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京都府レッドデータブック2015

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地質のロゴマーク地質の概要

基盤岩について

京都府の地質は、白亜紀以前の地質構成と新生代古第三紀以降の地質構成とに大きく2分して分類されることが多い。それは白亜紀以前の地質が先カンブリア時代の陸塊とその東側に発達した収束帯から構成されるのに対して、新生代の地質の多くが大陸基盤の上に発達した浅海ないし陸水成の堆積岩や火山岩から構成されているためである。以下、基盤岩については先カンブリア系より新しく白亜系までのものについて述べる。ただし、大陸東縁におけるいわゆる「中生代後期酸性火成活動」とされてきたものは、白亜紀にとどまらず古第三紀にまで及んでいる。具体的には丹後半島に広く分布する宮津花崗岩類が相当する。ここではそれも含めて基盤としてまとめる。

基盤岩の構成

西南日本の地帯構造は、中央構造線を境に内帯と外帯に大区分されており、京都府域には内帯の諸地帯が分布する。それらは日本海側より、飛騨外縁帯(三郡帯)、志高帯、舞鶴帯、超丹波帯、丹波帯、領家帯(尾崎ほか 1995)となる(八尾 2009)。このうち飛騨外縁帯は宮津花崗岩類の貫入と生野層群等の酸性火山岩類や新第三系の被覆により、同地帯構成岩類の地表への露出がなく、志高帯との境界は不明瞭である。以下各地帯を構成する地質について述べる。

京都府における基盤地質の地帯構造部分 図1 京都府における基盤地質の地帯構造部分
(尾崎ほか 1995を参考にした)

京都府における基盤地質の地質年代柱状図 図2 京都府における基盤地質の地質年代柱状図
(日本の地質6、1987、Nakajima,1992、楠、丹波地帯研究グループ 2013などを参考にした)

飛騨外縁帯

北部地域には丹後地域が含まれており、飛騨外縁帯と志高帯との境界は宮津花崗岩類分布の南限付近とされている。前述したように、宮津花崗岩類の貫入と生野層群等の酸性火山岩類や新第三系の被覆により、基盤岩の露頭はない。ただし、新第三系の堆積岩中には稀に変成岩礫が見出されることがある。例えば、京丹後市丹後町袖志海岸沿いの崖に分布する含礫砂岩層や、丹後縦貫林道の汐霧山附近の礫岩層には変成岩礫が含まれている。

志高帯

中部ペルム系下見谷層および大浦層が本地帯に属する(なお、図1および図2では志高帯は従来どおり舞鶴帯として示している)。

下見谷層は主に酸性凝灰岩、頁岩、砂岩により構成され、赤色珪質凝灰岩やチャートの一部にはペルム紀中世のコノドントや放散虫化石群集を産する(Ishiga、Suzuki 1984)。岩相は岡山県美咲町柵原地域の舞鶴層群下部層に類似し、含有する放散虫化石も類似している(Nishimura and Ishiga 1987)。下見谷層はチャート層を含む点で舞鶴層群とは異なることから、かつて秋吉帯(中国帯)として舞鶴帯から区分された(鈴木 1987、Hayasaka 1990)。しかし、下見谷層の岩相や地質構造の特徴が秋吉帯とも異なるため、下見谷層を別の志高帯としている(鈴木 2009)が確定していない。下見谷層分布域には仏性寺の深成モリブデン鉱脈鉱床があるが、これは宮津花崗岩の活動にともなうものである。

大浦層は舞鶴市西部から内浦半島にかけて分布し、緑色岩、チャート、泥岩、砂岩よりなる。緑色岩は海嶺玄武岩起源と島孤起源のものが知られている(登坂 1989、Ishiwatari and Hayasaka 1992)。年代は不詳であるが、下見谷層の東方延長に当たり、志高帯とされている(鈴木 2009)。

舞鶴帯

舞鶴市から西南西に福知山市金山・川口地域に至る狭長な地帯で、幅は20kmほどである。夜久野複合岩類、中・上部ペルム系舞鶴層群、下・中部三畳系夜久野層群、上部三畳系荒倉層、難波江層群で構成される。北西側より夜久野岩類、舞鶴層群、夜久野層群、舞鶴層群、難波江層群と荒倉層、夜久野岩類の帯状配列が認められる。なお、舞鶴附近の北西縁部には以上の帯状配列に加え、大江山超塩基性岩体が分布している。

大江山超塩基性岩体はダンかんらん岩、ハルツバージャイトを主体とするもので、この中にダンかんらん岩、ウェールライト、単斜輝石岩、はんれい岩などのブロックが含まれている(Kurokawa 1985)。海洋基盤のオフィオライトとされている。なお超塩基性岩の年代は、放射年代測定によって430~460Ma(オルドビス紀)のものである事が明らかになっている(Nakajima et al 1993)。このことから、同岩体は飛騨外縁帯のものとする見解がある(Ishiwatari 1993)。超塩基性岩体にともなう金属鉱床には、銅、ニッケル、クロム鉄鉱がある。それぞれの鉱床は宮津花崗岩にともなう深成鉱脈鉱床、超塩基性岩の残留鉱床、超塩基性岩の一部とされている。

夜久野複合岩類は、舞鶴帯の北帯と南帯に分布する。北帯では圧砕花崗岩を主とし、変輝緑岩をともなっている。圧砕花崗岩は舞鶴花崗岩(猪木 1959)と呼ばれ、アダメロ岩質のものが多く、舞鶴帯固有の花崗岩と考えられている(早坂 2009)。このほか、福知山市大江町北部には黒雲母片麻岩、角閃岩などの河守変成岩が分布し、舞鶴市大浦半島には、はんれい岩質層状複合岩体がある。舞鶴市志高では中下部三畳系志高層群が夜久野岩類を不整合で覆っている。なお、Nakajima et al.(1993)は中舞鶴の餘部付近の玄武岩が島弧ソレアイトであることを明らかにした。南帯の夜久野岩類は主として変はんれい岩、変玄武岩などの塩基性岩である。このほかに超塩基性岩類、トロニエム岩などの酸性岩、黒雲母片麻岩などをともなう。福井県大飯郡おおい町の超塩基性岩から玄武岩に至る一連のオフィオライト岩体については、通常よりも厚い海洋地殻であるとされている(石渡 1978、Ishiwatari 1990)。変はんれい岩については241~278Ma(ペルム紀)の放射年代が出されている(Shibata et al 1977)。このように舞鶴・綾部・福知山地域の夜久野塩基性岩類については、全体としてホットスポットの影響のある島孤背後の縁海での噴出が考えられている(Ichiyama and Ishiwatari 2004)。

舞鶴層群は舞鶴では下部層から上部層が分布する。それらはほぼ中・上部ペルム系である。下部層は玄武岩、塩基性凝灰岩を主とし、黒色泥岩をともなう。黒色頁岩よりペルム紀中世の放散虫化石が見出されている(栗本、木村 1985)。中部層は黒色泥岩、岩片質砂岩、礫岩を主とする。黒色泥岩の珪質部からはペルム紀新世の放散虫化石が、石灰質細礫岩からはLepidolina kumaensis層準のフズリナが産し、同層準の石灰質泥岩や石灰質砂岩からは腕足類や二枚貝化石が産する。上部層は黒色泥岩を主とし、砂岩、暗色石灰岩が挟まれる。これにはペルム紀新世後期のフズリナ、有孔虫、腕足類が産する。また、福知山市大江町公庄には礫岩、砂岩、泥岩層からなる公庄層があり、ペルム紀新世最後期の二枚貝、腕足類などの化石を産する。舞鶴層群下部の玄武岩には、キースラーガー型の銅鉱床が見られる。舞鶴層群は夜久野複合岩類の噴出場や舞鶴花崗岩の存在を含めて考えると、島孤・背孤海盆堆積物と考えられている(早坂ほか 1996、八尾 2009)。

