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鴨川真発見記 平成28年2月

 第221号 鴨川リレー探鳥会に参加しました

「木の陰に見え隠れ」そんな野鳥観察も楽しいものです

 平成28年1月31日(日)は「公益財団法人日本鳥類保護連盟京都」主催の「鴨川リレー探鳥会」に参加しました。まさに「小春日和」のぽかぽか陽気とあって、快適な探鳥会となりました。

<快晴の高野川 叡山電車中より花園橋を望む>

 今回の探鳥コースは高野川の上流部、八瀬から花園橋付近までという事で、山でよく見られる野鳥たちも姿を見せてくれました。

 しかしながら、木の枝の間を素早く動き回る野鳥や、木の枝の陰になる野鳥もあり「見えた!見えない!逃げた!」などの声を上げながらの探鳥会となりました。

 集合場所に早く到着したので、付近の野鳥の様子を1人で見て回りました。最初に姿を見せたのは、木の枝や葉に隠れて“ヒヨドリ”です。「ヒヨー、ヒヨー」と鳴きながら赤い木の実を食べていました。

<写真中央に“ヒヨドリ”>

 次に現れたのは“シロハラ”です。鴨川真発見記では始めてお目見えの野鳥です。こちらはバッチリ全身を撮影させてくれました。お腹が白いから“シロハラ”です。クチバシの下側の黄色がアクセントですね。

<鴨川真発見記初お目見え>

<シロハラ>

 背中の白い斑点が紋付きの羽織の様に見えるのは、“ジョウビタキ”のメスです。こちらも背中からながら全身を撮影させてくれました。首を傾げた様な仕草が愛らしいですね。

<“ジョウビタキ”メス>

<右見て左見て>

 集合時間が近づき、叡山電鉄八瀬駅改札前まで行くと、頭上のサクラ?の木の上に“メジロ”がさえずっています。

 小さくて動きの速い“メジロ”が少し開き始めた花の蜜を吸いながら、「あっちへ、こっちへ」飛び回ります。

 なんとか撮影したものの、やはり木の枝が邪魔をしてその姿をハッキリ捉える事が出来ませんでした。その“なんとか”な写真を御覧ください。

<花にクチバシを伸ばす“メジロ”>

<メジロの片方の目が見えました>

<蜜を吸う 真下から>

<飛び去りました>

 そうしているうちに、探鳥会が始まりました。最初に確認できたのは“モズ”ですが、こちらは木の二股の付け根に止まってこちらを見ています。お天気が良すぎて白く発色してしまったのがこの写真です。

<二股の付け根に“モズ”>

<こちらを見ています>

 こちらも小さな野鳥“シジュウカラ”です。普段見るのは木の上でさえずっている姿ですが、この日は地面に落ちた木の実をついばんでいました。

 ここでも、手前の木の枝にピントが合って“シジュウカラ”がピンぼけになりますが、なんとか粘って一枚、背中を撮影する事が出来ました。

<手前の木のピントをふりほどいて“シジュウカラ”>

 この日の案内人は、会で一番の肉眼での鳥探しの達人「伊佐さん」です。このコースの一番の目玉は“カワガラス”です。

 叡山ケーブル乗り場の前に架かる橋の上から上流を参加者全員で眺めていると、「カワガラスがいる!」と声が上がりました。他の参加者には見えません。同氏にフィールドスコープの中にカワガラスを捉えてもらって見せて頂きました。

<この橋の上から>

<肉眼で見るとこの遠さ>

 どうやらもう一羽いるようで、「営巣しているようだ」との事でした。ここもサクラなどの枝が川全体を覆うように伸びていて、焦点が定まらずデジカメで撮影する事は困難でした。

 やっとの思いで、一枚だけシルエットを撮影する事ができました。

<写真上部 中央やや左寄り>

<なんとか“カワガラス”のシルエット>

 そんな撮影の邪魔をされた木の枝にも花が咲いています。紅梅です。北野天満宮の梅園も早くに見頃を迎えたようですが、高野川沿いの紅梅も開花していました。

<花開いた紅梅>

 頭の上遙か上空では、猛禽類が2羽悠然と飛んでいましたが、飛び方がいつもと違います。一羽がもう一羽に“ツバメ”の様に急接近して、また離れてを繰り返していました。どうやらディスプレイ(オスがメスに求愛)しているのではないかとの事でした。

<遙か頭上に舞う猛禽類>

 こちらは、木の枝ではなく“電線”に邪魔されて一羽が細い電線の陰に隠れてしまいました。会の皆さんのお見立てでは“オオタカ”だろうとの事でした。

<トリミングして2羽確認 おそらく“オオタカ”>

 高野川を少し離れて、三宅八幡へ向かいました。その途中で再び“モズ”が現れました。こちらでも木の枝が邪魔します。参加者が色んな角度から確認を試みます。

 オスメスの判断の基準となる、目の所の黒い帯状の模様を確認します。無いようでメスとの事でした。私が見た角度からは、その肝心な目の辺りが丁度木の枝でブラインドされて、どっちかわかりませんでした。

<目隠し状態の“モズ”>

 ゴール地点の三宅八幡宮に到着すると、「“イカル”がさえずっている」ということで、その黄色いクチバシを確認しましたが、写真には収められませんでした。

<クチバシ、頭確認出来ず“イカル”>

 最後まで木に邪魔される探鳥会でしたが、チラリと見える野鳥を探すのも楽しいものだと気づかせてもらった探鳥会でした。

公益財団法人鳥類保護連盟京都から当日の「出現鳥」の情報が寄せられました。

【出現鳥】22種

マガモ、カルガモ、キジバト、カワウ、トビ、オオタカ(♂♀?)、モズ、ハシブトガラス、ハシボソガラス、ヤマガラ、シジュウガラ、ヒヨドリ、エナガ、メジロ、カワガラス(♂♀?)、シロハラ、ツグミ、ジョウビタキ、スズメ、キセキレイ、ハクセキレイ、イカル 以上

 

平成28年2月3日(京都土木事務所Y)

 

 第222号 昭和の鴨川大改修の経過をたどる

現在の鴨川・高野川の姿を決めた河川整備(その2)

 鴨川真発見記第220号では、鴨川の七条大橋から上流の昭和の大改修の様子をご紹介しました。今回は出町で鴨川と合流する高野川と鴨川で前回ご紹介できていなかった箇所をみてみましょう。

