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植物園よもやま話「植物園100年の歴史」

GHQとの交渉

令和6年4月19日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【19】

進駐軍の家族用住宅地に指定され、園内の樹木の大半は伐採されることになりますが、GHQとの交渉には菊地園長と浅井技師の二人が植物園を守るために奮闘していました。GHQ側にも植物園に対する理解者がおり、米軍のアンダーソン教育部長とアロウ中尉は園の貴重な植物を守るように上層部に進言しております。
結果的に植物園の東部と南部が残ることになり、くすのき並木は伐採を免れました。また、貴重な植物も大阪や名古屋の植物園などに分散して預けられたおかげで、園が返還されたときは大変助かりました。
廃園同様になった1949年(昭和24年)菊地園長と浅井技師は職を去り、1947年から勤務の若い麓次郎(のちの第4代園長)だけが残ることになります。
くすのき並木に建つ住宅

駐留軍住宅の建設

令和6年4月12日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【18】

戦後すぐにGHQ(連合国軍総司令部)は植物園を進駐軍の幹部用家族住宅地に指定します。これを断ると京都御所外苑が選定されることから、植物園の東部と南部を残すことを条件に接収されることになります。1946年(昭和21年)秋から建設工事は進められ、園内の樹木の大半は伐採され、ブルドーザーによってロックガーデンや薬草園などは広い道路に変わり果てました。
当時の記録では25000本あった樹木の4分の3は伐採されたとされ、残された樹木も治安上の理由により街路樹のように下枝を切られました。池はボウフラがわくという理由で水を抜かれ水草も消失しました(写真左)。そのあとには洋風の住宅140戸に学校(写真右)、消防署やテニスコートなどができアメリカ村が建設されました。

百年の歴史写真18-1 百年の歴史写真18-2

終戦と植物園

令和6年4月5日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【17】

植物園100年の歴史は戦前と戦後では大きく変ります。
1945年(昭和20年)日本は終戦をむかえますが、分区農園(貸農園)の設置や初代観覧温室の解体に伴う植物の散逸など、すでに植物園機能がなくなっていることは想像できます。終戦後すぐにGHQ(連合国軍総司令部)が日本各地の都市に駐留し、京都にも司令部が設置され京都の公共施設、病院、学校、ホテル、邸宅などさまざまな建物が接収されました。連合国軍の家族用住宅地の建設が全国で計画され、京都では、広大な土地と司令部に近い京都御所外苑が当初候補地に選定されます。
しかしその案は国民的心情から受け入れられるものではなく、結果的に、植物園がその指定を受け、1946年に全面接収されます。

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植物園機能の喪失

令和6年3月29日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【16】

戦時下に食料や燃料などの統制が厳しくなると、植物園の運営に対しても様々な影響が出てきます。栽培温室は燃料を抑えるために建物を半地下の構造にし、夜は藁などで保温する工夫し、加温のスチームや鋼材が必要ない「国策温室」を建築したことが当時の新聞に掲載されています(写真左)。
開園以来の園のシンボルであった初代観覧温室は命令により取り壊され金属類が供出されます。植物園を支えてきた職員の中から徴兵される者も現れ、半木神社において壮行会が開かれています(写真右)。園内の茶店も食料難で撤退していきました。菊池秋雄第2代園長の指導のもと職員が一丸となってつくり上げた植物園は、その機能が徐々に喪失していき終戦を迎えることになります。

百年の歴史写真16-1 百年の歴史写真16-2

戦争の足音

令和6年3月22日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【15】

昭和10年(1935)頃にもなると、世の中に戦争の足音が聞こえて、国民の生活スタイルも厳しい状況に変化せざるを得なくなります。昭和9年の室戸台風と次年の京都大水害が続き、それからの復活を成し遂げ、植物園建設が軌道に乗りつつありましたが、文化的施設である植物園においても、「花づくり」に対する、世論の目も厳しくなってきます。
戦争が激化するにつれて食糧難が深刻になり、食料品が配給制になると、賀茂川の河川敷など空き地は開放され麦や野菜畑に変化していきます。広大な植物園の中も分区農園ができ土地を貸し出して野菜づくりがされます。
そんな逆境下でも、植物園の機能を維持し、貴重な植物の保全に向けて当時の職員、関係者は努力していきました。

