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鴨川真発見記 平成28年8月

 第245号 旧春日学区の子ども達が鴨川観察会

自然観察指導員京都連絡会がお手伝い

 平成28年7月31日(日)は、現在御所南小学校に通う旧春日小学校区主催の鴨川観察会が開催されました。私も自然観察指導員京都連絡会の一員として、そのお手伝いに鴨川丸太町橋へと向かいました。

<お天気に恵まれた鴨川観察会>

 旧春日小学校区のスタッフに加えて、立命館大学産業社会学部乾ゼミの3・4回生8名もお手伝いに駆けつけてくれました。

 天気予報では午前中は快晴、午後から不安定な空模様、観察会は午前中で終了しますので安心して鴨川の生き物を調べることができました。

 午前10時、春日デイケアセンターで受け付けを済ませた子ども達と保護者の皆さんが会場である丸太町橋の西詰下、階段護岸に集合しました。

<会場に到着した参加者>

<立命館大学産業社会学部乾ゼミの皆さん>

 旧春日学区の方の司会で始まった観察会、鴨川に入る前に伴先生から鴨川の生き物についてのお話しがありました。

 室内でお話しされる時はパワーポイントの画像を使用されますが、今回は屋外ということで、画像を紙芝居形式でお話しされました。

<伴先生のお話し>

<はい、あなた>

 今回も、朝でも昼でも伴(晩・ばん)浩治という伴先生のアイスブレイクが出ましたが、子ども達は“きょとん”としていました。

 それでも子ども達は伴先生のお話に引き込まれていきます。クイズも出題されましたが、その場では答えは発表されず、「少年補導の方に手渡した解答を後で教えてもらいましょう」とこれから実際に観察して答えを探すように導かれました。

<今日のメニュー>

<この生き物、何だかわかる人>

 伴先生のお話しも終わり、待望の鴨川へと入って行きます。上級生、下級生の2班に分かれてザブザブと川の中を進みます。今回のフィールドは丸太町橋上流です。自然観察指導員京都連絡会としても、このフィールドでの観察会は初めての経験です。

<お話しが終わり>

<鴨川へとザブザブ>

 いつもは、「鴨川探検再発見!」で北山大橋下流をフィールドにしているので、どんな違いがあるのか指導員も興味津々です。

<指導員さんも、どれどれ!>

<石の裏を探ります>

 鴨川探検再発見の様子は、ご紹介する時期が前後しますが、後日ご紹介したいと思います。

 このところ雨が少なく、水深は浅いですが、茶色の藻が多く足元が滑ります。浅瀬の石をひっくり返して小石のかたまりを取り除くと、中からトビケラの幼虫がクネクネと姿を現します。

<ほら何か動いているよ>

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<入った、入った>

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 「イヤや~、気持ち悪い」「この中へ入れて」と水槽を差し出す女の子、男の子。平気でつまむ小さな女の子、元気な男の子と反応は様々です。

<水槽に入れて>

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<自分で触ってごらん>

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 中州に茂ったヨシの下を網で“がさごそ”探ると、エビも網に入ります。そして小さな小さなオイカワの生まれたても入ります。

 ヨシの上流から、バシャバシャと走って下流で網を構えた子ども達が生き物を捕獲していきます。

<水際をバシャバシャと追い込みます>

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<エビが入りました>

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 長いズボンの裾をまくって川の中に入った子ども達も大学生も夢中になって生き物を探す間にズボンは濡れてしまいましたが平気でした。

<ズボンが濡れても平気です>

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<大学生のズボンも濡れました>

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 生き物を捕獲する子ども達の傍では、まだ幼いアオサギが獲物を探して歩き回っていました。残念ながら獲物を捕らえる姿を見る事は出来ませんでした。

<まだ幼いアオサギ>

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<獲物を探して歩き回る>

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<人間は着々と獲物をゲット>

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<ほら触ってごらん>

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 約40分間の生き物捕獲タイムが終わって、捕まえた生き物を観察します。小さな水槽を覗くと、魚が泳いでいました。「これは何という魚ですか?」捕まえた小さな女の子のお父さんが伴先生に尋ねると、「それは“ギギ”ナマズの仲間です」との回答と共に「今日の生き物の目玉ですね」と付け加えると、小さな女の子も満足した顔を見せてくれました。

<伴先生も記録写真>

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<レンズの先には“ギギ”>

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<“ギギ”を捕まえた幼い少女>

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<アオサギよりもお上手です>

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 続いて、コイの幼魚が捕獲されてきました。今年生まれた1年生の鯉です。この鯉は昔から自然にいた鯉ではなく、食用に品種改良された鯉ですと説明を聞いて一同から「へー」の声が漏れました。

<“コイ”と“コオニヤンマのヤゴ”>

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 続いて、オオクチバスも捕獲されました。伴先生からは、「これは捕まえたら処分するように法律で決まっていますので、他の生き物と違って川には返しません」と説明がありました。

