や清水寺の裏山の様子も描かれている図−16などからもわかるように、それらの山々は、マツタイプのよい林となっている。このように、華頂山から阿弥陀ケ峰にかけての山々にはよい松林がほとんどとぎれることなく続いていた。その山々の中腹から麓にかけて、社寺などの周辺には、スギやサクラやカエデなどの林も所々に見られた。
 大日山から比叡山に至る山なみは、東山全図では大きな木が少ないように見える。特に比叡山のあたりには、ほとんど何も描かれていない部分もあり、その部分はかなり低い植生の部分か、あるいは、ほとんど植生のない所のように見える。他の挿図で、それらの部分が見えるのは、図−17〜18などであるが、図−17や図−18から見える山の様子は東山全図とかなりよく一致している。このように、比叡山から大文字山を通り大日山に至る山々には、大きな樹木は少なく、おそらく柴草の採取に利用されていたと思われる低い植生景観が広く見られたものと考えられる。あるいは、全く植生のないような所も少なくなかった可能性も考えられる。そのために、東山の北方の比叡山付近では、その南方中腹にある一本杉や、瓜生山の将軍地蔵の木立ちのような大木は、図に描かれているとおり、町の方からもよく見えていたものと思われる。大文字山から大日山にかけては、全般には柴草地のような低植生の所が多かったが、そこには中木ないし高木の松の林も所々にあったものと考えられる。



図-16.再撰花洛名勝図会(松原河原、上図の続き)
図-16

図-17.再撰花洛名勝図会(岡崎付近)
図-17

図-18.再撰花洛名勝図会(大文字送火)
図-18




3 「帝都雅景一覧」と「華洛一覧図」の考察からみた文化年間における京都近郊山地の植生景観

1)はじめに

 江戸時代に刊行された名所図会の中には、先に取り上げた「再撰花洛名勝図会」のように、挿図の比較考察を行いやすいものもあるが、そのようなものは例外的である。大部分の名所図会は、共通した部分を描いた挿図があること自体まれであることもあり、その挿図の比較考察によって、それが描かれた頃の植生景観を考えるのは困難である。
 文化年間における京都一円の名所等の景観を数多く描いた「帝都雅景一覧」も、そのような名所図会の一つである。しかし、「帝都雅景一覧」とほぼ同じ文化年間に制作されたと考えられる一枚摺の絵図「華洛一覧図」は、京都の町とその近郊を広く描いたものであり、それらの描写を互いに比較検討することにより19世紀初頭における京都近郊山地の植生景観を考えることができる。
 一方、ここではそれらの図に描かれた山地描写を、現況や地形図をもとにしたモデルと比較することなどによりその資料性を検討し、その時代の京都近郊山地の植生景観を明らかにしたい。

 以下は、「帝都雅景一覧」と「華洛一覧図」のそれぞれについて検討した結果(小椋,1989;1990)をまとめる形で、その概要を述べたものである。


2)「帝都雅景一覧」と「華洛一覧図」について

「帝都雅景一覧」は前編(東山之部、西山之部)と後編(南山之部、北山之部)の2編、4巻からなる。そこには、かつての京都周辺の名所を中心にした風景が描かれており、一連の名所図会の一つとしてとらえることができるものである。その刊行年は、前編が文化6年(1809)、後編が文化13年(1816)であり、図は文化年間における京都周辺の景観を描いたものと考えられる。図はすべて岸派の代表的画家の一人である河村文鳳によるもので、全部で84ケ所の風景が描かれており、そのうち30以上の図には、背景として京都周辺の山地が大なり小なり描かれている。
 一方、「華洛一覧図」(図−19、口絵−1)は、文化5年(1808)に刊行された多色刷の絵図で、縦が約42cm、横が約65cmの大きさのものである。その作者は、岸派を代表する画家の一人、横山華山(1781〜1837)である。図には京都の主な名所の名も記されており、当時いくつも出版されていた京都の案内図と共通した面もあるが、その描写は、他の京都案内図と比べると格段に写実的である。同図が、かなり綿密に描かれていることは、今日も残っている社寺などの建物や道路や河川などの描写を検討することからもわかるところである。図は、西方から京都を一望したような風景となっているが、細かく見ると、それは多くの視点から描いたいくつもの図をもとにして構成されたものであることがわかる。


図−19 華洛一覧図 (口絵−1)
図-19




3)「華洛一覧図」と「帝都雅景一覧」の比較考察からみた文化年間における京都近郊山地の植生景観 

 「華洛一覧図」(文化5年〈1808〉刊)は「帝都雅景一覧」の前編(文化6年〈1809〉刊)と刊行時期がかなり近いものである。ここでは、まず、それら二種類の絵図における共通描写部分の比較検討によりわかる当時の京都近郊山地の植生景観の例を少し示してみたい。

 (a)東山中央部 
 東山中央部は、先の「再撰花洛名勝図会」の考察では、高木のマツ林が途切れることなく続いていたところである。北は粟田山から南は清水山に至るその東山の中央部の山なみは、「華洛一覧図」では図−20のように描かれている。一方、「帝都雅景一覧」では、その山なみの断片を図−21のように描いている。図−20の最も左方の部分が図−21のCの部分にあたる。両図の比較は、視点の違いもあり、必ずしも容易ではないが、両図を比較することにより、この時代の東山中央部は、すべての部分が高木の林で覆われてはおらず、かなり低い植生の部分も少なくなかったものと考えられる。すなわち、「華洛一覧図」の図−20の部分には、ややはっきりとしない植生描写もあるものの、比較的高木の林もある程度は確認できる一方、かなり低い植生と思われる描写の部分も多く見られ、その描写は図−21のそれと矛盾しない。なお、時代は少しだけさかのぼるが、「都林泉名勝図会」(寛政11年〈1799〉)にも、当該地の一部を比較的細かく描いた図があるが、そこにも、高木の林とともに、かなり低い植生の部分も広くあるように見える。


図-20.華洛一覧図(東山中央部付近)
図-20

図-21.帝都雅景一覧(A:八坂晴鳩、B:双林暮月、C:葛原菘花、それぞれ部分)
図-21






(b)広沢池付近
 「華洛一覧図」では、広沢池付近は図−22のように描かれており、一方、「帝都雅景一覧」では図−23のように描かれている。両図の視点は大きく異なってはいるが、図−23では、池のすぐ背後の山には、その中腹の一部や下方に、ある程度の高さの林も見られるものの、その山頂などには広く低い植生の部分があるように見える。また、そのさらに背後の山地には、高木の樹木は全くないように見える。図−22の描写では、池のすぐ背後の山の林が図−23よりも幾分大きいようにも見えるものの、それ以外の点については、図−22と図−23の山地の植生描写に矛盾する点はない。こうして、文化年間の初期頃、広沢池付近には高木の樹木は池の北側の山裾などの一部にしかなかった可能性が大きいものと思われる。