歴史写真15 百年の歴史写真15-2

鴨川大水害

令和6年3月15日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【14】

昭和9年(1934)の室戸台風により植物園は倒木など甚大な被害を受けました。そのあと始末がようやく落ち着いた翌年6月28日から29日にかけて集中豪雨が発生し、流失した橋梁は56、浸水家屋50140戸、全壊半壊・流出家屋590戸、死傷者164名、罹災者総数は十数万人に上る大水害に見まわれました(京都市消防局HP)。鴨川からあふれた濁流は植物園に流れ込み、花壇などの園地は泥に覆われました。
この洪水において現在の北大路橋の20メートルほど上流に架かっていた中賀茂橋も流失しました。中賀茂橋は、昭和8年に北大路橋が架けられる以前にはすでにあった橋で植物園の建設や市バスの運行経路としても周辺の交通にも大きな役割を果たしておりました。

百年の歴史写真14-2 100年の歴史14-2

室戸台風の被害

令和6年3月8日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【13】

昭和9年(1934)9月21日に近畿地方を直撃した室戸台風は、近年では最大級の台風で府内で240人の死者、全壊が2890戸数にのぼり、多くの神社仏閣も被害を受けました。特に学校の校舎の倒壊がひどく多くの子どもたちが犠牲になりました。植物園でも昭和記念館の屋根が傷んだり、ヒマラヤスギの並木など数千本の樹木が倒伏し、正門から園の外側が見とおせる状況だったようです。
当時の菊池第2代園長と浦川技師は自然植栽を大切にしていたため、山城原野の自然植生が残る「なからぎの森」で倒伏したカゴノキの大木を最優先に復旧を指示した逸話が残ります。このカゴノキは現在も半木神社社殿向かって左側にヘリテージツリー(歴史的遺産樹木)として現存しています。

100年の歴史写真 百年の歴史写真13-2 百年の歴史写真13-3

植物園とレクリエーション

令和6年3月1日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【12】

当初の植物園の構想は、一般府民向け施設として植物や園芸知識を養う場であり、心身を鍛錬する公園的要素も加わったものでした。
そのため植物園付属運動場や児童用プールが設置され、規定の料金を徴収して運営資金にあてていました。運動場は余興的な施設ではなく、フットボールフィールド、テニスコート、野球場、陸上競技場など近代競技用に整備され、周囲には2万人収容の芝生スタンドがありました(現在の府立大学運動場)。
また、郡場初代園長が欧米の林地で見た綿羊の飼育風景を園内にも取り入れ、ヒツジやガチョウは植物園の名物だったようです。入園者への便宜を図るため5軒の茶店や休憩所があり、すし、丼物、汁粉、トーストなどの軽食が提供されていました。

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植物園の高山園

令和6年2月23日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【11】

戦前の植物園の施設の中で現在にはないものの一つに高山園があります。
高山園は現在のつばき園東側にあり、当時では珍しいロックガーデン式のもので3年の歳月をかけ昭和12年(1937)に完成しています。現在は土盛りや水路跡のみ残ります。高山植物をはじめ深山の植物を約900種ほど収集しておりました。また、高山の環境にあわせたミスト装置もある最新の施設でした。
珍しい貴重な植物ばかりで、盗難も多かったことから、土曜・日曜に限定公開をしていました。その他には植物の形態・生活状況や繁殖などの特徴を展示した生態・形態園、工芸植物を集めた工芸植物園、薬草園などがありましたが、戦後に植物園が進駐軍用住宅に接収されるとともに施設は次々取り壊されました。

100年の歴史11写真

植物園の植物コレクション

令和6年2月16日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【10】

植物園の使命のひとつは植物コレクションを収集・維持することです。開園当初は国内はもとより、海外の植物園などからの種子交換などによる植物導入が盛んに行われています。
昭和初期の植栽台帳をみると、園内の樹林地の樹木では国内は京都府内を中心に近畿各地から採集しているほか、北海道から九州の植物を収集しています。外国産樹種については中国、台湾からがもっとも多く、欧米ではニューヨーク、ローマ、パリ、ドイツなどの植物園からも積極的に導入しているのが伺えます。
植栽方法は植物の科ごとの分類や植生帯などによって配列するとともに、風致的効果も考慮して植栽し、樹形については自然樹形を保つことが鉄則で、その考え方は現在も引き継がれています。

