更新日:2025年1月20日

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植物園よもやま話「植物園100年の歴史」

200年の植物園には200年の木がある

令和6年9月13日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【40】

これまで連載してきた植物園100年の歴史の大きなトピックとしては、創設期における植物導入と植栽。室戸台風などの気象災害における被害と復旧。戦時中の園内農園化と戦後の進駐軍住宅建設に伴う樹木類の大量伐採。2017年(平成29年)と2018年の台風による300本以上の樹木への被害などがありました。
100年の植物園には100年の樹木があるのは当然と思われるかもしれませんが、歴史を見守り毅然としてたたずむ樹木は貴重な存在です。
本年、国内初導入種や由来のはっきりしている樹木38種類をヘリテージツリー(歴史遺産樹木)として登録しました。
次の100年に向けて、これらの古い樹木を次世代に引き継いでいく必要があります。【おわり】
100年の歴史写真40ヒマラヤスギ(樹齢100年以上)

次の100年に向けて(2)

令和6年9月6日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【39】

次の100年に向けた植物園将来像については、2022年(令和4年)の「有識者懇話会」における議論と同時に行った植物園職員によるワーキングや府民の意見をもとにした、ソフト・ハード両面の整備計画案が発表されました。
ハード面では観覧温室の建替え、標本庫・学習拠点施設の設置、どんぐりの森など子育てエリアの整備とバックヤードの拡充などが盛り込まれました。
ハード面を補強するソフト施策としては、未来の子どもたちに向けた学習コンテンツの拡充、植物多様性保全に向けた活動の強化と新標本庫を連動した「京都植物誌」の作成が打ち出されています。
植物を通した憩いの場としての機能と当園のもつ栽培技術をさらに高め、次の100年に向けた取り組みを順次進めていく必要があります。
100年の歴史写真39職員による現地調査

次の100年に向けて(1)

令和6年8月30日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【38】

植物園のあり方や施設整備については、2009年(平成21年)の「魅力あふれる施設」整備計画に基づき、観覧温室の高山植物室、北山オープンカフェ、賀茂川門などが順次行われました。
2019年(令和元年)「京都府立植物園100周年未来構想」が示され、北山文化ゾーン(京都学・歴彩館、府立大学)の連携や交流、植物園の施設整備(正門エントランス等)が盛り込まれました。
同年「京都府総合計画」が策定され、その実現に向けた「北山エリア整備基本計画」が出されるとともに、2022年には幅広い視点から意見聴取する「植物園整備検討に係る有識者懇話会」が設置されました。
併せて植物園職員や府民の意見をもとに、次の100年に向けたハード・ソフト両面の施策の方向性が打ち出されました。
100年の歴史写真38職員によるワーキング

ナショナルコレクション

令和6年8月23日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【37】

2022年(令和4年)に当園の「アマミアセビとリュウキュウアセビの遺伝資源コレクション」及び「野生のハスおよびキバナハスのコレクション」の2件が、日本植物園協会のナショナルコレクションに認定されました。
ナショナルコレクションとは、ヨーロッパを中心に行われている野生種・園芸品種のコレクション認定制度の日本版になります。これらのコレクションを後世に伝えるとともに、園芸文化の普及・植物多様性保全など今後の研究や開発等での活用も期待されます。
2024年には「京都府立植物園のサクラ品種コレクション」(約180品種)が新たに認定されました。単独施設として3つのナショナルコレクションをもつのは全国最多です。いずれも日頃の地道な活動が評価に結びついたものになります。
100年の歴史写真37ナショナルコレクション認定証

台風の被害

令和6年8月16日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【36】

植物園に生える樹木類は、毎年のようにやってくる台風の被害を受けます。1934年(昭和9年)の室戸台風は、開園時に植栽してやっと落ち着いた樹木に多大な被害をもたらしました。
将来的には台風が大型化することも予想されることから、被害を少しでも防ぐ管理が必要になります。それには樹木同士の競争を和らげ、下枝を残すことによって重心を下げ、根がしっかり張ったズングリとした樹形に保つことが肝要になります。
残念なことに、2017年(平成29年)と2018年の台風21号の直撃により樹木類の幹折れや倒伏のほか施設にも大きな被害が出ました。
両年で、レバノンスギをはじめ直径30センチ以上が164本、全体では300本以上の貴重な樹木が損傷し、現在も各所にその爪痕が残ります。
100年の歴史写真36倒伏したレバノンスギ

