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鴨川真発見記 平成26年6月

 第154号 真夏のような春の日差しを避けながら

鴨川に響く様々な調べに誘われて

 鴨川を歩いていると様々な調べが聞こえてきます。今回はそんな調べを聞かせてくれる皆さんをご紹介したいと思います。

 晴天の鴨川では、橋の下や木陰で様々な楽器を奏でる方がおられます。高野川の松ヶ崎人道橋の下からは、和笛の調べが聞こえてきました。軽快な和笛に心も弾みます。

<松ヶ崎人道橋の下の陰で和笛>

<和の音色が響きます>

<横笛から縦笛に持ち替えて>

 川の中では、笛に応える様に野鳥が囀ります。キセキレイの幼鳥でしょうか。まだ黄色の色合いが出ていません。

<キセキレイ?セグロセキレイ?>

 高野橋の下では、水が少なく干上がった川の中で笛の音が聞こえてきました。こちらは洋笛のフルートの調べです。片側二車線の比較的幅の広い高野橋の下の空間に音が反響して美しい音色が響きます。

<音響効果の良い橋の下>

<風向きを見ながら譜面代を設置>

 アオサギが翼を少し広げて日光浴する姿をよく目にしますが、この日はストレッチでもするように、首を前に突き出しています。

<小魚を捕獲する準備運動でしょうか>

 賀茂大橋下流の左岸の木陰では、石積みに腰を掛けてギターを弾く人を見かけました。クラッシックギターの柔らかい音色が響いていました。

<木陰で涼みながら>

 鴨川の賀茂大橋下流の木陰に設置されているウッドデッキでは、アルゼンチン音楽の調べが響いています。お三方の演奏に引き込まれる様に近づいて聞き惚れてしまいました。思わず拍手をしてお話しをお聞きしてみました。

 クラッシックギターは解りますが、他の楽器は何だか解りません。「その楽器は何という楽器ですか?」と訪ねると、ケーナという笛、サンポーニャという筒の並んだ笛、ボーボという打楽器、そして小学生の頃の音楽の授業で吹いたことのあるピアニカです。

<アルゼンチンの曲 左からピアニカ サンポーニャ クラッシックギター>

<ボンボ ケーナ クラッシックギター 曲は「灰色の瞳」>

 打楽器は羊の皮が張ってあります。珍しいのは毛が生えたままの皮が張ってあることです。中心の“バチ”の当たる所の毛ははげかけていました。更に珍しい楽器を見せてもらいました。ヤギの爪を沢山ぶら下げたリズム楽器です。

<毛の残ったヤギの皮を張った ボンボ>

 ヤギの爪は生え替わるそうで、その抜けた爪を集めた楽器だそうです。とっておきの楽曲をリクエストすると、快くアルゼンチンの楽曲「灰色の瞳」を演奏していただきました。

<抜けたヤギの爪を束ねてジャラジャラと>

 二条大橋の下“鴨川ギャラリー”の前では、アイルランドの楽曲を演奏しておられる方とお会いしました。こちらのギターはフォークギターです。そして、鴨川では初めて見る楽器“バグパイプ”の登場です。独特のビブラートの効いた音色が響きます。

 スコットランドのバグパイプは口で息を吹き込んで音を鳴らすのに対して、アイルランドのそれは、右脇に挟んだ“ふいご”で左脇に挟んだ袋に空気を送り、その袋の空気を楽器に送り込んで奏でる仕組みです。

<脇の下の力加減で空気を送り込みます>

 またしても、何か十八番の曲をとお願いすると、男性が靴を履き替えて華麗なステップを披露してくださいました。女性の奏でる笛のリズムに合わせて靴底が響きます。タップダンスの原形となったステップだそうです。

<音楽に合わせて 軽快なステップ>

<バグパイプの伴奏に合わせて>

<専用の靴がリズムを刻みます>

 お荷物の中からは、色んな笛が出て来ます。それぞれ特徴のある音色を聞かせていただきました。国宝洛中洛外図屏風の前で、アイルランドの音楽を堪能する。異文化交流とでも言いましょうか。これぞまさしく“鴨川文化回廊”と呼ぶにふさわしい光景ではないでしょうか。

<大きな縦笛>

<小さな笛縦笛>

 また違う日には、この二条大橋の下でアコーディオンを弾く女性とそれを見守る男性の様子も拝見しました。

<アコーディオンも優しい音色です>

 夕暮れの出町のウッドデッキでは、三味線を持った若い女性のグループが集まっておられます。お声をお掛けしますと、京都造形芸術大学の“長唄同好会”の皆さんでした。今回初めて鴨川の出町で練習との事です。

 ウッドデッキの上に正座して、三味線を演奏し、長唄を披露していただきました。流石は世界に誇る鴨川です。ワールドワイドな楽曲がいたる所で演奏されています。

<大文字山を眺めながら>

<正座して背筋を伸ばして>

<笑顔もこぼれます>

<舞台の様に整列して真剣な眼差し>

 疏水の放流口の前では、若者がダブルダッチの練習に励んでいました。2本のロープを巧みに操りながら、こちらも軽快なステップを見せていただきました。

<水分補給はこまめにしましょう>

<ロープ回しを交替しながら>

 ジャグリングの練習をする若者もよく目にしますが、この日は少し趣向が違っていました。向かい合ったお二人が、カラフルなピンを宙に舞わせながら受け合っておられました。「今日は最高何回続いた」と言いながら練習を終えられました。

<6本のピンが交互に舞います>

 鴨川沿いにある宿泊施設の屋上でバーベキューを楽しみました。鴨川では一部区域で鴨川条例によるバーベキューが禁止されています。禁止区域以外でも、ご近所の方から煙りや臭いに対する苦情が寄せれた場合は、自粛して頂くようお願いしています。

 屋上でのバーベキューは、鴨川の景観を見下ろしながら気兼ねなく楽しむ事ができます。5月末というのに30度を超える真夏日のこの日も、夕方には爽やかな風が吹き抜けて一足早い屋上ビアガーデンです。

<大文字山をバックに鴨川>

 西山に沈んでいく夕日が空をオレンジ色に染めて、何とも神々しい世界を魅せてくれます。太陽信仰の気持ちがわかる様な気がしました。アルゼンチンの音楽が聞こえてきそうな風景です。

<オレンジ色に染まる夕暮れの空>

<日が沈んでもオレンジの空>

 春の鴨川では、小さな雛を連れたカモの親子があちらこちらに姿を見せています。いつも水面を走る雛を見る度に凄くすばしっこいなと思っていましたが、この日は雛の足を見て“なるほど”と納得しまいした。軽量であろう雛の足は、その体に比してかなりしっかりとした水かきの付いた足です。

<親ガモに見守られる雛>

<大きな足でテクテクと>

 この足ならば、あの動きも納得です。その動きをご紹介しましょう。昼間の写真よりも夕暮れの影の方がよりその動きを感じる事が出来ます。写真中央付近の小さな影が雛です。雛の後から母親のカモが見守っています。

 六羽の雛のうち、二羽が加速装置を発動したかのように、急発進して高速船が波を残す様に筋を描いて移動していました。

<6羽のカモの雛と親鳥>

<前のめりに水面を走る二羽の雛>

 最近ではマガモとカルガモの交雑がかなり進んでいるようですが、このカモはマガモのようです。マガモのオスとカルガモのメスのペアもよく目にします。

<マガモのオスとカルガモは”たぶん”メス>

 鴨川では、ゴミ袋と火バサミを持ってゴミを拾っていただいているボランティアの方をよく目にします。ある日は、京都土木事務所のある北山大橋からその一つ上流の上賀茂橋の間をごみ拾いして頂いていました。