 高野川と接する叡山電鉄の鉄橋の橋台の崩落と大原と京都を繋ぐ府道京都大原線も広い範囲に渡って崩落しました。

<叡山電鉄高野川鉄橋東橋台付近の崩壊>

<府県道大原京都線(八瀬・大原村界より南方約500m)の決壊>

<高野川左岸府県道大原・京都線山端の決壊箇所より上流を望む>

手前護岸ヶ所より先方電柱のある所を結ぶ線が在来の道路の位置

<高野大橋上流府県道大原京都線の流失>

 右手民家の白壁の下黒くなれる部分が最高水位

 今回最初にご紹介するのは、高野川の北大路通りに架かる高野橋上流です。

 昭和11年から始まった改修で、下流域からの改修が進んでいなかった松ヶ崎浄水場付近の昭和13年8月の増水時の様子です。

 当時少年だった郷原氏の回想を綴られた「高野川の畔」という随筆を鴨川真発見記第156号でご紹介しました。その中に「増水する高野川と護岸の崩落」の様子が出てきます。この写真の説明は当時の様子を目の当たりにされた郷原氏の随筆を引用させて頂きたいと思います。

<高野川右岸松ヶ崎森ヶ本町地先 昭和13年8月4日撮影>

<同上 平成28年2月5日撮影>

※左京医報掲載随筆 昔話“高野川の畔”(上) 養徳班 郷原 憲一氏より

 あれは何年のことだったでしょうか、1937年か8年(昭和12年か13年)・・・やはり大雨で増水し、この時は溢れるのではなくて、濁流の川が大きく蛇行を始めて、河岸を削り落とし出しました。 

 近くではうちの川上にあったカネボウの社宅の処を削り落とした流れが向かい側へ曲がって行き、松ヶ崎浄水場の正門の前の川岸に建つ瀟洒な一軒屋の敷地を削り落とし、その家が丸ごと濁流の中に落ちてしまいました。ガラガラガララ・・・バッシャン・・・大きな落雷を思わせるような轟音がして、それは実に恐ろしい光景でした。

 そこから流れがこちら側に向かって来て、高野橋の直ぐ川上にあった二階建ての三軒長屋を、やはり地面を削り落として流れ去らせました。

 あのカーブがもう少し南に寄っていたら高野橋を東端で削り落として流したことでしょう。 

 うちの少し南に新しく建った二軒の家の土地も削り取られ始めたので、水流を少しでも弱めようと、電車通りのニセアカシアの街路樹を何本も根元から切ってきて、幹を針金で縛って流れに投げ込みます。一方が岸に固定してあるので、枝葉の張った木が岸に流れ寄ってきます。 

 水流が土地に直接当たって削り落とすのを防ごうというのです。何本も何本も試みているうちに、何とか何とか表玄関の間の下まで削り取られたところで水の猛威が止まり、倒壊を免れました。

 この洪水の後、本格的な川の改修工事が急ピッチで進められました。

 

 出水当日の緊迫感のある情景描写が、水害の“怖ろしさ”やそれに対応する人々の奮闘を伝えてくれます。郷原氏のように水害を体験された方の語り継ぎも水害や河川整備を考える上で重要な事だと改めて感じました。

 同じく高野橋上流の様子です。

 郷原氏の随筆のとおり急ピッチで工事が進んだのでしょう。昭和15年には落差工が完成し、両岸に護岸の石積みが整備されています。遠くに見えている橋は馬橋ですが、現在はその間に松ヶ崎人道橋が架かっています。住宅が増えて人が往き来する橋を架ける必要があったものと思われます。

 当時の写真には川端通り沿いのサクラ並木はおろかその他の樹木も見当たらず、その先の家屋が見通せます。河合橋上流から松ヶ崎橋まで川端通り沿いに見事に続くサクラ並木も高野橋上流には存在しなかった様です。同時期に植えたサクラは同時期に寿命を迎える事になります。この区間のサクラは京都市管理の歩道部分にあります。

 京都市では、古くなって元気の無い古木の植え替えが進められています。少しずつ世代交代が必要になるのはどこのサクラ並木も同じですね。

<高野橋上流比叡山を望む 昭和15年3月撮影>

<同上 平成28年2月5日撮影>

<高野橋の上から比叡山を望む 平成26年9月14日撮影>

<植え替えられたサクラの若木 平成28年2月7日撮影>

 高野川と岩倉川の合流する地点の改修です。白く新しい石積みの護岸が整備されて、背割り堤も整備されました。現在では、石積みも黒く変色し、手前のお宅の庭木も大きく成長しています。

<高野川、岩倉川合流点を下流から望む 昭和15年8月撮影>

<同上 平成28年1月18日撮影>

 花園橋が跡形もなく流失しています。この橋は現在の白川通りの高架橋から岩倉方面に繋がる橋ですが、写真左に写っている道も崩落している様です。こちらの道は大原へ続く道ですので2つのルートが寸断されたと思われます。

 現在では、大原へ続く道路は広げられて、川底も深く堀下げられているのがわかります。

<鞍馬電鉄鉄橋上より下流 昭和13年8月4日撮影>

花園橋は流失され跡形なし

<同上 平成28年1月31日撮影>

 花園橋から一つ上流に位置する橋が「三宅橋」です。この橋が崩落した事によりルートは完全に寸断された事になります。当時の写真の書き込みに、右手側旧三宅橋、左手仮橋とあります。昭和10年に流失した三宅橋は本復旧する前に仮橋が流失しています。現在の写真にも当時橋のたもとにあった建物がそのままの佇まいで残っています。

<三宅橋西詰めより上流 昭和13年8月4日撮影>

仮橋流失の状況を望む

<同上 平成28年1月11日撮影>

 次の写真は、今回ご紹介する高野川の様子では、最上流の位置のものです。昭和10年の大水害をキッカケに実施された高野川改修の終点付近です。この上流にはかつて「八瀬遊園」という遊園地があり、現在は会員制のリゾートホテルが建っています。