夜久野層群は舞鶴層群を不整合で覆う、下~中部三畳系である。下部層は礫岩、砂岩、泥岩からなるが岩相変化が激しい。三畳紀古世の二枚貝やアンモナイトを産する。上部層は細粒砂岩をはさむ泥質岩で、三畳紀中世前期の二枚貝やアンモナイトを産する。上部層の砂岩組成は、超丹波帯氷上層砂岩の砂岩組成区と重なっている(楠 2012、2013)。

舞鶴市志高の志高層群は厚い砂岩、礫岩を主体とし泥岩をともない、二枚貝などを産出する。堆積環境は浅海から陸成相で石炭層を挟んでいる。石炭層は志高炭田として第二次大戦後しばらくの間採掘された。志高層群は舞鶴花崗岩を不整合に覆い、夜久野層群と同時異相とされている。志高地域の採石場の層理面にはリップルマークが縦横数十メートルにわたって認められる。

荒倉層は舞鶴市荒倉、鹿原に露出し、黒色泥岩、砂岩からなる。三畳紀新世カーニアンの二枚貝、アンモナイトをともなう。夜久野層群よりも年代が新しく、上位の難波江層群によって不整合に覆われる。

難波江層群は舞鶴層群の南側で南帯の夜久野岩類との間に狭く分布する。泥岩、砂岩を主体とし、礫岩をともなう。石炭層を挟む事もある。また、N2層は明灰色の特徴ある石英質砂岩である。多くの層準で三畳紀新世カーニアンの二枚貝の化石を産する。浅海相が多いが、陸成相を示す部分もある。このN2層の砂岩は年代、岩相、化学組成やモード組成の特徴において一致する砂岩が、丹波帯Ⅲ型地層群のコンプレックス境界付近で見いだされている(楠 2012)。

超丹波帯

超丹波帯はCaridoit et al.(1985)によって新たに提唱された地質帯である。北西側の舞鶴帯と南東側の丹波帯に挟まれた狭長な地帯で、福井県の小浜市西部の片江鼻付近から綾部市淵垣、福知山市石原、穴裏峠を通って、兵庫県丹波市青垣町に分布し、さらにその延長は岡山県に至る。当初、Caridoit et al.(1985)はリボン状チャート層およびせん断変形の著しい薄層の細粒砂泥互層を超丹波帯構成岩としたが、Ishiga(1986)は南東縁の塊状圧砕砂岩(氷上層)を含めて超丹波帯構成層とした。その後、木村ほか(1988)は綾部西部地域の超丹波帯大飯層相当層を北西側のチャート、砂岩泥岩からなる淵垣層(北帯)、せん断の著しい砂泥薄互層からなる十倉層(中帯)とし、塊状の圧砕砂岩からなる氷上層(南帯)の3帯に区分した。福知山地域においても同様に3帯に区分されている(栗本、牧本 1990)。各帯は断層によって接している。このほかに京都府南部の西山から大阪府北部の北摂山地、兵庫県東部の篠山市にも超丹波帯相当層が、丹波帯Ⅲ型地層群の上位にナップとして綾部・福知山とは離れて分布している。このため超丹波帯を綾部・福知山(北帯・中帯・南帯)の北部地域とナップとして離れて分布する南部地域に分けて述べる。

北部地域

北帯の淵垣層は最下部の緑色岩、石灰岩を挟む層状チャート、層状チャート、凝灰質珪質頁岩、泥岩と砂岩からなる(武蔵野ほか 1987)。チャート層下部はペルム紀古世であり、チャート層上部および凝灰質頁岩はペルム紀新世の放散虫を含んでいる(Ishiga 1985、 武蔵野ほか 1987)。

中帯の十倉層はせん断変形の著しい薄層の細粒砂泥互層である。キンク褶曲がよく発達し、偏光顕微鏡下ではプレッシャーシャドウが発達する。砂岩はやや石灰質な岩片質砂岩である。年代は不明である。

南帯の氷上層は塊状のポーフィロクラスティック構造を示す圧砕砂岩である。栗本(1986)によって福知山地域の氷上層砂岩に挟在される黒色泥岩より、ペルム紀新世の放散虫化石が抽出されているが、化石の保存状態が悪くその年代は確定的ではない。構造的下位にある丹波帯の中古生界とは断層で接しており、境界付近のせん断はとくに著しく小浜市西部の片江鼻海岸に丹波帯との境界である衝上断層の模式的な露頭がある。砂岩はやや石灰質で、中粒の石質~長石質砂岩である。

南部地域

北帯類似岩相:北摂山地の高槻市北部では山下層が分布する。山下層はペルム紀新世の整然層で、岩相・岩質・化学組成が淵垣層とほぼ一致する(武蔵野 1996、楠、丹波地帯研究グループ 2013)。また、年代もペルム紀新世であるため超丹波帯に含められている。京都府における山下層の分布はない。

中帯類似岩相:京都西山から北摂山地に分布する整然層の高槻層砂岩と兵庫県篠山市南部の味間層の岩相、岩質、化学組成、モード組成、年代がほぼ一致(楠、武蔵野 1992、武蔵野 1996、菅森 2006、楠、丹波地帯研究グループ 2013)し、十倉層に相当する(楠、丹波地帯研究グループ 2013)。高槻層の最下部では現地性の緑色岩をともなう整然層として再定義され、島孤類似の堆積物とされた(楠ほか 2011、2013)。十倉層の年代は不詳であるが、高槻層と味間層の年代がペルム紀新世である(菅森、2006、Sugamori 2011)ことから十倉層も同年代と推定される。京都府における高槻層の分布は、亀岡市西別院地域に限られる。

南帯類似岩相:氷上層に類似する砂岩は、京都市と長岡京市西部に分布する丹波帯三畳系の本山寺コンプレックス砂岩に含まれ、岩相、岩質、化学組成、モード組成において一致している(楠 2012、2013)。前述のように氷上層の年代は未確定であるが、本山寺コンプレックスが三畳紀古世後期~中世(宮地ほか 2005)であることから、氷上層も同年代と考えられている。また氷上層、本山寺コンプレックス砂岩、夜久野層群砂岩は同じ砂岩組成区に含まれている。
これら南部地域に分布する超丹波帯類似の岩相は舞鶴帯の砂岩組成区に含まれることから、舞鶴層群上部と超丹波帯構成岩は堆積相の異なりを表していると推定されている(楠 2012、2013)。

超丹波帯構成岩類は木村(1988)によって付加体とされた。しかし、超丹波帯北部域はそれらが島孤、背孤海盆(縁海)堆積物とされる舞鶴帯構成岩類に密接にともなうこと、砂岩の化学組成の多くと砂岩組成区が舞鶴帯の構成堆積岩と一致すること(武蔵野 1996、楠 2012)、超丹波帯の岩相はおもに整然相で、高槻層が島孤周辺の堆積物の可能性が高いこと(楠ほか 2011、2013)、メランジュに類似する破断相が認められ、層序、石灰岩の岩相、化石相などから、舞鶴帯に近い島孤、背孤海盆堆積層の閉鎖にともななって形成された地帯とされている(八尾 2009)。

丹波帯

舞鶴帯と領家帯の間に分布する地帯は松下(1953)によって丹波地帯とされ、古生界の丹波層群が分布するとされた(Sakaguchi 1961)。1965年以降、丹波帯はおもに丹波地帯研究グループ(1969、1971、1974、1975、1979a、1979b、1980、1990)により、精力的に調査されたが、1970年代には層状チャートより三畳紀のコノドントが見出され、松田(1976)は、丹波帯北部において三畳系の存在とオリストストロームの存在を報告した。さらに1980年代に入ると、チャート層の一部と頁岩層からジュラ紀の放散虫が抽出される(田辺、丹波地帯研究グループ 1982)におよんで、丹波層群の年代が大きく変化した。