 この区間の左岸(東側)に植樹されたソメイヨシノは、京都賀茂ライオンズクラブさんからの寄附です。そのクラブのメンバーの皆さんが年に一度清掃活動をされています。

<ゴミ探して北上>

<小さなゴミも見逃さない>

 目を皿のようにしてゴミを拾うメンバーのお一人が、護岸の石積みの上にいるヘビを発見されました。頭を草の中に隠しています。ヘビのお尻が何処からかは知りませんが、「頭隠して尻隠さず」です。

<ヘビがお尻を出しています>

 鴨川で鯉を釣り上げる釣り人は何度も見ましたが、この日は二人の少年が大きなマゴイを小さな網で捕獲したようです。バケツからはみ出る大きさです。こちらもバケツに頭を突っ込んで、「頭隠して尻隠さず」状態でした。

 それにしても、この大きな鯉を魚撮りの小さな網で捕獲するとはお見事です。

 川の中では、大きな鯉がぐるりと回転して白い腹を見せていました。

<どろんこになりながら格闘したようです>

<“ぐるん”と横回転した鯉の白い腹>

 また6月1日(日)には、毎年、鴨川を美しくする会が主催されている“鴨川クリーンハイク”が開催されました。今年はトヨタ自動車の特別協賛を得て開催されました。トヨタ自動車が全国展開されている清掃活動で「水辺の自然を守ろう いいね をつくる旅」と題された活動です

 近畿各地で開催されるこの活動に、京都では鴨川が選ばれました。「千年の都を流れる鴨川をより美しくしよう」との呼びかけに若者も多く参加されて盛大にごみ拾いが行われました。応募された100人の皆さんが五条大橋から丸太町橋までの間のゴミを拾ってくださいました。

 新緑の鴨川で「美しい景観、爽やかな風を感じながら鴨川クリーンハイクを楽しもう」のキャッチフレーズどおり、晴天の鴨川の風景を感じながら楽しそうに活動されていました。多くの人に愛される鴨川を美しく後世に引き継ぐ活動が脈々と続けられています。

<鴨川クリーンハイク>

<二条大橋の下の鴨川ギャラリーで一休み>

 この様な活動が、鴨川を気持ち良く利用出来る環境づくりに貢献いただいております。色んな音楽やスポーツ、などなどを練習する人々もゴミの散乱していない鴨川公園で清々しく過ごしておられます。

 この鴨川クリーンハイクは、同じく鴨川を美しくする会主催、トヨタ自動車特別協賛で秋の回も予定されています。9月7日(日)に開催予定で、「みんなの癒しのスポット鴨川をクリーンハイクでキレイに保とう」と呼びかけられています。

 ボランティアの皆様に感謝すると共に、鴨川でお会いした皆様との御縁も大切にしながら鴨川真発見記で鴨川の魅力を発信して行きたいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。

 

平成26年6月3日 (京都土木事務所Y)

 

 第155号 先斗町と鴨川の関係は

企画展&シンポジウム「このまちのために、できること」

 先斗町のまちづくり協議会とシンポジウム実行委員会の皆さんが、「このまちにできること」と題して、「先斗町の記録と記憶、そして思い出」をテーマとした企画展示と「花街・先斗町の町並みと、これからについて考える」をテーマにシンポジウムを開催されました。

 会場は、木屋町の三条四条間の高瀬川沿いにある元立誠小学校です。企画展示は、5月25日(日)~31日(土)まで、シンポジウムは5月29日(木)の午後1時からの開催です。

<会場は元立誠小学校>

<このまちのために、できること>

 このイベントに対して、京都市と共に京都府も後援させていただくことになり、鴨川真発見記で使用した古写真と現在の比較写真や、平成23年度に鴨川の三条四条間の工事現場に展示したA0サイズのパネルを展示させていただきました。

※詳しくは鴨川真発見記バックナンバー第125号をご覧ください。

<鴨川今昔写真の展示>

<京都府立総合資料館所蔵 撮影:黒川翠山 A0サイズ>

 今回展示させていただきました昭和の笑顔という本の撮影者である「写真家」伊藤とのひろさんは、先斗町にゆかりの深い方です。この本で紹介されている伊藤さんの略歴をご紹介したいと思います。

<写 真>

伊藤 とのひろ(いとう とのひろ)

 本名 伊藤外弘(いとう そとひろ)昭和6年(1931)北海道生まれ。写真家。昭和24年頃、京都に移り住む。鳥瞰図絵師として活躍されていた故吉田初三郎氏の書生として、先斗町「藤の家」に住み込みで働きながら、同志社大学英文科を卒業する。その頃より京都の市井や人々のふれあいの写真を撮り続ける。昭和53年頃、写真家として北海道に戻るが、京都が忘れられずに再び京都に戻る。平成16年に73歳で死去。(「昭和の笑顔」より)

 昭和の笑顔には、昭和の京都の人々の自然な笑顔が溢れています。もちろん先斗町の当時の街並みも含まれています。貴重な記録写真です。

<淡交社発行「昭和の笑顔」 撮影:伊藤とのひろ>

 5月29日のシンポジウム当日にその様子を覗いてみました。会場前の高瀬川では、川の中に“バラ”の花で川の流れをかたどった生け花と、“アジサイ”で高瀬舟が上流へ引かれている様子を表現した生け花のお迎えです。

<“バラ”の花で川の流れ>

<“アジサイ”の高瀬舟>

 関係者の方にお話しを聞くと、生け花の先生が高瀬川の中に入って並べた台座に前日から当日の朝にかけて一本一本丁寧に生けられたそうです。お見事!。

<上 上流>

<上 上流>

 会場の入口には、高瀬川を開削した「角倉了以」の記念碑が建立されています。開削400周年を迎えるにあたって、様々なプロジェクトが動き出しているそうです。

 高瀬川は京都市の管理ですが、流れる水は鴨川から引き込まれています。詳しくは「鴨川真発見記第38号 みそそぎ川の水はどこから」をご覧ください。

<「角倉了以」の記念碑>

 会場に展示された京都府の展示の様子も興味深くご覧になっていただいたようです。

<今昔写真>

<A0写真>

<古写真を一堂に>

<鴨川真発見記冊子版>

<昭和3年の三条大橋改修>

<先斗町の雪の街並みを上から>

 そしてシンポジウムの開会です。会場には用意されたイスでは足らず、長椅子を追加しても立ち見が出る程の盛況です。真夏日となったこの日、満員の会場は熱気がこもってきました。外の空気を取り入れる扇風機も登場しました。

 最初に開会の挨拶が地元立誠自治連合会会長からありました。そして、来賓代表の京都市都市計画局長から挨拶があり、地元の方が中心となってこのような盛大なイベントが開催される事に対し、先斗町まちづくり協議会の熱意と実行力に感服するなどと敬意が表されました。

<立誠自治連合会会長>

<京都市都市計画局長>

 続いて、シンポジウム実行委員長から主旨説明がありました。「このまちのために、できること」その答えは実行委員会としても持ち合わせている訳ではなく、先斗町で生まれ育った方はもちろんのこと、この街で働く方もこの街に訪れた方も、少しでも先斗町に興味がある方ならば誰でも歓迎いたします。それぞれの違った魅力を再発見して頂ける機会になればと考えますと結ばれました。

 巷でささやかれる京都人の排他的イメージは微塵もありません。京都は新しいものをいち早く取り入れて来たことを実感しました。

 肝心の主旨ですが、プログラムに記載された前文をご紹介します。

<以下パンフレットから>

「このまちにできること。~花街・先斗町の町並みとこれからについて考える~」

 京都の五華街の一つ、そして三百年以上の歴史を持つ先斗町。

 近頃は飲食店も増え、新たなにぎわいの場がつくられています。

 シンポジウムと企画展示では昔ながらの風情と新しい様相が共にある先斗町の歴史を振り返り、先斗町の将来を考えていきます。

 とあります。

 その後、事務局長から企画展示の内容が説明されました。

<実行委員長>

<事務局長>

<会場の様子 この後にも立ち見の参加者が>

 続いて、京都市が実施された「先斗町町並み調査」の報告がありました。

 報告者は京都市景観政策課長です。先斗町の歴史に始まり、アンケート調査、建物調査、その特徴、重要な建築物の抽出と分布の調査結果が流れる様な語り口での説明でとても聞きやすく、理解し易い報告でした。