図-22.華洛一覧(広沢池付近)
図-22

図-23.帝都雅景一覧(広沢月波、部分)
図-23




4)「帝都雅景一覧」の山地描写の分析的考察

 「華洛一覧図」と「帝都雅景一覧」の共通描写部分の比較検討により、文化年間初期の京都近郊山地の植生をある程度確認できるが、その比較可能な部分は限られている。そのため、ここでは「華洛一覧図」の山地の描写を現況や地形図をもとにしたモデルと比較検討することにより、より広範に当時の京都近郊山地の植生を考えてみたい。
 なお、ここで行った地形図をもとにした山地の稜線の形状予測は、植生高0の場合のものを基本とした。また、その作成には、京都市計画局による2,500分の1、および1万分の1の地形図を適宜用いた。

(a)山嘴春暮
 「帝都雅景一覧」前編(文化6年〈1809〉)には、山嘴春暮と題する挿図(図−24)がある。それは、左京区の山嘴(山端)から高野川の対岸の山地の風景を描いたものである。そこに描かれた山の稜線の部分には、様々な高さの孤立的な林が五ケ所に見ることができる。また、そのような林の他に、その山腹にはいくつもの大きな岩が描かれているように見える。一方、現況(写真 1)では、


その山はアカマツやアベマキなどの高木で全体が覆われており、図−24に見られるような孤立的な林や岩は、その図を描いた視点の付近からは見ることができない。
 このように図の描写と現況とでは大きな違いがあるが、図と現況をさまざまにじっくりと見てゆけば、いくつかのことがわかる。たとえば、ほぼ均一な高さの林で覆われているように見える現況の山の稜線の形状が、図 24で孤立的な林の部分を除いた場合の稜線の形状とよく似ていること、あるいは、今日では山全体が高木の林で覆われているため、林に分け入らない限りわからないが、図に描かれている大きないくつもの岩は、実際に今もあることなどである。なお、植生がない場合のその山の稜線の形状は図−25のようになる。
 これらのことから、この図は写実的に描かれた可能性が高いと考えられる。そして、文化年間の頃、この図で描かれた山地の大部分の植生の高さは、山肌の岩をほとんど隠すことのできないほど、かなり低いものであり、比較的高い樹木からなる小さな林が一部に見られただけであると考えられる。なお、山の手前の部分にはやや大きいマツと思われる樹木が多く描かれている。

図-24.帝都雅景一覧(山嘴春暮)
図-24

図-25.山嘴の予測稜線
図-25

写真-1.山端(山嘴)
写真-1




(b)石門
 「帝都雅景一覧」の挿図には、山地部に何らかの植生があるように描かれているものが多いが、それはどの程度の高さだったのだろうか。石門を描いた挿図は、そのことを考えるには都合のよいものである。
 石門は、京都市の北西、釈迦谷山の南南東約340m、標高約190mの小さな谷の両側にある一対の巨岩であるが、今日ではその存在はほとんど知られていない。石門の手前(南)から見た背後の山の景観は、「帝都雅景一覧」では、図−26のように描かれている。一方、今日の石門付近には様々な樹木が茂り、落葉樹に葉がある間は、そこから背後の山を見ることは難しいが、晩秋から早春には、それをかなり見ることができる(写真−2)。写真では確認しにくいが、その山の稜線はおおよそ実線のような形状となる。しかし、それは図−26の稜線の形とは大きく異なっている。なお、写真−2中の矢印は左右の岩の位置を示している。
 「帝都雅景一覧」に描かれている山地の稜線の形状は、



上記の山嘴春暮の例のように、ふつう実際に似た形で描かれていることから、この二つの稜線の形状の大きな違いは、背後の山地の植生高が両者では大きく異なっているためであることが考えられる。それは、この場合のように、山の稜線をつくる樹木と視点との距離が、近いところでは50m程度とかなり近いとき、植生高によって山地の稜線の形状が大きく変化しやすくなるからである。
 そこで、地形図をもとにして植生高が0m、5m、10m、20mの場合の予測稜線を描くと図−27のようになる(下から順に0m、5m、10m、20mの場合のもの)。なお、図−27の視点は右手の岩の手前7m、標高193mとした。
 図−26と図−27を比較すると、図−26の山の稜線の形状に最も近いのは、図−27の植生高Omの場合の予測稜線であることがわかる。そして、何らかの植生が描かれていると見られる石門の背後の山の植生高は、かなり低いものであった可能性が高いことがわかる。

図-26.帝都雅景一覧(石門、部分)
図-26

写真-2.石門の裏山(実線が山の形状を示す)
写真-2

図-27.石門裏山の予測稜線
図-27




(c)広沢月波
 広沢月波と題する「帝都雅景一覧」の挿図(図−28)は、先に「帝都雅景一覧」の描写と比較検討したものと同じもので、それによると広沢池付近の山地には文化年間の初期頃、高木の樹木は少なかったと考えられる。ここでは図の描写を分析的に検討することにより、当時のその付近の植生景観を考えてみたい。
 写真−3および図−29は、図−28の視点と思われる地点からの現況および山地の予測稜線(植生高0の場合)である。その稜線部分が、比較的均一な植生で覆われているように見える現況や予測稜線と、図−28の稜線の形状との比較から考えると、「帝都雅景一覧」の描かれた頃、広沢池の背後の山地の稜線付近は、何らかの植生があったとすれば、それは、かなり均一な高さのものであった可能性が大きいことがわかる。
 一方、「帝都雅景一覧」の図には、現況では見ることのできないような山地の細かな起伏が描かれている。たとえば、図−28の最も右手には、池に比較的なだらかな形で入る稜線とともに、そのすぐ上方には平地の林に交わって消えている稜線も描かれているが、現況ではその付近には稜線は一つだけしか見ることができない(写真−3に実線で示した部分)。



その理由としては、地形図では、そのあたりに谷状の地形を読み取ることはほとんどできないが、実際に現地に行ってみると、その付近に小さな谷状の地形を確認できることから、その付近の植生が、かつては、今日のように高木の植生で覆われたものではなかったことが考えられる。なお、池に入って行く稜線の形状が、「帝都雅景一覧」の図と現況とで大きく異なるのも、そのためであることが考えられる。
 また、図−28で、それらの稜線のすぐ上方の山地の部分には、かなりこまかな山肌の様子が描かれているが、今日では、そのような状態はほとんど確認することはできない。ただ、その付近には現在でも大きな岩があることが、遠方からも一部確認できることから、もし、そのあたりの植生がかなり低かったり、あるいは植生がないような状態であれば、そこには岩などの細かな地表の状態が、相当よく見えることは間違いないものと考えられる。
 これらのことを総合すると、「帝都雅景一覧」が描かれた頃、広沢池後方の山地には、一部を除いて、植生がかなり低い部分、あるいは植生自体がないような部分が広くあったことが考えられる。なお、これは「華洛一覧図」の広沢池付近の山地の描写と矛盾しない。

