トップページ > インフラ > 公共事業・一般 > 鴨川真発見記 > 鴨川真発見記 平成28年12月

ここから本文です。

鴨川真発見記 平成28年12月

 第256号 関東から「へ~知らなかった」の情報

昭和10年鴨川大水害をキッカケとした大改修

 鴨川真発見記では、これまでにも昭和10年の大水害をキッカケに施工された大改修について触れてきました。今回は宮村塾(主催:関東学院大学宮村忠名誉教授)からのオファーで昭和10年の大水害後の大改修を辿る視察ツアーに出かけました。

 平成28年12月8日はお天気もよく暖かな一日となりました。三条大橋から四条大橋まで高水敷を歩いて「寛文新堤」に想いをはせたりしながら、昭和11年から22年まで11年間の大改修、昭和62年に完成した京阪電車と琵琶湖疏水(鴨川運河)の地下化、その後の拡幅工事+花の回廊整備について説明しました。

※寛文新堤 寛文8年(1668年)今出川と五条の間の右岸に築かれた鴨川沿いの石積

 特に昭和10年の大水害後に平均して約2m川底を掘り下げた工事は、三条大橋の橋脚を見れば一目瞭然です。最初に架けられた天正時代の橋脚が残されているといわれている、その下には掘り下げた分だけコンクリートで付け足した部分が良くわかります。

<三条大橋の橋脚>

 三条大橋と四条大橋の間を歩いていると、“オオバン”と“ホシハジロ”が仲良く並んでいます。琵琶湖疏水ではよく見かけますが、鴨川では余り見かけません。

<左:ホシハジロ 右:オオバン>

<ホシハジロはペア>

 四条大橋では、現在の七条大橋と同じデザインであったアーチ状の橋の名残が残っています。橋の下にアーチ橋時代の橋脚基礎の下に打ち込まれた木杭が頭を出しています。そして、左岸の橋台には、アーチ橋が接続していた痕跡が残されています。

<四条大橋の下に注目>

<アーチ橋の痕跡>

<左岸の痕跡>

 そして次の視察箇所へと向かいます。その先にある神社に「へ~」びっくりです。土佐稲荷(岬神社)という神社をみなさんご存知でしょうか?

 駒札の説明書きをみてみると、「社伝では、室町時代初期 鴨川の中洲の岬(突端)に祠を建てたのが由来とされている。その後鴨川の西岸など数度遷され、江戸時代初期この付近に建てられた土佐藩の京屋敷内に遷されることとなった」

<岬神社(土佐稲荷)の説明 駒札>

 ご利益は、農耕・商売・土木・金工など諸業の繁栄、災難除けなどの災厄除けとあります。宮村氏によると、最初鴨川の中洲の岬、そして西岸へと遷されたこの神社は、建立時には鴨川で水害が起こらない様に願ってまつられた神社との事でした。

<岬神社には商売繁盛のきつねさんと ご存知「坂本龍馬」の像も>

 視察はその後上流へ向けて柊野堰堤まで主要な箇所で説明するのですが、その途中立ち寄ったのが「京都府立医科大学附属図書館」です。

 この日2つ目の「へ~」でした。この図書館に立ち寄った訳は、江戸時代に豊臣秀吉によって築かれた「御土居」があるとの事前情報を元に現地を見たいという事でした。

 河原町通りに面する図書館の入り口にあります。入り口そのものは空けてあって、その両脇に低い盛り土があり、南側の盛土の端は小高く盛ってありました。何度も前を通っていますが、全く気が付きませんでした。

<府立医科大学附属図書館>

miyamura11

<少し高めの生垣のようですが>

miyamura12

<高い盛土>

miyamura13

<入り口付近は低く>

miyamura14

 説明板には「京都府立医科大学創立125周年記念事業実行委員会」とあります。

<説明板>

miyamura15

※御土居=豊臣秀吉が京都のまちの防衛や洪水に備えて作った大規模な土手。京都のまちを約42kmぐるっと囲いました。

 江戸時代から現在まで壊すことなく存在している御土居は、京都市が文化財の史跡として保護されています。少し違和感がありましたので、後日京都市の担当の方に確認してみました。

 この御土居は、史跡指定している「御土居」ではなく、復元されたものの様で、現存する鴨川側の「御土居」は図書館の少し北にある「廬山寺」の中にあるのと、御土居の北東角、御薗橋下流の2箇所が史跡指定されているそうです。

 後日、御薗橋下流の史跡「御土居跡」へ行ってみました。「御土居」は堀又は川とセットで「御土居堀」として敵の侵入を阻んだそうで、すぐ北側を流れる「若狭川」と「鴨川」がその堀の役割をしていました。それにしても、北東角を切り開いたかのように道路が史跡を分断しています。

<御土居説明板>

miyamura16

<分断された御土居>

miyamura17

<写真位置図>

miyamura18

<1 南端から北を望む>

miyamura19

<2 北東角から西を望む>

miyamura20

<3 若狭川下流から上流を望む>

miyamura21

 <4 史跡御土居の石碑>

miyamura22

<5 分断部分東から西を望む 盛土の規模を感じます>

miyamura23

 更に、京都府立大学付属図書館北隣の「廬山寺」に残されている御土居跡も拝見しました。河原町通りには塀が築かれていて、外からは見えませんが、敷地内の墓地にその姿がありました。