 その中でも、私が印象に残った項目をご紹介したいと思います。

 まずは、アンケート調査の結果です。先斗町らしさを感じるのはどんな所?という質問に対しての上位の回答は、「狭い通路」「石畳」と「狭い」「石畳」がキーワードになっているようです。

 さらに、先斗町らしさを特に感じる場所は?の質問に対して、四条から先斗町公園までの間に京都らしさを感じるという答えでした。

<狭い通路と石畳 四条通りから北を望む>

 その後の景観上重要な建築物の分布の調査結果とこのアンケート結果が見事に重なりました。多くの方が感じる先斗町の魅力が、昔ながらの佇まいを残すこの一画に集まっています。

 それでは、その建物の魅力はと言うと、いくつかの共通点があるようです。

 ① 横並びに揃った軒の高さ

 ② 本二階建ての建築物が多い事

 ③ 三階建ての場合はその部分の壁が二階よりも後退している事

 ④ 短い庇

 ⑤ 建物にたて格子があしらわれている事

 ⑥ 犬矢来が設置されている事

 などなどが紹介されました。実際に使用された画像をお借りしましたので、下の画像をご覧ください。

<街並みの特徴>

(資料提供:京都市)

 ここで“俄然”私の興味を引くお話しがありました。先斗町は三条の少し下流から四条までで、鴨川に面した街です。「狭い」「石畳」がキーワードの先斗町に対して、鴨川は大きく開けた空間です。

<三条から四条方向を望む 開けた空間>

 その対比が先斗町の魅力をより引き立てているというお話しです。

 そして、鴨川側の建築物も、先斗町側の特徴と同様に横並びに揃った軒庇が先斗町らしさを演出しています。

<鴨川側の街並みの特徴>

(資料提供:京都市)

 それに加えて、先斗町のお店にも、京都の夏の風物詩「納涼床」が立ち並び、そこで食事をする人のみならず、その風景を眺める人達の目も楽しませてくれています。

<四条大橋から上流を望む>

<納涼床には舞妓さんの姿も>

 京都府では、平成19年7月10日に施行した「京都府鴨川条例」の条文の一つに良好な河川環境の保全について定めました。景観配慮のため鴨川納涼床に関する審査基準を設けて、納涼床が一定の統一性を持つことによる良好な景観の形成を目指すものです。

 先斗町の皆様にもご協力をいただきまして、5年の経過期間を経て今シーズンから一定の基準の下、統一感のある床の風景が実現しました。これも「鴨川納涼床」を良好な景観として引き継ぐことへのご理解の賜と御礼申し上げます。

<基準に合致した床が並ぶ 平成26年シーズンの納涼床>

 調査報告の中でも一際目を引いたのは、先斗町の建物の連続立面図です。一軒一軒の正面からの図面が並び、まるで散歩をしているようにスライドしていきました。

<先斗町連続立面図>

 更に、鴨川側の様子は連続写真です。しかも、先斗町の建築物が醸し出す景観をより実感出来る様に、背景に立ち並ぶ建築物を消してあります。なるほど、揃っています。加えて「納涼床」の統一性でより整然としました。

<鴨川側の連続写真>

 調査報告の最後に一枚の写真が披露されました。朝日新聞に掲載された京都市立洛央小学校の図書館の様子です。児童とのワークショップから導き出された図書館内の設置の利用状況が写し出されました。

 この写真には、橋の様な構造物の上と下に児童が読書する様子が写し出されています。構造物の下の狭い空間にひしめき合う様に座って読書する児童、反対に構造物の上の見晴らしの良い広々とした空間で読書する児童がいます。

 課長さんの報告では、この様子は“先斗町”という空間に通じるものを感じるという内容で、人は狭い空間と広々とした空間にそれぞれ居心地の良さを感じるとの事です。

<子供達が狭い場所に固まったり、広々とした場所でゆったりする様子>

 この写真そのものは著作権の関係で掲載出来ませんので、洛央小学校の教頭先生にお願いして、図書室の様子の写真を御提供いただきました。これで、皆さんにもどの様な構造物かおわかり頂けます。

(写真提供:京都市立洛央小学校)

 京都市内に数ある景観空間の中でも、その二つを併せ持った非常に稀な空間ということが語られました。

 子供の頃秘密基地と称して、狭い小屋のような空間にひしめきあいながら遊んだ記憶が甦りました。

 この後休憩を挟んで、パネルディスカッションと続きました。その様子は先斗町まちづくり協議会からの報告にゆだねて今回の記事を終えたいと思います。

 数ある展示の中から一部を掲載させていただいきます。

<明治17年の先斗町地籍図>

<現在の先斗町の位置図>

<昔の位置図と現在の立面図>

<四条河原町付近 町家の模型 > 

<町家の骨組>

 調査報告にあった町屋の特徴がよく解る町屋の断面模型も展示されていました。

<町家の断面模型>

 そして現在は、東華菜館として営業されているビルの設計図も展示されていました。有名な設計者ウィリアム・メレル・ヴォーリス氏の設計図が目の前にありました。

<東華菜館ビルの設計図>

<建築当時の写真>

 先斗町の街並みと、鴨川の景観がより良くなること、そして保全される事を願いつつ会場を後にしました。

 

平成26年6月9日 (京都土木事務所Y)

 

 第156号 水が繋ぐ人の縁シリーズ第1弾

高野川の昔を伝える 随筆 昔話“高野川の畔”

 ある日の事です、「鴨川真発見記ちょくちょく見ています。ところで、昭和初期の高野川の写真は無いでしょうか。」と左京区の松下医院の松下先生からお電話を頂きました。あちこち探しておられるそうですが、イメージに合う写真が無いとのことでした。

 鴨川、白川、琵琶湖疏水などの古い写真は沢山残されていますが、高野川の古写真は数える程しか残されていません。京都土木事務所にも、災害時の写真以外は見あたりません。

 京都土木事務所所蔵の図書も確認してみましたが、見つける事は出来ませんでしたので、「申し訳ありませんが、御提供出来る写真はありません。」とお断りする事となりました。

 なぜ高野川の古い写真が必要かという説明を受けました。左京医師会の会員の郷原氏が昭和初期の少年時代の思い出を回顧された随想を執筆され、左京医報という会報に掲載する予定をしているが、その内容が素晴らしく、イメージ出来る写真をお探しになっているという事でした。

 1ヶ月程経過した頃、現在では存在していない農業用水路のお話しが縁で京都産業大学の勝矢名誉教授にお会いする事になりました。話の流れの中で、松下氏が高野川の写真を探しておられる事を思い出し、ダメもとで写真をお持ちでないか聞いてみました。

 昭和初期の頃は、カメラのフイルムも高価で一般人がそんなに風景写真を撮らなかった時期です。「私も写真は持ち合わせていません。」と語られた次の言葉にビックリです。「私の写真では無いですが、廣庭氏から預かった写真の中に高野川の写真があります。廣庭氏の了解が得られれば使用可能だと思います。」とのお言葉です。

