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  トップページ > 自然生態系 > 写真で見る人と自然環境・地域共同体とのかかわりの変化

写真で見る人と自然環境・地域共同体とのかかわりの変化

大阪府立大学総合科学部 中村治
レッドデータブック2015年に移動する


はじめに

明治以降の130年あまりの間に、日本人の自然環境とのかかわり方、地域共同体とのかかわり方は大きく変わったと言われる。ではそれはどのような変化であったのか。政治や経済、社会生活に関する変化は、資料が比較的多く残っており、その変化をたどるのは、比較的容易であるかもしれない。しかし自然環境とのかかわり方、地域共同体とのかかわり方の変化の場合はどうか。社会制度の変化に伴う大きな変化が起こったのは明治時代であろうが、暮らしの機械化に伴う大きな変化が起こったのは、地域差はあれ、1960年前後からである。後者の変化はそう遠い昔のことではない。ところが日ごろの生活や生活環境にかかわる資料は、政治や経済、社会生活に関する資料と異なり、意外と少ないものである。ここでは主として2000年9月に催された「京都府の100年」に応募された写真と、洛北を中心にわたしが集めてきた写真の中から、人々の暮らし、自然環境とのかかわり、地域共同体とのかかわりを表していると思われるものを選び、それを紹介して、機械化に伴う大きな変化が起こる前の状態から現在への変化をたどることにより、自然環境、人間環境に関して現代社会がかかえる問題について考えてみたい。
 今日、機械や車が暮らしのすみずみにまで及び、その結果、あたかも自然環境、地域共同体とのかかわりなしに暮らしが営まれうるかのように思われるようになってきている。


家の中は冷暖房完備。水は、蛇口をひねれば、好きなだけ出てくる。そして汚れた水はすぐにどこかへ消え去ってしまう。買い物は、スーパーマーケットへ行けば、だれと話をしなくともでき、好きなものが、あまり季節にかかわりなく手に入る。ゴミは指定された日に出しておけば、どこかへ持って行ってもらえる。出かけるのはどこへ行くのも車。しかしそのような暮らしに問題がないわけではない。むしろ、さまざまな問題が起こってきており、それへの対応にわれわれが追われていると言ってもよいであろう。
ではこのような問題にわれわれはどのように対応すればよいのか。われわれはこれからどういう方向へ進めばよいのか。それを考えるうえでも、昔の日本人の自然環境とのかかわり方、地域共同体とのかかわり方がどのようであったのか、それがどのように変化したのかを知っておくことは、きわめて大切なことであろう。
 なお、ここで紹介する写真は、わたしが調査してきたのが洛北一帯であるので、写真に少し地域的かたよりがあるものの、すべて京都府で撮られた写真である。「京都府」とはいっても、そこには都会から農村、山村、漁村まで様々な地域があり、なりわいも、暮らしの変化が起こった時期も同一ではない。しかしどのような性格の地域でも、地域共同体との結びつきが弱まり、自然とのかかわりが薄くなっていくという一般的傾向だけは写真から読み取ることができるであろう。



[1] 農山村の暮らし

京都府の農業の特徴を概観することにしよう。幕末期の開港の影響を受けながらもなお幕藩体制下の農業生産がうかがえる明治7年(1874)の総生産額の構成を見ると、米が65%、開国の影響を最も早く受けた茶が8.9%、麦が6.9%、綿が4.6%、蔬菜が4.5%となっているが、マユは0.9%、果実は0.5%、畜産は0.4%とまだ微々たるものに留まっている。ところが明治21年(1888)になると、茶が11.2%、蔬菜が7.7%、マユが6.1%、果実が2%、畜産が1.6%と伸びている反面、外国の綿との競争に勝てなかった綿が2.9%に減っている。そして由良川沿いでは桑園化が進み、山城地方では蔬菜畑、果樹園が増大したのであった。明治後期になると、綿、菜種が衰退するだけでなく、茶も相対的に低下するのに対して、養蚕、蔬菜、果実、畜産が拡大を続ける。そして農業生産における地域性が強く出てくる。例えば口丹波、京都市西南地域は米作、由良川沿岸の両丹地域は養蚕、山城中部・南部は茶業、果樹園、京都市周辺は蔬菜、畜産、丹後は米作を主としつつも、養蚕地帯を形成する。なお、由良川沿岸の両丹地域が養蚕地帯化したのは、明治29年(1896)に郡是製糸株式会社が綾部に創立されたことによるところが大きい(京都府立総合資料館, 1970)。
 農産物による収入はわずかであった。明治25年(1892)の日出新聞によると、京都府の農家一人あたりの収入は1年あたりわずか15円。



当時、京都市における玄米(中)1石(150kg)の値段が7円15銭であることを考えると、きわめて低い。農家は、明治前期には作付面積の拡大と反当収量の増大によって収入増加をはかり、明治末・大正初期には反当収量の増大によって収入増加をはかった。事実、1880〜1886年における京都府の反当収量は1.36石であったのに、1912〜1916年におけるそれは1.99石に伸びている(京都府立総合資料館, 1970)。
しかし反当収量を増やそうとすれば、優良品種を導入するだけでなく、肥料も改善しなければならない。ところが大豆油粕、鰊搾粕、化学肥料を購入するには金がいる。わずかな収入しか得られない一般農家にとって、金肥の購入は容易ではなく、自給可能な人糞尿、厩肥、堆肥、柴草、青草、ワラ、草木灰、鶏糞に頼らざるをえなかった。人糞尿もよその家のをもらおうとすれば、無料ではすまされなかったが、米や野菜などをお礼とすることですますことができたのであろう。
近郊農家は都市部へ人糞尿の汲み取りに行かせてもらったのであった。それでも農家にも商品経済が浸透してくると、収入がたいして増えないのに、支出がどんどん増えることになる。そこで明治10年代から農家の兼業化が進み、明治30年(1897)には兼業農家率が36.8%にも達している。以下においてはまず、機械や化学肥料がまだほとんど入らないころの農家の暮らしを季節順に写真でたどりたい。

写真1
1.山科の農家の人が京都へ
肥料を集めにこの峠を越え
た。昭和24年(1949)。化学
肥料が十分に出回る前は、
田や畑にやる肥料は人糞尿
が主であったが、必要量を
自分の家だけでまかなえな
いので、近郊農家は京都ま
で人糞尿をもらいに行った。
昭和10年(1935)ぐらいま
では、農家の人は、人糞尿
をもらうと、お礼として米や
野菜を置いていったが、昭
和25年(1950)頃からは、
汲み取りをすると、農家の
人がお礼をもらうようになっ
ていった。


写真2
写真3
2.肥まき。昭和6年(1931)2月22日。岩倉
長谷。これは野菜への追肥か。人糞尿を最
も多く使ったのは、田植え前。京都からもらっ
てきた人糞尿はそれまで「野つぼ」に溜めて
おかれる。
3.大原野の竹やぶ。土をかけ、肥料をやって、
竹の子を育てる。昭和36年(1961)頃。


写真4
4.牛を使っての田鋤き風景。田植え前。この土地はすでに埋め立てられ、
様子を変えた。昭和40年代初期。京田辺市高船と打田間の田。


写真5写真6
5.牛にひかせ、馬鍬(まんが)を使って土を
砕いているところ。牛の口にかごのようなもの
をかぶせてあるのは、牛が勝手に草を食べ
に行かないようにするため。昭和14年(1939)
6月。岩倉長谷。
6.種まき。昭和14年(1939)4月。
岩倉長谷東端から南西を見る。苗代用の
田だけは、他の田よりも早く水田にする。
最近では種は機械でトレイの上に蒔き、
トレイごと育苗機に入れ、発芽させる。
発芽した苗をトレイごと買ってくる農家
も多い。そしてトレイごと機械に載せ、
機械を使って田植えをする。


写真7写真8
7.苗とり。種を蒔くと、40日ほどで苗をとり、
移植する。麦の刈り入れまで苗を待たせておく
ため、苗の長さがこのように長くなるまで苗代
で育てるが、最近のように機械で田植えをする
場合は、苗が長いと不都合なので、短い段階で
移植することになる。昭和8年(1933)6月4日。
岩倉長谷得尾方向を見る。
8.田植え前にはお田植え祭をするところもあった。
昭和12年(1937)6月。岩倉中在地。「神餞田、岩倉村
青年団」などと書いてある。


