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丹後半島における明治後期以降の里山景観の変化

農林水産省 森林総合研究所関西支所 深町加津枝


1.丹後半島における過去1世紀の里山景観の変化概要

京都府の北部に位置する丹後地域は、日本海に向かって突き出た形をした半島を中心とする地域であり、海岸線はリアス式海岸となっている。丹後半島の山地部は、大江山(標高832.5m)山塊、太鼓山(783.7m)、高竜寺岳(696.7m)それぞれを主峰とする半島東部山塊、半島西部山塊に区分される。低地部は、峰山盆地、網野低地、久美浜湾低地など、半島の北西部にまとまって分布する。丹後半島の表層地質は非常に複雑であり、花崗岩質岩石、安産岩質岩石、流紋岩質岩石、礫岩などが入り組んで分布している。
まず丹後半島山間部を中心にした1900年(明治後期)以降の里山景観の構成要素の分布特性とその変化、そして変容が生じた社会的な背景をみていく。ここでいう里山景観とは、地域住民の生活や土地利用形態と密接なつながりをもってきた耕作地、森林などの土地被覆の視覚的なまとまりである。なお、調査では、既存の地図、統計データ、文献資料に加え、地域住民などに対する聞き取り調査による生活形態や、土地利用形態、農林業に関する技術、これらの変化に関する情報を主要なデータとして用いた。里山景観の変化については、主に1900年以降に発行された5万分の1地形図を用い、250mメッシュ(区画)ごとに土地被覆を読み取った。
 表−1には、丹後半島山間部の里山景観(総メッシュ数は5,151メッシュ)を構成する主要な要素のメッシュ数の変化を示した。1900年前後には広葉樹林、針葉樹林、

竹林・樹園地、荒地・伐採跡地、水田・畑、集落・施設等(その他小面積で箇所数の少ない構成要素はこの区分に一括した)のメッシュ数が、それぞれ925,2,225,54,1,061,734,152であったが、1990年前後になると、2,501,1,253,37,177,763,420となり、広葉樹林のメッシュ数が約3倍になった。針葉樹林は約2分の1に、荒地・伐採跡地は6分の1のメッシュ数に減少した。
 図−1は、丹後半島全体の広葉樹林の分布の変化である。1900年頃の丹後半島の大部分は標高400m以上はコナラ、ブナ、イヌシデなどの広葉樹林が優占して分布していた。このうちブナ林は、弥栄町、大宮町、宮津市などに位置する標高400〜700mの山間部に広い面積で分布していた。標高400m以下は、アカマツ林を中心とした針葉樹林に覆われていた。これらに加え、水田や荒地・伐採跡地(荒地の多くは採草地)などの複数の大きなパッチがみられた。
比較的標高の高い山間部には小規模な集落が多くみられ、その周辺の緩傾斜地には大面積の水田が広がり、また畑、竹林や桑畑を中心とした樹園地もパッチ状にみられた。この頃、丹後半島では養蚕や竹材生産は現金収入の手段として盛んに行われていた。集落周辺には水田や荒地・伐採跡地がまとまって存在した。地形図上で荒地・伐採跡地となるのは、牛の放牧地、採草地、茅場、水田近くの陰伐地、焼畑であり、生活や農業生産上不可欠な要素であった。一方、スギ・ヒノキ林は、先駆的な住民による小規模な植林、記念林など少数の事例があるにすぎなかった。


◎表−1 丹後半島山間部における里山景観のメッシュ数

 1900s 1930s1960s 1990s
広葉樹林925 19651680 2501
針葉樹林2225 210916101253
竹林・樹園地54 263 37
荒地・伐採跡地1061 326615177
水田・畑734800937763
集落・施設等152 195 306420
合計5151515151515151