 会報という事で、もう既に発行されているだろうと思いながらも、松下氏に連絡を取ってみると、写真入手が困難で掲載号を遅らせておられました。

 是非ともどんな写真か見せて欲しいということで、勝矢氏に写真を送ってもらうと、随想の中にも登場する友禅流しの写真でした。

 高野橋下流で行われていた友禅流しは、郷原氏が少年時代を過ごした高野橋上流のすぐ傍です。イメージぴったりの写真でした。そうして左京医報5月号の発行となりました。

 前置きが長くなりましたが、今回は郷原氏の随想の一部から、昭和初期の高野川の様子を現在と比較しながら想像してみたいと思います。

 書きだしの文章に今と変わらない京都市街地上流域の魅力を感じます。

<随筆より>

 昭和11年(1936)3月末、大阪から引っ越しのトラックに乗せてもらって京都にやって来ました。

 鴨川の東岸(川端通り)を北上して賀茂大橋を過ぎ、出町柳で高野川と鴨川の合流点の清流を近景に、下鴨の三角の緑地と「糺の森」の木々の樹冠を中景として遠く背景に優しく起伏する北山の山波、それが比叡山から東山へと続く景色を見て子供心にも大変驚きました。「京都って、なんと美しいところなのだろう」と。

<賀茂大橋(出町)からの上流の眺め 現在>

 少年時代の郷原氏が初めて目にした風景は、強く印象に残ったようです。今でも出町から上流を眺めると、鴨川の水、糺の森の緑、北山・東山の山並みが魅力ある景観を魅せてくれます。

 郷原氏は、高野橋の150m余り上流右岸が新しい住まいとなりました。

 写真中央あたりに郷原氏のお住まいがありました。

<高野橋左岸上流から下流右岸を望む>

<随想より>

 今とは違って、両側の堤は土手でしたし、河原は石ころで出来ていて、清い水の流れで川底の石もはっきり見えます。

 現在の高野川では、川底の石ころは、二十数年の堆積土砂で見えなくなっていましたが、計画的な浚渫と昨年の台風18号の増水で石がごろごろとした礫河原が再生した箇所も多数現れています。

<台風18号の影響でゴロ石が現れた高野川>

(平成25年9月17日 台風18号の翌日)

 ゴロ石の現れた川の中では、親子連れが網を持って水の中の生き物を採取する様子があちらこちらで見られます。まさに親水の空間となっています。ただし、川遊びをする時はくれぐれも安全に注意してください。

<少し飽きてきたのかな?網で水を飛ばす少年>

<大人も夢中 幼児も中州を駆け抜けます>

 郷原氏の随想には、写真が見つからなかった時の為にと、直筆のイラストが添えられています。そのイラストには、比叡山の裾野まで見渡せる広々とした空間が広がっています。現在では、ソメイヨシノがズラリと並んで、建物の目隠しになっていると同時に比叡山の裾野を隠しています。

<高野橋から上流を望む 昭和初期>

<高野橋から上流を望む 現在>

<随想より>

 夏には河原でホタルが飛んでいるのを見ましたが、そう沢山いる訳ではありませんので、蛍狩りには夜、泉川の川上まで遠征します。泉川の上流は疏水と交差してから広がる田んぼの中を松ヶ崎の方へ向かいます。ざぶざぶと“くさむら”を掻き分けて枝葉に留まって光っているホタルを集めます。「二つ並んで光っているのは蛇の目玉だから気をつけろ・・・」と脅かされながら。

<泉川を下流からざぶざぶと>

<疏水分線と合流>

<今では住宅が建ち並ぶ 昔は田園地帯>

 この頃の高野川でもそんなに多くのホタルを見る事が出来たわけではないようです。泉川はというと、先日松ヶ崎を東西に流れる泉川で、生け垣にチラホラと光るホタルを見かけました。

 「毎日鑑賞して歩いています。」とおっしゃる年配のご夫婦とお会いしました。

 50年余り前から住んでいるが、住み始めの頃は凄い数のホタルが飛んでいたとの事です。郷原氏の少年時代のお話しと一致します。

<泉川沿いで見つけたホタル>

<黄色い蛍光色が発光していました>

 ホタルといえば、先日京都土木事務所の裏口の階段で同僚が生きたホタルを見つけてきました。昼間に生きたホタルを見るのは久しぶりだったので、記念撮影して、草の所に帰してあげました。

<触角を動かす蛍>

<飛び立つ蛍>

<草むらへ>

<随想より>

 水量が多く水の綺麗な冬場には、長い友禅の布を流れに浮かせて水洗いしている近所の友禅工場の職工がいました。とても水の冷たい時期でしたから、大変だろうな・・・と思ったことでした。

 石ころの河原に色鮮やかな友禅の布を並べて干してあるのは、なかなか風情のあるものでしたが、水洗いをした後の川底に色素の粉末が沈殿して川を汚すので、環境的にはあまり良くありません。その頃が最後で行われなくなりました。

 この一文にぴったりの写真が廣庭氏の写真です。

 鴨川で友禅流しをしていた事は有名ですが、高野川でも友禅流しが行われていたのですね。あまり話題にならないのは、こうした様子の写真が残っていないからだと思います。

 この貴重な写真を、廣庭氏、勝矢氏、のご協力により皆様にご紹介したいと思います。川の中で布を洗っている職工の動きや、干した布を回収する人々が今にも動き出しそうです。

<友禅流し 高野橋東詰下流から西詰を望む>

(昭和25年頃 廣庭基介氏 撮影)

<高野橋東詰下流から西詰を望む 現在>

<随想より>

 大雨が降ると洪水にならないまでも、凄い濁流が滔々と流れていて、川上から木材が押し流されて来ます。岸からロープを投げ入れてその木材に巻き付かせて捕ろうとする人が、時には木材に引っ張られて流れに落ちそうになってもロープを放さないものだから近くにいた人々が抱きとめて「放せ、放せ・・・」と一騒動ありました。

<平成25年台風18号の翌日 高野橋下流>

 郷原氏の随想には、昭和12年か13年の豪雨による増水の様子が記されています。川が溢れるのではなく、大きく蛇行して河岸を削り落としていったそうで、郷原氏の近所でも、瀟洒な一軒屋が丸ごと川に崩れ落ちる様子や、二階建ての三軒長屋が流される様子が克明に語られています。

 そして、ニセアカシアの街路樹を根本から切って、幹を針金で束ねて葉の方を川に流して川岸の崩壊を防いだとあります。「木流し」という手法で崩壊をまぬがれたようです。

 昭和10年の大水害の後、高野川も現在の様な護岸で守られる様に大改修が行われましたが、その改修までの間にも護岸の崩落が起こっていた事がうかがい知れます。

<今では増水しても蛇行はしない高野川>

(平成25年9月17日 台風18号の翌日)

 鴨川の昭和10年の大水害の様子は、以前にご紹介しましたが、出水期を前にしたこの時期、高野川の当時の様子を少しご紹介したいと思います。

 山端の老舗料理店の様子です。現在では、昭和10年の大水害を契機に川底が堀下げられ、落差工も設置されています。この落差工は損傷が激しくなったので、今年度改修工事を予定しています。

<高野川右岸より対岸平八茶屋を望む>

<現在>

<高野川左岸山端平八茶屋裏より上流を望む>

注:水面の大部分は流失せる耕地及び宅地なり

<現在>

 

 高野橋は東詰めから流失し、現在の川端通も崩れ落ちました。

<高野大橋南詰府道大原京都線及沿岸の流出>

注:洪水は橋台の裏を廻り道路を決壊す

<現在>

<高野川左岸より岩倉川落合ヶ所を望む>

<今では公園沿いの道路に>

 場所の特定が難しい写真は、添えられたキャプションのみでご紹介したいと思います。これはこの地点とおわかりになる方がいらっしゃいましたらご連絡をお願いいたします。

<高野川左岸府道大原京都線山端の決壊箇所より上流を望む>

注:手前護岸ヶ所より先方電柱のある所を結ぶ線が在来の道路の位置

<同上下流を望む>

注:写真中央護岸の延長が道路の位置

<高野川左岸より料亭さがみ屋を望む>

 今回は、郷原氏の随想を引用させていただきながら、昭和初期の高野川を思い描いてみました。今回の御縁でお知り合いになりました廣庭氏は、自ら写真を撮影するのが趣味で、昭和20年代の写真を数多く所蔵しておられます。