写真9
9.田植え。腰を曲げ
て行うのでつらい作
業であった。昭和9
年(1934)。上賀茂。
横に長いのは植物園
のぶどう棚。右上に
見えるのは比叡山。


写真10
10.麦刈り。麦が植わっている田の場合は
まず麦を収穫し、それから田をおこし、肥
料をやり、水田にして、田植えをする。麦
の収穫と田植えを短期間に行わなければな
らなかったので、5月・6月の農家はたい
へんな忙しさであった。昭和14年(1939)
5月。岩倉長谷。


写真11
11.麦打ち。道が少し広くなったところで麦打ちをしている。昭和初期。岩倉長谷上の町。


写真12写真13
12.「とおし」を使っての麦打ち後のゴミ取り。
昭和8年(1933)6月5日。岩倉長谷得尾。
13.農閑期の真夏に、洗った着物を竹ひごの
伸子張りを使って伸ばして干しているところ。
昭和15年(1940)。岩倉長谷。



14.農薬などない時代に、
害虫を退治するために誘
蛾灯をつけてまわっている
ところ。昭和25 年(1950)
頃。岩倉中在地。
写真14


写真15
15.田ではたらいてもらい、
家族同様に大切に育てた牛
も、4歳ぐらいになると、
肉牛として売ることになる。
昭和31 年(1956)9月25
日。岩倉中在地。



16.牛小屋の糞尿混じりの
敷き藁をリヤカーに積み込
むところ。堆肥にする。昭
和35年(1960)頃。岩倉中
在地。
写真16


写真17
17.岩倉長谷八幡
裏山での松茸狩。
松、ヒノキ、スギ
だけを残して、他
の雑木は7年か8
年に一度みんな切
ったので、山が明
るく、松がよく育
って、松茸がよく
出た。昭和1 2 - 1 3
年(1937-1938)の
10月(中村, 2002)。


写真18写真19
18.松茸山を持っている家では晩稲を植え、
稲刈りを松茸狩の季節の後に行った。刈り
った稲を束ねているところ。昭和14年
(1939)10月29日。岩倉長谷得尾。
19.千歯ごきを使っての脱穀。背後には割木
が高く積み上げられている。昭和20年(1945)
頃。岩倉花園。


写真20
20.刈り取った稲を稲架(はさ・いなき)にかけて乾かした後、
足踏み式脱穀機で脱穀。
昭和14年(1939)11月29日朝8時半。岩倉長谷御殿。
写真21
21.脱穀した籾は家の前で干して乾かす。これは干していた籾をしまうところ。
昭和35年(1960)。岩倉中在地。


写真22
22.籾を土臼、あるいは籾すり機で玄米と籾がらに分けた後、玄米を水車へ
持って行って、精米する。昭和43年(1968)1月2日。上高野。上高野は高野
川の水を利用した水車の多いところであった。


写真23 23.稲の収穫を終えると、
乾田は土をおこし、そこ
に麦を蒔く。これは牛を
使って、土を細かくして
いるところ。後方の両親
とともに砕土機で作業し
ている妻は、初めての牛
使い。牛が思うように動
いてくれない。重い砕土
機を扱う作業は男子でも
きつい作業で、「新婚さん」
どころではない重労働の
毎日であった。そのせい
か、足腰の痛みが一段と
こたえているという。昭
和30年(1955)12月。船
井郡八木町北広瀬。


写真24
24.麦をまくための地づくり。昭和17年(1942)頃。現在の宝ヶ池イベントホールのあたり。


写真25写真26
25.脱穀した後、わらは捨てることなく、
縄をなったり、正月用のわら細工を作
ったり、牛小屋の敷き藁にする。これは
正月用のわら細工を作っているところ。
昭和50年(1975)頃。岩倉長谷上の町。
26.干し柿作り。昭和10-12年(1935-1937)頃。
大原野。


写真27 27.栗の皮むき。昭和10-12年
(1935-1937)頃。
大原野。


写真28
28.冬から春にかけ、山に入って、燃料用に木を切る。昭和30年(1955)。笠置。


写真29 29.山仕事を終えて
帰る時。昭和4 1 年
(1966)3月10日。
上高野。


写真30 30.柴出し。大正9年(1920)頃。
岩倉。


写真31 31.切った柴を運ぶ姿。昭和13-14年(1938-1939)頃。
おそらく洛北山間部。


写真32写真33
32.子どもがリヤカーでたきものを運んでいる。
昭和38年(1963)。福知山。
33.家に持ち帰った柴を手ごろな長さ
に切っているところ。
昭和30年(1955)頃。岩倉花園。


写真34 34.短く切られた柴と子ども。
1958年3月14日。岩倉忠在地。


写真35写真36
35.京で売るためにきれいに縛られた柴。
昭和15年(1940)頃。岩倉花園。
36.柴を売りにいくところ。手ぶらで京都へ
行くことは恥ずかしいこととされていた。
明治38年(1905)。岩倉中在地。


写真37 37.農家のおくどさん。
わらなどをたきつけに用
い、それから柴などを燃
やして、料理をしたり、
暖をとったりする。昭和
36年(1961)頃。竹田。


38.だるまストーブでは、
はじめは火をつけるのに
柴などを燃やし、火が十
分についてから石炭をも
やして、暖をとった。昭
和36年(1961)頃。西陣
織の工場か。
写真38


写真39 39.チェーンソーを使う前は、
手で木を切っていた。
昭和33年(1958)頃。鞍馬。




[2] 海辺の暮らし

漁業に関しては、大正6年(1917)に始まる漁船動力化により、機船底引き網漁業は濫獲のためすでに大正10年(1921)をピークに衰退を始めた。ぶり大敷網を主とする沿岸定置漁業も大正末期には長期不漁期に入っていた。大正末期に福井県から導入したサバ巾着網漁業により、昭和8年(1933)頃にはサバ巾着網漁業の最盛期を迎えたが、それも昭和11年(1936)頃から衰退していく。




重要な収入源となっていたイワシ搾り粕、乾イワシ、雑魚荒粕、魚粕粉末などの動物質肥料の加工製造も、昭和10年(1935)4月に水産肥料検査規則が制定され、自由にはできなくなった(京都府立総合資料館, 1970)。以下の写真は戦後のものであり、上記のような変化が終わってからのものである。しかしなお細々とながらも自然とうまくつきあいながら漁をしている姿が見られる。

写真40 40.宮津海岸のいわし干
し。浜辺一帯に網干し場
もあり、天日干しの魚干
し場もあった。バイパス
ができて、海岸も整地さ
れて、現在は縮小され、
この姿はない。
昭和26年(1951)4月。
宮津市魚屋町。


写真41
写真42
41.伊根町わらぶき舟屋。
昭和26年(1951)10月。当時は
ブリ漁が盛んであった。昭和40
年頃までわらぶきの舟屋があった。
42.岩のりつみ。後ろの島はフクシマさん。
昭和28年(1953)早春。網野町浅茂川。


写真43 43.明朝に出漁するための定置網の網
繕い。昭和28年(1953)6月。宮津岸壁。
現在この場所には宮津市の体育館が
建っている。


44.橋立湾のアサリ漁。
昭和28年(1953)12月。
写真44


写真45
45.ぶり大漁。昭和28年(1953)12月28日午後5時。
この日を最後に1600本からの1m強のぶりの大物は
とれなくなった。いわしの回遊のせいらしい。この日
は港を4時に出港して、この大漁のために魚を運びき
れず、翌朝4時半までかかった。与謝郡伊根町。



46.わかめ干し。昭和42年(1965)5月。
最近では全部灯油バーナーを使った火器
乾燥になった。もうこのような姿は日本
海沿岸いずれに行っても見あたらない。
久美浜町旭海岸。
写真46



