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歴代の京都府知事

初代 長谷信篤(ながたにのぶあつ)

就任期間:慶応4年(1868)閏4月~明治8年(1875)7月

文政元年(1818)、藤原氏の子孫高倉家に生まれ、桓武平氏の子孫、刑部卿長谷信好の養子となる。明治新政府の参与、議定、大津裁判所総督を経て、京都府知府事(初代京都府知事)に任命された。温厚な人柄で、長州藩士広沢平助、松田道之(のちの初代滋賀県知事)らを起用して民政に当たった。明治4年(1871)には槙村正直(第2代知事となる)を起用、以降は彼が事実上の府政を掌握した。退任後元老院議官、貴族院議員などをつとめる。

第2代 槙村正直(まきむらまさなお)

就任期間:明治8年(1875)7月~明治14年1月

天保5年(1834)、長州生まれ。明治元年、維新政府の役人として京都府に着任し、京都府大参事を経て明治8年(1875)7月、京都府権知事となり、同10年に知事となる。山本覚馬ら有識者を重用して果断な実行力で文明開化政策をすすめ、我が国初の小学校をはじめ舎密局、博物館、女紅場、画学校、外国語学校、貧民授産所などを次々と設立。近代国家の体制ができあがり、地方政治の制度が整ってくると、彼の裁量権の幅もしだいに縮小し、やや強権的な政治手法は、新たにできた府会などとの対立もひき起こした。退任後、元老院議官に転出。

第3代 北垣国道(きたがきくにみち)

就任期間:明治14年(1881)1月~明治25年7月

天保7年(1836)、但馬国生まれ。開拓権判事、元老院少書記官などを経て、京都府知事に着任。北垣知事も勧業政策に重きを置いたが、槙村時代の強権手法と異なり、府会や府民も巻き込みながら老練に府政を推進した。在任11年の間、琵琶湖疎水建設、京都商工会議所創設など数々の実績をあげた。文字どおり骨を埋める覚悟で京都府の発展に力を尽くし、退任の送別会には1200人もの人が参加して別れを惜しんだ。のち内務次官、北海道庁長官となり、晩年は「静屋」と号して京都で自適生活を送った。

第4代 千田貞暁(せんださだあき)

就任期間:明治25年(1892)7月~明治26年11月

天保7年(1836)、鹿児島生まれ。鳥羽伏見の戦いに従軍し、東京府大書記、広島県令などを経て京都府知事となる。「容貌魁偉、性剛毅」といわれた。広島県時代は宇品港築港、新潟県時代には石油の機械採掘に力を尽くした。京都府では北垣知事の後を受け、京都ー舞鶴間鉄道の許可、京都府農事講習所の設置などを行うほか、「綱紀粛正・庁内の刷新」にも乗り出した。退任後、貴族院議員となる。

第5代 中井弘(なかいひろし)

就任期間:明治26年(1893)11月~明治27年10月

天保9年(1838)、鹿児島生まれ。幕末と明治のはじめに二度にわたり欧州に留学、西郷隆盛に従軍したこともあった。工部大学校書記官、滋賀県知事、貴族院議員を経て京都府知事となる。滋賀県時代は時の北垣京都府知事とともに琵琶湖疎水建設にあたった。京都府知事在任中は「京都三大問題」(遷都千百年記念祭、第四回内国勧業博覧会、京都舞鶴間鉄道の建設)に力を尽くしたが、在任中脳出血で倒れ、これらの完成を見ずして亡くなった。

第6代 渡辺千秋(わたなべちあき)

就任期間:明治27年(1894)10月~明治28年10月

天保14年(1843)、長野生まれ。明治維新では倒幕運動に参加。鹿児島県・滋賀県知事などを経て、中井弘知事の急死によって急きょ京都府知事に着任した。滋賀県知事時代は「大津事件(ロシア皇太子襲撃事件)」の収拾に力を発揮するなど、行政手腕は高く評価されていた。在任の1年あまりの間は日清戦争の最中であり、中井前知事からの継続事業である「京都三大問題」の実現など、執務は多忙をきわめた。退任後は宮内大臣となる。

第7代 山田信道(やまだのぶみち)