<記録写真>

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<右からコイ、オオクチバス、ギギ>

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 そして、本日の獲物となった生き物の紹介です。「コオニヤンマのヤゴ」「ヒゲナガカワトビケラの幼虫」「オイカワ」「コイ」「ギギ」などなど、発表される生き物の名前を子ども達はプリント用紙に書き込んでいきました。一方で小さい子ども達はメモよりも生き物選別に夢中でした。

<生き物の名前をメモして>

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<夏休みの宿題一つクリア?>

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<ピンセットでつまんで>

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<製氷皿に並べます>

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 保護者の皆さんも知らなかった生き物に興味津々で説明を聞いておられました。生き物観察はここで終了です。

 北山大橋の下流での開催した「鴨川探検再発見!」の時に捕獲した生き物の中で、今回の丸太町橋上流では捕獲出来なかった生き物それは「ヘビトンボ」と発表されると、一人の児童が「ヘビトンボ捕まえたで。あのバケツに入ってる」とバケツに駆け寄りました。

 他の児童もその後を追います。伴先生が確認に向かわれましたが、残念ながら「ヘビトンボ」は見当たりませんでした。

<“ヘビトンボ”いるかな?>

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<残念ながらいませんでした>

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昭和10年鴨川大水害のお話し

 生き物の観察が終わった後で少し時間を頂いて、私から鴨川の話を少しさせて頂きました。

 昭和10年に鴨川で起こった大水害とそれをキッカケとした大改修のお話しです。その大改修で鴨川の今の姿がほぼ形作られたことをお話ししました。
 川底を約2m掘り下げた事により、昭和10年以降鴨川が溢れる事はありませんでした。

<葵橋の流失>

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<五条大橋の流失>

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 でも、このところの豪雨や台風による増水の様子を見ていると、絶対安全という事はいえません。日頃から鴨川は溢れるかもしれないという意識を持って家族で話し合っておいてもらう様お願いして観察会を締めくくりました。

 みなさん鴨川に近いところにお住まいになっておられます。終了後、去年の台風の時の増水はどの辺まで水位が上がったのですか?と声をかけて頂いた保護者の方もおられました。少しは水災害について関心を持って頂けたようです。

<平成26年8月増水時の丸太町橋>

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<丸太町橋から上流を望む>

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<平成27年6月の増水は荒神橋で2.4m テレメータ観測史上最高水位>

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 これからも、あらゆる機会を通じて水災害に関するお話しをさせて頂きたいと思います。

 ここで、昭和10年の大水害に関するお知らせです。NPO法人京都の文化を映像で記録する会のスタジオで見つかった昭和10年6月29日の鴨川の様子を記録したフィルムがあります。

 オリジナル映像はデジタル化されてNHKでこれまで2度紹介されました。その後映像に記録されている橋や場所を特定して、静止画像や当時の平常時の様子を盛り込んだDVDが編集されました。

<昭和10年鴨川大洪水の記録>

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<納涼床が流れていく>

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 京都土木事務所としても、橋の特定や静止画像などの資料提供をさせて頂いています。

 このDVDが、毎年恒例となっている8月6日、7日に開催される「鴨川納涼」の「鴨川条例啓発ブース」でお披露目される事となりました。洪水時の迫力ある映像とともに、昭和の始めの祇園祭の御輿の様子や、鴨川納涼床の様子をご覧ください。

 このDVDは防災教育の貴重な資料として、多くの方にご覧頂きたいと思います。京都土木事務所でも貸出しを検討していますので、必要な方は当所までご連絡ください。

追伸】このDVDは本日平成28年8月5日の京都新聞朝刊で紹介されました。

 

平成28年8月3日(京都土木事務所Y)

 

 第246号 北区で初の農家民宿営業始まる「善右衛門(ぜーもん)」

鴨川源流雲ヶ畑“京都で一番青空に近い村で”

 構想から1年近く準備に時間を費やして、消防関係・衛生関係などの施設面での条件もクリアして農家民泊の営業が始まりました。

 7月30日のプレオープンを経て8月から本格稼働です。その名も「善右衛門(ぜーもん)」。この施設名は、営業を開始された久保さん宅の昔からの家号です。

<農家民泊営業開始を告げるように看板が掲げられました>

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<客室>

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<障子のガラスを一部網戸に変えて風通し>

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 8月8日(月)は、第一号のお客様をお迎えする事になりました。私も鴨川源流の農家民泊の様子を拝見に少し立ち寄ってみました。

 初めてのお客様をお迎えするとあって、奥様の清美さんは汗だくで準備に追われておられました。お風呂やトイレの掃除の仕上げに、流しソーメンの会場準備にと、宿泊されるお客様を迎えるのはいつもに増して大変です。