以上は、まだ機械らしい機械のないころの農山村の暮らしであり、海辺の暮らしである。そしてそれぞれの営みは人々の協力を必要としていた。
 この時代の暮らしが楽なものでないことは先に述べた。ところがその暮らしが、第一次世界大戦後、さらに悪化していく。日本は大正9年(1920)の反動恐慌に始まり、大正12年(1923)の関東大震災後の不況、昭和2年(1927)の金融恐慌、昭和4年(1929)の世界恐慌というようにして、深刻な不況に明け暮れた。京都の近郊農村で不況が最も深刻であったのは昭和5年(1930)であったようである。昭和5年は大豊作。そこへ朝鮮や台湾からの米が国内に出回り始め、農家の主要な収入源である米価が昭和元年(1926)頃の半分以下になったのであった。生糸も半値以下になった。働きに行きたくとも、京都では失業者が増え、勤め先が見つからず、勤め先がある人でも賃金をずいぶん下げられた。おまけに昭和7年(1932)は不作。昭和9年(1934)は室戸台風が襲い、不作。昭和10年(1935)は6月28・29日の大水害で不作。生活水準を下げても農家には欠損が生じ、米作や養蚕を中心とする地域では「農山漁村経済更正指定村」に指定されるところが増えたのであった(中村, 2000)。
 ところが農業恐慌や昭和9年(1934)の不作などから立ち直りきれないうちに、日本は戦時体制に入って行き



、徴用、徴兵による農村労働力の質的・量的減退、軍需生産偏重による農業生産手段の不足が起こり、食料需給がひっぱくしていく。そのような数々の悪条件下にもかかわらず、農家は食料増産に励まさせられた。昭和5年(1930)に9502町歩あった桑園が昭和21年(1946)に1669町歩まで減少したのは、養蚕がふるわなくなったこともあるが、食料増産のためでもあろう(京都府立総合資料館, 1970)。そしてすべての人に労働奉仕、節約、倹約が呼びかけられていく。
 戦後も食料不足はすぐには解消しなかった。土地生産力が極度に落ちていたので、昭和20年(1945)における京都府の米生産高は57万石。豊作の大正9年(1920)には90万石あったことを考えると、ずいぶん少ない。そこへ外地から復員した人と帰国した人が加わった。食料事情はその後少しずつ好転していくが、食料危機を完全に脱したのは昭和30年(1955)の大豊作によってであると言われる(京都府立総合資料館, 1970)。
 戦後も地域共同体はまだしばらく健在であり、自然環境もまだよく保たれていた。そして共同体や自然の中で子どもたちが育っている様子をうかがわせる写真が多く見られる。やがて作業や暮らしに機械が導入され、しだいに物質的な豊さ、便利さが感じられるようになるのである。以下においてその様子をおよその時間的順序に従い、見ていきたい。



[3] 暮らしの変化


写真47
47.夏の地蔵盆ハイライトの福引。昭和9年
(1934)か10年(1935)頃の8月23日午後3時ごろ。上京
区衣棚通り今出川上る畠山町中ほど。当時は地蔵盆
を2日間開催。福引品は町内の道向かいの2階に積
み上げ、人形は竹籠に入れ、ロープで降ろす。まず子
ども向きの品。次に家庭用品。くじにより入手。テニ
スラケットを頭に喜びを表す子もいる。2日間は夜遊
びも親公認。このイベントが済めば、夏休みも残り少
なく、宿題も気がかりで、片付けの手伝いはわびしか
った。



48.人々が協力したのは農村にお
いてだけではない。都会において
も人々が協力しあった。昭和9年
(1934)に在郷軍人分会などと協
力して遺家族の援助などをするた
めに国防婦人会が結成された。こ
れは昭和1 0 年(1 9 3 5) 〜 1 3 年
(1938)頃の国防婦人会の活動。
女の子背後の張り紙には「力を合
わせて愉しく生活御奉公・これま
でのやうに、一軒づつバラバラの
生活では、ずゐぶん無駄や間違ひ
が多かった。みんなが協同してや
れば、まだまだ物も力も生まれて
来るし、明るい愉しい気持ちで、
もっとお国のお役に立つことがで
きる。…」と書かれている。中京
区烏丸一条。
写真48


写真49
49.昭和10-13年(1935-1938)頃の
国防婦人会の活動。「お知らせ・本
日の廃品売上高・金拾弐円七拾銭
也・二月十九日・雲二町会婦人会」
と書かれている。



50.昭和10-13年(1935-1938)頃の
国防婦人会の活動。「回覧板・生活
の協同化・本日の実践・障子張。注
意・準備ノ都合上アラカジメ修理及
ビ張リ換エ分量ヲ調査…カラヨロシ
ク」と書かれている。烏丸一条か。
写真50


写真51
51.昭和10-13年(1935-1938)頃の
国防婦人会の活動。「回覧板・釘の
再生・毎土曜日朝ラジオ体操後薬
局ノ伊藤サンカラ提供シテ貰フ不用
箱ヲ整理ノ上釘ヲ回収。釘ハ二度御
用ニ立ツ様注意シテノバシテクダサ
イ。各自金槌釘抜キ御持参ノコト。
作業後の道路清掃ニハ特ニ気ヲ付ケ
テ下サイ。組長」と書かれている。
小松町。



52.昭和10-13年(1935-1938)頃の国防
婦人会の活動。障子はり。大原野か。
写真52


写真53
53.農繁期には子どものめんどうなど見てお
れないので、農繁期だけ子どもを預かる農繁
期託児所が各地に作られるようになる。「農繁
期託児所設置奨励規定」が定められたのは
昭和9年(1934)。これは昭和12年(1937)
度美山野添託児所。



54.竹馬で遊ぶ子。昭和14年(1939)
1月。岩倉長谷得尾。
写真54


写真55
55.明徳尋常高等小学校高等科2
年による農作業実習。この中から
満蒙開拓青少年義勇軍に参加する
者も出てきた。昭和15年(1940)。
現在の叡山電鉄岩倉駅東側。



56.服が濡れていると、泳い
でいたことが親にわかって、
叱られるので、裸で泳ぐ子が
多かった。昭和17年(1942)
盛夏。加茂川出町橋付近。
写真56


写真57
57.親たちが手動式の扇風機で
籾とごみを分けているかたわら
で遊ぶ子どもたち。大きい女の
子は赤ちゃんを背負っている。
昭和17年(1942)11月。現在の
叡山電鉄八幡前駅北側。


写真58
58.瑞穂町梅田農友会梅園地開墾。
昭和19年(1944)頃、梅田農友会の
人が瑞穂町下大久保の三丁林を開墾
して、梅園にする様子。



59.町内防空演習。昭和20年(1945)
1月に馬町、6月に西陣で空襲があ
り、各学区の国民学校配属将校と在
郷軍人会が中心となり、各町内で防
空演習を行っていた。昭和2 0 年
(1945)。室町六角下がる。
写真59


写真60
60.修学院国民学校が軍需工場
となったので、「疎散教育」と言
って、近くの神社などで教えて
いた。これは上高野の崇導神社
か。昭和20年(1945)頃。



61.学童疎開。昭和20年(1945)7月頃。
京都市内有隣国民学校の児童26人(4年
生以上)を終戦までの半年間預かった。食
腹とストレス続きで夜も眠れない毎日。面
会に来られたお母さんがわが子にと内緒で
食物を渡そうとされるのを、説得して断る
のがつらい毎日であった。船井郡八木町北
広瀬阿弥陀寺本堂前。
写真61


写真62
62.昭和21年(1946)、小学校1年生食料
生産協力。各学年別に農作物を作ってい
た。大根の種は各自持参していたので、品
種が同じでない。白い布をかぶっている子
はアメリカ兵につかまって、ノミ、しらみ
の消毒でDDTを頭にかけられている。この
子たちは新制中学校へ進んでからも、うさ
ぎ、にわとり、やぎを飼い、米作りをみん
なでした。園部小学校農地にて。



63.宮参り。頭の上にのせているはんぼう
の中には、赤ちゃんを見に来てくれた人に
ふるまうおこわ、白豆をたいたもの、シト
ギ(餅米の粉を練ったもの)がはいってい
る。昭和25年(1950)。岩倉長谷八幡。
写真63


写真64
64.昭和25年(1950)12月。戦後の
復興が進んで、クリスマス商戦も盛
んになり、何を求めてか、群集の行
列も見られる。巨大なサンタクロー
スが目を引く。四条河原町交差点。



65.プールなどほと
んどなかった頃であるの
で、京都市の子が泳ぎに行
くとすれば、木津川か琵琶
湖が多かった。これは昭和
26年(1951)8月に木津川
へ子どもを明徳小学校校外
補導委員が水泳に連れて行
った時。
写真65


写真66
66.生徒たちの農作業。昭和27年
(1952)頃。笠置。



67.傘の修理屋さんが傘を修理するのを
見つめる子ども。鍋、釜も移動業者が修
理に来た。履物も、下駄の歯に合わせて
ゴムをうったり、靴の裏やかかとにゴム
や革を貼って、履いたものであった。昭
和28年(1953)29年か(1954)頃の秋。
壬生下溝町。
写真67