 川の中の様子は樹木の枝が繁茂し、この地点からは大きな落差の半分以上が隠れて見えません。

<高野川 市郡界付近 昭和15年8月撮影>

高野川改修工事終点付近落差工

<同上 平成28年2月5日撮影>

 前回の鴨川の様子を紹介した中で、紹介できていなかった箇所を今回ご紹介したいと思います。

 出雲路橋の下流、二つめ目の落差工の下流の位置から上流を眺めた写真です。

 この区間の左岸側には現在、大きな住宅が建ち並んでいますが、当時も大きな建物(京都映画?)が目立っています。

<出雲路橋下流から上流を望む 昭和15年12月9日撮影>

<同上 平成28年2月6日撮影>

 今回最後にご紹介するのは、昭和10年の大改修の中でも、一部区間を付けかえた区間です。それは、現在の“勧進橋”から“水鶏(くいな)橋”の間の区間です。

 改修前は、勧進橋から下流に向かって“くの字”に東に流路を曲げて、現在の水鶏橋辺りに向かって西に戻ってくる流れでしたが、その間を直線に真っ直ぐに流れる様に流路を付けかえました。

 現在、水鶏橋東詰め上流の「京都府立京都高等技術専門校」が建っている場所は、改修前は鴨川の中だった事がわかります。

 鴨川では、蛇行する川を真っ直ぐにして、川の水が暴れない様に改修した唯一の箇所がこの勧進橋、水鶏橋間の改修でした。

<昭和10年からの改修図面より 勧進橋・水鶏橋間>

<勧進橋下流右岸から下流側を望む 新河道流頭部 昭和15年11月21日撮影>

<同上 平成28年2月5日撮影>

<水鶏上流左岸から上流を望む 新河道流末部 昭和15年11月12日撮影>

<同上 平成28年2月5日撮影 写真右の建物は「京都府立京都高等技術専門校」>

水鶏橋の東詰めを挟んで下流側にある「京都府精神保健福祉総合センター」も旧河川敷きです。

 その後時代は平成となり、阪神高速8号京都線が完成し、勧進橋の上空をクロスするように鴨川をまたいでいます。この辺りの風景も大きく変化しました。

 そして、現在勧進橋・水鶏橋間の右岸では、低水護岸、高水敷、高水護岸の整備に続いて、堤防上に桜の木を植樹しています。

<勧進橋の上/右岸から下流を望む>

<水鶏橋の上/右岸から上流を望む>

<植栽が進む右岸堤防上>

<同左>

 かつて殺風景だった高野川の高野橋上流と同様に、このサクラも時を経て大きく育ち、春には見事な花を咲かせてくれる事と思います。

 

平成28年2月8日 (京都土木事務所Y)

 

 第223号 京都市立養徳小学校で出前講座

5年生「京都の風水害について調べよう」~身近な災害から身を守るために~

 京都市立養徳小学校では、京都市教育委員会「セーフスクール推進事業」指定校として、又今年は「セーフティープロモーション(SPS)認証支援校」として、1年生から6年生まで全ての学年で安全について学習されています。

 研究主題は「気づき、考え、判断し、行動できる子の育成」~見る(観る)、聞く(聴く)ことを大切にし、伝え合える子~ です。

 2月5日(金)は、その研究発表会が養徳小学校で開催されました。京都土木事務所としては、5年生の「京都の風水害について調べよう」~身近な災害から身を守るために~の全34時間の学習の中で、中盤の5時間の学習のお手伝いをさせて頂きました。

 はじめの1時間目は、1月13日(水)の午前中です。昭和10年に発生した鴨川・高野川の大水害をキッカケにして、どの様な整備をしたのかです。これは、鴨川真発見記第220号そして222号でご紹介していますので、そちらをご参照ください。

 そして、同日の2時間目は養徳小学校から北へ約1.5kmに位置し、松ヶ崎橋上流で高野川に合流する音羽川で昭和47年に起こった土砂災害についてお話ししました。

 昭和47年に被災した事をキッカケに増設、補強した砂防堰堤や流路整備の詳しいお話は鴨川真発見記ではご紹介できていませんので、近いうちに養徳小学校でお話しした内容を整理して皆様にもご紹介しようと思います。

 翌日の1月14日(木)には、前日にお話しした音羽川の砂防堰堤の現場を見学に来てくれました。養徳小学校から徒歩で音羽川の砂防堰堤まで、お日様の当たる道を汗をかきながらの行列です。

<養徳小学校5年生の行列が到着>

 音羽川の砂防堰堤の中でも一番大きな堰堤は、高さが22.5mと大きなものです。その砂防堰堤は、現在の高さに嵩上げした当時は構造上の基準に合致していましたが、その後全国で発生した地震の強さを考慮すると、必ずしも安全では無くなってきました。

 そこで、今年度はその堰堤の前に張り出す形でコンクリートを補強して強度を増すための工事を実施しています。現場では、京都土木事務所の工事実施を担当する河川砂防室長と実際に施工してもらっている施工業者の方から砂防堰堤の事や増強工事についてお話しを聞きました。

 堰堤が並ぶ音羽川でも一番下流に位置する“沈砂池”では、工事のための通路を確保するための大型土嚢(どのう)が溜まった砂で作られています。昨年の7月の増水で、上流から流されてきた土砂が沢山溜まっていましたが、ほとんどの土砂が取り除かれて、工事用に利用する事が出来ました。

<砂防堰堤整備事業・砂防学習ゾーンモデル事業平面図>

※平成27年10月29日 工事着手前の様子 池いっぱいに土砂が溜まっています。

<沈砂池 下流から>

<同左 上流から>

※平成28年1月15日 現場見学時の様子

<沈砂池 下流から>

<同左 上流から>

 沈砂池の傍では、施工業者さんから大型土嚢の作り方を教わりました。バックホウの傍に置かれた大きな“じょうご”の様なものの下に大型土嚢袋を設置して、上から砂を袋に詰めて作ります。

<バックホウですくい上げた砂を>

<この道具で袋に詰めます>

 音羽川には実際に来た事がある児童は少ないようで、「こんな開けた所があったのか」などと感想が漏れていました。

<山の中の広い空間に驚きの感想も>

 途中、音羽川を渡る“渡り石”を渡って工事現場へ到着しました。現場では、補強工事の準備が進んでいました。流れている水が工事箇所に当たらない様に、大きな管(コルゲート管)を土の下に埋め込んで、ここに水を流します。