就任期間:明治28年(1895)10月~明治30年11月

天保4年(1833)、熊本生まれ。幕末は尊王攘夷の志士として活動、福島県・大阪府知事などを経て京都府知事に着任。在任中には京都帝国大学開設、奈良鉄道・京都鉄道開通、京阪神間の電話の開通など、着々と近代化が押し進められるほか、京都市内の道路拡張、水利事業などへの足掛かりをつくった。退任後は松方正義内閣の農商務大臣となる。

第8代 内海忠勝(うつみただかつ)

就任期間:明治30年(1897)11月~明治33年3月

天保14年(1843)、山口生まれ。幕末は志士として蛤御門の変にも参加した。明治4年(1871)、岩倉遣欧使節に随行し、地方制度などを視察、各府県知事を経て京都府知事となる。在任中には京都府に郡制が施行されたほか、北垣知事時代以来続いていた市制特例(東京・京都・大阪は政治的に重要な都市なので、市長は府知事が兼任し、自治権を大幅に制限)は撤廃された。退任後は貴族院議員、内務大臣となる。

第9代 高崎親章(たかさきちかあき)

就任期間:明治33年(1900)3月~明治35年2月

嘉永6年(1853)、鹿児島生まれ。約25年間警察畑で活躍したあと、各府県知事を経て京都府知事となる。着任後1年間はなぜか沈黙していたが、その後人員整理、事務刷新、農事開発など積極策を打ち出し、文部省の教育方針に対して 「地方の状況を知らずして全国一様のことをしようとしても無理だ」と注文をつけるなど、数々の逸話を残した。また、渡辺知事時代以来の懸案だった府庁舎改築について、府会の承認にこぎつけている。退任後は大阪府知事となる。

第10代 大森鍾一(おおもりしょういち)

就任期間:明治35年(1902)2月~大正5年(1916)4月

安政3年(1856)、静岡生まれ。兵庫県知事、内務総務長官などを経て京都府知事となる。在任中、京都府庁舎の改築や大正の御大典を迎えている。大森知事は、市部については基本的に京都市に任せ、淀川、木津川、桂川、竹野川や舞鶴港の改修、織物試験場の創設など、農村経済の振興に力を入れた。在任期間が長く、槙村・北垣についで、府民に親しまれた知事でもあった。その功績から退官後親任勅偶を得、皇后宮大夫となった。

第11代 木内重四郎(きうちじゅうしろう)

就任期間:大正5年(1916)4月~大正7年5月

慶応元年(1865)、千葉生まれ。農商務省局長、朝鮮総督府農商工部長官などを経て京都府知事となる。木内知事は積極府政をすすめ、在任2年の間には、府立女子師範学校の桃山移転、植物園の着工、農事試験場・農林学校の下鴨移転、野田川の改修、府立工業高校の設置など多くの事業を起こした。「僕のやることはみな正義だ。府民のため国家のためだ」と、大規模な構想を打ち出しては府会の大騒動をひき起こし、その仕事ぶりは「木内式」と呼ばれた。味方も多かったが敵も多くつくり、汚職事件で足をさらわれて失脚。のちに故郷で自適生活を送った。

第12代 馬淵鋭太郎(まぶちえいたろう)

就任期間:大正7年(1918)5月~大正10年7月

慶応3年(1867)、岐阜生まれ。明治26年(1893)に官界入りし、各県の書記官、知事を歴任後、京都府に着任。府営電気水道事業、巨椋池干拓、丹後の漁港建設事業などを提案する一方で、米騒動の収拾にもあたった。その後、市長不在で粉糾する京都市会から請われ、知事を退官して京都市長となる。監督官庁の長官が監督される側にまわるケースは前例がなかったが、「市会がわしを推挙したのかね、人生は意気に感ずるのみだよ、意気あえば官界をすてても何でもやるよ」と語った。温厚な人柄であったという。

第13代 若林賚蔵(わかばやしらいぞう)

就任期間:大正10年(1921)7月~大正11年10月

慶応元年(1865)、新潟生まれ。はじめ警察畑を歩み、のち各県知事を歴任して京都府に着任。第一次大戦の反動恐慌のもと、緊縮財政の中で郡部の道路改修などを進めたほか、部落改善奨励規定を公布した。若林知事は一見田舎紳士風で、馬淵前知事(京都市長)と大学時代の友人だったこともあり、好感をもって迎えられたが、一方で頑固一徹、典型的官僚ともいわれ、府会になかなか顔を出さなかったり、「議員ごとき野人の分際で」などと発言し、粉糾させたりもした。退官後は大礼使事務官、奈良帝室博物館評議員などを務めた。