写真68
68.百貨店屋上遊園地。昭和2 9 年
(1954)3月。姉7歳、弟6歳。「ダブル
のスーツを着ているが、家ではボロ。
父が国鉄に勤めていたので、家族全
員がそろうことはめずらしく、子どもに
すまないと思っていたよう。汽車で京
都まで連れてもらった。当時、親戚で
もないかぎり、汽車で舞鶴から京都や
大阪へ行った友だちは少なかった。」
京都駅前丸物。



69.市場での生活風景。
昭和29年(1954)10月。
通路には木箱に入った魚
や果物などがぎっしりと並
べられ、当時の賑わいが
感じられる。峰山町の中
心地にある御旅市場
写真69


写真70
70.笠置中学校名物砂運
び。運動会前には、へこん
だグラウンドの整地にこの
砂を使った。昭和2 9 年
(1954)秋か。



71.獅子舞。昭和29年(1954)秋頃。
娯楽の少ない時代、町内の秋の行事と
して獅子舞の一行をよんだ。当時、町
内には各家庭に3、4人の子どもがい
て、とてもにぎやかで、活気があふれ
ていた。その子どもたちの健やかな成
長を願って、町内の人々が広場で大き
な輪になり、舞を楽しんだ。舞鶴市伊
佐津。
写真71


写真72
72.友禅染洗い。昭和30年
(1955)5月15日。出町ふ
きんの加茂川。



73.川でおしめの洗濯。
洗濯機が出まわる前は、
川で洗濯するか、たらい
に水をはって洗濯するか
であった。昭和30(1955)
年。岩倉上蔵。
写真73


写真74
74.たらいで洗濯をして
いるところ。昭和3 2 年
(1957)8月31日。岩倉
中在地。



75.ラジオ体操。朝早いの
であろう。人の影が長い。
昭和30年(1955)8月。新
町寺ノ内上ル。
写真75


写真76
76.地蔵盆の飾りつけ。大人も
子どもといっしょになって地蔵
盆を楽しんでいる様子がうかが
える。中学生、高校生らしき子
も加わっている。飾り付けに電
気を用いたしかけが登場してい
る。昭和30年(1955)8月21
日から28日。新町寺ノ内上ル。



77.地蔵盆の飾りつけ。昭
和30年(1955)8月21日か
ら28日。新町寺ノ内上ル。
写真77


写真78
78.地蔵盆の仮装行列。
大人と子どもがいっしょに
なって楽しんでいる。昭和
30 年(1955)8月。新町
寺ノ内上ル。



79.おもちゃの電車で遊ぶ
子。電気や電池で動く電
車のおもちゃが登場してく
る。昭和30年(1955)。新
町寺ノ内上ル。
写真79


写真80
80.テレビがまだ普及して
いない時期、人形劇や紙芝
居を見るのは子どもにとっ
て楽しみであった。人形劇
を見る子。昭和3 0 年
(1955)。新町寺ノ内上ル。



81.家を新築するとき、
親類や近所の人がよって
「どんつき」という作業
を行い、基礎を固めた。
昭和30年(1955)10月14日。
岩倉花園。
写真81


写真82
82.正月のカルタとり。正月は家族や親戚の者
で集まり、楽しむことが多かった。背後にある
のはラジオ。
昭和31年(1956)1月2日午前。岩倉中在地。



83.八瀬遊園でゴーカートに乗る子。
真剣な表情で運転している。
昭和32年(1957)か。
写真83


写真84
84.出雲路橋ふきんで梅雨時に
加茂川で魚とりをする子。子ども
が左手に持っているのは石箕。
石箕で魚をすくうと、うまくとれた。
昭和32年(1957)か。



85.たきものにするために山から
運んできた柴を立てかけたところ
は、よい隠れ場所になっていた。
昭和35年(1960)頃。
岩倉忠在地。
写真85


写真86
86.明徳小学校区民運動会での
縄ない競争。誰でも縄をなうこと
ができたので、こうしたレースをく
むことが可能であった。
昭和30年代中頃。岩倉忠在地。



87.昭和39 年(1964)
6月19日に没した人の
土葬の葬列。この頃以
後、土葬はほとんど見
られなくなっていった。
岩倉。
写真87


写真88
88.台所改築前のおくど
さんにて嫁と姑。岩倉長
谷。昭和52 年(1977)。
調理や暖房にたきぎを
使うことがなくなり、おくど
さんは姿を消していった。

以上見てきたような暮らしの変化を起こしたものは何か。それは農林水産業などの機械化、暮らしの機械化によって兼業化が可能になり、工業化によって増えた仕事の方に人手が回り、人々の収入が増え、


消費が活発になったことであろう。以下において、機械化、工業化が進み、消費が活発になっていく様子を、およそ年代順に写真を通じて見ていきたい。


[4] 機械化・工業化・消費の拡大




写真89
89.大正初期の製糸工場風景。
グンゼ綾部本工場。紡績工場は
女性にとって数少ない職場であ
った。郡是製糸株式会社が綾部
に創立されたのは明治2 9 年 (1896)。



90.ミシン講習会。大正5年
(1916)12月。女性は全員和服。
女性の髪型はほとんどが「203高
地」。後ろの建物は網野小学校校
舎。当時の竹野郡西部は現在の
網野町そのものの範囲。シンガ
ーミシンが家庭用ミシンを売り
出したのが大正2年(1913)で
あるから、ミシン講習会は先進
的な企画だったであろう(下川,
2000)。
写真90


写真91
91.同志社高等商業学校でのタ
イプライター練習風景。昭和6
年(1931)。将来、タイプライタ
ーが必要となると考え、練習さ
せたのであろう。なお、タイプ
ライター講座を初めて設立した
のは東京の共立女子職業学校で、
明治39年(1906)のことである
(下川, 2000)。



92.姉小路通り烏丸東入る京都電話局の
電話番号案内室の情景と交換手の制服
姿。昭和6年(1931)。交換手は女性教
師や紡績女工とならぶ、勤労女性のパイ
オニア的存在であった。正月には桃割れ
や島田髷で案内している女性もたくさん
いた。夏、締め切った交換室は暑く、天
井の扇風機がゆっくり回り、大きな氷柱
が室内に置かれ、見た目だけでも冷感を
誘っていた。交換手は主な番号を丸暗記
していて、すぐに答えていた。後ろには
ベテラン交換手が立っていて、わかりに
くい番号の問い合わせとか、うるさい客
の時には代わって受け答えをした。まん
なかの席では、異動のあった電話番号の
訂正が行われていた。東京で電話交換所
が開設されたのは明治22年(1889)のこ
とであった。明治30年(1897)には京都
の電話交換局が電話加入区域を設定して
いる。
写真92


写真93
93.自転車の後輪に直接にモーターを取り付けて走る
原動機付自転車。昭和25年(1950)3月5日。昭和12年
(1937)にはガソリンの1割節約が決定され、昭和16年
(1941)には一般車のガソリン使用が禁止されていた。
戦後もガソリンは十分に手に入らず、昭和22年(1947)
にはガソリンを使用する自動車が登録制になっている。
しかし昭和25年(1950)にはガソリン事情が好転。昭和
27年(1952)には原付自動車「カブ」がホンダから発売
された(下川, 1997)。



94.延長2.9kmの暗渠排水工事。
昭和27年(1952)12月。金屋・
波美地区土地改良事業。事業費
261万円。戦後、食料増産のため、
天田郡長田野の陸軍演習場跡、
巨椋池干拓地の飛行場の開墾、
船井郡蒲生野、曽根、京都市
金閣寺裏原谷開拓などのほか、
昭和22年(1947)に亀岡の平和
池の築造(昭和26年に決壊)、
昭和24年(1949)に綴喜郡八幡
排水事業の完成、昭和28年(19
53)に天田郡豊富用水の完成な
ど、農業の生産性向上がはかられた。
写真94


写真95
95.京都府農業機械化研修会。
古川式スクリュー式動力耕運機
・三恵式動力耕運機。様々な種
類の耕運機による実演が行われ、
農業機械の普及がはかられた。
昭和27年(1952)。峰山町荒山。
昭和28年(1953)には農業機械
化促進法が施行される。そして
昭和28年には高速空冷発動機に
よるティラー型耕運機が登場し、
急速に普及していく。また昭和
28年には動力脱穀機が全国で136
万台に達し、脱穀作業は動力作業
段階に入る(京都府立総合資料館,
1970)。