注)年代は1900sが1900年前後というように各時代を示した。






 丹後半島において1930年代以降に著しくその様相が変化したのはアカマツ林であった。マツ枯れによるアカマツ林の減少やスギ・ヒノキ植林地の増加により分断化が進み、標高に関係なく針葉樹林と広葉樹林が混じりあって分布するようになった。第二次世界大戦前後の強制伐採や、戦後の建築ブームにより用材の需要が急増し、大木を含むアカマツ林が搬出が容易な立地にあるものから次々に伐採された。一方、林業政策の中で竹林やスギ・ヒノキの植林に重点が置かれ、京都府の地方事務所が丹後半島内に設置された。木炭増産が奨励され、木材輸送が河川から鉄道に変化し市場範囲が拡大したことは、森林伐採や植林活動を促進する契機ともなった。
 1940年代になるとマツ枯れによる被害が多発し、その後もアカマツ林が激減していった。自家用の建築材として単木的に利用されるにとどまっていたアカマツ林は、第二次世界大戦中には松根油の採取等のため強制伐採されたほか、1950年代になるとパルプチップ材として大面積で皆伐されるようになった。1960年頃までの丹後半島では、スギ・ヒノキ人工林など用材として利用される森林よりも薪炭林として利用される森林の方が面積の上で圧倒的に多かった。
 1960年代になると社会構造の変化や三八豪雪の影響などにより、丹後半島の山間部での過疎化はさらに進行し、地域住民と山林との結び付きも変化した。このような高標高地に位置する集落を中心とした過疎化は、急峻な地形や多雪などの厳しい自然環境、さらには都市と農山村の社会、経済格差を引き起こした社会環境の変化によるものであった。
過疎化や米の生産調整が進むに連れて水田面積が減少して放棄田が激増し、また化学肥料の普及により採草地や陰伐地面積が大きく減少していった。茅葺き屋根は燃えやすく、その維持に多大な労力を要するため、多くの茅葺き屋根がタイルやトタン屋根に変わった。

また、現金収入のために国有林などで働く地域住民が増加するなど、兼業化も進み、都市部へ移住する住民がさらに増加した。
 プロパンガスや電気製品が普及したことにより薪炭需要は急速に低下し、1968年には木炭の生産量が1958年の10分の1になった。薪炭林利用の激減により、利用されない広葉樹林がさらに増加した。一方、木材需要の高まりを受け、行政主導による大規模なスギ・ヒノキの植林活動が始まった。私有林においてもスギ・ヒノキの植林が奨励され、相対的に利用価値が低下した荒地・伐採跡地や広葉樹林が、個人の所有規模を超えてまとまった面積のスギ・ヒノキ人工林に変化し始めた時期でもあった。1960年前後に広葉樹林跡地に現れた針葉樹林の多くは、そうした植林が活発に行われた結果であった。この時期の荒地・伐採跡地は1930年前後までとは異なり、具体的な利用目的がなく放置された土地が多い。丹後半島全域でマツ枯れが多発し、その跡地が広葉樹林に変化していったのもこの頃である。
 1966年からは、観光開発、林業の推進などのため半島山間部を縦断する丹後縦貫林道の着工が開始された。チェンソーや索道による機械化が普及したことで、木材の伐採・搬出技術が発達し、人工林化が急速に進むようになるとともに、高標高域に位置したブナ林など高齢広葉樹林がパルプチップ材としても皆伐されるようになった。私有林においては小規模な人工林が点々と増加し、またブナが優占する国有林や財産区有林となる広葉樹林においては数ha以上に及ぶ大規模な人工林が現れた。そしてパルプ材として伐採された大規模なブナ林の皆伐跡地の中には、ササに覆われるなど更新が進まない林地も現れた。また、スキー場をともなったスイス村(弥栄町)の建設などの観光、リゾート開発により、ブナ林を含む広葉樹林が減少する傾向もみられた。






1990年頃になると、水田や薪炭林のさらなる管理放棄が進み、荒地や広葉樹林の増加が丹後半島全体でみられるようになった。大規模な植林活動の主体となったのは公社による分収造林あるいは国有林であり、私有林での人工林化の速度は遅く規模も小さかった。日常の薪炭利用の対象とはならなかった高標高地の広葉樹林は、パルプチップ材として大面積に伐採された。そして、大面積で広がる広葉樹林の中にパッチ状の針葉樹人工林や、耕作放棄地を中心とした荒地、規模の大きな伐採跡地が広くみられるようになった。
 以上のような変容過程の中で、丹後半島における広葉樹林は、1930年までは1900年当時とほぼ同様の分布がみられたものの、1960年には大きく変化し、断片化した広葉樹林が丹後半島に広がるようになり、さらに1990年になると広葉樹林の面積が急増した(図−1)。
 表−2は、主な構成要素の変化とメッシュ数である。1900〜1930年前後では、針葉樹林(主にアカマツ林)のまま変化しなかったメッシュ数が最も多いものの、

