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「新選組」の名称
「新選組」の名は文久3年8月18日の政変以後、その功労により賜ったもので、それまでは「壬生浪士(組)」「会津藩御預浪士(組)」等と称されていました。しかし、新選組となった後も暫くは他の名で呼ばれることが多く、「壬生浪士」と称されたり、江戸で同じ頃に結成された「新徴組」(幕府が江戸に戻った浪士組を改めて再編し、庄内藩にその指揮を委任して江戸市中の取締にあたらせたもの)との誤認もありました。
展示資料はいずれも池田屋事件の発端となった枡屋喜右衛門(古高俊太郎)の逮捕に関するものですが、新選組の名をいただいて10ヶ月もたっているのに新選組とは記されていません。
幕末風聞書留
「幕末風聞書留」 大國家文書(寄託資料)
<解読文>
六月五日
昨昼後四条真町江向ケ壬生浪士様之
者八人・下部三人罷越、枡屋喜右衛門
方ニ而、土蔵ニ有之候左之品
武着類
兜 桑方 壱ツ 桃成形 壱ツ
鎧 弐ツ
陣笠取合 五ツ計
    ( 以下 略 )
人のうわさ
「人のうわさ」
<解読文>
一当月五日夜中、俄ニ長印と申立浮浪潜伏先江
討手之義ハ先日申上候通り御人数ニ而、右露顕相成
候義ハ壬生御旅宿松平肥後守殿預り新徴組、
浪士事柄相分り候よしと申義ハ、右組内之衆ニも
荷担被致候もの在之よし、兼而探索罷在候手入
先左々
                 二条新町東入町
                      木薬渡世
此喜右衛門義者、至而学者ニ而      枡屋 安兵衛
元ハ山印気立之ものニ而、        父 喜右衛門
先年より高瀬四条上ルずしニ隠宅罷在候、

右喜右衛門方江、天誅組浪士類ト長印之内発頭
之もの中国筋ニ罷在候三百人之手付之類ひ、手
寄江集会致候、先ニ而同人新徴組へ当六月朔日
捕込候上、吟味致候事実相分り候義左ニ
    ( 以下 略 )