96.笠置町で購入した自動耕運機。
個人で購入する前に、まず、町など
で購入したのであろう。
昭和29年(1954)。
写真96




写真97
97.洗濯機の荷受。昭和30年(1955)
このころから洗濯機、扇風機、自働炊飯器、テレビ、
電気冷蔵庫などが大量に売れるようになる。
寺町電気店街


写真98

98.秋用肥料の分配。肥料はカマス入りの過燐酸や紙袋入りの石灰窒素などが主流で、
運搬には肩引きのゴム車やリヤカーを使用していた。道路も未舗装のでこぼこ道。昭和
30年(1955)頃。明治42年(1909)における空中窒素固定法の発見以来、アンモニアを
用いた化学肥料が安価に作られるようになり、昭和20年前後に減少した以外は増加し続
けていく。他方、昭和30年代から人糞尿は肥料としてだんだん使われなくなっていく。
船井郡八木町北広瀬地内、府道亀岡園部線と町道山室線の交差点。


写真99
99.ダンボール箱によるメリヤス
肌着初荷風景。昭和31年(1956)。
グンゼ宮津工場。この年ぐらいか
らダンボール箱による出荷が全
国的に増加していく。



100.電化製品販売風景。
熱気が感じられる。
昭和32年(1957)か。
寺町電気店街。
写真100


写真101
101.京都府は、車の数が急増
したのに対応して、全国で初め
て婦人交通指導員制度を
昭和35年(1960)に設けた。
昭和35 年(1960)か
昭和36 年(1961)。





[5] 農業・林業・漁業における機械化の始まり
農作業の機械化は、昭和初期にエンジン付きの籾すり機械によって始まったようである。しかし戦争が始まり、石油を節約するため、昭和13年(1938)頃にはまた土臼を用いての臼すり、手動式の臼すり機を用いての臼すりに戻っていった。しかし戦後、早い時期に、エンジン付き籾すり機を持つ人に仕事を依頼するようになったのであった。
 エンジンの回転運動をベルトで脱穀機に伝えるという方式を用いての動力脱穀機は、京都には、昭和12年(1937)頃に登場したようであるが、これも戦争による石油不足のために姿を消してしまった。それが少しずつ普及していったのは

昭和25年(1950)頃からのようである。戦後、大八車のゴムの車輪、リヤカーがよく出回り始めたのも、昭和24-25年(1949-1950)頃であった。耕運機は、それより少しおくれ、昭和30年(1955)を過ぎたころから少しずつ普及していった。それは写真からもうかがうことができる。
 このような機械化により、農家の兼業化が進んでいったが、麦や菜種の収穫と田植えが集中する6月、稲の収穫と麦の植えつけが集中する10月、11月の農作業は、兼業してできるようなものではない。多くの農家は昭和30年代中頃から麦や菜種という裏作をしなくなり、稲だけを作ることによって、兼業化を進めていったのであった。




兼業化の流れは、都市近郊における宅地化の進行による田の減少によって加速された。京都府の農家一戸あたりの耕地面積は、大正元年(1912)には約70アール(全国平均105アール)であったが、昭和40年(1965)には約57アール(全国平均90アール)に減少している(京都府立総合資料館, 1971)。現在ではさらに減り、農業をやめる家が多いだけでなく、続けていても 20アールとか30アールのところが多くなっている。
 また農家は草刈り機、種蒔き機、育苗機、苗を植えつける機械、稲刈り機、脱穀機、コンバイン、臼すり機、乾燥機、精米機などを借金しても買うようになり、草取りも農薬の散布で済ませ、うんかやいもち病などにも農薬の使用によって対応するようになった。さらに用水路がコンクリートで造られ、道路がアスファルトで舗装されるようになって、用水路や農道の維持にもあまり
 

手間がかからなくなった。以前なら農道の維持、用水路の維持、田植え、草取り、稲刈り、脱穀、臼すりなど、共同作業が多く、他の家の都合も考えて作業を進めなければならなかったが、農業の機械化と農薬の使用による省力化がすすむと、他の家の協力なしに、自分の家の都合で農作業をすすめることができるようになった。
 こうして休みの日だけで、そして家族だけで農作業を行うことが可能になってきたのである。しかしそら豆、大豆、小豆などをあぜに植えていると、草刈り機で草を刈ることはできず、鎌で草を刈らなければならない。やがて農家の人は、草刈り機を使うために、そら豆、大豆、小豆も作らなくなっていった。今ではあぜに豆を植えている農家がきわめてめずらしくなり、植えている農家でも、ほんのわずかしか植えていない。





また、宅地にされる農地が増えてくると、農地面積が減り、昔ほど水不足に悩まされることはなくなった。そして水への農家の関心が次第に薄らいでいったのである。
林業では、戦後しばらくは、家庭での燃料をたきぎや炭にたよっていたので、里山では柴かりや炭焼きが行われていたが、昭和30年代に調理にプロパンガスや電化製品が、そして暖房にガスや石油や電化製品が使われるようになると、柴や炭の需要がなくなり、雑木林が切られ、スギやヒノキの植林がさかんに行われるようになった。
林業の機械化は、木を切るのにチェーンソーが、そして切った木を運搬するのにトラックが導入され、進んで行く。昭和40年(1965)にはチェーンソーを使うことによって起こる白ろう病が労働省によって労災と認められているので、チェーンソーはそれまでにかなり使われるように

なっていたと思われる。しかし外材が輸入され、しかも昭和40年代中頃には国内で生産される木材よりも輸入される木材の方が多くなり、電柱もコンクリート製にとってかわられ、また、家を作っても、木をあまり使わない家が多くなったことにより、林業は急速にすたれていく。
 漁業でも、船にエンジンが取り付けられたのはもちろんのこと、魚やわかめなどの乾燥にも機械が導入されていった。漁業では昭和初期にすでに衰退が始まっていたが、さらに漁業人口が減っていった。ちなみに、昭和30年(1955)の日本の漁業人口を100とすると、平成7年(1995)は約43である。農業や林業は昭和30年頃にまだまださかんであっただけに、漁業の場合と比べると数字の落ち込み方が激しく、農業の場合は23、林業の場合は17である(日本の100年, 2000)。






[6]暮らしの機械化による変化

 暮らしも機械化によって変わっていった。井戸の電動ポンプは、人々が戦後の早い時期に求めたものの1つであった。人々は毎日、炊事、洗濯に使う水はもちろんのこと、風呂用の水も、井戸からつるべや手押しポンプで汲んだり、あるいは川から汲んでいたが、それはたいへんくたびれる仕事であった。ところが井戸に電動ポンプをつけると、蛇口をひねるだけで水がとび出てくるのである。井戸の電動ポンプが京都府でブームとなったのは、昭和20年代後半である。
京都府の統計によると、各耐久消費財の普及が急速に進んだ時期(取得が千世帯あたり1年に20個を越え始めた年)は、洗濯機(昭和30年・1955年)、テレビ、ガスストーブ(昭和31年・1956年)、自動炊飯器(昭和32年・1957年)、掃除機、トランジスターラジオ(昭和33年・1958年)、冷蔵庫(昭和34年・1959年)、電気ストーブ(昭和35年・1960年)、石油ストーブ(昭和36年・1961年)、テープレコーダー(昭和38年・1963年)、乗用車、電話(昭和40年・1965年)、カラーテレビ、ピアノ(昭和43年・1968年)というようになる(京都府立総合資料館, 1971:中村, 1995)。

 このような耐久消費財の多くは、大量生産による値下がりと、昭和30年(1955)頃から始まる高度経済成長による所得向上によって、次々と手に入るようになったのであった。
電化製品とならんで、人々の生活を変えていったのはインスタント食品であった。即席ラーメンが初めて登場したのは昭和33年(1958)秋のことである。それ以来、各種のインスタント食品が相次いで登場し、人々の食生活、生活パターンを変えていく。
 衣料に関しては、昭和25年(1950)9月20日に、衣料切符制度がようやく廃止された。そして朝鮮戦争(1950-1953年)特需を背景にして、日本の繊維業界が復興し、洋裁学校が昭和32年(1957)に全国で7000校となる。ミシンの年産は昭和28年(1953)に150万台を突破し、昭和31年(1956)には普及率が都市部で75%になっている(下川, 1997)。
 昭和30年代にはスーパーマーケットが各地にできる。昭和37年(1962)には全国で2700店であったのが、38年(1963)には5000店に増えている(下川, 1997)。こうして買い物のスタイルも変化していったのであった。