また、丹波帯を構成する丹波層群が大きく二つのグループに分割され、主に三畳―ジュラ系からなる相対的に地質年代の新しいⅠ型地層群の上に、灰屋川衝上断層(順序外スラストとされる)を挟んで、石炭―ジュラ系からなる地質年代の古いⅡ型地層群が乗り上げた2階建てを成すナップ構造が明らかとなった(石賀 1983、Imoto 1984)。その後、日本列島のような変動帯の生成機構については地向斜造山運動の考え方からプレートテクトニクスによる付加体へ変化するに至り、丹波層群を構成する付加複合された堆積物を復元すると、海洋プレート層序(深海底や海台玄武岩ないし海洋島玄武岩→遠洋性堆積物の層状チャート→含放散虫珪質頁岩→頁岩、砂岩へと変化する岩相層序)であるとの理解が進んだ(井本、八尾 1986)。この海洋プレート層序復元によって、丹波帯のナップ構造はさらにⅠ型地層群は二つ(Nakae 1990、木村ほか 2001)に、Ⅱ型地層群は三つ(楠、武蔵野 1989、丹波地帯研究グループ、1995)に細分されることが多い。これらの構造は、丹波帯の北西側に分布する舞鶴帯、超丹波帯も含めた大構造を形成している可能性が指摘された(Ishiga 1990、Ishiwatari 1990)。また、三畳紀の示準化石であるモノチスが露頭で発見(下西、丹波地帯研究グループ 1983)されて以来、京都西南部において丹波帯の三畳系ユニットの存在が指摘されていた(本田輝政、丹波地帯研究グループ 1991、宮地ほか 2005)が、最近ではⅡ型地層群の上位に三畳系のⅢ型地層群が設定されるようになった(楠、丹波地帯研究グループ 2007、2013)。以下に丹波のナップ構造を構成する各地層群ごとの地質について述べ、その形成場について触れる。

Ⅰ型地層群は、三畳紀古世の珪質粘土岩(砥石型珪質頁岩)に始まり、三畳紀中世からジュラ紀中世の層状チャート、ジュラ紀新世の含放散虫珪質頁岩、雲母質黒色頁岩、石英質砂岩(タービダイト)が累重する層序を示す。珪質粘土岩(砥石型珪質頁岩)より下位の緑色岩は、付加過程に生じた断層(デコルマ面)で切られて、沈み込んでしまい、より上位の地層が繰り返す「はぎ取り付加」の形成過程を示す(Kimura and Hori 1993、木村 2000)が、まれに緑色岩が見られる場合もある。珪質粘土岩(いわゆる砥石型頁岩)は黒色の炭素質頁岩やチャート層を挟在し、生物の大量絶滅をともなった古生代―中生代境界(P/T 境界)直後の堆積物として特異なものである。また、三畳紀新世のチャート層の中に、緑色岩や細粒石灰岩が挟まれることがあり、コノドントや六射サンゴを含んでいる。後述するⅡ型地層群とは低角の衝上断層(灰屋川衝上断層で代表される)で境され、構造的下位に分布する。その後の褶曲形成と削剥によって、おもに背斜構造の形態をしたアンチフォーム部に分布している。

Ⅱ型地層群は、石炭紀(およびペルム紀)の海山および海台起源の緑色岩、石炭-ペルム紀層状チャートないし石灰岩、三畳紀古世珪質粘土岩、三畳紀中世から三畳紀新世ないしジュラ紀中世の層状チャート、凝灰質珪質頁岩、黒色頁岩、砂岩が累重する。Ⅱ型地層群はさらに細分され、下位のユニットから上位のユニットへ砕屑岩の年代が古くなる。これは丹波層群がプレート収束帯における、海洋プレートの大陸プレート下への沈み込みにともなって、「底付け付加」の形成過程によって出来上がった覆瓦構造と考えられている(木村 2000)。その後の褶曲形成と削剥によって、おもに向斜構造の形態をしたシンフォーム部に分布している。

Ⅲ型地層群はペルム紀の緑色岩類、ペルム紀中世~三畳紀中世のチャート、暗緑~黒色の頁岩、砂岩よりなる。珪質頁岩より三畳紀の放散虫化石を産出(本田、丹波地帯研究グループ 1991)し、下部の出灰コンプレックスと上部の本山寺コンプレックス(菅森(2006)で島本層とされたものを含む)の二つに細分されている。上位のものほど砕屑岩の年代が古い。かつてⅡ型地層群とされた二つ(宮地ほか 2005)を武蔵野、丹波地帯研究グループ(2007)は広域対比のTIIdおよびTIIe と呼んだ。しかし、構成岩を復元すると海洋プレート層序から成るが、様々な点で外帯との共通性を示すⅠ・Ⅱ型地層群と異なるため三畳系のⅢ型地層群とされた(楠、丹波地帯研究グループ 2007、2013)。京都府内では京都市西京区南西部、長岡京市西部、大山崎町の西山山地南部にのみ分布する。出灰コンプレックスの上部ポンポン山には東西によく連続する砂岩層が認められ、舞鶴帯難波江層群のN2層の砂岩に岩相、岩質、化学組成、モード組成、年代が一致する(武蔵野 1992、楠、武蔵野 1992、宮地ほか 2005)。本山寺コンプレックス内の砂岩は超丹波帯南帯の氷上層に岩相、岩質、化学組成、モード組成が類似し、丹波帯最初の付加体と考えられる。このようにⅢ型地層群には舞鶴帯や超丹波帯の構成岩と岩相、化学組成、モード組成、年代の一致する特徴ある砕屑岩類が認められ、それらは供給源は同じで、背弧海盆や海溝などのように堆積位置(堆積相)の異なりを示すものと考えられている。

丹波帯には堆積時あるいは堆積後の続成時に生成したと考えられる層状マンガン鉱床が胚胎される。多くのものがⅠ型地層群分布域のジュラ紀古世から中世の層状チャート中に存在する。菱マンガン鉱や二酸化マンガン鉱を主体とするが、熱変成等を受けて種々の珪酸マンガン鉱物が生成している。領家帯に近い井手町や和束町のものでは領家変成作用を受けて、マンガン珪酸塩鉱物が生成されている。かつて200か所以上知られたマンガン鉱山は現時点ですべて閉山している。

Ⅱ型地層群とⅢ型地層群の出灰コンプレックスには小規模な石灰岩体が分布しており、海山周辺の石灰岩と考えられ、化石を含む事が多い。これらの石灰岩はかつて石灰の原料として採掘されたことがある。

深熱水性鉱床としては含タングステン石英脈が存在する。丹波層群の各所に白亜紀の花崗岩体が露出しているが、それらの活動と関連して生成したものである。数地域で採掘されたが現在はすべて閉山している。

舞鶴帯と超丹波帯の構成岩類が島孤、背孤海盆の造構場で生じたとされていることから、丹波帯ではそれら島孤、背孤海盆の海洋側において、三畳紀中世頃に生じた沈み込み帯でⅢ型地層群の付加体が形成され始めた。この丹波の付加複合体の形成は三畳紀中世頃から白亜紀初期まで続き、ジュラ紀後期以降に生じた順序外スラスト(灰屋川衝上断層)によってⅡ型地層群がⅠ型地層群の上位に累重してナップ構造となり、丹波帯の主要な構造ができあがった。

領家帯

領家帯は丹波帯の南側幅50kmほどの地帯で各種の花崗岩と変成岩が分布している。

京都府域では、笠置付近、木津川の東西の谷を通る木津川構造線を境に変成度が大きく変わるため、一般に木津川構造線以南を領家帯とするが、変成作用は北側の丹波帯にまで及んでいる。変成分帯では北から黒雲母粘板岩帯、複雲母千枚岩帯、片状ホルンフェルス帯、珪線石片麻岩帯に分けられている(中島 1960、Kutsukake 1973)。変成岩の源岩は丹波層群の黒色泥岩や層状チャートである。黒雲母粘板岩帯は宇治田原町南部にある。そこでは、丹波層群の黒色泥岩はより剥離性に富み、剥離面には炭素質の径数mmの薄い円盤状の点紋が認められる。複雲母千枚岩帯は丹波帯南縁の和束町あたりから南は木津川構造線までである。泥質千枚岩には、黒雲母と絹雲母が含まれている。片状ホルンフェルス帯は主に木津川に沿う狭い地帯で、北部は菫青石を含み、南部は紅柱石、珪線石を含む片状ホルンフェルスである。珪線石片麻岩帯主部は笠置町以南であり、紅柱石を含まず、白雲母、珪線石を含む片麻岩である。