 猫の手も借りたい忙しさに、立ち寄った私達3人も河原の会場準備のお手伝いをさせて頂きました。

 流しソーメンの昼食会場は、久保さん宅の裏を流れる鴨川源流域の河原です。会場準備も整ってお客様一行を無事迎える事が出来ました。

<会場は久保さん宅の裏を流れる>

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<鴨川源流域>

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<ブルーシートの上に>

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<ゴザを敷いて出来上がり>

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 第一号のお客様は、伏見区醍醐からお越しになったご夫妻とそのお孫さん3人の計5名です。夏休み期間、離れて暮らすお孫さんを預かっておられます。

 お客さんの最初の体験は、流しソーメンを食べる箸と器つくりです。宿のご主人の久保常次さんが青竹のふしを残して器、竹をナタで細く割ってお箸を削り出していきます。

<久保常治さん手作りの器と箸>

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<それぞれに名前を書いて>

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 それぞれ器に名前を書いて、お箸には自分の印をつけて準備が整いました。器と箸を持って河原の昼食会場に移動です。

<子ども達3人分完成>

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<おじいさんはビデオ撮影>

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 会場準備の時は、少し日差しが当たるかなと思っていた会場も大きな木が木陰を作ってくれて、良い感じの具合です。さらに川を吹き抜ける風が心地よく、自然に「良い風、涼しい」の言葉が漏れます。

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 流しソーメンが始まりました。流してくれるのは、お母さんと一緒に応援に駆けつけてくれた久保夫妻のお孫さんです。

<ソーメン流します>

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<ハーイ!お願いします>

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<ソーメン流れてきた>

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<おばあさんもナイスキャッチ>

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 今回の流しソーメンは、久保さん宅のお庭で栽培されている「ミニトマト」がソーメンと共にコロコロと流れてきます。「わー!トマト流れてきた」と子ども達も大喜びでした。

<トマト流れてきた>

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<ソーメンをすすりながらゲット>

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<今度はトマトに逃げられた>

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<おじいさんも悪戦苦闘>

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 勢い余ってレーンから飛び出す「ミニトマト」もありましたが、それがまた盛り上がります。転がるミニトマトを竹の箸でつかみ取るのは大人でも難しかったようです。

 竹の器一杯にソーメンをすくって、口に頬張ると「味が無い!」底に沈んだ「ソーメンつゆとよく混ぜて食べなさい」とおじいさん。

<ソーメンが多すぎて>

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<味がしない>

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 お腹がいっぱいになると子ども達3人は、川に入って水遊びの始まりです。持参した水鉄砲で水の掛け合いと楽しそうに遊んでいました。

 「おじーさーん」「おばーさーん」と子ども達が呼ぶ声が山間に響きます。水深も浅く安全に遊べます。「初めて来た雲ヶ畑。退屈するかなとも思っていたけれど、子ども達を遊ばせて見守る最高の場所」とおじいさんも目を細めて孫達を見つめておられました。

<おばあさんも参戦>

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<やめてー>

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 おじいさんは、こんなに素晴らしい農家民泊の存在を若い子育て世代に知ってもらって、子ども達に川遊びを経験させてやりたいとお話しされていました。

<いとこのお姉さん、お兄さんと楽しそう>

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 しばらくご一緒して、鴨川源流雲ヶ畑の素晴らしさを語り合い、雲ヶ畑を後にしました。冷たい川の水には、お茶とスイカが冷やされていましたので、この後スイカ割りの歓声が響いた事でしょう。

<川で冷やしたスイカでスイカ割りも楽しかった想い出に>

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 今回は、京都市北区雲ヶ畑で新たな試みに挑戦される久保さんご夫婦の農家民泊の第一号のお客さんの楽しそうな様子をご紹介しました。

 翌日、久保さんに連絡すると大変喜んで帰っていかれましたとのこと。無事初のお客様を迎えて、送り出す「やりがい」を感じられた事でしょう。

 「善右衛門(ぜーもん)」は今のところ不定期営業で、一日一組5名まで。ご利用希望と久保さんの都合が合えばご利用頂けるようです。久保さんと面識の無い方は一度日帰りで久保さんのお宅をお尋ねください。

 広報やご利用については、当面「ぜーもんファンクラブ」を運営する「くもくらぶ」がサポートします。詳しくはそちらへメールでお尋ねください。

 あなたも、雲ヶ畑の農家民泊で鴨川源流の“せせらぎ”を聞きながら眠りについてみませんか。

 

平成28年8月10日 (京都土木事務所Y)

 

 第247号 1935年(昭和10年)鴨川大洪水DVD完成

企画展示「鴨川から見る、京都の近代から現代」

  1935年(昭和10年)に京都市内を襲った大雨により、鴨川も大洪水にみまわれました。その時の映像がみつかり、当所所蔵の画像や記録資料を盛り込んで編集されたDVDが完成し、鴨川納涼でお披露目された事は、第245号でお知らせしました。