[7] 暮らしの変化の結果として起こってきたこと
農作業、暮らしの変化の結果、どのようなことが起こってきたのか。まず肥料の変化から見ていくと、昔は自給可能な人糞尿、厩肥、堆肥、柴草、青草、ワラ、草木灰、鶏糞に頼らざるをえなかったのであり、人糞尿に関しては、近郊農家はそれを都市部へもらいに行っていたのであった。その人糞尿もらいについて言うと、昭和10年(1935)頃までは近郊農家が人糞尿を汲み取らせてくれる家にお礼をしていたが、その後はお礼をあまりしなくなり、昭和25年(1950)頃になると、農家がお礼をするのではなく、汲み取り先の家が農家にお礼をしてくれるようになった。さらに昭和30年代中頃からは、わざわざもらいに行かずとも、バキュームカーが人糞尿を野つぼに入れてまわってくれるようになる。そして下水施設が普及してくると、人糞尿は下水として流されるようになり、肥料として人糞尿に頼るということがほとんど無くなったのであった。おそらく化学肥料が普及し、人糞尿への依存が小さくなっていったからであろう。その結果、都市と近郊農村の間になりたっていた循環、つまり作物を都市へ、人糞尿を近郊農村へという循環がなくなり、人糞尿は下水として排出され、農村では大量の化学肥料が使われるようになったのである。
しかし人糞尿を下水として排出し、田畑で化学肥料を大量に使うようになった結果、
 

自然は含窒素化合物に関して二重の負担を受けるようになった。現在の下水処理能力では人糞尿の含窒素化合物を取り去ることは困難なので、含窒素化合物が川に流される。さらに、田畑に肥料として施される含窒素化合物も、そのかなりが川に流れ込むからである。また、笹などを燃料にしたり、腐らせて肥料として使うことがなくなったので、里山には笹や下ばえが繁茂するようになった。
また、化学繊維の登場により、荷物の梱包用にとどまらず、化学繊維が様々な用途に使われるようになり、わらで作る縄が使われなくなった。今ではわらはコンバインで稲を刈る時に同時に切り刻まれ、田にまき散らされるだけである。他方、化学繊維やプラスチックは大量につくられ、しかも腐らないので、町だけでなく、山野や海にも化学繊維やプラスチックのゴミが散らばるようになった。ポイ捨てというのもあるが、トラックにゴミを満載して、わざわざ山奥に捨てに行く者もある。
また、農薬を使うようになった結果、川からウナギ、カワエビ、ドジョウ、メダカなどが姿を消していった。
農薬の使用とともに、水道の普及が関係しているが、洛北農村部でも昭和40年(1965)頃まで、川や用水路の水をそのまま飲料水として使っている家が見られたのに、それ以降は見られなくなった。 




水道の普及は、農薬に汚染されていない水を供給するという意味を持つであろうが、それとともに水汲みの労力の軽減も意味した。それにたきぎがもったいないということもあり、例えば洛北農村部では風呂のない家がほとんどであった。風呂がある家でも、風呂を沸かすのは週に一度ほどというところも多かった(中村, 2000)。現在では、水を入れるのは蛇口をひねるだけですむ。風呂をわかすのも、ガスでわかすところが多い。そのため毎日のように風呂をわかす家が多くなった。
また、水道や洗濯機や合成洗剤の普及と関係しているのであろうが、洗濯が容易になった。1930年代ぐらいまでは、川で洗濯をできる日が決まっていて、それ以外の日に洗濯をすると、しかられるところもあった。洗濯などする時間があれば、仕事に励むべきであり、洗濯をすると、川の水が汚れるというのであろう。ところが水道や洗濯機が普及すると、洗濯が容易になり、下水が普及して、汚水が下水に流れるようになると、自分の都合の良い日に洗濯しても、だれも文句を言わなくなったのである(中村, 1999)。
さらにまた、人糞尿を肥料として使わなくなったということもあり、上下水道が普及したということもあって、水洗便所が普及するようになった。また、下水施設が整っていなかった頃なら、台所で使う水は流しの下で桶に受け、それがたまると畑へまきに行っていたので、多くの水を台所で使うことはできなかったが、下水施設が整うと、いくらでも水を流すことができる。そして風呂をひんぱんにわかすようになったこと、洗濯が容易になったこともあり、水の使用量がずいぶん多くなったのである。
 

 また昔なら、川から飲料水を得たり、川の水を汲んで風呂を沸かしたり、川で洗濯をしたりしていたので、川の水を汚すと、村人からしかられたが、今では水をいくら使っても、その水は下水道を流れ、川に直接流れ込まないようになっている場合が多いので、洗剤を使ったり、水を汚すようなことをしても、あまり気にならなくなってしまった。最近では毎日のようにシャンプーで洗髪する人も多くなっている。
さらに、風呂をわかしたり、ごはんを炊いたり、調理をしたり、暖房をとるのにたきぎを使わなくなり、ガスや石油や電気を使うようになったことが、森の環境を悪化させた。たきぎを使わなくなったため、雑木林は価値を失い、伐採され、スギやヒノキが植林されるようになったが、スギやヒノキの植林地帯というのは、植物相が貧弱で、動物や鳥や昆虫が生息しにくい環境である。それでもスギやヒノキが利用されればまだよいが、今や、家は建っても、木を使う家が少なくなり、おまけにスギやヒノキが外国から輸入される木材との競争に勝てず、間伐もされずに放っておかれている場合が多くある。もちろんスギやヒノキは商品としての価値をほとんど失ってしまう。
 それにスギやヒノキは花粉症の原因になってきた。戦後に植林されたスギが花粉を大量にまき散らす大きさに成長してきたのである。10年ほど前に比べ、花粉の量が数倍になったという例も報告されている(花粉症の増大には、車が出す排気ガスの影響もあると考えられている)。他方、外国では、乱伐により、深刻な環境破壊が起こっている。





[8] 人間関係の変化

1)共同作業が減ったことによる共同体の崩壊

農業の機械化と農薬の使用による省力化は、農家が他の家の協力なしにも、自分の都合で農作業をすすめることを可能にし、その結果、兼業化をすすめ、休みの日だけで農作業を行うことを可能にしたのであった。
 しかし機械をひととおりそろえると、相当な金額になる。機械の耐用年数は20年というが、それまでにもよく故障し、その費用がばかにならない。故障しなくとも、新しい機械が出てくると、それを買いたくもなる。それに、農業機械は、それぞれ1年のうち数日しか使わないのに、その保管に広い場所が必要である。
共同作業が減ったということは、昔なら「農作業の時に手伝ってもらわなければならないから」と思ってぐっとこらえたことでも、すぐにけんかできるということでもある。農村の人間関係、近所づきあいも変化していったのであった。

2)子どもの生活の変化

また、共同作業が減って、地域共同体がくずれてくると、地域の目とでもいうべきものがなくなっていった。そして車が増え、道路が危険になったこともあって、子どもは、テレビを見たり、ゲームをしたりして、家の中に留まって一人で遊ぶか、少年サッカー、少年野球、児童館などで、大人に監督してもらい、指導してもらわないと、安心して遊べなくなり、子どもどうしの社会が育ちにくくなっていったのである。

 それに、昔の子どもは、子守をはじめ、たきぎひろい、風呂わかし、牛馬の世話など、様々な役割を与えられていたが、最近の子どもはそのようなことをする必要がない。子どもは学校で良い成績をとることだけを期待され、偏差値というものさしでのみ選別され、親は子どもの塾通いの送り迎えにはげむということにもなってきた。そして偏差値でふるい落とされた子は、挫折感を味わうことになる。しかし昔の社会では、そのような子にも活躍する場が与えられていたのである。

3)都市近郊において農地を生産の場と見なさず投機の対象として見ることによる問題

 また、都市化の進行が、人々の心をむしばんでいった。都市化が進み始めた時、農家の人たちは、農地として条件の悪いところを手放していった。耕作に不向きな湿田、水を得にくい田、家から遠い田である。農地解放の時に農家の人が手放したのもそういう田である。ところが土地の値段は農地としての良し悪しではきまらなかった。通勤にどれだけ便利か、土地のイメージが良いか悪いかで決まったのである。そうなると、家の近くの良い田で汗水流してせっせと農業生産に励
 んだ人が米を作って得る金よりも、農地解放の時に得た小作地を売って得た金を貯金して得た利子の方がはるかに大きいということも、起こってきた。そして農地を生産の場と見なさず、投機の対象として見るようになると、土の世話をして、農業生産を高めることによって、暮らしをよくするという気もなくなってくるのであった。