京都府下の領家帯花崗岩類は、古期と新期に二分されている(中島 1960、尾崎ほか 2000)。古期のものは笠置町以南に分布する狭川花崗岩、須川花崗閃緑岩、勝風トーナル岩である。これらは強い片麻状構造をもち、片麻岩の構造と調和的である。新期のものは笠置町東部、南山城村に広く分布する柳生花崗岩と和束町南部の木屋花崗岩、笠置町南部の阿保花崗岩がある。柳生花崗岩はバソリス状岩体で中、粗粒黒雲母花崗岩、花崗閃緑岩およびトーナル岩で、放射年代は70~110Ma である。木屋花崗岩や阿保花崗岩は塊状中粒ないし細粒黒雲母花崗岩でザクロ石を含むことがある。

白亜紀・古第三紀花崗岩類

前述した領家帯以外にも、京都府下には大小の花崗岩体が分布する。西南日本の花崗岩の帯状区分(Ishihara 1977)では、北側の山陰帯、磁鉄鉱系と南側の山陽帯、チタン鉄鉱系に分けられる。

山陰帯の花崗岩としては、丹後半島に広くバソリス状に宮津花崗岩が分布する。粗粒から中粒、塊状の黒雲母花崗岩が主体で岩相変化が少ない。宮津花崗岩にともなうペグマタイトから珍しい放射性鉱物や希元素鉱物が発見されている。K-Ar 年代は45~55Ma を、Rb-Sr 年代では65~68Maを示し、古第三紀のものである。なお宮津花崗岩は、京丹後市網野町、弥栄町、丹後町にまたがる地域と福知山市夜久野町の北部とで、白亜紀新世ないし古第三紀の酸性火山岩類(矢田川層群相当層)を貫いている。

山陽帯の花崗岩としては、比叡花崗岩体や行者山花崗岩体があげられる。このうち比叡岩体は主に黒雲母花崗岩からなり、花崗斑岩、花崗閃緑斑岩、苦鉄質岩に貫かれている。副成分鉱物として褐簾石を普遍的に含んでいる。放射年代は100~78Maを示すが若い年代は岩脈類の貫入による若返りの可能性が高く、近傍の比良花崗岩体より古い(周琵琶湖花崗岩団研 2008)。行者山花崗岩体は大谷花崗岩ともよばれ、黒雲母花崗閃緑岩を主とし白雲母を一部に含み、K-Ar 年代は93Maを示す。

比叡・行者山の両花崗岩体はいずれも、周囲の丹波層群に熱変成を与えており、菫青石ホルンフェルスなどを生じている。とりわけ、亀岡市の行者山花崗岩体近くの桜石は有名である。

これらの花崗岩体のほかに、小規模な花崗岩質岩体が丹波帯の各所に露出する。それらのうち白亜紀古世の放射年代を示す小岩体の花崗岩類が丹波帯の中・東部、南部に点在する。南丹市日吉町生畑、京都市左京区花背・鞍馬、井手町大峰などの花崗閃緑岩、石英閃緑岩ないしトーナル岩が主なものである。これらは化学的な性質からアダカイト質マグマから形成されたものとされた(貴治、湯川 1993、貴治ほか 1995、貴治ほか 2000、村田ほか 2000)。また、岩体はⅠ型地層群とⅡ型地層群の境界近傍のⅠ型地層群中にのみ露出し、波長20~30kmの正立褶曲構造の形成後、褶曲の翼部やヒンジ部に発達した裂罅に沿って貫入したものと考えられる(Kiji and Murata 2003)。アダカイト質火成岩を産出するテクトニクス場は高温の若い海洋プレートや海嶺が沈み込んでいる沈み込み帯に限定されている。このことから、アダカイト質マグマは海洋プレートの部分溶融起源説が有力であったが、下部地殻の部分溶融(周藤、小山内 2002)をはじめ、さまざまな成因が検討されている。現在、白亜紀古世丹波帯のアダカイト質マグマの生成は次のように推定されている。

南部秩父帯や四万十帯の海洋プレート層序などを考慮すると、100Ma 頃の海洋プレートはスラブ溶融を起こすほど若くはなく、東アジアにおいてはジュラ紀に低角で沈み込み、白亜紀初期にスラブのロールバックが生じたことが推定される(君波ほか 2011)。丹波帯における白亜紀古世のアダカイトの形成は、スラブのロールバックにともなうプレート下のアセノスフェアの上昇に起因する可能性がある(今岡ほか 2011、Imaoka et al., 2014)。

執筆者 楠利夫、貴治康夫、武蔵野實

新生代(界)

新第三紀中新世・鮮新世

京都府内の中新統層序 図3 京都府内の中新統層序

京都府内の新生代の地層、岩石は、白亜紀から新生代にわたる酸性火成活動を別にすれば、大陸東縁に割れ目が入って日本海ができるとき以来の火山活動の産物と堆積物(与謝層群と北但層群、伊根層群、内浦層群)、ならびに東からの中新世海進の堆積物(綴喜層群)に始まる(図1、2参照)。紀伊半島南部の新生代古第三紀層(系)は付加体をつくっているが、先に述べた府内の地層、岩石は基盤岩の上に乗った被覆層である。それらは新第三紀中新世というデータはあるが、大陸東縁に割れ目が入ったのは古第三紀に始まるようで、そのあたりの府内のようすはわかっていない。丹後半島の新第三系は中新世・鮮新世の火山噴出物を多くともうが、京都府南部にはそれらはともなわない。しかし、大阪府や奈良県には「瀬戸内火山岩類」がある。それらとの関係で、陸地であった時代の川砂利層(東山礫層、小長尾礫層、ソノハ礫層、大福礫層、木屋峠礫層、観音寺礫層、信楽礫層、北又礫層)の一部が京都府内にもあり、断片的ではあるが当時のようすを推測できる。

京都府内の鮮新統層序 図4 京都府内の鮮新統層序

与謝層群と北但層群、伊根層群

丹後半島の新第三系は新第三紀層下部の安山岩類と礫岩、砂岩、頁岩が700mの厚さに達することが1927年の奥丹後地震の後に調査された(津屋1928)。広川、黒田(1957)はこれを与謝層群と呼んだが、兵庫県北部の但馬地域から研究してきた池辺ほか(1965)、弘原海ほか(1958)は北但層群(弘原海、松本 1958)に含めた。しかしながら、丹後半島中央部から東部へかけて研究した東(1977)は世屋層を識別して、但馬よりも福井(糸生累層、国見累層)との関連を明らかにした。

山陰―北陸地域の新第三系は「グリーンタフ地域」に属するとして研究されてきたが、近年の知識では、古第三紀漸新世に大陸東縁に割れ目が入り安山岩類の大量の噴出と陸成層の堆積があった。それは能登から東北にかけてで、丹後は東に動いたゾーンに位置している。その後、中新世に入って割れ目が拡大し、玄武岩質安山岩、酸性火山活動と地層の堆積があった。それらは下位から、等楽寺礫岩層、弥栄火山岩層、世屋層と呼ばれている。この上位に礫岩砂岩層が厚くあり、陥没があったといわれたことは、中新世の割れ目拡大のようすを示すと解釈できる。海進(豊岡層)はこの後にあり、西南日本の時計回り回転はその後にあった。それが中新世中期の約1,500万年前といわれている。しかし、海進はもっと早くにあったというデータが北陸各地にあり、なお研究課題である。北但層群の海生貝化石を産する地層と下位の礫岩層、火山岩層は、夜久野町北西縁山地でもほぼ水平にある。