<鴨川納涼2016>

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タイトル:「昭和10年鴨川大水害の記録」

資料提供:京都府京都土木事務所

協力:京都府立総合資料館

制作著作:NPO京都の文化を映像で記録する会

 京都新聞でも大きく報道され、8月6日、7日の上映にも多くの方がこの映像を目当てに新聞切り抜きを手に上映ブースに足を運んで頂きました。

 今から81年前の出来事で、リアルタイムに体験されて記憶されている方は少ないものの、父母・祖父母から聞いた事のある大洪水の様子に食い入る様にご覧になられる方もおられました。

<明るいうちはモニター上映>

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 中には先斗町のお店の方もおられて、映像を指して「ここうちの店」といいながら、鴨川条例啓発フースの正面のスペースを振り返り、「ここに橋が架かってたんや、写真もあるで」と言って写真を持ってきて頂きました。

<ここがうちの店>

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<正面の隙間に竹村家橋の跡>

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 私もここに橋が架かっていた事についての知識はありましたが、実際に架かっている写真を見るのは初めてです。このDVDが貴重な写真へとつなげてくれました。

<架かっていた頃の“竹村家橋” 個人蔵>

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<挿絵 個人蔵>

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 当日は、京都土木事務所の職員が映し出された映像の横に立ち、ブースにお越しになった来場者に解説しました。映像にはBGMは入っているもののナレーションは無く、解説が無いと少しわかりづらい場面もありますので、今後ナレーションの導入も検討されています。

<多くの方に足を止めて頂きました>

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<京都土木事務所職員による解説>

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 多くの方にご覧頂いて、水災害への関心を高めて頂くと共に、記憶から忘れ去られそうになっている貴重な記録写真の掘り起こしが出来ればと思います。

 鴨川納涼2016は終了しましたが、この貴重な映像をご覧頂ける企画展示が開催されています。

「鴨川から見る、京都の近代から現代」

展示内容は

【地図】鴨川の航空写真(1972年(昭和47年))

 (京都府立総合資料館所蔵 京都府京都土木工営所複製)

 下流は“勧進橋”から上流は“高野川合流点”まで幅70cm、長さ7mの航空写真を展示しています。

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 鴨川に架かる橋はもちろんのこと、一軒・一軒の家屋やビルの町並みや、今は無き京都市電の姿もハッキリ見る事ができます。もしかしたらあなたのお家を確認出来るかもしれません。

 懐かしい町並みを見上げながら、想い出話に花を咲かせてみてはいかがでしょうか。

 【地図】禁裏御用水図(1793年(寛政5年))

  (上賀茂社家「梅辻家所蔵」 立命館大学スキャニングによる複製)

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 梅辻家所蔵「禁裏御用水図」のスキャニング作業について

 このデータは、2016年3月23日に梅辻様立会いのもと、立命館大学文学部地理学教室の製図室において、スキャニング作業をしたものです。
 
部分的にスキャンした画像は、画像編集ソフトウェアのPhotoshopを使用し、パソコン上でつなぎ合わせました。

 以上

2016年3月24日

 作業者:飯塚隆藤(立命館大学大学院文学研究科)

 連絡先:takafusaiizuka@gmail.com

 という訳で、梅辻家当主立ち会いのもと、当時立命館大学大学院文学研究科の飯塚氏がデータ化し複製を印刷したものです。江戸時代に上賀茂神社が御所へと引き込まれる取水口までの農業用水の支配を受け持っていた証拠となる文書です。色鮮やかな着色で鴨川沿いの木々まで丁寧に描かれています。

【図面】七条大橋橋梁図(京都市三大事業誌)

 (京都府立総合資料館蔵)

 七条大橋の手書きの図面が2枚飾ってあります。

 【写真】七条大橋の変遷

 七条大橋の変遷は、当所の所蔵している京阪電車が地上を走っていた頃の様子の写真と、現在では鋼製となっている高欄の格子が木製だった頃の様子をご覧いただけます。

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「昭和10年鴨川大水害の記録」のDVDも随時上映

 以前鴨川真発見記でもご紹介しました、上賀茂小学校の「昭和10年京都大水害」の当日の様子を記録した記念誌「水禍」を元に作成された紙芝居を当日の映像と合わせて語りを入れたDVDも流しています。

 

 この企画展は、

【主催】NPO法人京都景観フォーラム・七条大橋をキレイにする会

 京都市立伏見工業高等学校夜間定時制

【後援】土木学会関西支部

【資料提供】京都市・京都府京都土木事務所・梅辻家(上賀茂社家)