<渡り石を渡って>

<工事現場へ到着>

 重い重機がこの上を走っても大丈夫という大きな管に一堂びっくりです。触ってみたり、中を覗いてみたりと、巨大な管に興味津々でした。

 目の前に現れたのは、巨大な壁22mの砂防堰堤です。

<嵩高22mの巨大な砂防堰堤>

<隣には大きなコルゲート管>

 ここで、河川砂防室長からこの工事の概要を説明しました。自身の体をこの砂防堰堤に見立てて、お腹を前に突き出して「お腹の前にコンクリートを張りだして、砂防堰堤を太らす工事をしています」と“身振り”“手振り”を交えて解りやすく説明しました。

 私が京都土木事務所に配属になってから、約5年が経過しようとしていますが、小学生が工事現場の見学に来てくれたのは初めての事です。偶然にもその第一号が養徳小学校の5年生となりました。

<河川砂防室長の工事概要説明>

 児童からは、音羽川へ歩いて来る途中で、ハンドルの様なものがあったけれども、何をするものなのかの質問がありました。上の写真の左側にも同様の施設があります。それは、農業用水を水路に引き込むゲートの開け閉めをするもので、音羽川の水も田畑に引き込まれて農作物を育んでいる事も学習して頂きました。

 その後も児童達の学習は進んでいったそうで、2月5日の発表会のご案内を頂きました。

 その発表授業内容のまとめを、担任の先生ではなく、京都土木事務所の職員から話して欲しいという依頼付きでした。

 自分ならその時どうするのか?「避難するか?しないのか?」というもので、設定条件の場面に出くわした時に自分はどう判断するのかという問いにどう対処するかです。前置きとして、「正解はないけれども自分で考えてみる」のが大切という事でした。

<これまでの学習の成果が貼り出されていました>

 最初にこの授業内容を説明された時には、大人でも判断に迷う課題に「小学5年生の児童がどういった話合いをするのか?授業自体がスムーズに進むのか?」と少々疑問を持ちながら発表会を拝見しに出向きました。

<あなたのとる行動は?>

<発表してくれる人! ハイ!>

 授業が始まると、そんな疑問が吹き飛びました。最初の条件設定に対して自分がどうするのか、個人個人がワークシートに書き込んで行きます。僅か「5分の考えタイム」どの児童もすらすらとそのペーパーを埋めていきます。

 

めあて:自分ならどんな行動をとるか考えよう

条件設定

◆家にいる(一軒家) マンションに住んでいる児童も今回は一軒家で考える

◆親が親戚の家に行っていて夜遅くなる

◆時間は夜の8時半

◆風や雨が強くなってきた

◆特別警報が発表されて避難勧告が出た

◆固定電話が使えない

→「そこで自分がとる行動は?」

 

 5分が経過して、考えた事を発表する時間になりました。先生の「考えた事を発表できる人」の問いかけに一斉に手が挙がります。

 考えた事を発表して、次の人を指名する「リレー方式」で次々と意見が発表されます。自分も賛同する意見には「いいと思います」という言葉と共にグッドを示す様に、親指を立てて態度で示します。

 長い時間をかけて学習されてきたとはいえ、5分間でこれだけの意見をまとめて発表できるのかとひとつ目の驚きです。そのまとめをご紹介しますと、

 

※自分がとる行動 一人学び

●風で飛びそうなものを家の中へ入れる

●雨風が強まる前に安全なところへ行く

●家の最上階へ行く(高いところ)

●窓のシャッターを閉める

●情報を集める テレビ・ラジオをつけておく

●近所の人にどうするか聞く

●インターネットで情報を集める

●水、衣服、靴、防災バッグなどを用意する

●兄弟や近所の人の安全を確認する

 

ここまで、授業が進んだところで、更なる条件が追加されます。

追加条件

◆高野川の水位が上昇してきた

◆避難勧告が避難指示に変わった

◆近所の人の中には避難を始める人も見える

◆風は強まったり弱まったり

→どうする?「YES=避難する」「NO=避難しない」

 「YES」と「NO」のカードが各自に配られて、3~4名の班に別れて話合いが始まりました。ここで、二つめの驚きです。この条件設定を見て、児童達が大きな声で自分の考えを披露して話合っています。出前講座で授業した時は、おとなしい感じを受けていた児童達が、笑顔で楽しそうに盛り上がっているのです。

<班で話合おう>

<あなたは“YES”“NO”>

 そして、自分の意見発表です。「YES」か「NO」かその理由を明らかにして、自分がとる行動が示されました。この意見も素晴らしかったので、ご紹介します。

 

※「YES 避難する」

●近所の人と一緒に避難すると心強い

●水防団も動いているだろうから避難した方がよい

●近所の大人も危ないと判断して避難している人もあるので、自分も避難する

●避難命令となるかもしれないので、その前に避難する

●土砂も流れてくるかもしれないので早めに避難する

※「NO 避難しない」

●自分の家は高野川や疏水に近いのでかえって危険

●外に出ずに家の2階(高い所へ移動する)

●水位が上昇していて危険 家で水位が下がるのを待っている

●マンホールの蓋が外れているかもしれなので危険

●避難所も家と同じ位危ないかもしれない

 

 最後にまとめをと、先生から振られましたが、児童達が自ら出した答えが全てです。

 ※まとめ、自分の命やくらしを守るために

  ・安全確認

  ・情報収集

  ・道具の備え

 終了時間が迫っていたので、省略しましたが、その時お話しした内容をご紹介したいと思います。

 

<京都土木事務所からまとめ>

 皆さん大人でも判断に迷う課題を熱心に話合い、答えを導き出そうとする姿勢に感心しました。災害時にどうするか「YES、NO」で答えるのはとても難しい事です。

 大切な事の一つには、「備え」があります。「備え」にも二つあって、被災した時に当面必要な「物」を備えて置くこと。停電、断水などのライフラインが途絶えた場合への対応と食べるものです。そしてもう一つの備えが日頃の「心構え」です。今日のような話会いを家族や地域の方と共有する形で「その時」どうするかを話会って置くことです。

 二つ目に、「情報収集」です。水災害は地震と違って突然には発生しません。雨が降って水災害が起こるまでには、その前に相当の時間があります。台風や大雨の情報はテレビのデータ放送でも確認できるので、大雨が降りそうな時は事前にどうするか確認しておきましょう。