このような地質イベントの年代は、地磁気極性や酸素同位体比編年との細かい対比ができる精度に到っていない。とくに丹後では近年の研究が進んでいないが、山元、星住(1988)は伊根町から京丹後市丹後町にかけて中新世中期の火山活動について研究し、北但層群(下位から八鹿層、豊岡層、網野層、丹後層)の上に伊根層群(下位から大原層、新井層、蝙蝠岳層)を識別し、その上の経ケ岬安山岩を含めて多くのK-Ar年代を報告している。

内浦層群

舞鶴市北東端、福井県西端の内浦湾をとりまいて海成層と安山岩が重なる中新統が内浦層群である。福井県地質図および同説明書(1955)に始めてこの名が使われ、広川、黒田(1957、1958)が記載した。この層から初めてビカリア化石を発見した市原(1953  MS)が、京都大学の卒業論文でこの層をMiddle Mioceneとし、かつ内浦層群と名づけるとしている。前記した福井県地質図(1955)は、地質調査所が県から依頼されて作成したもので、その説明書の引用文献には市原の卒論(1953 MS)も挙がっているので、内浦層群の名はそこからきているだろう。本文ビカリア・ゲロイナの項で述べるように、マングローヴ沼貝化石群を産する。これは汎地球規模の中期中新世温暖期に相当することを示す。

綴喜層群

池邊(1949)は宇治田原村の第三紀層を綴喜累層と呼び、その西部湯屋谷付近の250m厚さの地層について岩質と化石層序を記載した。松下(1953)は綴喜層群としている。石田ほか(1954)は全域を調査して、西部で250m厚さ、東部で205m厚さの地層の層序を明らかにし、地質図を発表した。その貝化石については、Itoigawa(1956)の研究がある。これは「瀬戸内」あるいは第一瀬戸内累層群に属する海成層とされてきた。石田(1979)は中国地方と近畿・東海の海成中新統は瀬戸内海のように連なることはなかったことを示し、古地理図作成を試みたが、海進の進んだ時期の海岸線推定は困難であった。西南日本が大きく時計回りに回転する前の堆積物である。

小長尾礫層

小長尾礫層は曽爾層群の下部層で、その上に、ふろの谷層、室生火山岩の順に乗る。奈良県宇陀郡曽爾村小長尾を模式地とし、厚さ20m、中~大礫大の溶結凝灰岩円礫を含む(志井田 1952)。これは琵琶湖付近の「湖東流紋岩」礫と考えられ、奈良市東部地獄谷層群石仏凝灰岩下位の東山礫層の延長と考えることができる。室生火山岩は西南日本回転の直前の噴出とされている。中新世中期のほぼ1,500万年前、海が東へ退き、琵琶湖付近の山地から大きい礫を大量に運ぶ川があり、室生で噴出した火砕流はその川を遡って奈良の東部にまで達したことがわかる。京都府内は当時丹後は海域で、火山活動も盛んであったが、南部では木津町の古寺凝灰岩(16Maフィッショントラック年代)が基盤の花崗岩の上に乗っているのみである。これは前記石仏凝灰岩とは鉱物組成が異なるという(河村、中山 1989)。石仏凝灰岩は軽石流堆積物であり、細粒降下火山灰である古寺擬灰岩とは全く異なる産状を示す。これらの礫層は府内では発見されていないが、湖東流紋岩礫を含む礫層という点でとくにここに記した。

ソノハ礫層

奈良市東部地獄谷層群の上に乗り、三笠安山岩(1,300万年前)の下にある、中-大礫大の溶結凝灰岩円礫を含む礫層である(粉川 1954)。京都府内では木津町上梅谷の南から加茂町西小西方にかけての丘陵をつくっている礫層がこれである。二上層群上部の原川累層中に挟まれる厚さ5~10mの礫層がこれに対比される。この時期に琵琶湖付近の山地からの川は奈良付近から二上山の方に流路をとっていた。西南日本が時計回りに約50度回転した直後と考えられている。ただし、前記室生火山岩と二上層群との年代についてはなおいろいろなデータが出されているので、原川累層中の礫層はソノハ礫層でなく小長尾礫層であるということも考慮する必要がある。

大福礫層・木屋峠礫層・観音寺礫層・信楽礫層・北又礫層

湖東流紋岩礫を含む古山城川(飯田 1980)の礫層で、大津市関津から南へ宇治田原町大福、和束町犬打峠、小屋峠(木屋峠礫層)を経て、木津川市加茂町と木津町にまたがる観音寺礫層へ連なる。また、東方の信楽(信楽礫層)と上野盆地(北又礫層)にもあり、古山城川はあるときは大福から信楽へ、あるときは和束町から笠置町を経て、南山城村大字田山周辺に広がった。北又礫層は三重県島ヶ原や上野市に広がる古琵琶湖層群下部の伊賀粘土層の上にのり、甲賀累層に覆われている(横田ほか 1978、石田 1983)。またあるときは、加茂町・木津町境界の観音寺峠付近から二上山北麓の屯鶴峰へと流路をとった。その時代は、古琵琶湖層群下部の信楽礫層が約300万年前ということで、鮮新世の琵琶湖付近の山地からの最後の河川のようすを示している。この時、泉南には大阪層群最下部層が堆積していた。河村(1993)は観音寺礫層を木津町・加茂町を含む奈良丘陵の大阪層群の基底礫層としている。大福礫層は南山城村に広がる古琵琶湖層群下部、泉南の大阪層群最下部層に連なるものであるが、ここでは大阪層群に含めないでおく。

須知層

丹波自然運動公園付近にある、淘汰のよくない固結礫岩で、野外研究の経験からだけであるが、第三紀層と判断される(井本ほか 1991)。丹波山地中の盆地は第四紀更新世中期の断層ブロック運動でできたと考えられるが、それ以前の地表のようすを示すものである。

新第三紀鮮新世から第四紀にかけての堆積物については、大阪層群、古琵琶湖層群が詳しい情報を示す。京都府内の丹波・丹後地域については、それらのような長い時代にわたって積み重なった地層がないため、また礫層が多く情報が限られているため、詳しい年代がわからないことが多い。

例えば、由良川流域の日藤礫層、三日市礫層、在田礫層などが詳しい年代の情報がない地層である。それらのうち日藤礫層は80m高度の尾根にあり、福知山盆地形成前の瀬戸内海へ南流していた古由良川支流の堆積物ということは理解できる。しかし、その年代については、盆地形成直前のものか、はるか前のものか不明である。また、福知山の土師層は盆地形成により堆積した福知山層の下にあり、日藤礫層と同一時代のものであるかどうかは、盆地形成以前の地形を知る上で貴重である。三日市礫層、在田礫層はともに由良川右岸にあるが、段丘地形をつくらず、風化の進んだ礫層である。福知山盆地形成前の古由良川支流の堆積物と考えられるが、日藤礫層は高所にあるのに対してこれらは川沿いの丘陵にある。これらの時代の詳細はなお研究課題である。

大阪層群、新第三紀鮮新世・更新世前-中期

大阪、奈良、京都、播磨盆地に堆積した鮮新・更新統で、盆地周辺の丘陵で見ることができる。大阪盆地南部、すなわち和泉山脈から淡路島の諭鶴羽山地の北麓丘陵にその最下部の地層が厚くあり、次いで基盤地質構造帯の領家帯の地域に広がる。市原(1999)は大阪層群最下部を福田火山灰以下としている。

大阪層群は河川、湖沼の堆積物に途中から12層以上の大阪湾が拡大したときの海成粘土層(内湾堆積物)を挟む。それらは下位から番号をつけてMa 1、2、3という。海成粘土層は露頭で見て何番かはわからない。すなわちMarker bedである。大阪層群には多くの火山灰の薄層が挟まれていて、鍵層になる。火山灰層と海成粘土層との組み合わせによって、正確で詳細な層序、層準を知ることができる。海成粘土層は大阪湾に海進があった時の堆積物で、河川・湖沼層のときはそれらが紀伊水道北部の河口で海にそそいでいた。前者は海面上昇期、温暖期、間氷期で、後者は海面下降期、寒冷期、氷期に当たる。一方、深海底コア中の微化石の酸素同位体比は氷期に大きく、間氷期に小さい。酸素同位体比曲線の大小のピークには、新しい方から酸素同位体期1、2、3と番号がつけられた。その1は後氷期、縄文海進に当たり、奇数番号が間氷期、偶数が氷期を示す。