図-28.帝都雅景一覧(広沢月波)
図-28

写真-3.広沢池とその裏山
写真-3

図-29.広沢池裏山の予測稜線
図-29




5)「華洛一覧図」の山地描写の分析的考察

(a)比叡山
 「華洛一覧図」には、比叡山は図−30のように描かれている(図中のアルファベット等は説明のために加えたもの)。一方、その山を描いた視点に近いと思われる場所(賀茂川と高野川の合流地点の南方約500m、標高50mの鴨川右岸)から今日の比叡山を見ると写真−4のように見える。
 図−30と現况を比べてみると、図は水平方向に少し圧縮された形とはなっているものの、山の稜線の形状は、かなりよく似ていることがわかる。一方、同じ視点からの予測稜線を描くと図−31のようになり、それと図−30とを比較すると、GとA、HとB、IとC、KとE、LとFの部分の特徴的な稜線の起伏がよく対応していることがわかる。ただ、図−30のDの部分の稜線の盛り上がった部分は、図−31や現況では見ることができない。しかし、その付近には、今日では元の地形を変えて大きな駐車場が造られており、


そこにかつては図−30にあるような小さな盛り上がった地形があった可能性もある。ただ、その付近の過去の詳しい地形図が見つからず、そのことは確認できていない。それはともかく、以上のことから、図−30の比叡山の稜線部は、概してかなり写実的であり、その付近の植生高は概して均一なものであったと考えられる。
 ところで、図−31のGの部分の盛り上がりが、現在でははっきりと見えないのは、図の視点付近から比叡山を見ると、植生高の違いによって互いに見えたり見えなくなったりする二つの稜線があるためである(写真−5のAとB)。ちなみに、植生高が15mの場合の予測稜線を描くと図−31の円内上方の点線のようになり、植生高が低い場合には目立つその部分の盛り上がりは、植生高が高くなることによって、目立たないものとなることが確認できる
 一方、「華洛一覧図」と現況には、大きな違いも見ることができる。図−30では比叡山の山肌に数多くの谷をはっきりと見ることができるが、

図-30.華洛一覧図(比叡山、A〜F等付加)
図-30

図-31.比叡山の予測稜線
図-31
写真-4.比叡山
写真-4





現況では、かなり条件の良い時でさえ、大きな谷についてはある程度確認できても、図−30に見えるような小さな谷は全く見ることはできない。
 「華洛一覧図」に描かれているいくつもの谷は、その稜線の形状の写実性から考えると、実際にそのように見えていた可能性があるように思われる。そして、「華洛一覧図」の比叡山の描写と現況との違いの理由の可能性として、文化年間の頃と現在とでは、その付近の植生高に大きな違いがあることが考えられる。
 そこで、模型と地形図により図−30に描かれている谷の部分を確認した上で、京都市計画局の2,500分の1の地形図をもとに、問題となる谷の一部(写真−5のC)の模型を作成し、その部分の植生高の違いなどによって、図の視点の方向から、その部分の見え方がどのように変化するかの実験を行った(写真−6)。
 写真−6のAとBは共に植生のない場合のものであるが、Aは写真の左前方の仰角35度の方向から照明を当てたものであり、Bは同じく仰角15度の方向から照明を当てたものである。AとBとでは、Bの方がよりはっきりと小さな谷を確認できる。



このように、日がかなり西に傾いた時、最もよく谷の様子を見ることができることは、実際に図の視点付近から比叡山を観察してもわかることである。次に、谷の状態がかなりよく見える照明の位置で照明を固定し、植生高を変化させてみると、植生高2m程度までの疎林では、まだ小さな谷もなんとか確認できる(写真−6のC)が、植生高が5m程度の密な林になると、小さな谷の確認はだいぶ難しくなってくる(写真−6のD)。さらに、植生高が10m前後の林になると、小さな谷は見えなくなってくる(写真−6のE)。この実験からは、文化年間の頃、比叡山には植生高の低い部分が広く存在し、「華洛一覧図」に描かれているようなこまかな谷が実際に見えていた可能性が高いものと考えられる。
この実験の考察結果と、先の稜線の形状の考察から「華洛一覧図」が描かれた頃、図に描かれている部分の比叡山の植生高は、概して均一だった可能性が高いことなどを合わせて考えると、その部分の比叡山の植生は、その頃、全般にかなり低いものであったと考えられる。また、一部には植生のなかったところもあることも考えられる。

写真-5.比叡山の尾根(A、B)と谷(C)[模型]
写真-5谷

写真-6.日の傾きと植生高の違いによる谷の見え方
写真-6





(b)東山中央部
 「華洛一覧図」の東山中央部の描写(図−32)の視点は、その南西方向にあるように見える。また、その描写は比叡山や大文字山付近の描写とは異なり、やや高所から描いたもののようにも見える。写真−7は京都駅のすぐ南にあるホテル京阪の13階から撮影したものであり、図−32と比較すると、清水山(図と写真の最も右方のこんもりとした山)の占める割合が、写真の方が少し大きめであるように見えたり、また、稜線の形状は、図の方がかなり複雑であるということはあるものの、山のふもとの社寺などの描写も合わせて考えると、両者の視点はそれほど大きく異なっていないように思われる。なお、写真−7とほぼ同様な東山中央部の山なみの形は、京都駅から南西へ約1kmの東寺の近くのビルの屋上からも見ることができたが、



東寺の塔は、図−32の部分の視点であった可能性もあるように思われる。
 ところで、山地が比較的均一な植生で覆われている今日、東山中央部の山なみは、その南西方向の視点に限らず、どこからでもかなりなめらかな起伏の稜線を見ることができる。しかし、「華洛一覧図」には図−32のように、その稜線は決してなめらかとは言えないものとなっていることは、比叡山や大文字山付近の考察から、その描写が、かなり写実的である可能性が高いことを考えると、その付近の植生高は文化年間の頃、かなり不均一なものであった可能性が大きいものと考えられる。そして、それは、先の「帝都雅景一覧」との比較考察のややはっきりとしなかった結論と一致するものでもある。

図-32.華洛一覧図(東山中央部付近)
図-32

写真-7.東山中央部
写真-7




6)「華洛一覧図」の彩色と植生との関係

 「華洛一覧図」(文化5年〈1808〉)は色彩も豊かな図である。ここでは、その彩色と山地の植生との関係についても少し考えてみたい。
 「華洛一覧図」は龍谷大学図書館蔵や三井文庫蔵、また複数の個人蔵としても残っており、それらを比較検討することにより、同図は一部に加筆彩色されている可能性のある部分もあるものの、その大部分は多色刷りとなっていることがわかる。同図は、東福寺などに紅葉がはっきりと示され、また田畑の色あいなどから見ると、全体的には秋の終わりの風景のように見える。
 その山地の部分には主に緑、薄茶、茶の3色の彩色がなされているが、以上のことや彩色以外の図の資料性の考察をふまえて図を見ることにより、その彩色と山地の植生に相関がある可能性が見えてくる。
 たとえば、比叡山や瓜生山付近や大文字山付近は他の資料性の考察から、全般的には、なんらかの植生があったとすれば、それはかなり低いものであったことが考えられる部分であるが、「華洛一覧図」のその付近(図−19の左上部)には茶系統の色の部分も多く見られる。しかし、山地にわざわざやや濃い茶色い線状の部分を多く刷るようなことは今日では考えにくいことである。そして、そのようなやや濃い茶色の部分については、それが山の尾根近くに多いことや、図がかなり写実的なものであると考えられることから、草木も全くないような禿赭地を示している可能性が考えられる。