 NPO法人京都の文化を映像で記録する会

【展示会場】七条大橋東詰東入る 集酉楽サカタニ

【開催期間】平成28年8月3日~8月31日

で開催されてます。

※案内チラシにリンクPDF(PDF:139KB)

 

七条大橋清掃活動&ミニ講座

  開催期間の第一日曜日8月7日は、企画展示主催の「七条大橋をキレイにする会」が毎月7日に実施されている七条大橋周辺の清掃活動の日でした。

<炎天下のもと>

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<汗をふきふき>

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<そろそろ終了>

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<七を示して、はいポーズ>

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 清掃後1時間ほどミーティングの後、私も出前講座でお呼び頂きました。展示物も充実した会場で展示物など、鴨川に関するお話しをさせて頂きました。 

 開催開始後も展示物を追加して内容も大幅に充実しました。平成16年撮影の巨大な航空写真や、昭和10年鴨川大水害時の画像、鴨川真発見記冊子版などお楽しみ頂ければ幸いです。

<展示物も充実>

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<平成16年撮影の大きな航空写真も>

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 この企画展示も8月10日朝日新聞朝刊京都版で紹介されました。七条大橋をはじめ、鴨川に関する事にご興味のある方、近くにお住まいの方、是非この期間に「昭和10年鴨川大水害の記録」の映像をご覧ください。

 

平成28年8月10日 (京都土木事務所Y)

 

 鴨川真発見記番外編

池田碩先生と行く花脊別所 自然災害がつくる山村形成のメカニズムを探る

 今回は鴨川真発見記番外編として、鴨川からは少し離れますが同じく淀川水系の桂川水系上流域からの情報をお届けします。

 そのナビゲーターは、奈良大学名誉教授の池田碩(ひろし)先生です。池田先生の紹介をすると少々長くなりますので、下記URLからご確認ください。

 自然災害調査に関してとても実績のある先生です。

 ※自然災害地研究(外部リンク) 池田碩著 海生社(一部抜粋)webで検索

 でも少しだけ、池田先生と私の接点をお話しさせて頂きたいと思います。それは、当所が管理する高野川の支流音羽川に端を発します。

 昭和47年の土石流災害をくまなく調査された池田先生に当時の写真提供をお願いしたのがおよそ2年前の事でした。池田先生は大学を退官される際に多くの資料を処分されていて写真を提供頂く事は叶いませんでした。

 自然災害調査で全国を飛び回る多忙なスケジュールの合間を縫って会いに来てくださいました。それから“出会いは突然に”のおつきあいが始まりました。

 今回もキッカケは私が作ったのですが、ナビゲートして頂いた内容は池田先生の提案でした。約束の日、池田先生は音も無く私の目の前に立っておられました。

 この日同行する上司の技術次長に先生の到着を知らせ、会議室に案内しました。そこで、その日の主たる目的について解説がありました。そう、土砂災害についてです。

 先生のお話をすべてご紹介すると長くなりますので、かいつまんで説明させて頂きます。

 ポイント1

 神社や仏閣は、その地域(山村)の土砂災害や水害を免れる位置に建造されている。

 ポイント2

 土砂災害(土石流)はマイナスの面のみならず!

 海底プレートや活断層の活動で発生する地震により、山は隆起する。そして大雨により山は崩れる。

 花崗岩は風化して真砂(細かい砂)となり流れ出す。耕しやすいこの土が耕作地を作り、人々が農作物を栽培する田畑ができる。

 ポイント3

 そして大切なのはポイント2のような土石流は100年に数回は起こるであろう土石流とどう付き合うかである。山村を築いた人々にはその知識が備わっていたのである。土石流発生の気配を察知し、その時には一旦逃げる。自然災害が収まったら村を再建して、土石流がもたらした肥沃な土地を耕作してきたのである。

  全国各地で栄えた山村はこの3つのポイントを踏まえて生活が営まれてきた。

  そして今回向かったのは、その特徴が地形図から見てとれる旧別所村です。明治22年に別所の他、原地新田、八枡、大布施の四ヵ村が合併して花脊村となりました。

 花脊の地は花脊峠に見られるように険しい峠の山間部に位置し、平安京造営時の御用材を都に供給し、花脊の旧村々も薪炭を主な生業として生活が営まれてきました。

 それでは、別所村へ出発です。

 細い峠道の運転にいささか不安のある私に代わって上司にハンドルを握ってもらう事になりました。池田先生からは「上司自らドライバーとは立派な行動ですね」と少々耳の痛いお言葉を頂きました。

 京都土木事務所から別所へ向かうルートは、高野川沿いに国道367号を北上し大原で昼の食料を調達しました。その後一級河川高野川起点手前の小出石町から国道477号へ入り一路西へと向かいます。

 百井峠へ向かう国道(酷道)のジェットコースターを思わせる急な坂道、急カーブを霧煙る中進んでいくと、実に手入れの行き届いた杉林が現れました。霧に包まれ、整然と並ぶ杉木立のクネクネ道は神秘的にさえ感じます。