そこで、大阪層群の海成粘土層と深海底酸素同位体期との対比ができる(図5、6参照)。その場合、地磁気極性編年と浮遊性微化石・ナンノ化石の出現(First Appearance)・絶滅(Last Occurrence)時期が対比に基準を与える。ブリュンヌ/松山境界(78万年前)はMa 4の下底で、ナンノ化石のPseudoemiliania lacunosa L. O. (18O Stage12、44万年前)とEmiliania huxleyi F. A. (18O Stage8、27万年前)とが大阪湾底のボーリングコアでわかった(中世古編 1984)。

ただし、それらは海成粘土層中にあるので、前者は氷期に大洋で絶滅する前の間氷期である18O Stage13、後者は氷期に大洋で出現した次の間氷期である18O Stage7ということができる。しかしながら、大阪湾へのナンノプランクトンの進入は、大洋でのL. O. 、F. A.に対応せず、これらの対比は厳密になりたたないことがわかった。

これは、のちに神戸の海岸部で採掘されたボーリングコアのMa 8・カスリ火山灰との関係が明らかになったことにより、アカガシ花粉多産帯(Furutani 1989、Miyoshi et al 1999)と酸素同位体期とを対比することができた。それは琵琶湖底堆積物の火山灰層序(横山 1986、横山、西田 1987、吉川、井内 1991)と酸素同位体期との対比を可能にし、大阪湾地域のボーリングコアの大阪層群最上部の火山灰層準(Ogura et al. 1992、吉川ほか 1993、宮川ほか 1996)についても年代が確かになった。

阿蘇1火山灰(町田、新井 1992)は、酸素同位体期8に対比される。そして、大型植物化石群の時代についても、断層ブロック運動・満池谷不整合(藤田 1990)が酸素同位体期12にあったこと(石田 2000)と関連して、アデク層(Miki et al. 1957、高谷、市原 1961)、ラリックス層(Miki 1941)は、各々酸素同位体期11と12に対比される可能性が高い。このように従来の野外研究結果と一致してきた。言いかえれば、従来の野外研究結果と深海底酸素同位体期との対比に困難があった。そこで、新しい対比(吉川、三田村 1999)に基づいて、矛盾点の再調査が必要となった。

大阪層群と深海底酸素同位体期 図5 大阪層群と深海底酸素同位体期(吉川、三田村 1999 一部改変)と京都府内の大阪層群
*京都府内の大阪層群を丘陵名でその層準を示す。

京都府内の第四紀中期以後の岩石・地層と大阪層群、酸素同位体期 図6 京都府内の第四紀中期以後の岩石・地層と大阪層群、酸素同位体期

京都府内の大阪層群

京都盆地と山城盆地という語の定義が問題にされることがある。京都府内の大阪層群はその最下部層が南部地域の山城中部・相楽地域にある。西側のものは京田辺市の甘南備山周辺から南の田辺丘陵と、精華町と木津町西部の平城丘陵である。三田村(1992)は八幡丘陵まで含めて京阪奈丘陵と呼んだが、ここでは彼のいう平城丘陵を狭義に京阪奈丘陵と呼ぶ。東側のものは、宇治・城陽丘陵と奈良市北部から木津川市を含む奈良丘陵である(河村 1993)。

田辺丘陵の普賢寺火山灰層(横山編 1978)、城陽丘陵の鴨谷火山灰層(市原編著 1993)が大阪府岸和田市の福田火山灰層で、175万年前に飛騨山脈(北アルプス)の穂高岳付近から噴出した火山灰で、西は淡路島や明石の北まで降下火山灰の上に流れ下った層も乗っているという(Yoshikawa et al 1995、長橋ほか 2000)。これは滋賀県の琵琶湖博物館の場所のボーリングでも860mの深さにあり、現在の琵琶湖南部地域が175万年前には、深い湖ではなかったが広大な平地・河川・湖沼地域であったことを示す。その広大な平地・河川・湖沼地域は琵琶湖南部から幅20km~30kmで南西方に延び、大阪付近からは幅40kmで西方へ延びる。この低地は現在南北性山地によって分断されているが、当時は南北性山地がなかったと考えられる。琵琶湖と京都・奈良の間の音羽山・醍醐山山地、笠取・喜撰山山地がなかったと考えることは難しいが、そう考えてみよう。これらは丹波層群からなる山地であり、東側の南北の谷は大福礫層(古山城川)沿いに大阪層群最下部があり、郷ノ口から西へ山城盆地に出るように見える。しかしこれは現在の地形であり、当時は山城盆地という南北性の凹みはなかったのである。鴨谷火山灰層を挟む砂泥層の上の城陽礫層も、現地形は山城盆地に開いた扇状地のように見えるが、当時はまだ山城盆地がなく、城陽礫層は西方の田辺丘陵の大住礫層に連なる川砂利である。現木津川沿いの山城盆地が新しい凹みで、音羽山・醍醐山山地、笠取・喜撰山山地が当時低平な土地であったことは、横谷となっている瀬田川が先行川であることを考えると理解できる。福田火山灰層の堆積様式と関連して、これら南北性山地の問題がなお研究課題である。

大阪層群最下部の堆積盆地は前記したように八幡から宇治を連ねる線より南と考えられるが、近年行われた京都盆地の地下構造に関する調査(京都市 2000)によれば、山崎から桃山南に連なる線は、宇治川まで北上するかもしれない。この大阪層群最下部分布域には現在Ma 2までの地層が丘陵に見られる。ただ、男山と京田辺市間の八幡丘陵はMa 1からMa 8までがあり、京都府内の大阪層群では千里山・枚方から連なる大阪層群上部が発達した場所である。宇治から醍醐へかけての丘陵には数層の海成粘土層があるが、番号はわかっていない。

前記した山崎から桃山南を連ねる線より北が、Ma 1付近の層準からMa 6あるいはMa 7までの大阪層群が丘陵をつくる、狭義の京都盆地といえよう。ただし、西山山麓には走田神社西方でMa 1が見つかり、その下位のイエロー火山灰(Ma 0層準)もあるのに対し、盆地東方の深草ではMa 1層準は厚い淡水性粘土で、Ma 2も淡水性粘土層に厚さ20cmの海成粘土を挟むのみである。このように京都盆地は大阪層群最下部の時代は丹波層群の山地(平原?)であったが、Ma 1の大阪湾が侵入するころから堆積の場になった。しかしながら、西山山麓も深草でも海成粘土層を挟む層は、大部分が花崗岩質の砂層であることは、その供給源が問題である。

南北性の山地はやはりまだなかったと考えられる。それは深草の海成粘土層は西傾斜で、東へは基盤山地より高く上がり、山科西部の海成粘土層は東傾斜で、西へは基盤山地より高く上がる。すなわち当時、稲荷山はなかったと考えられる。だが、音羽山地域は琵琶湖への大阪湾の侵入を防ぐバリアとして存在したはずである。ちなみに、琵琶湖から湖西の丘陸には、ピンク火山灰より上の河川・湖沼成堆積物がある。その上部は西からの砂礫層が優勢で、大阪層群の最上部層より下位の層準で、すでに比良山系の上昇があったことを示す。大阪層群堆積盆との構造運動の違いを示すものであろうか。