一方で針葉樹林の約20%は広葉樹林に変化していた。広葉樹林のまま変化しなかったメッシュ数は、1900年前後の広葉樹林の80%以上に相当する。1930〜1960年前後では、針葉樹林のままであったメッシュ数が減少し、広葉樹林のままのメッシュ数とほぼ同数になった。また樹林間あるいは荒地や水田など、樹林地外と樹林地の間で土地利用の地目が著しく変化した。このような変化の結果、荒地・伐採跡地のメッシュ数が倍増し、針葉樹林は約75%に減少した。1960〜1990年前後をみると、針葉樹林のままであったメッシュ数がさらに減少し、広葉樹林は針葉樹林の約2倍に増加した。
 以上をまとめたのが、表−3の地域レベルの里山景観の変容パターンである。里山景観の変容は、大きく「不変樹林地(10%)」、「樹林地間での変容(30%)」、「樹林地→樹林地外→樹林地(12%)」、「樹林地→樹林地外(11%)」、「樹林地外→樹林地(22%)」という5つのパターンに区分された。





◎図−1 丹後半島における広葉樹林の分布の変化


図-1


◎表−2 地域レベルでの里山景観の構成要素の変化

1990-1930 1930-1960 1960-1990
変化なし  広→広780 7421043
針→針1446 800519
竹→竹70 0
荒→荒195 5839
田→田516 446552
集→集8285219
変化広葉樹林から広→針101599474
広→荒1422659
広→田2110868
針葉樹林から針→広491701944
針→荒10127160
針→田15226456
荒地等から荒→広345119340
荒→針44593168
荒→田654241
水田等から田→広59 92149
田→針8610376
田→集60114 130

注)土地利用の種類は,広:広葉樹林 針:針葉樹林 竹:竹林・樹林地
   荒:荒地・伐採跡地 田:水田・畑 集:集落・施設等と略した。





◎表−3 地域レベルにおける里山景観の変容パターン

類型
  1900
1930
1960
1990
メッシュ数
不変樹林地
496
樹林地間での変容
広・針・竹
広・針・竹
広・針・竹
広・針・竹
1535
樹林地

樹林地外

樹林地
広・針・竹
荒・田・集
広・針・竹
608
樹林地

樹林地外
 広・針・竹
荒・田・集
565
樹林地外

樹林地
 荒・田・集
広・針・竹
1152

注)土地利用の種類は,広:広葉樹林 針:針葉樹林 竹:竹林・樹林地
   荒:荒地・伐採跡地 田:水田・畑 集:集落・施設等と略した。





[1]上世屋・五十河地区の概要

それでは、宮津市上世屋地区、大宮町五十河地区を対象に、里山景観と地域の生活や土地利用との関係、そしてそれらの変化を詳細にみていく。図−2には、調査対象とした丹後半島の位置、および宮津市上世屋地区、大宮町五十河地区の地形、集落の位置、主要な山頂を示す。上世屋地区と五十河地区は、丹後半島山間部の最高峰である高山(標高702m)を境界に隣接し、総面積は約1,000 ha、標高は120〜702mの範囲にある。日本海型の気候区に属し平均気温は約14℃、平均降水量は約2,000 mm、高標高域では冬期の積雪が3〜4mにおよぶ。そして上世屋・五十河地区を含む日本海に面した標高300m以上の山間部の大部分が、ヒメアオキ−ブナ群集の分布可能域とされている。



上世屋・五十河地区の森林面積は約800haであり、シデ・ナラ類の落葉広葉樹が優占する里山林(主に薪炭林として利用された広葉樹林およびアカマツ林)が大部分を占めている。このうちアカマツ林は、五十河、新宮集落の周辺や標高500m以下の山頂や尾根筋等に小面積で点在する。
水田周辺などにはスギ・ヒノキの人工林が点在する。そして、日本海側、太平洋側双方の要素を含む多様な植物種が生息しているとともに、里山ブナ林が分布する近畿地方で数少ない地域の1つである。里山ブナ林は、特定の集落と結び付き、伐採など人為的な撹乱を受けながら利用、管理されてきた二次林である。上世屋・五十河地区の里山ブナ林は約60haを占め、高山山頂(702m)周辺の北向き斜面や谷部など、主に標高約450m以上の斜面に分布する。