 そして三つ目には、「状況確認」です。高野川の様子を見に入って確認する事は危険なので絶対してはいけませんが、自分の家のまわりがどうなっているのかは、可能な範囲で確認する必要があります。

 皆さんの熱心な話合いは、災害が起こる国“日本”に生きる中で大変重要な事柄です。それはわたし達大人にとっても同じ事です。是非、学区主催の防災訓練に参加して、大人の皆さんと一緒に話し合う機会をつくって欲しいと思います。

 とお話しさせて頂きました。

<発表会の学習の成果 ホワイトボード>

 授業の後で開催されました記念講演及び事後研究会の場で、養徳小学校の安全教育に対する姿勢に触れる事となりました。

 そのキッカケは、3年前に起こったプールでの事故でした。二度と起こさないために、教職員が一丸となって、学校安全に取り組み、危険を排除するための学習が続けられています。
 その時、養徳小学校に勤務していなかった教員もその取り組みに呼応して、まさに学校が地元住民を巻き込んでの取り組みが広がっている事が解りました。

 1年生から6年生まで、30時間から60時間近くのカリキュラムを組んで安全学習に取り組んでいる事を知るに到りました。発表会を終えた先生の言葉から取り組みに対する想いが伝わります。「無事に発表会を終えて感極まっています」

 いつもの「出前講座」と軽い気持ちで引き受けましたが、事前の担当教員さんとの3度に渡る熱心な打合せの意味がここで解りました。

 自然災害をはじめとする「安全」に対して、「小学生の頃からの充分な教育が必要」とされる研究者も多く、この授業の意味は大きなものだと思います。この学習が他の小学校にも広がる事を期待して今回の記事を終えます。

 養徳小学校5年担当の相川先生、川端先生、素晴らしい発表会を有難うございました。

 そして全教員の皆さん、これからもこの学習の取り組みを継続してください。

 

平成28年2月8日 (京都土木事務所Y)

 

 第224号 江戸時代末期の鴨川の様子をうかがう”その1”

「賀茂川筋絵図」より

 鴨川真発見記では、これまで明治時期以降の鴨川の様子を何度かご紹介してきました。今回はそれよりも少し前の様子を、江戸時代に作成された絵図を使ってご紹介してみたいと思います。

 その絵図は、「京都市歴史資料館」が所蔵されている資料で、資料名「賀茂川筋絵図」大塚コレクション№0406というものです。同館から資料等特別利用許可を頂き、電子データのご提供を頂きました。

<賀茂川筋絵図>

※出典:大塚コレクション№0404(京都市歴史資料館所蔵)

 その内容は、鴨川の洪水で被災した際の修復を示した絵図で、下流は現在の七条大橋の下流から上流は柊野地区上流まで長い区域の様子が描かれています。

 「公儀石垣」と「町石垣」も色分けされ、どこを誰が修復したかがわかるのみならず、大変興味深い記述や絵が描き込まれていますので、何度かに分けてシリーズでお届けします。

 公儀を広辞苑で調べると「朝廷や政府などの評議」とあります。今で言うと、役所が整備したものか、民間が整備したものかの違いです。

 絵図の下流側(先頭)には、「公儀」と「町」が分担した石垣(石積護岸)の延長とその区間が示されています。その単位は「間」でメートルに換算すると1間=約1.8181818mですので、メートルに直してみましょう。

<公儀石垣>

 約1,823m

 内 約1,357m

   今出川上がる所より荒神口下がる所まで 西堤

 内 約466m

   三条、五条橋䑓至る 丸太町下がる西堤

堤頭御用水其の外の所々野石垣

<町石垣> 

 約4,018m

荒神口下がる所より五条橋まで所々に有り

<石垣延長>

 続く「凡例」には「御修復料」「御修復之場所」「蛇篭」「町家」「町ヨリ出来の石垣」と絵図が色分けして着色されています。

<凡例>

 最初に公儀石垣の示された区域を絵図から特定してみましょう。公儀石垣を示す箇所は2区間に分けて示されています。最初の1,357m区間です。

 絵図の賀茂川の下側が西岸(右岸)で、黄色く帯状着色された部分です。その川側には、凡例緑色の蛇篭が並べてあるのがわかります。

今出川上がる所より荒神口下がる所まで 西堤>

 公儀石垣の残りの約466m区間が次の画像です。この区間も3箇所に分けてあります。

 画像右が五条大橋、左が三条大橋で、橋の両岸の石垣が黄色く着色されています。

<三条大橋・五条大橋>

 同じく丸太町橋の下流西岸が黄色く着色されています。

<丸太町下がる西堤 画像上が北>

 画像下側、御所に引かれていた御用水の取水口も被災して、公儀石垣として修復されました。この場所は他にも興味深い記述などがありますが、後ほど詳細に見ていきたいと思います。

<堤頭御用水其の外の所々野石垣>

 町石垣は「荒神口下がる所より五条橋まで所々に有り」と書かれていますので、これから先にご紹介する画像で、西岸の白い石垣が「町石垣」です。

 ここでは省略させて頂きます。

 ひとつ当時の橋の様子について注目してみると、「橋脚のある橋」は、「五条」と「三条」のみで、その他の橋は川中に板を並べただけの仮橋的なものでした。当然欄干もありません。

 それでは、下流から区間を区切って見ていきましょう。最初は七条通付近から五条通付近までです。

 七条通りの川幅と大仏正面通り約142mです。現在の七条大橋の橋の長さは、約82mですので、明治時代に入って琵琶湖疏水の幅の分狭くなっています。

 両方の通りに架かる橋も板橋で、川幅の中の水が流れる範囲内のみに橋が架かっていました。五条・三条以外の橋も同様です。

<七条通から大仏正面通区間 画像上が北(上流)>

 五条の橋は、当時幅約116mで幅が、約8.7m、橋の平均の高さは敷き詰められた石敷きから約2.5m程の高さでした。両岸の石積みも敷き詰められた石6,000㎡も修復されました。現在の五条大橋の下にも石敷きがあります。当時の石が幾つかは残っているかもしれません。

 石敷きの下流側には、「幅3間(約5.5m)の間に「乱杭」が川幅一面に有り」と書かれています。「乱杭」を広辞苑で調べると、

 「秩序なくやたらに打ち込んだ杭。地上や水底に順序を乱して杭を打ち込み、網を張りめぐらし、敵の侵入を防ぐもの」とありました。幕末の時代、敵の侵入とは誰の事でしょうね。歴史に詳しい方ならわかるのでは?