第14代 池松時和(いけまつときかず)

就任期間:大正11年(1922)10月~大正13年12月

明治6年(1873)鹿児島県生まれ。滋賀、和歌山、大阪の各府県知事を歴任し、京都府に着任。この時期は政党政治が本格化し、地方長官(知事)も政党色が強くなっていた。京都府では農村部が政友会、都市部が憲政会という構図になっていた。池松知事は政友会系知事として知られ、京都府知事在任中も、郡部の道路拡張、蚕糸業の保護育成に積極的に力を入れた。茫洋たる風格を持ち、性格は正直・淡泊であったという。官界を去ってからは都ホテル会長などを務めた。

第15代 池田宏(いけだひろし)

就任期間:大正13年(1924)12月~大正15年9月

明治14年(1881)、静岡県生まれ。第10代知事・大森鍾一の女婿でもある。内務省河川課長、鉄道院理事、社会局長官などを歴任後、京都府に着任。都市計画の専門家として東京市の市政に参与したこともあり、京都においても治水交通調査会を設置した。その他、府立農学校に全国唯一の茶業科を設置、宮津水産講習所に指導船を新造するなど、郡部の振興をも図った。退任後は神奈川県知事、東京市政調査会理事などを務めた。

第16代 浜田恒之助(はまだつねのすけ)

就任期間:大正15年(1926)9月~昭和2年(1927)4月

明治3年(1870)、高知県生まれ。憲政会系知事として知られ、原敬政友会内閣のときには浪人生活を送った。憲政会が勢力を取り戻すと官界に復帰し、広島県知事を経て京都府知事となる。在任は半年あまりであったが、府立女子専門学校の新設、府立医大・第一中学校の改築などを行った。昭和2年(1927)3月、丹後大震災が発生し、その対策に追われる最中、若槻礼次郎憲政会内閣は崩壊し、田中義一政友会内閣により浜田知事は休職となった。

第17代 杉山四五郎(すぎやましごろう)

就任期間:昭和2年(1927)4月~昭和2年7月

明治3年(1870)、新潟県生まれ。官界に入って欧米に留学、神奈川から衆議院に立候補して当選したこともある。大正10年(1921)宮城県知事となるが健康を害して辞職、官界の道をあきらめ悠々自適の生活を送っていたが、娘婿の父・鈴木喜三郎内相の縁で京都府知事となる。震災復旧事業の具体化に走り回り、補助金の獲得に成功したが、ついに一度も府会に出席しないまま、3ヶ月後には内務次官に転出していった。たいへんな酒豪で、感激すればすぐ泣く情熱家であったという。

第18代 大海原重義(おおみはらしげよし)

就任期間:昭和2年(1927)7月~昭和4年7月

明治15年(1882)、滋賀県生まれ。第12代馬淵知事時代に京都府内務部長を務め、政友会系知事として山梨県、岡山県などを歴任、内務省神社局長を経て京都府知事となった。在任期間は2年足らずだが、その間舞鶴港の修築、京阪・京津国道改築など数々の大事業を行い、昭和天皇即位大典の晴れ舞台も務めた。さらに、歴代知事が口には出したが実行しなかった三部制経済(京都府財政を市部・郡部・連帯の三つにわける制度)の撤廃を成し遂げた。しかし、田中義一政友会内閣総辞職とともに官界を去った。

第19代 佐上信一(さがみしんいち)

就任期間:昭和4年(1929)7月~昭和6年10月

明治15年(1882)、広島県生まれ。内務省大臣秘書官、神社局長などを務め、岡山・長崎県知事、地方局長を経て京都府知事に着任した。政友会色が濃かったにもかかわらず、時の浜口雄幸民政党内閣が彼を京都府知事に据えたのは、三部制経済撤廃の後始末に他に適任者がいなかったことや、彼が地方制度のプロだったことによるが、本人は不偏不党をモットーとした。佐上知事の予算は模範予算といわれ、不況にあえぐ府民の救済にも効果を挙げた。また懸案であった伏見市ほか26町村の京都市への編入も実現させた。退任後、北海道庁長官に転出。