図−2 上世屋・五十河地区の地形,集落の位置,主要な山頂

図-2 クリックすると拡大 クリックすると拡大



上世屋・五十河地区の総戸数は1900年頃には約200戸であった。2001年現在、対象地には上世屋(標高346m、写真−1)、五十河(標高152m、写真−2)、新宮(標高200m)という過疎化が進行する3つの集落があり、総戸数は90戸程である。1930年代に内山(標高500m)、1961年に浅谷(標高330m)、1973年に駒倉(標高448m)集落が廃村となるなど、典型的な過疎地域である。内山では廃村となった後、住民の多くは五十河集落に移住し、他の集落では近隣町村など他の地区に移住した。旧内山集落の家屋はすべて消失し、集落の寺社が部分的に残されているものの、周辺の耕作地も管理放棄され、今日ではススキや植林されたスギ・ヒノキ林などに覆われている。旧駒倉集落では、かつての住民が両地区外に離村し、一部の人が年に数回墓参り等に訪れるだけとなった。旧浅谷集落では集落まで到達できる車道がなく、歩道も管理されなくなり低木などに覆われたため、足を踏み入れるのも困難な状況となっている。
 

里山林に囲まれた両区は良質な水にめぐまれ、稲作中心の農業が発展し、集落周辺を中心に棚田が広がる(写真−3)。大部分の里山林が薪や柴(写真−4)、炭となるコナラ、イヌシデ、ブナなどを伐採する薪炭林として利用された歴史があり、スギ・ヒノキ植林の歴史は浅い。両地区の伝統的な家屋はチマキザサを利用した茅葺き家屋(写真−5)であった。
 対象地に分布する森林には、私有林、財産区有林、国有林などがある。国有林は2箇所に分かれており、そのうちの1つである浅谷国有林は、明治後期まで上世屋集落の共有林であったものが、国有林として買い上げられた森林である。駒倉国有林は、1960年代まで駒倉集落の共有林や私有林であったが、1973年に一戸を除く全ての駒倉集落の住民が離村した際に、大部分の森林が国有林として買い上げられた。

◎写真-1 上世屋集落
写真-1
◎写真-2 五十河集落
写真-2
◎写真-3 今日の里山景観
  (上世屋地区)

写真-3
◎写真-4 煮炊きに使われる
  薪や柴

写真-4
◎写真-5 チマキザサを利用
  した茅葺き家屋

写真-5






 集落の共有林は、主に利権者(集落内の在住者)が薪炭や刈敷などを採取するために利用されたり、集落の非常時にそなえて高齢林のまま残されてきた。また、地上権だけを住民に分ける分山として、個々の農家の薪炭林やスギ・ヒノキ林などの用材林として利用された。分山の利用権は、集落内に住む人だけが等しく得られるもので、離村する際にはその権利が失われた。五十河地区では、1910年代から分山などを中心に、一部の共有林の私有林化が進んだ。
 両地区は比較的最近まで利用されていた里山ブナ林が残る数少ない地区であり、その中には、胸高直径が京都府内最大のブナの大木(写真−6)や、地上2〜3mの高さ(冬期に雪上となる)にあるブナの萌芽幹が繰り返し伐採され、あがりこ状になったブナ(写真−7)が分布する。里山ブナ林は、高山周辺にある比較的高標高域で急斜面の尾根から谷にかけての分布に限定され、周辺には車道がなく、現在の集落からの時間距離が長い里山林の中に断片的に分布しており、最近では自然観察やハイキングなどを目的とした来訪者(写真−8)が増加し、里山ブナ林の保全に向けた施策や活動が活発になっている。

◎写真-6 京都府下最大のブナ(五十河集落)
写真-6
◎写真-7 あがりこ状のブナ(五十河集落)
写真-7
◎写真-8 ハイキングに訪れた人々
写真-8






[2]上世屋・五十河地区における1900年頃の土地利用と里山景観の特徴

 1900年頃の上世屋・五十河地区では、5万分の一地形図でみられるように、集落を中心に水田、畑、竹林、樹園地、荒地、伐採跡地、集落などが分布し、主に針葉樹林が標高400m以下に、広葉樹林が標高200〜700mの急傾斜地に広がっていた(図−3)。この頃の主な土地利用は、水田、畑、焼畑、採草地、陰伐地、茅場、薪炭林、人工林であった。集落内には、神社、寺があり、これらは住民の日常生活とともに、4月の世屋祭(前日に世屋姫神社、本祭は愛宕山、観音堂、寺、役員の家で獅子舞、太刀振りが行われる、写真−9)などの年中行事に深く結びつき、里山景観においても中心性をもった構成要素としての役割を果たした。
 両地区の集落周辺など、水源の得られる緩傾斜地は可能な限り水田として利用され、それ以外の緩傾斜地は畑地であった。稲は自給用の主食として最も重要な作物であり、稲作は土地利用すべての中で最優先で行われた。牛は農作業、運搬に欠かせない重要な労働力であり、各家庭で飼育されていた。水田の周辺には耕作地の有機肥料や牛の餌などに用いる採草地、水田が日陰になるのを防ぐために定期的に伐採する陰伐地が位置した。