 更に注目したのは、その下流東岸(左岸)から流れ込む川の名前です。そこには「音羽川」と書かれています。音羽川といえば、比叡山から流れて高野川に合流する「音羽川」、そして山科区の「音羽川」は知っていますが、ここに「音羽川?」と首をひねってしまいます。

 現在この場所付近には、京都市の“雨水”と“下水”の合流式都市下水の増水時の鴨川への「水吐き口」があります。

 「音羽」といえば、もう一つ有名なものがありました。五条通りを東に行けば清水寺の「音羽の滝」があります。ここから流れ出た流れが鴨川に向かって流れていたものを「音羽川」と称していたのではないでしょうか?

<五条通上下流>

 松原通りに架かる橋も板を渡しただけのものでした。牛若丸と弁慶が出会ったと伝えられる「五条の橋」は当時、現在の松原橋付近に架かっていた橋を指すとの説もあります。

 松原通上流の左岸には、「悪水抜き」とあります。今の下水道と同じ様な役割をしていましたが、今の下水道ほど汚れた水ではなかったでしょう。

 農業用水路の余り水や、生活排水が流れていましたが、化学洗剤やトイレの汚物は含まれていませんでしたが、飲み水には適さなかったようです。

 その対岸(西岸)には、「コエ場」とあります。「コエ」とは当時の貴重な農作物の肥料でした。人間の糞尿は貴重なものとして、高瀬川の高瀬舟で下流域の農地に運ばれました。

 今では「下水道」を通って運ばれます。要するに金銭価値のあった「コエ」の集積場と「悪水抜」が対面しているのも偶然ながら時代の流れを示している様で少なからず因果を感じます。

<松原橋上下流>

 四条通り三条の橋の間です。四条大橋は、他の板橋の形状と異なって、川の両岸から中州に向かって板が渡されています。中州には「日小屋」と書かれた小屋が描かれています。

 橋の左右岸には、「牛馬杭」という杭が設けられていて、牛や馬を繋いだようです。川の中には車道と書かれており、牛車、馬車は川の中を渡ったそうです。

 左岸からは、今も変わらす「白川」が合流しています。現在も変わらず支流が合流する様子をみると何だか“ホッ”とした気分になります。

 この区間の川の中では、当時見せ物小屋や飲食店が所狭しと並んでいたと聞きます。増水時には速やかに避難できたのでしょうか?

<四条通りと白川>

<牛馬杭 東岸(左岸)>

<牛馬杭 西岸(右岸)>

 三条通りの橋は、五条の橋と同様に石敷きが被災して修復されています。
 橋の長さは約105m、幅約6.5m、石敷きからの高さが平均して約2.4m、石敷き面積約6,700㎡でした。

 上流左岸からは、高瀬川が引き込まれています。この辺りに多く見られる白い石垣がご紹介を省略しました「町石垣」です。左岸側の川の傍の町家は、修復料を示すピンクに着色されています。左岸の被災した町家は、持ち主が修復されているようです

 二条通りの橋は、四条大橋と同様に中州に向かって両岸から板が渡されていて、これまた四条同様に「日小屋」という小屋が設けられています。

<三条通りから二条通り>

 丸太町通り上下流です。この区域を見て気がつくのは、当時の「洛中」「洛外」の扱いの違いです。「洛中」と呼ばれた平安京の都側は、石積みの「石垣」が並んでいて、修復されているのに対し、「洛外」とされた鴨川東岸には蛇篭(竹で編んだ籠に石を詰めたもの)が並んでいます。

 しかも公儀石垣の前には、更に蛇篭で補強されているのがわかります。

 そして町家と「町石垣」の部分は、持ち主が修復されていますが、公儀石垣に守られたお住まいは石垣と共に公儀が修復したのでしょうか。

<丸太町通り上下流>

 続いては、荒神口上下流の様子です。荒神口上流の妙経寺と書かれたお寺は、公儀石垣に面していますが、自力で修復されたようです。

 荒神口の下流へは、鴨川に沿って北から流れる川が合流しています。歴史好きな方はこの川の名前を御存知かもしれません。もう少し上流の様子の画像でご紹介したいと思います。

 下流から一貫して、川の流れは川幅の中央に寄っていて、水量も少ないようです。上流で農業用水などを多く取水していた事と、川底が固められていなかったので、地下に浸透して流れる水量が少なかったとの説もあります。

<荒神口上下流>

 荒神口上流から今出川通までの区間です。今出川の下流には吉田井口があり、ここから農業用水が引かれたようです。その下流には、砂川という川が流れ込んでいます。

 砂川は、高野川の上流から引かれた「太田川」と合流して鴨川に流れ込んでいたようですが、その後太田川は賀茂大橋上流に流路を付けかえられて、現在では都市下水となっています。

 今出川通りの西側には、先程荒神口下流で鴨川と合流していた川が流れています。東西に伸びる通りの名の由来となった今出川ですが、東西に流れていた区間は少しの長さで、ほとんどの区間は北から南に流れていました。そうです、正解は「今出川」でした。

 鴨川と高野川が合流したすぐ下流の川幅は90間(約163m)と広く、現在も長さ141.4mの賀茂大橋が架かっています。

<今出川通 下流>

 現在は、高野川との合流点から下流を「鴨川」上流を「賀茂川」と表記するのが一般的となっています。その関連記事は鴨川真発見記第126号でご紹介していますので、そちらを御覧ください。

 今回はその表記が変わる地点をひとつの区切りとしてご紹介を終えようと思います。次はその2として、合流点から上流は柊野までをご紹介したいと思います。

 先人が残してくれた、河川土木工事の歴史とともに、暮らしの一端をお楽しみ頂けたら幸いです。

 

平成28年2月15日 (京都土木事務所Y)

 

 第225号 京都市内で発生した土石流災害を振り返る

昭和47年「音羽川」の氾濫 砂防堰堤の役割と共に

 鴨川真発見記223号では、京都の風水害を学習されている京都市立養徳小学校5年生児童の音羽川砂防堰堤の見学と学習の発表会の様子をご紹介しました。

 音羽川の見学の前日に養徳小学校で、京都の水災害のお話しをさせて頂きました。もちろん昭和47年の災害当時の様子もご紹介しましたので、その時の画像を使用して皆様にも記憶に留めておいて頂きたいと思います。