さまざまな連携

令和6年8月9日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【35】

2013年度(平成25年度)の入園者が80万人まで回復した後も、新しい取り組みを続けています。
オフィシャルパートナー第1号のタキイ種苗(株)と提携協定締結し(2014年)、花壇用苗の提供や植物園のイベント等で協力いただいています。
また、京都市動物園、京都水族館、植物園の3園館での包括交流連携協定締結(現在は青少年科学センターを含む4園館)と絶滅危惧植物保全温室の新設(2015年)、京都大学との植物多様性保全に関する連携協定締結(2018年)が進められました。
これら植物と関係する企業や研究機関と連携することによって、植物園条例にもある、憩いの場の提供や植物学の研究に寄与し、ひいては植物多様性保全の推進や植物園機能の向上にもつながっています。
100年の歴史写真35絶滅危惧植物保全温室

新たな取り組み(2)

令和6年8月2日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【34】

2000年(平成12年)頃にはレジャーの多様化やテーマパークなど他施設の増加などにより、年間入園者数が57万人(2002年)と再開園以降最少に落ち込みました。
そのため、ソフト面においては、夏の開園時間の延長及び観覧温室の夜間開室とイルミネーション(2005年)、技術職員による「土曜ミニミニガイド」や「園長の気まぐれ散歩」、桜ライトアップ(2006年)を開始、小・中学生の入園無料と年間パスポートの発売(2013年)、ファンクラブの発足(2014年)など、新しい取り組みを次々と行いました。
ハード面の整備では中央休憩所を「森のカフェ」として改装(2011年)、宿根草・有用植物園を「四季 彩の丘」にリニューアルオープン(2012年)するなどし、2013年には入園者が80万人まで回復しました。
100年の歴史写真34土曜ミニミニガイド

新たな取り組み(1)

令和6年7月26日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【33】

三代目観覧温室などが新設された1992年(平成4年)は、入園者数144万人と再開園以降の最高入園者数を記録しました。
その後の様々な取り組みや出来事として、同年皇太子殿下(現天皇陛下)の行啓があり、1994年(平成6年)には植物園ボランティア「なからぎの会」が発足しました(今年で発足30周年を迎えました)。
2005年(平成17年)に再入園制度の導入、2008年には花の回廊~早春の草花展~及びガイドサポーターによる「植物園ガイド」を開始。2009年には当園と京都府立大学、京都府立総合資料館(現京都学・歴彩館)の3機関による包括協定を締結し、北山・下鴨エリアにおいて連携協力して活動を行うことが確認されました。同年11月には天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后)の行幸啓もありました。
100年の歴史写真33包括協定の締結

第三代観覧温室

令和6年7月19日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【32】

1992年(平成4年)に建替えられた三代目観覧温室は、北山連峰の山並みや池に浮かぶ金閣寺(避雷針には鳳凰)の意匠を取り入れた京都北山らしい外観になりました。
内部は石組みや池、滝を配置し、食虫植物やアナナス(パイナップル科植物)などを新規に導入、植栽されました。
高低差のある通路は熱帯植物から高山植物などを順々に観察できる回遊式で、植物の種類、面積ともに国内最大級の観覧温室が完成しました。
さらに、2013年(平成25年)には高山植物室と昼夜逆転室を新設しました。京都の深山に自生する植物や世界の高山植物と、本来なら夜に咲く花を昼間に観察できるようになり、多様な植物を身近に観察できる施設としてリニューアルされました。
100年の歴史写真32第三代観覧温室

開園60年と再整備

令和6年7月12日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【31】

戦後の荒廃した植物園が再スタートし、二代目観覧温室や植物園会館の建設、日本の森の整備により植物園としての機能は向上しました。
再開園して30年も経つと、植物も成長して古くからある樹木類と新しく導入された植物が景観として調和し、ソフト面では様々な企画や新しい入園料制度なども備わってきました。
1984年(昭和59年)の開園60年周年には北山門が完成し、洋風庭園はバラを中心に再整備されました。
建設から30年経った観覧温室と植物園会館については1992年(平成4年)に建替えられました。観覧温室は面積が2倍になり植物の新規導入やエリアも増え、植物園会館(現会館)についてはバリアフリー化や研修施設等の拡充が行われました。
100年の歴史写真31旧植物園会館