  百井峠を越えて、更に険しい花脊峠を越えると別所川が現れました。花脊別所町に到着です。一旦別所の集落を別所川沿いに北端まで北上し、Uターンして北から南下して高い場所を探してハンドルを切ると、花脊山の家に迷い込みました。

<花脊別所町への移動ルート図 C:京都府自治体情報化協議会>

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 高いところから別所の集落を眺めたいと申し出て、山の家の本館前まで通して頂きました。花脊山の家といえば京都市内の小学生が必ず一度は宿泊学習で訪れる場所です。私の息子もお世話になった施設は立派な施設でした。が、集落の様子は眺める事ができませんでした。

 <花脊山の家 本館>

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 花脊山の家を後にして、一つ目の目的施設「お寺」を探します。車中で話題となったのが、「別所」という地名の由来は何だろうという事でした。 

 「別所」ですから読んで字のごとく、どこか本拠地があってその別の場所だろうという事は想像できますが、では本拠地は何処なのだろうという訳です。

 これが一つ目の宿題となりました。後日、京都府立総合資料館の方に相談すると、旧別所村に設立された「別所小学校」の百周年記念誌の存在を教えて頂きました。別所村の歴史についてはこの記念誌の中に記されている「別所の史志」の中から抜粋してご紹介したいと思います。

 

 別所の名の由来の前に「別所の史志」より土地開発の伝承です。

土地開発の伝承 出典:別所校 百周年記念誌(昭和51年記念実行委員会)

 別所の地は、昔修行僧等が庵室や坊をつくって住み、寺々の写経等をして生活していて、この人達によって開発されたという伝承があって、これを否定する文献も証拠もなく一般的にそう信じられています。

 これ等の修行僧を知るために、どうしても延暦寺に触れねばなりません。

(以下要約)

 延暦寺は、伝教大師と呼ばれる最澄が創始した天台宗の本山で、平安時代の仏教の中でも文化的、政治的、経済的、社会的に支配する地位がありました。

 天台宗の教義は多数にわかれていて、様々な修行がありました。総数三千といわれた僧の中には比叡山以外の土地を巡る修行も行われ、自分で選んだ修行もやっていました。

 比叡山を中心として東に北につらなる地方を歩いても、そこには天台宗の世界があって、別所を中心としても北には保元元年(1156)に、平清盛と信西が寺院を建立した大悲山峰定寺があり、別所の地には阿弥陀寺があり、南方の鞍馬寺も平安末期に天台宗となっています。

 そしてこうした地方に僧が建てた庵や坊もあって、三千坊といわれるのはこれらを誇張した総数でありました。ですから別所にも福田寺の地に清盛が建てた観音堂があって、これも三千坊に含まれたのでした。

 延暦寺には公人(くにん)というのがあって、俗事や会計の仕事をし、時には領地の年貢収納にも出張する事がある者です。坊主頭に黒衣を着ても生活は俗人と変わる事がありません。これが山法師とも僧兵ともいわれる人達でありました。

 この人達が別所へ来て坊をつくって住むこともあって、写経等を収入の途としても数多く限りなくあるわけでなく、土民となって山に入ったり土地を耕すより他に方法がなく、土地に住みつけば村をつくる基礎ともなります。

 この人達が住みついたのは別所川の上流の地点で、現在上の町といわれる所で、ここは今も、「何々坊」「何坊」という字(あざ)が残され、これらは坊や庵があった跡だと思われます。

 

以上が土地開発の伝承の内容です。

 簡単に言ってしまうと、比叡山の山法師・僧兵が住みついて村の基礎ができ、集落が広がっていった村が別所村と伝承されているということです。

  別所という地名の由来は確たる説が伝わっておらず筆者の私考が記されています。その一部をご紹介します。

 

<別所の史志より抜粋>

 地名の多くは、それぞれの理由があってつくられていますから、それを探ると土地の性格を知ることができます。別所の場合は的確につかむことが出来ず、あくまでも専断的なものとなりますが、一応考えてみると、別所という名は特別な所という意味で同じ地名が各地にもあります。

 別所の地が同じ延暦寺系の修行僧達によって開発されたことを思うと、当然土地の名をつけるにともなって、同じ天台圏内の地だけに、この人達は比叡山を中心として別所の名をつけたのではないでしょうか。

 

 それでは、旅の続きに戻ります。道路沿いにお寺を見つけました。その名は「福田寺」です。この報告書を作成するにあたり、「福田寺」「日吉神社」「採土場」の位置を航空写真と地形図を並べて整理しました。

<花脊別所町目的地付近 航空写真&地形図C:京都府自治体情報化協議会>

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 福田寺の歴史につきましては、先に紹介しました土地開発の伝承の中に出てきました。現在の様子を見てみましょう。