4)遺産相続による農家の崩壊

また、地価が値上がりした時、農家の人の中には自分が金持ちになったと思った人もいた。そして家を建てかえたり、車を何台も買ったり、海外旅行に出かけたりしたのである。しかし遺産相続の時、地価の上昇が災いした。相続税は、農業や他の仕事に一生励むだけで払えるような額ではなくなっていたのである。そこで農地を売るということになる。
 しかしそれで事が済めばまだよいほうであろう。相続財産が何億円というレベルになってくると、「どうして兄の相続財産は2億円で、弟の自分は1億円なのだ。」というような争いが起こってくる。そして話し合いがつかず、田や家を売ってその金を分配しなければ、事がおさまらないということにもなり、兄弟姉妹間の関係が修復不可能になってしまったりするのである。

5)家族の崩壊

 また近頃、昔なら家を継ぐ立場の人が、転勤しなくとも、両親と自分たちそれぞれの生活スタイルをまもるために、両親と同居せず、別居することも多くなってきた。

子どもにせよ親にせよ、自立という意味で、それはよいことなのかもしれない。しかし子どもは子どもで、自分の子育てに苦しみ、親は親で、年老いてくるとともに、健康に不安を覚えてくる。そして孫は祖父母から学んだり、祖父母の生きる姿勢をあまり見ることなく育ってしまうことになる。
 両親に衰えが目立ってきたからといって同居を始めても、長い間別の生活スタイルをとってきた者がすぐにうまく一緒に暮らすのは、容易ではない。
 さらに、昔に比べ、家屋は各部屋の独立性が高くなるように設計され、1戸あたりの居住者数も減っているので、たとえ一緒に家にいても、家族構成員それぞれが個室にこもって好きなことをして暮らすことができるようになった。おまけに冷蔵庫や電子レンジなどの便利な電化製品の普及、1990年頃から急速に増えた24時間営業のコンビニエンスストアなどにより、家族構成員それぞれが勝手な生活時間帯で暮らすことができるようになっている。他方、家族としてまとまらなければならない理由を見出すのは困難になってきている。これでは他人どうしが同じ屋根の下に住んでいるようなものである。こうして家族という最小の共同体まで崩壊しはじめたのである。





ところでこのような機械化、工業化、それによる暮らしの変化は運搬手段、交通手段の発展と大きく関係している。以下においては運搬手段、交通手段の発展を、およその年代順に写真を通じて見ていきたい。交通手段の発展は、明治10年(1877) における京都 神戸間の鉄道開通、明治13年(1880) における京都 大津間
 

の鉄道開通、明治22年(1889) における京都 宮津間の道路の整備、明治26年(1893) における京都 宮津間の馬車開業、明治45年(1912) における京都 出雲今市間の鉄道開通などから始まったと思われるが、「京都府の100年」に応募された写真にはそれを示すような写真はあまりない。あるのは橋の建設の写真などである。



[9]機械化・工業化・消費の拡大を可能にした
ものとしての運搬手段・交通手段の発展






102.明治37年(1904)
に架設された初代
の玉水橋。井手町。
写真102


写真103
103.丹波何鹿郡山家村、
山家橋。明治45年(1912)
4月11日竣工。
5月5日、渡橋式。



104.京都日光社(南区東九条)
が、日本がアメリカから輸入した
車を1台譲り受け、「日光社第1
号」として最初に披露した写真
(円山公園内)。大正2年(1913)
8月。アメリカでT型フォードなど
の大量生産が始まるのが明治
末。東京でT型フォード6台を使っ
てタクシー会社ができたのが明
治45年(1912)なので、これはそ
の直後ということになる
(下川, 2000)。
写真104


写真105
105.福田川河口の船
だまり風景。大正5年
(1916)。網野町浅茂川。
この頃は帆かけ船が主
流である。それは江戸
時代の廻船の伝統を引
き継いだ木造船である
が、鉄道もない時代の
有力な交通・運搬手段
であった。奥に1隻の
西洋風の帆船が見える。



106.久美浜内湾の帆か
け舟。大正8年(1919)
8月。後ろの松林(小天
橋)は松枯れもなく、美
しい林であった。
写真106


写真107
107.「重量物許可
済み糸井運輸商会」。
大正9年(1920)頃か。
丹後山田村か。内陸部
へ重い物を運ぼうとす
ると、牛や馬に頼らざ
るをえなかった。



108.二谷運送倉庫
株式会社。明治運送
株式会社取引店。海
軍御用貨物取扱店。
祝山陰北陸鉄道全通。
大正11年(1922)12月
20日に国鉄小浜線若
狭高浜―新舞鶴間が
開通したことにより、
小浜線、舞鶴線を介
して北陸本線と山陰
本線が連絡された。
大正12年(1923)
2月24日。
写真108


写真109
109.二谷運送倉庫株式会社。
明治運送株式会社取引店。
海軍御用貨物取引店。
大正12年(1923)2月24日。



110.福知山合同
運送株式会社。
昭和3年(1928)
1月28日。
車が写っている。
写真110


写真111
111.「新舞鶴信用組合倉庫」。九条海岸引込み線。港に鉄道の線路を引きこみ、荷
物の積み下ろしの便宜をはかった。昭和5年(1930)か6年(1931)頃か。舞鶴港は
明治22年(1889)に海軍鎮守府に指定され、東港が軍港となったが、西港には商船
が自由に出入りできた。昭和3年(1928)に舞鶴は第2種重要港湾に指定され、港湾
施設の整備拡張がはかられた。



112.瑞穂町梅田の
運送屋。昭和初期。
トラックが写って
いる。
写真112


写真113
113.鞍馬自動車
(大正10年(1921)
に洛北自動車とし
て創立)の上加茂、
鞍馬、貴船、松ケ
崎行きバス乗り場。
鞍馬自動車は鞍馬
電鉄と客の奪い合
いをしていく。
昭和7年(1932)か。



114.老ノ坂トンネル
貫通。昭和8年(1933)。
竣工式は昭和10年(19
35)。幅6m。老ノ坂
トンネルは明治14年
(1881)に造られたが、
手狭になっていた。
写真114


写真115
115.昭和12 年(1937)3月
(鉄道)省営バス開通(京都
‐鶴ケ岡間)。所要3時間。
周山駅前。3月24日の開通
式には、沿道各戸に紅提灯
を吊るし、道路の要所には
緑門を建てて、開通を祝
った。周山―京都北野間の
乗合馬車は大正1 0 年
(1921)に営業を認可さ、
れており大正13年(1924)
には周山自動車が京都周
山間直通自動車を走ら
せていた。



116.筏流し。丹波の木材は保津川
の筏流しによって運ばれていたが、
やがやがて陸送にとってかわられ
ていく。
昭和12-15年(1937-1940)。
写真116


写真117
117.松茸山で客の接待に使う道具
を頭の上に載せて運んでいる。
昭和16-17年(1941-1942)。
岩倉上蔵。


写真118
118.山科の土を清水焼きの窯元へ運んでいるところか、当時このあたりで
作っていた砥の粉の運送か。昭和24年(1949)。山科から京都への峠。



119.雪のくぼ地からの
脱出に懸命のバス乗務員。
昭和24年式
いすずBX91車輌。
昭和25年(1950)頃。
写真119


写真120
120.雪の中、荷物を運ぶ
おばさんたち。
昭和26 年(1951)頃。
花背か。



121.八瀬から大原へ若狭
街道を行く大八車。運送店
でもないかぎり、一般の人
にとっての主な運送手段は
まだまだ大八車であった。
昭和28年(1953)頃。
写真121


写真122
122.上世屋までのバス路線
延長歓迎風景。昭和2 9 年
(1954)4月6日運行開始。



123.道路は曲がりくねり、
舗装されておらず、ガードレ
ールもない。走っているバス
は現在の丹後海陸交通バス。
昭和30 年(1955)9月。
峰山町と久美浜町をつなぐ
比治山峠。
写真123