また、比叡山や瓜生山付近に特に多い薄茶色の部分も、茶色の部分と同様な所であったことも考えられるが、その色が、大部分は水田と思われる農地と同じような色であることから、そこが草地であることを示している可能性もあるように思われる。また、その付近の山地で樹木の描写がなく緑色の彩色の部分は、茶系統の色と意識的に色が変えられていることなどから、柴のような低い樹木のあったところである可能性が少なくないように考えられる。

7)まとめ

 以上「帝都雅景一覧」と「華洛一覧図」を中心とした考察から、文化年間初期頃の京都近郊山地の植生景観は、おおよそ次のようなものであったと考えられる。
 当時、京都近郊の山地には、今日とは異なり、かなり低い植生の部分や、場所によっては全く植生のないような所も広く見られたものと考えられる。特に、比叡山から瓜生山、大文字山を経て大日山に至る東山の北部の山並みには、禿赭地さえも少なくなかった可能性が高いことが考えられる。
 社寺の周辺や、嵐山や東山の中央部や双ケ丘などの社寺有地などには、比較的よい林の見られる所もあったが、それらの森林にしても、高木からなる大面積の林は稀だったものと考えられる。
 京都近郊山地のそのような高木の林の樹種は、主にアカマツであったものと考えられるが、社寺のすぐ周辺などには、さまざまな広葉樹やスギなどの高木も少なくなかったものと思われる。




4 「洛外図」の考察からみた江戸初期における京都近郊山地の植生景

1)はじめに

 江戸時代中期以降においては、円山応挙などによる洋風画の影響を受けた写実主義的絵画が、日本でも多く描かれるようになったが、それよりも前の時代の絵画では、山地部などは一見写実的とは言い難い描写となっているのがふつうであり、先に例示したように図中の山の稜線の形状を現況と細かく比較するようなことはできない。そのため、その時代の絵図から、かつての植生景観を考える方法論は、応挙の時代以降のものとは少し異なってくる。
 ここでは、そのような時代の絵図の中から、江戸初期に描かれたと考えられる「洛外図」を取り上げる。以下は、その描写と同時期の文献の植生景観に関する記述との比較や、図中の特徴的な描写の部分を現況と比較検討することなどにより、当時の京都近郊山地の植生景観を考察した結果(小椋,1986)の概要である。

2)「洛外図」について

「洛外図」(図−33はその一部、個人蔵)は八曲一双の屏風で、

左右隻それぞれ約127×480cmの大きさである。典型的な洛中洛外図とは異なり、洛中は全く描かれておらず、洛外のみが広範囲に描かれている。図中には極めて多くの書き入れが見られ、地図的な性格も大きいものと思われる。また、人物が全く描かれていないことも、この図の特徴の一つである。
 「洛外図」の景観年代は、後の万福寺の位置に寺の建物はなくただ「隠元寺地」との書き入れだけがあることなどから、隠元が宇治大和田の地を幕府から寄せられた万治2年(1659)以降のわずかな期間のものであり、おそらく万治3年(1660)前後のわずかな期間のものであると考えられる。
 「洛外図」は江戸初期の絵画的表現で描かれており、今日でいうような写実的な描写ではない部分も少なくないため、河川、道路、社寺、集落等の位置などを今日の地形図ときっちりと比較してみることはできないが、それらの位置関係について、現況や他の古地図などから考えてみると、概して正しく描かれているように見える。特に、道路や河川の描写の細かさもさることながら、社寺などでは主な建物の形状や配置さえも読み取れる場合が多く、しかも、その描写は現況や古図から考えてもほぼ正しいと考えられることが多い。ただ、このことによって、洛外の山地の植生景観までも直ちに考えることはできないため、山地の景観を考えるには、そのための考察が必要である。


図-33.洛外図(比叡山付近)
図-33




3)「洛外図」の植生景観の描写とその資料性の検討

 (a)その方法

 「洛外図」では、文献の記述や他の絵図の描写との比較により植生景観に関する資料性の検討ができる部分があるが、そうした考察では社寺を中心とした名所付近以外の植生景観に関する資料性は十分明らかにすることはできない。一方、広く京都を囲む山々などの植生景観を考える手がかりとして、「洛外図」の山々にはいくつかの特徴的な描写を見ることができる。それらは城跡や岩や滝などであるが、その描写と今日の状況を比較検討することにより、当時の山々の植生の様子が次第に浮かび上がってくる。ここでは、「洛外図」の山地付近に見られるそれらの特徴的な描写の部分と今日のその付近の状況との比較を中心に「洛外図」の植生景観の描写に関する資料性を考えることにより、「洛外図」が描かれた頃の江戸初期における京都近郊山地の植生景観を考えた例


を少し示してみたい。
 なお、「洛外図」には、その描写から明らかにマツやタケやサクラなどとわかる植物表現が見られる。マツは現在の植生などから考えると、ほぼアカマツと考えられるし、タケはまだモウソウチクが日本へ入っていない時代なので、マダケかハチクであろうと考えられるなど、その植物の種が推測できるものもあるが、「洛外図」の描写だけからでは、その植物の種までを特定することは一般には難しい。例えば、図中でスギかと思われる木は、実際はヒノキかもしれないし、あるいはもっと別の針葉樹を表している場合もあるかもしれない。「洛外図」中の植物表現は、江戸時代頃の他の絵図と同様、植物をいくつかのタイプに分けて考えることができる。同図中でそのようなタイプをはっきりと述べることのできる樹木は、マツタイプ、ウメタイプ、サクラタイプ、スギタイプ、カエデタイプ、ヤナギタイプである。また、正しくは“木"ではないが、タケタイプの林も数多く図中に見ることができる。




(b)「洛外図」の山地における特徴的な描写と現況との比較からの考察

 ( i )北白川城跡付近

 「洛外図」から、その頃の山々の景観を読み取る一つの手がかりとして、洛外の丘陵や山地に残された城跡がある。「洛外図」には城跡とはっきりわかるものとして、伏見城跡と北白川城跡が描かれている。共にその場所に見られる書き入れやその位置関係などから、それらが城跡であることは明白である。
 ここでは、規模は伏見城跡に比べると小さいものの、同様な描かれ方をしている北白川城跡付近(図−34)について考えてみたい。北白川城は、比叡山に近い東山三十六峰の一つである瓜生山の頂上付近一帯にあった中世の山城で、元亀元年(1570)に明智光秀が浅井、朝倉軍との戦いで滞在したのが最後とされるもので、別名勝軍山城とも瓜生山城とも呼ばれている。瓜生山頂には「洛外図」の頃、勝軍地蔵があったが、「洛外図」にもその付近に将軍地蔵の字を見ることもできる。図中、将軍地蔵(勝軍地蔵)の部分には多くの樹木を見ることができるが、その下部には段状の地形がはっきりと描かれている。また、その後方には樹木は全く見えず、ごつごつとした山肌の描写が見られる。今も、その城跡付近にはトリデ山、ヤカタ山、デマルなどの地名が残り、実際に山に足を運んでみれば、人工的に作られた平地を数多く見ることができる。ただ、今はその付近一帯はアカマツやコナラなどの高木の木々ですっかりと覆われているため、現地で林内に入らない限り、そこにいくつもの平地があることはわからない(写真−8)。そして図のように城跡が描かれるには、遠方からも実際にそのように見えていた可能性が高いことを考えると、「洛外図」の頃、北白川城跡付近には一部を除けば高木の樹木は少なかったものと考えることができる。また、ごつごつとした山肌の描写やその彩色(後述)からすると、この図のあたりには植生自体がない部分も少なからずあったことが考えられる。