 写真では御土居という感じがイマイチわかりませんが、画像を添付しておきます。

<廬山寺>

miyamura24

<崩れない様に石積み>

miyamura25

miyamura26

miyamura27

miyamura28

 話を視察当日に戻します。夕暮れ近づいた時間になって最終目的地「柊野堰堤」下流「庄田橋」へやってきました。ここで宮村氏からあまり聞きなれないお話がありました。

 昭和10年の大水害を契機とした大改修計画の市街地部分の勾配(傾き)の一番上流の起点となったのがこの「庄田橋」だったというお話です。宮村氏のお話では、関東で鴨川の話になると必ずと言っていいほど「庄田橋」の話題が出るという事でした。

 「庄田橋」は平成2年に竣工されていて、昭和10年当時は「庄田橋」という橋は無かったと思い込んでいました。後日、橋を整備管理されている京都市の職員さんに庄田橋の事について尋ねてみると、昭和38年旧橋の架設の記録があって、それ以前の記録は無いそうです。

<庄田橋(しょうだはし)>

miyamura29

<平成2年3月竣工>

miyamura30

 いずれにしても、平成より前昭和38年には庄田橋の前身となる橋が架けられたようです。

 そこで、もう一度「昭和10年の鴨川改修説明書き」のページをめくってみると、縦断勾配の図の最上流地点に「毛穴井橋」の表記があります。計画平面図と照らし合わせてみると、桂川合流点からの距離が17.4キロの地点に橋が架かっています。

 その橋は現在「志久呂橋(しくろはし)」という名の橋の場所でした。現在の志久呂橋は昭和49年に架設されたようですので、以前の橋の名前が「毛穴井橋」だったのかもしれません。

<鴨川河床(最低)縦断面図>

miyamura31

<鴨川(昭和10年)改修計画平面図 最上流部>

miyamura32

<最上流部に書き込まれた橋 旧庄田橋?>

miyamura33

<桂川合流点から17.4km地点 現在の志久呂橋の地点>

miyamura34

<現在の地図 志久呂橋と農業用水路>

miyamura35

<志久呂橋左岸上流から>

miyamura36

<毛穴井町>

miyamura37

 確かな事はわかりませんが、「志久呂橋」の上流側東の地名が「毛穴井町」であり、以前にもご紹介しました上賀茂社家の水支配の図にも、農業用水を取り入れた取水口「毛穴井井出」が見てとれます。

<上賀茂社家 梅辻家所蔵「禁裏御用水の図」 毛穴井井出>

miyamura38

 この「毛穴井」自体は昭和10年の川底の掘り下げで、同じ場所からは取水できなくなったと思われます。その後は上流の柊野堰堤左岸から農業用水を取水しています。

 地元の大正6年創業の化学品を生産されている企業に電話で何か情報が無いか問い合わせてみました。現在三代目の社長さんに応対して頂きました。

「毛穴井橋」というのは知らないけれど、「毛穴井川」というのが、会社の敷地内を流れていて、農業用水なので地元にも開放しているとの事でした。

<柊野砂防堰堤左岸取水口>

miyamura39

<道路の下を通って 毛穴井川>

miyamura40

<農業水路>

miyamura41

<流れていきます>

miyamura42

<その先には大正6年創業の老舗企業>

miyamura43

 毛穴井の名を受け継ぐ川(農業用水路)は現在も流れていることが判りました。絵図に描かれた流路は取水口を変えて流れ続けているようです。

 「庄田橋」「毛穴井橋」「志久呂橋」の正確な関係は判明しませんでしたが、鴨川改修の縦断面の起点となった「毛穴井橋」の位置が現在の「志久呂橋」だった事は間違いないと判明しました。

 しかしながら、改修計画平面図自体は現在の庄田橋からスタートしていますので、宮村先生のお話にあった「昭和10年大水害を契機とした鴨川大改修の起点は庄田橋との話題があがる」との説明にも頷ける結果ではあります。

 今後上賀茂神社が支配していた農業用水を辿ってみるのも面白いと思います。

 思いがけない「情報」を頂いた宮村氏に感謝しつつ今回の鴨川真発見記を終えたいと思います。

【追伸】

 今回の鴨川真発見記は2016年最後の号となります。今年はオリンピックイヤーで多くのガッツポーズを見ました。来年は「とり」年。先日鴨川で渡り鳥の“カワアイサ”を見ました。思いがけず撮った写真がまさにメスが「ガッツポーズ」のように見えました。ここにご紹介して来年も羽ばたきたいと思います。皆さん良いお年をお迎えください。

<ガッツポーズ? カワアイサのメス>

miyamura44

 

平成28年12月21日 (京都土木事務所Y)

 

【目次に戻る】

 

お問い合わせ

建設交通部京都土木事務所

京都市左京区賀茂今井町10-4

ファックス:075-701-0104

kyodo-kikakusomu@pref.kyoto.lg.jp