 そんな貴重な写真を皆様にも多く紹介できればと考えておりますので、いつか「廣庭氏の目が捉えた昭和の世界」と題してご紹介したいと思います。

まだ見ぬ写真の数々をお楽しみに。

 

バックナンバー第154号の訂正

 鴨川真発見記第154号で”キセキレイ”の幼鳥かと思っていた野鳥の幼鳥は、「”セグロセキレイ”の幼鳥ですよ」と自然観察指導員さんから連絡がありましたので、訂正させていただきます。御指摘ありがとうございました。

 川の中では、笛に応える様に野鳥が囀ります。キセキレイの幼鳥でしょうか。まだ黄色の色合いが出ていません。

<セグロセキレイの幼鳥>

 

平成26年6月16日 (京都土木事務所Y)

 

 第157号 新緑を追いかけながら 第6弾

“きになる”植物と人々

 新緑を追いかけながらも第6弾です。季節は梅雨、新緑もほぼ出そろった感じです。鴨川や高野川では、有名なのに見かけ無い植物もあれば、名前も知らないけれどその存在感がとても気になる植物もあります。今回はそんな植物の生育の過程を追いかけてみました。

 それは5月6日の事でした。高野川沿いを歩いていると、私にとっては初めて見る植物が石積みの間から瑞々しい肉厚の葉を広げていました。前後他の場所では見かけ無い一株だけの植物が朝日を浴びて、その存在感を誇示するように目に入りました。

<平成26年5月6日>

 うっすらと葉の表面に毛が生えているようです。5月13日の朝には、ついさっきまで降っていた雨が、葉の表面の毛に滴が引っかかっています。中心からは蕾でしょうか何か出てきています。

<平成26年5月13日>

 5月16日には真ん中から顔を出した芯の様なものが少し伸びてきました。いよいよ花が咲くのかなと期待がふくらみます。

<平成26年5月16日>

<芯の真ん中に水が乗っています>

 5月20日に通りかかると、そんな期待も半減です。真ん中の芯のところが無くなっていました。この頃、鹿が出没していたので、味見してみて美味しくなかったのでしょうか。一口分くらい葉と共にもぎ取られていました。

 まだ見ぬ花を想像して楽しんでいましたが少しがっかりです。

<平成26年5月20日>

<もぎ取られた芯の部分とまわりの葉>

 5月23日に京都府立植物園の植岡技師にこの植物の名前を教えていただき、ネットで検索してみると、最初に想像した花(大輪の花一輪)とは全く別の花の様子が出て来ました。

 5月28日に約一週間ぶりに見に行くと、もぎ取られた芯をものともせず、もぎ取られた葉も枯れずに上へ上へと大きく葉を伸ばしていました。

<平成26年5月28日>

<もぎ捕られた葉も大きく成長>

 この植物の事も少し忘れかけていた約2週間後の6月12日、久しぶりに様子を見に行ってみると大きな変化がみられました。もぎ取られた中心の芯とは別に4本の芯が姿を現しています。生命力を感じます。

<平成26年6月12日>

<頂きに4本の芯>

 ここまで成長すると、ネットで見た姿が見えてきました。その名は「ビロードモウズイカ」別名「バーバスカム」だそうです。その特徴をネット上の国立環境研究所侵入生物データベースから抜粋します。

 ヨーロッパ原産で、明治初期に鑑賞用・薬用に「ニワタバコ」の名で日本に持ち込まれた。二年草で、全体に灰白色の毛を密生する毛深い植物、毛は輪状に分岐する。茎は高さ0,9~2.5m根本の葉は花の咲く時期まで残り長さ30cmになる。花は黄色で大きさは径2~2.5cm。日当たりの良い砂質土壌に多い。

 在来種、畑作物、などと競合とあります。高野川の石積みの間から一株のみのこの「ビロードモウズイカ」はそういった心配はないようです。

 ビロードという名前もこの毛がその名の由来のようです。多種の虫や菌の奇主(宿り主)となることも影響として記述されていました。

 二年草ということで、1年目は地面にロゼット(バラの花びら状)の葉の姿で冬を越し、2年目に茎を伸ばして花を咲かせるそうです。昨年の台風18号の増水にも耐えて花を咲かせる時が来ました。

 6月17日には、黄色い花が開きました。砂質土壌を好むということは、中州の砂質の場所を好むと考えられますが、増水時には流されます。石積みの間に根を張ったおかげで花を咲かせる事ができました。

<平成26年6月17日>

<小さな黄色い花が咲きました>

 次の“きになる”は“木になる”です。高野川沿いの高水敷を歩いていると、足元に黄色い実が3つ転がっていました。少しつぶれていましたので「これは何の実」と頭上を見上げると、木に実が成っていました。

 どうやら“ビワ”の実の様です。何度もこの道を歩いていますが、ビワの木が存在することには気が付きませんでした。“足元を見て頭上を知る”です。

 反対方向も気にしながら歩くと、気が付かなかった事に気づくものですね。

<足元に黄色い実>

<見上げると黄色いものが>

<美味しそうな“ビワ”の実がなっていました>

 もう一つの“木に生る”はイチジクの実です。3月11日の様子はといえば、そこに木がある事さえ見落とす程に葉もなく、細い枝が不規則に伸びているだけです。

<平成26年3月11日 イチジク>

 4月に入ると、枝の先端から葉が出始めて、小さな果実が顔を出しました。イチジクは漢字で「無花果」と書きます。無花果の解説がJA福岡グループの子供向けの解説ページにわかりやすく解説されていたので、受け売りでご紹介します。

 イチジクの花は無いのではなく、実と称される部分の中に咲いているのです。イチジクの実は内側に空洞のある袋状になっていて、内側に小さな花がたくさん並んでいるそうです。そういえば、イチジクを食べると中に小さな突起があります。あれが花なんですね。

<平成26年4月4日 イチジク>

 4月も下旬になると葉も実もはっきりと姿を確認出来る様になりました。イチジクはどうやって受粉するのでしょうか。イチジクの発祥はアラビアなどの地域だそうです。イチジクコバチという小さなハチがイチジクの実のおしりに開いた穴から中に入って卵を産みます。

<平成26年4月24日 イチジク>

 約一ヶ月後の5月下旬には、葉も実も一層大きく成長しました。お馴染みのイチジクの形が見えてきました。産み付けられた卵は幼虫へと成長し、必要な養分と安全な空間で育ったイチジクコバチは成虫となって、他のイチジクに飛んで行き同じく卵を産み付けます。そこで受粉するという仕組みだそうです。

 そこで心配なのが、「イチジクにはハチの幼虫がいるの?」という事です。

<平成26年5月24日 イチジク>

 6月に入ると、先に出て来た実に続いて、小さな実が顔を出してきました。イチジクの旬は8月から10月まで3ヶ月近く続くそうです。その長い旬の訳は、リレーの様に次々と実が出て来る仕組みなのですね。

 日本で栽培されている“イチジク”には、イチジクコバチの幼虫はいません。なぜなら、日本にはイチジクコバチが存在しないからです。日本で栽培されているイチジクは花粉が運ばれなくても花粉がついたと同じように実がなる性質(単為結果性)だそうです。

<平成26年6月17日 イチジク>

 単為結果性で検索すると、同じ性質を持つ植物が紹介されていました。他にキュウリ、バナナ、ブドウがあるそうです。

 イチジクの花は、花ビラが無く花とは思えない形をしています。皆さんもイチジクを頬張る前に、中の花(突起)をじっくり観察してみてはいかがでしょう。

 続いての“きになる”は、人が“気になる”です。ある朝の出勤途上、出町のウッドデッキに若者がジャージや短パンといった運動をする格好で集まっていました。

<ウッドデッキに集まる若者>

 よく見ると、そのお尻のところにタオルが尻尾の様に挟まれています。何が始まるんだろうと見ていると、そのうちの何人かがタオルを奪おうと狙います。

 ルールはよく解りませんが、攻撃側(タオルを奪う)と守備側(タオルを守る)での遊びのようです。

<真ん中の三人が攻撃側かな?>

<動き始めました>

 京都市内では、小学生の学童保育が実施されています。その学童保育をお手伝いしてくれている大学生のサークルもあります。そんな、サークルの皆さんが、学童保育で児童達と行うレクレーションのシミュレーションをしているのかなと思いつつその場を後にしました。