第20代 黒崎真也(くろさきしんや)

就任期間:昭和6年(1931)10月~昭和6年12月

明治11年(1878)、山形県生まれ。内務省で長く地方や植民地まわりを経験し、田中義一政友会内閣で休職、浪人生活ののち浜口雄幸民政党内閣で復活し、山口・新潟県を経て京都府知事に着任。ちょうど府会の改選で民政系が大勝し、黒崎知事の前途は順風満帆に見えた。しかし財源難から府立女子専門学校の廃止を府会に提案して各方面から大反対にあってしまい、その最中に満州事件が起こって第2次若槻礼次郎内閣が崩壊、知事も休職となり在任78日の最短記録をつくった。このあと服部奉公礼次郎会理事をつとめる。

第21代 横山助成(よこやますけなり)

就任期間:昭和6年(1931)12月~昭和7年6月

明治17年(1884)、秋田県生まれ。各県知事などを務め、京都府に着任。内務省警保局長時代、昭和天皇即位大典で京都に来たこともある。着任のあいさつでは「京都は人情風俗とも美しいところだ。府会は民政派で多数を占めているようだが、府民の世論を同派だけが代表していると決めるわけにもいくまい」と対決をほのめかしたが、5・15事件で犬養毅政友会内閣が崩壊し、ついに府会に出席する機会のないまま転任した。のち東京府知事、警視総監、貴族院議員となる。「献策居士」の異名をもち、趣味は将棋とゴルフ。

第22代 斉藤宗宜(さいとうむねのり)

就任期間:昭和7年(1932)6月~昭和10年1月

明治14年(1881)、静岡県生まれ。各府県の知事を歴任。京都府知事に着任したころは、不況のどん底にあえぐ農村と都市の商工業者の救済が大きな課題になっていた。知事は苦しい財政の中、巨椋池干拓事業、幹線産業道路10ヶ年計画、農村の振興、教育の充実など多くの勧業政策を成し遂げ、「産業知事」と呼ばれて府会や府民にも好感を持たれた。また昭和9年(1934)の室戸台風による風水害の復旧にも力を注いだ。昭和10年、人事異動で勇退を求められた知事は、さわやかに辞表を提出したといい、この潔さが在任中好評を博した一つの理由でもあった。

第23代 鈴木信太郎(すずきしんたろう)

就任期間:昭和10年(1935)1月~昭和11年4月

明治17年(1884)、山形県生まれ。各県知事を歴任したが、内務省入りして26年、異動のはげしい地方官生活で一度も浪人生活をしなかったのは、政党政治の間をたくみに縫う保身術を心得ていたからといわれる。京都府在任は1年3ヶ月だが、昭和10年(1935)の二度の大風水害では復旧事業に力を注いだ。内務省・大蔵省との折衝に精魂をかたむけ、鴨川改修費用の高率補助金を獲得して「京都百年の治水」を実行に移したことは、鈴木知事が京都に残した最高の功績だった。知事勇退後は済生会常務理事などを務めた。

第24代 鈴木敬一(すずきけいいち)

就任期間:昭和11年(1936)4月~昭和14年4月

明治22年(1889)、東京府生まれ。内務省で長く警察畑を歩み、熊本・広島県知事を経て京都府知事となる。鈴木信太郎前知事から引き継いだ鴨川改修をはじめ、高野・御室・天神川改修など、治水問題に取り組んだ。このほか中小の商工業者の救済、福知山・舞鶴・東舞鶴三市の市制施行、教育の振興、軍事援護・赤十字事業などにも力を注いだ。昭和初期の知事の中では比較的長い在任で、「石橋をたたいて渡る」堅実派だったが、温厚誠実さと仕事に対する熱意は府民の間にも好感を持たれた。退官後、住宅金融公庫総裁などを務めた。

第25代 赤松小寅(あかまつことら)