再開園と植栽木

令和6年7月5日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【30】

戦前と終戦直後を経験した第四代園長の麓は再開園後の姿を見通し、「樹木は植えて30年経つと自然になじんでくる」と述べています。
1961年(昭和36年)の再開園に向けて各地から植物の収集を図りましたが、それだけでは荒廃した植物園の機能回復が果たせないため、多方面から植物の寄贈を受けました。
例えば、現在の花しょうぶ園にあるオオシダレザクラ(1964年植栽)をはじめ最近認定されたナショナルコレクションのサクラに関しては先代の佐野藤右衛門氏から、ランシンボク(1965年植栽)は神奈川県の金沢文庫から、くすのき並木北側のハリモミは武田薬品京都薬用植物園からと、これらの支援なしには日本屈指を誇る当園のコレクションは成し得なかったことでしょう。
100年の歴史写真30現在のオオシダレザクラ

ふるさとの森「植物生態園」

令和6年6月28日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【29】

再開園(1961年)で正門側の植物園南半分を先行して整備しました。残された北半分は「ふるさとの森(京都府の森)」という名称で整備予定でしたが、万国博覧会(1970年開催)を訪れる外国人が日本全国の草木を一同に観察できる「日本の森」として着工されました。
植物生態園はその中心エリアで、全国の植物を集めて展示するのが理想ですが、夏に高温多湿となる京都では北方系の植物の栽培が困難で、どうしても近畿を中心とした植栽にならざるを得ないものがありました。
植物生態園は北方系、中部関西系、南方系に大きく大別され、ほかに海浜系、湿地系のエリアを設けています。
現在は整備時に植栽した樹木類も大きく成長し、「日本の森」エリアとして継承されています。
100年の歴史写真29植物生態園のスプリンクラー

「日本の森」の整備

令和6年6月21日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【28】

第四代園長に就任した麓次郎は、「100年後のために生き生きとした植物園を作らなければいけない」と抱負を述べており、京都府開庁100周年記念事業として「日本の森」の整備を計画します。
植物園は生きた植物の知見を得る貴重な場であり、まずは身近な植物を知ることは大事なことです。
麓自身がベルリンの植物園を視察した際に自国の植物を大切にしていることに感動し、ふるさとの草木を収集した森を植物園で再現したかったのでしょう。
進駐軍住宅により荒地同然になった園内の、正門付近に人工的な花壇と観覧温室を配置し、植物園北半分を日本の森として整備しました。
1970年(昭和45年)に日本の森の主要エリアとして、植物生態園の公開が始まります。
100年の歴史写真28日本の森(植物生態園)

総合植物園として

令和6年6月14日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【27】

「京都府立植物園」と名称も改まり、1961年(昭和36年)4月から有料再開園が始まりました。前年には、京都府立植物園条例も公布され、そこには「植物を育成栽培し広く府民のいこいの場としてこれを公開し、植物の観賞を通じて一般の教養に資するとともに、植物学の研究に寄与するため…」(第1条設置)とあります。
それは、栽培技術をとおして多様な植物を紹介し、植物に接する場と機会の提供と植物・園芸に関する知識・技術の普及・向上、そして多数の植物を収集、育成、保存し、あわせて学術研究等に資する「総合植物園」の定義そのものでした。
1962年(昭和37年)に第四代園長に就任した麓次郎は、「100年後のために生き生きとした植物園を作らなければいけない」と述べています。
100年の歴史写真27

植物園懇話会と再開園

令和6年6月7日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【26】

植物園の再建に向け、有識者を集めた「植物園懇話会」による検討と、府民向けの「懇話会」を数回開催して幅広く意見を聴取することとなります。
大温室や資料室を備えた植物園会館などの建築案が加えられるとともに、家族づれなどの憩いの場として大芝生地や児童遊技施設の設置も決められました。
建設工事約10か月の短期間で、正門やトイレなどが竣工しました。
1960年(昭和35年)12月京都府立植物園条例が公布され、組織の立て直しと設置目的も改正されました。名称も「大典記念京都植物園」から「京都府立植物園」に改まりました。
1961年4月25日に有料再開園が始まり、戦後から現在に至る新生植物園の新しい歴史がはじまりました。
100年の歴史写真26

