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「雑記」 | 原家文書 | |
戦闘の中心近く中立売門辺に住まいしていた原家の記録です。 | ||
原氏は、朝早く(寅刻午前4時頃)から何事かと、こっそりと見物していましたが、途中からは「見物所之事ニ而無之(見物をしているどころではない)」と朝飯も食べず裏の高塀を越えて逃げていきます。そして、長州兵等が「一時大風ニ而木葉之散る如ク西へにけ」等と当時の状況や思いをリアルに記しています。 | ||
原家は絵師の家であり、観察力も鋭く好奇心も旺盛だったのでしょう。 | ||
<解読文>(前頁冒頭より) 元治元年甲子六月六日朝三条河原町辺、長州藩入込居由ニ而 捕手之面々会津侯より被差出、大混雑之次第ニ而怪我人等死人も 御座候噂承候処、其後追々御吟味厳敷、浪人其の外、京住侍分 町人等掛合多分在之、夫ニ御召取候処、同月廿五六日頃より 長州家老福原越後、益田右衛門介、国司信濃三人其 外多人数、武器用意ニ而伏見着、夫より山崎天王山并ニ 嵯峨天竜寺、又ハ西山光明寺辺手分けニ而陣取仕、山崎山等 夜中大かがりヲタキ、嵐山ニも少タキ 何角歎願書 御所表ヘ差し上候由、段々御掛合ニ相成候得共、得心も不仕様子 終ニ七月一八日頃一応引取候歟、無左候而者御附はらいニ相 成候由、御掛合之様伝承候処、同月十九日寅刻頃より中立売宅門前 何角人之走り候様子追々相聞へ候ニ付、与卒物見より内見 候処、一橋殿御早馬ニ而御参 内之御様子、追々講武所様 之人多分五人十人一両人ツヽ、数限り無手提灯有無馬走り 候故、如何と存居候処、鶏鳴之頃より、所司代桑名侯御老中 淀侯、追々出陣之御供立ニ而御参内之様子、続而因州 之行列、何れも立派珍ら敷甲冑小具足陣羽織等 ハタ色々数々之事ニ而、近辺見物人も多分出申、家内中 門前并物見より見物致居候内、与風気付キ候へハ終之列 皆々長州之書付印等在之、是者存外千万、此様子ニ而ハ 如何之義出来候も難計、見物所之事ニ而無之と申ツヽ 内へ引候処へ、最早妙案 中立売室町東へ入込、尤 御門前ニ而鉄砲五六発相聞驚入候処へ、東より見物且 往来人又ハ長州雑兵之面々、一時大風ニ而木葉之散る 如ク西へにけ去ル内、追々炮発厳敷故、唯手柄次第ニ 門口明き居候処へはせ込、草り之儘ニ而二階迄上り候者、且ハ 裏ノ高塀ヲ打越へ裏ノ町横町へにけ行候人ハ覚へ 不申大混雑、迚も此儘ニ而ハ如何相成候哉も難計、朝飯不 被下儘、不取敢家内一統平服之儘、裏ノ高塀打越し、新町玉佐ヲ 期かきヲやぶり新町ヲ一条小川梅戸迄参り、朝飯ヲ 期候内一寸中立売通様子一見之処、最早長州甲冑武者 きられ、但しうたれ怪我人追々西へ連れ参り候様子見 届候故、是ハと存、空腹之儘小川上立売安楽小路鞍馬口 夫ヲ下鴨大工市兵衛方へ走付き、漸く辰刻退頃、朝 飯一統被下、一寸安心いたし候、尤立去り掛、裏 有栖川殿畑地ニ而、一寸帯等仕直し、はだし之儘 之者も在之候方ニ草り取ニ入候節、表ノ門口慥ニ〆切、小川 此時裏ノ方よりかべヲおしやぶり 梅戸に参り、下男重蔵下女いさ小戻りいたし候と申、立帰り ( 以下 略 ) |