採草地は、毎年、水田や畑の有機肥料として高さ1m未満の樹木の粗朶や草本植物を刈り取る場所であった。家畜用の牛の餌としても利用された。陰伐地は、耕作地が日陰になるのを防ぐために、数年周期で伐採された耕作地周囲の斜面林地である(写真−10)。水田などの主に南側に隣接する幅10m程の斜面に位置し、伐採された植物は緑肥や柴として利用された。焼畑は、共有林などの比較的急峻な斜面の中腹より下部を対象に行われ、火入れ後、そば、小豆、大根などを順番に3年間程栽培し、その後は放棄して採草地や森林に遷移させる、という手順が繰り返された。
 茅場は、家屋の屋根を葺くのに用いられる長くてまっすぐなチマキザサが密生する林地であった。伐採跡地は、十分な光環境によりササの成長を促進するため、好ましい茅場となり、また樹木が疎生する林地が採取の主な対象となった。茅場が集中する場所はほぼ決まっていたが、その年ごとのチマキザサの生育状況に応じて変化させていた。茅の採取、茅葺き作業、家の建築(写真−11)など、手間のかかる個人の仕事や共有財産の管理は、共同で行われた。



◎ 図−3 1900年頃の里山景観
図-3
◎写真-9 世屋祭(上世屋集落の慈眼寺にて)
写真-9
◎写真-10 陰伐地(水田と森林の境界部)
写真-10
◎写真-11 家の建替え(「高原の碧霄」より)
写真-11




標高400m以下の丘陵地には主にアカマツ林が分布し、それ以外は広葉樹林となり、高標高域の一部にブナ林が分布したのを除き、大部分がシデ・ナラ林であった。広葉樹林の多くは自家用および現金収入のための薪炭採取の対象であったが、こうした利用形態は地形図上に現れる規模のものではなかった。大部分の里山林は、日常に用いる自家用、現金収入のための薪炭林であり、基本的に薪の伐採周期は20〜40年程、炭焼きの場合は40〜60年程であった。薪採取は集落内の全戸が行い、田植え前の約一ヶ月間に択伐、あるいは小面積の皆伐を行った。比較的集落に近い私有林や分山が利用され、薪は一ヵ所に積んで(これを「ニュウ」と呼ぶ)秋まで乾燥させ、その後家に運び屋根裏などに保存していた。このような日常の薪採取や陰伐地などの管理が行われたため、特に集落や水田周辺においては、小面積の伐採地、若齢林、刈り込まれた林地が広い面積を占めていた(写真−12)。炭焼きは水田所有面積が小さい農家や外部からの専門職人により、冬季あるいは通年かけて行われた。集落から比較的遠距離にあり、高蓄積かつ大面積の共有林は、大火の際の集落の復興用の炭焼き、家屋の自家用用材の伐採などが中心で利用圧が低く、主に非常時用の備蓄としての役割を果たした。
 上世屋・五十河地区における1900年頃の里山ブナ林の分布は、主に標高400〜700mの範囲にまとまってみられた。この頃の里山ブナ林の林齢構成は、炭焼きなどにより伐採された後に実生更新したもの(写真−13)から、

数百年以上伐採されていない高齢里山ブナ林まで、様々な林齢の林分がみられ、また、継続的な薪採取が行われ、あがりこ状になったブナが山頂や尾根付近を中心に多数分布していた。
里山ブナ林は1908年の大火により上世屋集落がほぼ全焼した際に、集落の復興(主に家屋の建築)の資金とするため炭焼きに利用するなど、非常時に備えた集落の共有財産あるいは備蓄としても重要な役割を果たしていた。また、旧内山集落では、薪採取のため地上2〜3mの高さ(雪上)にあるブナの萌芽幹を繰り返し伐採したほか、家の建て替えに必要なブナ材が用心山として管理されるなど、マツに替わる木材としても利用していた。
 針葉樹林は大部分がアカマツ林であり、スギ・ヒノキの人工林は小規模であった。スギ・ヒノキの植林地、竹林、桑畑は比較的集落に近い斜面に小規模で点在し、下刈りや間伐など必要に応じて管理された。竹林は集落や水田周辺に分布するマダケ、モウソウチク林であり、食用や架木、竹製品の材料として頻繁に伐採された。
 1900年頃の上世屋・五十河地区の里山景観は、集落からの位置、所有形態、樹種などにより明確に使い分けされたそれぞれの要素によって構成されていた。集落の周囲には耕作地が位置し、その外側には採草地や茅場などとして利用される境界地があり、その周辺を薪炭林や小面積の人工林が取り囲んでいた。これらのさらに外側には、非日常的な利用に供された里山林が位置した。