大温室の再建

令和6年5月31日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【25】

植物園再開に向けた大きな取り組みのひとつは大温室の再建でした。
初代温室は戦時中の取り壊し命令によりなくなっていました。麓技師らは、植物園接収当時から次の温室を建てる場所は別の位置にと検討していました。初代温室があった沈床花壇東側の高台は温度が下がりやすく、多くの来園者を迎えるには面積が小さいなどの理由からです。
戦後に有識者を集めた「植物園懇話会」が結成され、温室再建に向けた検討の結果、焼失した昭和会館跡地に建てることになりました(写真)。新温室は球型ドーム温室を中心に、ラン室など6つ部屋を備えたものでした。
なお、大正記念館については接収中にかなり老朽化しており、再開園までに解体されることになります。

100年の歴史写真25

純粋の植物園に

令和6年5月24日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【24】

接収によって変容した植物園の姿を見てもらうための無料公開と同時に、投書箱を設置し府民に対してアンケートをとったところ、「一日も早く昔の植物園に復元せよ」、「有料でもよいから早く開園せよ」、「公園化することなく純粋の植物園にせよ」という意見が圧倒的で、これらには関係者への感謝の言葉が付記されていたようです。
植物園再開に向けたプランはいくつもあったようですが、財政再建下の府の状況や「純粋な植物園に」という意見に基づき、大温室建設を中心とした復元案が進められました。
1959年(昭和34年)の秋に日本植物園協会の臨時総会が当園で開催され全国の関係者に協力を求めたところ、植物園の復興にむけての決議がなされました。

100年の歴史写真24

臨時無料開園

令和6年5月17日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【23】

戦後の植物園の再開園は1961年(昭和36年)ですが、それを待たずして、接収による植物園の状況を府民に周知するために、臨時無料開園を実施しました。
1959年(昭和34年)春の「チューリップ」(前号で記述)を皮切りに、夏季に「朝顔展」(写真)、秋季には「菊花展」、そして1960年の春季に「桜とチューリップ」を約1ケ月間公開しました。
臨時開園による入園者数は延べ66日間で48万人、1日平均7300人になる盛況ぶりで、変容した植物園の姿を見届けたい府民がいかに多かったかが伺えます。
朝顔展と菊花展については、戦後の再開園以降、現在もつづくもっとも古い展示会になります。
無料公開と同時に、投書箱を設置し府民に対してのアンケートも実施しました。

100年の歴史写真23-1 100年の歴史写真22-2

植物園の復興

令和6年5月10日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【22】

ようやく植物園が全面返還となったのは、1957年(昭和32年)12月12日でした。
全面返還とはいえ、調達庁との補償金折衝や進駐軍住宅の撤去に相当な時間を要し、実際に京都府に還ったのは1年後の1958年12月26日になります。
返還された植物園の再建計画を進めていく中、現状を府民に報告することを目的に、再開園を待つことなく1959年春に臨時無料公開を行います。
戦中戦後の20年近い間で植物園の機能が失われた園内を見届けるべく、丹後産のチューリップが咲き競う4月15日からの12日間で、15万5000人の入園者が押しかけました。
特に公開最終日の日曜日には7万人(近年では1日2万人が最高)の入園者があり、北大路通まで行列ができました。

100年の歴史写真22-1 100年の歴史22-2

植物園の返還

令和6年5月3日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【21】

1957(昭和32年)年12月12日に進駐軍住宅用地から京都府への返還がされたものの、荒廃した植物園を今後どうするのかが検討されます。大学の敷地とする案、住宅地や遊園地にする案なども出されたようです。
しかし、府の方針は植物園の復興でした。園の麓技師(のちの園長)らは再建に向け、伐採された樹木の補償に対する評価調査を数か月で行い、政府の特別調達庁との交渉に乗り出します。
ところが、単なる材木としての評価を行う調達庁の査定と、1本1本生きた貴重な樹種として積み上げた園の評価額には大きなかい離が生じます。
1年数か月ほどつづく何十回にも及ぶ粘り強い交渉が行われた結果、最終的に1959年(昭和34年)年に妥結することになります。