図-34.洛外図(将軍地蔵付近)
図-34

写真-8.今日の瓜生山頂上付近
写真-8





 ( ii ) 金毘羅山(江文山)

 「洛外図」に描かれた城跡付近の植生は、全般に低かったと考えられるが、それは城跡が特別な地域であったからなのだろうか。ここでは、次に「洛外図」に描かれた岩の描写から、もう少し一般的な山々の景観を考えてみたい。
 「洛外図」には、清滝川上流の天狗岩(図−35)のような岩の描写が数多く見られるが、かつて江文山と呼ばれた大原の金毘羅山は、中でも大きな岩山として描かれている(図−36)。金毘羅山は、今はロッククライミングのゲレンデとして使われているような岩山で、実際に山に登ればその様子がよくわかる場所もあるが、岩壁のわずかなすき間に根を張るヒノキやアカマツなどの樹木によって大部分が覆われているため、今日、金毘羅山が岩山であることは遠方から眺めるだけではよくわからない(写真−9)。このような現状から考えると、「洛外図」にかつて見えなかった岩山が描かれていると考えるのは不自然であり、金毘羅山(江文山)は当時、「洛外図」に描かれているように、実際に樹木の少ない岩山として、ふもとの大原の里からも見えていたものと考えられる。
 これと同様なことは洛北雲ケ畑の岩屋不動周辺の山々についても言える。また、「洛外図」では、如意ケ嶽西南斜面や鷹ケ峰付近の山々などに岩山というほど大きくはない岩が描かれているところが少なくない。特に鷹ケ峰の山々には今日でも大きな岩がしばしば見られるが、それらは林の中にあって、遠くから見ることはできない。そして、このように「洛外図」に岩が描かれている場所には今日も実際に岩が見られ、一方それらの岩の大部分は林の中にあって遠方からは確認できないということは、「洛外図」の岩の描写がかなり正確に行われていることを示すと同時に、当時は今日よりも山々に多くの岩が見えた・・・すなわち、低い植生の山々が多かったことを示しているものと考えられる。

図-35.洛外図(清滝川上流付近)
図-35
図-36.洛外図(江文山付近)
図-36
写真-9.大原より見た金毘羅山
写真-9




( iii )如意ケ嶽の滝

 城跡や岩と共に、「洛外図」に描かれている滝も当時の山の景観を考える手がかりになるものと思われる。「洛外図」にはいくつかの滝が描かれているが、如意ケ嶽南側の山の中腹にも大きな滝が描かれている(図−37)。この滝はかつて、駒が滝とか楼門の滝とか如意ケ滝というふうに様々に呼ばれていたようである。なお、「洛外図」中の“にょいかたけ”の書き入れは、“にょいかたき”との間違いと思われる。滝の水は普通少量で、特別大きな滝ではないため(写真−10)、その存在を知る人は今日多くない。周囲には大きな樹木が茂っているため、下の市街地からその滝を見ることは全くできない。ただ滝の付近からは、木々の間よりわずかに吉田山や百万遍方面の市街地も垣間見ることができることから、もし滝の周辺に樹木がなければ、下からも岩場の多い滝の存在が認められるものと思われる。一方、「洛陽名所集」巻之二には、この駒が滝について『・・・雨の後にはかならず流れをまし、ちかづきがたしとなむ。遠所よりは山半分にも見え侍りぬ』との記述が見られる。ふだんは水量も少なく、まとまった落差はなくても、大雨が降れば、20m以上もの大きな滝となるであろうことは、今日の状況からも容易に推測できる。その様子が遠方から山半分程にもよく見え、京の名所案内にも記されていることは、当時は滝のまわりに大きな樹木が少なかったことを裏付けている。
 これと同様なことは、嵐山の戸無瀬の滝についても同様なことが言える。かつては多くの和歌にも詠まれたその滝は、今日では林の中に隠れ、観光地嵐山にありながらほとんど忘れ去られてしまっている。
 以上の考察例などから、「洛外図」が描かれた頃の江戸初期における京都周辺の山々には、今日とは異なり、広範囲にわたって高木の林の見られない部分があったことなどが考えられる。

図-37.洛外図(如意ヶ獄付近)
図-37
写真-10.駒ヶ滝
写真-10




(c)図の彩色からの考察

 「洛外図」は彩色も豊かな屏風図であり、その彩色もかつての洛外の山地の植生景観を考える手掛かりとなる可能性があるように思われる。「洛外図」では、清水寺のサクラ(花は白色、葉は赤茶色:図中の彩色、以下同様)、大文字の送り火(赤茶色)、八塩岡などの紅葉(赤茶色)、樹木では最も多く描かれているマツタイプの木々(葉は緑色、幹は赤茶色)、社寺などの周辺ではしばしば描かれているスギタイプの樹木(葉は緑色、幹は赤茶色)、タケタイプの林(薄緑色)、桧皮葺の屋根(赤茶色または茶色または薄茶色)、神社の鳥居(赤色)など、それらの彩色は概して写実的なものであると言うことができる。
 このようなことを踏まえた上で、植生の状態のはっきりわからない「洛外図」の山地の部分の彩色を見てみると、そこには緑色の部分も広くある一方、岩石地か地肌がむきだしの荒廃地のように描かれている場所の周辺を中心に、茶系統の色が広く使われている部分も少なくないことが注目される。先の考察例などから、「洛外図」は岩の位置の描写もかなり正確であるようなこと、そして、その彩色が概して写実的であると見られることから考えると、そのように広く茶系統の色で塗られた山地の大部分は、実際に草木のほとんどないような荒廃地であった可能性が大きいものと考えられる。そのようなところとしては、先述の江文山(金毘羅山)、岩屋不動付近の山、北白川城跡付近などの他に、大文字山から南禅寺の背後の山々(口絵−2)や音羽山付近の山などがある。