<お寺の山門>

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<天王山福田寺(曹洞宗)>

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 お寺の門前には、大きな石に文字が彫り込まれています。そこには、「経塚 出現毘沙門天王」と読み取れましたが、当日は何のことだか解りませんでした。

 この経塚についても、別所校 百周年記念誌を読んでわかりました。

 経塚というのは、平安時代に経文などを管に詰めて、塚に埋めたものです。何のためかなどの詳しいことは京都国立博物館のホームページにわかりやすく解説されていますので、そちらをご覧ください。

  ※京都国立博物館 博物館ディクショナリー 花脊経塚の遺物(外部リンク)

<経塚 出現毘沙門天王の碑>

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 経塚について百年記念誌での記述を引用させて頂きます。

<百周年記念誌より>

 大正十年(1921年)の夏、別所の人達6名が阿弥陀寺跡に接する大平谷に植林をしていましたが、地盤が余りにも堅いので掘り起こすと唐櫃(からと)らしいものに当たって、遂に経塚を発見しました。

 内部から発見された品は、仏像、経文、経管、壺、刀身、古銭、皿や鉢等多数で、中でも右手を高く上に上げて身体を斜めにして立つ毘沙門天像は、渡金がはげていても薄板透かし彫りの火炎の光背を持って、約十四センチの金銅仏ながら優れたもので、重要文化財の指定を受けました。

 

 この記述から、福田寺=阿弥陀寺とするならば、福田寺が創建された当時は、大平谷にあったことになります。さて大平谷はどこなのでしょうか。もしかすると土砂災害で被災し、現在の地に再建されたのかもしれません。

 お寺の境内にお邪魔しますと、本堂が見えました。その背後の山の様子を見上げると、木々の隙間から空が見えています。なだらかな斜面だとわかりました。この地は安全のようです。

<本堂が見えました>

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<写真中央屋根の上にかすかに空>

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 お寺を後にして、花脊別所町の集落を歩いてみました。茅葺き屋根であった民家の屋根は、様々な素材で覆われたり、瓦葺きになっている建物もありますが、その風景はいかにも山村といった雰囲気です。

 別所川に沿って民家が並びます。別所川の一級河川としての起点を示す黄色い標識が見えました。

<山村風景>

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<一級河川別所川起点>

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 そして神社へ向かいます。木製の鳥居に迎えて頂きました。鳥居をくぐって振り返ると、別所川を挟んで両側からなだらかな谷が向かい合っているのがよくわかります。

<木製の鳥居>

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<振り返ると>

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 また先程の航空写真を拡大してみると、日吉神社へと向かう参道の両側に段々の田畑(耕作地)が広がっているのも一目瞭然です。

 この日はじめに説明を受けた、ポイント3山から流れ出た肥沃な土砂が農作物を耕作出来る土地を生んだということでしょう。耕作面積の少ない花脊の地域において、貴重な耕作地だったのでしょう。

<神社に向かって段々の耕作地>

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 真っ直ぐにお社へと続く参道には、芝生が施されて雨の日にも“ぬかるみ”ません。お社近くの両側に広がる休耕田は人背丈を超える草木が茂っています。その中から心地よい野鳥のさえずりが聞こえていました。

<芝生を踏みしめながら参道を行く>

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<休耕田の間を抜ける>

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 いよいよ社に着きました。お社は大きな杉に守られる様に建っていました。

<杉の木立に守られる様に>

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 あ・うんの狛犬が両脇を固めています。大きな杉が何本もそそり立っていて、社に向かって右側のひときわ大きな杉には“しめ縄”が巻いてあり、ご神木のようです。

 <手前の舞台の向こう側にお社>

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<見上げる杉の大木>

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<しめ縄が巻かれたご神木>

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 社に向かって左側にも不思議な大木がそそり立っていました。樹皮がらせん状にねじれています。自然の状態でこんな状態になるのでしょうか。葉をアップにしてみると、檜のようですが・・・。

<樹皮がらせん状>

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<檜のような・・・>

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 これだけの大木が育つには相当な年月が必要です。ここにお社が出来て以来土砂災害とは無縁のようです。大昔に流れ出たであろう扇状地に今は休耕田となっている棚田を耕作されていたようです。

 <広がる休耕田>

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 その田に引く水はどこから?と思っていたのですが、答えは目の前にありました。境内の横を谷からの水が流れています。大木の林と傍に水の流れ、梅雨の蒸し暑さも無く、すがすがしい空間に神秘的なものさえ感じました。

<お社の傍を流れる>

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<用水路の開削必要なし>

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 この空間で昼食にさせて頂いて、マイナスイオンを体中に浴びました。そしてお社に参拝してお社を後にしました。帰り際、杉に混ざって朴の木の古木を見つけました。コチラも立派な古木です。地元の方の行き届いた手入れを感じました。