写真124
124.運送店の枝ハンドル
オート三輪車。
昭和31年(1956)。
上京区笹屋町智恵光院橘公園前。



125. 運送店正月初出勢ぞろい。
昭和35年(1960)1月4日。
二条城前。
写真125


写真126
126.木を運び出すための木馬路。
昭和33年(1958)頃。鞍馬。


写真127
127.昔は木を運び出すのに木馬道を使っていたが、その木馬道に入りこんだ
トラックに木を載せている。
昭和33年(1958)頃。鞍馬。



128.荷物を背中に背負ったおばさん。
このような姿もしだいに見られなく
なっていった。
昭和36年(1961)頃。西陣。
写真128


写真129
129.過疎が続いた村里。
38年豪雪の時、約半月余り
道路が閉鎖状態になり、生
徒は通学できず、病気の処
置にも困り、京都府知事の
助言により、疎開。
昭和48年(1973)か49年
(1974)秋。弥栄町味土野。





  以上、運搬手段、交通手段の発展を見た。車が本格的にはいり始めたのが大正時代。船に動力エンジンがつけられるようになったのも大正時代。昭和に入ると、運送屋や乗合自動車にも車が使われるようになる。そして道路、トンネル、鉄道などがますます整備され、木材の運搬も筏流しから陸送に移っていく。車の浸透は、第二次世界大戦によって一時期止まるが、昭和25年(1950)頃からまたバス会社や運送屋において復活してくる。しかし一般の人が物を運ぶ場合は、頭上に載せたり、背負ったり、大八車、リヤカーを使うのがおもであった。ところが昭和35年(1960)頃からは、一般の人にも車が浸透し、道がさらに整備されていく。そしてそのことによって人々の暮らしが激変したのであった。





[10]暮らしの変化を可能にしたものとしての石油

 では運搬手段、交通手段の発達を可能にしたものは何であったのか。それは石炭、石油、天然ガスなどの化石燃料ではないか。機械化・工業化にしても、それを可能にしたのは石炭、石油、天然ガスなどであろう。化学繊維やプラスチックにしても、その登場を可能にしたのは石炭や石油である。化学肥料や農薬の生産にも石油が用いられている。雑木林がなくなっていったのも、化石燃料を使うようになり、雑木林がその経済的価値を失ったからである。また、急激な都市化が可能になったのも、化石燃料を安価に大量に使用できるようになったからである。もし化石燃料を使用できず、現在の大都市に生活する人たちの燃料を木に頼るとするなら、山はすぐに丸裸になるであろう。さらに、化石燃料を燃やしてつくられる電気、あるいは原子力発電所でつくられる電気がなければ、電灯がつかず、電話を使えず、コンピューターを使えず、エレベーターも動かないが、そうなると高層ビルなど、不便極まるものである。現代の大都市の誕生は、

燃料の確保がなければ、不可能なのである。
それゆえ、長い間あまり変わることなく続けられてきた人々の暮らしを大きく変え、現代の便利な生活を可能にし、人間に自分の身のほどを越えることもできると思い込ませているのは、石炭や石油や原子力、とりわけ石油であると言えるのではないであろうか。そしてその石油、石炭などの大量消費が酸性雨、地球温暖化などを引き起こし、原子力発電所の事故などによってまき散らされる放射能が土や水を汚染しているのである。
 また、石油、石炭、原子力などが可能にした人間の活動の拡大が、森林の減少、砂漠化の進行、フロンガスによるオゾン層の破壊などを引き起こし、大量のゴミを産みだしている。そして今や、人類の活動規模が生命圏としての全地球の許容度を超えてしまっているのではないかと危惧されるようになってきているのである。
 さらにまた、石油などが可能にした現代の便利な生活が、善きにつけ悪しきにつけ、共同体のあり方を変え、子どもの社会も変えてしまったのではないであろうか。



おわりに

どの時代の人間であれ物質的に豊かで便利な暮らしを求めてきた。しかし何事も人力で、あるいは家畜の力、水力、風力で行い、共同作業を必要としていた時代には、たとえ物質的に豊かで便利な暮らしを求めても、自然環境の変化、人間関係の変化はさほど深刻にはならなかったのである。ところが化石燃料、あるいは原子力を用いることができるようになると、われわれは自然支配をさらに進め、物質的に豊かで便利であることを求める気持ちを制御できなくなり、ここ数十年に自然環境の変化、人間関係の変化が急激に進み、その変化がさまざまな問題を引き起こしたのである。
 問題が深刻になれば、昔の暮らしを取り戻そうとする動きがやがておのずと出てくるかもしれない。事実、年配の人に「幸福に感じたのはいつ頃か」と尋ねると、それは1960年代であり、それから後は幸福とはいえないという答えが帰ってくることが多い。1960年代というと、車や機械が日常生活に導入され始めたばかりのころである。日々便利になっていくと感じられたので、そのように思った人が多くいるのかもしれない。それにしても、社会全体が1960年代程度の便利さの生活をしても、幸福と感じる人がかなりいるのではないか。そして社会全体が1960年代程度の便利さの生活をすれば、自然環境はそれほど悪化しないと言われている。
 しかし若い世代の人にしてみれば、車や機械があるのは当然のことである。それに老人世代にしても、車や機械がある生活にあまりにもひたりきっているので、今や彼らが車や機械なしに生活することなど、不可能になっている。また、石油ストーブを使わず、山の手入れをして、薪ストーブを使おうとする人もいるが、薪の入手と保管に問題がある。こうしてほとんどだれもが、車や機械があるのは当然のことであり、化石燃料を使うのも当然と考え、その結果、たとえ環境が急速に悪化していき、


人間関係もどこかおかしくなり、そして物質的に便利で豊かな生活が環境にとって悪く、人間関係にとっても何かしらよくないということがわかっていても、そのような生活をやめられずにいるのである。
 日本における暮らしの化石燃料への依存度は、アメリカのそれのそれに比べればまだ低いと思われるかもしれない。しかし他の国の人には、日本の便利な暮らしは、アメリカの暮らしと同様、過度に便利であると見えているのではないであろうか。われわれは自らの暮らしを考えなおす必要があると思われる。ところで、自らの暮らしを考え直すのに、日本は、アメリカと比べると比較的有利な位置にあるのではないか。アメリカでは、機械化が1930年頃から少しずつ進んだので、その変化の過程を覚えている人はあまりおらず、現在の機械化された便利な暮らしがあたりまえであり、それに感謝するということもあまりない。その点、日本では1930年代に機械化が少し始まったものの、戦争のためにその動きが止まり、1960年代から急に機械化が進んだので、変化の過程を覚えている人も今ならまだたくさんいる。昔の地域共同体のあり方が持つ良さも悪さもよく知っている人が今ならまだたくさんいる。われわれは、学ぼうと思えば、そのような人や古い写真から自然環境、人間関係がどのように変化したのかを学べるのである。
 われわれはそのようにすることによってその変化の過程をしっかりと見つめ、われわれが機械化によって何を得て、何を失ったのかを考えなければならないであろう。太陽光など、環境に悪い影響を与えないエネルギーの有効利用を考えることはもちろん大切なことである。それとともに、われわれが過度に便利な暮らしに慣れきってしまうまでに、現代の暮らしを自然環境の面からも人間関係の面からも見なおし、これからどういう方向へ進むべきかを考えなければならないのではないか。




◎参考文献

京都府立総合資料館編(1970):京都府百年の年表,3,京都府.
京都府立総合資料館編(1971):京都府統計資料集,4,京都府.
中村治編著(1995):洛北岩倉誌,岩倉北小学校創立20周年記念事業委員会.
下川耿史編(1997):昭和・平成家庭史年表,河出書房新社.
中村治編著(1999):洛北岩倉研究3,岩倉の歴史と文化を学ぶ会.
下川耿史編(2000):明治・大正家庭史年表,河出書房新社.
中村治(2000):京都洛北の原風景,世界思想社.
日本の100年(2000),第4版,国勢社.
中村治編著(2002):洛北岩倉研究6,岩倉の歴史と文化を学ぶ会.




◎写真所蔵者

1. 村田杢太郎氏所蔵。
2. 松尾正氏所蔵。
3. 世界人権問題研究センター所蔵。
4. 古川章氏所蔵。
5. 松尾正氏所蔵。
6. 松尾正氏所蔵。
7. 松尾正氏所蔵。
8. 堀内義和氏所蔵。
9. 板垣大子松氏所蔵。
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