<タオルが沢山集まってきました>

<1ゲーム終了の様です>

<新たなゲームが始まりました>

 最後の“きになる”は、動機が“気になる”です。以前から通勤時間帯に、京都市のゴミ袋を持って、川の寄州に落ちているゴミを拾って頂いているこの方をお見かけしました。大変有り難い事と思っていました。

 この日の朝はいつもと少し状況が違っていました。おおよそ一般的なサラリーマン家庭には常備されていないであろう「胴長」と呼ばれる胸まである長靴を装着されています。

<川の中に人影が>

 そして、川の中に沈んでいるゴミを拾い上げておられました。早朝の散歩時に高水敷のゴミを拾ってゴミ箱に収めて頂いている方も多くおられますが、京都市のゴミ袋を持って、川の中のゴミを拾って頂いている姿は初めて見せていただきました。

<川の中へ“ざぶざぶ”と>

<「胴長」姿でごみ拾い>

 川の中にゴミが落ちているから清掃してくださっているのだとは思いますが、またいつかお会いした際には、「どうしてそこまでして頂けるのでしょうか?」とその動機をお尋ねしたいと思います。河川愛護の精神に感謝しつつ、今回の鴨川真発見記を終えたいと思います。

 

平成26年6月17日 (京都土木事務所Y)

 

 第158号 音羽川砂防堰堤を視察

台湾の台北市からのお客様をご案内

 鴨川の支流高野川その又支流の音羽川に設置している砂防堰堤の視察に、台北市の政府機関の工務局長をはじめ土木関係の管理職の皆さん5名と京都大学防災研究所の王助教が京都土木事務所へ来所されました。

 今回は、高野川の支流の音羽川の様子を台北市からのお客様と一緒に皆さんにも御紹介したいと思います。

 訪問団一行を、京都土木事務所の会議室にお迎えして京都府の砂防事業について資料をもとに説明しました。

 最初に京都土木事務所長から挨拶をしました。通訳を介しての挨拶ですので「ようこそ京都へおいでくださいました。昨日は奈良県の深層崩壊の現場を視察されたと聞いております、が」と細切れに切りながらの挨拶となりました。

<京都土木事務所長の挨拶>

 所長挨拶が終わると、訪問団長(日本でいうと都道府県の建設部長相当)張さんから、「台湾でも昨今の異常気象により、土砂災害の危険が高まっている。情報交換をして協力しながら対策を進めたい」と挨拶がありました。

<張工務局長のご挨拶>

 続いて、京都府砂防課の担当職員から、京都府の砂防事業のハード対策についてパワーポイントを使って説明しました。

 京都府内の砂防事業の実例を示しながら、土砂災害に対する京都府の取組を理解して頂きました。

<担当職員によるハード(施設)対策の説明>

 説明の中で、平成25年に発生した台風18号災害時の降雨の状況を示しました。その内容は「府の広い範囲で総雨量が200mm(由良川、桂川上流では、400mm以上)を超え、」というくだりのところで、張局長から発言がありました。

 「台北では、総雨量600mmの雨は珍しくなく、200mmの雨は日常的に降ります。日雨量で1,000mmを超える事もあります。台北では総雨量200mmでは雨量が多いとは言いません。」との発言です。

 これに対する担当職員の回答は、「雨量に対する災害の状況は、その土地の気候と土質に関係があります。昔から雨の多く降る地域は、それなりの対応力があると思います。その雨量に変化がある時に経験のない災害が起こります。」です。なるほど!納得です。

<担当職員の丁寧な説明>

宮津市での災害の状況

宇治市での災害の状況

 続いて、京都土木事務所砂防担当職員からソフト対策(危険を知らせる、避難する)について説明しました。法律に基づき、土砂災害警戒区域の指定を危険度によってイエロー、レッド(特別)で指定していることなど、被害を最低限に抑える取組を紹介しました。

<土砂災害警戒区域について説明>

土砂災害対策の説明資料

土砂災害対策の説明資料

 この指定の説明に対しては、その法律は京都府が定めた法律か、それとも全国的な法律かとの質問がありました。もちろん全国的な法律です。新聞でも全国的な指定の遅れが大きく報じられましたが、京都府は着々と指定を進めています。

土砂災害警戒区域等の指定状況説明資料

 続いて、同じく砂防担当職員から、この後視察する音羽川の砂防堰堤群について説明をしました。

 ※音羽川砂防堰堤の説明資料を見る(PDF)(PDF:1,569KB)

 音羽川の砂防堰堤の概要と、その歴史、そして子供達が砂防という事について学習できる学習ゾーンの整備などを説明しました。訪問団からは、台北でも砂防施設に住民が憩える空間を整備している例があるとの発言もありました。

<音羽川砂防堰堤の説明>

 一通りの説明が終わり、意見交換の時間となりました。「貯まった土砂は何処へ運ぶのか?」という説明には、公共事業に土砂が必要な箇所があればそこへ運ぶが、近くに対象が無ければ、山砂利採取跡地などの残土処分場へ処分する旨回答しました。

<熱心にメモを取りながら 張団長>

 台北では、何億立米という膨大な流出土砂の処分に頭を悩ませているとのスケールの違う話も飛び出しました。

 さらに、異常気象など、「気象環境などが昔と変化している現在、昔の技術では災害を防ぎきれないと思うが、どの様な対応をされているのか。」という質問が京都土木事務所長指名でありました。

<難しい質問>

 この質問に所長は、「我々も住民の生命、財産を守りきるとの気概を持って事業に取り組んできましたが、土砂災害への施設整備には大変なお金と時間がかかります。対策工も必要な箇所の20%程度しか完了していません。ソフト対策に力を入れて、避難していただく方向に向いています。」
とお答えしました。

<少し考え込む所長>

<手振りを交えて丁寧に回答>

 そして、参加者の記念写真で事務所での説明を終えました。

<台北からのお土産を頂いて 記念撮影>

 その後、一路音羽川砂防堰堤群へと向かいました。今にも雨が落ちて来そうな空模様ですが、なんとか雨は落ちて来ません。

<沈砂地下流のデッキに到着>

 現地に着くと、こちらの説明よりも訪問団からの質問が次々と出て来ます。さすがは同じ仕事に携わる方々です。海外からの訪問団も何度か受け入れてきましたが、これまでは議員さんや林業関係者の方が中心で、現地では砂防堰堤の事業の進め方についての質問は殆ど受けていません。

<質問が次々と>

 「用地は買収するの?」「堆積した土砂は何を目安に運び出すの?」「この木が倒れてきたら誰の責任?」などなど、事業者・管理者の視点から台北での対応と比較しながらの質問が相次ぎました。

<王助教の通訳を介して細部に至って説明>

 学習ゾーンでは、砂防堰堤の仕組みのミニチュア模型に大変興味を示され、かがみ込んで写真を撮影される方もおられました。

<砂防の仕組みをカメラに収めて>

<一番大きな砂防堰堤に向かいます>

<見上げる砂防堰堤>

 一番大きな砂防堰堤の下から流れ落ちる水を見上げながらの談笑では、張局長が現場で従事していた頃(35年程前)の技術の話も飛び出し、「あなたの小さい頃の話だよ。」と当所技術職員の肩に触れる一場面もありました。