<お社を後にして>

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<朴の木の古木>

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 さて、ここまで何々神社ではなく「お社」とご紹介してきました。それには訳があります。池田先生が持参された地図には「日吉社」と表記されていました。そしてこの記事を書くにあたって住宅地図で位置を確認すると、そこには「三輪神社」と表記されていました。 

 その謎を解いてくれたのが、またしても百周年記念誌でした。最初に「三輪神社」が氏神として祀られました。その後、別所地区内に同格の神社として「金峰社」「日吉社」の2社が祀られました。その後明治20年(1887)に三輪神社の境内に鎮座されることになりました。同境内に祀られた訳ですが、同格の神社として、祀られているのでどの名前でも間違いではないと思います。

 「金峰社」「日吉社」が以前は何処にあったのか、何故三輪神社に鎮座されたのかを調べると、地形との関係がまた深まるのかもしれません。

<「三輪神社」を中央に「金峰社」「日吉社」が並んでいるようです>

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 境内の入り口まで戻ると、見慣れない標識を見つけました。「普通母樹林」とあります。「これは何を意味するのか」これが2つめの宿題となりました。

  後日、広辞苑で「母樹」を調べると、「植物栽培のもととなる種子・継ぎ穂を産する樹」とあります。すなわち京都府がその母樹の林としてしている訳です。

 考え方によっては、植林の基となる樹木を守る神様といえるのではないでしょうか。

<普通母樹林 京都府>

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 西対面のなだらかな斜面の奥を眺めると、花崗岩が風化して真砂土となり削りとられた地肌が見えています。地図には採土場とあります。真砂土を採取しているようです。

 次はここに行くことになりました。池田先生の考えでは今立っている別所川を挟んで東のなだらかな斜面は土の斜面、西の斜面は奥の山が花崗岩の山で、その山の斜面の花崗岩が風化して真砂土となり、ポケットの様に流れ出た結果採土場となった。この斜面で過去に土砂災害があったのではないかとの推測でした。

<むき出した山肌>

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 採土場の傍まで行くと、池田先生の解説どおりポケットの様に採土場がぽっかりと口を開けていました。足元の通路もバラスが敷かれた下は花崗岩が風化した真砂土です。

<採土場>

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<足元の通路も真砂土>

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 そして、池田先生から自然に小さく崩落した花崗岩の真砂土斜面に立って解説がありました。崩落した斜面の中程に横に線を引いた様な跡があります。よく見ると、そこには礫(小石)が並んでいます。

 これが、現在その下に流れている小川の川底だった位置となるそうです。こうして、山肌が崩落することで昔の川底のラインが見えてくるのです。更に注目すべきはそこに埋まっている木片です。それが昔の崩落時に埋まったものであれば、専用の測定器で測定すれば何年前に崩落が起こったのかがわかるそうです。

<何か気がつきましたか?>

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<中段部のラインです>

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<礫が埋まっていた跡>

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<埋もれていた木片>

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 その後、茅葺き屋根の残された建物を遠くから眺めて、茅葺き屋根が並んでいた時代の山村の様子を思い浮かべながら花脊別所町を後にしました。

  茅葺き屋根には「水」の文字が掲げられています。火災予防のおまじないのためです。

<茅葺きの建物>

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<水の文字が見えます>

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 この茅葺き屋根の建物の正面に回ってみると、おそらく後から設置された2階部分の窓が見えていました。納屋を居住空間にリフォームされているのでしょうか。

 <茅葺き屋根に設置された窓>

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 ここまでが今回ご紹介しました山里の栄えるメカニズムにまつわる旅のお話しでした。

 花脊別所町に昔土砂災害があったのかというところまでは迫れませんでしたが、百年記念誌から水災害の体験談がありましたのでご紹介したいと思います。

 

百周年記念誌 卒業生寄稿より

昭和9年、10年の台風水害の恐ろしさは忘れることができない。旧校舎の窓が木の葉のように飛び散ったことや、川の水が道まで溢れアッチコッチの道路が通れない程流された想い出など。

 

 京都に大水害をもたらした出水は桂川最上流の別所の地にも猛威を振るったことがうかがえます。

 今回は、「土砂災害」という言葉で認識されている自然現象が、生命・財産を脅かすだけで無く、人の営みに恩恵をもたらす一面を持っている事や、その自然現象と上手に付き合っていくことで山村の生活が栄えたという池田先生の視点で桂川支流別所川沿いの花脊別所町をご紹介しました。

 現在、京都府でも土砂災害警戒区域等の指定を進めています。この指定の意味を正しく認識して頂きたいと思います。あらかじめ市町村が計画した避難経路避難場所を確認し危険な状態になったら避難するという行動を心がけて頂きたいと思います。

 

平成28年8月10日 (京都土木事務所Y)

 

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