100年の歴史10

植物園の初代観覧温室

令和6年2月9日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【9】

開園当初は現在のばら園はなく、牡丹・芍薬園や宿根草・球根花壇などの洋風庭園でした。さらに東側の現在の沈床花壇の中央は睡蓮池で中心には噴水がありました。その東側の高台に初代の観覧温室がありました。
面積約370平方メートルで現在の三代目観覧温室の約10分の1に満たないものですが、7つの部屋に区切られ、ベゴニア、ポインセチア、ゼラニウム、食虫植物、バナナ、タコノキ、観葉植物や促成花卉など、各部屋の目的にあわせた植栽がされていました。
また暖房を利用した苗の繁殖・育成、品種改良用の設備もありました。
残念なことに初代観覧温室は第二次世界大戦の様相が悪化すると解体され、20年来育て上げた植物は方々に分散されていくことになります。

100年の歴史9-2  100年の歴史9-1

植物園の設計プラン

令和6年2月2日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【8】

当園は起伏がない平坦な土地に立地しているのが特徴で、基本設計を行ったフランス人技師と寺崎技師は、それぞれ新宿御苑と明治神宮も設計しており、いずれも平地であるという共通点があります。
高低差のない土地を変化のある景観に見せるために、園地を曲線の回遊式園路でつなげ、その内側には芝生地、くすのき並木の南にはシンメトリックで直線的な洋風庭園を配置しています。また、借景として東山連峰の比叡山、中心部には山城原野の自然植生とされる半木神社の鎮守の森(なからぎの森)があり、人の手による植物園と自然とが融合する景観的配置になっています。なからぎの森には、かつて上賀茂から川が流れており、のちに西側の二つの池を造成し現在に至ります。

100年の歴史写真8

 

 

 

 

 

京都園芸倶楽部と植物園

令和6年1月26日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【7】

植物園の運営は園単独で運営困難なことは今も昔も同じで、園芸文化・知識の普及啓発などのソフト部門は、現在も植物園内に事務局を置く「京都園芸倶楽部」に頼るところが大きかったようです。
植物園が建設される機運が高まった大正6年(1917)京都の園芸好きが集まり「植物同好会」が結成されますが、植物園の建設責任者の寺崎良策が園の運営に協力を求めています。植物園開園の一年前に新たに「京都園芸倶楽部」として発足し、初代会長には伯爵の勧修寺経雄が就任しました。会員には植物学者や造園家、政治家など各界からの参加がありました。昨年100周年を迎えた日本最古の園芸倶楽部の定例会は現在も開かれ、雑誌「京都園芸」の発行やつばき展などの活動はつづいています。

100年の歴史写真7

 

 

 

 

 

 

大森記念文庫

令和6年1月19日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【6】

植物園構想の立役者である第10代京都府知事大森鍾一は植物園の開園も見ることなく大正5年(1916)には京都府を離職しましたが、造園や植物に対する造詣が深く、私財を投じて植物園に書籍を寄贈しています。
書籍の収集には府立図書館館長と初代園長の郡場寛が行い、主に本草学の書籍を中心に集められました。これらは大森の遺徳をたたえ「大森記念文庫」に保管されましたが、中には世界に三冊しかない明の本草学者、李時珍が編纂した「本草綱目」があり、洋書ではイギリスの植物学会発行の「ボタニカルマガジン」など三千冊におよぶ貴重な蔵書を有しています。
これらの資料については、近いうちにデジタルアーカイブ化を行いたいと思います。

100年の歴史写真6

 

 

 

 

 