 今回は、その音羽川で昭和47年9月16日夜間に台風20号による暴風雨により発生した土砂災害の記録をたどります。

 音羽川の土砂災害の歴史の詳しい事を御存知の方は、当時の地元以外の方では案外少ないのではないでしょうか。(新しく越してこられた方は特に)

 音羽川は、比叡山の山腹を源流として東から西へ流れ出て、松ヶ崎橋上流で高野川と合流する一級河川です。管理河川としての一級区間は1.2kmと短いですが、その上流に砂防指定地があります。砂防指定されている区間には、砂防堰堤が連なる様に設置されています。この砂防施設の設置管理は京都土木事務所が管轄しています。

<音羽川位置図>

 今回「音羽川」を紹介するにあたって、お一人の自然災害研究者をご紹介したいと思います。

 昭和47年の災害についてその調査が実施され、その後平成5年に音羽川の災害や比叡山の地質、自然などあらゆる情報をまとめた「比叡山音羽川読本」と題された音羽川学習副読本が発行されました。

<比叡山音羽川物語 ー自然環境 フィールドワーク 資料ー>

 この企画は当時の京都府土木建築部で、編集委員会による編集・発行です。この編集委員には京都府の砂防課職員も名を連ねていますが、委員長は当時奈良大学の池田碩教授でした。(現在は退官されて同大学名誉教授)

<編集・発行:音羽川学習副読本編集委員会>

 池田氏は、災害発生当時京都市内の高等学校で教鞭をとっておられました。池田氏は地質に詳しく、比叡山が茶色く変色荒するほど荒廃している事が気がかりだったそうです。

 昭和47年の台風接近を知って、教え子も多く住む修学院で夜通し台風を待ち受けました。

 ご自分の車で待機し、土石の災害現場の一部始終を写真に収めて、山腹の崩壊現場などもつぶさに調査されました。今回は、「音羽川物語」から池田氏の撮影された写真や解説を引用させて頂いて、当時の様子をご紹介したいと思います。

<編集・執筆委員>

 それでは、音羽川の氾濫について昭和47年の災害を中心にご紹介したいと思います。次の写真は災害時の住宅街の象徴的な写真です。当時の音羽川は乗用車が一台はまりきらない程度の幅の狭い川でした。

 この流れは、写真の先で逆くの字に曲がって流れていましたが、災害時にはその流れは土石と共に一直線にその先にある修学院小学校へ向かいました。

<音羽川の氾濫>

 それでは、昭和47年の土砂災害が発生するまでに、それを防ぐために何もしていなかったのでしょうか。昭和10年の大水害以降の防災対策について順を追って見てみましょう。

<音羽川災害・砂防の歴史>

 

 ↑   昭和49年から52年の工事で22mに嵩上げ

 この歴史の流れの様に、昭和47年以前にも昭和10年の大水害をキッカケに砂防堰堤が設置され、しばらくの安定期を経て更なる砂防施設の整備を進めましたが、昭和47年の災害発生となりました。

 その後、この災害を契機に更なる砂防施設が設置され、音羽川の流路も現在の川幅に広げられて、安全に水を流せる様になりました。

 音羽川には砂防施設が連なっていますが、川を遡っていくと砂防堰堤(土砂災害から人の命財産を守る施設)から治山施設(山が崩壊するのを守る)へとその役割をバトンタッチします。その役割分担の図が下の図です。赤い丸で囲った区域に砂防堰堤が並んでいます。その上流域は治山事業の区域です。

<音羽川流域全体図>

 次にご紹介するのは、音羽川流域の崩壊発生地と氾濫状況です。比叡山と大文字山に挟まれた山並みは、花崗岩地帯です。比叡山と大文字山はフォルンフェルスという硬い岩盤でできていますが、その山麓は風化しやすい花崗岩です。

 白川砂を御存知でしょうか?神社や仏閣の庭に敷き詰められた少し粒の大きな砂です。あの砂が更に風化すると真砂土というサラサラの砂になります。こうして風化した花崗岩が100m近くの深い所から一気に崩落すると土石流となって流れでます。これが修学院を襲った土石流のしくみです。

<音羽川流域の崩壊発生地と氾濫状況>

 この図にも書き込まれていますが、地名に「川尻町」「水川原町」「出水」の地名がつけられた地域で氾濫が起こっています。これは、昔から水が溢れる地域を示しているそうです。こうした地名を残す事が、後世に災害の記憶と歴史を残す重要なポイントとなります。(by池田碩氏)

 それでは、「比叡山音羽川読本」から災害直後の山の中から市街地の様子をご紹介しましょう。

<音羽川流域の災害模式断面図>

 崩壊が発生した最上流域の様子です。ここは小崩壊集中地域で、比叡山ドライブウエイの下の一本杉から始まっています。

 

※以下「比叡山音羽川物語」より解説文章と写真

音羽川最上流の崩壊集中地域

 上流域は地累部分にあたり、そこでの花崗岩はあたかも砂山のごとく深層風化している。

 そのようなところでの工事は、風化の進んだ軟弱地盤故に充分注意をしておかねば地形は全体的にバランスを失ってくる。

 そのようなところに豪雨を受ければ崩壊が集中して発生することになる。

 写真は一本杉周辺の北側斜面に発生した崩壊を示す。

<崩壊地の上部>

<崩壊地の中部から上方を望む>

<同崩壊地の下方を望む 新鮮な岩盤は全く見られない>

中流域の厚い河床堆積層とその洗掘

ー通常降雨時は堆積域 豪雨時は浸食域ー

 山間中流域には崩壊こそ少ないが、河床には長い間に砂礫が堆積している。

 そこに豪雨を受けると急激に流量が増してくるので、浸食域へと一変し、深く洗掘されるので、今回のような異常豪雨を受けた場合、この地域から送流される土砂も大きい。

 すなわち異常豪雨は山間中流谷の掃除役ともいえるのである。

<河床が洗掘されて段丘化した本流沿いの状況>

<同上>

<最大支流が本流と合流する付近にみられる洗掘状況>

山間中下流域の大崩壊集中地

 地塁山地から山腹斜面へ移行する部分、つまり地塁の肩にあたる地域は山地の開折の最も進むところである。音羽川流域でもこの部分で河床勾配は急変し、一部は滝(音羽の滝)となって落下しており、谷壁はそそりたち典型的なV字谷となっている。このため谷壁の不安定な急斜面には大崩落地やその痕跡が集中している。