精華町下狛の傾斜不整合の項で説明するが、現在の南北性山地はMa 8堆積後の断層ブロック運動でできたと考えられている。それまでの大阪層群下部から上部が堆積した時代は基盤褶曲で緩やかに波打っていたとされる。その基盤褶曲がどのようなものであったかは、京都盆地の地下構造に関する調査(京都市 2000)で一部が明らかになった。それは京都盆地地下はMa 1より前から深く沈降し、Ma 9まで連続して厚く堆積したと考えられていた(石田 1995)が、京都市の地下構造に関する調査によれば、洛西ニュータウンから深草までの東西断面では、西山山麓丘陵と同程度の大阪層群が水平に堆積していること、東部では100m前後の小山が並び、その谷間ではMa 3以上の地層が地表まで223mの厚さしかなかった。しかも、Ma 3からMa 6までの厚さは100mで、東西丘陵での地層の厚さとさしてかわらない。これはMa 8堆積後の断層ブロック運動以後、京都盆地が沈降したことを示し、それ以前は東山はなくて、南北性の基盤褶曲もここでは見られないということができる。石田(1995)は深草鞍ヶ谷のMa 6が厚さ10mから東へ1mに薄くなることを記載しているが、それは鞍ヶ谷礫層(深草団研グループ 1962、桃山礫層、鳥居 1948)がMa 6を削って不整合にのっているという観察が正しいことを示す。

基盤褶曲は領家帯で見られるもので、丹波帯の基盤岩は褶曲せず破砕されるという。先に山城盆地の大阪層群最下部分布域には現在Ma 2までの地層が丘陵に見られると書いたが、Ma 3は大和川支流の奈良県磯城郡川西町吐田のボーリングで深度25~28.3mにのみ見つかっている。これはMa 2海進のあと生駒山地が基盤褶曲で隆起して、Ma 3海進を斑鳩水道から奈良盆地中央の狭い範囲に制限したということができる。一方、京都盆地への水路は、当時は男山も天王山もなく、かなり幅広かったと考えられる。

丹波帯の基盤岩は褶曲せず破砕されると述べた。京都盆地では基盤褶曲はよくわからなかったが、断層ブロック運動で南北性の山地、東山や音羽山・醍醐山山地、笠取・喜撰山山地ができたと言わねばならない。丹波帯の基盤岩の下、深くに花崗岩類があることにより、北部の丹波山地とは異なって、丹波帯と領家帯との中間の挙動を示したのだろうか。古琵琶湖層群堆積盆との関連も考慮しなければならない。

大阪層群最上部、満池谷層、Ma 9-Ma 11、酸素同位体期11~7

Ma 9―Mallを大阪層群最上部という。かつて満池谷不整合があるかどうか議論があって、満池谷層が大阪層群の一員かどうかも議論があった。Ma 8以下は断層沿いに直立しているところがあるが、Ma 9以上の地層は水平層であることと、精華町下狛や先に述べた深草鞍ヶ谷のMa 6を削る傾斜不整合の観察から、Ma 8の堆積後に断層ブロック運動(藤田 1990)で大阪層群が引きずられて傾斜し、侵食されて、Ma 9以上の地層が堆積したと理解できる。Ma 12は中位段丘堆積物であり、Ma 11までが上にかさなって堆積した。そこで、これを「高位段丘堆積物」という人がいる。しかし、堆積面は保存されていない。大阪湾地域のボーリングではこれらは、酸素同位体期11~7に相当する。Ma 8堆積後、すなわち酸素同位体期12(石田 2000)に生じた断層ブロック運動により、現在の盆地ができて沈降が進み、一方で山地は上昇を続けた。

京都市南区上鳥羽鉾立町でのボーリング(京都市 2000)では、Ma 6は深度120m以下にあり、それより浅い部分で海成粘土層を認めたのは、深度65m前後にある一層だけである。これはMa 9、アカガシ層である可能性が大である。花粉分析の結果が期待される。

丹波帯の山間盆地堆積物は殆ど大阪層群最上部相当層と考えられる。各盆地で地名を冠して地層名がつけられた。福知山層、梅迫層、八田層、和知層、胡麻層、実施層、園部層、篠層などであり、丹後の溝谷層、口馬層もその可能性がある。これらの地層で、時代を示すデータがあるのは福知山層である。それに挟まれるアオカズラ層が酸素同位体期11に対比される。館泥炭層は福知山層内での詳しい層準は不明であるが、酸素同位体期12の氷期にあたる可能性がある。亀岡北東の神吉盆地のボーリングでは大阪層群最上部相当層が明らかにされ、アカガシ層が確かめられた(植村ほか 1999)。

夜久野台地付近の溶岩と地層も大阪層群最上部の時代のものである。水坂層は夜久野玄武岩類より前の堆積物であるという見解があったが、そう理解することは困難である(夜久野玄武岩類、水坂層の項を参照)。最終氷期に下刻された谷を埋めて流れた溶岩(兵庫県朝来市和田山町の石部神社上流と白井水源の溶岩)は、1万年前頃の噴火と推測している。

第四紀更新世後期、中位段丘、低位段丘、扇状地、酸素同位体期5~2

約13万年前以降、1万年前までを第四紀更新世後期といい、最終間氷期から最終氷期までにあたる。最終間氷期は酸素同位体期5で、温暖の三つのピークを新しいほうから5.1、5.3、5.5という。海岸段丘の中位段丘認定には従来の野外研究で殆ど誤りはなかった。しかし、中位段丘群内の詳しいことについては問題になったことがある。それは酸素同位体期5の三つのピークとの対比で解決した。すなわち、酸素同位体期5.5が中位段丘群の最高位にあってもっとも広い平坦面をもち、海岸に面した段丘崖に見られるものは5.1ではないかと検討する必要が生じた。京都府下では河岸段丘のこれらの検討は、なおこれからの研究課題である。

最終氷期の海面降下期に勾配を増した河川が礫を運搬し、後氷期の海面上昇にともなって勾配を減じた河川はその礫層を下刻して、河谷沿いに低位段丘をつくり、平野に出たところに扇状地をつくる。扇状地の末端は海面上昇にともなって礫層を埋積した「沖積層(後氷期海進による海成粘土層)」と交差する。また、後背湿地には泥炭層が堆積した。広域テフラの姶良丹沢(AT)火山灰(平安神宮火山灰)が挟まれるところでは25,000年前の時間面を知ることができる。また、木材などの14C年代も測定できて、詳しい年代がわかる。植物化石による過去の植生、気候の復元についての従来の研究は、最終氷期以降については年代の誤りはないが、最終間氷期のデータについては訂正しなければならないものが多く見受けられる。

京都府内では、黒部貝層が中位段丘、天川泥炭層が低位段丘、大フケ湿原、八丁平、深泥ヶ池などでは最終氷期から現在までの泥質堆積物が知られている。

第四紀完新世、後氷期、沖積層

海岸平野の地下には縄文海進の海成粘土層があり、京都府内でも宮津市や舞鶴市のボーリングで知られている。内陸部では後背湿地・池沼がひろがって、横大路沼や巨椋池のように粘土層が堆積した。扇状地や台地上にはクロボク層が乗っている。これらの層には広域テフラであるアカホヤ(Ah)火山灰(横大路火山灰)が挟まれていて、6,300年前の時間面が得られるのは層序学的に貴重である。丹後の海岸は中小河川から流出した土砂が沿岸流で運ばれ、各所に砂浜をつくり、砂丘も見られる。世屋川、畑川は海岸に扇状地性三角州をつくったが、沿岸流で運ばれた砂礫が天橋立(湾央砂州)をつくった。舞鶴湾は沈水地形をしているが、中小河川が谷を埋積して海岸平野(東・西舞鶴)をつくっている。

これらに対し、丹波高地を縦断する大河川である由良川は、海岸に比較的小規模の砂浜と砂丘を形成した。これは丹波山間盆地が45万年前に北東-南西・北西-南東方向の共役断層で形成され、それらの盆地に砂礫を埋積して溢れた濁流が盆地間の基盤岩を下刻した。河川の規模が大きい割に河口に流出する土砂の量が比較的小規模といえよう。由良川が福地山盆地から北の日本海に流出したのは酸素同位体期7より後のことであるという点も、広い海岸平野をつくらなかったことと関係するのであろう。最終氷期に100m以上海面降下したときのリアス式海岸の谷を埋め立てて海岸平野をつくるには、大河川からの大量の土砂の供給が必要なのである。