100年の歴史21 

100年の歴史写真21-2返還式の様子

昭和会館の焼失

令和6年4月26日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【20】

進駐軍住宅用地になった植物園には少数の職員が駐在していただけで、日本人は立入禁止になっていました。接収中の残念な出来事のひとつとして、昭和会館(写真)の焼失があります。
昭和会館は昭和天皇御大典の際に御所内で第一朝集所として使われた総檜づくり約500坪の御殿です。
接収中に内部を米軍将校用のホールやスタンドバー、クラブなどに改修され使用していたところ、失火により全焼しました。
そんな中、京都府と政府の調達庁との返還交渉や、日本植物園協会からアメリカの植物園協会への接収解除に向けた要請活動が実り、ようやく植物園返還の流れができます。1954年(昭和29年)、園付属の運動場(現在の府立大グラウンド)が先んじて返還されることになります。

百年の歴史写真20-1 百年の歴史写真20-2

GHQとの交渉

令和6年4月19日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【19】

進駐軍の家族用住宅地に指定され園内の樹木の大半は伐採されますが、菊地園長と浅井技師の二人が植物園を守るため、GHQとの交渉に奮闘していました。GHQ側にも植物園に対する理解者はおり、米軍のアンダーソン教育部長とアロウ中尉は園の貴重な植物を守るように上層部に進言しています。
結果的に植物園の東部と南部が残ることになり、くすのき並木は伐採を免れました。
また、貴重な植物も大阪や名古屋の植物園などに分散して預けていたおかげで、園が返還され再建するときは大いに役立ちました。
1949年(昭和24年)、菊地園長と浅井技師は廃園同様になった園を去り、1947年から勤務する若い麓次郎(ふもとじろう・のちの第四代園長)だけが残ることになります。
百年の歴史写真19くすのき並木に建つ住宅

駐留軍住宅の建設

令和6年4月12日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【18】

戦後すぐにGHQ(連合国軍総司令部)は植物園を進駐軍の幹部用家族住宅地に指定します。これを断ると京都御所外苑が選定されることから、植物園の東部と南部を残すことを条件に接収に応じます。
1946年(昭和21年)秋から建設工事は進められ、園内の樹木の大半は伐採され、ロックガーデンや薬草園などはブルドーザーによって広い道路に変わり果てました。
当時の記録には25,000本あった樹木の4分の3が伐採され、残った樹木も治安上の理由により街路樹のように下枝を切られたとあります。
池はボウフラがわくという理由で水を抜かれ、水草も消失しました(写真左)。そのあとには洋風の住宅140戸に学校(写真右)、消防署やテニスコートなどを有するアメリカ村が建設されました。

百年の歴史写真18-1 百年の歴史写真18-2

終戦と植物園

令和6年4月5日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【17】

植物園100年の歴史は戦前と戦後で大きく変ります。
1945年(昭和20年)日本は終戦をむかえますが、分区農園(貸農園)の設置や初代観覧温室の解体に伴う植物の散逸など、すでに植物園機能がなくなっていることは想像できます。
終戦後すぐにGHQ(連合国軍総司令部)が日本各地の都市に駐留します。京都にも司令部が設置され公共施設、病院、学校、ホテル、個人の邸宅などさまざまな建物が接収されました。
連合国軍の家族用住宅地の建設が全国で計画され、京都では広大な土地と司令部に近い京都御所外苑が当初候補地に選定されます。
しかしその案は国民感情から受け入れられるものではなく、結果的に植物園がその指定を受け、1946年(昭和21年)に全面接収されます。

百年の歴史写真17-1 百年の歴史写真17-2

植物園機能の喪失

令和6年3月29日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【16】

戦時下に食料や燃料などの統制が厳しくなると、植物園の運営に対しても様々な影響が出てきます。
栽培温室は燃料を抑えるために建物を半地下の構造にして夜は藁などで保温する工夫をし、加温のためのスチームや鋼材が必要ない「国策温室」を建築したことが当時の新聞に掲載されています(写真左)。
開園以来園のシンボルであった初代観覧温室は命令により取り壊され、金属類が供出されます。
植物園を支えてきた職員の中から徴兵される者も現れ、半木神社において壮行会が開かれています(写真右)。園内の茶店も食料難で撤退していきました。
菊池秋雄第二代園長の指導のもと職員が一丸となってつくり上げた植物園は、その機能が徐々に喪失していき終戦を迎えることになります。