就任期間:昭和14年(1939)4月~昭和15年4月

明治23年(1890)、静岡県生まれ。内務省土木局長、福岡県知事などを経て京都府に着任。おもだった事業は警察官・消防員の増員、実業学校の振興、生産力の増強、道路の舗装などで、しだいに戦時予算の性格が大きくなっていった。在任1年足らずで勇退したが、「わずか一年間の短い期間で府民にたいしたことも出来ずにすまないと思うが、年来の懸案であった桂川河川統制事業が緒についたこと、京都の伝統である工芸品の貿易振興の仕事を推進したことはせめてもの喜び」と語った。後任の川西知事とならび、労働問題に詳しい知事でもあった。

第26代 川西実三(かわにしじつぞう)

就任期間:昭和15年(1940)4月~昭和16年1月

明治22年(1889)、兵庫県生まれ。ジュネーブの国際労働会議帝国事務所に事務官として駐在していたことがあり、内務省の中でも労働問題の権威といわれた。着任のあいさつでは「妻は岩滝町の生まれなので、まんざら(京都府に)縁がないこともない」と語ったが、7月にはぜいたく品を禁止する「七・七禁令」が出て、京都府の産業界は死活問題に直面。その処理にあたっている最中、知事は東京府知事に異動した。その後大日本育英会理事長などを務め、戦後は弁護士を開業。スポーツマンとして知られ、外交官顔負けの流暢なフランス語を話したという。

第27代 安藤狂四郎(あんどうきょうしろう)

就任期間:昭和16年(1941)1月~昭和18年7月

明治26年(1893)、大分県生まれ。三重県知事、内務省土木局長・警保局長を経て平沼騏一郎内閣のとき京都府知事となる。在任期間の2年6ヶ月は日本にとってまさに多事多難な時期で、日中戦争は泥沼化し、太平洋戦争に突入した。府庁の組織も戦時色が濃くなり、もともと厳しい財源も戦時経済への切り替えでいっそう厳しくなった。この間、農業生産力の強化、転廃業者の救済に取り組み、由良川改修事業で大蔵省との折衝に努力し、着工にこぎ着けている。退官後は大丸顧問、東九州自動車社長などを務めた。

第28代 雪沢千代治(ゆきざわちよじ)

就任期間:昭和18年(1943)7月~昭和19年4月

明治22年(1889)、長崎県生まれ。内務省都市計画課長、愛知県知事などを経て京都府に着任。「決戦体制の整備確立を指導精神として、防空施設の充実、食糧や重要物資の生産増強、国民生活の安定確保、教育の刷新振興その他直接戦争遂行上必要なる事項」に重点を掲げ、その中で、道路の修理、災害を防ぐ施設の建設、結核対策などに取り組んだ。また中学校がなかった北桑田郡に農林学校を新設している。戦局が日増しに苛烈さを加える中、四国地方行政協議会会長・愛媛県知事に転出、戦後は衆議院議員となる。

第29代 新居善太郎(あらいぜんたろう)

就任期間:昭和19年(1944)4月~昭和20年6月

明治29年(1896)、栃木県生まれ。内務省地方局長などを経て京都府知事となる。着任の頃、すでに本土への空襲がはげしくなっていたが、その中で建物疎開、治安の維持、伏見港の修理、干ばつの応急対策などに取り組んだ。府会では知事の式辞に議長が「議場すなわち戦場と心得、全機能を快速、慎重なる審議を遂げる」と答辞を述べたが、まさに議場も戦場の一部と化しつつあった。戦局が最終段階に向かう中、新居知事は大阪府知事に転出していった。

第30代 三好重夫(みよししげお)

就任期間:昭和20年(1945)6月~昭和20年10月

明治31年(1898)、広島県生まれ。内務省警保局長、情報局次長などを経て、京都府知事に着任。すでに国内の主要都市は焦土と化し、1月に京都市内、6月には舞鶴市が空爆を受けていた。三好知事は「空襲下の府会」といわれた昭和20年(1945)7月臨時府会で「勝利は目前にあり」と述べたが、迫っていたのは敗北であった。運命の8月15日を京都府庁で迎えた三好知事は、進駐軍の受け入れ、10月8日に襲った大水害の後始末に追われている最中、幣原喜重郎内閣の副書記官に異動していった。のちに公営企業金融公庫総裁、自治省特別顧問となる。

第31代 木村惇(きむらあつし)