洛外図(如意ヶ獄から南禅字裏山付近) (口絵2)
口絵-2




4)まとめ

 文献の記述や他の絵図の描写との比較による「洛外図」の植生景観に関する資料性の考察から、「洛外図」に描かれている林はかつて実際にその場所にあり、また、そのおおよその樹種構成も割合正しく描かれている可能性が高い。そのことは、社寺を中心とする名所付近においては、特に言えるものである。一方、樹木の描かれていない山々の部分は、森林描写が省略された部分もあるであろうが、城跡や岩などの描写や名所付近の植生景観の描写の正確さ、また、図の彩色などから考えると、実際にそこには目立った森林はなかった可能性が大きいものと考えられる。このような資料性を踏まえながら「洛外図」を見ることにより、万治年間(1658〜1661)頃の京都近郊山地における植生景観の状況の概要は以下のようなものと考えられる。
 今日では山という言葉は森林を意味する場合も少なくないが、「洛外図」が描かれた頃、洛外の山々にはどこにでも森林が見られるというような状況ではなかった。ただ、山々の一部には、社寺周辺など広く森林の見られる部分もあった。知恩院から伏見稲荷の裏山付近にかけての東山には、特に連続した森林が広範囲に見られたものと思われる。そのような林は、マツが主体であったが、社寺のすぐ近くでは、スギなどの針葉樹や様々な広葉樹からなる林や竹林も珍しくなかった。
 一方、山々には高木の樹木のないところが多く、草地か極めて低い樹木が茂っていたと思われる部分も広く見られた。「洛外図」に岩が多く描かれている鷹ケ峰付近の山々などは、明らかにそのような低い植生だったものと思われる(図−38)。



また、草木もほとんどないはげ山のような所もかなりあったものと考えられる。中でも北白川城跡付近から南禅寺の背後の山々にかけての山なみには、相当広範囲に裸地化した部分が存在したようである(図−34、37、口絵−2)。

図-38.洛外図(鷹ヶ峰付近)
図-38




5 初期の代表的洛中洛外図の考察を中心にみた室町後期における京都近郊山地の植生景観

1)はじめに

 上記のように、「洛外図」の考察によると、それが描かれた江戸時代の初期には、既に京都近郊山地は大きな人為的影響を受け、そこにはほとんど草木のないような部分さえ珍しくはなかったものと考えられるが、そのような時代はいつまで遡るのだろうか。
 次に取り上げるのは、「洛外図」よりも百年以上前に制作されたと考えられる初期の代表的洛中洛外図である国立歴史民俗博物館蔵の洛中洛外図(甲本、以下簡略に歴博甲本洛中洛外図とする)と山形県米沢市蔵の洛中洛外図(上杉家旧蔵、以下簡略に上杉本洛中洛外図とする)である。それらの図の比較や、そこに描かれている特徴的な山地の描写を現況と比較検討することなどにより、室町後期における京都近郊山地の植生景観を考えてみたい。以下は、その考察結果(小椋,1990)の概要である。

2)歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図について

 (a)歴博甲本洛中洛外図

 歴博甲本洛中洛外図(図−39)は、現存する洛中洛外図の中で最古と考えられるものである。そして、その制作年代は、大永5年(1525)に造営された将軍義晴の柳御所とみられる公方邸が描かれていることなどから、1520年代後半から1530年代と推測されている(武田,1964;高橋,1988)。図は六曲一双の屏風で、その大きさは、それぞれ約138×348cmである。作者は、大和絵風の画法から土佐光信との伝承もあったが、人物描写や樹法や皴法に漢画的手法が認められることなどから、狩野元信周辺の狩野派の制作との説が有力である。図の上方には洛外、下方には洛中の景観が描かれている。洛外の景観としては、左隻には、左端に松尾神社、右端に上賀茂神社が、そしてその間に京都の西方から北方の主な社寺や山河が描かれている。一方、右隻には、左端に比叡山、右端に東福寺、そしてその間には左隻と同様に主な社寺や山河などが描かれている。図中には、季節の景物を豊富に見ることができ、左隻には秋と冬、右隻には春と夏の様子が描かれている。

図-39.歴博甲本洛中洛外図(左隻、部分)
図-39



(b)上杉本洛中洛外図

 歴博甲本洛中洛外図とともに初期の代表的洛中洛外図の双壁ともいうべき上杉本洛中洛外図は、永禄初年(1550年代末期から1560年代初期)の景観を描いたもので、作者は狩野永徳とするのがかつての定説であった。しかし、描かれている社寺や武家屋敷などの景観を過去の記録と細かく突き合わせてゆくことにより、その景観年代を天文16年(1547)とする説も出ている(今谷,1988)。ただ、図の景観は必ずしも単なる写実的なものでない部分もあることなどから、景観年代を非特定とする説もある。とはいえ、近年の流れとしては、上杉本洛中洛外図の景観の多くは、1540年代後半の天文年間後期を描いたものと見られている。ただ、図にある印影が一般に考えられてきたように狩野永徳の基準印である朱文円郭壼形「州信」印であるならば、図の制作年代は永徳が20歳前後以降、


すなわち永禄初年(1550年代末期)以降、織田信長が上杉謙信に本図を贈ったとされる天正2年(1574)の間である可能性もある。他にもいろいろな可能性は考えられるが、多くの諸先学の考察をまとめて考えてみると、上杉本洛中洛外図は、歴博甲本洛中洛外図よりも十数年から二十年ほど後の室町時代後期の景観を主に描いたものである可能性が高い。なお、図は六曲一双の屏風で、大きさはそれぞれ約160×363cmである。
 図の大まかな景観構成は、歴博甲本洛中洛外図と類似した点が多いが、左隻の左端上方には西方寺付近、右端上方には鞍馬寺、また右隻の右上端には稲荷山が描かれるなど、より広範な洛中洛外が描かれていたり、また山地にも人物描写がしばしば見られるなど、さまざまな相異点も見られる。




3)歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図における山地の植生描写の比較

 上述の通り、歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図の景観年代、あるいは制作年代は決して同一の時代ではなく、十数年以上異なるものと考えられる。そのため、ここでそれら二種類の絵図を比較することにより、過去の植生景観を考察するというのは本来適当ではないかもしれない。というのは、植生景観は樹木の生長や伐採や焼失などを考えればわかるように、短期間に大きく変化することがあるからである。
 それにもかかわらず、ここで初期の二種類の代表的洛中洛外図における山地の植生描写の比較考察を行うのは、先にいくつかの絵図類の考察の例を示したように、京都近郊の山地に類似した植生景観がかなり長期にわたり見られたと考えられる江戸時代と同様、室町後期においても、そこには長く類似した植生景観が見られた可能性があると考えられるためである。
 歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図に描かれている山地の大部分は、そこに山や峠などの名が記してあることからも推測できるように、洛外を描くのに忘れてはならない重要な所だったものと考えられる。そのため両洛中洛外図には、共通して描かれていることが確認できる山地がいくつも見られる。以下において比較考察を行うのは、そのような京都近郊の主な山地である。