<最大崩落地(かまくら)の全景 崩落は上部と下部の2段にわかれている>

<同上 上部 深層風化層の崩れ>

補強を要する古い石積み堰堤

ー昭和15年築造第3堰堤を例としてー 

 堰堤は当時完全に満砂されている。なお、この堰堤の左肩上部は岩盤に付着して築造されていない。

<下流側からながめた全景> 

<同堰堤の右上部 常時かなり水漏しており、その高さの石面には植生が付着している。最上端部は石積みの石が飛んでいる>

<堰堤底部 堰堤下部の水タタキの部分はすべて崩壊流出、底部自身も約2m程えぐられている。つまり堰堤全体が破損してきており早急に補修しておかねば、堰堤自体が崩壊して大被害を招く可能性がある。>

沈砂池 災害時と災害後

<災害時>

<土砂搬出後 最大貯砂量2,500立米>

<災害時には写真左側下部の黒い線の部分まで埋まっていた>

<音羽川下流部の氾濫状況>

大きくえぐられた道路と河道

ー林丘寺南側 雲母坂への道ー

 護岸、川底部の復旧・補強を緊急に必要とするが、とくに弱い部分は石積ではなくコンクリートでまくべきである。

<昭和47年9月19日10時30分撮影>

<昭和47年9月21日15時撮影>

無理なS字カーブ直下での惨状

ー災害時と災害後ー

河道のカーブに注意

<写真中央は災害を受けた民家の屋根の一部>

<昭和47年9月17日11時撮影>

<復旧作業後>

<流出したかつての護岸石積部には応急的に土のうが積み上げられた>

市街地内上流部の災時と災後

<災害時>

<堆砂排出後>

 上の「堆砂排出後」の写真 これが昔のほぼ自然の川幅であったらしい。地元出身の古老達の話によると、右岸には堤防が下流まで続き、そこにクヌギが並木状に植えられており、左岸はうっそうとした竹薮だったという。

 現在もこの写真すぐ下流に直径50cmのクヌギのある旧堤防がわずかに保存されている。

災害時には川と道の役割が逆転する

 つまり川幅がせまく、しかも川には各家毎に橋を架け、パイプ類やその他の構造物がまたいでいるので、洪水時には流木などで川はふさがれてしまう。これに対し道路上には何の抵抗物もないので、洪水時には川と道の役割が“逆転”するのである。

 護岸はえぐられたり、くずれかけており全体にルーズな状態になっている。

<これが昔の川幅で建ち並ぶ家屋はかつての堤防の上、またはその跡という>

<川はどこなのだろうか? 昭和47年9月17日撮影>

<川が左側で、右側が道のようだが? 昭和47年9月19日撮影>

<いや川は右側だった!! 埋砂排出後>

修学院小学校の校舎内にたまった堆砂

<昭和9年の室戸台風の折にもほぼ同量の堆砂があったとの事>

<校舎内の渡り廊下を洗い建物を半壊させた>

高野川との合流点

 背後左側の山頂が比叡山・右側の高まりが一本杉付近。音羽川はこの間の広い範囲の降水を集めて流下してくる河川であることを留意すべきではなかろうか。

<平成5年当時の“音羽川”と“白川通り”の交差点から上流を望む>

 音羽川の川幅が広げられ、砂防堰堤も強化され、川の南側にもマンションが建ちました。同じ場所からの風景も大きく変わりましたが、昭和47年の災害の記録は語り継いでいかなくてはならないと思います。

<平成28年現在>

 養徳小学校の出前講座では、砂防堰堤の役割を同じく「比叡山音羽川物語」からイラストを拝借して説明させて頂きました。

 砂防堰堤が満砂になっているので、土砂を排出して欲しいという声も寄せられます。砂防堰堤に砂が満杯になったから直ちに危険というわけではありません。溜まりすぎると機能が発揮できませんが、一定の砂が貯まることでその機能を発揮しています。

砂防堰堤の役割

① 上から削られてきた土砂を徐々に貯めます。

② 土石流を止めます。

③ 土砂が溜まると河川の縦断勾配(下流に向かう傾き)が緩くなり、また川幅が広くなるために土石流や流水の流れる力を小さくします。

(1)このため、土石流を止める事ができます。ふだんの流水で小さな砂を下流へ徐々に流しますが、大きな石はこれを動かすのに必要な力がないため、堆砂敷に残ります。

(2)流水の流れる力が小さくなることから、谷を削る力も小さくなります。

 河川勾配が急だと流水のエネルギーにより川床はどんどん削られますが、土砂が溜まって川底が削りとられない。

(3)河床が上昇する事により山の谷の斜面を安定させます。溜まった砂が斜面を支える役割をして重力で崩れてくる力を押さえます。

 以上が養徳小学校の出前講座でお話ししました「昭和47年 音羽川の氾濫」に関する内容です。

 この学習副読本の作成実行委員長だった池田碩氏は、音羽川の災害をキッカケに自然災害の調査に携わるようになられました。その後「地震・津波」「地滑り」「豪雨・豪雪」といった自然災害のメカニズムの調査を手掛けられ、日本国内のみならすアメリカへも調査に出向いておられます。

 平成26年1月には御自身が手掛けられた自然災害調査のまとめとして、「自然災害地研究」という本を出版されています。

 奈良大学を退官された今年度も、国土交通省から「阪神淡路大震災から20年」のまとめを受託されて精力的に自然災害地の調査を進めておられます。

 池田氏が口癖の様に語られるのは、「100年位災害が発生していない地域ももっと昔を紐解けば大きな災害が発生している地域がある。そして、その災害にちなんだ地名が残る地域もあるが、全く地名が消滅している地域もある。災害の記憶と記録を後世に引き継いでいくことが重要だ」という事です。

 今回の養徳小学校の学習は、まさにその理念に沿ったものでした。

 

 平成28年2月16日 (京都土木事務所Y)

 

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