◎写真−12 1970年頃の
  上世屋集落周辺

写真-12
◎写真−13 炭焼き後に実生更新
  した里山ブナ林(2000年)

写真-13




図−4は、上世屋・五十河地区における1900年頃の地域資源の流れである。図中では、主な土地利用と立地、土地所有形態の関係、さらにそれぞれの土地利用を通して、食料、生活資材、農業生産に必要な有機資源の流れを、平均的な資源の移動量、および移動頻度で示した。
 農耕地は、水田、畑地あるいは焼畑から成り、大部分が私有地であり、集落周辺、比較的傾斜が緩やかな谷付近の斜面などに位置した。農耕地からは自給用の穀類、野菜など食料の大部分、そして稲わらなど生活資材の一部が供給された。
 林地(行政における管理上、林地として区分される土地すべてを含む)は、所有形態から半共有地、私有地、共有地に区分された。林地には焼畑、定期的に刈り込まれた採草地や陰伐地、茅場、薪炭林、人工林(スギ・ヒノキ植林地)、非常時のみ利用された天然生のブナ林などの多様な土地被覆や林齢から成る植生のタイプを内在していた。女性の冬の仕事であった藤織りの材料となる藤蔓、あるいは農具の材料となるクリなどのように、生活や農業生産に必要な資材も林地から供給された。また、100年に一回程度起こった集落の火災の際には、集落から遠距離にある共有林において共同で炭焼きを行い、復興の資金とするなど、非日常的な利用も行われた。林地は、主に生活資材や現金収入源、あるいは農耕地で必要な有機肥料などの供給地として、地域住民の生活や生産活動を物質的に支えてきた。そして、周囲の耕作地の被陰を防ぐと共に、有機肥料を供給するため定期的に刈り込まれた陰伐地の例に見られるように、大部分の地域資源が地域住民の細やかな心配り、手配りによって利用され、そして保全されてきた。

 1900年頃にみられた里山景観においては、集落を中心に耕作地が位置し、水源の得られる緩傾斜地は可能な限り水田として利用され、その周辺の緩傾斜地は畑地や採草地や陰伐地として利用された。その周辺には茅場などの半共有地があり、その外側に日常に利用する薪炭林や人工林が位置していた。集落を中心とする同心円上の最も遠い位置には共有林となる森林があった。水環境や傾斜、土壌、アクセス性あるいは市場の動向など、地域の自然、社会環境を見極める中で土地利用形態が決定され、そして土地利用形態を反映した規則的な空間パターンをもった里山景観が形成されてきたのである。
里山景観の構成要素は、図−4に示したような地域の土地利用に基づく地域資源の流れの中で、それぞれが連関をもちながら地域内を中心とする循環的な流れに組み込まれていた。生活誌に基づいてそれぞれ地域資源の流れをみると、それらは大きく、
1)食料、煮炊き・暖房などの日常生活に関わるもの、
2)農業・林業など生業、現金収入に関わるもの、
3)ライフサイクルに関わる非日常的イベント(教育や結婚費用等の捻出など)に対応するもの、
4)ライフサイクルに関わらず突発的に生じる非日常的事態(災害復興・家屋の建て替えなど)に対応するもの、
という4つに分類できた。