 (a)比叡山

 京都の北東にそびえる比叡山は、京都近郊の山地を考える上で、忘れてはならない山の一つである。その比叡山は、歴博甲本洛中洛外図では図−40のように、上杉本洛中洛外図では図−41のように描かれている。
 図−40と図−41を比較すると、山地を描く手法が少し異なる点もあるようにも思われるが、後述の妙意ヶ嶽や愛宕山などの描写の比較から考えると、歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図の山地描写の手法は、比較的よく似ているように見える。にもかかわらず、図−40と図−41の山地描写に違いがあるように見えるのは、これらの洛中洛外図は、複数の絵師の共同制作であることも考えられるため、部分ごとに絵師とその山地描写の手法がある程度異なっていたためである可能性も考えられる他、描かれている山地の植生高の違いや、山地を描いた視点の違いなどによる可能性も考えられる。
 それはともかく、図−40、図−41ともに山地に樹木の描写は少なく、図−41ではその左端の延暦寺の一角とみられる建物の周辺にスギのような樹形の木立ちが見られるのと、図の右端と中央よりやや右手のいまみちたうげ(今道峠)と記された所にわずかなマツタイプの樹木が描かれているだけである。一方、図−40でもそれと同様に山地に樹木はわずかしか見られず、はっきりと確認できるのは峠付近かと思われる所に見えるわずかなマツタイプの木々だけである。ただ、図の左端のよ川(横川)と記された部分には、林を表現している可能性もある描写が見られる。なお、両洛中洛外図には図−40、図−41の部分に限らず、山地には低い植生を表わしているとも見える小さな点をいくつも寄せた描写がしばしば見られる。

図-40.歴博甲本洛中洛外図(比叡山)
図-40
図-41.上杉本洛中洛外図(比叡山)
図-41




(b)如意ケ嶽付近

 如意ケ嶽付近の山は、歴博甲本洛中洛外図では図−42、上杉本洛中洛外図では図−43のように描かれている。比叡山と同様に、ここでも山地には明確に認識できる植生は少ない。はっきりとわかる山地の植生は、図−42では如意ケ嶽の右方の山地の上部にいくらか描かれているマツタイプの樹木のみであり、図−43では如意ケ嶽の左方の山地の上部に描かれた十数本のマツタイプの木々と滝口付近に描かれた数本の広葉樹と思われる樹木だけである。



図-42.歴博甲本洛中洛外図(如意ヶ獄付近)
図-42
図-43.上杉本洛中洛外図(如意ヶ獄付近)
図-43




(c)舟岡山

 舟岡山は、歴博甲本洛中洛外図では図−44、上杉本洛中洛外図では図−45のように描かれている。両図を比べると、比叡山の場合と同様、山地描写の手法に違いがあるようにも見えるが、ここでは、山を描く視点が両図でははっきりと異なっている。すなわち、図−44では山の南面も広く描かれているのに対し、図−45では山の東面を中心に描いているものと考えられる。
 山には、はっきりとした植生描写は少なく、図−44では山の左手にマツタイプの高木が4本、右手に落葉広葉樹らしき木が4本ほど描かれているのみである。一方、図−45では明らかに山の植生と認められる植生描写はないが、山の周辺に見えるマツや広葉樹らしき木々の一部は舟岡山の樹木である可能性はある。



図-44.歴博甲本洛中洛外図(船岡山)
図-44
図-45.上杉本洛中洛外図(船岡山)
図-45




 (d)愛宕山

 京都の西方にそびえる愛宕山も、洛外では忘れてはならない重要な山である。歴博甲本洛中洛外図には、愛宕山を明確に示す記述は見られないが、その後のいくつかの洛中洛外図の愛宕山の描写との比較や、図全体の位置関係から考えると、図−46が愛宕山を描いている部分にほぼ間違いないものと考えられる。なお、図−46に、山の名称と思われる「ふし(富士)」との書き入れがあるのは、かつて愛宕山がそのように呼ばれていたことによる可能性もある。ちなみに、京都近郊の山や滝などの名称は、時代によっていろいろと変わったり、同時にいくつかの名で呼ばれていたことも多いことは、過去の文献からしばしば確認できるところである。愛宕山も江戸時代の文献(黒川,1686)によると、かつて手白山とも呼ばれていたという。一方、上杉本洛中洛外図には、はっきりと「あたこ(愛宕)」の記述が見られ、愛宕山は図−47のように描かれている。 
 図−46、図−47ともに、愛宕山は雪山として描かれ、その最上部はわずかに途切れて描かれていない部分がある。両図において、ともにはっきりと確認できる植生は、山の頂上付近のスギかヒノキのような直立する常緑針葉樹と見える木々の木立だけである。



図-46.歴博甲本洛中洛外図(愛宕山)
図-46
図-47.上杉本洛中洛外図(愛宕山)
図-47




4)歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図における

前章でいくつか例を示したように、歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図における山地の植生描写の比較によると、両図の主な山地の植生描写には、ある程度の相異点のある部分もあるものの、十数年から二十年程度と考えられる景観年代の隔たりがあるとは思えないほど、類似した点が多く見られる。その類似点の一つとして、両図ともに、山地部にはっきりとした植生描写が少ないことがある。それは、山地を描く当時の手法で、実際には山地の大部分は森林で覆われていたのだろうか。あるいは、実際に当時の京都近郊の山地には目立った高木の樹木は少なかったのだろうか。両図の比較だけではその答は出てこないが、両図の山地の部分に描かれた特徴的な描写は、そのことを考える手がかりになるように思われる。

 (a)山地の人物描写

 上杉本洛中洛外図には、山地に人物の描写が多く見られる。そこに描かれているのは、たとえば、山道を往き交う人々(図−48)、柴を刈りに行く人々(図−49)とそれを持ち帰る人々(図−50)、鷹狩りをする人々(図−51)などである。それらの山地の人物描写と山地の植生の関係も、それをすぐに明確に述べることはなかなか容易ではなさそうであるが、その描写をよく検討することから、ある程度はかつての京都近郊山地の植生の状況を考えることができるように思われる。
 たとえば、図−50には柴を山から持ち帰る二人の姿が描かれているが、その柴は小さな樹木を刈って束ねたもののように見える。ただ、それは、大きな木の枝の部分である可能性もあるが、図−50は上杉本洛中洛外図の中で、山から木を運んでいる唯一の図だけに、



当時の人々が京都近郊の山地から日々の燃料としての柴を運ぶ光景としては、そこに描かれているような姿が一般的であったのではないかと思われる。そして、もしそうであれば、京都近郊の山には樹高の低い柴木の山がかなりあったことが考えられる。また、図−49は天秤棒をかついで柴刈りに行くところと思われる二人の姿を描いているが、山の稜線近くを歩く二人の様子から見ると、柴はかなり遠くへ採りに行くことも珍らしくなかったものと思われる。
 次に鷹狩りを描く図−51であるが、鷹狩りに適した山の植生はどのような状態のものであろうか。それは、決して鬱蒼とした森林ではなく、かなり見通しのききやすい植生の状態であろうと思われる。図中、鷹が追う雉が、草原や低木林や林縁に棲息する鳥であることを考えれば、図で描かれている長坂付近は、実際に高木林が決して多くはない見通しの良い山地であった可能性が高いように思われる。
 また、上杉本洛中洛外図の山地の部分に人がしばしば描かれていることは、当時京都近郊山地にかなり低い植生の部分、あるいは植生のないような部分が広くあったことの反映である可能性が高いように思われる。もし、今日のように京都近郊の山地が森林で広く覆われていたとしたら、はたして山地に人々が多く描かれるようなことがあるだろうか。そのようなことは、ほとんど考えにくい。ただ、かつては今では考えにくいことがなされていた可能性もないとは言えないが、もしそうであれば、比叡山の延暦寺の一部の建物が屋根しか描かれず樹林に隠れていたり(図−41)、愛宕山頂の愛宕神社も木立に隠れてほとんと見えないように描かれている(図−47)一方で、山地に描かれた人々のほとんどか草木に隠れることもなく描かれていることはどのように考えればよいのだろうか。


