山城広域振興局

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山城の歴史

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山城 古道マップ

街道解説

信楽街道【1】

恭仁京に都が置かれていた天平時代、信楽宮造営のために恭仁京と信楽を結ぶ道として開かれました。中世には木津と滋賀県を結ぶ重要な交通路となり、物資を運ぶ中継点として栄えました。

信楽街道【2】

近江の湖国から宇治山を越えて都に出る道で、東海道の間道として利用されました。承久の乱にはこの道を通って北条泰時の軍が都を攻めました。後に織田信長が東国と都を結ぶ地として重要視しました。

田原道(たばる道)

古くから奈良と近江を結ぶ近道として利用された街道で、承久の乱など戦いのために使われた道でもあります。

鳥羽の作り道・久我畷

鳥羽の作り道は羅城門から真っ直ぐ南下し、現在の上鳥羽に至る道で、久我畷は長岡京廃都ののち長岡京城を斜めに横断するように作られた直線道。ともに平安京遷都後、計画的に造られた道路です。

木津川西道

奈良時代に平城京から山崎の津へと向かう山陽道として盛んに利用された道です。特に淀が水運の要衝となった平安時代以降、京都と南部を結ぶ幹線路的な存在になりました。応仁の乱、文明の乱、山城の国一揆には軍道として使われました。

奈良街道

平安時代、奈良の興福寺、春日大社、東大寺、笠置山などへの参詣の道として貴族たちが利用しました。一時、木津川西道が重視されましたが、秀吉の宇治川大改修工事によって大和街道が開発され栄えました。

伊賀街道(伊勢街道)

伊賀上野や信楽、伊勢神宮への参詣に利用された街道です。奈良時代は平安京からの伊賀国への往来が盛んで、加茂町の岡田鴨神社付近には岡田駅が置かれていました。江戸時代末期には伊勢詣りの人で賑わい、伊勢街道とも呼ばれました。

西国街道(山崎街道・唐街道)

乙訓郡内の生活道路であるとともに、西国への往還路として旅人が往来しました。平安時代には山陽道として大いに賑わい、戦国時代には秀吉の朝鮮出兵のときの派兵路となったので唐街道とも呼ばれました。

西山街道

西山山麓の竹林の中を通る道で、西国街道から山陰街道への間道として利用されました。

山陰街道

出雲から丹後、丹波を抜けて京に至る道です。山城国から丹波国へ抜ける老坂峠の手前には大枝沓掛の関所が置かれました。江戸時代には参勤交代の諸大名が盛んに往来しました。

山城歴史年表

縄文時代

照葉樹林が広がり、川や沼の多かった山城地域では、木々の実や魚、鳥獣を食べて、縄文人が暮らしていました。例幣遺跡(木津川市加茂町)や森山遺跡(城陽市)などを始め、各地で遺跡、石器、土器などが出土しています。

弥生時代

山城地域では、淀川・木津川を遡上してムラが広がりました。初期には雲宮遺跡(長岡京市)、中期には神足遺跡(長岡京市)や斉当坊遺跡(久御山町)などの大きなムラも誕生しました。
後期になると城山遺跡(木津川市)や天神山遺跡(京田辺市)などのように水田部から離れた丘陵部のムラが多数誕生しました。
特に木津川などを望む丘陵には、点々と集落が並び、「倭国大乱」の緊張関係を伝えています。

古墳時代

山城地域には、大和王権と関わりの深い椿井大塚山古墳(木津川市山城町)や久津川車塚古墳(城陽市)など大規模な前方後円墳が築かれました。
以後、山城地域は、常に王都の隣接地として独特の文化を育んでいきます。

飛鳥・奈良時代

6世紀半ばに、日本に仏教が伝来し、山城地域にも高麗寺(木津川市山城町)、里廃寺(精華町)などをはじめ、たくさんの寺院が建立されました。
また、山城地域は、大和から東山道・山陽道・山陰道・北陸道方面への重要な交通の要所として、また、淀川・木津川と郡をつなぐ地として栄え、和同開珎を鋳造するための鋳銭司(木津川市加茂町)などの施設が建設されました。
恭仁京(木津川市加茂町)や長岡京(向日市)などの王城の地として栄えたこともあります。

平安時代

末法思想の広がりとともに、弥勒信仰の笠置寺(笠置町)、観音信仰の海住山寺(木津川市加茂町)や阿弥陀信仰の平等院(宇治市)などが信仰を集めました。
山城地域は、東大寺や興福寺(ともに奈良市)、石清水八幡宮(八幡市)や藤原氏などを領主とする荘園がおかれ、この地域は奈良や京都の文化の影響を大きく受けることになります。
鎌倉時代にかけては、神仏の信仰が庶民に行き渡っていきました。

鎌倉時代

この時代から室町時代にかけて、加茂町当尾に代表されるたくさんの石造仏が造られ、高神社(井手町)では、その後広く活躍する宇治の若石座の猿楽などの芸能が行われるようになりました。

室町時代

南北朝の内乱のきっかけとなった元弘の乱は、笠置寺を焼失させ、 南山城地域は戦場となりました。その中から国人と呼ばれる村に住む武士が台頭し、勢力を伸ばしました。
15世紀後半の応仁・文明の乱は再び山城地域を戦場としましたが、 国人を中心に結束した人々は、軍勢を追い出し地域の自治を行いました。これがいわゆる山城国一揆です。乙訓郡でも、同様のことが行われました。

安土・桃山時代

天王山(大山崎町)に陣取った豊臣秀吉と勝竜寺城(長岡京市)近くに陣取った明智光秀が戦い、秀吉側が勝ちました。いわゆる山崎の合戦です。このことから勝ち負けの分かれ目のことを「天王山」というようになりました。
戦国時代の終わり頃には、国人などの勢力が一掃され、秀吉の天下統一後、検地や刀狩りが実施されました。

江戸時代

山城地域は豊かな農村地帯となり、木津川水運を利用して、年貢米、木柴・薪・炭、柿渋などを伏見・京都に積み出し、肥料・塩・しょう油など必需品を運び上げました。
また、宇治田原町の永谷宗円による煎茶製法の改良によって、お茶の栽培が急速に広がり、幕末期以降、煎茶はアメリカやイギリスに盛んに輸出されるようになりました。

お問い合わせ

山城広域振興局地域連携・振興部 企画・連携推進課

宇治市宇治若森7の6

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