百年の歴史写真16-1 百年の歴史写真16-2

戦争の足音

令和6年3月22日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【15】

1935年(昭和10年)頃になると世の中に戦争の足音が聞こえ始めて、国民の生活スタイルも厳しい状況に変化せざるを得なくなります。
1934年(昭和9年)の室戸台風と次年の京都大水害からの復活を成し遂げ植物園建設が軌道に乗りつつありましたが、文化的施設である植物園においても「花づくり」に対する世論の目が厳しくなっていきます。
戦争が激化するにつれて食糧難が深刻になり食料品が配給制になると、賀茂川の河川敷など空き地は開放され、麦や野菜畑に変化しました。広大な植物園の中も分区農園ができ、土地を貸し出して野菜づくりが行われました。
そんな逆境下でも当時の職員・関係者は、植物園の機能を維持し貴重な植物の保全に向けて努力を続けました。
歴史写真15 百年の歴史写真15-2

鴨川大水害

令和6年3月15日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【14】

1934年(昭和9年)の室戸台風により植物園は倒木など甚大な被害を受けました。その後始末がようやく落ち着いた翌年、6月28日から29日にかけて集中豪雨が発生し流失した橋梁は56基、浸水家屋50,140戸、全壊半壊・流出家屋590戸、死傷者164名、罹災者総数は十数万人に上る大水害に見まわれました(京都市消防局HPより)。
鴨川からあふれた濁流は植物園に流れ込み、花壇などの園地は泥に覆われました。
この洪水で現在の北大路橋の20メートルほど上流に架かっていた中賀茂橋も流失しました。
中賀茂橋は、昭和8年に北大路橋が架けられる前からあった橋で、植物園の建設や市バスの運行経路としても、周辺の交通にも大きな役割を果たしていました。

百年の歴史写真14-2 100年の歴史14-2

室戸台風の被害

令和6年3月8日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【13】

1934年(昭和9年)9月21日に近畿地方を直撃した室戸台風は近年では最大級の台風で、府内でも死者240人、家屋の全壊が2,890戸にのぼり、多くの神社仏閣も被害を受けました。特に学校の校舎の倒壊がひどく多くの子どもたちが犠牲になりました。
植物園でも大典記念昭和会館(昭和大礼の第一朝集所を移築)の屋根が傷んだり、ヒマラヤスギの並木など数千本の樹木が倒伏し、正門から園の外側が見とおせる状況でした。
当時の菊池第二代園長と浦川技師は自然植栽を大切にしていたため、山城原野の自然植生が残る「なからぎの森」で倒伏したカゴノキの大木(写真下)を最優先に復旧する指示をしたという逸話が残ります。このカゴノキは現在も半木神社社殿向かって左側に、ヘリテージツリー(歴史的遺産樹木)として現存しています。

100年の歴史写真 ヒマラヤスギ復旧の様子

百年の歴史写真13-2 洋風庭園

百年の歴史写真13-3

植物園とレクリエーション

令和6年3月1日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【12】

当初の植物園の構想は、一般府民向け施設として植物や園芸知識を養う場であり、心身を鍛錬する公園的要素も加わったものでした。そのため植物園付属運動場や児童用プールが設置され、規定の料金を徴収して運営資金にあてていました。
運動場は余興的な施設ではなく、フットボールフィールド、テニスコート、野球場、陸上競技場など近代競技用に整備され、周囲には2万人収容の芝生スタンドがありました(現在の府立大グラウンド)。
また、郡場初代園長が欧米の林地で見た綿羊の飼育風景を園内にも取り入れ、ヒツジやガチョウは植物園の名物だったようです。入園者への便宜を図るため5軒の茶店や休憩所があり、すし、丼物、汁粉、トーストなどの軽食が提供されていました。

100年の歴史写真12-1  100年の歴史写真12-2

100年の歴史写真12-3  100年の歴史写真12-4

植物園の高山園

令和6年2月23日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【11】

戦前の植物園施設の中で現在はないものの一つに、高山園があります。
高山園は現在のつばき園東側にあり、当時では珍しいロックガーデン式のもので3年の歳月をかけ1937年(昭和12年)に完成しました。現在は土盛りや水路跡のみ残ります。
高山植物をはじめ京都の深山の植物を約900種ほど収集して、高山の環境にあわせたミスト装置もある最新の施設でした。
珍しい貴重な植物ばかりで盗難も多かったことから、土曜と日曜に限定公開をしていました。
その他には植物の形態・生育状況や繁殖などの特徴を展示した生態・形態園、工芸植物を集めた工芸植物園、薬草園などがありましたが、戦後に植物園が進駐軍用住宅地として接収されると、施設は次々に取り壊されました。