<張団長の思い出話も>

 肩を触れられた職員も地面から70センチ程の高さを示して、「この位小さい頃の話ですね。」と笑いを誘っていました。

 張団長は、御年68歳とのことですが、大変元気でユーモアを持ち合わせておられました。

<笑顔で和やかなムード>

 視察団の皆さんの足元に目をやると、これまた、さすがは同業者です。普通の革靴ではなく山を歩ける靴を履いておられました。キッチリ準備をしてこられています。革靴でお越しになる方も多いのですが・・・。

<足元はトレッキングシューズ>

 和やかなムードのうちに視察は終了し、車へ戻る頃にはポツポツと雨が落ちてきました。視察時間中は雨に降られずに無事終了となりました。

<音羽川現地での記念撮影>

<砂防堰堤をバックに>

 帰り際に張団長から「是非今度は台北に来てください。」とのお言葉を頂きました。お言葉に甘えて、台北を訪問する日を夢見ながら一行をお見送りしました。

 「鴨川真発見記」でも折に触れて支流に設置されている砂防堰堤の事もご紹介していきたいと思います。

 

平成26年6月23日 (京都土木事務所Y)

 

 第159号 水が繋ぐ人の縁シリーズ第2弾

高野川の昔を伝える随筆 昔話“高野川の畔”その2 

廣庭氏の目が捉えた昭和の京都と共に

 鴨川真発見記第156号でご紹介しました郷原先生の随筆は(上)(下)2回に分けて左京医報に掲載されました。松下医院の松下先生にお願いして、(下)の文章を頂きました。

 今回は、(下)のお話しから引用させていただいて、廣庭先生から御提供頂いた写真とあわせてご紹介させて頂きたいと思います。

 それでは、早速随筆からの引用文章からご紹介いたします。

<郷原先生 随筆より>

 市電は1934年(大洪水の前の年、室戸台風の年)に植物園前から延び来て北大路通りを一中前・膳部町・高木町・高野橋西詰・高野と来て、イズミヤの前で終点折り返しになっていました。

 終点で車掌が二本の長いポールから下がっているロープにぶら下がって180度ポールを後ろに切り替えるのを面白く眺めていました。

 その頃の電車は古いタイプで、パンタグラフではなしに二本の角のような長いポールで架線から電気を取り込んでいましたから・・・。

 通りとしては高野から百万遍まで広い道として通っていましたがここを電車が走るようになったのは、もう少し後の1943年(終戦の2年前)のことです。

 廣庭氏所蔵の写真は戦後の写真なので、当時走っていた車両は出て来ませんが、市内を細かく網羅して走る市電を紹介されている写真集「市電が走った京の街-ワンマンカー時代を中心として-」を2004年に自費出版されています。

 その中に高野橋を渡る市電が掲載されていますので、ご紹介したいと思います。廣庭氏の写真は昭和25年頃以降の写真ですので、随筆の中に登場する二本の角の様な長いポールの電車ではありませんが、高野橋での電車の様子をご紹介します。写真下のキャプションは写真集から書き写しました。

106:「高野橋」にて 1

 この写真は高野橋東詰めで、東行きの電車を撮ったものです。実は「高野橋という電停は、東行きは橋の西詰めにあり、西行きは橋の東詰めにありましたから、1836号は既に橋を越える前に「高野橋」で客扱いを済ませてきた事になります。マツダ自販のビルの上に如意ヶ岳が雪で大文字を描いています。

 1978(昭和53年)正月。画面の「スリップ注意」の標識は高野橋が北山からの寒風で凍結するから掲げてあるのです。

<廣庭基介氏「市電が走った京の街」より>

 1978年という事で、今からですと36年前になります。NTTの建物や自動車会社、スーパーの並びは大きな変化はありませんが、自販の看板は現在ではドイツを創業とする外国車メーカーの看板に変わっています。

 スリップ注意の標識につきましては、車道と軌道が共存していた頃のお話しです。雨に濡れただけでも滑りやすい軌道敷内です。凍結したらかなり危険ですね。特にオートバイで肝を冷やした方も多いのではないでしょうか。

 現在では、冬場には橋のたもとに凍結防止剤が積み上げられています。軌道敷きが無くなっても凍える朝には御注意を。

 この頃はまだ京都市内でも比較的雪の量がソコソコ多かったのでしょう。最近では雪が積もる日は数える程しかありません。

107:「高野橋」にて 2

 雪化粧した比叡山をバックに高野橋を渡りきろうとしている1800型市電。「京都バス」は終戦前までは「鞍馬バス」という社名で、銀色のボディの木炭バスに八つ手の様な天狗団扇のようなマークを付けて、北大路大橋の西詰めの本社前から、鞍馬寺や岩倉実相院、雲ヶ畑などへ運行していました。現在は当時と比較にならない大きなバス会社になり、主に京都の北郊、西郊を守備範囲として活躍していますが、マークは同じ天狗団扇です。なんで天狗団扇なのか、判りますか?

<廣庭基介氏「市電が走った京の街」より>

 今も変わらぬ京都バスの建物が写っています。高水敷を歩く人が、足元を見ながら積もった雪の感触を楽しんでいるようにもみえます。(廣庭氏にお聞きすると、実は雪合戦の最中だったそうです)現在では、高野橋東詰め下流の階段にも手すりが設けられています。今年の3月まで、高野橋近辺に住んでおりましたので、「鴨川真発見記ネタ探し」のスタート地点がこの階段でした。

<郷原先生 随想より>

 登下校といえば、毎日高野橋を渡って通っていたわけですが、北側の欄干が、真ん中で5~6mにわたって大洪水の時に壊されていて、ずっとそのままになっていました。御影石で出来た綺麗な欄干でしたが、たぶん戦後に経済が落ち着くまであのままであったと思われます。交通量の増大に対応して橋の幅を広げ、車道歩道ともに広くて平成13年(2001)今の立派な橋に変容しました。

 郷原先生の随筆(上)で写真が無かった時のためにと、先生が昔の高野橋~上流を望むスケッチが掲載されていました。そのスケッチの橋の欄干が欠けている様子が見てとれました。「高野橋の欄干が欠けていた時期があったのかな。」と思っていましたが、やはり昭和10年の大水害時のダメージだったようです。

 今一度ご紹介したいと思います。

<当時を正確に記憶された郷原氏のスケッチ>

<随筆より>

 高野橋の川上には馬橋まで橋はありませんでした。馬橋を渡ると大黒さんの方へ斜めの道が昔からある道で、川沿いに狭い道を行くと釣堀があったらしいのですが、ボクは行ったことはありません。

 この頃はまだ高野橋の上流側には馬橋までの間に橋が無かった事が語られています。現在では、人と自転車だけが通る事が出来る「松ヶ崎人道橋」がこの間に設けられています。

 松ヶ崎人道橋が出来るまでは、橋間距離が約835mあり、高野川の平均的な橋間距離約500mに比べて長く、少々不便であったと思われます。

<松ヶ崎人道橋 現在>

 「川沿いに狭い道を行くと釣り堀が・・・。」この一文に何かを感じました。この川沿いとはどんな川だったのでしょうか。高野川なのでしょうか、それともこの御縁の始まりである、今は無き農業用水路なのでしょうか。その農業用水路の名は「蓼倉川」です。

<馬橋 現在>

<馬橋を渡り大黒さん(松ヶ崎大黒天)へ斜めの道>

<郷原先生 随筆より>

 夏休みには前半、毎朝学校の運動場でラジオ体操をしたあと下鴨神社に参拝してスタンプを押してもらい、蓼倉町から高木町を通り抜けて帰ってくるのが日課になっていましたし、友達のいる北園町の辺まで遊びに行くことはありましたが、遊びの区域が特に広がることはありませんでした。糺の森のすぐ西側に、白い壁の下鴨小学校がありました。

 蓼倉町から高木町を抜けて高野橋上流右岸の自宅へと帰っておられたということは、「蓼倉川」の名残を見ておられたかもしれません。「蓼倉川」の事につきましては、その全容がもう少しはっきりした後に「水が繋ぐ人の縁シリーズ」にてご紹介したいと思います。