地質構造、活断層

地質構造はマントル対流、プリュームによるプレートの対応によるといわれている。京都府域は新生代古第三紀漸新世には大陸縁辺にあり、東アフリカのリフトバレー東方のような位置にあった。新第三紀中新世中期に西南日本は時計廻りに約50度回転したので、それ以前の地層、岩石の残留磁気の磁北は約50度北から東に振れている。

活断層は先に述べたように、近畿地方では酸素同位体期12、約45万年前の断層ブロック運動に始まると考えられるが、もっと古くからのものもあるようである。それは、南北圧縮の場と東西圧縮の場の、時間と場所と基盤岩の性質との関係からくるらしい。京都府内の盆地は断層によってできたもので、川による浸食でできた谷とは異なる。もちろん断層による弱線にできた谷もあるが、山地と盆地の境にはすべて断層があると考えられる。

活断層の露頭観察で水平移動量を知ることはむずかしいが、京都盆地で観察された断層の露頭では、二つのタイプがある。1のタイプは、長岡京市の長法寺断層のように、大阪層群上部層中に見られる逆断層である。断層の上盤は地層が直立し、下盤は水平に近い構造である。断層から基盤岩までの距離は100m近くあり、基盤岩と大阪層群との境は観察できていない。基盤岩との境が断層であるなら、大阪層群の構造から垂直の断層面をもつと推測した。しかし、地下深部で断層面がどうなるのかが問題である。京都市左京区上終町の衝上断層は表層の土壌のずれが観察されたが、その下は大阪層群中の逆断層である。ここでは基盤岩まで数十メートルであるが、やはりそれらの境を観察していない。基盤岩近くの大阪層群は直立し、基盤岩の上の大阪層群は盆地側に傾斜している。

その2のタイプは、基盤岩が大阪層群に衝上しているものである。長岡京市の奥海印寺断層は基盤岩が緩傾斜の大阪層群に低角で衝上している。京都市左京区一乗寺(松下 1961)のものも同様である。京都市山科区の蹴上浄水場では直立した大阪層群に基盤岩がのし上がっている(地学団体研究会編 1976)。しかし、九条山では断層下盤の大阪層群は水平に見えた。走向方向ではあるが、見かけの傾斜を見ているとは思われない。

長岡京市、京都市左京区のこれら2タイプの断層は、各々同一の断層の部分を見ているかもしれない。前者は酸素同位体期12、約45万年前の断層ブロック運動でできた後の活動は観察されなかったが、後者は縄文後期の黒土層を切っている活断層で、京都の歴史時代の地震との対応がつかないか注目された。活断層は地震との関係で何処を通るか、何時動くかと注目されているが、地震の被害は地震動や断層の動きだけでなく、地層と地形とも関係するし、後背地の地すべりや崖崩れは地震動に劣らず怖いことに注意しなければならない。

あとがき

先に述べた古地磁気学研究は、京都大学理学部地質学鉱物学教室とその卒業生によって推進された。しかしながら、京都府内の試料についてはほとんどデータがない。学術研究は必要な試料を地球のどこにでも求める。丹後の岩石は採集されたが、そのときの技術では学術的に保証できるデータが得られず、技術・装置の進歩で信頼できるデータが得られるようになってからは、その場所が研究対象にされなかったということだろう。西南日本回転の詳細を知るには、丹後のデータが必要であることは、与謝植物化石群の項で理解できると思う。また、地域地質研究は各大学の地質学関係教室の卒業研究と工業技術院地質調査所の図幅調査によりなされてきた。国土調査法に基づく「土地分類基本調査」は前者の指導教官の知識によりまとめられている。京都府下も地質学徒の観察していない露頭はないといってよいと思われるが、すべてのポイントの観察記録がデータとして見られるわけではない。

地域のデータが一応得られたことと学問の進歩とにより、卒論研究でも地域の一般地質学的研究が少なくなった。専門的研究では再研究が必要となり、改めて同じ露頭を対象にしなければならないことがでてきた。その点で、地域地質研究の基礎には、その地域に住む教職関係の地質学徒の貢献がこれまで以上に大きくなることが考えられる。京都府内の高校地学教師の京都地学教育研究会は研修、教育に力を入れ、1969年以来、『京都地学』を発行し、『地学実習帳』を編集してきた。

京都では1932年に益富壽之助を代表とする、日本礦物趣味の會が結成された。礦物、岩石、化石等に趣味ある人たちの組織で、日本各地の帝國大学教授の多くも会員になった。当時の京都府立宮津高等女学校の松本ヨネ教諭はこの会員になり、世屋村木子の植物化石を採集して、同会会員の北海道大学の大石三郎教授に同定を依頼し、その成果を『我等の鉱物』に発表した。このように、この会は地学研究と普及に貢献し、1973年に日本地学研究会と名を改めて、現在も多くの同好者が活躍している。

執筆者 石田志朗

地質●文献一覧

京都府の地学に関する冊子あるいは地質図幅については、次のようなものがある。

  • 松下進(1950-1951)郷土の地質 京都府地質誌 付京都府地質図(40万分の1) 京大地鉱教室編 地学 2 41-49 第3 36-40
  • 松下進(1953)日本地方地質誌 近畿地方 朝倉書店 293p.
  • 松下進(1971)日本地方地質誌 近畿地方(改定版) 朝倉書店 379p.
  • 日本の地質 「近畿地方」 編集委員会編 1987 日本の地質6 近畿地方 共立出版 297p.
  • 八尾昭(2007)古生代~ジュラ紀の地質構造発達史 日本地質学会編 日本地方地質誌 近畿地方 朝倉書店 12-28
  • 地学団体研究会京都支部編(1976)京都五億年の旅 KK法律文化社 206p.
  • 地学団体研究会京都支部編(1978)京都地学ガイド 現地に見る京都五億年の旅 KK法律文化社 206p.
  • 京都地学教育研究会編(1988)京都自然紀行 人文書院
  • 地学団体研究会京都支部編(1990)新京都五億年の旅 KK法律文化社 170p.
  • 京都地学会(1993)京都の地学図鑑 京都新聞社 265p.
  • 京都地学教育研究会編(1999)新・京都自然紀行 人文書院 238p.

地質調査所の5萬分の1地質図幅および説明書は、1989年の「綾部」と「京都西北部」以後は地域地質研究として出版されている。また1994年までの京都府を含む地質図に関する知識は、つぎの出版物に紹介されている。

  • 山田直利、滝沢文教編(1996)日本地質図大系 近畿地方 朝倉書店 126p

また、国土庁土地局(1976)土地分類図(京都府) 縮尺1:200,000や、『国土調査 土地分類基本調査 地形・地質・土壌』という報告書が、1972年に経済企画庁から「京都西南部」が発行され、1980年の「京都西北部」以降は京都府から発行されている。

調査年 図幅名 発行年
昭和55年 京都西北部 昭和56(1981)年12月
昭和56年 大阪東北部・奈良・上野 昭和58(1983)年3月
昭和57年 京都東北部・京都東南部・水口 昭和59(1984)年3月
昭和58年 園部・広根 昭和60(1985)年3月
昭和59年 綾部 昭和61(1986)年3月
昭和60・61年 四谷・小浜・北小松・熊川 昭和62(1987)年3月
昭和61年 福知山・但馬竹田・篠山 昭和63(1988)年3月
昭和62・63年 舞鶴・丹後由良 平成2(1990)年3月
昭和63年 大江山・出石 平成4(1992)年3月
平成元・2年 城崎・塩江 平成8(1996)年3月
平成2・3年 宮津 平成9(1997)年3月
平成4年 網野・冠島 平成22(2010)年3月

土地分類基本調査 国土調査 京都府 国土調査法施行令第2条第1項第4号の2の規定による土地分類基本調査図及び土地分類基本調査

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