100年の歴史11写真

植物園の植物コレクション

令和6年2月16日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【10】

植物園の使命のひとつは植物コレクションを収集・維持することです。開園当初は国内はもとより、海外の施設との種子交換などによる植物導入が盛んに行われています。
昭和初期の植栽台帳をみると、園内の樹林地の樹木は京都府内を中心に近畿各地から採集しているほか、北海道から九州の植物を収集しています。外国産樹種については中国、台湾からがもっとも多く、欧米ではニューヨーク、ローマ、パリ、ドイツなどの植物園からも積極的に導入しているのが伺えます。
植物の科ごとの分類や植生帯などによって配列するとともに風致的効果も考慮して植栽し、樹形については自然樹形を保つことが鉄則で、その考え方は現在も引き継がれています。

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植物園の初代観覧温室

令和6年2月9日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【9】

開園当初は現在のばら園の場所は、牡丹・芍薬園や宿根草・球根花壇などの洋風庭園でした。その東側(現在の沈床花壇)の中央は睡蓮池で中心には噴水がありました。さらにその東側の高台に、初代の観覧温室がありました。
面積約370平方メートルで現在の三代目観覧温室の約10分の1に満たないものですが、7つの部屋に区切られ、ベゴニア、ポインセチア、ゼラニウム、食虫植物、バナナ、タコノキ、観葉植物や促成花卉など、各部屋の目的にあわせた植栽がされていました。
また暖房を利用した苗の繁殖・育成、品種改良用の設備もありました。
残念なことに初代観覧温室は第二次世界大戦の様相が悪化すると解体され、20年来育て上げた植物は方々に分散されていくことになります。

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植物園の設計プラン

令和6年2月2日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【8】

当園は起伏がない平坦な土地に立地しているのが特徴で、基本設計を行ったフランス人技師と寺崎技師はそれぞれ新宿御苑と明治神宮を設計しており、いずれも平地であるという共通点があります。
高低差のない土地を変化のある景観にするために、園地を曲線の回遊式園路でつなげ、その内側には芝生地、くすのき並木の南にはシンメトリックで直線的な洋風庭園を配置しています。
また、東山連峰の比叡山を借景とし、中心部には山城原野の自然植生とされる半木神社の鎮守の森(なからぎの森)があるなど、人の手による部分と自然とが融合する景観配置になっています。
なからぎの森には、かつて上賀茂から川が流れており、のちに西側の二つの池を造成し現在に至ります。

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京都園芸倶楽部と植物園

令和6年1月26日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【7】

植物園は、単独では運営困難なことは今も昔も同じで、園芸文化・知識の普及啓発などのソフト部門は、現在も植物園内に事務局を置く「京都園芸倶楽部」に頼るところが大きかったようです。
植物園が建設される機運が高まった1917年(大正6年)、京都の園芸好きが集まり「植物同好会」が結成され、植物園の建設責任者である寺崎良策が園の運営に関する協力を求めています。
植物園開園の1年前には新たに「京都園芸倶楽部」として発足し、初代会長には勧修寺経雄伯爵が就任しました。会員には植物学者や造園家、政治家など各界から参加がありました。
昨年100周年を迎えた日本最古の園芸倶楽部の定例会は現在も開かれており、雑誌『京都園芸』の発行や、つばき展などの活動がつづいています。

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大森記念文庫

令和6年1月19日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【6】

植物園構想の立役者である第10代京都府知事大森鍾一は植物園の開園を見ることなく1916年(大正5年)に京都府を離職しましたが、造園や植物に対する造詣が深く、私財を投じて植物園に書籍を寄贈しています。
書籍の収集は府立図書館館長と初代園長の郡場寛が行い、主に本草学の書籍を中心に集められました。これらは大森の遺徳をたたえ「大森記念文庫」に保管されました。中には世界に三冊しかない中国・明の本草学者、李時珍が編纂した『本草綱目』があり、洋書ではイギリスの植物学会発行の『ボタニカルマガジン』など約3,000冊におよぶ貴重な蔵書を有しています。
これらの資料については、近いうちにデジタルアーカイブ化を行う予定です。