植物園のなりたち

令和6年1月12日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【5】

植物園正門入って右手に開園記念碑(大正11年(1923)建立)が立っており、碑文には「時はかる器は前ありながらたゆみかちなり人の心は」という明治天皇の歌が刻まれています。この歌と植物園での関係性はわかりませんが、明治天皇はもともと京都御所にお住まいであり、明治天皇を祀った明治神宮技手の設計による植物園との縁を感じさせます。
開園当初の植物は京都はもとより近畿などの山地から収集したもので、海外の植物については、海外の植物園との交流により種子を導入しています。また園地は賀茂川の河川敷であるため石礫が多く土壌が薄く、外部から大量の土を搬入して園地の基礎が出来上がりました。
100周年を記念して樹名板を設置したヘリテージツリーは開園初期に導入した樹木で今も観察できます。

100年の歴史写真5

 

 

 

 

 

 

 

 

植物園の設立主旨

令和6年1月5日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【4】

総合植物園としてのスタートを切った京都植物園の初代園長には郡場寛京都大学教授が就任します。郡場は1年前に設立された京大理学部付属植物園の園長も兼ねており、京都植物園は「設備・植物の配置・収集等、すべて一般民衆を目的とするもの」とし、学問研究を目的とする京大植物園との目的の違いを述べています。
京都植物園の設立の主旨は「普通教育を基本とし、大自然に接して英気を養い園内遊覧のうちに草木の名称、用途、食用植物、熱帯植物、有毒植物、特用植物(染料、工芸植物)、薬用植物及び、園芸植物等の知識と天然の摂理一般を普及させ、加えて我が国植物学界各分野の学術研究に資することを目的とする。」となっています。
敷地にはグラウンド(現在の府立大グラウンド)、初代観覧温室、大正記念館(大正御大典朝集場を移築)等を有していました。

100年の歴史写真4

 

 

 

 

 

植物園の開園

令和5年12月22日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【3】

三井家から25万円の寄付を受け、植物園造成は動き出すことになりますが、物価はさらに高騰し造成工事が立ち行かなくなります。このころには、米価格の暴騰により、全国で米騒動が起きております。このままでは植物園の完成を見ることができなくなるため、再び三井家から30万円の寄付を受けることになります(この間の経過については、正門北側にある京都植物園設立記念碑に刻まれています)。
戦争の影響により建設期間が長引き、計画からまる8年を費やし大正12(1923)年11月10日の大典記念日に「大典記念京都植物園」が完成します。同年9月1日には関東大震災が起き、10月には市電北大路線が「植物園前」まで延伸しています。
そして大正13年1月1日に一般有料開園が始まります。

100年の歴史3

日本一の植物園に

令和5年12月15日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【2】

内国博覧会の開催が諸事情により断念され、購入した約10万坪(約33万平方メートル)の土地は植物園建設にかじを切ることになります。
当時、都市公園の先駆けとして日比谷公園など近代公園が造成されています。京都ではこの地に一般庶民向けの社会教育施設として、日本一の植物園を造成しようと機運が高まりました。
しかしながら、第1次大戦などの影響による物価高騰のため資金不足に陥り計画も順調にいかなくなります。そこに京都発祥の三井家同族会から事業の賛同をいただき、大正4年に25万円の寄付を受けることになります。大正6年には明治神宮の造営を手掛けた寺崎良策に設計を委嘱し、植物園造成は動き出すことになります。

植物園の歴史写真3

 

 

 

 

 

 

 

内国博覧会会場から植物園に

令和5年12月8日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【1】

当園は1924年(大正13年)に有料開園を開始してから来年1月で100周年を迎えることになります。植物園の土地は古くは養蚕が盛んな土地で「錦部里(にしごりのさと)」ともよばれ織物の神が鎮座する上賀茂神社の境外末社「半木神社」の鎮守の森があり、まわりは田畑が広がっている土地でありました。
この場所に大正天皇御大典を記念して内国博覧会を開催する計画が上がったのが1913年(大正2年)です。当初は府議会で博覧会開催を決定したものの、膨大な建設費調達などの理由により開催は断念せざるを得ない状況になり、植物園建設にかじを切ることになります。
写真は博覧会計画地を視察する大森鍾一知事(写真左)です。

植物園100年の歴史写真

 

 

 

 

 

 

 

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