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「風説書」 | 平和家文書 | |
禁門の変の顛末を記した会津藩家臣の手紙の写です。これによると、7月21日の山崎天王山の戦いにおいて、新選組は会津藩の一隊とともに先頭を切って戦いに挑んだ事がわかります。新選組の戦闘能力は会津藩に認められていたのでしょう。 | ||
<解読文>(前頁冒頭より) 七月晦日会津様より御届書面 松平大膳大夫様御家来同所脱藩人共、歎願之筋有之、伏見其外 所々屯集罷在候者共、如何成暴発も難計ニ付、御警衛筋厳重 申付置候処、去ル十八日夕方公卿堂上方俄ニ参内之由ニ而不審之義共相聞 候ニ付御門々初諸事手配申付置候処、翌十九日暁七半時比、蛤御門 固場へ賊徒烈敷及炮発候ニ付、此方よりも大小炮為打懸、肥後守 義、直様参内之上ニ伺 天機守護罷在候処、同所之接戦及数刻 候へ共退散不仕、又々賊徒中立売御門より潜り唐御門前日野殿屋敷 内より門を開打懸候ニ付、手勢繰込手詰之接戦、惣鑓打込五六人打 斃、賊徒辟易及敗走、其虚ニ乗し二ノ見松平修理大夫様御人数入 替り、猶又烈敷打立候時、賊徒忽及大潰候、然所 御所内炮声頻ニ 相轟、飛丸も散乱候ニ付、堂上方周章 御立退声ニ触廻候形勢、 万一騒擾之際 御遷幸有ニ而者一大事ニ而 主上御動座不被 遊候様 玉座を守護御鎮静方数多差配り候内、鷹司殿屋敷 より頻リニ炮発候ニ付、手勢并松平修理大夫様井伊掃部頭様三家之人 数死力を奮ひ、大勢打懸焼討ニ而賊徒及敗走、然ル所同所より九条殿 延焼、夫より洛中一円火焔ニ相成、所々乱入之賊徒皆々及敗走、残少々討取 搦取、先洛中及静謐候、扨又翌廿日暁、残党為追討山崎表天王山江 手勢并井伊掃部頭様松平越中守様松平図書守様四家之人数 差向、天竜寺にて松平修理大夫様松平隠岐守様酒井若狭守様大久保 加賀守様本多主膳正様之御人数進発之手配相定、翌廿一日暁諸手 一同発向之処巳刻より合戦相始、新撰組并手勢之内一隊先手ニ進出、 段々麓より取懸候処、賊徒山上より及炮発候ニ付厳敷打合数刻及逃走 賊徒不叶覚悟致候哉絶頭陣営も火を放候間、猶又攻登、賊営 攻抜候処、賊徒大凡廿人余、何れも歩卒、割腹枕を并打臥罷在、 中ニハ焼死之者も相見、右ハいつれも歩卒体ニ無之将長ニも覚敷人体 ニ而、右之通賊徒壱人も不残掃攘ニ及ひ跡之取掃仕置申、翌廿二日昼 四半時比総人数凱陣仕候 但 天王山接戦之節ハ、死傷之義ハ壱人も無御座候 御所内合戦之節、手勢死傷別紙之通ニ御座候 右之趣京都より急飛脚を以申越候間、不取敢御届申上候、以上 七月晦日 松平肥後守内 石沢民衛 (以下 略 ) |