◎図−4 上世屋・五十河地区における1900年頃の地域資源の流れ
図−4 クリックすると拡大 クリックすると拡大




 地域資源の流れは、地域住民との関連からみれば所有形態や立地、地域社会やそれを構成する個人の生活誌に則しており、空間的にも時間的にも使い分けられ利用されてきた。地域資源の利用は、各戸における日々の食料から、50〜60年に一回程度に起こった集落の火災への備蓄など、ミクロ〜マクロスケールにわたる出来事に対応しており、小規模な面積単位ごとにそれぞれの目的に応じた植生遷移や伐採などが起こり、異なった頻度や大きさでの地域資源が里山景観内を移動していたのである。
 そして、それぞれの地域資源の持続的に利用、管理していく上では、地域独自の伝統的な知恵や技術、あるいはそのための仕組みが不可欠であった。例えば、「サバエ刈り」は、水田用の緑肥として必要な木の枝や草を、住民があらかじめ決められた日のみに採取する取り決めに従って行われ、過剰採取がないように抑制しながら、誰もが平等に必要な分量が確保できる仕組みがあった。また、茅葺き屋根は、年に数軒ずつ順番に手間を貸し借りしながら(これを「タノモシ」という)行った。茅刈りはどの場所でも許されており、秋季に女性が共同でそれぞれ決められた束数の茅を刈った。男性は茅の運搬と茅葺きを行った。地域にある資源を持続的に効率良く利用するための取り決めがあり、そのために必要な組織や役割分担があった。 
 地域資源は、伝統的な土地利用、管理の中で地域住民の生活や生産活動を物質的に支えてきただけでなく、村の領域を視覚的に形づくり、ひとつのまとまりある里山景観を形成してきた。地域独自の自然、社会環境のもと、それぞれの目的に応じて、利用すべき地域資源の空間的な位置と規模と利用頻度がある程度決まっており、それぞれの地域資源が必然的な合理性をもって分布してきたといえよう。

[3]上世屋・五十河地区における1900年以降の里山景観の変化

 図−5は、上世屋・五十河地区を中心にまとめた。1900年以降の土地利用の変化と社会的な背景である。また、図−6は、上世屋・五十河地区における1900年頃から2000年までの水田を中心とする里山景観の変化を模式的に示す。
1950年代以降になると、戦後の高度経済成長さらに過疎化の進行などにともない、1900年頃にみられた伝統的な土地利用形態に目立った変化がみられるようになった。まず焼畑面積が減少し、1970年には完全に消失した。1960年以降になると化学肥料の普及にともない、有機肥料を供給してきた採草地や陰伐地が激減した。これらの減少は、減反政策や教育費などのための現金収入を目的とした季節労働などによる水田や畑の減少とも結び付いていた。人力や役牛によって行われていた農作業が耕運機、田植え機、稲刈機などの導入により機械化される一方、過疎化、廃村(写真−14)、高齢化がさらに進み、管理放棄される農耕地が著しく増加した(写真−15)。この頃、火災を引き起こしやすく維持管理に手間のかかる茅葺き屋根はトタンや瓦屋根に変わり、茅場の必要性が失われていった。
 1970年代になると化石燃料の普及により薪炭林の需要が激減し、利用されない里山林が増加した。自家用の建築材として単木的に利用されるにとどまっていたアカマツ林は、パルプチップ材として大面積で皆伐されたり、深刻な松枯れ被害を被ることにより、その面積を減少させた。また、索道など伐採搬出技術の発達、丹後縦貫林道などの整備により、利用されにくい立地の広葉樹林までがパルプチップ材などとして、大面積に伐採されるようになった。


図−5 1900年以降の土地利用の変化と社会的な背景

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◎図−6 上世屋・五十河地区における水田を中心とする里山景観の変化
図−6

◎写真-14
 廃村となった駒倉集落

写真-14
◎写真-15
 管理放棄された水田,人工林,竹林

写真-15




相対的に利用価値が低下した採草地や里山林などは、個人の所有規模を超えた大面積のスギ・ヒノキ人工林に変化した。そして、廃村にともなう集落の共有林の国有化、京都府による公社造林事業の展開、パルプチップ材需要の高まり、さらには林道建設などによる利便性の増加を契機に、里山林に対する外部資本による伐採圧が高まった。里山林は、大規模なスギ・ヒノキの人工林に変化したり(写真−16)、パルプチップ材として伐採された(写真−17)。そしてチェンソーや架線集材の普及、大径木のパルプ化技術の向上、トラックによる輸送などにより、かつては利用頻度の低かった高標高域などにおいて、短期間で大面積の里山ブナ林の皆伐が行われた。大部分の場合がブナの更新を目的としておらず、オノやノコギリを使った手作業での伐倒、択伐、小面積皆伐など伝統的な伐採とは異なる、大きなスケールでの収奪的な利用であった。
 一方、丹後縦貫林道の開通などにともない、観光やレクリエーションを目的とした丹後半島山間部への来訪者数が大きく増加した。1990年以降には、地元の市民団体、近隣の都市住民などの間で里山ブナ林の保全に向けた活動が盛んになった。環境教育やエコツーリズムの観点からも里山ブナ林を新たに利用し、そして保全しようとする具体的な動きが、地域住民ではなく、周辺住民や行政レベルで見られるようになった。