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植物園のなりたち

令和6年1月12日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【5】

植物園正門入って右手に開園記念碑(1923年(大正11年)建立)が立っており、碑文には「時はかる器は前ありながらたゆみかちなり人の心は」という明治天皇の歌が刻まれています。この歌と植物園での関係性はわかりませんが、明治天皇はもともと京都御所にお住まいであり、明治天皇を祀った明治神宮技手の設計による植物園との縁を感じさせます。
開園当初、園内の植物は京都はもとより近畿などの山地から採集したもので、海外の植物については、各国の植物園との交流により種子を導入しています。
また、園地は賀茂川の河川敷であるため石礫が多い上に土壌が薄く、外部から大量の土を搬入して園地の基礎が出来上がりました。
100周年を記念して樹名板を設置したヘリテージツリーは、開園初期に導入した樹木で今も観察できます。

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植物園の設立主旨

令和6年1月5日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【4】

総合植物園としてのスタートを切った京都植物園の初代園長には郡場寛(こおりば かん)京都大学教授が就任します。郡場は1年前に設立された京大理学部附属植物園の園長も兼ねており、京都植物園は「設備・植物の配置・収集等、すべて一般民衆を目的とするもの」とし、学問研究を目的とする京大植物園との目的の違いを述べています。
京都植物園の設立の主旨は「普通教育を基本とし、大自然に接して英気を養い園内遊覧のうちに草木の名称、用途、食用植物、熱帯植物、有毒植物、特用植物(染料、工芸植物)、薬用植物及び、園芸植物等の知識と天然の摂理一般を普及させ、加えて我が国植物学界各分野の学術研究に資することを目的とする。」となっています。
敷地にはグラウンド(現在の府立大グラウンド)、観覧温室、大正記念館(大正御大典朝集場を移築)等を有していました。

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植物園の開園

令和5年12月22日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【3】

三井家から25万円の寄附を受け植物園造成は動き出すことになりますが、物価はさらに高騰し造成工事が立ち行かなくなります。このころ、米価格の暴騰により全国で米騒動が起きています。このままでは植物園の完成を見ることができなくなるため、再び三井家から30万円の寄附を受けることになります(この間の経緯については、正門北側にある京都植物園設立記念碑に刻まれています)。
戦争の影響により建設期間が長引き、計画からまる8年を費やし1923年(大正12年)11月10日の大典記念日に「大典記念京都植物園」が完成します。同年9月1日には関東大震災が起き、10月には市電北大路線が「植物園前」まで延伸しています。
そして1924年(大正13年)1月1日に一般有料開園が始まります。

100年の歴史3

日本一の植物園に

令和5年12月15日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【2】

内国博覧会の開催が諸事情により断念され、購入した約10万坪(約33万平方メートル)の土地は植物園建設にかじを切ることになります。
当時、都市公園の先駆けとして日比谷公園(東京)など近代公園が造成されています。京都では一般庶民向けの社会教育施設として、日本一の植物園を造成しようと機運が高まりました。
しかしながら、第1次世界大戦などの影響による物価高騰のため資金不足に陥り、植物園造成計画も順調にいかなくなります。そこに京都発祥の三井家同族会から事業への賛同を得て、1915年(大正4年)に25万円の寄附を受けます。
1917年(大正6年)には明治神宮の造営を手掛けた寺崎良策に設計を委嘱し、植物園造成は動き出すことになります。

植物園の歴史写真3

 

 

 

 

 

 

 

内国博覧会会場から植物園に

令和5年12月8日発行なからぎ通信
植物園100年の歴史【1】

京都府立植物園は、1924年(大正13年)に有料開園を開始してから来年1月で100周年を迎えることになります。植物園の土地は古くは養蚕が盛んで「錦部里(にしごりのさと)」ともよばれました。織物の神が鎮座する上賀茂神社の境外末社「半木神社」の鎮守の森があり、そのまわりに田畑が広がっている土地でした。
この場所で大正天皇御大典を記念して内国博覧会を開催する計画が上がったのが1913年(大正2年)です。当初は府議会で博覧会開催を決定したものの、膨大な建設費調達などの理由により開催は断念せざるを得ない状況になり、植物園建設にかじを切ることになります。
写真は博覧会計画地を視察する大森鍾一知事(写真左)です。

植物園100年の歴史写真

 

 

 

 

 

 

 

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京都市左京区下鴨半木町

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