図-48.上杉本洛中洛外図
 (山道を行き交う人々、比叡山付近)

図-48
図-49.上杉本洛中洛外図
 (柴刈りに行く人々、如意ヶ獄付近)

図-49

図-50.上杉本洛中洛外図
 (柴を持ち帰る人々、如意ヶ獄付近)

図-50

図-51.上杉本洛中洛外図
 (鷹狩りをする人々、長坂付近)

図-51





 (b)岩的描写

 歴博甲本洛中洛外図と上杉本洛中洛外図の山地部には、しばしば岩的描写を見ることができる。歴博甲本洛中洛外図には、図−52のように川岸の岩と見える描写があるが、それと同様な描写は、吉田山北部(図−53)、比叡山(図−40)、如意ケ嶽(図−42)、舟岡山(図−44)のそれぞれの一部などに見ることができる。一方、上杉本洛中洛外図でも、同様な描写を如意ケ獄(図−43)、舟岡山(図−45)、吉田山などの一部に見ることができる。
 そのような岩的描写の部分には、実際には岩ではなく、崩壊などによってごつごつとした状態になっている裸地のような所も含まれているものと思われるが、そのような描写の部分が両洛中洛外図で共通した部分に見られる傾向が大きいことは、実際にその付近に岩的な地表の状態が存在していた可能性が大きいことを意味しているように考えられる。すなわち、少なくともそのような描写の部分には


植生自体ほとんどなかった可能性が大きいものと思われる。
なお、図中、如意ケ嶽や舟岡山で岩的描写が見られる付近の一部には、今日でも大きな岩を確認することができる。

 (c)如意ケ嶽の滝

 図−42、図−43に描かれている如意ケ嶽の滝は、今日ではほとんど知る人もない小さな滝である。ただ、かつてはその滝が大雨の後は大きな滝となって、ふもとからもよく見えていたことは、「洛外図」の考察のところでも記した通りである。両洛中洛外図にその滝が大きく描かれているのは、室町後期においても、実際に山の下方からその滝が見え、如意ケ嶽の大きなポイントになっていたためである可能性が大きいように思われる。もし、そうであれば、滝の周辺は、今日とは異なり広く滝を隠すものはないような、すなわち高木の森林のないような状態であったものと考えられる(写真−11)。

図-52.歴博甲本洛中洛外図(川岸の岩)
図-52

図-53.歴博甲本洛中洛外図(吉田山北端付近)
図-53

写真-11.吉田山より如意ヶ獄を見る
 (今日、中腹の滝は森林に隠れて見ることができない)

写真-11





 (d)図の彩色

 歴博甲本洛中洛外図および上杉本洛中洛外図の山地部には、雪山を除くと、緑系統の色が多いが、岩的描写の部分などには茶系統の色の見られるところもある。また、その中には、雪山ほどではないが、岩などがかなり白っぽく描かれている部分もある。
 歴博甲本洛中洛外図の山地部には、そのような白っぽい描写の部分がかなり広く見られる。特に、その右隻の比叡山から如意ケ嶽付近の山々や吉田山などの大部分は、そのような彩色となっている。緑ないし茶色がかったその白っぽい色が、川岸付近に見られる岩の色と同様であること、また、そのような彩色の部分には、岩的な描写もしばしば見られることから、それが描かれた頃、そのような描写の部分は、植生もないような荒れた山地であった可能性が考えられる。
 一方、上杉本洛中洛外図では、そのような白っぽい描写の部分は、岩的描写の見られる如意ケ嶽や吉田山の一部などに過ぎず、歴博甲本洛中洛外図に比べ、かなり少なくなっている。この両洛中洛外図の彩色の違いについては、それらが描かれた年代がある程度異なるため、山地の植生の状況もいくらか異なっていた可能性があることなど、いろいろなことが考えられるが、定かにはわからない。



 なお、歴博甲本洛中洛外図の双ケ丘、また、上杉本洛中洛外図の丸山付近(図−54)などに見られる白っぽい描写の部分については、それは単に山地のひだを描く手法であるように見える。

図-54.上杉本洛中洛外図(丸山付近)
図-54




5)まとめ

 歴博甲本洛中洛外図および上杉本洛中洛外図の山地の描写には、今日の京都近郊山地の形状との比較などから考えると、写実性がさほど高くないと思われる点も少なからず見られるが、以上のような考察結果が前述の江戸初期から後期の絵図類の考察結果と大きな矛盾が生じないことからも、初期の二つの代表的洛中洛外図の山地描写は、室町後期における京都近郊山地の植生の状況をかなりよく反映している可能性が大きいように思われる。
 すなわち、室町後期の京都近郊山地の植生景観は、おおよそ次のようなものであったと考えられる。応仁の乱後の室町後期、京都近郊山地には既に江戸時代と同様、高木の林は少なく、低い柴や草の植生の部分が広く見られたものと考えられる。また、部分的には、



何の草木もないような禿山も既に出現していたものと思われる。山地で高木の林があったところは、愛宕山や比叡山の上部などの社寺周辺以外は特定しにくいが、考察した図の今道峠付近や長坂峠付近には、いずれもいくらかの木立の描写が見られることから、それらの峠付近にも実際にある程度の高木の林があったことも考えられる。社寺周辺の森林には、スギかヒノキのような樹種が含まれていることが多かったと思われるが、そのような特別な場所以外の山地の高木としては、図の描写から考えるとマツの割合が大きかった可能性が高い。そのことは、以上の考察に大きな誤りがなく、室町後期の京都近郊の山地が、極めて大きな人為的影響を受けていたならば、森林生態学的見地からも十分推察できるところでもある。






◎参考文献

千葉徳治(1992):『増補改訂 はげ山の研究』,そしえて.
今谷 明(1988):上杉屏風の景観年代,『京都・一五四七
 年』,平凡社,23−174.
黒川道祐(1686):『擁州府志』.
小椋純一(1983):名所図会に見た江戸後期の京都周辺林,
 京都芸術短期大学「瓜生」,第5号,18−40.
小椋純一(1986):洛中洛外図の時代における京都周辺林,
 国立歴史民俗博物館研究報告,第11集,81−105.
小椋純一(1989):絵画資料の考察からみた文化年間におけ
 る京都周辺山地の植生,造園雑誌,52−5,37−42.


小椋純一(1990):「華洛一覧図」の考察を中心にみた文化年
 間における京都周辺山地の植生景観,造園雑誌,53−5,
 37−42.
小椋純一(1990):室町後期における京都近郊山地の植生
 景観,京都精華大学「木野評論」,第21号,109−125.
小椋純一(1991):応挙図の考察からみた江戸中期における
 京都近郊山地の植生景観,造園雑誌,52−5,42−47.
高橋康夫(1988):史料としての洛中洛外図屏風,『洛中洛
 外図』,平凡社,155−208.
武田恒夫(1964):初期洛中洛外図における景観構成,美術
 史第53号,1−15.



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