就任期間:昭和20年(1945)10月~昭和22年3月

明治24年(1891)、宮城県生まれ。外務省出身で、アメリカ大使館書記官、マニラ総領事、ポーランド大使館一等書記官を歴任。進駐軍との折衝に必要な高度の語学力を買われ、戦後初の地方長官大異動で京都府知事に着任した。歴代知事のほとんどが内務官僚だった京都府に新風をもたらし、また温厚な人柄で府民に敬愛された。知事は戦後初の府会で、リンカーンの言葉を引用しながら「府民のためを思い、府民の手によって運用する府民の政治をし、160万府民の代表者として大任を果たしたい」と訓示した。2年後には初の知事選挙に出馬するために退官した。

第32代 山本義章(やまもとよしあき)

就任期間:昭和22年(1947)3月~昭和22年4月

明治29年(1896)、鳥取県生まれ。各県の警察部長、総務部長を経て陸軍司政長官となり、ジャワ・ジャカルタ州長官を務める。昭和22年(1947)3月、初の知事選挙出馬のため退官した木村前知事のあと「最後の官選知事」として、新しい知事が決まるまでの約1ヶ月間、京都府知事を務めた。知事選挙は昭和22年4月に行われ、明治以来の官選知事はここに幕を引いた。退官後は東京で弁護士を開業、日本コンクリート工業顧問などを務めた。

第33代 木村惇(きむらあつし)

就任期間:昭和22年(1947)4月~昭和25年4月

京都府は昭和22年(1947)の地方選挙、地方自治法施行によって、まったく新しい性格の地方公共団体として生まれ変わり、初代公選知事には元官選知事の木村惇が選ばれた。木村知事は食糧増産を中心に、農村振興対策、林業対策、国土復興を重点目標とする「産業五ヶ年計画」をすすめ、京都府立西京大学(現在の京都府立大学)の設立も行った。戦後の混乱の収拾にもあたり、財源を確保するために府営競輪を開催するなど苦心の府政を行った。辞任後は京都証券取引所理事長などを務めた。

第34代~第40代 蜷川虎三(にながわとらぞう)

就任期間:昭和25年(1950)4月~昭和53年4月

明治30年(1897)、東京に生まれる。京都帝国大学経済学部助教授、教授、経済学部長を歴任。芦田均内閣の中小企業庁長官に招かれたが吉田茂内閣になって辞任、昭和25年(1950)4月、公選第2代として京都府知事に当選。以後28年間の長期にわたって京都府政にあたった。財政再建に力を注ぎ、中小企業振興、長田野工業団地・大野ダム・丹後半島一周道路・丹後縦貫林道の建設などを推進。農業・教育政策では独自色を打ち出した。昭和53年、8選を前に引退し、「過去はすべて美しく、幸せ」と語った。経済学博士で、統計学の権威としても知られる。

第41代~第42代 林田悠紀夫(はやしだゆきお)

就任期間:昭和53年(1978)4月~昭和61年4月

大正4年(1915)、京都府生まれ。農林省に入り、農林大臣官房長、近畿農政局長などを経て昭和41年(1966)参議院議員に当選し、商工委員長などを歴任した。昭和53年4月、京都府知事に当選。府内の交通網整備、農地整備、関西文化学術研究都市構想を推進し、広く府民の声を聴くための「移動府庁」の開催など積極政策を打ち出した。また府立医科大学診療施設や府立高等学校の充実、私学振興や社会福祉対策などに力を尽くした。昭和61年に退任し、再び参議院議員を2期、法務大臣を務めた。

第43代~第46代 荒巻禎一(あらまきていいち)

就任期間:昭和61年(1986)4月~平成14年4月

昭和6年(1931)、福岡県生まれ。昭和29年自治省に入り、京都府教育委員会管理課長、京都府総務部長、国土庁長官官房参事官、消防庁総務課長などを歴任し、昭和53年5月に京都府副知事に就任。昭和61年4月、第43代京都府知事に当選し、4期を歴任。副知事時代から日吉ダムの建設に力を尽くしたほか、関西文化学術研究都市・京都縦貫自動車道などの建設、平安建都1200年記念事業や京の川づくり事業、ブランド化による農林水産業の振興などを推進。府域の均衡ある発展のため、「公平・公正で安心・安全な地域社会づくり」を推進した。

※2000年作成「世紀をむすんでひらく展覧会 京都府この100年」より抜粋

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電話番号:075-414-4010

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