 以上のように、1970年代になると土地利用形態の大きな変化にともなって地域資源の利用目的とその量、利用すべき空間の関係が大きく変化した。個人の生活誌レベルの資源利用は、全国レベルの社会経済的動向に伴って変化し、利用目的とその量、利用すべき空間の関係も大きな影響を受けた。そして、2000年には図−7に示すように地域の資源、備蓄としての価値の低下から大部分の地域資源の流れが消失した。自給用あるいは備蓄としての地域資源の価値は、耕作地、境界地および森林すべてにおいて低下したが、特に境界地では、その大部分が利用目的をもたず、刈り込みなどの管理や他の土地への資源の移動もなされないまま放棄された。一方、林道建設などによる利便性の増加は地域資源に対する外部からの利用圧を高めることになった。そして、景観の重要な構成要素であった境界地は消失し、わずかな耕作地と人工林率が急速に高くなった森林とが直接隣接するようになった。地域資源の流れや伝統的技術の喪失は、必然的に伝統的な里山景観の変化と深く結び付き今日に至った。


◎写真-16 大規模な植林地
写真-16
◎写真-17 大規模なパルプ材伐採跡地
写真-17


◎図-7 上世屋・五十河地区における2000年の地域資源の流れ
図-7 クリックすると拡大 クリックすると拡大





図−8には、上世屋・五十河地区における1900年頃の里山景観の構成要素と1995年の林齢分布を含む構成要素とを比較し、里山景観の変容パターンを示した。図中の数字は、それぞれの区分に含まれる解析単位であるメッシュ(50m×50m)の実数およびその割合を示す。各種の変容パターンのうち最も数的に多いのは、1900年頃に「広葉樹林」であったメッシュが1995年に「広葉樹林・66年生以上」になったものである。1900年以降一貫して「広葉樹林」であったか、少なくとも65年以上にわたって広葉樹林であったものが全体の約15%を占める。ついで多いのが、1900年の「広葉樹」から、1995年の「広葉樹・36〜65年生」へと変化したパターンである。広葉樹林であった里山が、1930〜1960年に伐採などのインパクトを受け、その後再び広葉樹林となったパターンである。また、1900年に「針葉樹」が1930〜1960年の間に「広葉樹林36〜65年生」に変化したというパターンも11%を占める。また、水田から樹林地への変化というパターンは合計248メッシュあり、1900年の水田メッシュ数の約半数を占める。
 以上から、1900年頃に調査対象地の約半分のメッシュ(4042/7787メッシュ)、里山を構成する要素の約7割(4042/6044メッシュ)を占めていた広葉樹は、1995年時点でも調査対象地の過半数(4609メッシュ)を占めており、その面積は増加傾向にあることがわかる。しかしながら、広葉樹を主体とした事例対象地の里山景観では、約100年間、広葉樹林のまま遷移して

きたのではなかった。その間には伐採の履歴があったり、水田や荒地等からの転用もみられたりといったように、様々な社会的インパクトが発生した。そうしたインパクトは、小規模な面積単位ごとに異なった頻度や大きさで発生する中で今日の里山景観が形成されてきたのである。
 上世屋・五十河地区では、地域に特有な自然、社会環境の中での土地利用形態のもとで地域資源が多様に利用され、特徴的な里山景観が形成されてきた。里山景観を構成するそれぞれの要素は、地域住民の生活や生産活動を物質的に支え、地域の領域を視覚的に形づくりながら、地域の文化を育む役割を果たしてきた。そして、地域住民の生活、地域資源の利用形態をとおした地域の文化と深く結びつき、さらに、里山景観を構成する他の要素との相対的な関係の中で、空間的な配置が規定されてきた。地域住民との関連からみれば、地域独自の自然環境のもとで伝統的な土地利用形態に組み込まれ、その一部として環境要因に規定されながら、必然的な合理性をもって里山景観が形成されてきた。しかし、土地利用形態の変化、あるいは伝統的な地域資源の流れや技術の喪失は、里山景観の大きな変化をまねいた。1900年頃にみられた土地利用の規則性が失われ、集落からの位置や所有形態、樹種とほぼ無関係に耕作地、森林、そして管理放棄された耕作地などが入り交じる里山景観へと変化したのである。


◎ 図-8 上世屋・五十河地区における里山景観の変化(1900年頃〜1995年)
図-8 クリックすると拡大 クリックすると拡大




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