 廣庭氏の写真の中に、下鴨神社の参道へと続く御蔭橋西詰めから比叡山を望む写真があります。この頃は高い建物も無く比叡山を見る事ができます。高い煙突も見えています。郷原氏の随筆にも登場する「カネボウ」の工場の煙突でしょうか。

 橋のたもとの階段とスロープは、現在は舗装されましたが、この頃から変わらずに残されています。新たなものとして転落防止柵が設置されました。郷原先生も同様の景色を眺めながらこの辺りを遊びの区域とされていたのでしょう。

<昭和20年代 御蔭橋東詰め下流側より比叡山を望む>

(写真撮影:廣庭 基介氏)

<現在 かろうじて比叡山の稜線が見えるのみ>

 この御蔭橋の下流対岸(左岸)から西に向けて、カメラの位置を北端とする写真も廣庭氏が所蔵されていました。ここには、老舗料亭があります。同店のホームページを覗いてみますと、「160年近く続く」とあります。ここに写っている建物はその老舗料亭のようです。

 短パン姿で川の中を歩く人の風景は、鴨川、高野川のあちらこちらで良く見かける、今も変わらぬ風景です。

<昭和20年代 御蔭橋下流左岸より対岸と望む>

(写真撮影:廣庭 基介氏)

<現在 木が大きく育ち 勾配のゆるいスロープが設置されています>

<現在 北大路橋下流にて水遊び>

 水の少ない時に川の中に降りて、スケッチをする子供達が見えます。その視線の先には何があるのでしょうか。鴨川や高野川からの景色を描く人の様子は今でもよく見かけます。今も昔も人に絵筆を取らせる魅力があるのですね。

<昭和20年代 御蔭橋下流 スケッチをする子供>

(写真撮影:廣庭 基介氏)

<鴨川スケッチ教室 第86号より>

<こちらは卒業作品かな>

<郷原先生 随筆より>

 高野橋の南の蓼倉橋が大洪水で流されて、コンクリートの橋脚だけが長い間残っていましたが、狭い歩道橋だけが復活して今の形になっています。

 「細い歩道橋だけが・・・」そうなんです。この蓼倉橋、橋脚の幅に対して橋の幅がやけに狭いと思っていたのです。流された後に小さく復元されたものだったのですね。

 完成が昭和48年4月となっています。昭和10年から数えると38年間橋脚のみが存在した事になりますが・・・。高野橋から蓼倉橋の一つ下流の橋までの距離は約1.025mありますので、松ヶ崎人道橋よりも更に地元要望があったのではないでしょうか。

<蓼倉橋>

<昭和46年4月完成>

<たでくらはし>

<昭和10年以前の橋台>

<橋脚の3分の1程の橋の幅>

 蓼倉橋といえば、その上流の少し淵の様になった所で、釣りをする方をよく見かけます。郷原氏もこんな風に遊ばれることもあったのでしょうか。でも当時は「蓼倉橋」は橋脚だけだったのですね。

<蓼倉橋上流 現在>

<家族で釣り>

<郷原先生随筆より>

 川端の桜並木は高野橋から南へ、そのころ既に老樹でありました。小さいさくらんぼが出来ていて齧っていたことがありました。

 この2、3年後にすっかり植え替えられた若い樹が今の老樹です。高野橋から川上には、桜はもちろん並木はありませんでした。

 現在京都市内でも屈指の桜の名所ともいわれる「高野川」沿いの桜並木も、70年以上の歳月を経て立派な「老木」となっています。枯死した桜も散見し、若い苗木が植えられている場所もあります。

 ソメイヨシノの寿命は、約80年と言われていますが、限りある命です。この壮観をいつまでもこのままに眺める事は難しい事だと感じます。当時ほぼ一斉に若木が植えられて、現在へと景観を引き継いできたようです。現在の老木も「すっかり植え替える」時が来るのかもしれません。

 鴨川、高野川に植樹されている桜は、各種団体からの寄附によるものも多く、桜並木の景観も地元の河川を愛する皆様の心意気でもあるのです。

 随筆の中に「高野橋の川上には桜はもちろん、並木もありませんでした。」とあります。先にご紹介しました郷原氏のイラストを見ると、高野橋より上流の川端通沿いには桜並木はありません。随筆の内容が見事に再現されているイラストであることを再確認する事ができました。

<高野橋~河合橋間の桜並木 70数年経過>

<高野橋上流の桜並木 昭和10年代にはありませんでした>

<馬橋上流の桜並木 もちろんここにもありませんでした>

<郷原氏 随筆より>

 川が氾濫蛇行して堤防も道路も、そしてかなりの住宅までもが崩壊流失した大水害の後、それまでボツラボツラと行われていた改修工事が急ピッチで進むことになりました。

 ボクの家の南側の空き地で堤防補修のための蛇じゃ かご 作りが始まります。細割の長い竹を編んで長さ10m、直径60cmくらいの大きな蛇籠を作り、その中に河原の栗石を詰め込み、何段かに積み重ねて堤防にします。

 削り取られた道や宅地に土を埋め戻して、昔ならこれで川筋が整ったことになるのでしょうが、今の都会ではがっしりとした石垣かコンクリートで護岸工事をして、二度と堤防の崩壊や決壊が起こらないようにしますから、改修工事は大仕事になり工事日程も長くなりました。川原にトロッコのレールが敷かれて、土砂を川上と川下の間で運搬移動させます。工事の人夫が帰ってしまった後で、トロッコに乗って遊ぶ・・・のは子供にとっては当然のことでしょう。 

 この頃家の直ぐ近くにある警察の官舎に引っ越してきた兄弟がいました。兄の方がボクと同じくらいの歳でしたから、格好の遊び仲間になってトロッコ転がしで遊び始めたのでしたが、残念なことに南側の空き地に掘っ立て小屋が出来て、工事管理人が寝泊りするようになってからトロッコ遊びは出来なくなってしまいました。

 工事の都合で川の流れを運河を掘って深くして、あっちへやったりする時期があり数十メートルのことでしたが、狭く深くなった流れに乗って泳ぐことが出来ました。

 昔の土木工事の様子が描かれています。「細割りの竹で編んだ蛇篭」が登場しています。今では鋼製の籠に石を詰めて蛇篭を設置しますが、この頃の蛇篭は竹製だったのですね。おそらく、現場で蛇篭を編んで設置したのでしょう。少年の目に焼き付いた光景だったのでしょう。

 「河原にトロッコのレールが敷かれ、土砂を川上と川下で運搬移動。」というくだりもあります。廣庭氏の古写真の中に、この光景と似たような一枚があります。場所は恐らく「鴨川」の賀茂大橋よりも下流の箇所だと思いますが、川の中にレールが敷かれ、作業員が川底の土砂を掘り起こして、“振るい”にかけている様子です。

 土木建築に関わる者として、まだ重機がふんだんに配備されていない昔の土木工事の様子を伝える貴重な写真です。この写真を残して頂いた廣庭氏に感謝いたします。

<昭和20年代 鴨川での工事の様子>

(写真撮影:廣庭 基介氏)

 古きよき時代の少年が工事現場で楽しく遊ぶ様子が目に浮かんで来ます。現在では工事現場には重機も置いてある場合もありますので、工事現場には立ち入らないようお願いいたします。

 水の流れが繋いでくれた“縁”で貴重なお話しと写真の数々を皆様にご紹介する事ができました。今回は「郷原先生の随筆」「廣庭氏所蔵の写真」そして「鴨川真発見記」のコラボレーションでお届けしました。

 今後も廣庭氏所蔵の「鴨川」「高野川」に関係する写真を活用させて頂きながら、「水が繋ぐ人の縁シリーズ」としてご紹介したいと思います。“御縁”を繋いでくれた川の流れに感謝しつつ。

 

平成26年6月24日 (京都土木事務所Y)

 

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